◆ TKKI カナヤマ オフィシャル ホームページ。     

   TKKI KANAYAMA’S OFFICIAL HOMEPAGE.

◆ カナヤマ日本の歴史ハンドブック。

  KANAYAMA’S JAPANESE HISTORY HANDBOOK

 

 

 カナヤマ 日本歴史辞典 

 日本語版 

 見出し語 『 へ 』。

 No.0212。

 

 

#jpmenu 

メ ニュー (目次)。  

 ■ 次の項目を選び、クリックして下さい。    

 

 □ 日本史 辞典 (総合)         

 

□        

 

〇 へい  平安時代後期・年表

        (詳細)

                          (へいあんじだいこうき・ねんぴょう(

              しょうさい))。

                          (⇒ 日本史年表) 。

 

 

 

  □ 日本史辞典の「へ」基本見出し語ページへ。  

 

  ■  『 現在は、過去の成果であり、

       未来は、現在の成果である。 

 

 

■ 上位のWEBサイト。 

 □ (KOH) カナヤマ オフィシャル   >

          ホームページ

 □ (Cse)  国際理解総合サイト     >

          われら地球市民。 

 □ (Ke)   百科事典。           >

 □ (Khh)  歴史学ハンドブック     >

 □ (Kjhh) 日本史ハンドブック。     >

 □ (Kjhh) 日本史辞典(総合版)。   >

 □ (Kjhh) 日本史辞典・日本語版。   >

 □ (Kjhh) この日本語ページ。 

 

 

ようこそ TKK カナヤマのホームページへ !             WELCOME TO TKK KANAYAMA’S HOMEPAGE !  

 

 

■ 当ホームページの制作・著作権 TKKI カナヤマ。

 

■ Copyright(C) TKKI Kanayama.

  All Rights Reserved.

 

 

 

#jpdictionary(general)

 

◆ 日本史辞典

 

● 見出し語はグリーンでマークされています

 

□ メニュー(目次)のへ戻る。 

□ 日本史辞典の「へ」基本見出し語ページへ。  

□ 日本史辞典 ・日本語版へ。  

□ 日本 史ハンドブック・ 日本語版へ

 

 

#he

 

#thechro.ofthelateheianperiod

 

■ 平安時代後期 

   年表(詳細)。 

     (へいあんじだいこうき

      ねんぴょう(しょうさい))。

 

平安時代後期・年表(詳細)。

 

 □ 平安時代 後期・年表 

              1118年〜1159年

 □ 平安時代 後期・年表

                1160年〜1179年

 □ 平安時代 後期・年表

        1180年〜1188年

 □ 平安時代 後期・年表

        1189年〜1192年

 

  ■ より理解を深めるために、当年表と近い時期の日本

    史辞典の年表の、 『 平清盛 年表 、 源頼朝 年表、 

    源義経 年表 』 も参照して下さい。

 

        

   ○ ドラマ「平清盛」PRフォト。

 

    

   ○ ドラマ「義経」PRフォト。

 

 

□ 年表の先頭へ戻る

□ メニュー(目次)のへ戻る。 

□ 日本史辞典の「へ」基本見出し語ページへ

□ 日本史辞典 ・日本語版へ。  

□ 日本 史ハンドブック・ 日本語版へ

 

 

◆ 平安時代後期年表(詳細)。

 

#heianperiodlastyearsdetailedchronology-1118

 

 

 ■ 1086年    ● 1086年、白河上皇・院政政治(政権)

  (応徳 3年)   期(1086〜1129年)が始まる。

             白河上皇が、院政政治を始める。

             ● 1086年、白河天皇は、 皇位を堀河天

              皇に譲り、上皇となる。 白河上皇(天皇)

             は、自らの天皇親政政治をより強固にする

             ため、院政政治 (上皇が朝廷の実権を握

             り、更に、日本の政治の実権を握(にぎ)り、

             日本を支配する政治) を行う。

 

 ■ 1118年   ● 1118年平清盛が、 伊勢平氏平忠

  (永久 6年)    (たいらのただもり)の長男として、生ま

  (元永元年)    れる。 

               平清盛の生母は、不明である。 平清盛

             の生母は、祇園女御(ぎおんにょうご)の妹

                 という説がある。

 

 ■ 1129年    ● 1129年、鳥羽上皇・院政政治(政権)期

  (大治 4年)    (1129〜1156年)が始まる。

              鳥羽上皇が、院政政治院政政治を始め

             る。

              ● 1129年、白河上皇(法皇)が死去し、

             羽上皇が、引き続き、院政政治を行う。

 

 ■ 1145年    ● 久安(きゅうあん)改元。  1145年7月

  天養 2年)   22日に、 和暦の「天養」(てんよう、 天養

   (久安 元年)     元年〜2年) が、 「久安」 (きゅうあん、久

             安元年・1145年・7月22日〜 久安7年・

            1151年1月26日) に改元される。 

 

 ■ 1146年   ● 1146年、平清盛は、安芸守(あきのかみ)

