MISTRAL
第二章
柔らかく静かな音色が薄暗い室内を満たしていた。耳に心地良いその調べは生あるもの全てを眠りに誘う子守歌のように聖殿に響く。
水の守護聖リュミエールは、いつものようにクラヴィスの執務室を訪れていた。口数少ないクラヴィスとの会話が途切れるとハープを奏でるというのがリュミエールの通例である。
「…クラヴィス様。今日は陽射しも柔らかく、散歩にはちょうど良い日和です。外出なさってはいかがですか?」
「…外出…か。したところで何もあるまい」
紫水晶の瞳を僅かに細めてクラヴィスはリュミエールを見つめた。リュミエールは何も言わず悲しそうに微笑む。
「…騒がしいのは好きではない。人の出歩かぬ時、雨の日や夜なら出掛けても構わぬが…」
そう言って重く垂れたカーテン越しに、窓を見る。遮光カーテンの為、外部からの光は一切漏れない。時計がなければ昼夜の区別さえ、いや時の流れさえも判らないのではないだろうか。
闇の守護聖の執務室は、それ程に外部から閉ざされた空間である。近寄り難さを感じるのはクラヴィスのせいばかりではない。
「…先ほどアンジェリークが、ジュリアス様の執務室から出て来るのを見かけました。どこか沈んでるように見えたのです。何か悩みがあるのでしたら相談して頂きたいものですが…」
リュミエールはハープを奏でる指を休めずに静かに微笑む。
「…アンジェリーク…か…。先日、ジュリアスと仲が悪いのかと尋いてきた」
「!」
驚いて、ふと曲が途切れた。リュミエールが戸惑うようにクラヴィスを見る。しかしクラヴィスは気にした風もなく穏やかな笑みを見せた。
「…正面からああ言われると、答えにくいな」
「…それで、クラヴィス様は何と…?」
「…特に嫌ってる訳ではない。どちらかというと向こうが私を避けている…と」
「…そうですか」
リュミエールは安堵して再びハープに手を掛けた。静かなさざなみを思わせる曲がその手から紡ぎ出される。
「…アンジェリークは、新しい風なのかもしれぬな。滞った空気を吹き飛ばす風…。この飛空都市で彼女がどんな影響を与えるか…」
「…そうですね。彼女はとても優しく美しい心を持っています。いつまでもその心は変わらないでいてほしいですね。彼女ならきっと…」
突然、ビンッとハープが不快な音を立てた。
「…おかしいですね。今朝調律したはずなのに、弦が切れてしまうなんて…」
リュミエールは不思議そうに切れた弦を摘む。
クラヴィスはリュミエールのハープをちらりと見、音もなく立ち上がった。
「…どうなさったのですか?」
「…気が変わった。出掛けてくる」
「どちらへ?」
「…判らぬ。戻ったらまた一曲聴かせてくれぬか」
追随を許さぬ言葉。リュミエールはただ従うしかなかった。
「…はい。かしこまりました」
青く広がる草原を二頭の白馬が駆けていた。二頭とも背に、背の高い青年を乗せている。一人は緩くウェーブのかかった金髪を軽く後ろで束ねた高貴な青年。一人は燃え立つ赤を思わせる髪にアイスブルーの瞳を持った騎士。光の守護聖ジュリアスと炎の守護聖オスカーである。
「ジュリアス様。今日は少し遠出をしすぎたのではありませんか?」
ジュリアスの後ろに従うようにして馬を走らせていたオスカーがそう進言した。ジュリアスの馬に若干疲れが見えた為である。ジュリアスは少し速度を揺るめて、オスカーの馬に並んだ。
「…そうだな。久方ぶりだったのについ無理をさせてしまったようだ。森の湖で少し休ませてから戻るとしよう」
「それがよいかと思われます」
二頭の馬はゆっくりと森の湖へと向かった。
