第三章 前
二日後、森の湖の結界を強化した守護聖たちは、聖殿の小ホールに結集していた。森の湖から聖殿までの道程、私語をする者はいなかった。いつもなら騒ぎ立て反抗を示すゼフェルさえ、事の重大さを感じているのか、おとなしくしている。
「皆も感じていると思うが…」
その沈黙を破ったのは、守護聖の首座にある光の守護聖ジュリアスだった。厳しい表情を崩さず、蒼い瞳で他の守護聖を見回す。
「この度の件は宇宙の崩壊の兆しと考えねばならん。口にしてはならぬことだが、敢えて言う。陛下の御力が弱まっている。女王試験は次期女王を決定する為の重大なものである。それをもう一度よく自覚して欲しい。残された時間はそう長くない。自分の責務を果たし、女王候補がより良い女王になれるよう最善を尽くして欲しい。以上だ。それぞれ執務室に戻ってくれ」
そう言い、ゆっくりと守護聖たちに背を向けた。荘厳な態度で隙を見せない。その態度はいつもと変わらない。
衣擦れの音、高い靴音が響き、扉が閉ざされた。静まり返った室内でジュリアスは、やっとひと息つく。
「ジュリアス。不安という文字が顔に書いてある」
落ち着いた声が背後から聞こえ、ジュリアスは明らかに動揺した。自分以外の守護聖全てが退室したと思っていたのだ。しかし、いるのかいないのか判らない静かな守護聖はまだ在室していたのである。
「どういう意味だ?クラヴィス」
ジュリアスは厳しい表情の仮面を被り振り向いた。
「そのままの意味だ。今の陛下が即位された時も前の陛下の御力が弱まった為…。毎回それでは身がもたぬぞ」
闇の守護聖は虚無の瞳に光の守護聖を映す。光を受けてもなお変わらぬ瞳はどこまで深いのか…。
「そなたに心配される覚えはない!」
ジュリアスは眉を吊り上げて激昂した。
「…心配…か。そうかもしれぬ。結界の強化で一番サクリアを使うのはお前だからな。いつの時代も魔を退けるのは光。今お前が倒れる訳にはいかぬのだ。今日は早く屋敷に帰ったらどうだ?」
クラヴィスはジュリアスの激昂にも眉一つ動かさず微笑した。いつものことで慣れてるらしい。
「…そなたに優しい言葉を掛けられるとはな」
自嘲気味にフッと笑みを零したジュリアスは毅然と顔を上げた。
「私は大丈夫だ。それよりこれから聖地の陛下にこの度の件を報告に行かなくてはならぬ。そなたもついて参れ」
「…わかった」
聖地。常に穏やかな季節を保ち、外界から隔絶された世界。邪なるものを近付けぬためか結界が張ってあり、女王の許可なくしては入ることが出来ない。
謁見の間に通された二人の守護聖は無言で女王とその補佐官の訪れるのを待った。
「ジュリアス、クラヴィス。お待たせしました。何か報告があるそうですね。謹んで陛下に申し上げるように」
女王補佐官ディアがその紅色の瞳で微笑する。
「…この度、飛空都市の森にて捕獲した動物の調査報告を致します。ネコ科の動物と思われますが、猫より身体も大きく獰猛性がある。しかし豹というにはまだ幼いようだということです。瞳の色は緑と赤のオッドアイ。森の結界が破れていたのに気付かずに迷い込んだ猫が突然変異したものと推定されます。結界の修復には守護聖全員が当り、完了いたしました」
ジュリアスはルヴァから渡された調査報告書を読み上げ、一礼した。
「…そうですか。ごくろうでした」
女王は気品のある声で静かに答えた。しかし、前で組んでいた指先が僅かに震えている。横に立つディアが哀しそうに眼を細めた。それに気付いたのか、ジュリアスが少し言い憎そうに口を開いた。
「…恐れながら陛下。少し休息を取られてはいかがでしょうか。陛下が御休息されてる間くらいなら我々九人の守護聖で何とかなります」
女王は口元に僅かに笑みを浮かべた。
「…ありがとう、ジュリアス。私なら大丈夫。それよりも早く次期女王を決めなくてはなりません。あなたはどちらの候補を女王にと考えているか聞かせて下さい」
「…私は…ロザリアの方が女王に相応しいのではないかと考えます。安定した大陸の育成。幼い頃から女王になる為に受けてきた教育というものが今、役立っているようです」
「そうですか。クラヴィスはどうですか?」
「…私は…」
クラヴィスは台座に座る女王を見上げた。ベールに隠された金の髪を思い、眼を細める。
いつも明るい声で笑い、周りの者まで暖かく包み込むあの笑顔。自分に怪我を負わせた獣に聖母のような優しさを見せる少女。彼女こそ女王に相応しいのかもしれない。金の髪の女王候補…。
「そうだな。今回は優劣をつけることができない」
口をついて出てきた言葉に驚き、クラヴィスはハッと眼を見開いた。
(私はあの少女に女王になって欲しくないのか…?)
