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カナヤマ 日本歴史辞典
日本語版
見出し語 『 へ 』。
No.0212。
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□ へ
〇 へい 平安時代後期・年表
(詳細)。
(へいあんじだいこうき・ねんぴょう(
しょうさい))。
(⇒ 日本史年表) 。
■ 『 現在は、過去の成果であり、
未来は、現在の成果である。 』
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■ 平安時代後期
年表(詳細)。
(へいあんじだいこうき
ねんぴょう(しょうさい))。
◆ 平安時代後期・年表(詳細)。
■ より理解を深めるために、当年表と近い時期の日本
源義経 年表 』 も参照して下さい。
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◆ 平安時代後期年表(詳細)。
#heianperiodlastyearsdetailedchronology-1118
■ 1086年 ● 1086年、白河上皇・院政政治(政権)
(応徳 3年) 期(1086〜1129年)が始まる。
● 1086年、白河天皇は、 皇位を堀河天
皇に譲り、上皇となる。 白河上皇(天皇)
は、自らの天皇親政政治をより強固にする
ため、院政政治 (上皇が朝廷の実権を握
り、更に、日本の政治の実権を握(にぎ)り、
日本を支配する政治) を行う。
(永久 6年) 盛(たいらのただもり)の長男として、生ま
(元永元年) れる。
平清盛の生母は、不明である。 平清盛
の生母は、祇園女御(ぎおんにょうご)の妹
という説がある。
■ 1129年 ● 1129年、鳥羽上皇・院政政治(政権)期
(大治 4年) (1129〜1156年)が始まる。
る。
● 1129年、白河上皇(法皇)が死去し、鳥
羽上皇が、引き続き、院政政治を行う。
■ 1145年 ● 久安(きゅうあん)改元。 1145年7月
(天養 2年) 22日に、 和暦の「天養」(てんよう、 天養
(久安 元年) 元年〜2年) が、 「久安」 (きゅうあん、久
安元年・1145年・7月22日〜 久安7年・
1151年1月26日) に改元される。
■ 1146年 ● 1146年、平清盛は、安芸守(あきのかみ)
(久安 2年) に任官する。 厳島(いつくしま)神社に信仰
をもつ。
● 1146年に、平清盛が、朝廷より、正四位
下・安芸守((しょうしいのげ・朝廷の位階、あ
きのかみ))に叙任される。
■ 1147年 ● 1147年、源 頼朝 (みなもとのよりとも)
も)の三男として、誕生する。 生母は、由良
御前 (ゆらごぜん)である。
■ 1147年 ● 1147年6月、祇園闘乱事件が起こる。
(久安 3年) 平清盛は、延暦寺(えんらくじ)の末社
の祇園社(ぎおんしゃ、現・八坂神社、前近
代日本では神仏習合)で、その神人と小競
り合いとなり、 平清盛の郎党(ろうとう、家
臣)の放った矢が、祇園社の宝殿に当たる
という事件が発生する。
当時は、古代日本から近世日本まで、
江戸時代まで神仏混合であった。
延暦寺は、平清盛と伊勢平氏当主の平
平忠盛・清盛を保護し、平清盛に罰金刑の
みを科(か)す。
■ 1149年 ● 1149年、伊勢平氏の嫡子候補の一人、
(久安 5年) 平家盛(たいらのいえもり)が急死する。
伊勢平氏で、平清盛が嫡子の地位をほぼ
固める。
■ 1153年 ● 1153年、平忠盛が死去する。 平忠盛
(仁平 3年) 死後、平清盛が伊勢平氏一門の棟梁(とう
りょう)となる。
