第一章
朝の柔らかな光が濃い桃色のカーテンの隙間から室内を照らす。ピンク色を基調にした少女らしい部屋が暖かな陽射しを浴びて、生気を取り戻したかのように明るい色に戻った。
「う…ん」
ベッドに寝ていた金の髪の少女が部屋の明るさに顔をしかめ、ゆっくりと目を開けた。
「…もう朝なのね」
ごそごそとベッドに半身を起こしウェーブのかかった髪を掻き上げる。
「…そういえば、守護聖様の夢を見ちゃった…」
女王謁見の夜には必ず見る夢…。守護聖同士の関係を教えてくれるこの夢は、夢と言っても現実とほとんど変わらない。
「ジュリアス様とクラヴィス様が喧嘩してらしたわ。やはりお二人って、仲が悪いのかな…」
女王候補アンジェリークは片手を顎に添え、困った顔で呟く。
守護聖の長であるジュリアスが他の守護聖と仲が悪いというのはあまり好ましいことではない。
「…ジュリアス様に他の守護聖様の事、尋いてみようかな?」
以前部屋で話をする機会があり、仲間への関心を尋いた所、『信用出来る者もいれば信用出来ない者もいる』と言う返事が返ってきた。けれど、誰か、というのは尋けなかったのだ。
「よし。何か緊張するけど頑張って尋いてみよう!」
アンジェリークは意を決してベッドから降りた。クローゼットからスモルニィ女学院の制服を出して、半袖のブラウスに袖を通す。スカートを履き終えた所で部屋のチャイムが明るい音をたてた。
「はい」
パタパタとドアの前まで走って扉を開けたアンジェリークは、目の前に立つ長身長髪の黒衣の守護聖を見上げて目を丸くした。
「…クラヴィス様?」
「今日は日の曜日だ。誘いに来たのだがどうする?」
静かな、闇に響くような気怠い声で闇の守護聖クラヴィスは問い掛ける。
「…えっ?日の曜日?今日?」
アンジェリークは口元に手を当ててパニックに陥った。クラヴィスはそんなアンジェリークを不思議そうに見下ろす。
「どうした?他に約束があるのか?」
「…いえ、そうじゃなくて…今日が普通の日だと思ってたのでびっくりしちゃって」
照れたように笑うアンジェリークを見て、クラヴィスはクスリと溜め息のような笑いを零した。
「…あの、それじゃ、ここでお話しませんか?」
一度俯いたアンジェリークが笑顔で見上げる。クラヴィスは、濃い紫水晶の瞳を細めて静かに微笑んだ。
「…そうだな」
部屋の中央に置いてある小型の円形テーブルには、牡丹色の無地のテーブルクロスが掛けられている。ベッドカバーの色と揃えてあるが、こちらの方は水玉模様だ。
アンジェリークはクラヴィスにテーブルの側の椅子を勧め、自分は右隣の椅子に腰掛けた。
「…何を話そうか?」
「え…と、他の守護聖の方達をどう思われますか?」
いきなり一番気に掛かることを口にしてしまってアンジェリークは、しまった、という顔をした。しかし一度出た言葉は取り戻せない。
「…仲が悪く見えるか?」
静かな声でそう言われて、アンジェリークは俯いてしまう。
「あ、あの、そういう訳じゃ…」
クラヴィスはアンジェリークをちらりと見て、長い睫を伏せ、口元に微笑を浮かべた。
「いろいろな守護聖がいるからな。中には私の態度が気に入らない者もいるだろう。私は特に何もしていないのだが…」
「それじゃ、嫌いじゃないんですね?」
アンジェリークは明るい声で顔を上げた。
「…あまり関心がない、と言ったほうがよいかもしれぬが…な」
クラヴィスが思いのほか優しい笑顔で答えたので、アンジェリークはほっとしたように笑った。
「よかった。実は、クラヴィス様とジュリアス様が喧嘩をなさる夢を見てしまって、落ち込んでたんです」
「…ジュリアスと?」
途端、クラヴィスの顔が曇る。
「…まあ、アレとはあまり仲が良いとは言えぬな」
「そう…なんですか?」
「アレは昔から自分の考えだけが正論だと思っている節がある。立場上、他の者の意見も聞くべきだと思うのだが…何を考えているのか…」
クラヴィスは横で沈んだ顔になるアンジェリークに気付き、言葉を切った。
「お前が気に病むことはない」
「でも…」