「…わかりました。定期審査にはまだ日があります。それまでに己が信じる女王を決めておくように」
クラヴィスは静かに目を閉じて、一礼した。
「…御意」
聖殿の自分の執務室に戻ったクラヴィスは、謁見の間での自分の言葉の意味を考えていた。自分はアンジェリークこそ女王に相応しいと思っているはずだ。それなのにあの答えは…。
「…私は同じ過ちを繰り返そうとしているのか?」
その問いに水晶玉は答えない。
クラヴィスは苦笑して水晶玉から眼を外した。水晶の左側に置かれている赤いリボンに自然と眼がいく。 黒豹の脚に巻かれていたリボンだ。獣の血液はもう残っていないが、返すわけにもいかず保管してある。
そっと手に取り握り締めた。アンジェリークの明るい笑顔、悲しみに沈んだ顔、泣き顔が次から次へと脳裏をよぎる。陛下の顔ではなく、アンジェリーク・リモージュの顔…。
「…私はこんなにもあの少女を見つめていたのか…」
常に無関心を通していた為、自分の気持ちにも疎くなっていたのか。それとも自己防衛の為に気付かぬフリをしていたのか…。
ノックの音でクラヴィスは、ふと顔を上げた。開いた扉の向こうから儚なげな美しさを持つ水の守護聖がハープを手にして立っていた。
「クラヴィス様。入ってもよろしいですか?」
「リュミエールか。どうした?」
握っていたリボンを机の上に戻し、戸口に立つ守護聖に目を遣る。
「はい。聖地からお戻りになってから様子が変だとジュリアス様がおっしゃるものですから…」
「ジュリアスが?珍しいこともあるものだ」
自分に関心などないと思っていたのだが…あれでも気を遣ってるらしい。
「何か気掛かりなことでもあるのですか?」
心から心配そうな顔をするリュミエールに、クラヴィスはいつもの微笑を返した。
「気掛かり…か。そうだな。次期女王を早く決めねばならぬと言われてな。お前はどちらの候補を選ぶ?」
じっと探るような眼で見るクラヴィスに臆すること無く、柔らかな笑顔を見せる。
「私は…アンジェリークの方を選びます。大陸の育成は確かにロザリアの方が優れていると思います。しかし、アンジェリークのあの優しさは天性のものです。きっと全ての星の人々を愛し、守ってくれると信じます」
「…そうか」
クラヴィスは複雑な思いを無表情の仮面で覆った。その心の内は、共にいることの多いリュミエールでさえ伺い知ることが出来ない。
「…クラヴィス様、そのリボンはアンジェリークの物ですか?」
フッとクラヴィスから眼を外して最初に目に留まったのは、赤いリボンだった。
「…ああ。怪我した獣の包帯代わりにしてくれと置いて行った。一度汚れたのでな。返す訳にはいかず、私が持っている」