■ 1155年 ● 1155年、平清盛は、 大量に銅銭を輸入
(久寿 2年) する。
■ 1156年 ● 保元(ほうげん)改元。 1156年4月
(久寿 3年) 27日に、 和暦の「久寿」 (きゅうじゅ、久
(保元 元年) 寿元年〜3年) が、 「保元」 (ほうげん、
ほげん、 保元元年・1156年・4月27日
〜 保元4年・1159年4月20日) に改元
される。
● 和暦年号、古代日本の平安時代。
● 保元 Y 年= Y+1155年=西暦年。
● (久安(きゅうあん))⇒ (仁平(にんぺ
い (びょう))⇒ (久寿(きゅうじゅ)元年〜
3年)⇒ (保元元年〜4年)⇒ (平治(へ
いじ)元年〜 2年)⇒(永暦(えいりゃく)⇒
(応保(おうほう))。
■ 1156年 ● 1156年7月、平清盛は、 保元の乱(ほ
(久寿 3年) うげんのらん)(1156年7月6〜11日)に
(保元 元年) 後白河(ごしらかわ)天皇方 で参戦する。
後白河天皇方が勝利を得る。
■ 1156年 ● 1156年、後白河天皇・親政政治(政権)
(久寿 3年) 期(1156〜1158年)が始まる。
(保元 元年) 後白河天皇が、天皇親政政治を始める。
● 1156年に鳥羽上皇が死去し、保元の
乱 (1156年7月6〜11日) が起こり、
後白河天皇は、保元の乱に勝利 して反対
勢力を退け、天皇親政政治を始め る。
■ 1156年 ● 1156年、平清盛は、 播磨守(はりまの
(久寿 3年) かみ)に任官する。 瀬戸内海経由の日宋
(保元 元年) 貿易の航路の確保のため。
■ 1158年 ● 1158年、後白河上皇・二条天皇・二頭
(保元 3年) 政治(政権)期(1158〜1161年)が始
まる。
二頭政治を始める。
● 1158年に、後白河天皇は、皇位を二条
天皇に譲り、上皇となる。
二条天皇は、即位後、天皇親政を望み、
後白河上皇と対立し、後白河上皇と二条
天皇は、互いに政治権限の一部を保持す
る。
■ 1158年 ● 1158年、平清盛は、 大宰大弐(だざ
(保元 3年) いのだいに)に任官する。 瀬戸内海経由
の日宋貿易の航路の確保のため。
■ 1159年 ● 平治(へいじ)改元。 1159年4月20
(保元 4年) 日に、 和暦の「保元」(ほうげん、ほげん、
(平治 元年) 保元元年〜4年) が、 「平治」 (へいじ、
平治元年・1159年・4月20日〜 平治2
年・1160年1月10日) に改元される。
● 保元(ほうげん)元年〜4年⇒ 平治元
年〜2年⇒ 永暦(えいりゃく)元年〜2年。
■ 1159年 ● 1159年、源 義経 (みなもとのよしつ
(平治 元年) しとも)の 子として、誕生する。 生母は、
常盤御前(ときわごぜん)である。
■ 1159年 ● 1159年2月、統子内親王(むねこない
(保元 4年) しんのう、鳥羽上皇の次女、1126−89
(平治 元年) 年)が、上西門院と女院号宣下(にょいん
ごうせんげ)され、 源 頼朝は、上西門院
(統子内親王)の蔵人(くろうど)に任命さ
れる。
● 1159年3月、源 頼朝 (みなもとのよ
りとも)の生母・由良御前(ゆらごぜん)が、
死去する。
■ 1159年 ● 1159年12月、平治の乱(へいじの らん)
(保元 4年) (1159年12月9日〜26日) が起こる。
(平治 元年) 最初、 藤原通憲(信西)・三条公教方 と
藤原信頼・二条天皇方 が敵対して、戦う。
途中で、藤原通憲(ふじわらのみちのり、
信西(しんぜい))が死去し、 三条公教・二条
天皇方 と 藤原信頼方 が敵対して、戦う。
三条公教(さんじょう きんのり)・二条天皇方
が勝利を得て、 藤原信頼方が敗北する。
いじのらん)で、三条公教・二条天皇方で参戦
