第三章 後
「炎…上……?」
アンジェリークは自分の耳を疑った。
今、目の前にいる守護聖。ランディは何と言ったのだろう。
「いいかい?アンジェリーク。落ち着いて聞いて欲しい。王立研究院のパスハさんによると、エリューシオンは少し水不足だったようなんだ。それで民が少しでも多くの水を得ようと、ちょっとしたいざこざがあって…火が放たれた。生活の為の水も満足にないのに、火を消す水がどこにある?それで現在、大火事になって…」
声がだんだん遠くに聞こえる。
昨日まで綺麗に咲いていた花は?
昨日生まれた子猫は?
確かに生きていたものが、一瞬の内に消滅してしまう。改めて守護聖の揮うサクリアの怖さを知った。サクリアのバランスが悪いと自然災害が増え、民の心は荒み、戦争が起きる。
女王試験の為に与えられた大陸。発展させるようにと預かったエリューシオンに住む命は、全て自分の手の中にある。それが何を意味するのか…。
「…助けなきゃ」
「アンジェリーク?」
「私が助けなきゃ!」
ランディが引き留める間もなく、アンジェリークは部屋を飛び出して行った。
あとには二人の守護聖だけが残った。
「エリューシオンに行ったのか…」
クラヴィスは無表情のまま僅かに目を細めた。
「クラヴィス様。俺、追い掛けます。あんな状態じゃアンジェリークの方が危ない」
ランディも続いて飛び出そうと扉に手を掛けた。
「ランディ。もうリュミエールは動いているのか?」
「はい。オスカー様もリュミエール様も王立研究院にいらっしゃいます。先に行ってますので、後からおいで下さい」
ランディは風のように、さっとその場を去った。
一人部屋に残されたクラヴィスは、窓の外の星空を眺めた。
「…辛い場面を見ることになる。その時お前はどうする?アンジェリーク…心優しき少女よ」
王立研究院。奥の間。
育成の間と呼ばれるここは、中央に円形の水槽が備え付けられている。大理石に似た白い石で囲まれた枠の中に、神秘的な水が張ってあり、その水面に育成中の大陸の様子が映る。
守護聖はその水槽の側で、自らのサクリアを大陸に注ぐのだ。
今この育成の間に水の守護聖リュミエール、炎の守護聖オスカー。そして王立研究院のパスハの三人が集まっていた。
「どうしてこうなっちまったのか判らないがこのままだと自滅だな。俺の炎のサクリアが多すぎたのか?」
納得出来ないといった顔でオスカーは水面を見つめた。そこには炎を背景に争う人々の様子が映しだされている。
「…私には判る気がします。この度の原因が。でも確認もせず、不用意な発言は出来ません。
…勝手にサクリアを送ってはいけないのですが、今回は緊急事態です。ひとまず私の力を送って、エリューシオンを鎮めます」
深い海の色の瞳に悲しみを湛えたリュミエールは、静かに両腕を伸ばした。大気を抱くように柔らかな仕草で自らの気を高めていく。
ふわりと霧のような空気が、手の平に集められた。霧が集まり水滴になり、球型になった水のサクリアは宙に浮かび、音もなく水面へと吸い込まれていった。
…エリューシオンに久方ぶりの雨が降る…。
「人々が、リュミエール様のサクリアがもたらす、恵みの雨で理性を取り戻してくれればよいのですが…」 パスハは厳しい表情を崩さず、水面を見つめる。
「そうだな。お嬢ちゃんの泣き顔は見たくない」
三人がようやく安堵して顔を見合わせた、その時。
バタンと激しい音を立てて扉を開けたのは、ランディだった。
「オスカー様、リュミエール様、ここに…アンジェリーク…来てませんか?」
本日、何度も全力疾走させられた風の守護聖は、さすがに息を切らしたらしく肩で息を整えている。
「お嬢ちゃんが?」
「いいえ、見ていませんが…どうしたのですか?」
ランディは悔しそうに俯き、唇を噛んだ。
「俺がいけないんです。もっときちんと説明するべきだったのに…。オスカー様とリュミエール様が力を貸して下さってるから、あとは民の力を信じて見守るしかないって。アンジェリークの後を追って転位の間に行ったんですが、見失ってしまって…」
