MISTRAL

Holy Night 〜2002〜


 今年も残り少なくなった十二月のある日。
 女王補佐官アンジェリークは、聖殿のクラヴィスの執務室を訪れていた。平日の、しかも執務中にクラヴィスの部屋を訪れるのは滅多にないことらしく、部屋の主も驚いた顔で一瞬言葉を失ってしまっていた。
「…どうかしたのか?女王補佐官殿。珍しいな」
 タロットカードをめくっていた手を休め、穏やかに微笑する。
「こんにちわ、クラヴィス。あの、ちょっとプライベートな事でお話が…」
 戸口で、言いにくそうにしてる少女は、女王候補時代と変わらなくて微笑ましい。変わったのは、髪が伸びたこと位か…。
 クラヴィスは立ち上がって、まだ戸口でもじもじしているアンジェリークの側に歩み寄った。
「…では、奥へ。アンジェリーク…」
 柔らかな金色の髪を指で掬い、キスをする様に耳許で囁く。吐息が髪に絡まっている様にくすぐったくて、心地好くて…。アンジェリークは、見る間に赤面していく。
「もうっ…」
『ここでそんなことしないで下さいっ!』
 眼で反抗してるのが可愛くて、クラヴィスは思わず少女を両手で抱き上げた。
「…奥でなら構わぬのだろう?」
 そう言って、カーテンで仕切られた奥の間へと進む。
 ギシッ。
 降ろされたのは、大きめのソファだった。肌触りのよい紺のベルベットのカバーが掛けてある。
「…執務中はダメですっ」
「その執務中に、プライベートな用件で来たのでは無いのか?」
 こういう時のクラヴィスは意地悪だ。どうやったら反論出来ないかを知っている。
「…キスだけですよ?」
「…わかっている」
 アンジェリークの右側に座り、そっとその右頬に手を添える。柔らかな肌、濡れたような唇…。
 軽いキスで敏感に反応し、潤むような瞳でじっと見つめる。誘われているような錯覚、もっと触れていたい衝動…。
 クラヴィスは少女の顎に手を掛け、上向かせると再び口付けた。長い長いキス…。
「……っ」
 キスから解放された少女が、上気した頬で口元を押さえて俯いた。
「!」
 少女の仕草で自分のした事に気付き、目を見開く。
「…すまなかった」
 さすがにやり過ぎたと思ったらしく、視線を外す。こんなキスの後で私邸に誘ったら、たぶん断れないだろう…。
 クラヴィスは前髪を掻き上げて立ち上がると、アンジェリークの正面のソファに腰を下ろした。
「何か話があるのであろう?」
 俯いていた少女が、頬を染めたまま顔を上げ、平静を保とうと努力している姿が健気だ。
「あ、はい。えっと。今月の二十四日なんですが、夜にプラネタリウムに連れて行っていただけないかと思って…」
「…夜?その日は今年、平日ではなかったか?平日の夜に会うのを嫌がるお前が珍しいな」
 ソファの肘に頬杖を付いて、珍しい提案をする恋人をじっと見つめる。
「…それは、クラヴィス様がいつもお泊まりをさせようとするからです!でも、二十四日は特別。あの日、クラシックやオルゴール曲などのヒーリング系音楽を流しながらの星空鑑賞なんですよ?しかも普通は一時間なのにあの日は二時間も!で、出来ればクラヴィス様と一緒に過ごせたらなって思って…」
 ロマンチックな夜を二人で過ごしたい。そんな乙女の夢…。
「…そうだな。わかった。ただ、私は観客席には立ち入れない規則なので、客席横の私室になるが…良いのか?」
 守護聖は危険回避の為、あまり人混みや暗闇に行ってはいけない事になっている。特に、一般の人が行き交う場所では。
「はい。勿論です。良かったー。それじゃ、楽しみにしてます。待ち合わせは、プラネタリウムの前で6時半ね」
 笑顔で立ち上がって、嬉しそうに部屋を出て行く少女を見送ったクラヴィスはホッと息をついた。
「…あんな顔をするようになるとは」
 軽いキスだけのつもりだったのに、誘われるようにその先を求めていた。彼女は少女から大人へと変わろうとしている。自然な事ではあるが、自分がその速度を早めてるのではないかと不安になる。
「…難しいな。あの年頃の少女は…」