「…豹…よね、これどう見ても…」
アンジェリークは茫然としたまま黒豹の前に立ちすくんでいた。下手に動くと襲いかかられるのは、誰が見ても明らかだ。
「…どうしよう。このまま日が暮れてしまうともっと怖いかも…」
静かに一歩後ずさると、黒豹がピクリと反応する。逃げ出せそうには…ない。
アンジェリークは黒豹と対峙したまま対処法を考えた。声を出すとそれに驚いて襲ってくるかもしれないが、危害を加えなければ襲われないのではないか…。
そこまで考えてふと豹の脚元に目がいった。豹の左下肢が何かで濡れて光っている。艶のよい毛並みに貼り付いたような液体。毛皮の間に見える物は…。
「…ケガしてるのね、あなた。だから警戒して…」
アンジェリークは花が綻びるような笑顔を見せて、その場に座り込んだ。
「おいで。手当してあげるから」
優しく右手を伸ばし、豹に語りかける。しかし人の言葉が理解出来る訳もなく、豹の表情は険しい。
「痛いでしょ?ね?」
敵意の無い事を判ってもらおうと、アンジェリークは必死に笑顔を保つ。本当は怖くて仕方ないのだ。
黒豹が視線を下げアンジェリークに一歩近付いた。
ビクリとアンジェリークの肩が揺れたのを、豹は見逃さない。歩みを止め、警戒しながら標的を物色し始めた。二歩、三歩と近付き、アンジェリークの反応を観察している。
息を詰め、左手でスカートを握り締める。豹と眼があった瞬間、遠くで馬の嘶きが聞こえた。
「!」
驚いた豹がアンジェリークの腕を飛び越した。
「キャッ!」
思わず手を引いたアンジェリークの腕を、豹の鋭い爪が掠めた。
「…痛っ」
右腕の内側を横切る様に赤い筋が走る。それ程大きくない傷だが、傷口から盛り上がる血はアンジェリークに恐怖を与えるには十分だった。
逃げる事も手懐ける事も出来なくなったアンジェリークは、傷口を見つめたままその場に座り込んだ。
グルルルルルッ。
黒豹の警戒が強まった。血の臭いを敏感に嗅ぎ取ったのかもしれない。
アンジェリークは息を飲んで黒豹を見つめた。
「……?」
しかしよく見ると豹は別の方向を睨んでいる。あの方向はさっき馬の声がした方…。
ガサリと枝が揺れて、突如その場の雰囲気にそぐわない人物が白馬に跨ったまま現れた。
「…アンジェリークか。何故ここに…」
金の髪の守護聖ジュリアスは、座り込んでいるアンジェリークに気付きそう問い掛けた。
「アンジェリーク?」
ジュリアスのすぐ後ろに居たオスカーは、馬をジュリアスの横に並べると、いつものような爽やかな笑顔を見せた。
「こんな所で会えるとは…」
言い掛けて、オスカーの顔色が変わった。アンジェリークの腕のケガが目に入ったのだ。サッと軽やかに馬から飛び降りて駆け寄る。
グルルルルッ。
その時初めてアンジェリーク以外の生物がいる事に気付いた。アンジェリークの陰になっていて見えなかったのだ。オスカーは立ち止まり、腰の剣を抜いた。
豹の眼がオスカーを捉える。オスカーの殺気を感じたのか、微動だにしない。
「オスカー様っ。あの、その子ケガしてて、それで警戒してるんです。だからっ」
そこまで言った所でアンジェリークは腕の痛みに顔をしかめた。
「殺すな…と、そう言いたいのか。だが、お嬢ちゃんを傷付けた罪は重い」
オスカーのアイスブルーの瞳は更に鋭さを増す。
オスカーと豹が対峙している様子を見ながら、ジュリアスは静かに馬を降りた。周りの空気を動かさないように注意を払いながらアンジェリークに近付く。
「大丈夫か?すぐに洗い流した方がよい。私の腕に掴まれ」
「はい」