「…優しい少女です。きっとエリューシオンの民の様子を見に行っているのでしょう」
「…だとしたら、危険だな。お嬢ちゃんが、苦しむ民を黙って見ているとは思えない」
顎に手を添えたオスカーは、真剣な眼差しで水面に視線を戻した。
「私もそう思います。女王候補が直接、民に関与してはいけないということを知らないはずはないのです。それでも彼女はきっと…」
禁を犯してでも、救おうとするのだろう…。
優しさを司る水の守護聖は辛そうに眼を閉じる。
彼女は優しすぎる。まるで聖母のように…。それが長所でもあり、短所でもある。
「おまけに戦火の中だ。お嬢ちゃんの命も危ない」
「こうしてはいられません。ジュリアス様にも報告して参ります。女王候補にもしものことがあっては、陛下に申し訳がたちません」
リュミエールは羽衣のように軽い衣服を翻して育成の間をあとにした。
「さて、俺は姫の救出に向かうナイトといくか。ランディ、お前はここで大陸の様子を見ていてくれ。お嬢ちゃんの居場所が判れば一番いいんだが…」
ランディと打ち合わせを始めたオスカーの背に、切迫した雰囲気にはそぐわぬ、静かな声が掛けられた。
「…居場所なら私が教えてやろう」
振り向いたオスカーは意外な人物に目を丸くした。
「クラヴィス様!」
リュミエールと入れ違いに現れた闇の守護聖は、入口から続く階段をゆっくりと降りてきた。
「…エリューシオンで一番古い建物。そこでか弱き命が一つ消えようとしている。アンジェリークはそこへ向かった」
「判っているのなら何で止めて下さらなかったんですか!」
ランディは今にも噛みつきそうな勢いでクラヴィスを盻んだ。
「…試練だと思ったのだ。しかし…命の危険があるというのなら話は別だ。私も行こう」
「クラヴィス様が?失礼ですが、クラヴィス様をお守りして戦火を抜けるというのは…」
「心配には及ばん。時間がないようだ。先に行くぞ」
クラヴィスは階段の途中で身を翻して扉へ向かう。
「判りました。ランディ、後は頼んだぞ」
「はい。オスカー様」
「お二人とも、お気を付けて」
夜空を焦がす勢いで燃え盛る炎…。
エリューシオンに降る雨は、被害の拡大を抑えているに過ぎなかった。
「…ごめんなさい。私のせいね。もう少し気をつけていれば…」
アンジェリークは、遊星盤の上で下界の様子を伺っていた。
全焼した建物、半焼した森、傷付き倒れた者…。
明るく元気だった民の顔は今ひどく荒んで見える。
「…天使様…」
救いを求める民の声が心に突き刺さる。
「……!」
何も言ってあげられず、遊星盤の速度を上げてその場を後にした。
昨日生まれた子猫。あの子は無事だろうか。
民家から少し離れた空き家だから、戦火は免れたかもしれない。
アンジェリークは慌てて子猫の元へ向かった。
「…まだ帰ってないのね、あの子ったら」
もう一人の女王候補ロザリアは、扉を開けてこっそりとアンジェリークの部屋の様子を伺った。
ランディが血相を変えてアンジェリークの部屋に飛び込んで、エリューシオンの危機を知らせた。その後すぐにアンジェリークは飛び出して行った。
…それから、30分近く経つ。
興奮していたせいか、ランディの声は隣の部屋まで筒抜けだったのだ。
「まさか、こんなことになるなんて…」
ロザリアは青ざめた顔でベッドに腰掛けた。
「ちょっとした意地悪のつもりだったのよ。あの子があまりにもあの方と仲がいいものだから。
…でも、”たくさん”でなく”少し”お願いしただけなのに、まさかこんなにサクリアのバランスが不安定だったなんて…」
崩壊…滅亡…。
嫌な単語ばかり頭をよぎる。
「あの子のことだからきっと大陸に降りたんだわ。…どうしたらいいの?もし死ぬようなことになったら、私…」
ロザリアは瞳一杯に溜った涙をハンカチで拭った。
ピンポーン。
ドアチャイムが静かに鳴った。
ロザリアは慌てて立ち上がる。
