MISTRAL

ミルク色の午後


 今日は土の曜日。
 ほんとなら私の育成してる大陸、エリューシオンの様子を見に行く日なんだけど…。
「どうしよう…脚、まだ治ってない…」
 アンジェリークは椅子に座って自分の脚をじっと見つめた。
 木から落ちた時に出来た右膝の怪我はまだ完治していない。包帯を巻いてはいるものの、普通に歩くのはちょっと無理のようだ。腕のすり傷はたいしたことないので、薬を塗って絆創膏でも貼ってれば済む。
「…でも行かなきゃ、エリューシオンのみんな心配するわよね」
 よしっ!
 アンジェリークは覚悟を決めて着替える事にした。 腕の怪我は長袖を着て隠せばいいし、脚の怪我は…ロングスカートにでもしようかな。
 クローゼットの中をごそごそやって、本日の服を決めるとパジャマを脱いだ。
 ピンポーン。
「は−い」
 部屋のチャイムの音に反射的に返事したアンジェリークは入って来た人物に慌てた。
「ル、ルヴァ様!」
 アンジェリークは思わず脱いだばかりのパジャマを胸に当てて真っ赤になった。
「あ、あ、アンジェリーク!すっすみませんっ。着替え中だとは思わなくてっ」
 ルヴァの慌て方はアンジェリーク以上で、入った瞬間に後ろを向き、裏返りそうな声で言い訳する。
「あっ、いえ、確かめずに返事した私が悪いんです」
 アンジェリークは慌ててそう言い、着替えを再開した。
「あ、あのーアンジェリーク。今日は土の曜日ですが大陸に行かないのなら私と共に過ごしませんか?」
 ルヴァは後ろ向きのまま問いかけた。
「どうしよう…」
 声に出して呟いて、アンジェリークは困った顔をする。
「ルヴァ様。実は昨日木から落ちた怪我、まだ治ってないんです」
「え?そうなんですか?それはいけません」
 ルヴァは咄嗟に振り向いて着替えが終わってる事に安心し、アンジェリークに歩み寄る。
「見せてください」
 遠慮がちに脚に触れ、ゆっくりと包帯を解く。
「あーこれは痛そうですね。ちょっと待っててください。よ、いしょっ、と」
 ルヴァはそう言うと、ローブのように長い服の中に手を入れて小箱を取り出した。どうやらポケットがあるらしい。
「ルヴァ様、それは?」
「これは、何と言いましょうか…、そう救急箱みたいなものです。以前ゼフェルがよく怪我をしてたので持ってたのですが、今はもう習慣のようなものですね」
 穏やかに微笑んで小箱を開けた。中には塗り薬に包帯、ガーゼなどが入っている。その中からガーゼを取り出してそれに薬を塗る。
「アンジェリーク。この脚では歩かないほうがいいですね。ここで私とお話でもしましょうか?」
「は、はい。ルヴァ様」

 今日は日の曜日。
 昨日はルヴァ様が来て下さったから外出しなかったんだけど、今日は…どうしよう。
 日の曜日は守護聖としての力を休ませる日。九人の守護聖のうちの一人を誘って共に一日を過ごす事も出来る。
「脚…は何とか大丈夫ね。よし、包帯を換えて出掛けようっと」
 さっと着替えを済ませたアンジェリークは、お世話係の人に用意してもらった換えの包帯を手にした。
 椅子に座り、脚を延ばして包帯を巻く。自分の脚に包帯を巻くというのはなかなか難しい。しかもアンジェリークはあまり器用ではなかった…。
「包帯って巻くの難しいのね…」
 巻いてるうちに間接部分に布が集中してしまう。
「もうこれでいいかなー」
 気が済むまで巻くと椅子から立ち上がった。
「かっこ悪いけど、ずれてこないから大丈夫ね」
 アンジェリークは歩こうとして…前にのめった。
「きゃっ」
 アンジェリークは突然真っ暗なものに包まれた。それが人の腕の中だと気付いたのは頭上から声が聞こえたからである。