  (久安 2年)      に任官する。 厳島(いつくしま)神社に信仰

             をもつ。

            ● 1146年に、平清盛が、朝廷より、正四位

             下・安芸守((しょうしいのげ・朝廷の位階、あ

             きのかみ))に叙任される。
 

 ■ 1147年   ● 1147年、源 頼朝 (みなもとのよりとも)

  (久安 3年)    が、 河内源氏の義朝(みなもとのよしと

             も)の三男として、誕生する。 生母は、由良

             御前 (ゆらごぜん)である。

 

 ■ 1147年   ● 1147年6月、祇園闘乱事件が起こる。

 (久安 3年)     平清盛は、延暦寺(えんらくじ)の末社

             の祇園社(ぎおんしゃ、現・八坂神社、前近

             代日本では神仏習合)で、その神人と小競

             り合いとなり、 平清盛の郎党(ろうとう、家

             臣)の放った矢が、祇園社の宝殿に当たる

             という事件が発生する。 

                当時は、古代日本から近世日本まで、

             江戸時代まで神仏混合であった。

               延暦寺は、平清盛と伊勢平氏当主の

             忠盛の流罪を要求するが、 鳥羽上皇は、

             平忠盛・清盛を保護し、平清盛に罰金刑の

             みを科(か)す。

 

 ■ 1149年   ● 1149年伊勢平氏の嫡子候補の一人、

  (久安 5年)   平家盛(たいらのいえもり)が急死する。 

              伊勢平氏で、平清盛が嫡子の地位をほぼ

             固める。

 

 ■ 1153年   ● 1153年、平忠盛が死去する。 平忠盛

  (仁平 3年)    死後、平清盛が伊勢平氏一門の棟梁(とう

             りょう)となる。

 

 ■ 1155年   ● 1155年、平清盛は、 大量に銅銭を輸入

  (久寿 2年)    する。 

 

 ■ 1156年   ● 保元(ほうげん)改元。  1156年4月

  (久寿 3年)    27日に、 和暦の「久寿」 (きゅうじゅ、久

  (保元 元年)      寿元年〜3年) が、 「保元」 (ほうげん、

             ほげん、 保元元年・1156年・4月27日

             〜 保元4年・1159年4月20日) に改元

             される。 

            ● 和暦年号、古代日本の平安時代。

             ● 保元 Y 年= Y+1155年=西暦年

            ● (久安(きゅうあん))⇒ (仁平(にんぺ

             い (びょう))⇒ (久寿(きゅうじゅ)元年〜

             3年)⇒ (保元元年〜4年)⇒ (平治(へ

             いじ)元年〜 2年)⇒(永暦(えいりゃく)⇒

             (応保(おうほう))。

 

 ■ 1156年  ● 1156年7月、平清盛は、 保元の乱(ほ

  (久寿 3年)   うげんのらん)(1156年7月6〜11日)に

  (保元 元年)    後白河(ごしらかわ)天皇方 で参戦する。 

             後白河天皇方が勝利を得る。

 

 ■ 1156年   ● 1156年、後白河天皇・親政政治(政権)

  (久寿 3年)    期(1156〜1158年)が始まる。

  (保元 元年)    後白河天皇が、天皇親政政治を始める。

            ● 1156年に鳥羽上皇が死去し、保元の

             乱 (1156年7月6〜11日) が起こり、

            後白河天皇は、保元の乱に勝利 して反対

            勢力を退け、天皇親政政治を始め る。

 

 ■ 1156年   ● 1156年、平清盛は、 播磨守(はりまの

  (久寿 3年)   かみ)に任官する。 瀬戸内海経由の日宋

  (保元 元年)   貿易の航路の確保のため。

 ■ 1158年   ● 1158年、後白河上皇・二条天皇・二頭

  (保元 3年)    政治(政権)期(1158〜1161年)が始

             まる。

               1158年、後白河天皇二条天皇

             二頭政治を始める。

            ● 1158年に、後白河天皇は、皇位を二条

             天皇に譲り、上皇となる。

               二条天皇は、即位後、天皇親政を望み、

             後白河上皇と対立し、後白河上皇と二条

             天皇は、互いに政治権限の一部を保持す

             る。

 ■ 1158年   ● 1158年平清盛は、 大宰大弐(だざ

  (保元 3年)    いのだいに)に任官する。 瀬戸内海経由

             の日宋貿易の航路の確保のため。

 

 ■ 1159年   ● 平治(へいじ)改元。 1159年4月20

  (保元 4年)   日に、 和暦の「保元」(ほうげん、ほげん、

  (平治 元年)   保元元年〜4年) が、 「平治」 (へいじ、

             平治元年・1159年・4月20日〜 平治2

             年・1160年1月10日) に改元される。 

                  ● 保元(ほうげん)元年〜4年⇒ 平治元

             年〜2年⇒ 永暦(えいりゃく)元年〜2年。

 