 一方、クラヴィスの部屋を出たアンジェリークは、まだ戸に背を預けたまま動けないでいた。
 努めて平静を装っていたが、聖殿内であんなキスをされて、まともに立っていられないくらい心臓がドキドキしている。
 誰か来るかもしれないという緊張感。
 優しいキスから、触れ合ってる場所にしか意識を集中出来ない程の激しいキス。
 彼の求めに応えなければ解放されない程長いキスに、身体が熱くなっていた。もしあのまま先までいってたら…。
「…クラヴィス様の意地悪」
 やっぱり執務中にプライベートで会うのは避けよう!
 そう心に誓うアンジェリークだった。



 十二月二十四日。
 今日の執務を終えたアンジェリークは、早速着替えて不思議の国『pays de merveilles(ペイ・ド・メルヴェイユ)』内にあるプラネタリウム”星月夜『nuit etoilee』(ニュイ・エトワレ)”の前に立った。
 実は、約束をした事は覚えているのだが、時間を正確に覚えていない。投影が7時からなので、たぶんそれよりも早いはずなのだが…。
「…もう、クラヴィス様が意地悪するからよ」
 平静を保とうと努力していたが、緊張してしまって肝心な事を覚えていないなんて…。
「こうなったら、早めに行って待っておかないと!」
 片手で握り拳を作って、自分に言い聞かせる。
「…早いな」
 どこから見ていたのか、今現れたのにしては意味深な笑顔で闇の守護聖は立っていた。長身の彼は、どんな人混みからでもわかるはずなのに何故気付かなかったのだろう…。
「こんばんは、クラヴィス様」
 真っ白なファー付きコートを着た少女は、白ウサギのようだ。翠の愛くるしい瞳をパチクリさせて満面の笑みを見せる姿に安心感を覚える。
 ポンッ。
 クラヴィスは、アンジェリークの頭に手を乗せた。
「行くぞ」
「はい」