「部屋のチャイムは鳴らしたのだが…」
 低く落ち着いた声が降ってきて、アンジェリークは思わず跳ね起きて見上げた。そこには床まで付くような長い黒髪のクラヴィスが静かな微笑を湛えていた。
「ク、クラヴィス様っ」
 アンジェリークは包帯を巻くのに必死になっていてチャイムが鳴ったのに気付かなかったようだ。いきなり現れたクラヴィスに驚き、すがってしまっていた手を離して後ろへ下がろうとして…。
「きゃっ」
 今度は後ろへ傾いた。
 クラヴィスはクスリと笑いながらアンジェリークの腕を引く。
「大丈夫か?」
「はっ、はいっ」
 アンジェリークは何度も変な所を見られた為恥ずかしくなって俯いた。
「どうしたのだ。アンジェリーク」
 優しく見下ろしたクラヴィスは、その視線の先に見える包帯に気が付いて、アンジェリークの顔を見つめた。
「脚の怪我、まだ治っていないのか?」
「…はい」
 何故か目を合わせづらくて、俯いたまま答える。
 クラヴィスは無言でアンジェリークの足元に屈み込み、右膝の包帯を見てクスリと笑い声を漏らした。
「…これでは脚が曲がらないだろうな。…よし、私が巻いてやろう」
「え?」
 驚いて顔を上げたと同時に、両腕で抱き抱えられてアンジェリークは慌てた。
「クッ、クラヴィス様っ」
 アンジェリークは真っ赤な顔で見つめるがクラヴィスの方は平然としている。
「そこの椅子でよいか?」
 耳許で聞こえるのはけだるげな甘い声。こんな声で囁かれたら大半の人はドキッとしてしまう。
 アンジェリークもそうだった。
「はっ、はいっ」
 裏返りそうな声でそう答え、軽く握った右手を胸元に置いてじっとしている。心臓のドキドキが聞こえてしまいそうだ。
 ストンと椅子に下ろされ、ほっとしたのも束の間。今度はクラヴィスの細く長い指先が包帯を取る為に脚に触れる。
「あっ、あの、クラヴィス様っ」
 ”自分でやります”と言おうとしたアンジェリークは、顔を上げた彼の物憂げな眼差しに見つめられ、慌てて否定した。
「あっ、いえ、何でもありません」
 脚に触れられるのも恥ずかしいが、あの眼で見つめられるのはもっと恥ずかしい気がする。
 アンジェリークはそう思いながら黙って彼を見下ろした。
 人々に安らぎを与える闇の守護聖クラヴィス。彼は感情を表に出すことをほとんどしない。その為近寄りがたい雰囲気を持っている。何に対しても無関心で無気力なその態度に反感を持つ守護聖もいる。
 アンジェリークも始めは怖かった。しかし何度か彼の執務室に通っている内にとても優しい眼で自分の話を聞いてくれていることに気が付いた。
 木から落ちたと言った時、怒らずに”お前らしい”と笑ったのは彼だった。普通ならまず怪我の心配をするか、説教をするだろう。
 本当に人に無関心なのか、それとも自己尊重してくれているのかは分からない。けれどたんなる守護聖の一人から少し気になる存在になった事は確かだった。
「…もう良いぞ」
 クラヴィスは緩やかに眼差しを上げた。
 金の髪の少女が恥ずかしそうに自分を見ている。
 一瞬、誰かと重なって見える。遠い昔の…。
「クラヴィス様?」
 呼ばれてふと我に返り、立ち上がった。
「…何でもない」
 再び闇のベールに心を隠し、無表情の仮面を被る。
「あの…今日は?」
 アンジェリークが軽く首を傾げ、物問いたげにクラヴィスを見つめる。
「…日の曜日なのでな。誘いに来たのだが…やはりその脚では外出は控えた方が良いな」
 ”どうする?”と眼で語り掛けるクラヴィスにアンジェリークは遠慮がちに答えた。