アンジェリークはジュリアスの右腕に縋り、支えられるようにして滝まで歩いた。傷口を洗い、ジュリアスにハンカチで傷口を縛られながらポツリと言う。
「ジュリアス様。あの豹、立入禁止の森の中から出てきたんです。あそこ危険な所ではないんですか?何故立て札しかないんです?」
ジュリアスは答えない。
「動物が迷い込んでケガするかもしれないとはお考えにならなかったんですか?」
詰め寄るようなアンジェリークに、ジュリアスは辛そうに顔を背ける。
「…結界が張ってあり、通れるはずがないのだ。本来ならば。そう、例え虫であっても…」
ジュリアスは沈鬱な面持ちのままオスカーを振り返った。
「オスカー。その動物を捕獲しろ。調査が必要だ」
オスカーは豹と向き合ったまま驚きの声を上げた。
「捕獲…ですか?多少傷付ける事になりますが…」
「ダメですっ。ケガさせちゃったらもう心を開いてくれない…。私が連れて帰りますっ」
アンジェリークは、ジュリアスの手を振り解いて立ち上がった。
「…待て、アンジェリーク…」
ジュリアスの物でもオスカーの物でもない声が森の奥から聞こえる。気怠げな、闇に吸い込まれそうな穏やかな声…。
「…クラヴィス様。どうしてここに?」
音も気配もさせずに現れた闇の守護聖は、アンジェリークに僅かに微笑みかけるとオスカーの元へと歩いて行く。
「……オスカー、下がっているがよい」
「クラヴィス様、何を…」
警戒を解かない豹は、噛みつきそうな顔でクラヴィスを睨みつける。オスカーは剣を構えたまま、いつ襲われても対処出来る間合いを取った。
「…恐れるでない。私はお前に危害を加えるつもりはないのだ…」
クラヴィスは豹の前に屈み、ゆったりと手を差し延べた。豹がクラヴィスの顔を見ながら、その手に顔を近付けた。
「!」
一同が揃って息を飲む。
…豹は噛み付かず、クラヴィスの白く長い指先をちろりと舐めた。
「クラヴィス様…」
アンジェリークはその翠色の瞳に涙を一杯に溜めてその場に座り込んだ。
「安らぎの力…か。クラヴィスがサクリアを揮う所、初めて見た気がするな…」
呟いて、ジュリアスはクラヴィスの元へと歩み寄った。
「お前の力もたまには役に立つものだ。その動物は連れ帰って調査する。こちらへ渡して貰おう」
じっと見下ろし、尊大な態度で言うジュリアスにクラヴィスは無表情のまま答える。
「お前たちは馬で来ているのであろう?馬に乗せると今度は馬が暴れるのではないか?」
「…っ、判った。ではアンジェリークを連れて先に戻るとしよう」
あからさまに不愉快な顔をしてクラヴィスに背を向ける。
「…オスカー、帰るぞ。アンジェリークを馬に乗せてやれ」
「はい。ジュリアス様」
オスカーは長剣を鞘に戻すと、滝の側にうずくまるアンジェリークを振り返った。アンジェリークは慌てて手の甲で涙を拭い、立ち上がる。
「あの、私、大丈夫ですっ」
「遠慮することはないぜ、お嬢ちゃん。ケガの手当も早い方がいい。さあ、こっちへ」
オスカーの厚意を無にする訳にはいかないと思ったアンジェリークは、差し出された手に引かれるように歩み寄った。
クラヴィスに頭を撫でられた豹はおとなしく両目を閉じている。
「…良かった。ほんとに…」
嬉しそうに微笑み、豹の側にしゃがみこんだ。
「…あまり無理をするでない。一つ間違えば死んでいたかも知れぬ…」
クラヴィスは豹を見つめたまま、独り言のように言った。
「…すみません。判ってくれると思ったんです。この子なら…」
アンジェリークは俯き、フッと思い出したように立ち上がった。
「そうだ。ケガ…」
そう言ってヘアバンド代わりに頭に付けていた赤いリボンを解いた。
