安らぎの天使
〜序章〜
今日からここがお前の家だ。
そう言って連れて来られてから幾年の歳月が流れただろうか…。
自分の血族と別れ、違う時を生きる。守護聖になるという事は家族や知人と二度と逢えないという事だ。
「これを持って行きなさい」
母から手渡された遠見の水晶は無色透明な球で、六歳の自分の両手に余るほど大きい物だった。哀しそうに、でも、微笑んで送り出してくれた母の顔だけは今もはっきり覚えている。
軽いノックの音でクラヴィスは水晶球から視線を上げた。暗い室内にひっそりと立つ淡い水色の髪の主、リュミエールは静かに微笑んでいた。
「…リュミエールか」
独り言のように呟いて、クラヴィスはまた水晶球に視線を戻す。
「クラヴィス様、今日も外出なさらないのですか?」
澄んだ湖のような瞳が哀しそうに闇の守護聖を見つめる。
「…出歩く気分ではない」
即座に拒絶されたリュミエールは、クラヴィスの視線の先にある水晶球に見入った。しかし占いの出来ないリュミエールには何も視えない。
「もう今日で七日も執務室に閉じ籠りきりです。いくら出歩くのがお好きでないとはいえあまり良い事とは思えません」
水の守護聖はいつになく厳しい口調で言うが、闇の守護聖はまるで聞いていない。
「…リュミエール。すまぬが一人にしておいてはくれまいか」
暫く沈黙した後リュミエールは静かに口を開いた。
「…分かりました」
「失礼します。ジュリアス様、お呼びでしょうか」
きっちり二回ノックして、炎の守護聖は光の守護聖の執務室の扉を開けた。
「オスカーか。入れ」
光の守護聖ジュリアスは大きな窓から外を眺めていた。入口の扉から見て右側の出窓。この執務室で一番陽射しが強いにも係わらず昼間はカーテンを引こうとしない。
足音が執務机の近くまで近づいた事を確認したジュリアスは、豊かに波打つ黄金の髪を揺らして振り返った。
太陽の陽射しと黄金の髪が重なり、オスカーは一瞬目を細める。
(光の守護聖が光を好むのは判るが、直視する身になって欲しいものだ…)
慣れたとはいえやはり眩しいのにはかわり無い。
「どうした?オスカー」
自分を見る目が気にいらないのか、ジュリアスは険しい目でオスカーを見た。
「いえ、何でもありません」
姿勢を正し、軽く頭を下げたまま次の言葉を待つ。
ジュリアスは白い長衣の裾を軽く持ち上げるようにして執務机の方へ歩み寄った。
「…今日は時間があるのでチェスでもどうかと思って呼んだのだが…他に予定は入っているか?」
「…いえ、特には…」
例え女性とデートの約束があってもジュリアスの用の方を優先させてしまうのがオスカーの常だった。
「では何か飲み物を用意させよう。エスプレッソで良いか?」
(カプチーノ…とは言えないんだな、これが…)
オスカーは苦笑しながらも素直に従った。
「はい。結構です」
チェス盤に黒と白の駒が一六個ずつ横二列に分けて並べられた。ジュリアスが黒、オスカーが白の駒である。
カタリと駒が置かれる音だけが室内に響く。
前列の八つの駒、ポーンが適度にボードに散らばった頃ジュリアスがふと口を開いた。
「…クラヴィスはどうしている?」
オスカーはビショップを手にしたまま不審そうにジュリアスの顔を見た。しかしジュリアスは顔を上げずに手元の駒に視線を落としたままだ。
「…クラヴィス様、ですか?」
聞き違いかと思い、思わず聞き返すオスカーにジュリアスは更に言う。
「…執務室から出ようとはしないのか?」
「…そのようですが…」
ジュリアスの質問の意図が判らず、考えを巡らせていたオスカーは、ビショップをどこに置くつもりだったのか忘れてしまった。
「…お前の番だ」
ジュリアスの苛立ち気味の声がオスカーの判断力を鈍らせる。
カタリと置いた場所にジュリアスが無言で黒のクイーンを進ませる。
「チェックメイトだ」
静かにクラヴィスの執務室を辞して、リュミエールは溜め息を付いた。
(外出があまり好きでないとはいえ、一週間も執務室を出ないのは…)
もしかしたら自分の館にも帰っていないのではないだろうか…。
そう思い、また一つ溜め息を付く。
「よう、水の守護聖殿」
やや大股で靴音高く歩いて来たのは炎の守護聖オスカーだった。燃え立つ炎のような赤い髪に氷を思わせるアイスブルーの瞳でにこやかに片手を上げている。
「オスカーですか…」
リュミエールは特に興味を示さずに廊下の脇の窓から空を見上げた。名も知らぬ白い鳥が弧を描いて飛んでいる。眩しそうに、そして憧れるように鳥を見つめる様子は儚な気で美しい。