「ロザリア。夜分に申し訳ありません。少しお話をしたいのですが、よろしいでしょうか?」
水の守護聖リュミエールはいつの時も礼儀正しい。
「…はい。どうぞ。開いてますわ」
泣いていたことを知られまいと、努めて平静な声を出す。
「それではお邪魔いたします。こんな時間に女性の部屋を訪れるものではないのですが、緊急の用なので御理解下さい」
そう前置きをして、リュミエールは扉を開けた。
「エリューシオンが今、大変なことになっていることを御存じですか?…聡明なあなたのことですから、もうその原因はおわかりのことと思いますが…」
「…はい」
優しい水の守護聖の顔を、ロザリアは正視出来なかった。きっととても辛そうな顔をしているのだろう。
「オスカーが、アンジェリークの救出に向かいましたので、きっと無事ですよ。ゆっくりおやすみなさい」
厳しいお叱りの言葉があるとばかり思っていたロザリアは、思わず顔を上げた。
「リュミエール様…」
穏やかに微笑んで、リュミーエルは言葉を続けた。
「貴女も優しい方ですよ、ロザリア。アンジェリークが心配で、心を痛めているのでしょう?いずれ処罰があるかもしれませんが、今日はゆっくりおやすみなさい」
「…ごめんなさい、私…私…」
我慢していた涙が次々に溢れ出す。ロザリアは両手で顔を覆った。
「大丈夫です。オスカーを信じて下さい。明日になればきっと元気な彼女と会えますよ」
「えーと…この辺だったと思うんだけど…」
アンジェリークは、森近くの空き家の前で遊星盤を降りた。
始めのほうに建てられた物らしく、木造りの家である。水辺から少し距離があるため、不便に思った民が住居を移して幾年かが経つ。
幸い戦火は免れていた。しかし、近くの村で爆音がする度に家自体が大きく揺れ、柱がきしんでいた。古くなっているせいか、倒壊寸前である。
「逃げててくれればいいけど…」
アンジェリークはそっと扉を開けて中へ入った。
部屋の中はひどく荒れていた。住む人間がいないから当然だが、動物が棲んでいるかもわからない。
飛空都市とエリューシオンでは時間の流れが違う。飛空都市の一日は、もしかしたらエリューシオンの一年位かもしれない…。
そう思いながら、先日猫がいたソファを探す。
ミャー、ミャー
かすかに鳴き声が聞こえる。
「どこ?」
蜘蛛の巣の張ったテーブルの向う側。老朽化した木の壁が外れて、白い猫が下敷きになっていた。その側でもう一匹の小さな猫が哀しそうに鳴いている。何とか生きているようだ。
「あっ」
アンジェリークは一瞬立ち止まった。駆け寄ってあげたいのを我慢して、ゆっくり近付く。
怖がらせてはいけない。
「今、助けてあげる」
壁に近付き、猫の上に乗っている木の板に手を掛けた。何枚も重なっているため、一枚ずつ退けないといけない。
「…っ重い」
ガランッ。
何とか一枚退けて、肩で息をする。
ミシリと床がきしみ、積まれている木の板が僅かにずれた。
「下手に動かすと崩れてしまうわ。どうしたら…」
アンジェリークは部屋の中を見回して、暖炉の側にある煉瓦を見つけた。
「テコの原理でなんとかなるかも」
一筋の希望を見出して、さっそく準備をする。
「これで大丈夫。いい?隙間が出来るのは一瞬なんだから、ちゃんと抜け出してね」
言ってきかせるが、そんな体力があるかどうか…。
「いくわね。せーのっ」
煉瓦を支点にしてさっきの板を乗せ、片側に自分の体重をかける。
ギギッという音がして板の山が持ち上がった。
「早くっ!」
ミャー、ミャー
子猫が応援するように促す。
下敷きになった猫は、よろよろと頼りなげに二歩歩いては片足を付き、三歩歩いては立ち止まった。
「頑張って!」
慣れない力仕事で、腕が痺れてくる。
猫が最後の力を振り絞るようにして抜け出した時、ドーンという音とともに地響きがした。
ガラッ…。
微妙なバランスで落下を免れていた木の板がずれ始める。
『落ちるっ!』
アンジェリークは咄嗟に猫の上に覆い被さった。
ガキッ。
鈍い音がして背中に激痛が…ない?
