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■美大予備校で得たものは 2003-8-1(金)

前回、美大予備校の話を少し書き、改めて予備校で一番習得したものは何だったのかあれから考えてみました。基本的なデッサン力や描写力というのは確かにここで学んだものではありましたが、この力が充分についたところで受験を突破出来るかというと、そうではありません。これは美大に限ったものではないですが、まず本番で力を発揮出来なければ何の意味もないこと。それに「絵」や「彫刻」といった視覚で判断する作品は、明確に順位付けをすることはある意味不可能なので、選ぶ教授の主観で判断される部分もありますし、必ずしも技術レベルが高いものが選ばれるということではないのです。

そう考えると、あの場所で一番鍛えられ、実際に役立ったのは「時間内に創り上げる力」ではなかったかと思います。美大を目指す人は皆、創ることが好きだというのはあるので、技術の習得など、創る行為に直接関係することに拒否反応を示すことはそんなにないと思いますが、制作ペースというのは本当に人それぞれのものを持っています。でも「試験」という場では時間が決められ、その同じ条件の中で制作するのですから、そこで自分のやりたいことをやりきる必要があるのです。この枠組みに耐えられるか否かが、受験に向いているかいないかの分かれ目かとも思います。

わたしが受けた日本画科ですと、私大の多くは絵の具を使った着彩画を6時間で一枚。国立の芸大ですと、一次試験は鉛筆デッサンを12時間(6時間を二日間)で一枚、これが受かると二次試験は着彩画をやはり12時間(6時間を二日間)で仕上げることになります。一見、6時間という時間は長く感じられるかもしれませんが、指定された教室に行き、提出された課題を見て(それは果物のような静物だったり動物だったり人物だったり様々)、瞬時にどういう構図で描くか決定し、下描きをして形を取り、絵の具を塗り、時間のある限り全体の完成度を高めていく、ということをしていると、本当にあっという間に過ぎていってしまうものです。時間内にこれらのペース配分が出来るようになるのは、やはりある程度訓練が必要であり、また会場の独特の雰囲気にのまれない為にも、複数の人数がいる中で創るということに慣れるのも予備校で得るものでしょう。

作品が仕上がっていること、それは誰が観ても「制作途中にみえない」ということです。例え技術的に未熟であっても、勢いや集中力が画面から感じられ、一つの作品として完成されていれば、それは観る者を強く惹き付けます。ずらりと並んだ受験作品の中からピックアップされるには、この強さが必要なのだと思います。

少し書き加えておくと、これは「受験」という枠組みの中での話で、実際に制作をしていく上では必ずしも必要とは言えないということです。枠がなくなってからのほうが、何倍も課題が多いことは何も絵を描くことに限ったものではないですよね。

■ある美大予備校でのオハナシ:2 2003-8-4(月)

さあて、何の反応もなくても美大予備校の話を続けますよ。なんだか堅苦しい文章にも飽きてきたので、ちょっと気楽に書いてみようと思います。

わたしが通っていた美大予備校は、一通り美大の全科に対応したクラスがありましたが(小さい所は、人数の多く集まる油絵科とデザイン科しかない)そんなに大手という訳でなく、それぞれのクラスが周辺の雑居ビルに散らばっているという状況でした。特に日本画受験者はわたしを含め現役、浪人を合わせて15人くらいだったので、小汚いビルの一室に押し込められ日々鍛錬しておりました。

昼間部の浪人生と入れ替わるのは午後5時。様々な制服姿の女子高生が集まりだし、現役生の夜間部が始まります。この年は現役生に男子学生がいなかったので、公立の共学高校に通っていたわたしは、女子高っていうのはこんな感じなのかなあと思ったものです。

女子高生が集まり絵を描いている風景というのは一見華やかな雰囲気を想像されるかもしれません。最初にはっきり申し上げておきますと、美大を目指すような女子は、基本的に「気が強い」「態度がデカイ」「思ったことをズバズバ言う」等、華やかというより豪快という言葉のほうが似合う人種です。(繊細で淑やかな雰囲気を持つ人も日本画科には稀に出現しますが)しかもこの予備校、雑居ビルに入っているという環境から、夜間部の始まる夕方になると徐々に周辺が賑やかになってくるのです。