オスカーは一瞬目を奪われ、コイツが女だったら口説く所なのにと残念な思いにかられた。
「…憂欝そうな顔してるが、ブルーデーかい?」
からかい口調で言うオスカーに、リュミエールは不機嫌そうな顔をしてみせる。
「…また私を女性扱いなさるのですか?」
「まあまあ。これでも気に掛けてるんだぜ?どうした?心配事か?」
「心配事?そうかもしれません。ここ数日クラヴィス様の様子がおかしいのです。執務室に籠りきりで御自分のお屋敷にも戻られていないのではないかと…」
リュミエールは三度目の溜め息を零す。
「…クラヴィス様も…か」
オスカーは軽く握った拳を顎に当てて視線を空の一点に絞っていた。どうやら何か考えているらしい。
「オスカー。クラヴィス様も…ということは他に誰か様子がおかしいのですか?」
オスカーはちらりとリュミエールを見て静かに告げた。
「…ジュリアス様だ。どうもここ数日不機嫌な御様子なんだ。おまけにクラヴィス様の様子を知りたがる。さっきのチェスも、ジュリアス様らしくない勝ち方をなさった。正直な所、俺も困っている。どう対応したらよいのか…」
きりりと上がった眉を寄せたオスカーは、リュミエールにつられたように溜め息を付いた。
「そういえば昨年のこの時期も同じ事があったように思います。ジュリアス様もそうではありませんか?」
「…そう…だな。そういえばそうだ。いつもの事だと思って特に気にしなかったが…」
二人で考え込んでしまい、静かな時間が訪れた。
「あー、何をしているのですか?二人とも」
その時間を断ったのは、短いブルーグレイの髪にターバンを巻いた地の守護聖ルヴァである。知恵の守護聖らしく手には厚い本を一冊抱えていた。
「これはルヴァ様。今度はどんな本を読んでいらっしゃるのですか?」
リュミエールがルヴァが持つ厚い本に興味を示す。
「ああ、これですか。厚いから難しそうに見えますけどね。植物図鑑なんですよ。見たことのない植物を見かけましてね。調べに行ったという訳です」
穏やかな微笑みは見る人に安心感を与える。ルヴァの微笑みはまさにその通りだった。
「…えーと、二人とも何だか難しい顔をしてますが困った事でもあるのですか?」
ルヴァは少し垂れ気味の目元を更に下げて心配そうな顔をする。
ルヴァもリュミエールと同じで人の争う姿を見たくないと思っている一人だ。いつも喧嘩の仲裁をかって出る。
「…それは…ここではちょっと…」
いい淀むリュミエールから視線を上げ、横に立つオスカーの方を見る。オスカーの方も唇をすっと横に引き、皮肉な笑いをして見せた。
「…わかりました。ちょうどお茶にする所でしたのでよろしければ私の部屋にいらっしゃいませんか?」
光と闇の次に守護聖の任に就いた者…。もしかしたら彼が何かを知っているかもしれない。
二人の返事は決まっていた。
「…それではお邪魔させて頂きます」
「…この時期に二人とも…ですか?」
ルヴァは熱い緑茶の入った湯飲みを両手に持ってリュミエールの話を聞いていた。
「…ルヴァ様なら何か御存じではないかと思いましてこうしてお邪魔した訳なのですが…」
オスカーとリュミエールは出されたお茶にも手を付けずじっとルヴァの言葉を待っている。
「そう…ですねー」
お茶を飲もうと湯飲みに口を付け、上のほうだけ少しすすってから静かにテーブルに戻した。どうやら熱かったらしい。
「…私が前の地の守護聖から聞いた話なのですが…他言はしないで下さいね」
ルヴァは一度言葉を切り、確認するようにオスカーとリュミエールを見つめ、再び口を開いた。
「…クラヴィスがここ聖地に来たのはちょうど今頃だったんですよ。当時六つだったと聞いてます。闇の守護聖の世代交代もゼフェルと同じように突然のことだったようでかなり戸惑ったと思いますよ。ジュリアスの方は…それほど突然ではなかったと聞いてますが、前任の闇の守護聖が教育を担当していたようですからね。懐いていたのではないでしょうか」
「それじゃ、ジュリアス様が前・闇の守護聖を尋ねて行ったらそこに…」
「クラヴィス様がいらっしゃったのですね」
リュミエールが目の前に置かれた湯飲みに視線を落とした。
「…そうです。私は…前・闇の守護聖はジュリアスに別れを告げなかったのではないかと思うのです」
「…第一印象から気に食わないって奴だな、そりゃ」
心持ち緊張していたオスカーが冷えた緑茶を一気に飲み干して、一息付いた。
「…二人が不機嫌なのだとしたら、その辺りが原因ではないかと思います。なりたくない守護聖になった日と親しかった者が去った日…。どちらの気持ちも判らなくはないのですが…そろそろお互いの存在を認めて欲しいと、私は思うんですがね」