「そのようなことがあったのですか…。あの少女の優しさには敬服します」
リュミエールは本当に嬉しそうに微笑む。
その笑みにつられたように微笑したクラヴィスは、ふと思いついたことを口にした。
「代わりのリボンを用意してやろうと思うのだが…。リュミエール。売っているところを知らぬか?」
「それは良いことですね。でもリボンのことなら私よりも、マルセルの方が詳しいと思いますよ」
「…マルセル…か。そうだな」
闇の守護聖はゆっくりと席を立った。
軽いノックの音で、手に留まっていた青い小鳥が驚いたように羽を羽ばたかせた。
「大丈夫だよ、チュピ」
優しく小鳥に笑いかけて、緑の守護聖マルセルは扉に向かって声を掛けた。
「はい。どうぞ」
いつも女王候補が尋ねてくる時間だ。今日はどちらの少女だろう。
マルセルは自分と同じ位の背の位置に人の顔を捜した。
「…突然すまぬが、時間は空いておるか?」
人の顔が見えるべき位置には闇色の衣。顔ははるか上のほうにあった。
「ク、クラヴィス様!」
ピチチチチッ。
マルセルが慌てて立ち上がり、チュピは弾かれるように飛び上がった。
「あっ、痛っ!」
慌てたマルセルは、膝を机の角にぶつけてしまったようだ。膝を押さえて座り込み、涙を堪えている。
闇の守護聖は茫然と成り行きを見守り、クスリと笑った。すっと音もさせずマルセルの元に歩み寄ると、屈み込む。
「…驚かせてしまったようだな。すまなかった。どこをぶつけた?」
優しい言葉を掛けられたマルセルはきょとんとしてクラヴィスを見たが、失礼だと思ったのかすぐに膝に目を戻した。
「ここか?」
長く整った指先がマルセルの膝に触れる。空気が僅かに揺れ、暖かくなった。
「…あれ?もう痛くない。クラヴィス様、何をされたんですか?」
マルセルが驚いてクラヴィスを覗き込む。
「私のサクリアは安らぎを司る。言わば…そうだな。麻酔の様なものだ。だが、手当はきちんとした方が良いぞ」
今まで見たこともない優しい笑顔で言われて、マルセルは嬉しそうに答えた。
「はい!クラヴィス様。有難うございます」
立ち上がって机の引き出しから救急箱を取り出す。
「包帯…じゃなくて、消毒液じゃ無くて…」
ごそごそやっているのをただじっと見ているクラヴィスに、マルセルはハッと気付いた。
「あっ、すみません。クラヴィス様。何か僕に御用だったんですよね?」
「…まあ…な。たいした用ではないのだが…少し買物につきあって貰えぬかと思ってな」
「買物…ですか?」
マルセルは意外そうな顔をしてクラヴィスを見つめた。闇の守護聖が外出するというだけでも何事かと噂になるというのに、買物…?