する。 三条公教・二条天皇方が勝利を得る。
● 1159年12月、源 頼朝、源義経の父・源
より)方で参戦する。 しかし、藤原信頼方は、
敗戦する。
● 1159年12月、源 頼朝は、平治の乱(へ
いじのらん)では父・源義朝と共に、藤原信頼
(ふじわらののぶより)方で参戦する(数え年
13歳で)。 しかし、藤原信頼方は、敗戦する。
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#heianperiodlastyearsdetailedchronology-1160
■ 1160年 ● 永暦(えいりゃく)改元。 1160年1
(平治 2年) 月10日に、和暦の「平治」(へいじ、平治
(永暦 元年) 元年〜2年) が、 「永暦」 (えいりゃく、
永暦元年・1160年・1月10日〜 永暦2
年・1161年9月4日) に改元される。
■ 1160年 ● 1160年、頼朝、義経の父・源 義朝(よ
(平治 2年) しとも)は、敗死する。 京(都)より尾張へ
(永暦 元年) 敗走し、そこで、義朝の家人(けにん、家
臣)の裏切りで、殺される (子の頼朝・数
え年14歳、子の義経・数え年2歳の時)。
● 1160年、源 頼朝は、落ちのびる途中
で捕えられ、京(都)の六波羅(ろくはら)
へ送られる。
● 1160年3月、源 頼朝は、伊豆国(い
ずのくに、静岡県東部)へ流される。
(平治 2年) する(武士で初めて公卿(くぎょう)に列す)。
(永暦 元年)
■ 1161年 ● 応保(おうほう)改元。 1161年9月
(永暦 2年) 4日に、 和暦の「永暦」(えいりゃく、 永
(応保 元年) 暦元年〜2年) が、 「応保」 (おうほう、
応保元年・1161年・9月4日〜 応保3
年・1163年3月29日) に改元される。
■ 1161年 ● 1161年、二条天皇・親政政治(政権)
(永暦 2年) 期(1161〜1165年)が始まる。
(応保 元年) 二条天皇が、天皇親政政治を始める。
● 1161年9月に、二条天皇は、後白河
上皇の政治介入を停止し、実権を掌握(し
ょうあく)する。
■ 1162年頃 ● 1162年頃、源義経の母・常盤御前が、
(応保 2年) 一条長成と再婚する。
■ 1163年 ● 長寛(ちょうかん)改元。 1163年3月
(応保 3年) 29日に、 和暦の「応保」(おうほう、 応保
(長寛 元年) 元年〜3年) が、 「長寛」 (ちょうかん、
長寛元年・1163年・3月29日〜 長寛3年・
1165年6月5日) に改元される。
■ 1164年 ● 1164年、平清盛は、 蓮華王院(れんげ
(長寛 2年) おういん)を建立(こんりゅう)する。 蓮華王
院の願主(がんしゅ)は、後白河上皇である。
● 1164年、平清盛は、 厳島神社に「平家
納経」(へいけのうきょう)を奉納する。
■ 1165年 ● 永万(えいまん)改元。 1165年6月5
(長寛 3年) 日に、 和暦の「長寛」(ちょうかん、長寛元
(永万 元年) 年〜3年) が、 「永万」 (えいまん、永万
元年・1165年・6月5日〜 永万2年・116
6年8月27日) に改元される。
■ 1165年 ● 1165年、伊勢平氏・武家政治(政権)期
(長寛 3年) (1165〜1180年)が始まる。
(永万 元年) 伊勢平氏が、武家政治を始める。
● 1165年に、二条天皇が死去する。
二条天皇を軍事面(武力面)で支えていた
伊勢平氏の平清盛が、独立して、日本の政
治の実権を握り、武家政治を始める。
■ 1167年 ● 1167年、平清盛は、 従一位太政大臣
(仁安 2年) (だいじょうだいじん)に任官する。 後に、
辞職する。
■ 1168年 ● 1168年、平清盛は、出家(しゅっけ)し
