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Visions of the Body, Appearance after Dance

『身体の夢〜ダンスの後に残るもの』

【9】

福原 哲郎




 「いま、物理学はたいへんな時代に入っている。かつてはSFの範疇と思われていたような考えが、理論的に、ひょっとすると実験的にも、ありうると見なされるようになってきた。余剰次元という新しい概念が発見されると、素粒子物理学者、天体物理学者、宇宙論研究者の世界の見方はがらりと変わり、もはや従来の考えには戻れなくなっている。」(リサ・ランドール/理論物理学者 『ワープする宇宙』2005)

■目次

[序]  動物たちの記憶を辿る旅
【1】【2】
第1章 『新しい知〜身体と環境は一体という思想』
【3】【4】【5】
第2章 『身体知の情報化〜新しい科学の言葉で語るという課題』
【6】【7】
第3章 『宇宙視点から地球を見ると』
【8】
第4章 『進化の夢〜分身創造』
【10】【11】 【12】
第5章 『スペースミュージアム』
【13】【14】
第6章 『芸術の新しい役割』
【15】【16】
第7章 『経済を生み出す新しい文化〜身体・家具・家・都市・コミュニケーション』
【17】 【18】
第8章 『「大家族」という生き方』
【19】 【20】
[おわりに]
【21】


第3節 遺伝子テクノロジーがつくるもの

 同様のテーマとして、宇宙的な視点からヒトの未来について語れる哲学者として評価されてきた宇宙物理学者フリーマン・ダイソンは、遺伝子テクノロジーについて次のように述べている。

 「遺伝子操作により、オリンピックの金メダリスト、成功するビジネスマン、素晴らしい音楽家を生み出す確率を高めることができると考えるなら、それはあまりに誘惑の強い話しである。遺伝子改変された子供が増えるということはヒトの進化を急速に促進することになり、最悪の結果を招きかねない。ヒトという種が相互交配不可能ないくつかの種に分かれる可能性も出てくるだろう。我々の子孫は運命を決する重要な選択を迫られるだろう。遺伝子工学の実践を規制する法律をつくる際、親の自由か、人類全体の調和か、二つの理想のどちらかを選ばなくてはならない。」(『百年の愚行』 紀伊国屋書店 2002)

 ここでもまた、果たしてそうだろうか? 遺伝子改変された子供が増えるという問題は、現在も、「親の自由」か「人類全体の調和」かという選択の問題だうか。レヴィ・ストロースが「六〇億に膨れ上がった人口をもって地球の危機」と考えたのと同じで、フリーマン・ダイソンがいう「人類の調和」もまた、これまでの人間概念に基礎をおく人間中心主義に立っているように思える。
 もし彼が、遺伝子改変自体が人間の尊厳や概念を崩壊させるという理由で反対の気持ちをもっているなら、それはそれとして尊重される。しかし、それは「親の自由」か「人類全体の調和」かという問題ではなく、単に彼の道徳観の問題になる。
 現在、人工多能性幹細胞としてのips細胞が開発されたことで、遺伝子改変に関する道徳観の構造が明瞭になってしまった。「ES細胞は生殖細胞の破壊であり、胎児殺しを意味するため倫理的に許容されない。しかしips細胞は皮膚細胞の利用であり、その点問題がない」という世界をリードする議論は、いったい誰のためのものなのか。ローマ法王でさえ、ips細胞ならOKということで遺伝子操作に「GOサイン」を出してしまった。つまり、遺伝子操作が問題だったのではなく、「生殖細胞の破壊」をめぐる倫理が問題だったのである。このような、主としてキリスト教系の道徳観や考え方が、遺伝子テクノロジーという今後の世界のあらゆる人間の利害にかかわることになる重大テーマをリードしていいのだろうか。
 たとえば、それがES細胞の利用であっても、もし遺伝子操作された子供たちが優秀な存在として成長し、遺伝子操作されていない人間たちがそれまでできなかった地球問題を解決したとしたら、どうなるだろうか。地球問題を解決するためには、これまでの人間的叡智を超えた知性が必要にな.るかもしれない。そのため、現在の窮状が続くなら、彼らに対する期待が高まるかもしれない。その場合には、彼らは「親の自由」ではなく、「全体の調和」を担う新しいヒーローとして登場するのである。
 このように、結果次第ですべてOKになってしまうのが私たちの世界であるとすれば、オリンピックの金メダリスト、成功するビジネスマン、素晴らしい音楽家も、遺伝子操作で生み出せるなら、世間は容易に歓迎する側に傾くだろう。それにより、結果がすべてを決定するという世界を動かす原理はますます力をもつことになる。
 そして、そのときの課題とは、倫理問題ではなく、どうすれば一般の人間たちも容易にその恩恵を受けることができるようになるのか、またそれを受け入れる世間の受容能力をどのように高めていくのか、それらに移行するのである。つまり、遺伝子テクノロジーについて、道徳を含めた現在の価値基準で判断することは、かえって「全体の調和」に反するかもしれない。