「あの…ここでお話しませんか?」
「…よかろう」
 月の曜日。
 二日続けて外出しなかったアンジェリークは、自分が育成している大陸、エリューシオンの事が気になった。土、日は力を送れるはずないのだが、金の曜日は力を送ってもらうように頼んだはず…。
「この前やっと千人になったのよね」
 机の上の手帳を見ながらアンジェリークは考える。いつも人数を気にしていないと公園デートの時、守護聖の質問に答えられない。
「大体の人数は判るんだけどな」
 外に出ないことにははっきりした人数が判らない。怪我をしてる為あまり歩かない方がいいということは判っているのだが、いつまでも部屋に閉じこもっている訳にはいかない。
 アンジェリークは守護聖のいる執務室に行こうと思い、手帳を閉じた。
 ピンポーン。
「はーい」
 返事をしながら部屋のドアまで走り寄り、ドアを開ける。
「私だ。今日は私と共に過ごそうか」
「ジュッ、ジュリアス様!」
 扉の向こうに立っていたのは、光に透けて金色に輝く髪を持つ光の守護聖ジュリアスだった。揺るくウェーブのかかったその髪は、胸元の金色の装身具に柔らかく垂れている。
「ちょっ、ちょっとお待ち下さい」
 バタンと一端ドアを閉め、アンジェリークは大慌てで考えた。
 育成をお願いしに行くつもりだったけど、お断りすると悪いし…。だいたい親密度が下がっちゃう。でもこの脚ではジュリアス様についていく自信がない…。
「アンジェリーク。どうしたというのだ」
 ドアの外から少し苛立ち気味のジュリアスの声が聞こえてくる。
「はっ、はいっ」
 高貴な声に威圧感までが加わり、アンジェリークは気圧される。
 これでお断りしたら絶対にまずい…。
 クローゼットに駆け寄り、扉を開けると、ロングスカートを引っ張り出した。歩いても包帯が見えない程度の長さの物だ。さっと着替えを済ませ、鏡で姿をチェックし、ドアを開けた。
「あ、あのっ、お待たせしてすみません。え…と、今日は…?」
「…天気が良いのでな。公園にしよう」
「公園っ!」
 アンジェリークが片手を口元に当てて少し困った顔をする。ジュリアスは不審に思い、その蒼い瞳を細めた。
 公園でデートということは、いくつかの質問に答えなくてはいけないということだ。守護聖の望む答えでないと親密度が上がらない。
「都合が悪いのか?」
 深い空の蒼に囚われて、アンジェリークは咄嗟に答えた。
「あっ、いえ…」
 光の守護聖に真正面から見据えられて、否、と言える者はなかなかいない…。
 日の曜日はたくさんの人が歩いている公園だが、平日はそれ程でもない。だから目立たないかといえばそうではなかった。
「少し歩くことにするぞ」
「はい」
 ジュリアスは先に立って歩き、まっすぐ噴水の方へ進んだ。アンジェリークはジュリアスの後ろ姿に追いすがるようにしてついていく。
 噴水の右側、木陰になっているベンチに仲の良さそうな男女が座っていた。
「ん?ベンチに人が座っているようだな。向こうに行ってみるぞ」
 ジュリアスは少し歩調を緩め、ベンチの近くで立ち止まる。
 ベンチのカップルは目の前に人がいることに気付かないのか、次の日の曜日にピクニックに行く相談などしている。
 ジュリアスは軽く溜め息をついて、アンジェリークを見下ろした。
「あの者たちはいつもベンチにいるようだな。全く暇なことだと思うのだが、お前は二人の事を羨ましいと思うか?」
「…はい」
 アンジェリークは少し遠慮がちに答え、様子を伺うようにちらっと目線を上げた。
「なるほど、そうなのか。まあ、素直に答えたことは評価できるぞ。では神鳥の像の所へ行くぞ」
