「架空の庭」の入り口へ 

Cherry blossoms

桜の出てくる物語や詩、漫画などをご紹介しています。

桜

バラ科の落葉高木

〔花期〕3月〜4月

〔花言葉〕精神美・優れた美人

古くから国を代表する花として親しまれてきた。平安時代以降、「花」といえば桜を指すことが多い。春、一面に淡紅色の花を咲かせるソメイヨシノが有名だが、自生種も数多い。

 

<古典>


『伊勢物語』 第十七段

年ごろおとづれざりける人の、桜のさかりに見に来たりければ、あるじ、

   あだなりと 名にこそ立てれ 桜花 
      年にまれなる 人も待ちけり

返し、

   今日来ずは 明日は雪とぞ ふりなまし 
      消えずはありとも 花と見ましや

+ + +

しばらく姿を見せなかった人が、桜の花の盛りに花を見に来たので、その家の主人が歌を詠むといった場面です。
主人は女性のようですが、どうなのでしょう。

伊勢物語は、現存する最古の歌物語。
「むかし、男ありけり」ではじまることが多く、名前は出されてないにせよ、在原業平の物語と考えられています。
在原業平は平城天皇の孫であり、王族のひとりです。
(『日本古典文学全集 8』(小学館)を参考にしました。)

『伊勢物語』 第二十九段

むかし、東宮の女御の御方の花の賀にめしあづけられたりけるに、

   花にあかぬ 嘆きはいつも せしかども 
      今日の今宵に 似る時はなし

+ + +

「花の賀」は、桜の花が咲くころに行われた長寿の祝いの行事のことです。まだまだ花を見たいというこの歌の思いは、現代にも通じそうですね。
(『日本古典文学全集 8』(小学館)を参考にしました。)

『伊勢物語』 第七十一段

 故式部卿の宮、うせたまひける時は、二月のつごもり、花のさかりになむありける。堤の中納言のよみたまひける。

   咲きにほひ 風待つほどの 山ざくら 
      人の世よりは久しかりけり

三条の右の大臣の御返し、

   春々の 花は散るとも 咲きぬべし 
      またあひがたき 人の世ぞ憂き

+ + +

二月の末、桜の盛りに亡くなった式部卿の宮を偲んで詠まれた歌が二首載せられています。すぐに風に散ってしまう山桜も、人の命よりは長いと詠んだこの歌は、桜が人々にどんな風に考えられていたのかを教えてくれています。
(『日本古典文学全集 8』(小学館)を参考にしました。)

『伊勢物語』 第八十二段

むかし、惟喬親王と申す親王おはしましけり。山崎のあなたに、水無瀬といふ所に宮ありけり。年ごとのさくらの花さかりには、その宮へなむおはしましける。その時、右のうまの頭(かみ)なりける人を、常に率ておはしましけり。時世へて久しくなりにければ、その人の名忘れにけり。狩はねむごろにもせで、酒をのみ飲みつつ、やまと歌にかかれりけり。いま狩する交野(かたの)の渚の家、その院の桜ことにおもしろし。その木のもとにおりゐて、枝を折りてかざしにさして、上中下(かみなかしも)みな歌よみけり。うまの頭なりける人のよめる。

   世の中に 絶えて桜の なかりせば 
      春の心は のどけからまし


となむよみたりける。また人の歌、

   散ればこそ いとど桜は めでたけれ 
      うき世になにか 久しかるべき


とて、その木のもとは立ちてかへるに、日ぐれになりぬ。

+ + +

桜を詠んだ有名な和歌が入っています。今の季節にぴったりですね。
伊勢物語には他にも、

   あだなりと 名にこそ立てれ 桜花 
      年にまれなる人も待ちけり


   けふ来ずは あすは雪とぞ 降りなまし 
      消えずはありとも花と見ましや


   花にあかぬ 嘆きはいつも せしかども 
      今日のこよひに 似る時はなし


などといった桜を詠んだ歌が頻出します。

『伊勢物語』 第九十段

むかし、つれなき人をいかでと思ひわたりければ、あはれとや思ひけむ、「さらば、あすものごしにても」といへりけるを、かぎりなくうれしく、またうたがはしかりければ、おもしろかりける桜につけて、