 ■ 1159年  ● 1159年、源 義経 (みなもとのよしつ

  (保元 4年)   ね)が、河内源氏の義朝(みなもとのよ

  (平治 元年)   しとも)の 子として、誕生する。 生母は、

             常盤御前(ときわごぜん)である。

 

 ■ 1159年   ● 1159年2月、統子内親王(むねこない

  (保元 4年)    しんのう、鳥羽上皇の次女、1126−89

  (平治 元年)   年)が、上西門院と女院号宣下(にょいん

             ごうせんげ)され、 源 頼朝は、上西門院

             (統子内親王)の蔵人(くろうど)に任命さ

             れる。

            ● 1159年3月、源 頼朝 (みなもとのよ

             りとも)の生母・由良御前(ゆらごぜん)が、

             死去する。

 

 ■ 1159年   ● 1159年12月、平治の乱(へいじの らん)

  (保元 4年)   (1159年12月9日〜26日) が起こる。

  (平治 元年)   最初、 藤原通憲(信西)・三条公教方 と 

             藤原信頼・二条天皇方 が敵対して、戦う。 

               途中で、藤原通憲(ふじわらのみちのり、

             信西(しんぜい))が死去し、 三条公教・二条

             天皇方 と 藤原信頼方 が敵対して、戦う。

             三条公教(さんじょう きんのり)・二条天皇方

             が勝利を得て、 藤原信頼方が敗北する。

            ● 1159年12月、平清盛は、 平治の乱(へ

             いじのらん)で、三条公教・二条天皇方で参戦

             する。  三条公教・二条天皇方勝利を得る。

            ● 1159年12月、源 頼朝、源義経の父・

             義朝は、平治の乱(へいじのらん)では、子・

             源 頼朝と共に、 藤原信頼(ふじわらののぶ

             より)方で参戦する。  しかし、藤原信頼方は、

             敗戦する。

            ● 1159年12月、源 頼朝は、平治の乱(へ

             いじのらん)では父・源義朝と共に、藤原信頼

             (ふじわらののぶより)方で参戦する(数え年  

             13歳で)。 しかし、藤原信頼方は、敗戦する。

 

 

□ 年表の先頭へ戻る

□ メニュー(目次)のへ戻る。 

□ 日本史辞典の「へ」基本見出し語ページへ

□ 日本史辞典 ・日本語版へ。  

□ 日本 史ハンドブック・ 日本語版へ

 

 

#heianperiodlastyearsdetailedchronology-1160

 

 ■ 1160年   ● 永暦(えいりゃく)改元。  1160年1

  (平治 2年)    月10日に、和暦の「平治」(へいじ、平治

  (永暦 元年)    元年〜2年) が、 「永暦」 (えいりゃく、

             永暦元年・1160年・1月10日〜 永暦2

             年・1161年9月4日) に改元される。 

 

 ■ 1160年   ● 1160年、頼朝、義経の父・源 義朝(よ

  (平治 2年)   しとも)は、敗死する。 京(都)より尾張へ

   (永暦 元年)   敗走し、そこで、義朝の家人(けにん、家

             臣)の裏切りで、殺される (子の頼朝・数

             え年14歳、子の義経・数え年2歳の時)。

            ● 1160年、源 頼朝は、落ちのびる途中

             で捕えられ、京(都)の六波羅(ろくはら)

             へ送られる。

             ● 1160年3月、源 頼朝は、伊豆国(い

             ずのくに、静岡県東部)へ流される。

 

 ■ 1160年   ● 1160年8月平清盛は、 参議に任官

  (平治 2年)  る(武士で初めて公卿(くぎょう)に列す)。

  (永暦 元年)

 

 ■ 1161年   ● 応保(おうほう)改元。  1161年9月

  (永暦 2年)   4日に、 和暦の「永暦」(えいりゃく、 永

  (応保 元年)   暦元年〜2年) が、 「応保」 (おうほう、

             応保元年・1161年・9月4日〜 応保3

             年・1163年3月29日) に改元される。 

 

 ■ 1161年   ● 1161年、二条天皇・親政政治(政権)

 (永暦 2年)    期(1161〜1165年)が始まる。

 (応保 元年)      二条天皇が、天皇親政政治を始める。

             ● 1161年9月に、二条天皇は、後白河

             上皇の政治介入を停止し、実権を掌握(し

             ょうあく)する。

 

 ■ 1162年頃  ● 1162年頃、義経の母・常盤御前が、

  (応保 2年)   一条長成と再婚する。

 

 ■ 1163年   ● 長寛(ちょうかん)改元。  1163年3月

  (応保 3年)   29日に、 和暦の「応保」(おうほう、 応保

  (長寛 元年)   元年〜3年) が、 「長寛」 (ちょうかん、

             長寛元年・1163年・3月29日〜 長寛3年・

             1165年6月5日) に改元される。 

 

