MISTRAL

KISS×3


静かな日の曜日。
 朝の光は眩しく、澄んだ空気は肌に心地良い。
「今日は、クラヴィス様とお話してよっと」
 アンジェリークは、足取り軽く聖殿へと向かった。
「クラヴィス様?」
 入口からちらりと中を覗くと、クラヴィスが布に包まれた大きな板を持ったまま振り向いた。
「ああ、アンジェリークか」
「お邪魔でした?」
「いや。入るといい。何か飲み物を用意させよう」
 クラヴィスはその板を執務机に立てかけた。
「?」
 アンジェリークの視線がずっとその板を追っているようだ。
「アンジェリーク。その板が気になっているようだが布をめくろうとは思わぬことだ。特殊な物で何が起きるか判らぬ」
「はい」
「では、少し待っていろ」
 クラヴィスは優雅に身を翻して、奥の方へと歩き去った。
「何が起きるか判らないって、どんなものかしら…」
 椅子に座って、じーっとその板を見つめる。えんじ色の厚い布に被われた板は、とても存在感がある。
「見ちゃいけないって言われてるし…」
 いつもならすぐに戻ってくるはずのクラヴィスが、今日に限ってなかなか戻って来ない。
「クラヴィス様?」
 奥に呼びかけてみるが、返事もない。
「どこに行ってしまわれたのかしら」
 もうっ…
 アンジェリークが待ちくたびれて、ムッとした時。
 ガタッ。
 執務机の方で大きな音がした。思わず振り向いたアンジェリークは、立て掛けてあった板が床に横たわってるのに気付いた。布も半分めくれている。
「あっ、さっきの板!…どうしよう。戻しておいた方がいいわよね?」
 アンジェリークは、恐る恐る近付いた。
 板は豪華な縁取りのある鏡の様だ。鏡を見ないように目を背け、そっと布を掛けてやる。
「っ!」
 何かに手首を捕まれた感触。アンジェリークは、息を飲んで振り返った。
 半透明な手首が鏡の中から伸びて、自分の手を掴んでいる。
「キャー!」

 クラヴィスが奥の方からティーカップの盆を持って出てきた。
「アンジェリーク。遅くなった。今日は世話係の者に休みをやっていたのを忘れていた」
 盆をテーブルの上に乗せて、金の髪の少女を捜す。
「帰ったのか?」
 クラヴィスは、さっきまで少女が座っていた席に近付いた。すると、執務机に立て掛けた鏡が倒れているのが見えた。
「まさか…」
 慌てて鏡の側に行き、布を外す。そこにはクラヴィスの顔ではなく、エメラルド色の眼をした金の髪の少女が映っていた。
「アンジェリーク…」
(クラヴィス様…。すいません。あのっ、鏡が倒れて布がめくれてたので、元に戻しておこうと思って…)
「私が、不注意であった。どうやってその中に入ったのだ?」
(よく、判らないんですけど…私にそっくりな人が何人か出て行ったんです。それで私、閉じ込められちゃって…)
「その者を捜してくれば良いようだな」
(御面なさい。めくらないようにって言われてたから見ないように布を掛けたんですけど…)
「心配せずとも命の危険はない。あれらは悪戯好きな精霊だ。人型を取るとは私も知らなかったがな。あまりに悪戯が過ぎるので暫く閉じ込めておこうと思っていたのだ。待っていろ。すぐ戻る」