   桜花 今日こそかくも にほふとも 
      あな頼みがた 明日の夜のこと

といふ心ばへもあるべし。

+ + +

冷淡な女性がやっと会ってくれることになり喜んだ男が、それでも女性の心が信じられずに歌を詠んだといった内容です。
桜の枝に歌をつけるというのもいいですね。
(『日本古典文学全集 8』(小学館)を参考にしました。)

『伊勢物語』 第百九段

むかし、男、友だちの人を失へるがもとにやりける。

   花よりも 人こそあだに なりにけれ 
      いづれをさきに 恋ひむとか見し

+ + +

大切な人を失った友人への歌です。
はかない花として桜が詠まれています。
(『日本古典文学全集 8』(小学館)を参考にしました。)

『更級日記』より

その春、世の中いみじうさわがしうて、まつさとのわありの月影、あはれに見し乳母も、三月ついたちになくなりぬ。せむ方なく思ひなげくに、物語のゆかしさもおぼえずなりぬ。いみじく泣きくらして見いだしたれば、夕日のいとはなやかにさしたるに、桜の花のこりなく散りみだる。

   散る花も またこむ春は 見もやせむ 
      やがてわかれし 人ぞこひしき

また聞けば、侍従大納言の御むすめ、なくなり給ひぬなり。殿の中将のおぼしなげくなるさま、我が物の悲しきをりなれば、いみじくあはれなりと聞く。上り着きたりし時、「これ手本にせよ」とて、この姫の御手をとらせたりしを、「さ夜ふけてねざめざりせば」、など書きて、「鳥辺山谷にけぶりのもえたたばはかなく見えしわれと知らなむ」と、いひ知らずをかしげに、めでたく書き給へるを見て、いとど涙をそへまさる。

+ + +

春の季節に亡くなった乳母と侍従大納言の娘のことが書かれている部分です。
散っていく桜を見て、また散る花でさえ来年の春は見るだろうに、もう会えない人が恋しいと作者は歌を詠んでいます。 また、この後にも、春になり花が咲く季節になると、亡き二人を思い出し哀しく思う場面があります。

『讃岐典侍日記』より

三月になりぬれば、例の、月に参りければ、堀河院の花いとおもしろく、兼方、三条院におくれまゐらせて、

   いにしへに 色もかはらず 咲きにけり 
      花こそものは 思わざりけれ

と詠みけん、げにとおぼえて、花はまことに色もかはらぬけしきなり。

+ + +

堀河天皇崩御の後、月ごとの命日に作者である讃岐典侍が堀河院を訪れる場面です。
讃岐典侍は堀河天皇に仕えた女房で、堀河天皇崩御後は次の鳥羽天皇に仕えました。

後三条院崩御後、桜が昔と変わらず咲くのを見て詠まれた歌を思い出し、確かに花の色は変わらないと讃岐典侍は書いています。
(森本元子著 『讃岐典侍日記 全訳注』 講談社学術文庫 を参考にしました。)

『平家物語』 灌頂巻・大原御幸

西の山のもとに一宇の御堂あり。即ち寂光院これなり。旧う作りなせる前水、木立、由あるさまの所なり。 「いらか破れては霧不断の香をたき、とぼそ落ちては月常往の灯をかかぐ。」とも、かやうの所をや申すべき。庭の若草茂り合ひ、青柳糸を乱りつつ、池の浮草浪に漂ひ、錦をさらすかとあやまたる。中島の松にかかれる藤波の、うら紫に咲ける色、青葉交りのおそ桜、初花よりもめづらしく、岸の山吹咲き乱れ、八重たつ雲の絶え間より山ほととぎすの一声も、君の御幸を待ち顔なり。法皇、これを叡覧あつて、かうぞおぼしめし続けける。