「…危機一髪だな、お嬢ちゃん」
アンジェリークを庇って木の落下をその背に受けたオスカーは、苦痛も見せずにいつもの笑顔を向けた。
「オスカー様、どうしてここに…」
猫を二匹抱えて、アンジェリークはアイスブルーの瞳を見上げた。
「お嬢ちゃんのことなら全てお見通しだぜ。…なんてな。場所はクラヴィス様が教えて下さった」
「クラヴィス様が?」
心配して下さったのだろうか…。
猫を優しく抱き締めて、その温かさで夢ではないと悟る。
他人にも自分自身さえも興味を示さない闇の守護聖が、少しは気にしてくれる。
そう思うだけで心が暖かくなる。例え恋が実らなくても、彼の笑顔が見られれば…。
「…無事だったようだな」
部屋の入口に黒衣を纏った守護聖は静かに立っていた。ほっとしたような笑みを浮かべ、優しい瞳でこちらを見る。
…まさか、クラヴィス様が来られるなんて…
信じられない思いでクラヴィスを見つめるアンジェリークの瞳から、涙が一滴こぼれた。
「…すいません。なんか、安心しちゃって…」
涙を流しながらも笑って見せる姿は、健気で愛らしい。
「俺も安心したぜ。間に合って良かった。…と、安心してばかりはいられないんだ。早くここを出ないとまずい。ただでさえ脆い家なのに、火薬が爆発した振動がもろにくるらしい。早く逃げないと俺たちも下敷きだ」
汚れたマントをはたいて、オスカーはアンジェリークを抱き抱えた。
家の外をバタバタと数人の足音がする。剣を交える音、争う声…。
「くらえっ!」
人を狙っていたはずの矢は見事に外れて、家の外壁に突き刺さった。
「ここも戦場になっちまったようだ…」
オスカーは、その瞳に不快な色を浮かべた。
外から白い煙が入ってくる。何かが燃える臭い…。
「奴等、火弓を使ったのか!」
木造の家は火の回りも早い。あっという間に四方を囲まれてしまった。
「…このオスカーに向かって、火を放つとはいい度胸だ」
オスカーは不敵に笑い、眼光を鋭くした。
アンジェリークを静かに床へ降ろし、腰から長剣を抜く。
「…どうするつもりだ?オスカー」
「クラヴィス様、後ろにお下がり下さい。お嬢ちゃんも俺の後ろに」
長剣を眼前に構えたオスカーは、気を高めた。
「炎よ。このオスカーの命を聞け。我に従い、道を開け!」
ガッと突き立てられた剣から閃光が放たれる。
炎が閃光に押されるように左右に別れて、人が通れるくらいの道が出来た。
「今のうちに早く」
オスカーは二人を促したが、アンジェリークは炎の前で立ちすくんでしまった。
「…大丈夫か?アンジェリーク」
震えるアンジェリークを気遣い、クラヴィスは、さっと抱き上げた。
「え?あっ、あの…」
突然間近にクラヴィスの深い瞳を見て、動揺する。
「…足元も危ないようだ。私が連れて出よう」
優しい声が耳許で聞こえ、だんだん気持ちが穏やかになっていく。
これは安らぎのサクリアのせいなのだろうか?それとも…。
「クラヴィス様、俺は後から行きます。この道は、剣を抜くと戻ってしまう」
「…分かった。気を付けて来るがよい」
「はい。アンジェリークを、お願いします」
「クラヴィス様、猫の様子がおかしいんです。だんだん冷たくなってる気がして…」
アンジェリークは腕の中の猫を見つめた。子猫は盛んに鳴いて、大きな猫を舐めるが反応があまりない。
「…酷なようだが…その親猫の命の灯は消えかかっている。お前が助けた時点で既に息絶えてもおかしくないほどに衰弱していた。それでもここまで生きようとしたのは、子猫のためとお前のためだ。アンジェリーク」
「私の?」
「お前が一生懸命に助けようとした。その心が伝わったのだ。ここを出たら、墓を作ってやるといい。私のサクリアで送ってやろう」
「…はい」
王立研究院。転位の間。