まず聞こえてくるのは、隙間が10cmしかないのでは?というほど接近した隣のビルにある「剣道教室」のかけ声。リズミカルな「メーンメンメンメンッ」という言葉とともに、バッシバッシバッシと竹刀音が響いてきます。その中を淡々とリンゴや花をセッティングする女子高生。これぐらいの騒音になんて負けてたら、受験どころじゃありません。問題はこの後です。

同じビルの同じフロア、壁一枚隔てた向こう側にわたしたち現役受験生が天敵と呼ぶ奴の住処がありました・・・・その名も「スナック留美」。店が開く時間と夜間部が始まる時間が同じというこの状況は、こちらが制作の集中力が高まってきた頃、店のテンションも最高潮という絶妙のタイミングで、見事なぐらいわたしたちの緊張感を粉砕してくれます。

画面とモチーフに集中し、描く手にも力が入ってきたその矢先に前兆が訪れます。

「シャンシャンシャンシャン、シャシャパーン!シャシャパーン!シャシャパパーーン!」

軽快に鳴り響くタンバリンの音!女子高生の間から「ちっ」という舌打ちが聞こえます。そして始まるのは、留美ママによる「山本リンダ絶唱タイム」。

♪ウララ〜ウララ〜(しかも日によってノリがちがう)を聞きながら、静物画や石膏デッサンを描く環境なんてそうそうありません。今にして思えば、大手予備校の人達に負けない集中力を鍛え上げられたのは、留美のお陰とも言える程です。まあ当時のわたしたちは誰もが「留美・・・うるせぇ・・・」と思いながら壁を睨んでいましたけど。

美大受験の日々とは、留美との闘いの日々でもありました。ある時はアトリエの入口を「スナック留美さん江」と書かれた花輪で塞がれ、またその反撃として準備してあった石膏像の顔をすべて店のほうに向けて置いておいたりと、地味な争いの風景がいくつも思い浮かびます。

「スナック留美」・・今も美大受験生と攻防を繰り広げているのか、ちょっとだけ気になります。

※今回は画像が多いです。ご了承下さい。

■切手 2003-8-10(日)

メールがこれだけ普及してしまうと、なかなか直筆で手紙を書く機会もないですが、メールだとちょっと味気ないな・・と思う時にはなるべくハガキや封書で送ることにしています。もともと字を書くという行為が好きなのと、なにより切手を選ぶのが楽しいのです。

切手コレクターという訳ではないのですが、小さな絵画という感じがする為か、昔から切手を見るのが好きで、気に入った図柄のものがあると余分に買っておいたり、ヤフオクでもCDで言うところのジャケ買いのように、希少価値云々ではなく図柄で選んで買ったりもしています。

有名な絵画作品などが切手になって、あの小さな画面に綺麗に収まっているのを見ると、現物の絵画とはまたちがった魅力を感じます。自分の絵が切手になったら嬉しいだろうなあなどと考えていたら、ある時こんなサイトに辿り着きました。

・・・なんか半分ぐらい夢が叶ってしまったような気がするのですが・・。画像ソフトを駆使すれば、作品写真を切手風にアレンジとかも出来るはずなんだろうな・・と理屈ではわかっていても、なかなか取り組む気がおきなかったので、この手軽さは本当に夢中になってしまいました。切手として使えそうな画像をかたっぱしから入力し、出来上がりを楽しむ。切手好きの方はぜひお試し下さい。(画像によっては、うまく表示できないものもあります)

以下はこの「カキトメ帖」内にある画像を入れてみた結果です。わたしがかなりはしゃいでいる様子が感じられるかと思います・・・
まずは今回の「カキトメ」を入れてみました。



わー。かわいいじゃーん。
次は「girls更新」から。



おお、きれいにはまった。
もう一枚。



いいね。顔っていうのは切手向きだね。
顔じゃないのもやってみよう。



モチーフが中央にある画像はキレイに収まるみたい。
これはどうだろう?