   池水に 汀の桜 散り敷きて 
      波の花こそ 盛りなりけれ

+ + +

後白河法皇の水辺に散り敷く桜を詠んだ歌が、映像的で美しいです。

寂光院は海に沈んだ安徳天皇の母、建礼門院が隠棲した場所でもあり、与謝野晶子が次のように詠んでいます。

   春ゆふべ そぼふる雨の 大原や 
      花に狐の 睡る寂光院

本居宣長 『玉勝間』 巻六「花のさだめ」より

花はさくら。桜は、山桜の、葉あかくてりて細きが、まばらにまじりて、花しげく咲きたるは、又たぐふべき物もなく、うき世のものとも思はれず。葉青くて、花のまばらなるは、こよなくおくれたり、大方山桜といふ中にも、しなじなのありて、こまかに見れば、一木ごとに、いさゝかかはれるところありて、またく同じきはなきやうなり。また今の世に、桐が谷八重一重などいふもやうかはりていとめでたし。すべて曇れる日の空に見あげたるは、花の色あざやかならず。松も何も、青やかに茂りたるこなたに咲けるは、色はえて、ことに見ゆ。空きよく晴れたる日、日影のさすかたより見たるは、にほひこよなくて、おなじ花ともおぼえぬまでなむ。朝日はさらなり、夕ばえも……(以下略)

+ + +

ジャンルは随筆です。曇りのときよりも、晴れているときに見る桜がいいというのはよく分かります。

宇治拾遺物語 「田舎の児桜の散るを見て泣く事」

これも今は昔、田舎の児(ちご)の比叡の山へ登りたりけるが、桜のめでたく咲きたりけるに、風のはげしく吹きけるをみて、この児さめざめと泣きけるをみて、僧のやはら寄りて、「などかうは泣かせ給ふぞ。 この花の散るを惜しうおぼえさせ給ふか。桜ははかなきものにて、かく程なくうつろひ候なり。 されども、さのみぞ候」と慰めければ、「桜の散らんは、あながちにいかがせん、苦しからず。 我が父(てて)の作りたる麦の花散りて、実の入らざらん思ふが侘しき」といひて、さくりあげて、よよと泣きければ、うたてしやな。

+ + +

僧は児が桜が散るのを惜しんで泣いていると思って慰めたのですが、児は父の作っている麦のことを考えているという点が面白いです。桜は児にとっては農作物の収穫を占うものらしく、そのような風習は全国的に見られるとか。

「鳥の町」より

「この御寺に桜の盛りとうけたまはりてまゐりぬ。何とぞ見物仕りたし。」と言い入れ、五、六人連れにて庭前を見歩き、中に一人の若者、一枝手折らむとせしを、和尚に見とがめられ、「これこれ、何ゆゑに桜を手折らむとするぞ。」としかられて、「はて、没義道にのたまふな。『見てのみや人に語らむ桜花』と申す歌もござる。」「いやいや、埒もないことを言ふ人よ。入相のころは鐘さへもつかせぬに。」

   見てのみや 人に語らむ 桜花 
      手ごとに折りて 家づとにせむ

    (「古今和歌集」より)

   山里の 春の夕暮れ 来てみれば 
      入相に鐘に 花ぞ散りける

    (「新古今和歌集」より)

+ + +

お寺に桜の花を見に来た若者の一人が、一枝手折ろうとして、和尚に見咎められます。それに対して、古今和歌集の歌を引用して、眺めただけでは人に桜の美しさを語ることができるでしょうか(できるわけがないので、家へのみやげにしましょう)、と言うのです。しかし、和尚がそれに答えて新古今和歌集の歌をうまく使って切り替えしているのがうまいです。

鹿持雅澄 「山斎集」

桜といふ花こそ万の花にも勝れにたれ。この花、唐国には生ひず、我が大和の国にのみありて、めでたき花の限りなりけり。昔、唐国より引き来て植ゑしといふ梅の花、亦めでたき花なりといへども、時いと早くして、ふる雪にまじり咲き出たる、見る袖も寒かりけり。すべて一年のうちにも、やよひの頃ぞいと比ひなき。久方の光麗かに、足引のあらしの音も静かなるに、白雲のかかるがごとく咲き匂ひたる桜の花にしく物なむなかりける。

