MISTRAL

mistake 1


 穏やかな昼下がり。光溢れる守護聖の執務室に、珍しい客人が訪れていた。
「…クラヴィス、例の調査は進んでいるか?」
 光を背に問うジュリアスに、クラヴィスは僅かに目を細めて口を開いた。
「…調査…という程のものではなかろう。私の水晶球で各地の様子を見ていただけのこと。…だが、そうだな。今の所とりたてて報告するものは無い。お前の気の回し過ぎだ」
「…そうか。それならばいいが…」
 ジュリアスは机の上に並べた各惑星の資料を見比べて、軽く吐息を付く。
「陛下の御力が弱まっているのは明らかだが、今更慌てても仕方あるまい。何の為の女王試験だ?」
「…そうだな」
 資料を軽く束ねてファイルに戻し、ジュリアスは席を立った。
「少し散歩でもしてくるとしよう。どうだ?一緒に」
 クラヴィスは怪訝そうに眉を寄せた。
「…今日は雨…か」
「何か言ったか?」
「…いや、別に…」


「いつも執務室に篭ってばかりいるので、たまに外に出るといいものだな。陽射しが身体に心地よい」
 ジュリアスは太陽の光を浴びて、自身の光を更に強めた。
「…私には強すぎるな。悪いが、散歩はここまでだ。私はそこの東屋で休んでいく」
 クラヴィスは公園の奥にある東屋へと向かった。
「そうか」
 いつもならジュリアスはクラヴィスと逆方向へ歩く…はずだった。しかし何を思ったか、クラヴィスの後を追うようにして東屋へと歩みを進めた。
「…お前も…か。珍しいな」
 クラヴィスは特に気にも留めずベンチに座った。
「…女王試験。始まってからもう2ヶ月経つ。それなのにまだ決まらないというのはどういうことなのか」
 ジュリアスを包む空気が、苛立ちでピリピリしている。感受性の豊かな者なら肌に痛みを感じるであろう気に、クラヴィスは表情を変えず溜息を付く。
「…またその話か。執務中とはいえ、気晴らしに出て来たのなら考えないことだ。2ヶ月というのは女王としての資質を高めるために必要な期間だ、と考えていたのではなかったのか?」
 珍しくまともに答えるクラヴィスに、ジュリアスはふと我に返った。
「…ああ、そうだな。少し疲れているようだ」
 ゆっくりと髪を掻き上げるジュリアスを、クラヴィスはちらりと見た。
 額のサークレットに嵌められた青いはずの宝石が、色を失いかけている。
 パワーストーンの1つであるラピスラズリは魔除けにも使われるが、身に付けている者の体調と同調することもある。
(…いつ倒れてもおかしくない…ということか)
 もっと近くで見ようとそっと手を伸ばす。
「…何をする!」
 苛立ちも手伝い、険しい顔で睨み付けるが、クラヴィスはお構いなしだ。
「…少し黙っていろ。お前がいつも身に付けている石が曇っている。ピアスの色も…」
 ジュリアスの豊かな金髪を長い指先で掬い、耳許に顔を近付けるクラヴィスの仕草は流れるように自然で美しかった…。