 こうして、レヴィ・ストロースがいう「適度な人口」も、フリーマン・ダイソンがいう「人類全体の調和」も、何をもってそのように主張するのか、その根拠が問われることになる。生物の多様性を破壊してきたのは人類のため、人類の登場自体が「他の生物が生存する権利に対する侵害」ではなかったかどうか。しかし、当事者である人類にどうしてそれがわかるだろうか。「地球破壊の当事者・人類こそ早めに地球から退場して欲しい」と、もし地球や動物たちにいわれたとしたら、レヴィ・ストロースはどう答えるだろう。「親の自由」を非難する根拠も、ES細胞・ips細胞等の万能細胞が「人類全体にとって役立つ成果」をあげてしまえば成立せず、何を根拠にしているのか不明になる。人間がさらに新しい局面をむかえることになる今後においては、なおさら不明というべきである。  このように、世界の進行は早く、道徳の境界は曖昧になり、レヴィ・ストロースやフリーマン・ダイソンのような世界の知性も相対化され、効力を失い、次々に人間は新しい世界の問題の前に立たされていく。  それで、そのつど世界の知性も「後追い」を余儀なくされ、結局、いつまでたっても何も解決しないとすれば、いったいどうすればいいのか。どこかに人間中心のエゴを隠しもっているのでもなく、地球の一部地域の宗教の価値基準を世界に押しつけるのでもなく、新しい技術が登場するたびに驚いて自己の体系を修正するのでもなく、必要なテクノロジーについては自分たちで選択し、あるいは開発し、自分たちの身体と環境を必要なだけ自分たちで進化させ、それで必要な責任はすべて自分たちで背負い、もっと自信をもって世界の新しいあり方にシフトしていける方法はないのか。


第4節 新しい知の条件

 二〇世紀には、アインシュタインやハイゼンベルクらの多くの物理学者たちが原爆開発に関係し、その成果が政治に悪利用されるという悲劇があった。その後、科学者たちは核廃絶と核の拡散を防ぐための平和会議を組織し、抵抗したが、平和会議は有効ではなかった。いまでは世界中に約2万7000発の核が拡散している。
 現在のイランや北朝鮮による核開発に対しても、核保有国は「君たちはもつべきではない」といえるための正当な理由を掲げることができない。自分たちが核を保有し核抑止力で大国の位置を築いている以上、正義は不在であり、依然として武力の論理で抑えつけているだけである。スキを見て核開発に成功したイスラエル、インド、パキスタンのような国が出たことも当然である。日本のような核被災国だけが核廃絶を正当に主張できるということ自体が、健全な政治力が世界的に衰退していることの証明である。
 今後の科学者は、このような世界の中で、どのように振舞っていくべきか。核に相当するインパクトのある発明は続々と誕生する可能性がある。核が世界に拡散してしまった原因は、科学者たちが政治力をもつことができなかったことも一因だが、しかし彼らの善悪二元論や良心的態度も核心にふれていなかったからである。
 より深い問題は、悪に利用されて驚く科学者自身のあり方にあるのではないか。その認識が曖昧で、自分の世界にしか関心がなく、悪が登場してから子供のように驚いている。そのように振舞うことで、自分たちが属する善の世界と悪の世界を二分し、それまで以上に悪の世界を無法地帯と化してしまう。良心的な科学者たちは、自分たちの正義を守ることに必死で、何よりもこの重大さに気づかない。悪の存在は最初から承知して開発に従事すべきであり、悪利用されることは当然あり得る。それが、悪利用されてはじめて驚くとすれば、「子供のような科学者たち」と揶揄されても仕方がない。