+ + +

桜のすばらしさを書いた文です。鹿持雅澄(1791-1858)は幕末の国学者で『萬葉集古義』の著者。江戸時代の桜観を垣間見ることが出来そうです。

橘南谿 「西遊記」

昔、山越の里に老人ありけるが、年ごとに老いて、そのうへ、いみじう重き病に臥し、頼み少なくなりけるに、ただ、この谷の桜に先立ちて、花をも見ずして死なんことのみを嘆きて、「いまひとたび花を見て死なば、うき世に思ひ残すこともあらじ」など、せちに聞こえければ、その子悲しみ嘆きて、この桜の木の下に行きて、「なにとぞ、わが父の死にたまはざる前に花を咲かせたまはれ」と心をつくして天地に祈り願ひけるに、その孝心、鬼神も感じたまひけん。一夜の間に花咲き乱れ、あたかも三月の頃のごとくなりける。この祈りける日、正月十六日なりけるとぞ。

+ + +

死ぬ前に桜の花を見たいと病気の父親は願っています。ただ、まだ桜が咲くには時期外れの一月十六日。本来咲くわけがありません。
しかし、その願いをかなえたいと思った子どもが天地に祈ると桜が咲いたという不思議なお話です。

<短歌・俳句>


あしひきの 山の間照らす 桜花
   この春雨に 散りゆかむかも 
(よみ人しらず/万葉集)

清水へ 祇園をよぎる 桜月夜
   こよひ逢ふ人 みなうつくしき 
(与謝野晶子)

うすべにに 葉はいちはやく 萌えいでて 
   咲かむとすなり 山桜花 
(若山牧水)

さまざまの 事思ひ出す 桜かな (芭蕉)

夕桜 家ある人は とくかへる (一茶)

観音の 大悲の桜 咲きにけり (正岡子規)

<詩>


「さくら さくら」

さくら さくら
やよいの空は 見わたすかぎり
かすみか雲か 匂いぞいづる
いざや いざや 見にゆかん

昭和16年に一部が下のように改められた。

さくら さくら
野山も里も 見わたす限り
かすみか雲か 朝日ににおう
さくら さくら 花ざかり

武島羽衣 「花」


春のうらゝの 隅田川
のぼりくだりの 船人が
櫂のしづくも 花と散る
ながめを何に たとふべき


見ずやあけぼの 露浴びて
われにもの言ふ 櫻木を
見ずや 夕暮れ 手をのべて
われさしまねく 青柳を


錦おりなす 長堤(ちょうてい)に
くるればのぼる おぼろ月
げに一刻も千金の
ながめを何に たとふべき

+ + +

滝廉太郎作曲の歌曲集『四季』の第一曲。

<漢詩>


永井荷風 「墨上春遊」

黄昏転覚薄寒加     黄昏転(うた)た覚ゆ 薄寒の加わるを
載酒又過江上家     酒を載せて又過ぐ 江上の家
十里珠簾二分月     十里の珠簾 二分の月
一湾春水満堤花     一湾の春水 満堤の花

+ + +

墨田川の堤に咲く桜、そして空には満月。桜の季節にふさわしい漢詩です。


<小説>


アンジェラ・ナネッティ 『おじいちゃんの桜の木』 小峰書店

「ぼく」には田舎に住むオッタビアーノおじいちゃんとテオドリンダおばあちゃんがいた。おじいちゃんたちの野菜畑には、「ぼく」のママが生まれたときに植えられた桜の木があり、フェリーチェと呼ばれている。
「ぼく」はあまり田舎に行く機会がなかったけれど、おじいちゃんとおばあちゃんが大好きだった。でも、おばあちゃんが病気になってしまい……。

+ + +

外国文学に出てくる桜の木を読むと、逆に日本人の桜への思い入れを感じさせられます。日本文学での桜と全く描かれた方が違うんですよね。

ラフカディオ・ハーン 「乳母桜」

『怪談』の中の一編。

伊予の国温泉郡朝美村に住む徳兵衛は、善良で村の長をつとめるほどの人物だったが、四十を過ぎても子どもがいなかった。それを苦にした徳兵衛夫婦が西方寺の不動明王に願をかけて祈ると、女の子が生れたので露と名づける。
露はたいそう美しい娘に育ったが、十五歳になると病に倒れ、医者の見たてでは助かる見こみはないという。そのとき、露を娘のように思っている乳母が、不動明王に願をかけたところ、満願の日、露の病はたちまち治った。しかし……。

+ + +

乳母は最後に西方寺の境内に桜を寄進してくださいと頼むのですが、なぜ桜だったのかが気になります。

ラフカディオ・ハーン 「十六桜」

うそのよな十六桜咲きにけり

『怪談』の中の一編。

伊予の国の和気郡にある「十六桜」という古木の由来の物語。
この桜は不思議なことに陰暦正月十六日に咲くという。
花を咲かせているものの正体とは?