 コンコンッ。
 鋼の守護聖は、日の曜日でも執務室にいた。机に座って、ロボットのネジを締めている。
「ゼフェル様」
「あ?開いてるよ」
 一生懸命鳥型ロボット(通称メカチュピ)の改良型を作っているようだ。扉の方も見ずに熱中している。
「もう、ゼフェル様!」
 いきなり大きなエメラルド色の瞳に覗き込まれて、ゼフェルは机から落ちた。
「なっ、何だよっアンジェリーク。びっくりするじゃねーか!」
「ゼフェル様がこっち向いてくれないからですよ」
「今日は日の曜日だろ?何しに来たんだよ!」
「ちょっと、お尋きしたいことがあって」
「なんだよ、知らねーことなら答えらんねーぜ」
 アンジェリークは、にっこり笑って床に座り込むゼフェルに近付いた。
「ゼフェル様、キスしたことありますか?」
「は?何言ってんだよ、おめーはっ!」
 少女の顔が近くにあり過ぎてゼフェルは後ずさる。
「誰のキスが一番上手かなーって思って」
 いつもより大人びた表情をする少女に、ゼフェルは僅かに眼を細めた。
「おめー、ほんとにアンジェリークか?」
「確かめてみます?」
 アンジェリークは、ゼフェルの手を自分の唇に当てた。
「おいっ、ちょっ」
 少女の唇のあまりの柔らかさに、ゼフェルはドキリとして硬直した。いつも自分が触ってるのは、硬質の金属類ばかり。その差は大きくて…。
 バタンッ。
 突然開いた扉に少女が気を取られた隙に、ゼフェルは何とか抜け出した。
「げっ、クラヴィス…」
 出来れば今会いたくない人物が戸口に立っていた。
「ゼフェル。その者はアンジェリークではない。迷惑をかけたな」
 スタスタと中に入ってきたクラヴィスは、少女の手首を掴んで出て行こうとする。
「じゃ、そいつはなんなんだよっ」
「悪いが今は説明している時間はない。話は後だ」
 そう言って、少女と一緒にあっさりと出て行った。
「あんなにそっくりで、アンジェリークじゃないって一体…」

「お前が人型を取るとは知らなかった。一体何人出てきたのだ?」
 クラヴィスは怒ったように少女を見下ろした。
「ふふっ。何人だと思います?」
「私は遊んでいるわけではない。きちんと答えろ」
「こわーい。んーと、私を入れて8人かな。でも今、繁殖期だからもしかしたら増えてるかも」
「増える?」
「雄とキスしたら分裂出来るの」
「!」
 クラヴィスは少女をちらりと見ると、無言で自分の執務室に放り込み鍵をかけた。
「あと7人回収せねばならぬのか…」
 しかし、御丁寧に自分以外の守護聖の人数分出てくるとは…。
 クラヴィスは頭を抱える。積極的な女性を拒まない者も、拒めない者もいる。増えている可能性もあるということだ。あの姿で他の者と…。ムッとして次の執務室のドアを開けた。

「あっ、クラヴィス様!良かった。なんか、アンジェリーク変なんですっ」
 緑の守護聖の執務室にも当然のようにアンジェリークがいた。マルセルは、何とかアンジェリークのキスから逃れていたようだ。
「キス教えてあげるって迫られて、僕びっくりしちゃって…。いつものアンジェならこんなことしないのに…」
 泣きそうな声を出して自分の無実を訴える。
「判っている。あれはアンジェリークではない。怖がらなくてもよい」
 マルセルを宥めておいて、クラヴィスは机の側に立つ少女へと向かった。
「クラヴィス様…」
 気怠げに見上げる少女は大人の女の顔をしていた。
「そんな顔をしても無駄だ」
 本当のアンジェリークなら、抱き締めたくなるような切ない眼をする。その衝動を押し殺し、一つ息をする。
 クラヴィスは、少女の手首を掴み入口へと引っ張って行った。
「マルセル、邪魔をした」
「は、はい」
 何がどうなっているのか判らず、マルセルはじっと二人を見送った。


