MISTRAL

Sweet Time


三月の暖かい日。
 女王補佐官アンジェリークは、聖殿で執務をこなしながら、眩しい空を見上げた。
「この前まで寒かったと思ったのに、もう暖かそうな陽射しねー。もう春なんだわ。そろそろ春物の服に替えないと。三月になったんだし…」
 廊下にある大きな窓から差し込む光を浴びて、大きく伸びをした。
「…?三月?二月じゃなくて?」
 アンジェリークは、抱えた書類を抱き締めて考えた。一月になったのは覚えてる。寒いなーって思ってたら二月になってて…。
「…私、十四日何してたっけ?」


「十四日?アンジェリーク、あなた私のスケジュール管理もしてるはずよ?先月の十四日は、視察を兼ねた祝賀会で一週間ほど私に同行してたじゃない。確かボディーガードとしてオスカーも一緒だったと思うけど。十日から十七日位までだったかしら」
 書類に目を通していたロザリアは、不思議な顔をして補佐官を見る。『何を今更?』と顔に書いてあるようだ。
「あ、そうでしたね、陛下。私ったら、うっかりしてて…」
 アンジェリークは、平静を装い笑って見せるが、内心はとっても焦っていた。
『どーしよー。バレンタインにプレゼントあげてないじゃない、私…。去年は遅れちゃってたし…。今年は…もうすぐホワイトデーってどーいうことー?』
 時間が流れるのはいつもと同じ。二月から現在までの流れも同じはず。アンジェリークに時間の流れを責める権利はない。しかし、パニックに陥っている時は、自分以外の何かのせいにしてしまうのは人間の心理だろう。
「アンジェリーク?本日の午前の執務はこれで終わりだけど、何か用事が出来たのならお昼になさいな。少しくらいなら遅れても構わないわよ」
 勘のいいロザリアは、悩める女王補佐官にウィンクして見せた。
「ありがとう、ロザリア」

 言われて向かったのは、クラヴィスの執務室。何度も訪れているとはいえ、執務以外で尋ねる時はかなり緊張する。
 コンコン。
 軽くノックして、扉を開ける。
「クラヴィス?入りますよ?」
 鍵は掛かっていないので、入室の挨拶だけして部屋の中へと足を進める。
「…女王補佐官殿…か」
 クラヴィスは目を細め、相手を確認して微笑した。
「…今日は、どういった用件なのだ?アンジェリーク」
 アンジェリークは、ドキッとしてクラヴィスを見つめた。彼が『女王補佐官殿』ではなく、『アンジェリーク』と呼ぶ時は、プライベートとして接してくる時だ。アンジェリークも一応、プライベートの時とは呼び方を変えているのだが、彼は時折それを覆す。
「あ、えっと。来週の日程なんですけど…」
 仕事の用件のふりをして、彼の側に歩み寄る。仕事の用件の時とは、明らかに態度が違う。クラヴィスは、彼女が入室した時点でどちらの用件かを判断していた。プライベートの用件の時に緊張しているのは一目で判るのだ。
「…予定…か」
 クラヴィスは吐息のような笑い声を漏らし、立ち上がる。
「…約束の時間の変更…か?」
 アンジェリークの柔らかな金の髪に触れ、そっと口付ける。
 クラヴィスの長い黒髪が揺れ、仄かにラベンダーの香りが漂う。甘い香りが、少女を包み込んだ。
「もう、プライベートってこと、お見通しなんですね。意地悪しないで下さい」
 クラヴィスの顔をアップで見ると、緊張も最高潮になる。ドキドキするのを顔に出さないようにするのは至難の業だ。
「お前はすぐ顔に出るようだな」
 顔を覗き込むクラヴィスは笑いを堪えてるような楽しそうな表情だ。
「ほんと意地悪…」
 目を逸らそうとするアンジェリークの頬に、クラヴィスの長い指先が添えられる。
 ドキッとして、視線を上げると黒水晶の瞳とぶつかる。陽光の下では紫に見える瞳が、暗い場所では吸い込まれそうな程の深淵を湛えた闇色の瞳。どちらの瞳も、目が離せなくなる程綺麗で魅惑的だった。
 軽く触れた唇が離れた後も、余韻を楽しむかのように目を閉じたまま立ち尽くす少女が可愛い。
「…奥の間に行くか?」
 耳許で囁く優しい声に、僅かに頷く。甘い芳香と共に届く深い声に逆らえるはずがなかった…。


