MISTRAL

子猫


ピチッ。ピチュチュ…。
 木々の隙間を縫うように黄色い小鳥が羽ばたいていた。
「おや、小鳥ですか…。今日もいい天気ですねー」
 頭にターバンを巻いた青年、ルヴァは片手をかざして眩しそうに空を見上げた。
「この天気だと、またゼフェルは勉強をさぼってるんでしょうね」
 困りましたねと笑うルヴァは何だか楽しそうだ。
「たまには散歩もいいですね」
 天気がいいと気分が晴れるのか、ルヴァは晴れた日が好きだった。部屋で読書をすることが一番好きなルヴァが外に出るのは、今日のように雲一つない晴れの日だ。自分の生まれ育った母星が砂漠しかなかった為かもしれない。
 ガサッ。
 ザザザッ。
 突然大きな音がしたかと思うと、ルヴァの目の前の茂みに人が降ってきた。
「いったーっっ」
 金色の髪の愛くるしい眼をした女の子。
「おや、アンジェリーク?どうしたのです、傷だらけですよ」
 ルヴァは慌ててアンジェリークの元に駆け寄った。
「あっ、ルヴァ様、こんにちは!」
「はい、こんにちは…って、そんな場合じゃありませんよ、怪我をしてるじゃありませんか」
 怪我をしていても明るい笑顔で挨拶をするアンジェリークにつられて挨拶をしたルヴァは、はっと我に返ったように側に座り込んだ。
「怪我?…て、あっ血が出てるーっ」
 何かに夢中になってたらしく、怪我に気付いていなかったようだ。膝から流れる血を見て、茫然としている。
 ミャー。ミャー。
 その声でぱっと振り向いたルヴァは、アンジェリークの側でうずくまってる子猫を見つけた。
「…猫?」
 不思議そうに猫を見つめるルヴァに、アンジェリークはほっとしたように笑った。
「…よかったー。無事だったのね」
 そっと子猫に手を伸ばしたアンジェリークは、その途中でふと手を止めた。
「…震えてる…。怖かったのね」
 優しくその胸に抱いてやっても、子猫の震えは治まらない。
「ルヴァ様…」
 悲しそうな顔で見上げるアンジェリークに、ルヴァはただ穏やかな笑みを返した。
「私の家で傷の手当をしましょう」


「…ではアンジェリーク、その猫を助ける為に木に登ったのですか?」
 ルヴァは、アンジェリークの手当を終えて、お茶の準備をしながら尋ねた。
「…はい」
 さすがに木登りするところを見られて恥ずかしいらしく、俯いたまま答える。
「…あの大きな木に…ですか…」
 ルヴァはアンジェリークが落ちてきた場所の近くの木を思い浮かべた。
 ゼフェルがここに来た頃よく登っていたその木は、登ることより降りることのほうが難しい。守護聖の中で登れるとすれば、ゼフェル、ランディ、オスカー位のものだろう。
 ルヴァは、軽く溜め息をついた。アンジェリークにはいつも驚かされる。
「…女の子がそんな危険なこと、するもんじゃありませんよ」
「…はい」
 ルヴァの話は、いつも理路整然としていて説得力がある。穏やかな話し方の中に、大切なことが含まれている。それが判っているから、少し緊張してしまう。
「…お茶、入りましたよ」
 いつもの笑顔で言うルヴァの顔をちらりと見て、アンジェリークはカップに口をつけた。
「…うっ…にがい…何ですか?これ…」
「お薬湯ですよ。傷に利きますから」
 にっこり笑うルヴァを見て、アンジェリークは恨めしそうに見上げる。
「飲まなきゃ、いけません?」
「いけません」
 アンジェリークは楽しそうに言うルヴァをじっと見つめ、覚悟を決めて飲み干した。
「よく頑張りましたねー。ご褒美にいいことを教えてあげましょう」
「いいこと?」
「その猫。クラヴィスの所へ連れていってはどうですか?」
「クラヴィス様の所へ?」
「ええ。怯えてますからね。彼の力を借りたらどうかと…」
「…安らぎ…あっ、そうですね。そうします。ルヴァ様、有難うございました」
 途端に元気になったアンジェリークは、震える子猫を胸にクラヴィスの執務室へと走って行った。