ふわりと金色の髪が揺れ、光に透けてきらめく。
「これ、包帯の代わりに使って下さい。ケガしてるんです。その子…」
クラヴィスは眩しそうに眼を細め、差し出されたリボンを手に取った。
「…判った」
笑顔を返すアンジェリークの後ろに、白馬に跨ったジュリアスとオスカーが近付いた。
「クラヴィス。その動物はルヴァに預ける事にする。話を通しておくので連れて来るように」
「…その方が良いだろうな」
クラヴィスが豹に視線を戻すのを見たジュリアスは眉をしかめた。
「…行くぞ、オスカー」
先に馬を進めるジュリアスに、オスカーは慌ててアンジェリークを馬に引っ張り上げた。
「あの、クラヴィス様。後でルヴァ様のお部屋にお邪魔しますから…」
クラヴィスの返答も待たず、アンジェリークは半ば連れ去られるようにしてその場から立ち去った。
「……」
突然の出来事に無言だったクラヴィスがクスリと笑い声を漏らした。
「元気な娘だ…」
豹を撫でる手を止め、リボンを左下肢に巻く。
「…私を呼んだのはお前とアンジェリーク。どちらなのだろうな…」
巻き終えて穏やかな笑みを見せたクラヴィスの顔を豹がペロリと舐めた。どうやらお礼のつもりらしい。
「…?」
豹の顔を間近で見たクラヴィスはふと眉を寄せた。光の加減か、豹の瞳の色が左右で違う。よく見ようと頭を撫でながら、顔を近付ける。
豹の右眼は緑、左眼は赤…。
「…珍しい眼の色をしているな。…どこかで見たような気がするのだが…」
悠久なる時を過ごす闇の守護聖は、その記憶をゆっくりと遡り始めた…。
飛空都市の一日が終わろうとしていた。日が沈んでしまうまであと二、三時間…。
育成中の大陸、フェリシアの視察を終えて寮に戻って来たロザリアは隣の部屋の窓を見上げた。
「あら、あの子まだ帰ってきてないのね。一体どこで遊んでるのかしら」
自分の大陸の視察のついでにアンジェリークの大陸の様子も見てきたのだ。現時点ではフェリシアの建物が二つ多い。
「少しは育成してもらわないと張り合いがないわ」
耳許の巻髪を掻き上げ、玄関の扉に手を掛けた時、背後から馬の駆ける音が近付いてきた。
「おっと、そこにいるのはロザリアじゃないか。お姫様は、今ご帰宅かい?」
アンジェリークを馬に乗せたままオスカーは、輝くような笑顔を見せる。
「ごきげんよう、オスカー様」
ロザリアは心持ち不機嫌な顔でちらりとアンジェリークを見る。
「あっロザリア。後でルヴァ様のお部屋に行かない?珍しい動物を見つけたの。ルヴァ様に調べてもらう事になってるんだけど…」
屈託のない笑顔をするアンジェリークの肩をポンと叩き、オスカーは馬の傍らに降り立った。
「お嬢ちゃん。そんなことよりケガの手当が先だぜ。ルヴァ様の部屋に行くというのなら、馬車を迎えに来させよう」
逞しい腕を伸ばし、アンジェリークに捕まるように促す。その仕草は紳士的で全く違和感を感じない。女性をエスコートするのにかなり慣れてるようだ。
「ケガ?アンジェリーク、あなた、又ケガしたの?」
ロザリアが呆れたように言う。アンジェリークは照れたように笑って舌を出して見せた。
「たいしたことはないんだけど…」
「…仕方のない子ね。あなた包帯もろくに巻けないんだからケガしないようになさい。全く、手当する身にもなって欲しいわ」
アンジェリークがケガすると大抵ロザリアが手当をする。ロザリアに言わせると”あまりにトロくてイライラする”かららしいが、優しいからだということをアンジェリークは知っていた。
「…ごめんなさい、ロザリア」
素直に謝られて、ロザリアは困ったように背を向けた。