「昼休みに尋ねてくるとは珍しいな」
 長いキスの後、アンジェリークを抱き締めたままクラヴィスは言った。
「すいません。来週の予定なんですけど。十四日のお昼、ちょっとだけ時間空けて頂けませんか?」
「昼?」
 腕の中で自分をじっと見上げる少女は、何か予定を立てているらしい。
「…別に構わぬが…どこか行くのか?」
「お渡ししたい物があるんです。だから、聖殿の中庭とかでお会いしたいと思って…」
「…判った。楽しみにしていよう」


 三月十四日の昼休み。
 アンジェリークは、一足早く聖殿の中庭に来ていた。聖殿の中庭は、柔らかな光が降り注ぎ、緑の木々がたくさん植えられた憩いの場所だ。白いベンチが西洋風のデザインで、神殿のイメージにぴったりだ。
「クラヴィス様、来て下さるかしら。中庭って、言ったけど、もしかして広くて判らない…なんてことないわよね?」
 お昼だけ抜け出したアンジェリークは、こっそり補佐官の服からドレスに着替えていた。春らしく、ピンク色のふわふわドレス。やっぱり特別な日に大好きな彼と会うのなら、可愛いくしていたい。
「バレンタインにプレゼントあげられなかったから、代わりにホワイトデーに贈り物をあげる…なんて、私にしてはいい考えだと思うのよね」
 頑張って手作りしたチョコレート。溶かして固め直すだけだけど、あまり甘い物が好きではない彼には市販の物より気に入って貰える確率が高い。
「バレンタインの事、ご存じだったけど、今年あげてないの気にされてる風でも無かったしな…」
 きっと他の星の風習だから気に留めて無いのだろう。
「…今日は早いのだな」
 突然後ろから声を掛けられ、アンジェリークはビックリして振り向いた。
「クラヴィス…様?」
 朝見た時は守護聖の正装だった彼が、スーツに着替えていた。聖殿では平日に正装でいるのは常識なのに…だ。
「はい。えっと、その服…は?」
 アンジェリークは、きょとんとした顔でクラヴィスを見つめる。
「…平日に呼び出しなど珍しいから…な。何か理由があるのではないかと思ったのだが」
『何で判るのー?』
 思わず下を向いて、真っ赤になる。乙女心が判らない〜と思う時も多いが、こういう勘はかなりいい。
 アンジェリークの左隣りに座ったクラヴィスは、問い掛けるような視線を向けた。
「あの、先月のバレンタインは出張でプレゼントお渡し出来なかったので、今日チョコを作ってきたんですけど…」
 差し出したのは、ブルーとグレーのストライプの包装紙でラッピングされた箱。
「チョコレート…か」
「クラヴィス様、あんまり甘いお菓子とかお好きじゃないけど、ブラックチョコメインのトリュフなら大丈夫だと思って。生地にちょっぴりブランデー練り込んでて、外側は薄くホワイトチョコでコーティング。開けますから、食べてみて下さい。絶対美味しいんだから」
 チョコレートの説明に必死なアンジェリークを見て、クラヴィスはフッと笑った。
  右手を少女の肩に回し、陽に透ける金の髪にキスをする。
「…お返しは、今晩、私の邸で…な」
 驚いて見上げる少女に極上の笑みを見せる。
「え?今日は平日…」
 反論しようとした少女の口を唇で塞いだ。
「明日は土の曜日だ。時間はたっぷりある…」
「もうっ、クラヴィス様ったら」
 ダメだと言っても聞かないのだ彼は。
『今日はト・ク・ベ・ツですからね』
 こっそり耳打ちして、手にしたチョコを彼の口元に差し出した。
 甘い甘ーい時間。チョコと特別な夜。
  どちらが甘かったのかは二人だけの秘密。

                     END
2003.3