(仁安 3年) て、摂津(せっつ)の福原(現神戸)へ移る。
(嘉応 3年) らのとくこ)を高倉(たかくら)天皇に入内
(承安 元年) (じゅだい)させる。
■ 1174年頃 ● 1174年頃、源義経は、鞍馬寺(くらま
(承安 4年) でら)を出奔(しゅっぽん)し、 奥州(おう
しゅう、東北地方)の平泉(ひらいずみ)へ
下る (義経、16歳頃)。
■ 1177年 ● 治承(じしょう)改元。 1177年8月4
(安元 3年) 日に、 和暦の「安元」 (あんげん、安元
(治承 元年) 元年〜3年、1175〜1177年)が、 「治
承」 (じしょう、じじょう) に改元される。
「治承」では、 伊勢平氏政権(安徳天皇
擁立)方の暦年号の「治承」は、1177年・
治承元年・8月4日〜1181年・治承5年7
月14日である。 河内源氏・源頼朝政権
(後鳥羽天皇擁立)方の暦年号の「治承」
は、1177年・治承元年・8月4日〜1184
年・治承8年・4月16日 である。
● 河内源氏・源頼朝政権 (後鳥羽天皇
擁立)方の暦年号。
安元(あんげん)元年〜3年(1175〜117
7年)⇒ 治承元年〜治承8年(1177〜11
84年)⇒ 元暦(げんりゃく)元年〜 元暦2年
(1184〜1185年)⇒ 文治(ぶんじ)元年
〜6年(1185〜1190年)。
● 伊勢平氏政権(安徳天皇擁立)方の暦
年号。
安元(あんげん)元年〜3年(1175〜117
7年)⇒ 治承元年〜治承5年(1177〜11
81年)⇒ 養和(ようわ)元年〜 養和2年
(1181〜1182年)⇒ 寿永(じゅえい)元
年〜寿永4年(1182〜1185年)⇒ 暦年
号編成中止 。
(治承 元年)
■ 1177年 ● 1177年5月、反平家派の、鹿ヶ谷(しし
(安元 3年) がだに)の陰謀が発覚した。
を処罰する(死罪、配流(はいる)する)。
■ 1179年 ● 11月、平清盛は、後白河法皇を幽閉し、
(治承 3年) 院政を停止する。
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#heianperiodlastyearsdetailedchronology-1180
■ 1180年 ● 1180年2月、平清盛の娘・平徳子( た
(治承 4年) いらのとくこ 、後の建礼門院)の産んだ皇
子(みこ)が、安徳(あんとく)天皇(幼帝)と
して、即位する。
● 1180年5月、以仁王は安徳天皇即位
で皇位につく(天皇になる)見込みがなくな
もとのよりまさ)を従えて挙兵し、両者とも
敗死する。
● 1180年6月、平清盛は、摂津 ・福原
(せっつ・ふくはら)に遷都(せんと)する。
後に還都(かんと)する (同年11月に京
(都)に帰る)。
● 1180年8月、源 頼朝が、挙兵する。
石橋山(いしばしやま)の戦いで敗北する。
その後、房総半島に逃れ、再軍備を図る。
● 1180年10月、源 頼朝が、鎌倉入りす
る。 鎌倉の大蔵御所を政治の拠点とする。
● 1180年10月、 富士川の戦いで、平
氏軍は兵力差を知り撤退し、源 頼朝が、
平氏軍に対し富士川の戦いで勝利を得る。
以後、源 頼朝は、西上(せいじょう)せず、
東国の安定確保に専念する。
● 1180年10月、 源 頼朝が、黄瀬川の
陣(静岡県清水町)で、異母弟の源義経と
会う(涙の対面を果たす、義経22歳)。
● 1180年11月、源 頼朝は、職制として、
鎌倉に、 侍所(さむらいどころ)を設置する。
● 1180年12月、平重衡(たいらのしげひ
ら)が、平清盛の命(めい)で、南都(なんと)
の寺社勢力を討伐する。 その戦いの中、
上する (南都焼き討ち)。
■ 1180年 ● 1180年、伊勢平氏・河内源氏・武家二