「…いいから早く部屋にいらっしゃい。私の部屋は救護室じゃないのよ」
憎まれ口をきいて先に歩き始めたロザリアに、アンジェリークは慌てた。
「待って、ロザリア。あ、あの、オスカー様。送って下さって有難うございました」
オスカーに礼を言う事は忘れずに、金の髪の女王候補は慌ただしく寮へと戻っていった。
「女王候補…か」
オスカーは寮へと戻っていく二人の少女を感慨深い瞳で見送った。
「…という訳なのだ。ルヴァ、調査を頼む」
ジュリアスは聖殿に戻ると自分の執務室に戻らず、直接ルヴァの執務室を訪れた。
「…はあ、いきさつは判りましたが、実物を見てみないことには判りませんねー」
ルヴァは湯飲みに口を付けながら一息つく。
一体何が起きているというのだろう。
「…クラヴィスがその動物を連れてくる事になっている。何やらケガをしてるらしい。その手当の準備もしておいてくれないか」
「ケガを?判りました。任せて下さい」
穏やかに微笑むルヴァにジュリアスは微笑を返し、立ち上がった。そのまま歩いて部屋を出て行こうとしたジュリアスは、開けた扉の前で黒い影と遭遇した。
「おっと、危ないな。…ちょうどよい。そのまま扉を開けておいてはくれまいか」
闇の守護聖は黒いしなやかな獣を両腕に抱え、静かに扉の前に立っていた。ジュリアスはふと眉を寄せたが仕方ないと思ったのか、身体をずらしてクラヴィスを招き入れた。
「クラヴィス、ルヴァ、頼んだぞ」
ジュリアスは一度振り向き、そう言い置いて静かに扉を閉ざした。
「おい、今クラヴィスのヤローが動物抱えてたぜ」
「…猫…じゃない、よね?」
「ルヴァ様の部屋に入ってった!」
普通に歩いていても目立つ守護聖が、大きな動物を抱えて歩いているというのは誰から見ても奇異な光景に映る。
歳若い守護聖三人が興味を持つのも無理からぬ事である。
鋼の守護聖ゼフェルと緑の守護聖マルセル、そして風の守護聖ランディは、長い廊下を歩いていたクラヴィスを発見して、思わず後を付けてきたのだ。
「入ってみようぜ」
すぐ様好奇心を顕にしたのは、ゼフェル。紅玉の様な瞳を楽しそうに輝かせて、ルヴァの執務室の扉をじっと見つめる。
「…ケガしてたのかな、あの動物。かわいそう…」
「そう思うならよー、マルセル。入ってみようぜ。どうせルヴァの事だからそんなに邪険にはしねーはずだぜ」
最年少の、ともすれば少女に見紛う金髪の少年にゼフェルは誘いをかける。マルセルはすみれ色の瞳を困ったように伏せた。
「ゼフェル、マルセルを困らすな。お前はいつもそうやって…」
突然話の鉾先を変え、風の守護聖はゼフェルに指を突きつける。
「もう、何でいつもケンカするのっ。僕なら大丈夫だから、ケンカしないでよ」
マルセルは二人の間に割って入った。どうもゼフェルとランディは相性が悪いらしい。なおも文句を言おうと口を開きかけた時、背後に立つ気配があった。
「あら、何をなさってるんですの?ランディ様、ゼフェル様」
突然聞こえた気品のある声に、守護聖三人は振り向いた。
そこには大貴族出身の女王候補、ロザリアが立っていた。葵の花より鮮やかな紫色の巻髪が肩で転がり、同じ色の瞳が三人の姿を映す。
「ケンカ、なさってたんですか?」
ロザリアの後ろにいた少女がひょっこり顔を出す。金の巻き毛が肩で揺れる、エメラルド色の瞳を持った愛らしい笑顔の少女。
「ロザリア、アンジェリーク、おめーら何でこんなとこに…」
「私たち、ルヴァ様のお部屋にお邪魔するんです。ケガの具合とかお訊きしたいし…」
「ケガ?ルヴァ様がケガしたのっ?」