 ジュリアスはさして気にしたふうもなく、神鳥の像の方向を見る。どうやら第一の質問はクリアしたらしい。アンジェリークは気付かれないようにほっと息を吐き、先に歩き始めたジュリアスの背中を見つめた。 ジュリアスはどこにいても目立つらしく、公園に入ってからずっと人々の視線を集めていた。
 金色に輝く長い髪。一部の隙もない程整った顔。白を基調にした質量のある衣装。金とラピスラズリの装身具。光の守護聖と呼ばれるに相応しいその外見に、孤高な精神。
 人々に近寄りがたいという印象を与えているのを本人は知らない。
「お二人さん、なかなかお似合いですよ」
 神鳥の像の近くにいた男にそう声を掛けられ、ジュリアスは不愉快そうに眉を寄せた。
「二人で散歩しているだけでなぜあのような事を言われるのだ。判らぬな…」
 アンジェリークは照れたように笑い、そっとジュリアスを見つめた。口で言うほど嫌がってはいないようだ。
 神鳥の像の右側でジュリアスは立ち止まった。アンジェリークを振り返り、真正面から見つめる。
「お前は今こうして私と過ごしている。だがお前は女王候補であるのだから様々な守護聖から話を聞く必要があるが…お前が話を聞きたいと思う守護聖はオスカーか?リュミエールか?」
 アンジェリークは間を置かず答えた。
「え…と、オスカー様です」
「ほう…意外とお前は人を見る目があるのだな。話を聞けばお前の為になるだろうな」
 蒼い瞳を細め、僅かに微笑むジュリアスの顔は思っていたよりずっと優しい。アンジェリークは思わずその笑顔に見入ってしまっていた。
「どうした?私の顔がどうかしたか?」
「あっ、いえ…」
 恐い顔しか見たことなかったアンジェリークは動揺して俯いてしまう。
「それでは向こうの丘に行くぞ」
 第二の質問も無事にクリアしたようだ。
 三番目の質問の場所、ときめきの丘では主に大陸の育成について尋かれる。自分やロザリアの育てている大陸の建物の数や人口、そしてロザリアがどの守護聖と仲がよいか、などである。
「それでは…」
 ジュリアスはどこからか手帳を取り出し、広げた。
「女王候補であるお前に尋ねるが、エリューシオンの人口は1040人より多いのか?」
「え…と…」
 アンジェリークは内心パニックに陥っていた。千人になったのは判っているが、正確には判らない。建物は増えてないはずだから百人未満であるのは確かなのだが…。
「…少ない…と思います…」
 自信なさそうに答えるアンジェリークを見下ろし、ジュリアスは手帳を閉じた。
「…話にならんな。答えは1042人。女王候補ともあろう者がその位も判らないのか」
 不機嫌そうに見つめられ、アンジェリークは泣きそうな顔で俯く。
「…すみません…」
「その程度の意識しかないのなら私もエリューシオンなど気にする必要はないな。今日はもう帰るぞ」
 さっと踵を返し、アンジェリークの方を見もせずにジュリアスは歩き去る。
「ジュ、ジュリアス様っ」
 アンジェリークは慌てて後を追いかけたが、通常でも早いジュリアスの足は更にスピードを増していて、なかなか追い付けない。おまけに我慢していた脚の痛みも限界で走るのは無理のようだった。
「きゃっ」
 軽い悲鳴を上げてとうとう転けてしまった。芝生の上に座り込んで捻ったらしい右足首をさすっている。 ジュリアスはアンジェリークの悲鳴に振り向き、呆れたように溜め息をついた。
「…何をしているのだ、お前は。落ち着きがないのは女王候補として失格だぞ」
 きつい口調で言うが、心配なのかアンジェリークの元に引き返して来た。
「…足を捻ったのか?」
 アンジェリークの側に屈み込んだジュリアスは、膝の白い物に気が付いた。