(治承 4年) 頭政治(政権)期(1180〜1185年)が
始まる。 伊勢平氏と河内源氏が、武家二
頭政治を始める。
● 1180年の10月に、 富士川の戦いで、
平氏軍は兵力差を知り撤退し、源 頼朝が、
平氏軍に対し富士川の戦いで勝利を得る。
以後、源 頼朝は、西上(せいじょう)せ ず、
東国の安定確保に専念する。
■ 1181年 ● 1181年、日本暦年号(和暦年号、元号)
(治承 5年) の二重存立が起こる。
(養和 元年) ● 1181年、源平競合二重年号(1181
〜1185年)が起こる。
1181年から1185年まで、河内源氏・
源頼朝政権(後鳥羽天皇擁立)方 と 伊勢
平氏政権(安徳天皇擁立)方 が対立して、
日本暦(和暦)の年号が二重存立した。
● 1181年7月に、伊勢平氏政権(安徳天
皇擁立)方は、 「養和」(ようわ) (1181年・
養和元年・7月14日〜1182年・養和 2年・
5月27日) の暦年号を使用し始め、 河内
源氏・源頼朝政権 (後鳥羽天皇擁立)方は、
「治承」(じしょう)(治承元年 〜治承8年、11
77〜1184) の暦年号を使用し続けて、
日本暦年号(和暦年号、元号)の二重存立が
起こる。
● 河内源氏・源頼朝政権 (後鳥羽天皇
擁立)方の暦年号。
安元(あんげん)元年〜3年(1175〜117
7年)⇒ 治承元年〜治承8年(1177〜11
84年)⇒ 元暦(げんりゃく)元年〜 元暦2年
(1184〜1185年)⇒ 文治(ぶんじ)元年
〜6年(1185〜1190年)。
● 伊勢平氏政権(安徳天皇擁立)方の暦
年号。
安元(あんげん)元年〜3年(1175〜117
7年)⇒ 治承元年〜治承5年(1177〜11
81年)⇒ 養和(ようわ)元年〜 養和2年
(1181〜1182年)⇒ 寿永(じゅえい)元
年〜寿永4年(1182〜1185年)⇒ 暦年
号編成中止 。
■ 1181年 ● 養和(ようわ)改元。 1181年7月14日
(治承 5年) に、 和暦の「治承」 (じしょう、治承元年
(養和 元年) 〜治承5年、1177〜1181年)が、 伊勢
平氏政権 (安徳天皇擁立)方の暦年号の、
「養和」 (ようわ、1181年・養和元年・7月
14日〜1182年・養和2年・5月27日) に
改元される。
● (注意) 同時期に、河内源氏・源頼朝
政権(後鳥羽天皇擁立)方の暦年号の治承
(じしょう)元年〜8年(1177〜1184年)
も存立。
● 伊勢平氏政権(安徳天皇擁立)方の暦
年号。
安元(あんげん)元年〜3年(1175〜117
7年)⇒ 治承元年〜治承5年(1177〜11
81年)⇒ 養和(ようわ)元年〜 養和2年
(1181〜1182年)⇒ 寿永(じゅえい)元
年〜寿永4年(1182〜1185年)⇒ 暦年
号編成中止 。
■ 1181年 ● 1181年閏2月、平清盛が、 死去する。
(治承 5年) 平清盛は、 熱病で苦しみ、貿易立国の夢
(養和 元年) の実現を惜しみ、また、伊勢平氏の行く末の
安泰(あんたい)を願い、死去する。
● 1181年4月、養和の飢饉(ききん)が起
こる。 1183年まで続く。
伊勢平氏は、家人(けにん、家臣)が西
国(さいごく)に多く、養和の飢饉で、動員兵
力が下がる。 また、養和の飢饉で米などの
食品が不足し、伊勢平氏が日本に大量に持
ち込んで人々に便利なものと認識され使用
された中国銭などの金属貨幣の価値が下が
り (米や絹などの物品貨幣に比べて)、 人
々の中国銭などの金属貨幣への信用低下に
より、中国銭を大量に輸入し流通させ利益を
得、経済的に繁栄していた伊勢平氏は、 経
済力が低下する。
■ 1182年 ● 寿永(じゅえい)改元。 1182年5月