「先日、怪我をした獣が脚に巻いていた物を覚えているか?」
「はい。確か赤くなった包帯…」
「あれは、アンジェリークのリボンだ。まさか一度汚れた物を身に着ける訳にもいくまい。それで代わりの物を探しているのだが…」
「アンジェリークにリボンを?それなら僕、可愛いリボンを売ってるお店知ってます!」
マルセルはここぞとばかりに力説する。役に立てることが嬉しいらしい。クラヴィスはそんなマルセルを見てクスリと笑う。
「では案内して貰おう」
「あれ?あそこを歩いてるの、マルセルと…クラヴィス様??」
ランディは窓に貼り付くようにして、聖殿から続く小径を見下ろした。髪を後ろで一つに束ねた金髪の少年が、長身黒髪の闇色の衣を纏った者の先を楽しそうに走っている。
「どうした?ぼうや。何が見える?」
炎の守護聖は、ランディの目線を追うように後ろを向いた。窓の外には確かに見慣れぬ二人組が歩いている。
「…これは…意外な組み合わせだな」
それ以上何も言えず、オスカーは口をつぐんだ。
「…仲が良くなったって噂がたつかもしれませんね」
「…そうだな。…と、それより俺の執務室に来ておきながら、まだ用件を言ってないぜ」
アイスブルーの瞳をランディに戻して、オスカーは口元に笑みを浮かべた。動揺…という程の出来事ではなかったらしい。
「あっ、そうでした。えっと次の日の曜日の約束なんですが…」
ランディは慌てて用件を切り出すが、どうにも言い憎そうである。
「キャンセルか?さてはデートだな?」
意地悪そうに言うオスカーに、ランディは真っ赤になりながら答える。
「あのっ、実は先にロザリアと約束があったのを忘れてて…」
オスカーに嘘は通じない。あの冷たい瞳に見つめられると、心の底まで見透かされているような錯覚に陥る。
「剣の稽古は毎日しても足りないくらいだ。この俺が付き合ってやっているってのに…」
オスカーは不愉快そうに立ち上がり、壁に掛けてある剣を一つ手に取った。
「すいません」
ランディは素直に頭を下げた。このプライドの高い守護聖にはとにかく謝るしか手はない。
「いいだろう。その代わり…」
オスカーは剣を鞘から抜き、剣先をランディの眼前に突きつけた。
「その次の日の曜日はみっちり鍛えてやるからそのつもりでいろよ、ぼうや」
アイスブルーの瞳は射抜くほど強くランディを見つめた。
「はっ、はいっ、オスカー様。失礼しますっ!」
迫力に気押されたランディは、逃げるようにオスカーの執務室を後にした。
否と言わせない瞳はジュリアスと並ぶのではないだろうか。
ランディは扉を背に大きく息を吐いた。
「なに来て行こう…」
しかしランディの頭はすでに日の曜日のことを考えていた…。
森の湖。恋人たちの湖と呼ばれるその場所は、飛空都市に住む人々の安らぎの場所として重要な役目を果たしていた。しかし事件以降一週間ほど森の湖に行くことを禁止されていた。危険が無いと判断する為に必要な日数らしい。
その一週間目。アンジェリークは、こっそりと様子を見に行くことにした。お気に入りの場所が立入禁止というのだけでも悲しいことだが、どんな様子なのか非常に興味があったのだ。女子高生特有の好奇心なのかもしれない。
「…ジュリアス様に見つかったらきっとお説教ね…」
一番厳しい守護聖の顔がちらりと浮かぶ。それを振り払って、森の入口に足を踏み入れた。
「…大丈夫よ…ね?」
自分に言い聞かせるように言って、アンジェリークは湖への道を進んだ。
自然の雄大さを感じる森の湖。差し込む光が水面に反射してきらきらと揺れる。明るい光を受ける森の木々は、見る者の心を穏やかにする。
事件前と丸きり変わらないその風景に、アンジェリークはほっと胸を撫で降ろした。
「良かった。えーと確か立入禁止区域っていうのは奥の方だったと思うんだけど…」
きょろきょろと見回して、立て札を見つける。
「あれだわ」
アンジェリークは立て札の方に歩み寄った。
確かジュリアスは、普通なら結界が張ってあると言っていた。と言うことは…?