ふはは。家元切手(笑)
画帖にある絵も入れてみよ。



あ、これ構図ぴったりじゃない?
やっぱり背景が白っぽいほうが字が見えていいね。



うむ。左が余白だからちがう国のデザインにしてみた。
あとはオマケで。



こんなのとか。



こんなの切手とか。

■重さ 2003-8-15(金)

郵便物が届きました。ちょうど出掛けるところだったので、さっと中身だけ確認しようと思ったのですが、取り出してみて動きがとまってしまいました。

それは一冊の本。しっとりとした紙の手触りの黒いカバーに入った詩集でした。銀色の文字で友人の名前が入っています。一体どういうことなのか頭がまわらなかったのですが、品のある立派な装丁と、手の上でずっしりと重さを感じるその感覚がとても心地よかったので、しばらくぼおっと本を眺めていました。

やっと頭が動き出し、そういえば友人が自費出版で本を出すと言っていたことを思い出しました。

その彼は美大出身ではなかったけど、いろんなものを創るのが好きな人で、ひょんなことから彼やその友人たちと知り合いになったのがきっかけで、彼がその頃創っていた映像作品に関わったり、いろんな大学の友人たちの溜まり場に連れていってもらったりと、美大仲間とは一風変わったつきあいが始まりました。彼らは学校も、やっていることも様々だったけれど、何か創りたい、表現したいという欲求がある人ばかりで、美大とはまたちがった創作への新鮮な欲求が満ちていたように思います。そしてわたしのことを「制作者」として接してくれたのも彼らが最初だったような気がします。

今年の5月のわたしの個展で数年ぶりに会った彼は、あの頃の友人たちと遊んでいた雰囲気を持ちながら、社会人になったからなのか、幹がしっかりしたような感じがありました。

そのとき、ちょうど「千人祈」の本が出来上がったところで、この表紙絵と題字をかいたんだよ、という話をした際に、

「今度、詩集出すんだ。自費出版でね」

と、ちょっと照れたように笑いながら小さな声で言い、出来上がったら送るからと約束したあったのでした。

それが今、わたしの手元に届いたのです。自費出版というイメージからは程遠く、大切に保管しておきたくなるようなその雰囲気は、彼の意志がそのまま形になったような印象でした。手にとって触れることが出来るものというのは、こんなにも存在感や説得力を持つものなのかと改めて思いました。

インターネットでいろんなサイトの文章を読んだり、絵を観たりするのも非常に楽しいけれど、やはり自分は形になるものを創っていきたいと、モノとして存在することの魅力を再認識し、そして非常に満たされた気分になったのでした。

武ちゃん、いいものつくったね。ちゃんと届いたよ。

■流 2003-8-19(火)

車の運転をしていると、流れていく景色の中でふと目にとまる風景があります。動きのなかで見つける風景は、歩いているときや止まっているときに感じるものとは違い、非常に断片的でそれ故にその印象が強く自分の中に残るような気がします。

車内という、少しだけ外界と隔離された空間から見ているからか、実際の風景にも拘わらずそれは異世界の風景のようにも感じることがあります。

夏の夕暮れ時や、夜、わずかにまだ太陽の光が残っている頃、いつもとは違う知らない道を選んで走っていると、いくつもそんな風景が現れては消えていきます。様々な曲が流れてくるカーラジオの音の中で、それらの風景たちとすれ違いながら動いていく時間は、自分にとって一番大切な時間なのかもしれないと、今日も夕暮れの道を走りながら思ったのでした。

■入れるものと出すものと 2003-8-27(水)

最近少々慌ただしく、そういう状況だと余計に絵でもゆっくり観に行きたいという欲求が徐々に高まってきます。絵を観る行為は基本的に「現実逃避」の部類に入ると考えているのですが、その中でも自分の感性に特に反応するような絵に出会った時の衝撃は、なかなか他では味わえないものです。

視覚で捉えた絵が全身を伝わるような感覚があり、自分の呼吸音が聞こえ涙腺が緩み背中を電流が走りぬける。その絵と自分とが全身で対話をしているようなその時間は、日常ではあまり得られないものなので、それ故自分を活性化するものであると感じています。外部からのそのような刺激はモノを創る為の原動力にもなっているし、それと同時に「こういう衝撃を人に与えられるような絵を自分も描いてみたい」という欲求も生まれてきます。外部から得るものと、自分の内側から外へ出していくもの(作品を創ること)のバランスがとれている事が、制作するには一番いい状態だと言えるのかもしれません。

おそらく今、絵を観に行きたいと感じているのは、そのバランスが崩れているから。外からの入力が必要な時期なのだと思います。なるべく早く時間をつくって絵を観にいこうと思っております。

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