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Visions of the Body, Appearance after Dance

『身体の夢〜ダンスの後に残るもの』

【17】

福原 哲郎




 「いま、物理学はたいへんな時代に入っている。かつてはSFの範疇と思われていたような考えが、理論的に、ひょっとすると実験的にも、ありうると見なされるようになってきた。余剰次元という新しい概念が発見されると、素粒子物理学者、天体物理学者、宇宙論研究者の世界の見方はがらりと変わり、もはや従来の考えには戻れなくなっている。」(リサ・ランドール/理論物理学者 『ワープする宇宙』2005)

■目次

[序]  動物たちの記憶を辿る旅
【1】【2】
第1章 『新しい知〜身体と環境は一体という思想』
【3】【4】【5】
第2章 『身体知の情報化〜新しい科学の言葉で語るという課題』
【6】【7】
第3章 『宇宙視点から地球を見ると』
【8】【9】
第4章 『進化の夢〜分身創造』
【10】【11】【12】
第5章 『スペースミュージアム』
【13】【14】
第6章 『芸術の新しい役割』
【15】【16】
第7章 『経済を生み出す新しい文化〜身体・家具・家・都市・コミュニケーション』
【18】
第8章 『「大家族」という生き方』
【19】 【20】
[おわりに]
【21】


第7章 『経済を生み出す新しい文化〜身体・家具・家・都市・コミュニケーション』

第1節 経済の文化化と文化の経済化

 『スペースダンス・イン・ザ・チューブ』を続けていくと、何が起きるだろうか。世界の人びとに「身体生活の新しいデザイン」を提供したいという私たちの目標は軌道に乗るだろうか。地域の人びとが主役として登場するならば、そこには新しい経済も発生する。スペースチューブが、学校やミュージアムはむろん、「一家にひとつ」の合言葉で世界の家庭に入っていくことも夢ではない。すでに多くのスペースチューブのイベント会場に来たお母さんたちから、「このスペースチューブはおいくら?」と質問されている。お母さんたちは自分の家のなかで子供たちのために使いたいというのだ。
 以前の多摩六都科学館でも、JAXAの広告塔のような役割をつとめていた的川泰宣には「スペースチューブをスポーツで使えませんか?」と提案された。これは「どうやって人口に敷衍させるのか」という問題だ。ダンスは世界の一部の人間たちの関心にすぎないとしても、「身体は世界のあらゆる人びとの毎日の関心事」だからである。
 ダンスを「姿勢の創造」と読み解いていけば、ダンスは世界中のあらゆる人びとが毎日無意識にやっていること〜姿勢の創造や調整〜に行き当たる。スペースチューブがふつうの人びとを即席のダンサーにする力をもつことから、世界の70億人にスペースチューブを届ける方法が出てくるはずだ。くつやくつ下は、それをはいていない大人も子供たちも多いが、世界中の人びとの毎日の必需品である。誰でもお風呂にも、できれば毎日入りたい。スペースチューブも、くつやくつ下やお風呂のようにできないか? そのための魔法を発明したい。アーサー・C・クラークも「新しいテクノロジーは魔法と似ている」といっていた。