「…この時間に執務室にいらっしゃらないなんて、一体どこにいらしゃるのから…」
 公園に足を踏み入れたアンジェリークは、キョロキョロと辺りを見渡した。
 平日なのであまり人は多くない。
「あっ、あそこ」
 いつも休憩する東屋に、見慣れた黒髪の守護聖の後姿を見つけて微笑む。
「…お一人じゃないのかしら。ロザリアとデート?」
 デートなら引き返した方がいいかもしれない。
 でも目撃してしまったからには挨拶しないと新密度が下がってしまう。
 アンジェリークは駆け寄りたいのを抑えて、静かに近付いた。
「クラヴィス様、こんにちわ」
 遠慮がちに声を掛け、金の髪を持つ女王候補は微笑んだ。
「…アンジェリークか」
 ゆっくりと振り返るクラヴィスの向こうに不機嫌そうな光の守護聖を見付け、アンジェリークは驚いた。クラヴィスの手がジュリアスの頬に添えられ、絹糸のような金髪を梳くように触れている。
「…あっ、あのっ、御免なさい。失礼します!」
 アンジェリークは、くるりと向きを変えて今来た道を小走りに引き返して行った。
 あとに残された二人は、何が起こったのか判らないといった顔でアンジェリークの後ろ姿を見送った。
「…私には挨拶なしか。挨拶は人間関係の基本だというのに」
 憤慨するジュリアスを尻目に、クラヴィスはアンジェリークの去って行った方をじっと見つめていた。
「…私が軽率だったようだ」
  クラヴィスの言葉の意味が掴めず、ジュリアスは立ち上がった。
「お前の言うことはいつも理解に苦しむ。もう少し具体的に言ったらどうだ!」
「具体的に…か。今の場面を見た彼女が我々の間を誤解したようだ…と言えば良いのか?」
「誤解?」
 まだ見当もつかないらしい。
「…断言は出来ないがあの角度だと、キスしていたように見えるのではないか…と思ってな。まあ、私にはどうでも良いことだが…」
 そう言って身を翻すクラヴィスの姿を瞳に映しながらも、ジュリアスにはその姿は見えていなかった。
 ジュリアスは、クラヴィスと接吻…と考えて硬直した。
「…アンジェリークっ!」
 誤解を解こうと叫んだ時には既に、アンジェリークだけでなくクラヴィスも公園を出て30分経過していた…。


「ロザリア〜」
 ドアが開くと同時にアンジェリークに抱きつかれたロザリアは、目を丸くした。
「アンジェリーク?何よっ、いきなり。びっくりするじゃない」
「相談に乗って欲しいの…。今、いい?」
 これから出掛けるところだったロザリアは、アンジェリークのただならぬ様子に急遽予定を変更した。
「…いいわよ。紅茶、アールグレイでいい?」
「ええ。有難う」


「…それで、相談って?」
 淡いブルーのティーカップを手に取り、ロザリアは目の前で沈んだ顔をするアンジェリークを見た。
「…私、さっき見ちゃったの。クラヴィス様とジュリアス様が仲良くしていらっしゃるのを…」
「仲良くなられたのならいい事じゃない。守護聖様方が仲が悪いと育成にも影響が出るし、新密度にも…」
 落ち着いてそう言うロザリアに、アンジェリークは大きく首を振って答える。
「違うのっ!なんか…クラヴィス様がジュリアス様を口説いてるような感じで、その…キスしてたみたいに見えて…」
 小声になりながら、スカートの裾を握り締める。
「……っ、ゴホ。…失礼。何ですって?」
 ロザリアは紅茶を喉に詰まらせ、咳き込みながら何とか吹き出さずに飲み込んだ。
「…それで、クラヴィス様ってもしかして男の人がお好きなんじゃないかと思って…。相手がジュリアス様じゃ、勝ち目ないし…」
「クラヴィス様のことが気になるのね?でも基本的に間違ってないこと?何故クラヴィス様が男性をお好きなんだって思うの?」
「…スモルニィにいた頃にね、”右耳にピアスをした男の人は男の人を好きな証だ”っていう噂を聞いたことがあるの。…知らない?」
「…私はそんな下賎な噂、聞いたこと無いわ」
「…上流階級の方にも多いって聞いたけど…」
「そういう方たちがいるのは知ってるけど、私には関係ないもの」
「そうよね。ねえ、クラヴィス様に訊いてもらえないかな?」
「自分で訊いた方がいいんじゃなくて?」
「…怖くて訊けない。ロザリアなら訊ける?例えばオスカー様に、今まで何人の女の人とキスしましたか?って…」
「なっ、なんでそこにオスカー様が出てくるの?それに、訊く内容が違うじゃない」
「それくらい恥ずかしいことなのよー、私にとって」
「…そうね。協力してあげてもいいわ。でも訊くのはあなたよ。他の方にそれとなく訊いてからにしましょう。事前調査は必要よ」
「ありがとうっ、ロザリア。大好きっ」
「世話の焼ける子ね、全く」
 素直に喜ばれると、正直照れ臭い。ロザリアは、赤くなりながら紅茶の飲み干した。