「このまま手を出したら、弾かれるかしら?」
そっと片手を出して、触れようとした瞬間。突然大きな手に包まれた。
「おっとお嬢ちゃん。それ以上手を出さない方がいいぜ。このきれいな手に傷が付いてしまう」
背後から抱き締めて手を握り、耳許で囁いたのは炎の守護聖オスカー。アンジェリークの手を自分の口元へ運んでいく様はあまりに自然だった。
「あっ、あのっ、オスカー様っ!」
アンジェリークは慌てて後ろを振り向いた。
間近で見るオスカーの瞳は美しい。その眼で何人の女性を口説き落としたのだろうか。
まだ恋に不慣れなアンジェリークは、胸のドキドキを押さえるのに必死だ。
「えっと、ここはもう大丈夫なんですか?」
何とかオスカーの腕を振り解いて正面に向き直り、笑顔を向ける。
「…そうだな。今晩最後の見回りをして、完了だな。結界はただの壁じゃない。動物も近付かないようにしなくては意味がないからな。軽い電気が流れるようになっている。立て札にもそう書いてあるだろ?」
「え?あっ、ほんと」
立て札を改めて見て、アンジェリークはクスリと笑う。
「…ところで、何をしに来たんだ?立入禁止のはずだが?」
「なんだか気になっちゃって。ジュリアス様には内緒にしておいて下さいね」
「…そうだな。お嬢ちゃんがこれから俺とデートしてくれたら…な?」
ウインクしてとびきりの笑顔を見せるオスカーに、アンジェリークは笑顔で答える。
「はい。オスカー様」
聖殿の廊下を優雅に歩く少女がいた。ブルーを基調にした上品なワンピース。身体にフィットしたその服は少女の美しさを際立たせている。肩にかかる紫色の巻き毛は、はねることなく縦巻きを保っていた。
少女の足がある守護聖の執務室の前で止まった。
軽いノックの音が廊下に響く。しかし、室内からの応答はなかった。
「もう、オスカー様ったらいらっしゃらないのね。せっかく早起きしてクッキー焼いてきたのに…」
手には淡いオレンジ色の包装紙でラッピングされたお菓子が乗っている。
ロザリアは溜め息を一つつくと、今来た道を戻り始めた。
「もしかして公園にいらっしゃるのかしら?」
諦めるのは捜してからでも遅くない。
ロザリアは早足で公園へと急いだ。
「お嬢ちゃん。ちょっと歩き疲れたんじゃないのかな?」
オスカーはアンジェリークに合わせてゆっくりと歩いていた。しかし森の湖を出てからずっと歩きっぱなしだったアンジェリークはさすがに疲れていた様だ。
「はい」
嬉しそうに微笑む少女に思わず笑みを返す。
「やっぱり疲れていたのか。この近くに休憩できる場所があるんで、もうちょっと付き合ってくれよ」
公園の右手奥にある東屋まで歩いて、やっと腰を下ろす。
「…お嬢ちゃんに、ちょっと話をしてやろう。今の女王陛下が選出されたとき、俺はまだ守護聖ではなかったんだ。そのときの守護聖で、今も守護聖なのはジュリアス様とクラヴィス様、ルヴァの3人だけだ。つまり、俺にとっては女王候補というのはお嬢ちゃんたちが初めてなんだよ。だから興味もあるし、ぜひとも頑張って欲しいな」
オスカーは足を組み、その上に頬杖を付いてじっと相手を見る。プレイボーイと名高いオスカー得意のポーズだ。
「あっ、あのっ」
アンジェリークが真っ赤になりながら俯く。
「…そろそろ行こうか、お嬢ちゃん」
オスカーがそっと肩に手を回した瞬間。
「はいっ」
アンジェリークは元気良く立ち上がった。
「おっと…」
バランスを崩したオスカーは、ベンチに片手を付いて何とか体勢を保った。
「あっ、あのっ、大丈夫ですか?」
自分のせいだとまるきり気が付かないアンジェリークは、斜めになっているオスカーに合わせて斜めに覗き込んだ。
「…大丈夫だ。お嬢ちゃん」
言ったものの、格好悪いことこの上ない…。