 ■ 1164年   ● 1164年平清盛は、 蓮華王院(れんげ

  (長寛 2年)   おういん)を建立(こんりゅう)する。 蓮華王

             院の願主(がんしゅ)は、後白河上皇である。

                ● 1164年平清盛は、 厳島神社に「平家

             納経」(へいけのうきょう)を奉納する。

 

 ■ 1165年   ● 永万(えいまん)改元。  1165年6月5

  (長寛 3年)   日に、 和暦の「長寛」(ちょうかん、長寛元

  (永万 元年)   年〜3年) が、 「永万」 (えいまん、永万

             元年・1165年・6月5日〜 永万2年・116

             6年8月27日) に改元される。 

 

 ■ 1165年   ● 1165年、伊勢平氏・武家政治(政権)期

  (長寛 3年)   (1165〜1180年)が始まる。

  (永万 元年)     伊勢平氏が、武家政治を始める。

            ● 1165年に、二条天皇が死去する。

             二条天皇を軍事面(武力面)で支えていた

             伊勢平氏の平清盛が、独立して、日本の政

             治の実権を握り、武家政治を始める。

 

 ■ 1167年   ● 1167年、平清盛は、 従一位太政大臣

  (仁安 2年)    (だいじょうだいじん)に任官する。 後に、

              辞職する。

 

 ■ 1168年   ● 1168年、平清盛は、出家(しゅっけ)し

  (仁安 3年)    て、摂津(せっつ)の福原(現神戸)へ移る。 

 

 ■ 1171年   ● 1171年平清盛は、娘の平徳子(たい

  (嘉応 3年)   らのとくこ)を高倉(たかくら)天皇に入内

  (承安 元年)   (じゅだい)させる。

 

 ■ 1174年頃  ● 1174年頃義経は、鞍馬寺(くらま

  (承安 4年)   でら)を出奔(しゅっぽん)し、 奥州(おう

             しゅう、東北地方)の平泉(ひらいずみ)へ

             下る (義経、16歳頃)。

 

 ■ 1177年   ● 治承(じしょう)改元。  1177年8月4

 (安元 3年)     日に、 和暦の「安元」 (あんげん、安元

 (治承 元年)    元年〜3年、1175〜1177年)が、 「治

             承」 (じしょう、じじょう) に改元される。

             「治承」では、 伊勢平氏政権(安徳天皇

             擁立)方の暦年号の「治承」は、1177年・

             治承元年・8月4日〜1181年・治承5年7

             月14日である。 河内源氏・源頼朝政権

             (後鳥羽天皇擁立)方の暦年号の「治承」

             は、1177年・治承元年・8月4日〜1184

             年・治承8年・4月16日 である。  

 

            ● 河内源氏・源頼朝政権 (後鳥羽天皇

             擁立)方の暦年号。

             安元(あんげん)元年〜3年(1175〜117

             7年)⇒ 治承元年〜治承8年(1177〜11

             84 元暦(げんりゃく)元年〜 元暦2年

             (1184〜1185年)⇒ 文治(ぶんじ)元年

             〜6年(1185〜1190年)。

            ● 伊勢平氏政権(安徳天皇擁立)方の暦

             年号。

             安元(あんげん)元年〜3年(1175〜117

             7年)⇒ 治承元年〜治承5年(1177〜11

             81 養和(ようわ)元年〜 養和2年

             (1181〜1182年) 寿永(じゅえい)元

             年〜寿永4年(1182〜1185年) 暦年

             号編成中止

 

 ■ 1177年   ● 1177年源 頼朝が、自由恋愛で、

  (安元 3年)   条政子と婚儀を結び、正室夫人に迎える。

  (治承 元年)

 

 ■ 1177年   ● 1177年5月、反平家派の、鹿ヶ谷(しし 

 (安元 3年)     がだに)の陰謀が発覚した。 

 (治承 元年)      事件後、平清盛は、後白河法皇の近臣

              処罰する(死罪、配流(はいる)する)。

 ■ 1179年   ● 11月、平清盛は、後白河法皇を幽閉し、

  (治承 3年)    院政停止する。

 

 

□ 年表の先頭へ戻る

□ メニュー(目次)のへ戻る。 

□ 日本史辞典の「へ」基本見出し語ページへ

□ 日本史辞典・日本語版へ。  

□ 日本 史ハンドブック・ 日本語版へ

 

 

#heianperiodlastyearsdetailedchronology-1180

 