(治承 6年) 27日に、 「 養和」 (ようわ、養和元年〜
(養和 2年) 2年、1181年〜1182年) が、 伊勢
(寿永 元年) 平氏政権(安徳天皇擁立)方の暦年号の、
「寿永」(じゅえい、1182年・寿永元年・5
月27日〜1185年・寿永 4年・3月) に
改元される。
● (注意) 同時期に、河内源氏・源頼朝
政権(後鳥羽天皇擁立)方の暦年号の 、
治承(じしょう)元年〜8年(1177〜11
84年) と 元暦(げんりゃく)元年〜2年
(1184〜1185年)も存立する。
● 伊勢平氏政権(安徳天皇擁立)方の暦
年号。
安元(あんげん)元年〜3年(1175〜117
7年)⇒ 治承元年〜治承5年(1177〜11
81年)⇒ 養和(ようわ)元年〜 養和2年
(1181〜1182年)⇒ 寿永(じゅえい)元
年〜4年(1182〜1185年)⇒ 暦年号編
成中止 。
■ 1183年 ● 1183年、後白河法皇が、伊勢平氏に対
(治承 7年) 抗するため、 後鳥羽天皇(当時、幼帝)を
(寿永 2年) 擁立する。 後鳥羽天皇は、生没年 は118
0年〜1239年で、天皇在位は1183年〜
1198年である。 伊勢平氏に対抗する河
内源氏・源頼朝政権もこれを支持する。
■ 1183年 ● 1183年5月、源義仲(木曽義仲)が、俱利
(治承 7年) 伽羅峠(くりからとうげ)の戦い、砺波山(とな
(寿永 2年) みやま))の戦い)で、伊勢平氏に勝利する。
● 1183年7月、平氏が都落ちし、源義仲が
入京する (義仲軍の京(都)での略奪多発)。
● 1183年10月、後白河法皇(ごしらかわほ
うおう)が、源義仲討伐を源頼朝に要請する。
見返りに寿永二年十月宣旨(せんじ)を出し、
源頼朝の東国支配権を容認する。
● 1183年11月、源義経が、源頼朝の代官
として、西上を開始する。
■ 1184年 ● 元暦(げんりゃく)改元。 1184年4月
(治承 8年) 16日に、 和暦の「治承」 ( じしょう、治承
(寿永 3年) 元年〜治承8年、1177〜1184年)が、
(元暦 元年) 河内源氏・源頼朝政権 (後鳥羽天皇擁立)
方の暦年号の、「元暦」(げんりゃく、1184
年・元暦元年・4月16日〜1185年・元暦
2年・8月14日) に改元される。
● (注意) 同時期に、伊勢平氏政権(安
徳天皇擁立)方の暦年号の寿永(じゅえ い)
元年〜4年 (1182〜1185年) も存立
する。
● 河内源氏・源頼朝政権 (後鳥羽天皇
擁立)方の暦年号。
安元(あんげん)元年〜3年(1175〜117
7年)⇒ 治承元年〜治承8年(1177〜
1184年)⇒ 元暦(げんりゃく)元年〜 元
暦2年(1184〜1185年)⇒ 文治(ぶん
じ)元年〜6年(1185〜1190年)。
■ 1184年 ● 1184年1月、源 頼朝が京(都)方面へ派
(治承 8年) 遣した2人の弟の源義経(よしつね) と源範
(寿永 3年) 頼(のりより)は、源義仲(よしなか、木曽義仲)
(元暦 元年) を討伐し、京(都)へ入京する。
● 1184年1月、後白河法皇(ごしらかわほ
うおう)が、平氏討伐を源頼朝に要請する。
見返りに平家没官領(もっかんりょう)支配
権を、源頼朝に与える。
● 1184年2月、摂津(せっつ)の一の谷(い
ちのたに)の合戦が源平間で起こる。 源義
経の 奇襲で、源氏軍が勝利する。
その後、義経が、平氏追討と畿内近国
の行政・軍政を担(にな)う。
● 1184年8月、後白河法皇が、 源義経を
叙任する。 義経は、左衛門尉・検非違使
(けびいし)に任官する。
● 1184年9月、義経は、河越重頼の娘、
郷御前と婚儀を結ぶ(結婚する)。
● 1184年10月、源頼朝が、職制として、
鎌倉に、 公文所(くもんじょ)、問注所(もん