仲良く公園の入口へ向かっているオスカーとアンジェリークを見ている少女がいた。
着いたばかりの公園だが思わず入口の柱に隠れてしまう。
「すまないが、帰る前にもう少しだけ付き合ってくれよ、お嬢ちゃん」
炎の守護聖の甘い声が自分のいる場所にまで届く。 さっと金の髪の女王候補をエスコートし、花畑の前で立ち止まるのを確認した少女は思わずその場から走り去った。
「ひどいわ、オスカー様ったらあんな子に」
手にしたクッキーの包みを握り締めながら、ロザリアは道をずんずん歩いていく。そのただならぬ様子に道行く人が思わず避けて通る。
「こうなったら育成を妨害してやるわ。見てなさい、アンジェリーク!」
「うーん、おかしいなー。ちゃんと育成してるのになんで人口も建物も増えないの?」
部屋で大陸図を見ながら、アンジェリークは悩んでいた。
「このままだと今日あたり、ジュリアス様からお呼び出しがあるかも…」
蒼い瞳を思い出して、頭を抱える。
ピンポーン。
突然のチャイムの音に、アンジェリークは跳び上がりそうなほど驚いた。
「アンジェリーク?俺、ランディだけど、いる?」
風の守護聖の明るい声が聞こえて、アンジェリークは少しほっとする。
「はい。どうなさったんですか?ランディ様」
「あの…さ。言いにくいんだけど…その…ジュリアス様が呼んでいらっしゃるんだ」
困ったように笑うランディに、アンジェリークは真っ青になる。
「…やっぱり…。あーん、どうしよう…」
今にも泣き出しそうなアンジェリークに、ランディは慌てた。
「あっ、あのさっ、俺が聖殿まで送って行くよ。その間に気持ちを落ち着けて、お会いすればきっと大丈夫だよ。何せ、俺は勇気を与える風の守護聖だからな」
ウインクするランディはとても頼もしく見える。
「はい。ランディ様」
大陸図と育成の状況のデータを見比べていたジュリアスは、不審そうに眉間に皴を寄せた。
「ロザリアの大陸はうまく発展しているというのに、なぜアンジェリークの大陸は発展しないのだ?人が住める場所が少ないせいか…」
溜め息混じりで呟くと、書類を机の上に置いた。
コンコン。
ノックの音と同時に、風の守護聖の声が聞こえた。
「ジュリアス様。アンジェリークを連れて参りました」
「ああ。入れ」
「失礼します」
一礼して、アンジェリークはジュリアスの前へ歩み出た。
「今日呼んだ理由は判っているか?」
威圧的な瞳は、罪無き人にも罪人だと認めさせるような迫力がある。アンジェリークは、怖くてただ俯いてしまった。
「…叱っている訳ではない。相談に乗ろうと言っている。なぜ人口が増えないか、心あたりはないか?」
堅くなっているアンジェリークを察したジュリアスは優しく語り掛け、微笑んだ。
アンジェリークはゆっくりと顔を上げ、ジュリアスを見つめて、考え込むように俯いた。
「…まだ、自然災害による被害が大きいのかもしれません」
「自然災害…か。緑と水、風の力のバランスが悪いようだな。それに、災害を防ぐ為の知恵、更にそれを作る力。民の求める力をそのまま送れば良いというものではない。覚えておくように」
「はい、ジュリアス様」
「ところで森の湖だが…頻繁に行ってるそうだな?」
突然話を変えられて戸惑いながら、アンジェリークは答えた。
「はっ、はい」
「行くのは構わないが、危険な場所へは近付くな」
「すみません。動物が心配で…」
「…それは行ったということだな?」
誘導尋問から導かれた答え。アンジェリークは返事が出来なかった。
「…お前は女王候補だ。動物の心配だけでなく、全宇宙のことを心配しなくてはならぬ。そんなに動物が心配なら、まず一日も早く女王になることだ。女王の力が発動されることで全宇宙の平安が保たれる」
「はい。わかりました」