アンジェリークがエメラルドの瞳を悲しみの色に染めてクラヴィスを見つめる。
「アンジェリーク…」
昔、同じ事を言った少女がいた。金色の髪の女王候補…。
クラヴィスは少女を眩しそうに見つめ、柔らかそうな金の髪に、長く細い指を延ばし…途中で手を下ろした。
遠い過去の恋人。彼女とアンジェリークを重ねてしまった事に気付き、理性でそれを押し止める。膝に戻した手が震えているのに、少女は気付かない。
「…似ているな」
少女に聞こえるか聞こえないかの呟き。
「え?」
問い返すような声に、クラヴィスは微笑を返す。
「…またゆっくり話をしたいものだ」
静かに立ち上がり、黒衣を翻す。重量感のある衣装が絨毯を滑るように入口へ移動した。
「あの、今日はお話出来て良かったです」
アンジェリークの笑顔に別の誰かを重ねた闇の守護聖は、複雑な思いに囚われながら部屋を後にした。
月の曜日。アンジェリークは朝一番に光の守護聖ジュリアスの執務室を訪れた。
「こんにちは、ジュリアス様」
現在育成中の大陸に関する資料に目を通していたジュリアスは顔を上げ、入口に立つ少女を見た。
「アンジェリークか。私の力を求めるとは関心なことだ。…何の用だ?」
手にした資料を軽く束ね、机の上に置きながら少女に微笑を返す。
「今日はお話をしに来ました」
「話?」
「はい。他の守護聖様の事です」
「誰のことをだ?」
アンジェリークは少しためらい、それでも思い切ってその守護聖の名を告げた。
「あの…クラヴィス様の事を…」
ジュリアスはその名を聞いた途端眉間に皴を寄せた。
「…クラヴィス…か。守護聖に好き嫌いがあってはならぬのだが、あの者とは気が合わぬ。何を考えて行動しているのか皆目見当がつかんのだ。…今私が言えるのはこんなところだが」
口を挟む隙を与えない程簡潔に、拒絶と取れる言葉を紡ぐ。
「あっ、はい。有難うございました」
アンジェリークは慌てて礼を言うと、ジュリアスの執務室を出た。
「やっぱりお二人に仲良くなってもらうのって無理なのかなー」
閉めたばかりの扉を背に、軽く溜め息をつく。
「よう、お嬢ちゃん」
扉の前の窓に寄り掛かって腕組みをしていた、炎の守護聖オスカーが軽く手を挙げた。
「オスカー様…」
「今日はいい天気だぜ。お嬢ちゃんさえよければ散歩でもしないか?」
アイスブルーの瞳で軽くウィンクして極上の笑顔を見せるオスカーに、アンジェリークは静かに頷いた。
「はい」
「…正直、驚いたぜ」
聖殿を出て小径に差しかかったところで、オスカーは初めて口を開いた。
「え?」
何のことか判らずにアンジェリークは不思議な顔をする。オスカーは少し困ったような顔でアンジェリークを見つめ、前方の景色へと視線を移す。
「さっき、ジュリアス様の執務室でクラヴィス様の事を尋いていただろう?俺たちの間ではあの二人の事はタブーになってるんだが…お嬢ちゃんときたら…」
「すみません…でもっ」
急に立ち止まり、軽く握った拳を胸に添えて見上げるアンジェリークの唇に、オスカーはそっと人差指を当てた。
「言わなくても判ってる。お嬢ちゃんのその愛らしい瞳が俺に語り掛けてるからな」
「もう、茶化さないで下さい」
アンジェリークが拗ねたようにオスカーの手を払い退けると、もう一方の手で優しく頬を包まれた。
「俺はいつでも本気だぜ。君の瞳に見つめられているだけで世界中の幸せを一人占めにしている気分だ」
払い退けられた手をアンジェリークの背中に回し、強い眼差しでオスカーは見つめる。
「あーあ、全く聞いてらんないね」
街路樹の陰から夢の守護聖オリヴィエが呆れたような声を出した。
「…オリヴィエ、いつから見ていた?」
オスカーが不愉快そうに振り向いた。オリヴィエはオスカーの右斜め後方の木の陰から出てくる。
「いつからってねー、ここは公道だよ。見てたのは私だけじゃないっての。おわかり?」
オリヴィエは溜め息をつきながらウエーブのかかった金の髪を掻き上げた。
「?」
オスカーはオリヴィエから視線を外し、周りを見渡した。二人の近くで人集り…という訳ではないが、木陰から数人、公園のベンチから数人こちらの様子を伺っている。すれ違う人々も必ずこちらを見てから通り過ぎる。注目されているのは歴然としていた。