詰め寄るマルセルに、アンジェリークは慌てて答える。
「あっ、いえそうじゃなくって、森でケガした動物の手当てをして戴いてるんです」
「動物って、さっきクラヴィス様が抱えてた黒い奴かい?」
「はい」
ランディの問いに素直な返事を返すアンジェリークに、ゼフェルは瞳を輝かせた。
「じゃあよ、俺たちも一緒に行ってみようぜ。いいだろ?アンジェリーク」
「はい。ゼフェル様」
「あー、クラヴィス、重かったでしょう。ここ、この床に降ろしてください」
クラヴィスが室内に入ると同時にルヴァは、積み上げられた本の前を差した。
「ああ」
短く答えたクラヴィスは、滑るような足取りで闇色の衣を捌き、黒い獣を静かに床に降ろした。
「おとなしくしているのだぞ」
優しく頭を撫でてやると甘えたような声を出した。
「クラヴィスは動物に好かれますね、昔から」
クラヴィスと獣とのやりとりを見ていて、ルヴァは微笑ましい気持ちになった。口数の少ない彼は誤解されやすいのだ。言葉以外で気持ちが伝わるとすれば、おそらくこの守護聖が一番思いやり深いのではないだろうか…。
「ルヴァ?」
何やら考え込んでいる風のルヴァにクラヴィスは声を掛けた。
「え?あっ、すいません。ケガの手当をしないと…」
ルヴァはバタバタと救急箱を用意しはじめた。
クラヴィスはルヴァの様子に笑みを零し、黒い獣に視線を落とした。
「!」
その時獣が何かに反応したように扉を見た。
コンコンというノックの音と数人の気配。
獣は警戒しているようだ。
「はい。開いてますよ」
ルヴァののんびりした声に従って扉が開かれた。
「こんばんわ、ルヴァ様」
春の陽射しのような柔らかな笑顔をしたアンジェリークが、数人の先頭に立っていた。
「おや、アンジェリークにロザリア。それに…ゼフェル達までどうしたんですか?」
救急箱を持ったルヴァが入口を見る。
「あの、さっきの豹のケガ、大丈夫かと思って…」
軽く握った手を顎に添え、心配そうにアンジェリークは言う。
「豹?…ああ、あの黒い獣のことですね。大丈夫だと思いますよ。見ていきますか?」
穏やかな微笑みに、パッと笑顔が広がった。
「はい!」
「あっ、ただし、静かにしてくださいね。ゼフェル、聞いていますか?」
「ちぇっ、わかったよ」
手当を終えた獣はクラヴィスの傍らに寄り添うようにしてじっとしていた。安らぎを与える守護聖の側はやはり落ち着くのだろう。クラヴィスが獣に触れた手を離すと警戒心が強くなる。ルヴァが獣を調査する為には、クラヴィスがずっと触れている必要があった。
「オッド・アイとは珍しいですね」
ルヴァがルーペで獣の瞳を覗き込みながら感心したように呟く。一同は聞きなれない言葉に静まり返る。
「オッド・アイって何ですか?」
無邪気な笑顔で問うアンジェリークに、年少組の守護聖が身を乗り出す。
「…左右の瞳の色が違うことだ」
「その通りです。クラヴィス。でも一般にオッド・アイというのはですね、片目がブルーで片目がゴールドかカッパーなんですよ。あ、ちなみにカッパーというのはオレンジの濃い色なんですよ」
ルヴァは注釈までつけて説明する。
「でもこの獣、おそらく豹の仲間なんでしょうが、グリーンと赤の瞳。珍しいですよ、ほんとに。それから歯…」
言って、ルヴァは豹の顎を掴む。きれいに並んだ門歯の向こうに鋭い犬歯がある。捕らえる動物の頸椎の間に打ち込んで致命傷を与える役割をするこの歯は、猫の物より鋭い。
「犬歯が豹ほどには発達してないんですよ。大変興味深い動物ですねー」
延々と語り続けそうなルヴァに、ゼフェルはいらついたように立ち上がった。