「その膝は?」
「なっ、何でもありません」
 慌ててスカートを引っ張って隠そうとしたが、その前にジュリアスの高貴な指先が包帯に触れていた。
「この怪我は今日の物ではないな。暫く外出しなかったのなら人数が判らないのも無理はない」
 アンジェリークはなんと答えていいのか分からなくて、ただ足をさすっている。
「…痛むのか?」
「…少し」
 アンジェリークは何とか立とうと芝生に手をつき、左膝を曲げて力を込めた。
「…っ」
 アンジェリークの愛らしい顔が苦痛に歪む。澄んだエメラルド色の瞳に涙がにじんでいた。
「…歩けないなら何故そう言わないのだ。私が恐いのか?」
 いきなり本当のことを言われてアンジェリークは心臓が止まりそうなほど驚いた。
「あっ、いえ…」
 俯いてしまったアンジェリークの肩に、ジュリアスは困ったように触れる。
 瞬間、アンジェリークの肩がビクッと振るえた。明らかに怯えている。
「…恐がらないでくれないか。私は…その、お前の悲しい顔は見たくないのでな」
 ジュリアスにしては珍しく動揺している。アンジェリークは恐る恐る顔を上げた。
「部屋まで送ろう」
 口元に微笑を浮かべたジュリアスは、いつもの厳しい顔からは想像出来ない程穏やかな顔でアンジェリークを見つめていた。
「はっ、はい」
 自力で立とうと腰を上げた瞬間、アンジェリークはふわっと浮遊感に包まれた。
「歩くのは無理であろう」
「えっ、ジュッ、ジュリアス様っ」
 ジュリアスはサッとアンジェリークを抱き抱えた。 突然目線がいつもより十センチ以上も上がってしまい、思いきり目立つ光の守護聖の腕の中にいて、アンジェリークの顔は見る間に真っ赤になった。
「あっ、あの、降ろして下さい。みんな見てます…」
 アンジェリークは周りの人達の視線を気にして俯いてしまう。ジュリアスはクスリと笑い、優しい瞳を向けた。
「お前が気にすることはない。それより身体には気を付けたほうがよいぞ。皆が心配する」
 温かい言葉を掛けられて思わず見上げたアンジェリークは、ジュリアスの瞳が優しい色をしているのを見て、安心したように微笑んだ。
「はい。ジュリアス様」

「あーあ、やーっと今日も終わりだね。ルヴァの所でお茶でも御馳走になって帰ろうかしら」
 夢の守護聖オリヴィエは、赤のメッシュの入った前髪を掻き上げた。全体的に緩くウェーブのかかった金髪に赤のメッシュはかなり目立つ。衣裳も紫を基調にした華美な物で、黒い羽のショールを羽織っている。炎の守護聖オスカーには、その派手な衣裳のせいか”極楽鳥”と呼ばれていた。
 オリヴィエは執務室から出ると、廊下の窓から空を見上げた。
「夕焼けがきれいだねーっと、あら?あれはジュリアスじゃないのさ」
 オリヴィエは驚いた顔で聖殿に続く小径を見下ろした。ジュリアスがアンジェリークを抱き抱えて歩いている。
「目立つわねー、道行く人みんな振り返ってるじゃないの」
 全く何考えてるんだか…。
 オリヴィエは呆れたように二人を見る。
 アンジェリークを気に入っている守護聖は多い。特に光と相対する守護聖は…。
「あっ、あれはジュリアス様じゃないかっ」
 突然横で大声を上げられて、オリヴィエは不愉快そうな顔でその方向を見た。そこには赤い髪にアイスブルーの瞳をした炎の守護聖オスカーがいた。
「横ででかい声出してんじゃないよ、オスカー」
 言われてふと横に気付いたオスカーは、夢の守護聖を見下ろした。
「よお、極楽鳥。ジュリアス様がお嬢ちゃんを抱き抱えて歩いてくる様だが、何があったんだ?」
「そんな事あたしが知る訳ないでしょ。とっとと行って本人に尋けば?」