+ + +

ハーンの『怪談』は日本の古典からとったものがほとんどで、この桜の話も別に出典があるようです。

リンドグレーン 『はるかな国の兄弟』 岩波少年文庫

重い病気で学校に半年間も行けないでいるクッキー(本名はカール)は、自分がもうじき死ぬということを知っていた。
大好きな兄に、ぼくがもうすぐ死ぬのを知っているの?ときくと、兄は知っていると答え、死ぬことはすてきだと言うのだ。
なぜかというと、死んでしまっても土の下で寝ているのはぼくのぬけがらで、ぼく自身はナンギヤラというところに行くからだという。

兄と一緒のところに行けると聞いたぼくは、先にナンギヤラに行ってもしばらくなら我慢できると思っていたのだが、突然の火事で兄が先に死んでしまい……。

ああ、その谷は、どこもかしこもサクラの花でまっ白でした!サクラの花と、緑あざやかな草とで、白く、また緑でした。(p.38〜p.39)

今西祐行 「花のオルガン」(『一つの花』収録) 岩崎書店

空の上にいる花の天使は、春が来たので、北の国に花を咲かせるために、北の国にやってきた。天使たちが息を吹きかけると、どんなに小さい花も花を開くのだ。
しかし、ある桜の木がなかなか花を咲かせない。天使たちは一生懸命みんなで息をふきかけ、やっと桜の木は花をちらほら開かせた。

ところが、春が過ぎ、夏が来て、天使たちが桜のところへ戻ってくると……。

+ + +

花の天使(作中では「花のてんし」と書いてあります)は、ミルク色の服を着ているので、私達には見えないそうです。

上橋菜穂子 『狐笛のかなた』 理論社

人の心の声が聞こえる、<聞き耳>という力を持つ小夜は、ある日犬に追われている子狐を助けた。そして、怪我をした子狐を抱きしめたまま、里人の出入りを禁じた森陰屋敷へと仕方なく向かうこととなる。
そこで、小夜と子狐を助けてくれたのは、同じ年ぐらいの少年だった。その少年小春丸と親しくなる小夜だが、ある事情で会うことができなくなってしまう。

そして、数年後、小夜は彼らと再会する……。

+ + +

お家争いや呪者たちの攻防、恨みの連鎖など、読み応え十分です。
若桜野という「桜」の地名がついた場所が争いの焦点となっているのとは対象に、枝屋敷という名前の館の周りに植えられた梅が破邪の梅となっているのも興味深いですね。

桜の出てくるラストは美しいです。

小沢淳 『プリマヴェーラの葬送』 講談社

旧家に家事手伝いとして雇われた娘、晴美。彼女から叔母に宛てられた手紙には、「殺される、助けてください」とだけ書かれていた。
弓削家の館に踏み込んだ人々が見たものは……?

晴美を魅了した、弓削家の当主、葉月。艶やかな美しさを持つ、美春。二人の世話をする老人たち。謎の庭師――四季折々に姿を変える庭に建つ洋館を舞台にしたミステリ。

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大きな庭に囲まれた館が舞台の小説なので、桃や木蓮、藤などいろいろな花が出てきますが、やはり桜のイメージに彩られたお話です。

梶井基次郎 「桜の樹の下には」

「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」
という有名な一文ではじまる短編。
桜の美しさに潜む、妖しさ、禍々しさをあますところなく描ききっている。

+ + +

日本人の桜に抱くイメージに大きな影響を与えている短編。
1928年(昭和3年)初出という事実に驚かされます。
梶井基次郎(1901-1932)のその他の代表作は『檸檬』『城のある町にて』など。

青空文庫で読むことができます。

柏葉幸子 『花守の話』 講談社

お父さんは中国へ長期出張、お母さんは急なパート先の研修旅行。
五年生になる春休み、しつこい風邪をひいた瞳子の面倒をみてくれる人はなかなか見つからず、家政婦さんもうまく探せない。
お父さんは、お母さんの母親に頼んでみたらとお母さんに言うのだが、子どものころに別れた母親にはあまり頼みたくないようだ。