 光の守護聖は、日の曜日でも書類整理をしていた。
 コンコン。
 ノックの音で顔を上げたジュリアスは、戸口に立つ金の髪の少女に気付いた。
「アンジェリークか。入れ。今日は日の曜日だが…何の用だ?」
「ジュリアス様に教えて戴きたいことがあって…」
「日の曜日にも勉強とは良い心掛けだ」
 ジュリアスが満足そうな微笑みを見せるのとは逆に少女は含み笑いをした。
「違います」
 そう言うと、静かに執務机の前まで歩み寄った。
「では何だ?」
 ジュリアスの座る椅子のすぐ近くで少女は立ち止まる。
「キスの仕方…」
「何っ!」
 少女の手がジュリアスの頬に伸びた。
「もしかして、初めて?」
 妖艶な笑みを浮かべ、息がかかりそうな程近くに顔を近付ける。
「…女性がそのような端たないことを…」
 ジュリアスは、精一杯少女から身体を離す。
「…教えてあげましょうか?女の身体…」
 そう言って、胸元のリボンを解いた。
「!」
 思わず椅子を蹴飛ばして立ち上がったジュリアスは、戸口に黒衣の守護聖を見つけた。
「クラヴィス!」
 一瞬ドキリとして、少女の方をちらりと見る。
「これは…」
 言い訳をしようと口を開きかけたジュリアスに、クラヴィスは呆れたような溜め息をつく。
「ジュリアス。お前ともあろう者が…。見れば判るであろう?本人でないこと位…」
「そっそれは、勿論判っていた。だが…」
 また話が長くなりそうだ。クラヴィスは、ジュリアスを無視して少女の方へと進んだ。
「クラヴィス!」
 呼ばれて、クラヴィスはあからさまに不機嫌な顔をした。
「すまぬが、話は後だ。まだこの姿をした者が聖殿内にいる」
「何?それは一体…」
「説明している時間はない」
 少女の手を引き、無理やり執務室を出たクラヴィスは、不機嫌な顔のまま少女に問い掛けた。
「キスだけで良いのではなかったのか?」
「だって、綺麗なんですもの。それに襲っちゃいたくなるほど可愛い」
 小悪魔のように微笑む少女を無言で自分の執務室に押し込む。
「…あと5人か」


 風の守護聖の執務室の天井は結構高い。ジャンプの練習をしても決して天井や照明に当たることがないのだから、かなり高いのだろう。
 毎週、日の曜日にジャンプの練習をしているランディは、今日も朝からやっていた。
「もう少しかっこいい着地の仕方があるはずなんだけどな」
 何度目かの挑戦をしようと足を踏み出したとき。
 コンコン。
 ノックと同時に扉が開いた。
 ゴツッ。
 思いきり後頭部をぶつけたランディは、頭を押さえてうずくまった。
「すいません。そこにいらしたんですか?」
 扉の陰から現れたのは金の髪の少女。
「だっ、大丈夫!」
 強がって見せるが、痛いのにはかわりない。
「アンジェリーク、今日は何の用だい?」
 ランディは精一杯笑って見せる。少女はクスクス笑った。
「私と、キスしてみませんか?」
「?」
 にこにこ笑って、少女は今とんでもないことを言わなかったか?
「…ごめん。よく聞こえなかったんだけど…」
 気のせいだと思い直し、ランディは聞き返した。
「だから、キス。してみません?」
「え?」
 ランディの頭の中は瞬時に、真っ白。でも視線は薄紅色の唇に自然といってしまって…。
 バタンッ!
 大きな音をさせて扉を開けたクラヴィスは、すぐに金の髪の少女を見つけた。
「あっ、クラヴィス様!えっと、これは…」
 ランディは慌てて首に回された少女の腕を外した。
 不機嫌そうなクラヴィスは、かなり怖い。スタスタと自分の方へ歩いてくる様子に、ランディは思わず固く目を閉じた。
 殴られる!
 一瞬、空気が緊張した。
「気にすることはない。これはアンジェリークではないからな」
「…えっ?」
 ランディが聞き返したとき、クラヴィスは少女を連れて部屋を出る所だった。
「アンジェリークじゃないって…どこが違うんだろう…」