 ■ 1180年   ● 1180年2月、平清盛の娘・平徳子( た

  (治承 4年)   いらのとくこ 、後の建礼門院)の産んだ皇

             子(みこ)が、安徳(あんとく)天皇(幼帝)と

             して、即位する。

            ● 1180年5月、以仁王は安徳天皇即位

             で皇位につく(天皇になる)見込みがなくな

             り、以仁王(もちひとおう)は、源頼政(みな

             もとのよりまさ)を従えて挙兵し、両者とも

             敗死する。

            ● 1180年6月、平清盛は、摂津 ・福原

             (せっつ・ふくはら)に遷都(せんと)する。 

             後に還都(かんと)する (同年11月に京

             (都)に帰る)。

            ● 1180年8月、源 頼朝が、挙兵する。 

             石橋山(いしばしやま)の戦いで敗北する。

             その後、房総半島に逃れ、再軍備を図る。

            ● 1180年10月、源 頼朝が、鎌倉入りす

             る。 鎌倉の大蔵御所を政治の拠点とする。

            ● 1180年10月、  富士川の戦いで、平

             氏軍は兵力差を知り撤退し、源 頼朝が、

             平氏軍に対し富士川の戦いで勝利を得る。 

             以後、源 頼朝は、西上(せいじょう)せず、

             東国の安定確保に専念する。

            ● 1180年10月、 源 頼朝が、黄瀬川の

             陣(静岡県清水町)で、異母弟の源義経

             会う(涙の対面を果たす、義経22歳)。

            ● 1180年11月、源 頼朝は、職制として、

             鎌倉に、 侍所(さむらいどころ)を設置する。

            ● 1180年12月、平重衡(たいらのしげひ

             ら)が、平清盛の命(めい)で、南都(なんと)

             の寺社勢力を討伐する。  その戦いの中、

             不本意にも、東大寺大仏殿や興福寺が炎  

             上する (南都焼き討ち)。

 

 ■ 1180年   ● 1180年、伊勢平氏・河内源氏・武家二

  (治承 4年)     頭政治(政権)期(1180〜1185年)が

               始まる。 伊勢平氏と河内源氏が、武家二

              頭政治を始める。

            ● 1180年の10月に、  富士川の戦いで、

             平氏軍は兵力差を知り撤退し、源 頼朝が、

             平氏軍に対し富士川の戦いで勝利を得る。 

             以後、源 頼朝は、西上(せいじょう)せ ず、

             東国の安定確保に専念する。

 

 ■ 1181年   ● 1181年、日本暦年号(和暦年号、元号)

  (治承 5年)   の二重存立が起こる。

  (養和 元年)  ● 1181年、源平競合二重年号(1181

              〜1185年)が起こる。 

              1181年から1185年まで、河内源氏・

             源頼朝政権(後鳥羽天皇擁立)方 と 伊勢

             平氏政権(安徳天皇擁立)方 が対立して、 

             日本暦(和暦)の年号が二重存立した。 

            ● 1181年7月に、伊勢平氏政権(安徳天

             皇擁立)方は、 「養和」(ようわ)  (1181年・

             養和元年・7月14日〜1182年・養和 2年・

             5月27日) の暦年号を使用し始め、 河内

             源氏・源頼朝政権 (後鳥羽天皇擁立)方は、   

             「治承」(じしょう)(治承元年 〜治承8年、11

             77〜1184) の暦年号を使用し続けて、 

             日本暦年号(和暦年号、元号)の二重存立が

             起こる。 

            ● 河内源氏・源頼朝政権 (後鳥羽天皇

             擁立)方の暦年号。

             安元(あんげん)元年〜3年(1175〜117

             7年)⇒ 治承元年〜治承8年(1177〜11

             84 元暦(げんりゃく)元年〜 元暦2年

             (1184〜1185年)⇒ 文治(ぶんじ)元年

             〜6年(1185〜1190年)。

            ● 伊勢平氏政権(安徳天皇擁立)方の暦

             年号。

             安元(あんげん)元年〜3年(1175〜117

             7年)⇒ 治承元年〜治承5年(1177〜11

             81 養和(ようわ)元年〜 養和2年

             (1181〜1182年) 寿永(じゅえい)元

             年〜寿永4年(1182〜1185年) 暦年

             号編成中止

 

 ■ 1181年    ● 養和(ようわ)改元。  1181年7月14日 

  (治承 5年)    に、 和暦の「治承」 (じしょう、治承元年

  (養和 元年)    〜治承5年、1177〜1181年)が、 伊勢

              平氏政権 (安徳天皇擁立)方の暦年号の、

              「養和」 (ようわ、1181年・養和元年・7月

              14日1182年・養和2年・5月27日) に

              改元される。

            ● (注意) 同時期に、河内源氏・源頼朝

             政権(後鳥羽天皇擁立)方の暦年号の治承

             (じしょう)元年〜8年(1177〜1184年

             も存立。

            ● 伊勢平氏政権(安徳天皇擁立)方の暦

             年号。

             安元(あんげん)元年〜3年(1175〜117

             7年)⇒ 治承元年〜治承5年(1177〜11

             81 養和(ようわ)元年〜 養和2年

             (1181〜1182年) 寿永(じゅえい)元

             年〜寿永4年(1182〜1185年) 暦年

             号編成中止

 