しかし、他に頼む当てもないため、結局やって来たおばあちゃんは、瞳子の想像するおばあちゃんとはまったく違っていた。朝からきれいにメイクをしており、少ししわが見えるがおばあちゃんと呼ぶのは悪いようだ。

その夜、10時過ぎても眠れないでいた瞳子のところに、おばあちゃんが顔を出し、いきなり「むかしむかし、あるところに」と話し始める。あっけにとられた瞳子だが、せっかく話を聞こうと思ったところに、おばあちゃんの携帯に不思議な電話がかかってきて……。

+ + +

桜には不思議な話が似合います。

加納朋子 『掌(て)の中の小鳥』 東京創元社

とある事件の解決をきっかけに、「僕」はあまり乗り気ではなかったパーティに参加することにした。無性に人恋しかったのだ。
そこで僕は鮮やかな赤のワンピースを着た女性に出会う。
彼女は傍らの男にこう言っていた。

「きっかけなんて、大抵はつまらない偶然なのよ」

彼女に魅せられた僕は……。

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日常の謎を扱った連作短編集。

川端康成 『山の音』 岩波文庫

信吾は、敗戦直後の鎌倉で、年上の妻、息子、息子の嫁と一緒に暮らしている。
彼は息子が外に女を作っていることを知り、嫁の菊子に哀れみとも何ともいえない感情を抱くようになるのだが……。

四季の移ろいの中、人間の心の揺れ動くさまが丁寧に描かれている。

+ + +

桜以外にも四季折々の植物が出てきます。
桜は、新聞に載った老人夫婦の家出の記事の前後に、「……。今が盛りで、散るものとは思えない。」(p.177)
しかし、確実に散っていくものとして書かれています。

坂口安吾 「桜の森の満開の下」

鈴鹿峠は桜の森の下を通らなければならない道があり、しだいに誰もがそこを避けるようになっていった……。人々は桜を怖れていたのだ。そこにすみついた山賊も悪事を働きつつ、桜を怖れ、しかし満開の桜が頭から離れることはなかった。

彼と、彼が出会った女、そして桜の物語。

そして桜の森が彼の眼前に現れてきました。まさしく一面の満開でした。風に吹かれた花びらがパラパラと落ちています。土肌の上は一面に花びらがしかれていました。この花びらはどこから落ちてきたのだろう? なぜなら、花びらの一ひらが落ちたとも思われぬ満開の花のふさが見はるかす頭上にひろがっているからでした。

+ + +

桜を描いた短編です。
桜の怖ろしさ、美しさを存分に堪能できる坂口安吾(1906-1955)の代表作。坂口安吾は無頼派、あるいは新戯作派と呼ばれる戦後活躍した作家の一人です。その他の代表作は『堕落論』『白痴』など。

この「桜の森の満開の下」は、梶井基次郎作「桜の樹の下には」と並んで有名ですね。 1947年(昭和22年)初出。

青空文庫で読むことができます。

桜庭一樹 『荒野』 文藝春秋

小説家の父と住み込みの家政婦さんと一緒に暮らす荒野は、今日から中学生。入学式の朝を迎えていた。
その日、JR横須賀線に飛び乗った荒野はセーラーをドアにはさんでしまい、それを引き抜こうとして、ホックがはずれ白いスリップが見えてしまう。
助けてくれたのは文庫本を読んでいた少年だった。

後で、彼は同じクラスになった神無月悠也だと分かるが、荒野の名前を聞いたとたん、責めるような目で荒野を見たのだ。
家政婦の奈々子さんに彼のことを相談したところ、惚れたのでは?とからかわれてしまい……。

濡れた石段の上に、ソメイヨシノの花びらがひらひらと舞い落ちてきた。 (P.24)

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桜も含めてたくさんの花が出てくる、鎌倉を舞台にした小説です。

太宰治 「葉桜と魔笛」

葉桜の季節になると思い出すことがある、と老婦人は物語る。彼女には、今から三十五年前、結核を患い、もう百日持たないと医者にいわれた美しい妹がいた。
妹の看病をしながら、彼女は妹に宛てて届いたある男性からの手紙を盗み読んでしまう。その男性は妹の病気を知り、妹に手紙を送るのもやめてしまったようだった。
ところが、妹を捨てたはずのその男性から、新たな手紙が届いて……。