「あんた守護聖って自覚あるんなら自粛しなさいよ。ここは聖殿からも、よーく見える位置なんだから。他の守護聖敵に回すわよ」
オリヴィエが片手を腰に当て、人差指をオスカーに突きつける。
「あっ、あのっ」
アンジェリークが赤面しながらも二人の間に割って入る。
「ほら、アンジェリークが恥ずかしがってるでしょ?可哀相に…」
オリヴィエはさっとアンジェリークを抱き締める。
「お前っ!」
不意をつかれたオスカーは呆気に取られたようにオリヴィエを指差した。
オリヴィエは役得とばかりに勝ち誇った笑みを浮かべる。
「…そういえば、ジュリアスが捜してたよ。何か約束してたんじゃないの?」
「えっ?あっ、そうだ遠乗りの約束…。ったく、なぜそれを早く言わないっ!」
オスカーは吐き捨てるように言うと、靴音高く聖殿へと引き返して行った。
「忘れてたアンタが悪いんだよー」
オリヴィエは楽しそうに手をひらひらさせて見送った。
「…もう、オリヴィエ様ったら」
腕の中のアンジェリークがクスクスと笑う。
「もう大丈夫だよん。まーったく、手が早いったらありゃしない」
オスカーが視界から消えるのを待って、オリヴィエはアンジェリークを解放した。アンジェリークは照れたような笑顔でオリヴィエを見上げた。
「オスカー様と仲がいいんですね」
「仲がいい?あれが?うーん、どうだろうね。お互い本心を見せないからね。ま、軽口叩き合うのは結構楽しいかも」
オリヴィエは口元をきゅっと締めて笑う。
「ところで、どこ行くつもり?」
「あ、いえ別に決めてないんです。オスカー様が散歩に誘って下さったから…。でもせっかくだから、森の湖でも散歩して帰ろうかと…」
「森の湖か…。綺麗な所だよね。でも一つだけ注意して。森の奥には行かないこと。立入禁止になってるから普通は入れないんだけど万が一って事もあるから」
「はい。オリヴィエ様」
「うん。いい返事だね。それじゃ、私はこれで…」
オリヴィエは黒い羽のショールを肩に掛け直し、優雅に身を翻して聖殿へと歩み去った。
「ほんとに静かでいい所ね」
アンジェリークは森の湖で周りの木々を見上げた。日曜日ならカップルの多いこの場所も、平日ならほとんど見かけない。時々もう一人の女王候補ロザリアや守護聖が来ているのだが今日は誰もいないようだ。
思いきり伸びをして新鮮な空気を吸ったアンジェリークは湖の淵に腰掛けた。ゆっくりと湖面を覗いてみる。自分の姿が映っているが、表情がどこか暗い。水に手を浸して掻き回し、笑顔を作る。
「よし。頑張ろう!」
アンジェリークは立ち上がって背後の滝を見た。
その滝は祈りの滝と呼ばれており、力のある時に祈れば逢いたい人が現れるというものだ。
「…お祈りしてみようかな…っと、あと3つ…か。星の数が5つないと無理ね」
諦めて流れる水に触れてみる。湖の水より冷たくて気持ちいい。その清水に触れていると悩み事も一緒に流してくれそうだ。落ち込んだ時ここに来てしまうのもそんな優しい清水のせいかもしれない。
アンジェリークは帰ろうと思い、滝から離れた。
「……?」
どこからか動物らしき鳴き声が聞こえた。かすかな声でどこから聞こえてくるのか判別できない。
グルルルル…
鳴き声というより敵を牽制しているような声。
「え?もしかして猛獣…?」
ここ飛空都市に猛獣がいると聞いたことはない。動物は小動物や草食動物のはず。
アンジェリークはキョロキョロと辺りを見回した。
声はどうやら森の奥のほうから聞こえる。
「あっちの方…かな」
恐る恐る森の奥のほうを見るが、暗くてよく判らない。近付いてみると『立入禁止』の札が立っていた。
「オリヴィエ様のおっしゃってたのってこれね」
忠告を受けたばかりのアンジェリークは入らないように注意しながら立入禁止区域を覗いた。
ガサリと枝が揺れ、木の陰から大きな黒い影が現れた。息を飲むアンジェリークの前に現れたのは大きな猫。いやネコ科の動物…。
「うそ。何で豹がここにいるのーっ?」