 オリヴィエは嫌味っぽく言い、さっさと行けとでもいうように手をひらひらと振る。
「ああ、判ったよ。邪魔したな」
 言うが早いか、さっと踵を返して走り去る。
 後にはオスカーの青いマントが起こした風だけが静かに残った。
 その様子を茫然と見ていたオリヴィエは軽く溜め息をついた。
「やれやれ…」


「ジュリアス様!」
 聖殿の前に着くと同時にオスカーが走り出てきて、ジュリアスは面喰らった。腕の中のアンジェリークはどうしたらいいのか判らないのか、ただ赤くなって俯いている。
「ちょうど良い、オスカー。ドアを開けてくれ」
 ジュリアスはすぐにいつもの厳しい顔付きになり、オスカーにそう告げる。
「はい。ジュリアス様」
 軽く頭を下げ、装丁の美しい扉の前に立つと、オスカーはゆっくりと扉を開けた。ジュリアス達が中へ入ったのを確認して自分も中に入る。
「ジュリアス様。アンジェリークは…?」
 オスカーが不思議そうにアンジェリークとジュリアスの顔を見比べている。
「ああ。アンジェリークが怪我をしたのでな。部屋へ送るつもりだったのだが、手当が先だと思ったのだ。悪いがルヴァを呼んでくれ」
「はい。かしこまりました」


 アンジェリークはホールのソファに座らされて、手当を受けていた。
 炎の守護聖と光の守護聖に見守られながらの手当はどこか居心地が悪い。二人の視線は自然と自分の足元にいくからだ。
「冷たいっ」
 アンジェリークが可愛らしい声を上げたので、ルヴァは思わず貼っていた湿布を剥がしてしまった。
「すっ、すみません。でも捻挫は始め冷やさないといけないんですよ。冷たいですが我慢してくださいね」
 そう言いながら恐る恐る湿布を貼る。包帯を巻き始めたルヴァの後ろで、音もさせず光の守護聖が席を立った。
「…私はまだ仕事が残っているのでこれで失礼する。ルヴァ。後は頼んだぞ。それからオスカー」
 ジュリアスは振り向いて、自分の側に座っていたオスカーを見た。
「手当が終わったら、部屋まで送ってやってくれ」
「はい。ジュリアス様」
 光の守護聖は二人にアンジェリークを託すと、優雅に身を翻して歩み去った。
「出来ましたよ、アンジェリーク」
 穏やかに微笑むルヴァと視線が合い、アンジェリークは少し微笑む。
「すみません。ルヴァ様」
「いいえ。でも本当に気を付けて下さいね。暫くは外出禁止ですよ」
 アンジェリークは叱られた小犬のようにしゅんとなって答えた。
「…はい」



「クラヴィス様、入ってもよろしいですか?」
 軽いノックの後、水の守護聖リュミエールはクラヴィスの執務室へと声を掛けた。
「…ああ」
 短く静かな答えを聞いて、リュミエールはゆっくりと扉を開ける。
「何のようだ?」
 クラヴィスはその紫色の瞳を、入って来た水の守護聖へと向ける。
 闇の中に柔らかな風が入ってきたような優しい印象を与えるこの守護聖を、クラヴィスは嫌いではなかった。
 リュミーエルは静かに微笑んで、手に持った小箱を見せる。
「美味しいアプリコットティーを戴きましたので、御一緒にいかがかと…」
 軽く顔を傾けたリュミエールの頬に水色の髪がそっとかかる。澄んだ湖の色をした瞳は、聖母のような雰囲気さえ醸し出す。
「…そうだな。貰おうか」
「はい。クラヴィス様」
 箱をティーテーブルの上に乗せ、部屋の隅からティーセットを出してくるリュミエールを見ながら、クラヴィスはふと気になる事を尋ねた。
「何やら外が騒がしかったが、何かあったのか?」
 リュミエールはどう答えればよいのか少し迷い、差し障りのないように答えた。