 今井賢一は『情報技術と経済文化』(NTT出版 2002)のなかで、「時代は経済と文化の新しい結合を求めている」といっている。これまで、人間の歴史では、経済と文化は別メニューであり、しかも「お金」が主導権を握るため、文化は経済の下に隷属させられ、不景気のときにはつねに文化は冷遇されてきた。そして、経済に科学技術が、文化にアートが、と住み分けてしまうがゆえに、社会をリードするものは科学技術であり、文化がその後を追う、という間違った構造を壊すことができない。しかし、経済を生み出す新しい文化が登場すれば、この関係を修復でき、歴史の歯車をもう一度正しい方向に向って回転できる。
 たとえば、ダンスにおける舞台上の大改革を成功させたため社会的にも大きなことをやってくれるのではないかと期待されたウィリアム・フォーサイスだが、フランクフルト市から財政上の理由によりカンパニーを解散されたことで一時の元気をなくしてしまったようにみえる。そうだとすれば、文化が経済に敗北するパターンの一典型であり、経済動向により左右されないアーティストとしての新しい立場は築けておらず、彼は特別に「新しい人」ではなかったことになる。
 最近の日本では、たとえば美術家・村上隆が「芸術企業論」を掲げ、アートが経済を生み出す新しいシステムを提案して頑張っている。同じ美術家の川俣正も、アートの社会のなかでの新しいあり方を実践している。村上や川俣の無数のバリエーションをつくり出すことが、今後の日本のアーティストに求められる一つの方向ではないか。
 日本は、現在ではアニメ・マンガ・ゲームなど、その文化的生産力の高さが海外から素晴らしいと評価されている。しかし、日本という国は、その価値を自前で海外に宣伝する力は弱く、以前のファッションや舞踏の流行時と同様に、相変わらず「逆輸入」に頼っている。そして、日本は、アートに関しては、その生産物は利用するが、生産者の面倒は見ないのである。日本ではアートは依然として「虚業」という位置づけで、アーティストの社会的位置は保証されていない。実体は「文化大国」からはほど遠く、日本の文化システムは現在も貧しいままである。
 そして、日本に限らず、アートはどんな国においても、時代の中で一定不変の社会的位置を保っているわけではない。ある日突然、「ご用済み」を宣告されるときもある。社会はつねに変動し、この変動がアートにも変動を求める。アートを求め、生み出すものは社会である。アーティストもまた、時代の変化に対応し、自分で進んで自己を組み替えていく必要がある。
 このような組み換えは社会に迎合することではない。時代の変化をいち早く感知し、それを作品や運動を通して社会に知らせることがアーティストの本来の役割である。この認識がないと、社会の変化が表層で起きたときにはすでに遅く、たちまち保守的勢力に転落してしまう。新しい伝統の仲間入りをするか、やめるかの道しかなくなってしまう。反対に、新しい方向を打ち出す者たちが、社会創造のあらたな担い手として前進することになる。

 『スペースダンス・イン・ザ・チューブ』も、このような新しい方向のひとつを担うために存在し、スペースチューブもアートが生み出した社会的生産物である。このような生産物は、スペースチューブだけではなく、アーティストに応じて無数に可能になるはずだ。
 ここでは、アーティストも、それまでは科学者の仕事だった領分にまで進出することになる。しかし、昨日まではそうであったとしても、明日からのこととして、科学者の仕事とアーティストの仕事の中身は決定的に違うと、誰が断言できるだろう? 私の感覚では、二つの仕事は接近しており、舞踏家がロボットを開発することも、科学者が新しいダンスを発明することも、少しも不思議なことだとは思わない。
 『スペースダンス・イン・ザ・チューブ』は、この意味で、文化と経済を共存させる試みであり、ここではアートとサイエンスは共にあり、ダンスとデザインは共にある。私たちには、これまでのアートの延命が課題なのではなく、新しい経済を生み出す新しいアートの創造と、経済の文化化が課題なのだ。当然、このような課題はアーティストだけのものではない。同様な仕事を違う立場から実践している人間たちが、すでに世界にはたくさん登場しているだろう。これからの時代の「新しい人」とは、歴史がこれまで分断してきたものをもう一度集め、それを一身に抱えていく人間たちのことにちがいない。


第2節 経済を生み出す新しい文化

1 身体

 ES細胞とiPS細胞が開発され、再生医療が新しい歴史の扉を開けようとしている。身体は、再生の対象となり、身体は「産業化」の対象として、これまでとはまったく違う注目を浴びはじめている。

2 家具

 1991年に56歳の若さで死んだインテリアデザイナー・倉俣史郎は、商業空間・家具・照明などを手がけたが、生涯をかけて追求したのは「夢見心地」だったとされ、ガラスでつくった特異なイスをたくさん残している。もし倉俣が、多くの人工素材が開発され実用化の時期をむかえた2010年代に生きていたとしたら、ガラスに代わる素材を使用して果たしてどんなイスをつくっただろうか?


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