 ■ 1181年   ● 1181年2月、平清盛が、 死去する。

  (治承 5年)    平清盛は、 熱病で苦しみ、貿易立国の夢

  (養和 元年)   の実現を惜しみ、また、伊勢平氏の行く末

             安泰(あんたい)を願い、死去する。

            ● 1181年4月、養和の飢饉(ききん)が起

             こる。 1183年まで続く。 

                伊勢平氏は、家人(けにん、家臣)が西

             国(さいごく)に多く、養和の飢饉で、動員兵

             力が下がる。 また、養和の飢饉で米などの

             食品が不足し、伊勢平氏が日本に大量に持

             ち込んで人々に便利なものと認識され使用

             された中国銭などの金属貨幣の価値が下が

             り (米や絹などの物品貨幣に比べて)、 人

             々の中国銭などの金属貨幣への信用低下に

             より、中国銭を大量に輸入し流通させ利益を

             得、経済的に繁栄していた伊勢平氏は、 経

             済力が低下する。

 

 ■ 1182年    ● 寿永(じゅえい)改元。  1182年5月

  (治承 6年)    27日に、 「 養和」 (ようわ、養和元年

  (養和 2年)    2年、1181年〜1182年) が、 伊勢

  (寿永 元年)    平氏政権(安徳天皇擁立)方の暦年号の、

              「寿永」(じゅえい、1182年・寿永元年・5

               月27日〜1185年・寿永 4年・3月) に

              改元される。

            ● (注意) 同時期に、河内源氏・源頼朝

              政権(後鳥羽天皇擁立)方の暦年号の 、

              治承(じしょう)元年〜8年(1177〜11

              84年) と 元暦(げんりゃく)元年〜2年

              (1184〜1185年)も存立する。

            ● 伊勢平氏政権(安徳天皇擁立)方の暦

             年号。

              安元(あんげん)元年〜3年(1175〜117

              7年)⇒ 治承元年〜治承5年(1177〜11

              81年 養和(ようわ)元年〜 養和2年

              (1181〜1182年) 寿永(じゅえい)元

              年〜4年(1182〜1185年) 暦年号編

              成中止

 

 ■ 1183年   ● 1183年、後白河法皇が、伊勢平氏に対

  (治承 7年)   抗するため、 後鳥羽天皇(当時、幼帝)を

  (寿永 2年)   擁立する。 後鳥羽天皇は、生没年 は118

              0年〜1239年で、天皇在位は1183年〜

             1198年である。  伊勢平氏に対抗する河

             内源氏・源頼朝政権もこれを支持する。

 

 ■ 1183年   ● 1183年5月、源義仲(木曽義仲)が、俱利

  (治承 7年)   伽羅峠(くりからとうげ)の戦い、砺波山(とな

  (寿永 2年)   みやま))の戦い)で、伊勢平氏に勝利する。

            ● 1183年7月、平氏が都落ちし、源義仲が

             入京する (義仲軍の京(都)での略奪多発)。

            ● 1183年10月、後白河法皇(ごしらかわほ

             うおう)が、義仲討伐を源頼朝に要請する。 

             見返りに寿永二年十月宣旨(せんじ)を出し、

             源頼朝の東国支配権を容認する。

            ● 1183年11月、源義経が、源頼朝の代官

             として、西上を開始する。

 

 ■ 1184年   ● 元暦(げんりゃく)改元。  1184年4月

  (治承 8年)   16日に、 和暦の「治承」 ( じしょう、治承

  (寿永 3年)   元年〜治承8年1177〜1184年)が、 

  (元暦 元年)   河内源氏・源頼朝政権 (後鳥羽天皇擁立)

             方の暦年号の、「元暦」(げんりゃく、1184

             元暦元年・4月16日〜1185年・元暦

             2年・8月14日) に改元される。

            ● (注意) 同時期に、伊勢平氏政権(安

             徳天皇擁立)方の暦年号の寿永(じゅえ い)

             元年〜4年 (1182〜1185年) も存立

             する。

            ● 河内源氏・源頼朝政権 (後鳥羽天皇

             擁立)方の暦年号。

             安元(あんげん)元年〜3年(1175〜117

             7年)⇒ 治承元年〜治承8年(1177〜

             1184年 元暦(げんりゃく)元年〜 元

             暦2年(1184〜1185年)⇒ 文治(ぶん

             じ)元年〜6年(1185〜1190年)。

 

 ■ 1184年    ● 1184年1月、源 頼朝が京(都)方面へ派

  (治承 8年)    遣した2人の弟の源義経(よしつね) と源範

  (寿永 3年)    頼(のりより)は、源義仲(よしなか、木曽義仲)

  (元暦 元年)    を討伐し、京(都)へ入京する。

             ● 1184年1月、後白河法皇(ごしらかわほ

             うおう)が、平氏討伐を源頼朝に要請する。 

             見返りに平家没官領(もっかんりょう)支配

             権を、源頼朝に与える。

            ● 1184年2月、摂津(せっつ)の一の谷(い

             ちのたに)の合戦が源平間で起こる。 源義

             の 奇襲で、源氏軍が勝利する。 

               その後、義経が、平氏追討と畿内近国

             の行政・軍政を担(にな)う。

            ● 1184年8月、後白河法皇が、 源義経を

             叙任する。 義経は、左衛門尉・検非違使

                         (けびいし)に任官する。

            ● 1184年9月、義経は、河越重頼の娘、

             郷御前と婚儀を結ぶ(結婚する)。

            ● 1184年10月、源頼朝が、職制として、

             鎌倉に、 公文所(くもんじょ)、問注所(もん

             ちゅうじょ)を設置する。

 