ちゅうじょ)を設置する。
■ 1185年 ● 1185年、日本暦年号(和暦年号、元
(寿永 4年) 号)の二重存立が終わる。
(元暦 2年) ● 1185年、源平競合二重年号(1181
(文治 元年) 〜1185年)が終わる。
1181年から1185年まで、河内源氏・
源頼朝政権(後鳥羽天皇擁立)方 と 伊
勢平氏政権(安徳天皇擁立)方 が対立し
て、日本暦(和暦)の年号が二重存立した。
1185年、伊勢平氏政権(安徳天皇擁
立)方が敗れて、日本暦年号の二重存立が
終わる。
● 1185年3月に、 伊勢平氏政権 (安徳
(あんとく)天皇擁立) 方が敗れて (安徳天
皇を擁立する伊勢平氏が滅亡し、安徳(あん
とく)天皇が崩御して)、日本暦年号(和暦年
号、元号)は、 1185年3月に、 河内源氏
・源頼朝政権(後鳥羽天皇擁立)方 の暦年
号の 「元暦」(げんりゃく) (1184年・元暦
元年・4月16日〜1185年・元暦2年・8月
14日) の年号に統一された。
● 河内源氏・源頼朝政権(後鳥羽天皇擁
立)方の暦年号。
安元(あんげん)元年〜3年(1175〜117
7年)⇒ 治承元年〜治承8年(1177〜
1184年)⇒ 元暦(げんりゃく)元年〜元
暦2年(1184〜1185年)⇒ 文治(ぶん
じ)元年〜6年(1185〜1190年)。
● 伊勢平氏政権(安徳天皇擁立)方の暦
年号。
安元(あんげん)元年〜3年(1175〜11
77年)⇒ 治承元年〜治承5年(1177〜
1181年)⇒ 養和(ようわ)元年〜養和2
年(1181〜1182年)⇒ 寿永(じゅえい)
元年〜寿永4年(1182〜1185年)⇒
暦年号編成中止 。
■ 1185年 ● 文治(ぶんじ)改元。 1185年8月
(寿永 4年) 14日に、 和暦の「元暦」(げんりゃく、元
(元暦 2年) 暦元年〜2年、1184年〜1185) が、
(文治 元年) 「文治」(ぶんじ、1185年・文治元年・8月
14日〜1190年・文治 6年・4月11日)
に改元される。
● 河内源氏・源頼朝政権 (後鳥羽天皇
擁立)方の暦年号。
安元(あんげん)元年〜3年(1175〜117
7年)⇒ 治承元年〜治承8年(1177〜
1184年)⇒ 元暦(げんりゃく)元年〜元暦
2年(1184〜1185年)⇒ 文治(ぶんじ)
元年〜6年(1185〜1190年)。
● 文治(ぶんじ)元年〜6年(1185年〜
1190年)⇒ 建久(けんきゅう)元年〜10
年(1190〜1199年)。
● 伊勢平氏政権(安徳天皇擁立)方の暦
年号。
安元(あんげん)元年〜3年(1175〜117
7年)⇒ 治承元年〜治承5年(1177〜
1181年)⇒ 養和(ようわ)元年〜養和2年
(1181〜1182年)⇒ 寿永(じゅえい)元
年〜寿永4年(1182〜1185年)⇒ 暦年
号編成中止 。
■ 1185年 ● 1185年、河内源氏・武家政治(政権)
(寿永 4年) 期(1185〜1219年)が始まる。
(元暦 2年) 1185年、河内源氏が、武家政治を
(文治 元年) 始める。 河内源氏3代(源頼朝、頼家、
実朝)まで続く。
● 1185年の3月に、壇ノ浦(だんのうら)
の戦いが源平間で起こり、源義経が活躍し、
源氏軍が勝利し、伊勢平氏が滅亡する。
● 源頼朝が、1185年に従二位 に叙任さ
れる。
● 源頼朝は、職制として、1185年に京都
守護と鎮西奉行(ちんぜいぶぎょう)をおく。
■ 1185年 ● 1185年1月、源義経は、平氏追討のた
(寿永 4年) め、西国(さいごく)へ出陣する。
(元暦 2年) ● 1185年2月、讃岐(さぬき、四国の香川県)
(文治 元年) で、屋島(やしま)の合戦が源平間で起こる。
源義経が活躍し、源氏軍が勝利する。