「ルヴァ様、ちょっとよろしいですか?」
「その声はロザリアですか?どうぞ、鍵は開いてますよ」
 執務室の奥の方から地の守護聖の穏やかな声が聞こえた。扉から遠いらしく、少し聞き取りにくい。
「失礼します」
 軽く会釈して入ってきたのはロザリアとアンジェリークの2人だった。2人はいつもより乱雑に積み上げられた書物の塔を崩さぬようゆっくりと声のした方へ歩く。
「ルヴァ様、どちらにいらっしゃいますの?」
「また本の整理ですか?お手伝いしましょうか?」
 上品な声を追いかけるように明るい声がする。
「アンジェリーク?…っと、あっ、あっ!」
 バサバサと派手な音を立てて本の塔が1つ崩れた。慌てて音のした方へ駆け寄った2人は、本の山に埋もれたルヴァを発見した。
「…こんにちわ。ロザリア、アンジェリーク。こんな格好ですみませんね。えーと、今日はどんな御用ですか?」



 テーブルに緑茶を3つ。茶菓子に醤油せんべいを添えて、ルヴァは2人の少女の前に座った。
「…こうして可愛い方とお茶を飲むのは楽しいですねー。よくディアと陛下も来て下さったのですが…もう遠い昔のことのように思えます。今日は何の御相談ですか?」
 ルヴァは優しく微笑むが、2人はなかなか口を開こうとしない。
「…困りましたねー。…人間関係のことですか?例えばジュリアスとクラヴィスとか…」
 2人が顔を見合わせて、同時にルヴァを見る。どうやら図星のようだ。
「あの2人の仲の悪さは昔からですからね。せめてケンカをしないようになればいいんですが…」
 話がずれていきそうな雰囲気だ。
「あっ、あの…、クラヴィス様って、男の人が好きなんですか?」
「は?…えーっと、アンジェリーク、あなたの言ってる意味がよく判らないんですが…」
 ルヴァがきょとんとしている。
「こらっ、遠回しにお訊きなさいって言ったでしょ。全くこれだから…」
「ロザリア?」
 説明を求めるようにルヴァはロザリアを見た。
「すみません、ルヴァ様。先日、クラヴィス様に好みのタイプをお訊きしたところ、”聡明な”方がいいとおっしゃいましたの。そして、”女性ならばというわけでなく人間一般的に”と…。それで、その言葉の意味を2人で考えてたのですが、恋愛対象に男の方も入るのでしょうか?」
「…ああ、なるほどそういうことですか…。面白いことを考えますね、あなた方は…」
 そう言って楽しそうに、もう一杯お茶を注ぐ。
「…ルヴァ様、笑い事じゃありません。さっき、お二人が公園の東屋でとても仲良くしていらっしゃったのを見て、すごくびっくりしたんです。もしかして…って思うと…」
 目を丸くした後、またいつもの優しい笑顔をする。
「…心配しなくてもクラヴィスは女性が好きですよ。どうしてあなた方が誤解したのか判りませんが…。きっと否定するのが面倒なだけだと思います。彼は自分に対する評価を気にしない人ですからね。問題はもう1人の方ですね。きっとパニックになっているのではないでしょうか」
「…もう1人?」



”突発事件でパニックに陥りやすいタイプ”だとマルセルに評された光の守護聖は、女王候補の寮を出るところだった。
「…寮にも帰っていない…か。全くアンジェリークは何処に行ったというのだ!この私が捜しているというのに…。まさかよからぬ噂を流したのでは…」
 豊かな金髪を乱し、こめかみに汗を光らせたジュリアスは聖殿へと足を向けた。


「さっ、アンジェリーク。これで不安は無くなったでしょ?クラヴィス様のところへ行ってらっしゃい」
「…やっぱり、行かなきゃダメ?」
 上目遣いに甘えて見せるが、当然ロザリアに通じるわけがない。
「耳飾りの意味でも訊いてきたら?そこから話が出来るのではなくて?」
 あっさりそう言われて、決心する。
「…わかった。行ってくるね」

 薄暗い執務室に、白檀の香りが仄かに香る。
 最近になって時々香を焚く闇の守護聖は、ゆっくりと立ち昇る煙に身を委ねていた。瞑想する時など特に気持ちを落ち着かせてくれるようだ。
 扉の方に人の気配を感じたクラヴィスは、すっと視線を上げた。
「あっ、あの、クラヴィス様、いらっしゃいますか?」
 いつも元気なアンジェリークが、少し元気が無いようだ。
「…ああ、アンジェリークか。鍵はかかっていないが…?」
「はい。失礼します」