 ■ 1185年    ● 1185年、日本暦年号(和暦年号、元

  (寿永 4年)   号)の二重存立が終わる。

  (元暦 2年)   ● 1185年、源平競合二重年号(1181

  (文治 元年    〜1185年)が終わる。 

             1181年から1185年まで、河内源氏・

             源頼朝政権(後鳥羽天皇擁立)方 と 伊

             勢平氏政権(安徳天皇擁立)方 が対立し 

             て、日本暦(和暦)の年号が二重存立した。 

               1185年、伊勢平氏政権(安徳天皇擁

             立)方が敗れて、日本暦年号の二重存立が

             終わる。

            ● 1185年3月に、 伊勢平氏政権 (安徳

              (あんとく)天皇擁立) 方が敗れて  (安徳天

             皇を擁立する伊勢平氏が滅亡し、安徳(あん

             とく)天皇が崩御して)、日本暦年号(和暦年

             号、元号)は、 1185年3月に、 河内源氏

             ・源頼朝政権(後鳥羽天皇擁立)方 の暦年

             号の 「元暦」(げんりゃく) (1184年・元暦

             元年・4月16日〜1185年・元暦2年・8月

             14日) の年号に統一された。

            ● 河内源氏・源頼朝政権(後鳥羽天皇擁

             立)方の暦年号。

             安元(あんげん)元年〜3年(1175〜117

             7年)⇒ 治承元年〜治承8年(1177〜

             1184年 元暦(げんりゃく)元年〜元

             暦2年(1184〜1185年)⇒ 文治(ぶん

             じ)元年〜6年(1185〜1190年)。

            ● 伊勢平氏政権(安徳天皇擁立)方の暦

             年号。

             安元(あんげん)元年〜3年(1175〜11

             77年)⇒ 治承元年〜治承5年(1177〜

             1181年 養和(ようわ)元年〜養和2

             年(1181〜1182年) 寿永(じゅえい)

             元年〜寿永4年(1182〜1185年) 

             暦年号編成中止

 

 ■ 1185年   ● 文治(ぶんじ)改元。  1185年8月

  (寿永 4年)   14日に、 和暦の「元暦」(げんりゃく、

  (元暦 2年)     暦元年〜2年、1184年〜1185) が、 

  文治 元年    「文治」(ぶんじ1185年・文治元年・8月

             14日〜1190年・文治 6年・4月11日) 

             に改元される。 

            ● 河内源氏・源頼朝政権 (後鳥羽天皇

             擁立)方の暦年号。

             安元(あんげん)元年〜3年(1175〜117

             7年)⇒ 治承元年〜治承8年(1177〜

             1184年)⇒ 元暦(げんりゃく)元年〜元暦

             2年(1184〜1185年 文治(ぶんじ)

             元年〜6年(1185〜1190年)。

            ● 文治(ぶんじ)元年〜6年(1185年〜

             1190年)⇒ 建久(けんきゅう)元年〜10

             年(1190〜1199年)。

            ● 伊勢平氏政権(安徳天皇擁立)方の暦

             年号。

             安元(あんげん)元年〜3年(1175〜117

             7年)⇒ 治承元年〜治承5年(1177〜

             1181年)⇒ 養和(ようわ)元年〜養和2年

             (1181〜1182年)⇒ 寿永(じゅえい)元

             年〜寿永4年(1182〜1185年)⇒ 暦年

             号編成中止 。

 

 ■ 1185年   ● 1185年、河内源氏・武家政治(政権)

   (寿永 4年)   期(1185〜1219年)が始まる。

   (元暦 2年)      1185年河内源氏が、武家政治を

   (文治 元年)    始める。 河内源氏3代(源頼朝、頼家、

             実朝)まで続く。

            ● 1185年の3月に、壇ノ浦(だんのうら)

             の戦いが源平間で起こり、源義経が活躍し、

              源氏軍が勝利し、伊勢平氏が滅亡する。

            ● 源頼朝が、1185年に従二位 に叙任さ

             れる。

            ● 源頼朝は、職制として、1185年に京都

             守護と鎮西奉行(ちんぜいぶぎょう)をおく。

 

 ■ 1185年   ● 1185年1月、源義経は、平氏追討のた

  (寿永 4年)   め、西国(さいごく)へ出陣する。

  (元暦 2年)  ● 1185年2月、讃岐(さぬき、四国の香川県)