夜中に招集を掛けられた守護聖は、アンジェリークの帰りを今か今かと待っていた。
「…女王候補として、まだ未熟だと言わざるをえんだろうな。この度の件に関しては…」
厳しい顔のジュリアスに、リュミエールは静かに懇願した。
「ジュリアス様、先ほどもお願いしましたが、くれぐれも叱らないであげて下さい。今日はひとまず無事を喜んで、ゆっくり休養を取るようにと…」
「私からもお願いしますよ、ジュリアス」
ルヴァが心配そうにジュリアスの顔を見る。
「…分かっておる」
不機嫌そうな顔をするジュリアスの横で、オリヴィエはウェーブのかかった金髪を弄んでいた。
「ったくー、私がバスタイムしてる間にこんな一大事になってたなんてね。そうでなきゃ、私が助けに行ってあげたのに」
「おめーの風呂は、なっげーんだよっ。大して変わりもしねーのによっ」
「何ですって?もう一度言ってごらん」
そう言ったかと思うと、壁によりかかっていたゼフェルの元へツカツカとやってきた。
「どの口が言ったのかな?え?」
ぐいっと頬をつねり、顔を近付ける。
「いてっいてててっ」
二人の乱戦が始まろうとした矢先、遊星盤が帰還した。
「アンジェリーク!」
七人の守護聖は、ほぼ同時に言った。
アンジェリークを抱き抱えたクラヴィスと、オスカーが無事な姿を見せる。
「…ジュリアス様、ただいま戻りました」
炎の守護聖は少し疲れた顔をして帰還を告げた。
どうやらサクリアを揮った後の疲労度は、聖地や飛空都市と大陸とでは、違うらしい。
「…御苦労だった。今日はゆっくり休め」
オスカーに労いの言葉をかけてやり、その横に立つ守護聖に視線を向けた。
「…お前が動くとは思わなかった。珍しいこともあるものだ」
嫌味とも取れる言葉に、クラヴィスは微笑して答えた。
「…緊急事態だ。仕方があるまい。それより、眠ってしまったので部屋まで送りたいのだが、手を貸してくれぬか?」
「…分かった。馬車を用意させよう」
ジュリアスが先に立ち、二人は転位の間をあとにした。
残された守護聖は一瞬静まり返る。
「…なんか、珍しいもの見ちゃったな」
「…僕、怖い…」
「ランディ、マルセル。いいことじゃありませんか。二人がお互いの立場を理解するようになれば、長年の不和も解消されるでしょうね」
嬉しそうにうなづくルヴァにゼフェルの非情な言葉がかかる。
「あのよー、さっきから外、雨だぜ」
雨、だからかもしれない…。
金の髪の女王候補、アンジェリーク・リモージュ。彼女が選ばれれば、きっと慈愛に満ちた女王になるのだろう。
でも、それで本当に幸せなのだろうか…?
クラヴィスは、渡しそびれたリボンをじっと見つめた。金の髪に映えそうな、赤いギンガムチェック。その両端にバラの花をモチーフにした刺繍が施されていた。先日、マルセルに選んでもらったオーダーメイドリボンだ。
自分の手を振り解き、壇上に上ったあの人の身代わりにしているのか…
何度も自問自答した。しかしまだ答えは見えない。
「…もう一度会えば、答えは見つかるかもしれぬな」
すっと立ち上がった時、扉を叩く音がした。
「クラヴィス様、女王候補の処罰が決定しました。
『本来なら女王候補の資格を剥奪すべきところだが、 二人ともというわけにはいかぬ。よって、厳重注意 と今日一日の自宅謹慎を命じる』
と、ジュリアス様はおっしゃいました。表向きは自宅謹慎ですが、本当は自宅療養なのですよ」
にこやかに言うリュミエールに釣られてクラヴィスも微笑する。
「…そうか。それでは見舞いに行くとしよう」
「そうですね。きっと喜びますよ」
気持ちのいい浮遊感。安心出来る腕に抱かれて体を休めたアンジェリークは、静かに眼を開けた。
「あ…れ?朝…?」
いつの間にか、自分の部屋で布団に入っているようだ。昨日あったことは…夢?