 プラネタリウム内にあるクラヴィスの私室へは、玄関からちょうど裏手の方から入る。
「あの。クラヴィス様?なんで私より後から聖殿を出られたのに先に着いていらっしゃったんですか?」
「…ああ」
 暗い道を気遣うように振り向いて、手を差し伸べる彼がフッと微笑んだ。
「先日、私の邸から直通の乗り物を作らせたからな。閉園中でも、来なければならぬ時がある」
「えっ?それはズルいですーっ!」
 ”せっかく早く着いたのにー”と顔に書いてある様で面白い。掴んでいた手を引っ張り、バランスを崩した少女を抱き留めると、その耳許にそっと囁く。
「…またいずれ…な」
 それだけで真っ赤になってしまう初々しさが可愛い。くすぐったそうにしている顔をクイッと上に向けて口付ける。
「はい、クラヴィス様」
 アンジェリークは金の髪を揺らして照れ笑いをする。優しく微笑み返したクラヴィスは、自分の私室のドアの上部にあるレンズを見上げた。
 カチャリ。
 ドアのロックが解除され、ドアが開く。
「…相変わらず、物が殆ど無い部屋ですねー」
 アンジェリークはスタスタと室内に入って行き、ソファに腰掛けた。ローテーブルの上のスイッチパネルを色々試してみる。
 部屋の電気が付いたり消えたり、投影用の音楽が聞こえたり聞こえなかったりと、室内の様子は慌ただしく変わる。
「…あんまり触らぬ方が良いぞ。自爆ボタンがある」
「え?」
 一瞬パネルに触れる手が止まる。
 アンジェリークが固まった様に動かなくなるのをみて、クラヴィスは楽しそうに声を立てて笑った。
「…クックッ。冗談だ。たとえそんなスイッチがあったとしても、すぐ手の届く所にはあるまい」
「…んもう、ビックリするじゃないですか!」
「お前が、コートも脱がずに遊んでいるからだ。飲み物くらいはあるが、どうするのだ?」
「頂きます!」
 アンジェリークは、コートを脱いで飲み物の用意をした。彼はコーヒーで自分はミルクティー。
「あれ?クラヴィス様って、ミルクティー飲まれませんよね?なんでここに…」
「今日の為に用意させておいたのだが?」
 意地悪な事をするが、さりげなく気遣ってくれる。そんな優しさが、本当に嬉しい。
 トレーに暖かい飲み物を乗せて、ローテーブルの上に置く。ソファでは、クラヴィスがスイッチを操作して、会場と同じ音声を流している。
「お待たせしました」
 ソーサーごとテーブルに置いていると、彼の視線を感じる。
「?」
 不思議に思って振り向くと、彼はアンジェリークの着ているワンピースに見入っていた。
「面白い色だな」
「あ、そう思われます?」
 アンジェリークは、自分の服に関心を持って貰ったのが嬉しくて、その場でゆっくりと回転して見せる。ノースリーブのワンピースだが、肩の部分は真っ白で裾は赤。白から赤へのグラデーションを自然につけてある。
「靴は赤にしたんですよ。クリスマスイブなんで、今日は赤にしてみましたー」
 ストンとクラヴィスの隣りに座って微笑む。
「クリスマスイブ?」
 一瞬、きょとんとした顔をする彼にアンジェリークも不思議な顔をする。
「あれ?言いませんでした?今日は、ある惑星で”クリスマスイブ”っていう聖なる夜なんですよ?だからこのテーマパークも、あちこちでイベントをやってるんです。楽しい風習って、みんなでやるともっと楽しいでしょ?」
「…クリスマス…か。聞いた事があるな。確か、聖人が産まれた日とか…」
「そう!さすがクラヴィス様!ほんとは、クリスマスパーティーとか色々盛大にやりたかったんですけど、騒がしいのお嫌いでしょ?だから今回は二人きりで…」
 無邪気にはしゃぐ恋人の肩を抱き寄せて、クラヴィスは部屋の照明を落とした。
「…もうすぐ始まる様だ」
 僅かな明りの中に、クラヴィスの美しい顔が見える。投影が始まるまでの数分間、ただじっと見つめていたくて、眼を離す事が出来なかった。
「?」
 気付いた彼が、眼で問い掛ける。
「何でもないです」
 明りが更に落ち、辺りが闇に溶けるのと、星が見え始めるのとは同時だった。

 始まりは聖なる鐘の音…。
 森の教会で聖歌を聞いている様な、心が洗われる美しい曲…。
 波に揺られて、母の胎内にいる様な安心感を覚える曲…。
 聴いているだけで涙が出そうな程切ない旋律の曲…。
 どの曲も、心に響く、透明感のある曲だ。
 アンジェリークは、クラヴィスの手に触れていたくて、そっと手を伸ばした。組んだ膝の上にあった手は、ほんのり冷たい。
 彼の手に自分の手を重ねようとした瞬間、逆に彼に手を握られて、そのまま膝の上に戻された。
『え?え?え?手が彼の膝に乗ってるーっ』
 アンジェリークは、星を見るどころか、曲を聴く余裕も無くなっていた。さっきまで冷たいと思っていた彼の手も、握られてみると温かい。
 ドキドキしているのが、手から伝わっているのではないだろうか…。
『ど、どうしよう…』
 どうしたらいいのかわからなくて、身動き出来ないままの少女に気付き、クラヴィスは彼女の頬にそっと唇を寄せた。
「…力を抜くといい。息が出来なくなる」
『そんなこと言われても、緊張しちゃってるんですってばー』
 いつまでも身動きしないアンジェリークに、クラヴィスは握っていた手を離して両手で抱き締めた。
「私の呼吸が分かるか?ゆっくり息をしろ」
 少女は頷いて、静かに息を吐いた。彼の腕の中は、ドキドキするけど安心出来る。
「…すみません、大丈夫です」
 クラヴィスは、左手をアンジェリークの背中に回し、もう片方は頭を包み込むようにして引き寄せた。
「…どうした?私に触れるのは初めてではなかろう?」
 落ち着いた声が背中から聞こえる。声帯からの振動で抱き締められている胸も震え、身体全体で彼の声を感じる。
「心の準備がいるんです〜」
 照れ隠しにそう言って、彼を押し戻す。クラヴィスが解かれた手をテーブルのパネルに乗せると、部屋が淡いブルーの明りに包まれた。
 月灯りを思わせる神秘的な照明…。
「?」
 仄かに明るくなったのに気付いた少女が驚いて見上げる。
「では…」
 クラヴィスの手が頬に触れ、美しい瞳が近付いて来る。触れるだけのキス…。
「…ゆっくり準備をするといい。夜は長い…」