「判ればよい。今日も一日頑張るように」
「はい。…失礼します」
ジュリアスの執務室から出たアンジェリークは、沈んだ気分になっていた。
女王候補に選ばれたという時から考えない訳ではなかった。でも、全宇宙の未来を支えていかなくてはならないという女王に本当になれるのだろうか…。
「おや?アンジェリーク、どうしたのかな?浮かない顔しちゃってさ」
突然アンジェリークの思考を遮ったのは、派手な衣装を着た人物だった。
「オリヴィエ様」
夢の守護聖オリヴィエは、黒い羽のショールを指で弄びながら優しい笑顔をした。
「何か考え事?良かったらさ、私の部屋に遊びに来ない?美味しいクッキー買ったんだ。しかもシュガーレス」
「はい。お邪魔します」
「で?何悩んでるの?」
アンジェリークは紅茶の入ったカップを手にして、じっとその中を眺めていた。
「私は…さ、この髪と衣装。そろそろイメージチェンジしようかなって思ってんの。誰に相談してもテキトーな答えしか返ってこないんだよね。髪の毛、ウェーブとストレート、どっちがいい?」
言いたくないことは無理に言わせない。オリヴィエの優しさは本当の思いやりを感じさせる。
守護聖になるまでが長かったオリヴィエは、それまでに様々な経験をしてきたのだろう。守護聖間でトラブルが起こったときの仲裁をよくかって出る。悩み事を聞く術も心得ているようだ。
「あのっ、私、女王陛下って大変だなって思って…。オリヴィエ様はどう思われますか?」
アンジェリークは真剣な瞳でオリヴィエを見た。
「…やっぱりそういうことか。確かに女王になるというのは大変なことだと思うよ。でもさ、何百人、何千人、もしかしたら何十億人といる女の子の中からたった二人だけ選ばれた女王候補なんだから、自信持たなきゃね。育成の方、今はロザリアの方が進んでるようだけど、大丈夫。アンタなら、持ち前の明るさと元気さで乗り切れるよ。私が保証する」
明るい笑顔で言われ、アンジェリークもつられて微笑む。
「有難うございます。…でも、なんか褒められてる気がしないんですけど…」
「あら?そういえば…。でも、私はアンジェリークの味方だよ。頑張ってね」
「はい。それじゃ…」
席を立ち、扉まで歩いたところで一度振り向いた。
「オリヴィエ様。私、ストレートの髪型見たいです」
いつもの元気な笑顔に戻ったアンジェリークに満足して、オリヴィエは手をひらひらと振った。
「ストレートか…いいかも」
「えっと、マルセル様とリュミエール様に少し育成をお願いしたから力はもうないわね。森の湖でちょっとだけ休もうかな」
聖殿を出て、アンジェリークは森の湖へと足を運んだ。
湖の畔に腰掛けて、じっと小鳥のさえずりに耳を傾ける。優しい水の流れ、木々の揺れる音…。心を豊かにする要素が詰まっているこの場所を守りたい。アンジェリークは心からそう思った。
「…そこにいるのは、アンジェリークか?」
足音がしなかったのに長身の人物が立っていて、アンジェリークは声を無くして驚いた。
「…驚かせてしまったようだな」
フッと口元に笑みを浮かべ、長身の守護聖クラヴィスはアンジェリークの側へ歩み寄った。
「こんにちは。クラヴィス様」
「ああ。なにか考え事か?」
いつものように元気に返事をしたにも係わらず、クラヴィスはそう問いかけた。
「…クラヴィス様には、隠し事が出来ませんね」
「…私には、普通では見えぬものまで見えるからな」
「…それって、幽霊…とか?」
「…そうだな。姿無きもの、器のない生き物、強い感情の波動…。いろいろあるが…な」
「闇の司るものたち…ですか」
クラヴィスは驚いてアンジェリークを見つめた。
「お前は、闇とはどんなものか知っているのか?」