「…アンジェリークが…その…怪我をしたとか。どうやらジュリアス様と公園に行っていた様なのですが」
「ジュリアスと…」
 一瞬不快そうに眉を寄せ、何か考える仕草をする。 あの脚でか…。
 アンジェリークの事だから、怪我を隠して付き合ったのだろう。その必死な姿が目に浮かぶようだ。
 クラヴィスは溜め息のような笑いを零した。
「…ジュリアスは足が速いからな」
 ぼそりと呟く声は小さく、リュミエールの元には届かなかった。
「クラヴィス様?」
「いや、何でもない」
 闇の守護聖は静かに目を伏せ、部屋に漂うアプリコットティーの香りに身を委ねた。


「オスカー様、送って頂いて有難うございました」
 アンジェリークの元気な声に、オスカーは輝くような笑顔を見せる。
「こちらこそ。お嬢ちゃんのお役に立てて嬉しいよ。脚が治ったら、俺とデートしような」
 軽くウインクして見せて、オスカーはアンジェリークの部屋を出ていった。
「…オスカー様ったら…」
 アンジェリークはクスッと笑って、オスカーの出て行った扉を見つめる。
 炎の守護聖はナンパが趣味と公言するだけあって、女の子の扱いには長けている。当然話題も豊富で飽きさせない。姫に仕える騎士のようなイメージを持つこの守護聖に好意を持つ女性は多い。
「…暫く外出禁止…って言われちゃった…」
 アンジェリークは聖殿を出る時に渡された替えの湿布と包帯を見た。数えると、優に三日分はある。思わず溜め息をついて、ベッドに座る。
 ピンポーン。
 突然部屋のチャイムが鳴り、アンジェリークは驚いた。人が尋ねてくるにはかなり遅い時間だ。
「はい」
 立つのは辛いと思い、返事だけして部屋の入口を見る。
「遅かったのね。アンジェリーク」
 開いた扉の向こうに立っていたのは、もう一人の女王候補ロザリアだった。縦巻きカールの青い髪は上品に胸元に垂れ、レースで出来た襟はその細い首をより繊細に見せている。
「ロザリア。どうしたの?こんな時間に…」
 アンジェリークはきょとんとした顔でロザリアを見る。
「まあ、随分な言いようね。美味しいミルクを取り寄せたから、一緒にロイヤルミルクティーでもどうかと思ってお昼から待ってたのに」
 そう言ってロザリアは扉の外をちらりと見る。どうやらワゴンか何かに準備して来てるらしい。
「え…と、御面なさい。どうぞ、入って」
 アンジェリークは手伝おうと、ベッドを降りた。
「…痛っ」
「…手伝う必要は無いわ。あんたはおとなしく座ってなさい」
 ロザリアはどうやらアンジェリークの脚を気にしてるらしい。
「ありがとう」
 アンジェリークが嬉しそうに笑うと、ロザリアは照れたようにそっぽを向いた。
「礼ならこの子に言うといいわ」
 ロザリアは廊下の端にいた白い子猫を抱き上げた。
「ミャー?」
 子猫は不思議そうにロザリアの顔を見る。
「あっ、子猫ちゃん」
 アンジェリークは弾むような声を出した。膝の怪我は、この猫を木から下ろすのに失敗した為だったのだが、そんなことはどうでも良いことだった
「変な名前で呼ばないでよ。ちゃんとカトリーヌっていう名前があるんだから」
「御面なさい。カトリーヌ、元気になった?」
 アンジェリークの明るい笑顔に負けないように、ロザリアは上品に微笑む。
「おかげさまで。好物のミルク飲める位にね」
「えっ、じゃあ美味しいミルクって…」
「そうよ。カトリーヌの一番好きなミルク」
 ミャー
 そうだよとでも言いたげなカトリーヌの声が何とも愛らしい。

 こうして始まった二人と一匹のお茶会は夜半過ぎまで続けられた。
 次の日、二人とも寝坊してしまったのは言うまでもない…。