 遺伝子操作、脳改造、ロボット工学などのテクノロジーも、同様の局面に立たされていく。世間では、すでにクローン人間たちや脳改造された人間たちが誕生しているのではないかとの噂も流れ、攻撃用の無人飛行機の次にロボット兵士も登場しようとしている。その意味で、確実に人類は重大な局面を迎える。まったく新しい人間の種が誕生したり、人間の代わりに戦争を遂行するロボットが登場する可能性が現実にあるからである。
 そのような時に、これからの科学者たちも、二〇世紀の科学者たちと同様の態度をとるのだろうか。悪利用されて、怪物のような種が誕生したり、戦争の新しい原動力として利用されたりした時、自分たちは関与していないし、そのような開発は思いもよらぬことだったと、同じように言い訳をするのか。そのような事態の場合には、彼らがタッチしていなくても、誰かがその成果を悪利用できたことは事実であり、彼らの開発がなければ悪利用も成立しなかった。新しい科学者たちは、核の教訓を生かすというなら、悪利用に対しても責任をとるべきである。「勝手にワル者たちがやったことで、自分たちは知らない。自分たちはワル者たちの世界に属していない」という論理は、悲劇を体験した二〇世紀の科学者たちと同様であり、その時だけ子供のふりをすることは通用してなくなっていく。
 今後のどんな開発も、必要とするままに、自由にやればいい。遺伝子操作も、脳の改造も、サイボーグ化も、好きなだけやればいい。ただし、常に悪利用されることを覚悟し、善悪を二分し自分たちだけが善の世界に属するという囲い込みをせず、悪利用されないための条件をつねに考え、悪利用された場合には進んでその責任をとる側に加わる、という条件のもとで。責任をとることで、彼らも悪の新しい一員になる。しかし、そのことで、悪が悪として独立した世界を形成できるという悪の側の論理も崩れる。これが、これからの時代の開発者の「新しい態度=新しい知」になるのではないか。
 それは、つまり、悪利用されても全体としては困らない、世界の新しいあり方を創造していくことである。「A」などよりも「B」の方が素晴らしく、「A」をつくった者が「B」を知れば後悔する「B」を誕生させること。そして、それならば努力できる。わたしたちは悲観する必要はない。どんな悪があっても、どんな停滞があっても、大丈夫である。
 文明の担い手であるもう一方のアートを含めた人文社会科学の役割も、現在よりははるかに重要な存在として復活できる。アドバイザーや監視の役目ではなく、開発の現場に入っていくことが急務になる。科学技術と人文社会科学の協同とは、本当はこういうことだろう。両者が開発の現場に入ってはじめて、両者の知が生かされたものが開発されるからだ。
 これからは、多くの分野が、科学技術の成果だけを利用するという態度をやめ、自分たちも開発プランを用意し、そのレースに参加すべきである。人文社会科学やアートからの提案は、しばらくは誰にも相手にされないかも知れない。「なぜ、あなたが? 資格もないのに。素人なのに」と、既成の専門家たちから冷たく怪訝な顔をされることもあるだろう。しかし、なぜこのような提案が思いがけない分野から登場するのか。そこには深い理由がある。世界の法則は動いている。どこかで収支が合うように、時代が突然、変転する。思いがけない出来事が起きる。それが世界というものだろう。

 このような新しい世界では、テクノロジーが人間の方向を決定するのではない。その逆に、人間がテクノロジーの方向を決定するのである。人間の歴史は、これまでにも増して、「人間の夢のもち方が次の進化を決定する」という特徴的な時代になっていくだろう。ある者は誤り、とんでもない結果をひき起こすだろう。ある者は成功するだろう。誤る者たちがひき起こす害を最小限に抑えるためにも、多くの成功事例が世界に登場していく必要がある。
 こうして、問題のカギは、予想したくない事態が起きたときにどうするかという対策とマップを、事前に用意しておくことだ。テクノロジーを悪利用しても、100年後には滅んでいること。遺伝子操作で生体のどんな改造に成功しても、その生体との親和性を築けなければムダなこと。何の準備もなく宇宙に進出しても、滅ぶ運命にあること。その新しい知のマップが正確に形成されているほど、人類が誤る道も軽減される。楽天的な見通しを掲げるほど、このマップは曖昧なものになる。  


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