「今日の口紅は、シェルピンクにしようかなっと」
 自分を飾り立てることに余念のない夢の守護聖は、今日もしっかりとメイク中だ。日の曜日に執務室を訪ねると、いつも大きな姿見の前に立っている。
 コンコン。
 ノックの音で扉の方へちらりと視線を送ったが、今は大切なメイクの最中。鏡に向き直って返事する。
「どうぞ。開いてるよ」
 鏡越しに入口をちらりと見たオリヴィエは、入ってきたものに驚いて振り返った。
「あれ?アンジェリーク?」
 今見えたのって、動物じゃなかった?しっぽがふさふさして、そう狐のような…。
「メイク中ですか?綺麗な色の口紅ですね」
「あっ、そお?実は新色なの。光の角度で微妙に色が変わって綺麗なんだよ」
「ほんと、綺麗…」
 アンジェリークが、大人っぽい表情をする。
「?」
 オリヴィエは、口紅を持ったままアンジェリークに近付いた。
「アンタにも付けてあげよっか?」
「はい」
 少女は細い腕をオリヴィエの首に回した。
「…口移し、して下さいますか?」
 オリヴィエは、美しい瑠璃色の瞳を細めた。
「アンタ、一体誰?」
 少女は顔を近付けて微笑む。
「キスしてくれたら、教えます。してみたいでしょ?この姿と…」
 オリヴィエは不機嫌そうに唇の片端を引き結ぶ。
「確かにアンジェは好きだけど、アンタに興味はないね」
「キス位いいでしょ」
 そう言って少女はオリヴィエの顔に近付いた。
 バタンッ!
「そこまでにしておけ」
 闇の守護聖は、扉を開けるなりそう言った。不機嫌さがかなり増しているようだ。
「クラヴィス。アンタ、コレが何か知ってるの?」
「ああ。説明している時間はないが」
「何でキスしたがってるの?この子」
 その答えは、少女の手首を掴んで執務室を出る寸前でなされた。
「…繁殖期、だそうだ」
 パタン。
 扉が閉まった後、オリヴィエは溜め息をついた。
「こりゃあ、かなりキテるわ。あんな場面見るの、一度や二度じゃないみたいだし…」
 気の毒に…。


「今日の茶菓子は月餅にしましょうかね」
 地の守護聖は書庫の整理が一段落つき、お茶の準備を始めた。
「お茶は…茶菓子に合わせて中国茶がいいですね」
 さてどの中国茶にするか…。
 戸棚を開けて色々吟味している時、ドアを叩く音がした。
「はい、どうぞ」
 ルヴァは茶筒とにらめっこしたまま答えた。
「何してらっしゃるんですか?」
 いきなり腕の下の方から少女の声が聞こえて、思わず茶筒を落としそうになった。
「あっ、アンジェリーク!驚かさないで下さい」
「すいません。ずっとこちらを向いて下さらないから…」
 少女は拗ねたように笑う。その表情はアンジェリークと変わらない。
「丁度良いところにいらっしゃいましたね。これからお茶にするんですよ。一緒にいかがですか?」
「はい」
 ルヴァは、結局手に持っていたジャスミン茶に決めてお湯の用意をしに行った。
 急須に湯を入れて蒸らしながら、ルヴァは少女に尋ねた。
「今日はどんな御用件ですか?」
「ルヴァ様に教えて頂きたいことがあるんです」
「はぁ、何ですか?」
 ルヴァは、程好く色のついたお茶を二つの湯飲みに均等に注いで、色の差が出ないように気を遣う。
「キスの仕方。教えて下さい」
「……」
 少女の言ってることがあまりにも突拍子もないことで、ルヴァは急須を傾けたまま静止していた。湯飲みから溢れたジャスミン茶がテーブルから滴り、床を塗らす。
「熱いっ!…えっと、すみません。今、なんて言ったんですか?」
 足にかかったお茶よりも、少女の言動の方が気になる。
「だから…」
 席を立った少女は、ルヴァから急須を取り上げて下からじっと見上げた。
「キ・ス。して下さい」
「え?」
 裏返った声で返答し、少女から一歩離れる。
「オクテなんですね。知識はあっても、経験はない…とか?」
 思っていても誰も口にはしないことを少女は平気で言う。
「…アンジェリークは、何処ですか?」
 ルヴァはひどく静かな声で尋ねた。
「ここです。ルヴァ様」
 少女は、悪びれもせずにっこり笑う。
「彼女は純粋無垢な子です。あなたではありません。教えて下さい。彼女は無事なのですか?」
 その時、バタンと扉が開く音がした。そこには闇の守護聖が立っていた。
「ルヴァ。アンジェリークは、そのものが鏡に閉じ込めたのだ。その代わり鏡の中から、彼女の姿をしたものが何人も出てきたらしい。今、回収に当っているところだ」
「何人も?それは大変ですね。あと何人ですか?」
「ここにいるのを含めてあと3人」
 クラヴィスは、ルヴァの近くにいた少女の手を引いた。
「あー、それでしたら私もお手伝いしますよ」
 クラヴィスは数秒考えて、首を横に振った。
「いや、お前には他の守護聖に事情を説明してもらいたい。雄とキスすると分裂するらしいのだ。この生物は。しかも今、繁殖期で見境いがない」
「見境いがないって、まさか…」
「アンジェリークの為にも、頼んだぞ」
 扉が閉まり、一瞬の内に静まり返る。
「…酷なことをしますね」
 よりによってアンジェリークの姿で守護聖たちにキスを迫るとは…。