 コンコン。
「クラヴィス様?」
 ノックをしておいて静かに声を掛けた。静かな時間が好きな彼の側で騒ぐとすぐに追い出される。
「…アンジェリークか。何のようだ?」
 机の上に広げたタロットカードから目を離さず、クラヴィスは静かに答えた。薄闇に包まれている部屋の空気を少しも動かすことなくカードをめくる様子は、優雅でどこか近寄りがたい。
 アンジェリークは、なんて言ってお願いしようかと迷った。声を掛けるのさえためらってしまう。
 人を寄せつけないクラヴィスが、アンジェリークが近寄るのだけは嫌がらないことを、まだ彼女は気付いてなかった。
「あの…」
 口ごもるアンジェリークに、ようやく顔をあげたクラヴィスは少なからず驚いた。
 擦り傷だらけの腕に、包帯を巻いた膝…。ついさっき、大陸の育成を頼みにきた時にはなかったはず…。
「…その傷は?」
「…さっき、この猫を助けて、木から落ちちゃって」
 照れたように笑うアンジェリークに、クラヴィスは眼を細めて呆れたように微笑した。
「…お前らしいな。ところで、何か用があるんじゃないのか?」
「はい。この子なんですけど、怖がって震えてるんです。いくら撫でてやっても怯えた眼をして…」
 そう言いながら手の平に乗る子猫を静かにクラヴィスへと差し出した。
「…恐怖…か。今後の為にも忘れてはいけないものだな」
「クラヴィス様…」
「…心配するな。和らげることは出来る」
 クラヴィスは、優しく子猫の頭を撫でた。
 ミャー。
 さっきまで震えていた子猫が甘えた声を出した。クラヴィスの手に甘えるように身体を擦り寄せる。
「…もう大丈夫だ」
「ありがとうございます!」
 嬉しそうに子猫を抱き寄せて笑うアンジェリークにクラヴィスは優しい笑顔を向けた。
「…ジュリアスに…」
「え?」
「会わぬ方がよいぞ」
「?」
 何が何だか判らなくてきょとんとしているアンジェリークを見て、クラヴィスはクスッと笑った。
「その格好、女王候補ともあろう者が…などと説教されるのが落ちだ」
「…そうですね。気を付けます」

 静かに退室したアンジェリークは、胸に抱いた子猫を本来の持ち主の元へと連れていくことにした。
 本来の持ち主、そう、もう一人の女王候補ロザリアの元へと…。
 コンコン。
「あらアンジェリーク、何の用かしら?私あなたと違って忙しいのよ」
 長い髪を掻き上げながらロザリアは言う。
「ロザリアが探してた猫、見つけたから…」
 始め半開きだったドアを勢い良く開けて、ロザリアはアンジェリークを見た。
 ミャー。
 アンジェリークの手に、白い子猫が乗っている。
「カトリーヌ。何処行ってたのよ」
 アンジェリークから子猫を受け取ると、愛しそうに頬を寄せる。
「…木の上に登って、降りられなかったみたい」
 アンジェリークの声に、ハッと我に返ったロザリアは、改めてアンジェリークの格好を見た。
「…なんて格好してるのよ。まさか登ったの?」
「…ロザリアじゃ、登れないでしょ?」
 屈託なく笑うアンジェリークに、ロザリアはフイッと横を向いた。
「当り前でしょ。そういう時は、ゼフェル様かランディ様、オスカー様に頼めばいいのに。ほんとあんたって、バカね」
「…あっ、そっか」
 今思いついたように言うアンジェリークに、ロザリアは呆れる。
「とにかく、私は頼んでないんですからね。その怪我が私のせいだなんて言い触らさないでよ」
「怪我?あ、これは私が勝手に落ちただけ。じゃ、またね」
 そう言って立ち去ろうとしたアンジェリークに、ロザリアは声を掛けた。
「待ちなさいよ。部屋にくらい入れてあげるわ。美味しいクッキー戴いたの。たまには付き合いなさいよ」
 素直にありがとうと言わない所が彼女らしい。そう思っても口には出さなかった。
「ええ。喜んで」