● 1185年3月、壇ノ浦(だんのうら)の戦い
が源平間で起こり、源義経が活躍し、源氏軍
が勝利し、伊勢平氏が滅亡する。
● 1185年4月、義経が、京(都)へ凱旋する。
壇ノ浦の戦いの凱旋後、源 義経が、源頼
朝の許可を得ず、後白河院よって、院政の軍
事的支柱である「院御厩司」(いののみまや
つかさ)に補任されたのは、源 頼朝が容認で
きるものではなかった。 源 義経は、 朝廷の
後白河法王に 近づきすぎ、源 頼朝に警戒心
を抱かせる。
● 1185年5月、義経が、平宗盛(むねもり)
親子を鎌倉へ護送する。
義経は、源頼朝に鎌倉入りを拒否される。
腰越状を頼朝へ送る。
● 1185年6月、義経は、京(都)へ戻る。
伊予守(いよのかみ)に任官される。検非違
使を兼任。
● 1185年10月、源義経は、源頼朝に敵対し、
後白河法皇に源頼朝追討の院宣(いんぜん)
を要請し、源頼朝追 討の宣旨(せんじ)が下る。
1185年10月、後白河法皇が、源義経に
源頼朝追討の院宣(いんぜん、上皇の命令)
を発給する。 後に取り消す。
しかし、義経の元に兵が集まらず、挙兵
に失敗する。 逆に、源頼朝から追討をうけ、
京(都)周辺に潜伏する。
その後、源義経は、最終的に、奥州藤
原氏を頼り、奥州・平泉(おうしゅう・ひら
いずみ)へ逃亡する。
● 1185年11月、義経は、京(都)を落ちる。
その後、解官される。
● 1185年11月、源頼朝が、後白河法皇に、
源義経追討の院宣(いんぜん、上皇の命令)
を要求し、認められる。
● 1185年12月、 源頼朝が、後白河法皇
を要求し、認められる。
源頼朝は、1185年以後、職制として、
■ 1186年 ● 1186年、源義経は、逃避行をする。
(文治 2年)
■ 1187年 ● 1187年2月、源義経は、奥州(おうしゅう、
(文治 3年) 東北地方)へ落ち延びる (吾妻鏡では)。
義経は、正室夫人の郷御前や逃避行中に
生まれた娘(女児)と共に、奥州に入る。
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#heianperiodlastyearsdetailedchronology-1189
■ 1189年 ● 1189年閏(うるう)4月に、源頼朝は、奥
(文治 5年) 州藤原氏の 藤原泰衡(ふじわらのやすひら)
に源義経追討を要求する。
● 1189年閏(うるう)4月に、 藤原泰衡は、
衣川(ころもがわ)の戦いで、源義経を自害
に追い込む。
源義経は、衣川館(ころもがわやかた)で
自害する(義経、享年31歳)。 義経は、郷
御前や女児と共に死去する (吾妻鏡では)。
● 1189年7月、源頼朝は、後白河法皇に
奥州藤原氏追討の院宣を要求する。
● 1189年9月、源頼朝は、奥州を平定し、
奥州藤原氏が滅亡する。
● 源頼朝は、職制として、1189年に、奥
州総奉行(おうしゅうそうぶぎょう)をおく。
■ 1190年 ● 1190年11月に、
(建久 元年) 大将(ごんのだいなごん・うこのえたいしょ
う)に叙任する。 後に、京(都)に留まれな
いため、両官を辞任する。
■ 1191年 ● 1191年1月に、源頼朝は、政所(まんど
(建久 2年) ころ)を置く。
● 1191年1月に、源頼朝は、職制として、
鎌倉に、公文所に代わり、政所(まんどころ 、
前右大将家政所)を開設する。
■ 1192年 ● 1192年7月に、後白河法皇が死去する。
(建久 3年) 後鳥羽天皇によって、 源頼朝が、征夷大
将軍となる。
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『 あなたのハートには
何が残りましたか? 』
以 上。