「はい。安らぎと静寂。そして、死…。正直言って少し怖いです。でも安らぎが無ければ生きていけない。そうですよね?」
クラヴィスは眼を閉じて満足そうに微笑んだ。
「…お前は本当に不思議な娘だ。頼りなげに見えて、芯が強い。やはりお前が女王に相応しいのかもしれぬな」
女王、と聞いてアンジェリークは、悲しそうに俯いた。再び湖の畔に腰掛ける。クラヴィスは少女の心中を察して隣に座り、ゆっくりと口を開いた。
「…一つ、昔話をしてやろう。ある日、聖地に二人の少女が召された。女王陛下の力が弱まった為に選ばれた次期女王候補たちだ。桜色の髪をした温厚で聡明な少女と、長い金髪の元気で明るい少女。二人は聖地で過ごすうちに守護聖と親しくなった。当然少女たちに好意を寄せる者も出てきた。ある日、女王が二人をお召しになった。次期女王に金の髪の少女を指名するために…。その時その少女には特に親しくしている者がいた。共に生きると約束した者が…。しかし少女は、全ての宇宙を救うために女王の座を選んだのだ」
「その少女は辛くなかったんですか?恋人と離れてしまって…」
真っ直なアンジェリークの瞳を見てられず、クラヴィスはそっと視線を湖面へ移した。
「…判らぬ。だがその少女の愛が、全宇宙を支えたのは事実だ。アンジェリーク、私はお前に、後悔しない道を選んで欲しい。女王になるだけが道ではない。補佐官になることも学校に戻ることも、大陸の民と暮らすことも出来る。私は、幸福でない女王など見たくない」
クラヴィスは遠くを見るような眼をした。
桜色の髪と金髪の女王候補って…。アンジェリークは思わず思いついたことを口にした。
「クラヴィス様、もしかしてその少女って、現…」
言い終わる前にクラヴィスはサッと立ち上がった。
「…風が出てきたようだ。部屋まで送ろう」
穏やかな笑みを浮かべて差し出された手を、アンジェリークは静かにとった。
「…はい。クラヴィス様」
「送って下さって有難うございました」
アンジェリークはいつもの元気な笑顔で闇の守護聖を見上げた。
「今日は久しぶりにたくさん話してしまった。相手がお前だったからかもしれん。私がお前に惹かれているせいだと…思うか?」
優しい紫色の瞳で、クラヴィスは予想もしなかったことを訊く。
「…えっ?」
アンジェリークは目を丸くして、クラヴィスを見つめる。ただ微笑して返事を待つクラヴィス。
「あっ、あのっ、はい!」
沈黙が続くのに耐え切れず、アンジェリークは思わずそう返事をした。
「人の心がそんなに単純なものだと思っていたのか?まあいい。また会おう。…今日は楽しかった」
言葉とは裏腹に優しい微笑み。
アンジェリークの胸がドキンと鳴った。それをクラヴィスに悟られまいと、俯いてじっと息を殺す。
「どうした?具合でも悪いのか?」
長身を屈めて覗き込む端正な顔は、近くで見るとなお奇麗だった。
「…あ、いえ…」
じっと紫色の瞳に見つめられていると胸の鼓動が早くなる。
この胸のときめきは、もしかして…。
アンジェリークは、その時初めて自分の恋を自覚した。オスカーといる時ドキドキしたのが恋かもしれないと思っていた。でもそれは、女性を口説くことに慣れている彼に流されそうで恐かったからなのだ。
そう思うと、クラヴィスの顔をまともに見ることが出来なくなってしまった。
(どうしよう…叶わぬ恋なのに…。宇宙が崩壊しているというのに…)
「そうか。あまり思い詰めるな。私はこれで失礼する」
困ったように俯くアンジェリークの様子から湖での悩み事だと判断したクラヴィスは、そっと部屋を出ていこうと扉に手を掛けた。
ゴンゴンッ
突然乱暴なノックの音が響き、返事をする前に開いた。慌てて飛び込んできたのはランディだった。
「アンジェリーク、大変だ。エリューシオンが、エリューシオンが炎上してる!!」