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これが桜の花の下を舞台にした話でしたら、もっと幻想的だったと思います。わざわざ葉桜の季節にしたのは、現実感を出したかったのでしょうか。
葉桜のほうが何となく不気味な感じがしますけれど。

青空文庫で読むことができます。

樋口一葉 「闇桜」

隣同士に住む、園田家と中村家。
園田家の良之助と中村家の千代は本当の兄妹のように仲がよかった。ところがある日、千代の知り合いに二人でいるところを冷やかされた日から、千代は良之助への恋心を自覚してしまう……。

風もなき軒端の桜ほろほろとこぼれて、夕やみの空鐘の音かなし。
(『全集 樋口一葉1 小説編一』 p.15)

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はかなく消えゆく少女の命と、散る桜が重ねあわされています。
この作品では、現代人のイメージする桜の妖しさというものは感じられません。1892年(明治25年)初出。
樋口一葉(1872-1896)は明治を代表する女流作家。代表作は『たけくらべ』『にごりえ』など。

三浦しをん 「残骸」(『私が語りはじめた彼は』収録) 新潮社

政財界に影響力を持つ男の娘と結婚し、婿養子となった私。
何でも思いどおりにしようとする子どものような妻や、婿養子の私に何かと口を出してくる義父に囲まれながらも、私は幸福な生活を送っていた。気になるのは、自分たちの家の庭が首都高速道路の計画予定地に入っているため、庭の半分を売らなければならなくなるかもしれないことぐらいだ。庭に咲く桜の木はもうすぐ蕾をほころばせようとしている。

ところが、ある日、ある女性と妻の会話をたまたま耳にした私は、今まで知らなかった事実を知らされる。私の下した決断とは?

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連作小説の一部です。

森絵都 『ラン』 理論社

十三歳で両親と弟を、二十歳でおばさんを亡くした環は、しだいに生と死の境界があいまいになってゆくような感覚になっていた。
そして、自転車屋のこよみが死に、こよみの飼い主の紺野さんからモナミ一号をもらったことで、ますます死者の世界へと近づいていく。
自転車に乗っていたある日、信じられないような距離をこぎ続けた環は、ある場所へとたどりついたのだ。そこには、若返ったこよみがいて……。

一面の白に埋もれた桜並木。
前に見たのはいつ、どこでだっけ?
思い出せない。でも、前に見たときに思い出したことなら思い出せる。 (p.137)

+ + +

とある理由で主人公の環はランニングを始めます。目標は40キロを六時間以内で走れるようになること。そのために、彼女はあるランニングチームに所属し、苦手な人付き合いをするようになっていくのですが……。

若竹七海 「子どものけんか」(『サンタクロースのせいにしよう』収録)

友人から紹介された松江銀子との同居生活が急に終わりを告げることになり、柊子は部屋探しや引越し支度で大慌て。その上、銀子さんに家事を仕込んでほしいと頼まれ、殺人的な忙しさになった。その料理教室の最中に、柊子はとある事件のことを思い出して……。

+ + +

『サンタクロースのせいにしよう』収録。お花見に行ったときに、その「とある事件」は起きます。最後も桜で締めくくられる、連作短編の一つです。

<漫画>


厦門潤 「エデンの桜」(『密天の花園』収録) 新書館

桜だらけの高校、桜台高校で今日は入学式が行われる。
そこで少年は少女と出会う……。

+ + +

桜だからこそというお話だと思います。

今市子 「魔の咲く樹」(『百鬼夜行抄8』収録)  朝日ソノラマ

山の中に引越してきた也実の一家。古い日本家屋の西側には大きな桜の木があり、お化け桜と呼ばれているようだった。
また、一家で町内会長に挨拶に行った際に、その桜の木は咲かないことと、古めかしいしきたりを聞かされて……。

+ + +

桜の樹の下には屍体が埋まっているという伝統(?)をうまく引き継いだ短編です。別に主人公のいるシリーズものの一篇でもあるので、これだけを読んだら少し分かりにくいのでご注意を。
桜=魔・妖のイメージは、坂口安吾の「桜の森の満開の下」とも近いかもしれません。