  (文治 元年)   で、屋島(やしま)の合戦が源平間で起こる。  

             源義経が活躍し、源氏軍が勝利する。

             ● 1185年3月、壇ノ浦(だんのうら)の戦い

             が源平間で起こり、源義経が活躍し、源氏軍

             が勝利し、伊勢平氏が滅亡する。

            ● 1185年4月、義経が、京(都)へ凱旋する。

               壇ノ浦の戦いの凱旋後、源 義経が、源頼

             朝の許可を得ず、後白河院よって、院政の軍

             事的支柱である「院御厩司」(いののみまや

             つかさ)に補任されたのは、源 頼朝が容認で

             きるものではなかった。 源 義経は、 朝廷の

             後白河法王に 近づきすぎ、源 頼朝に警戒心

             を抱かせる。 

            ● 1185年5月、義経が、平宗盛(むねもり)

             親子を鎌倉へ護送する。

              義経は、源頼朝に鎌倉入りを拒否される。

             腰越状を頼朝へ送る。

            ● 1185年6月、義経は、京(都)へ戻る。

            ● 1185年8月、義経は、後白河法皇より、

             伊予守(いよのかみ)に任官される。検非違

             使兼任。

            ● 1185年10月、義経は、源頼朝に敵対し、

             後白河法皇に源頼朝追討の院宣(いんぜん)

             を要請し、源頼朝追 討の宣旨(せんじ)が下る。 

                1185年10月、後白河法皇が、源義経に

             源頼朝追討の院宣(いんぜん、上皇の命令)

             を発給する。 後に取り消す。

                しかし、義経の元に兵が集まらず、挙兵

             に失敗する。 逆に、源頼朝から追討をうけ、

             京(都)周辺に潜伏する。

                その後、義経は、最終的に、奥州藤

              原氏を頼り、奥州・平泉(おうしゅう・ひら

              いずみ)へ逃亡する。

             ● 1185年11月、義経は、京(都)を落ちる。 

              その後、解官される。 

             ● 1185年11月、源頼朝が、後白河法皇に、

              源義経追討の院宣(いんぜん、上皇の命令)

                         を要求し、認められる。

               ● 1185年12月、 源頼朝が、後白河法皇

              に守護・地頭(しゅご・じとう)の設置の許可

              を要求し、認められる。

                 源頼朝は、1185年以後、職制として、

              地方各地に、守護地頭をおく。

 

 ■ 1186年   ● 1186年、源義経は、逃避行をする。

  (文治 2年)  

 

 ■ 1187年   ● 1187年2月、源義経は、奥州(おうしゅう、

  (文治 3年)   東北地方)へ落ち延びる (吾妻鏡では)。 

               義経は、正室夫人の郷御前や逃避行中に

             生まれた娘(女児)と共に、奥州に入る。

 

 

□ 年表の先頭へ戻る

□ メニュー(目次)のへ戻る。 

□ 日本史辞典の「へ」基本見出し語ページへ

□ 日本史辞典 ・日本語版へ。  

□ 日本 史ハンドブック・ 日本語版へ

 

 

#heianperiodlastyearsdetailedchronology-1189

 

 ■ 1189年   ● 1189年(うるう)4月に、源頼朝は、

  (文治 5年)    州藤原氏の 藤原泰衡(ふじわらのやすひら)

              に源義経追討を要求する。

            ● 1189年(うるう)4月に、 藤原泰衡は、

              衣川(ころもがわ)の戦いで、源義経を自害

              に追い込む。 

               源義経は、衣川館(ころもがわやかた)で

              自害する(義経、享年31歳)。 義経は、郷

              御前や女児と共に死去する (吾妻鏡では)。

             ● 1189年7月、源頼朝は、後白河法皇

             奥州藤原氏追討の院宣を要求する。

             ● 1189年9月、源頼朝は、奥州を平定し、

             奥州藤原氏が滅亡する。

             ● 源頼朝は、職制として、1189年に、奥

             州総奉行(おうしゅうそうぶぎょう)をおく。

 

 ■ 1190年   ● 1190年11月に、

  (文治 6年)   後白河法皇は、源頼朝を権大納言・右近衛

  (建久 元年)   大将(ごんのだいなごん・うこのえたいしょ

             う)に叙任する。 後に、京(都)に留まれな

             いため、両官を辞任する。

             

 ■ 1191年   ● 1191年1月に、源頼朝は、政所(まんど

  (建久 2年)    ころ)を置く。

            ● 1191年1月に、源頼朝は、職制として、

              鎌倉に、公文所に代わり、政所(まんどころ 、

              前右大将家政所)を開設する。

 

 ■ 1192年   ● 1192年7月に、後白河法皇が死去する。

  (建久 3年)     後鳥羽天皇によって、 源頼朝が、征夷大

              将軍となる。

 

 

□ 年表の先頭へ戻る

□ メニュー(目次)のへ戻る。 

□ 日本史辞典の「へ」基本見出し語ページへ

□ 日本史辞典 ・日本語版へ。  

□ 日本 史ハンドブック・ 日本語版へ

 

 

 

  『 あなたのハートには 

    何が残りましたか? 』

 

 

 

以  上。