「あー、もう説明はいいから、何でその猛獣がこの飛空都市にいるのか教えろって」
その場にいた誰もが尋きたかった事だろう。一同が見守る中、ルヴァはゆっくりと立ち上がった。
「それは…判りません」
にこやかに言われて、沈黙が訪れる。
「………」
「なーんだ。わかんないのかー」
一番興味深そうにしていたマルセルが溜め息とともに言う。
「じゃあ、判ったら俺たちにも教えてください。今日はもう遅いから俺たち失礼します」
ランディはマルセルとゼフェルの腕を掴み、入口へと歩き出した。どうやら難しい話が苦手らしい。
「おいっ、このランディ野郎っ、手を離しやがれっ」
引き摺られるようにしてゼフェルは入口へと移動した。力では普段オスカーに鍛えてもらっているランディの方が強いらしい。
呆気に取られていたアンジェリークは、扉が閉まった途端にくすくすと笑い出した。
「…静かにして…くれなかったですねー」
ルヴァは少し困ったように笑う。でもその瞳は優しく、非難の色はない。
「ねえアンジェリーク。私達もおいとました方が良いのではなくって?もう十一時よ」
「あ、そうね、ロザリア」
言ってすぐに立ち上がった二人の女王候補は、二人の守護聖に優雅な御辞儀をした。
「遅くまで失礼いたしました。ルヴァ様、クラヴィス様」
「また今度詳しくお話してくださいね」
「ええ。また今度。おやすみなさい」
二人の女王候補を見送ったルヴァは、クラヴィスに身を預けるようにして目を閉じている黒豹を見た。
「…余程クラヴィスを信用しているのですね。野生の獣の無防備な姿を初めて見ましたよ」
「野生…ではないのかも知れぬ」
突然の言葉にルヴァは顔を上げた。
「…昔、これと同じ瞳を見た記憶がある。もう随分と昔…陛下が女王候補だった頃…」
クラヴィスの瞳は黒豹を映しながらも、どこか遠くを見ていた。紫水晶の瞳が憂いを帯びている。
クラヴィスが陛下の事を語るとき、必ずこんな表情をする。切なげで苦しそうな瞳。それ程に陛下の事を想っていたのだろうか…。
クラヴィスが陛下と恋をしていたということは、ルヴァと女王補佐官のディアしか知らない。そのせいかクラヴィスはルヴァにだけはふと本音を見せる。
「…私が見たのは猫、だったのだ。あの時は…」
* * *
『きれいな眼。ね、クラヴィス様、飼ってみてもいいかしら?』
長い金の髪の少女が微笑む。
『寮の世話係は猫アレルギーではなかったか?』
『そうだったわ。でも…』
寂しそうに微笑む少女に、闇の守護聖は一つの提案をした。
『…私の庭で飼うとよい』
『有難うございます』
* * *
「猫…ですか。では突然変異としか考えられません。あの森の様子はどうでした?」
ルヴァの問いに、ゆっくりと視線を上げる。
「森の気が乱れていた。おそらく結界に亀裂が生じたのであろう」
「ではその結界の外に迷い込んだ猫が…」
猛獣と化してしまった…。
と続くはずの言葉をルヴァは飲み込んだ。
もしも人が迷い込んだら一体どうなってしまうのか…。考えただけで鳥肌が立つ。
「結界の修復は守護聖全員であたることになるであろう。そう報告してくれぬか」
「…そうですね。判りました」
亀裂の生じた結界、猛獣と化した猫…。
いずれも女王陛下のサクリアが弱まっている為だ。
「…同じサクリアでも、担う力は違うのか。私の力は未だ衰えを見せぬが、陛下は…」
クラヴィスは黒豹の背をゆっくり撫で、虚空の月を仰ぎ見た。
冴え冴えとした銀色の月が優しい光を地上に降り注ぐ。
その優しい光の中、闇の守護聖と黒き獣は静かに眠りに落ちた。