桑田乃梨子 「たとえていえばそれは」(『犬神くんと森島さん』収録) 白泉社文庫

学校の先生に恋して、卒業後結婚し、幸せな生活を送っている尚枝。
しかし、10歳年上の先生が今の生活に満足しているのだろうかと不安に思ってしまう。
先生は自分のどんな話でもにこにこ相手をしてくれるのに、自分は先生の話をただ聞くだけしかできない。

先生が学生時代の後輩と会うときに、尚枝は気を利かせて先生を一人で出かけさせたのだが……。

「家の中に
桜の木があって
いつも花が咲いている
そんなかんじです」
(p.450)

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制服ウォッチングが趣味の怪しい高校教師森島恵子が出てくるシリーズの番外編的作品です。

こうの史代 『夕凪の街 桜の国』 双葉社

広島のある日本のあるこの世界を
 愛するすべての人へ
 (p.4)

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原爆投下十年後の広島を舞台にした「夕凪の街」と、「夕凪の街」に出てくる女性の姪を主役にした「桜の国」の二編で構成されています。
ここ数年で読んだコミックの中で一番読み返した本です。

須藤真澄 「このはなさくや」(『子午線を歩く人』収録) アスペクト

「ゆずの湯」の前で「まー坊」はご近所のおばさま方とばったり出会い、お花見に誘われる。連れて行かれたのは二丁目の空き地。
そこにはほそぼそとした小さな桜しかなく、憤慨する「まー坊」におばさま方が見せてくれたものは……?

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春の夜の不思議なお話です。

高橋留美子 『めぞん一刻』 小学館

変わり者ぞろいのアパート「一刻館」。
出て行くことに決めた浪人生・五代だが、新しい管理人となった女性を見たとたん、考えを変えてしまう。
しかし、彼女には複雑な事情があるようで……。

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最後の数回に出てくる桜の場面は特に印象深かったです。

山口美由紀 「花異国(はなとつくに)」(『フィーメンニンは謳う5』収録) 白泉社

小さいころキャンプ登山で道に迷った隆は、従兄と共に桜の花が咲く不思議な村へと迷い込んだ。そのままそこに残った従兄は結局戻ってくることはなく、隆だけが麓の村へと無事に姿を見せ、桜の咲く村は子どもの見た夢として片付けられてしまう。
それから十年後、桜の咲く村で出会った少女と再開した隆だが、少女は何か秘密を抱えているようだった……。

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桜と鬼の悲しい物語です。

山口美由紀 「夢幻桜」(『ひとゆり峠』収録) 白泉社

不思議な力を持ってうまれたために、家族にもうとまれ放浪の旅を続ける男が主人公。
彼は桜の盛りのある日、ひどい嵐にあって古い絵馬堂で暖をとることになった。先客の二人と話をしていると、子どもがひとり彼のあとをたどるようにやってくる。

その子どもは目が見えない代わりに、自分に優しい心を持つ人間を光として感じることが出来るという。母親とはぐれて絵馬堂に迷い込んだと言った子どもの首には、指のあとがくっきりと残っていて……。

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「目隠し桜」という特別な桜の場所が出てきます。
天から降るように花びらが舞う……見てみたいですね。

わかつきめぐみ 『So What?』 白泉社

祖父危篤の知らせに実家にかけつけた阿梨が見たものは、幽霊になった祖父と異世界の住人ライムだった。
祖父の研究タイムマシンのせいで、ライムは異世界から運ばれてきたらしい。
ライムを元の世界へ返すように祖父に頼まれた阿梨のところに、新しい住人がやって来て……。

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作中に出てくるのは八重桜です。いろいろなジャンルの本を書いていた阿梨の祖父が、彼女のために書いたものが「他の桜より遅く咲くのを嘆いてる八重桜の話」(p.112)でした。

わかつきめぐみ 「ONE WAY」(『黄昏時鼎談』) 白泉社

体の弱い妻の看病をしていた男のところに、不思議な生き物が現れ問いかけた。
妻はこの先もずっと寝たり起きたりをくり返すつらい日々を送ることになる。少しでも早く終わらせてやりたければ……と。

それに対して男が答えた言葉とは?

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8ページの短編ですが、心に残ります。