「…コーヒー冷めちゃいましたね」
 リクライニング仕様になっている大きなソファの上で横になったまま、アンジェリークは恥ずかしそうに微笑んだ。
 プラネタリウムの投影はとうの昔に終わり、静かな曲だけが流れている。
「…飲みたいのか?」
「…喉、渇いちゃって」
 俯く少女の頭に手を乗せると、クラヴィスはワイシャツを手に取り立ち上がった。
 コーヒーと紅茶を持って戻って来ると、少女はソファに掛けてあったファー素材のカバーにくるまって座っていた。リクライニングを完全に倒して、ベッドのようになっているソファの上にちょこんと座る姿は小動物のように愛らしい。
「…今度は黒ウサギか?」
 クスッと笑ってカップをテーブルの上に置く。
「このカバー、肌触りが良くて気持ち良いですねー」
 膝を抱えて足の先までくるまり、膝の上に頬を乗せる。
「…私と、どちらが良い?」
 覗き込むようにして問い掛けるクラヴィスは、意地悪く笑う。
「知りませんっ!」
 拗ねる様子が可愛くて、ファーカバーごと抱き締めた。
「また冷めるぞ」
「それはクラヴィス様が…」
 勢い良く振り向いて、バランスを崩したアンジェリークは、抱き締められたままソファベッドに倒れ込んだ。スプリングで弾み、白い肩が露になる。
 覆い被さるように倒れたクラヴィスと目が合い、慌てて視線を下げた。素肌にワイシャツを着ただけの姿にドキドキする。
「…私は、お前に誘われてるような気がするが…」
 掠れるような声で囁き、白い肩に口付ける。触れただけで、白い肌がほんのり色付く。布に包まれて身動き出来ない少女は、なんて答えれば良いのか分からず頬を染めた。
 ふわっ。
 クラヴィスは金色の前髪の先にだけ触れ、やわらかな微笑をすると、アンジェリークを抱き起こした。
「後にしよう。喉を潤しておかないと、お前の愛らしい声が聴けぬからな」
「クラヴィス様っ!」
 カップを差し出すクラヴィスは、意地悪く見える。でも喉は渇いてるし…。
 仕方なくカップを受け取ろうと右手を出した。
 ハラリ…
 右肩からファーの布が落ちて白い肌が見える。
「キャッ」
 思わず布を引き寄せて胸を隠した。黒いファーと白い肌の対比が美しい。鎖骨にある濃い色の跡は…。
「…聖なる夜は、どんな罪も許されるのであろうか?」
 アンジェリークを眩しそうに見つめて、自分のカップに口を付ける。
「?」
 左手で器用に布を押さえながら、アンジェリークはカップを受け取った。彼が何を言いたいのかよく分からない。
「…私は、まだ求めているようだ。お前を…」
 聖殿でキスした時にも感じていた。もっと深く…。無意識に制御していた感情が、彼女にだけ反応し溢れ出す。
 切ない瞳が、アンジェリークを捉える。
 アンジェリークは、飲み終えたカップをテーブルに置いて微笑んだ。
「…それじゃ、私も罪になりますよ?守護聖様?」
 そう言って、彼の耳元に唇を寄せる。
「…朝まで離さないで下さい」
 見つめ合い、約束代わりのキス…。
 二人だけの聖なる夜は、まだ始まったばかり…。

 Holy Night…
              素敵な夜を…

                    Fin