ベッドの上に身を起こして、腕の怠さに気付く。良く見ると、あちこちに傷がある。
「夢じゃない…。エリューシオンはどうなったのかしら?子猫は?親猫のお墓を作ってあげて…。そう、クラヴィス様とお話してたのよね。その後は…?」
そこまで思い出して、ふとその先が思い出せないことに気付いた。
「…もしかして、眠ってしまったの?クラヴィス様に寝顔見られたかしら?」
黒髪の、美しい瞳の守護聖を思い浮かべて、赤面する。
ピンポーン。
チャイムの音で心臓がドキリとした。
まさか、違うわよね?
「…アンジェリーク?私よ、起きていて?」
ロザリアの声で、ほっと胸を撫で下ろす。まだ起きたばかりで顔も洗ってなかったのだ。
「はい。ちょっと待って」
扉を開けると、ロザリアが泣き腫らしたような目をして立っていた。
「おはよう、ロザリア。どうしたの?」
いつもの明るい笑顔のアンジェリークに、ロザリアは胸が痛くなる。
「…御面なさい。エリューシオンのこと…私…」
「ねえ、ロザリア。アップルティー、頂いたの。座って、ね?」
ティースプーンがカップに当たり、カチャリと音を立てる。お互いに話したいことがある。でも、どう切り出そうかと迷っていた。
「あのっ」
「あのっ」
二人同時に言って、口をつぐむ。
「ロザリア、先に言って」
「アンジェリーク、あなたから」
アンジェリークは、迷いながらも口を開いた。
「…私ね、女王に向いてないと思うの。今回、すごくそう思った。女王は公平な目で全ての民を見なくてはいけない。つまり、特定の誰かの幸せを願ったりしちゃいけないのよね。私には…それが出来なかった」
「それは、あなたが優しいからでしょ?それが悪いことだとは思わないわ。…私は、一時の感情であなたに…いえ、エリューシオンの民にひどい事をした。それをいうなら、私の方が…」
「…ロザリア、私、好きな人がいるの」
突然の告白に、ロザリアは目を見開いた。まさか、あの…。
「エリューシオンまで迎えに来て下さるとは夢にも思わなかった」
「そっ、それは、女性を助けるのは自分の仕事だって思ってる方だから…」
ロザリアの声が僅かに震えている。
「……?あっ、そっか、それで…」
アンジェリークは、クスッと笑った。
「私の好きなのは、クラヴィス様よ」
「…………えっ?」
目を丸くしたまま、ロザリアは固まった。
「意外?オスカー様と仲がいいと思ってたんでしょ、ロザリア」
「そっそれは…」
「オスカー様も素敵な方だと思う。でも、落ち着かなくて…。それがクラヴィス様の前だとね、ありのままの自分でいられるの。悩みを聞いて頂いたり、泣いたり笑ったり…」
頬を染めながら、手にしたカップを見つめる。
「…アンジェリーク、あなた何を言ってるか分かってるの?守護聖様と恋をするなんて許されないことよ」
「…分かってる。でも…」
側に居たい…。
言ってはいけない言葉なのだろうか?
アンジェリークは先を続けられなかった。
「……あなたがそこまで真剣に考えているのなら、協力してあげてもいいわ。
あのクラヴィス様自ら、大陸に降りられるなんて普通では考えられないこと。…少しは期待してもいいのではなくて?」
「…そうかな?」
途端に元気になるアンジェリークにロザリアは呆れた。
「…現金な子。まあいいわ。とりあえず、大陸の育成はきちんとすることね。バランスよくまとまってるようなら、私が女王になった暁には補佐官にしてあげるわ」
「ありがとう!」
…気持ちを打ち明けてみよう。
今度、機会があれば…。