 静かにハープを奏でていた水の守護聖は、ふと手を止めた。
「?どうしたのでしょう。表が騒がしいような気がしますが…」
 ハープを窓辺に凭せかけると、リュミエールは扉へと歩いていった。
 カチャリ。
 開けた扉の前に立っていたのは、金の髪の少女。
「アンジェリーク?どうなさったのですか」
「少しお話がしたくて。中に入れて頂けますか?」
「ああ。すみません。どうぞお入り下さい。ハーブティーでよろしいですか?レモンバーベナというハーブですが、元気回復に良いそうですよ」
「はい」
 リュミエールは美しい微笑を返し、お茶の準備を始めた。
 ハーブティーは緑茶や紅茶に比べて蒸らす時間が長い。ポットに熱湯を注いでから優に五分はかかる。
 少女はその間ずっとリュミエールの顔を見ていた。
「私の顔に何かついていますか?」
「いいえ。いつ見ても綺麗だなーと思って。色白で柔らかそうな肌。女の人より綺麗ですよね」
「そんなことを言いにいらしたのですか?」
 少女は微笑んで席を立った。
 リュミエールの側に近寄り、女性的な美貌を見上げる。
「キスしていいですか?」
「……?すみません。貴女のおっしゃる意味が分からないのですが…」
 リュミエールはポットをテーブルに置き、首を傾げる。
「そのままの意味です。あんまり綺麗だから、触れてみたくて…」
 少女がリュミエールの首に両手を回した。
「…アンジェリークの姿でこんなことをするのは、感心しませんね」
 リュミエールは腕を振り解き、静かにそう言った。
「私のこと、お嫌いですか?」
 まだアンジェリークの振りをする少女に、そっと溜め息をつく。
「確かにアンジェリークは大切に思っています。でも私は彼女の姿に惹かれたのではなく、心に惹かれたのです。姿が同じだからといって、貴女に触れたいとは思いません」
 バタンと静かに扉が開いて、クラヴィスが姿を見せた。
「リュミエール」
「クラヴィス様…。この少女は一体誰なのです?何故アンジェリークの姿で…」
 クラヴィスは静かに歩み寄り、少女の手を取った。
「説明はルヴァに任せてある。実は、あと1人いるのだ。すまぬが事情はルヴァに尋いて欲しい」
「はい。クラヴィス様がそうおっしゃるなら…」
 二人の退室が余りに早くて、リュミエールは暫く扉を見つめたままだった。