 女王候補2人が退室して、地の守護聖の執務室は再び静寂に包まれた。
「…今日もいい天気ですね。本の整理にも飽きたので散歩でもしましょうか」
 テーブルの上の湯飲みを片付けて、ルヴァはゆっくりと席を立った。
 バタンッ。
 突然扉が開いて、盆に乗せた湯飲みのバランスを崩しそうになる。
「…おっとっと。…ふうっ、何とか落とさずにすみましたね」
「…ルヴァ、突然すまない。ここにアンジェリークは来なかったか?」
 挨拶も早々に、用件を切り出すジュリアスの様子にルヴァは目を丸くする。
「…珍しいですね。貴方がそんなに慌てるとは…。アンジェリークならさっき出て行きましたよ。会いませんでしたか?貴方に会いに行ったんだと思っていたのですが…違うようですね」
「何っ、さっき?入れ違いか…。判った。ルヴァ、邪魔をした」
「ジュリアス。今度はゆっくりお茶でも飲んで行って下さいね」
「…ああ。またの機会に」
 入ってきたのと同じくらい突然に光の守護聖は部屋を出た。
「…本当に忙しい人ですねー、ジュリアスは。今度、”早く淹れることが出来て美味しいお茶”を研究する必要がありますかねー」
 ルヴァのマイペースさは相変わらずだ…。


「…アンジェリーク、今日は良く会うな。私に何の用だ?」
 闇の守護聖は気だるい声で問う。
「あっ、あの…。お話してもいいですか?」
「…何の話だ?」
「その…右耳の飾りって、何か意味があるんでしょうか?」
「これか…。特に無いが…アメジストというものは直感力を高めるというからな」
「そうなんですか。あの、私、クラヴィス様は男の方がお好きなのかと思って…」
「…フッ」
 その日初めてクラヴィスは笑い声を漏らした。
「そういう噂を聞いたことはあるが、まさかお前が信じているとは思わなかった。人除けには丁度良いと思って放っておいたのだが…誤解を解かないといけないようだな」
 部屋の空気を少しも乱すことなく立ち上がったクラヴィスは、アンジェリークの前に立った。
 頭一つ分は優に違う身長のため、アンジェリークは顔を上げてじっと見つめる。
「?クラヴィス様?」
 細い指先が金の髪に触れる。肌に触れられたわけではないのに、心臓が破裂しそうなほどに脈打つ。
「…あっ、あのっ」
「こうやってピアスの色を見ていただけだ。アレは体調が悪いらしいからな。ラピスラズリにも影響が出るのだ」
 耳許で囁く声を全身で受けたアンジェリークは、だんだん顔が赤くなっていく。
 少し屈むようにして瞳を覗き込むクラヴィスに、恥ずかしさが増す。
 バタンッ。
「クラヴィス!」
 ルヴァの執務室に現れたのと同じ登場の仕方で、ジュリアスはクラヴィスの執務室を訪れた。
「…何だ、お前か…」
 アンジェリークとかなり接近していたにも拘らず、動揺すら見せない。
「今、何をしていた?答えようによっては…」
 説教が始まりそうな雰囲気だ。
「誤解を解いてやっただけだ」
「元はといえばお前が紛らわしいことをするから…」
 そこまで言ったところで、溜息を一つ付く。
「まあよい。私はこれで失礼する」
 部屋を出るため取っ手に手を掛けたジュリアスは、ふらりと身体が傾いた。
「…早く休めと言ったであろう?全く…。部屋まで送っていこう」
「そなたの世話にはならん!」
 あくまで拒絶するジュリアスの額に、クラヴィスはそっと手を当てた。
 ドサッ。
 意識を失ったジュリアスは、クラヴィスの腕に支えられた。
「…すまぬが、話はまた今度にしてくれまいか?楽しみにしているのでな」
 優しい微笑を残して、クラヴィスはジュリアスを背負って執務室を出た。
「…クラヴィス様って、やっぱりジュリアス様のこと…」
 アンジェリークの誤解は解けていなかった…。

…ロザリアの部屋に戻る…

                            1999.8.22発行”mistake”より