ルヴァは湯飲みに口を付け、冷えた緑茶を半分ほど飲むと、席を立ってポットの置いてあるワゴンへと向かった。
バタンッ。
その時いきなり開けられた扉に三人は注目した。そこには金髪に赤いメッシュの入った派手な守護聖、オリヴィエが息を切らして立っていた。
「…はぁっ、はぁっ。もうっ、あんたらこんなところでゆっくりお茶してる場合じゃないでしょ。また喧嘩してるわよ、あんたらの御主人っ」
御主人…というのには甚だ疑問が残るのだが、とりあえず誰が喧嘩してるのかが判ったオスカーとリュミエールは同時に立ち上がった。
「まあ喧嘩…って言っても一方的にジュリアスが突っかかってるみたいなんだけどね。今回どういう訳かクラヴィスが相手してるもんだから…」
腕組みして二人の喧嘩の様子を説明してるオリヴィエの横を、炎の守護聖と水の守護聖は見向きもせずに通り過ぎた。開いたままのドアから部屋を出ていく。
「……」
無視されてあからさまにムッとしたオリヴィエにルヴァは穏やかに微笑む。
「あー、オリヴィエも一杯いかがですか?」
ジュリアスはその外見に一番似合わない場所、クラヴィスの執務室に居た。
青と紫色を基調にした室内は照明も控え目で、昼でも薄暗い。重く垂れた濃い紫色のカーテンを背にしたクラヴィスの正面に光の守護聖は立っていた。
「…日頃から言っている事だが、守護聖としての力をもう少し積極的に使おうとは思わないのか」
椅子に座っているクラヴィスを見下ろし、不機嫌そうに言う。
「…そんな事を言いにわざわざ出向いたのか?御苦労な事だ」
顔も上げず、机の上の水晶球に片手をかざしたままクラヴィスは答える。
「何だと!」
声を荒らげるジュリアスに何事もない様に振る舞うクラヴィス。実に対照的だ。
「…お前は、守護聖になどならなければと…思った事はないか?」
ゆっくりと静かな声が響く。
「何?」
ジュリアスが険のある顔で見下ろす。
漆黒の髪を僅かに揺らし、クラヴィスは初めてジュリアスの方を見た。
ジュリアスの右肩から斜めに垂れた金色の宝飾品が執務室の壁に据え付けられた蒼い灯りで浮かび上がって見える。視線を少し上げるとそこにジュリアスの不愉快そうな顔があった。
「…お前は五つの歳に聖地に召されたと聞く。迷いはなかったのか?」
「守護聖になる事は名誉な事だ。誇りに思いこそすれ迷った事は一度たりとて無い」
断言するジュリアスに皮肉な笑みを返し、クラヴィスは言う。
「…変わらぬな。昔から…」
「どういう意味だ」
「自分が正しいと思って譲らない。少しは人の意見も聞いた方が良いのではないか?」
「そなたにそんな事を言われる謂われはないっ!」
ジュリアスは机に両手を叩きつけるようにして抗議した。
「ジュリアス様っ!」
突然けたたましい音と共にドアが開かれ、炎の守護聖と水の守護聖が現れた。
名を呼ばれたジュリアスは入口の方を振り返る。
「…オスカー」
血相を変えて飛び込んできた炎の守護聖にジュリアスは驚きの色を見せた。
一方クラヴィスは、立ち尽くしているオスカーとリュミエールにちらりと視線を遣り、軽く息をつく。
「…騒々しいことだ」
三人の気まずい雰囲気にはらはらしながらも、リュミエールは一歩前へと進み出た。
「喧嘩はお止め下さい。お二人の仲を知られた陛下が憂いに沈んでおられます」
陛下、と聞いて光と闇の守護聖は反射的にリュミエールを見た。
「女王陛下が…?分かった。今日はこれで失礼する。オスカー、行くぞ」
「はい」
意外にあっさりと引き下がったジュリアスはオスカーを従えて退室した。
室内に再び静かな時が訪れる。
「…陛下の…御心を煩わせてしまったようだな…」
闇に溶けるような声で呟き、自嘲気味に笑う。
クラヴィスの表情から心の中まで察知する事は出来ない。
リュミエールはゆっくりとクラヴィスの元へ歩み寄った。
「…一曲、いかがですか?」
クラヴィスは視線を上げ、柔らかく微笑むリュミエールに微笑を返した。
「…そうだな」
「それでは少しお待ち下さい。ハープを取って参ります」
優雅に身を翻して退室するリュミエールを見送ったクラヴィスは遠い昔に思いを馳せた。
『クラヴィス様』
現女王が女王候補時代の明るい声が思い出される。今となってはその明るい声を聞くことはない。
「守護聖になど、そして女王になどならなければ違った未来があったのかも知れぬな…」
クラヴィスは静かに目を閉じた。
そして数日後、
飛空都市にて女王試験が始まる…