「オスカー様って、女性経験豊富ですよね?」
 長剣の手入れをしていたオスカーは、開口一番そんなことを言う少女に面喰らった。
「?お嬢ちゃん、いきなり何を言い出すんだ?」
 少女はにっこり笑って、オスカーの横まで歩いてくる。
「キス上手そうですね」
「何だ、誘ってるのか?お嬢ちゃん」
 オスカーは、剣を鞘に収めて机の上に置いた。
 アイスブルーの瞳が、からかうように揺れる。
「オスカー様となら浮気してもいいかなって」
 少女が細い指先をオスカーの頬に添える。オスカーはその手を握り込み、じっと少女を見上げた。
「その言葉。本気にしてもいいのか?」
「キス、させてくれたら…」
 少女の顔が近付いた瞬間オスカーは立ち上がった。
「俺は男なんでね。キスされるより、する方が好きなんだ」
 体勢を入れ替えて片手を少女の腰に回した。もう片方の手で頬にかかる金の髪を掻き上げて頬に手を添える。
 バタン!
 一際大きな音を立てて開かれた扉の向こうには、クラヴィスが立っていた。
「オスカー。やはりお前という者は…」
「クラヴィス様っ。これは、その…」
 オスカーにしては珍しく言い訳をしようと口を開いたのだが…。
「もう良い。その者はアンジェリークではないのだからな」
「ではどうしてこのような姿を…」
 オスカーは、少女から身を離してクラヴィスと向き合った。
「面倒な説明はルヴァに任せた。私はこの少女を回収に来ただけだ」
 クラヴィスは少女の腕を引き、扉へと向かう。
「もし、今のが本当のアンジェリークだったとしたら?」
 一瞬、空気が張り詰める。
 クラヴィスは、深い闇色の瞳を僅かに細めた。
「さあ…な」
 扉が閉まってから、オスカーは一息ついた。
「本物じゃないって、感じてはいたが…最近どうかしてるらしい。このオスカーともあろう者が」


 やっと8人の少女を回収し終えたクラヴィスは、自分の執務室に戻った。
 いくら愛しい少女の姿をしているとはいえ、8人も同じ顔が並ぶというのは余り気持ちのいいものではない。クラヴィスは、がやがやと騒いでいる少女たちを見回した。
「いいか、良く聞くがいい。今度その姿で外界を歩く者がいたら、鏡を割るからそのつもりでいることだ。外界では一時間と生きられないのであろう。…どういう意味か判るな?」
 静かな脅迫…。8人の少女は悲しそうに俯いた。
「御面なさい…」
 口々にそう言って、次から次へ鏡の中に飛び込む。
「もうしないから…また遊んでね」
 最後の1人が名残惜しそうに振り向く。
「いずれ…な」
 クラヴィスの瞳が少し優しくなっていて、少女は笑顔で鏡の中へと帰って行った。
「キャッ!」
 少女たちが鏡の中へ帰って行ったのと同時に、アンジェリークは弾き出されるように鏡から出て来た。
「大丈夫か?アンジェリーク」
 倒れそうなところをクラヴィスに抱き止められ、アンジェリークは慌てた。
「だっ、大丈夫です!」
 真っ赤になって俯く少女は、純粋で愛らしい。
 何度もこの姿で守護聖に迫る場面を見てしまったクラヴィスは、やっとオアシスに辿り着いたような気持ちだった。
「やはり、お前は天使だ」
 クラヴィスはアンジェリークを強く抱き締めた。
「え?え?」
 何が起きているのか良く判っていない少女は、パニックになりながらクラヴィスの服にすがった。
「疲れたであろう。今日はもう寝るとよい。部屋まで送ろう」
「はい」


 アンジェリークを送り届け、部屋に戻ったクラヴィスは水晶球を覗いた。
「初めから知ってはいたが…他の者もアンジェリークを想っているとは…。彼女の手を離すな…ということか」
 今回の件で、少しだけ他の守護聖の見方が変わったクラヴィスであった。

 一方、アンジェリークは部屋で髪を梳いていた。
「今日は、何がなんだかわかんなかったけど…無事に出てこられて良かった〜。外で何があったのかしら?私が鏡から出るのと入れ違いに入ってきた子が、”クラヴィス様って、意外と嫉妬深いのよ”って囁いていったけど…」
 それが判るような出来事があったのかも…。
「あ〜あ、見たかったなー」
 お気楽なことを考えているのは、閉じ込められていた本人だけかもしれない…。

 暫く、アンジェリークの側にずっとクラヴィスが寄り添っていたのは言うまでもない。