『身体の夢〜ダンスの後に残るもの』「いま、物理学はたいへんな時代に入っている。かつてはSFの範疇と思われていたような考えが、理論的に、ひょっとすると実験的にも、ありうると見なされるようになってきた。余剰次元という新しい概念が発見されると、素粒子物理学者、天体物理学者、宇宙論研究者の世界の見方はがらりと変わり、もはや従来の考えには戻れなくなっている。」(リサ・ランドール/理論物理学者 『ワープする宇宙』2005) そもそも、ヒトは、なぜ二足歩行という歩行の形式を選択したのだろうか。或いは、それは選択ではなく、自然淘汰であり、知らないうちに、気づいた時には、そうなっていただけなのか? とにかく、二足歩行により、ヒトは、何よりもまず、脳を大きくすることができた。そして、それも結果であり、二足歩行をすれば脳を大きくすることができると予測して二足歩行を選択したわけではないだろう。 そして、ヒトは、二足歩行により、サルと同じように、空いた前足をフリーにし、フリーになった前足で食物やモノをつかむようになり、その便利のために「親指」の構造を変化させ、それでもっと自由に食物やモノをつかめるようになり、前足が「完全な手」になったという仮説もある。確かに、ヒトがこのような「器用な手」を持っていなかったら、道具をはじめ、「坐るための椅子」などという高度なデザインも誕生しなかっただろう。 さらに、ヒトは、なぜ動く存在なのか。 むろん、この問いも、当然ながら人間だけに限られるものではなく、あらゆる動物に向けられる問いである。動物はなぜ動くのか? それはまずは食料確保のためだろう。つまり、生存の欲求を満たすためである。しかし、それにしても、人間の「動き」は、他の動物たちの「動き」とは明白な一線を画しているようだ。つまり、人間が動くのは食料確保のためだけではなく、人間の「動き」への情熱には他の動物たちとは趣向を異にする「過剰さ」が含まれているようだ。この「過剰さ」がやがて、生存の欲求を超えて、ヒトの世界に、スポーツや芸術を含めた多様な「動きの文化」というものを誕生させていったように思える。したがって、この「過剰さ」とは何か。なぜ人間だけがこの「過剰さ」をもつように見えるのか。 私は、いつの頃からか、自分が舞踏家であるという点を利用して、「ヒトはなぜ動くのか」を問うようになり、その問いから発展して、「ポスト人間の姿」について想像するようになった。 生命の進化史においては、われわれ人類が最終ランナーであり、その先は存在しないとは、誰にも思えないだろう。そして、地球環境崩壊後の延命地として月や火星への移住が現実に期待されるようになり、具体的な設計図が描かれる宇宙時代になったという点で、私たちの今後の世界では、人間が「人間の次の姿」を想像しながら生きることも特別に重要になってくる。 しかし、また、「人間の次の姿」とは何か? むろん、現在の時点では、誰にもわからないだろう。 まず、ヒトが動くのは、私の舞踏家としての経験によれば、生存・生活・仕事上の必要性だけではなく、端的に、「動くことが面白い」からである。 それは、世界中で毎日人間がしていることを見れば明白だ。いろんなスポーツや、ダンス等の多様な身体芸術や、日本でいえば武道・茶道・華道・書道等の「道」の誕生を見ても、よくわかる。スポーツの短距離走のように、なぜ人間はそんなに速く走ってみる必要があるのか。なぜそれが他者に対して誇るべき行為なのか。 或いは、逆に超スローで歩いてみたり、動きの美に点数をつけて競ってみたり、職人芸を競ってみたり、わざとバランスを崩して遊んでみたり。実に、子供から大人まで、人間はいろんな理由をつけ、多種多様な動きの形式を編み出し、動くことを自体を楽しんでいる。 しかし、なぜ動くことがそんなに面白いのか? あらためて考えてみると、少しもわからない。 たとえば、脳科学者なら、この問いに対して「それは、動くと脳に快感物質が分泌されるから」と答えるかも知れない。しかし、この答えでは問いをずらしているだけである。私たちは、さらに「動くと、脳に快感物質が分泌されのはなぜか?」と問う必要がある。 だから、私は舞踏家として見当をつけてみた。それは、私が自分のダンスの中で発見したように、「一つの動きは、他の動きを、自然に誘う」からである。つまり、たった一つの動きも「動きの連鎖」のなかにあり、一つの動きは「動きの連鎖」に触れ、動きの種類によってその触れ方が異なり、その触れ方に「創造性」が関与していることを知るからである。つまり、どんな動きもこの「動きの連鎖」に触れるが、なぜかある動きは凡庸で「動きの連鎖」を活性化することはなく、私に「次の動き」を与えることがない。それに対して、なぜか別の動きは、「動きの連鎖」を大きく活性化させ、私に思いがけない「次の動き」を与える。つまり、私は、なぜか、「思いがけない動き」や「新鮮な動き」を求めているのである。或いは、そのようなメカニズムのなかに置かれているのである。このメカニズムが存在するために、人間は「動くことが面白い」と感じ、動きの世界にのめりこむことになる。 私の舞踏家としての経験によれば、「動くことの面白さ」とは次のようなものである。 一つの動きの中で発見される楽しさは、 その動きの中で閉じることはない。 まるで見えない法則があるかのように、動きが動きを求めている。 その動きの連鎖は、無限の選択肢をもっている。 そして、一つの動きには、一つ以上の記憶が対応している。 そのために、ヒトは多様な動きの組合せで、多様な記憶の世界を再現できる。 私は、これが、なぜ動くことが面白いかの本質的な理由ではないかと思う。「記憶の追跡」は、まさに人間の普遍的欲求の一つであるからだ。「記憶の追跡」を、アタマの中だけではなく、また静止した状態ではなく、動きを通して、「より正確に、より内密に、より広大に」追求できるとすれば、誰もがこのような「動きの世界」に夢中になるだろう。 アフォーダンスの研究者・佐々木正人は『知性はどこに生まれるか』(講談社現代新書 1996)のなかで次のように述べている。 「赤ちゃんは、反射歩行、仰向けであらわれる蹴り、動く床に同調するトレッドミル歩行、自分で立つことが前提になる独立歩行という四種の歩行を同じ時期にしている。反射歩行をしなくなった赤ちゃんでも、温水の中だとふたたび歩行用の両脚交換の動きをしはじめた。つまり、反射歩行は立たされる姿勢で重力の影響により起こりにくくなっているだけであり、誕生後長い間赤ちゃんの行為のレパートリーにあり続けていたのである。一つに見える歩行は、どうやらそれぞれが異なる環境と強く関連しているいくつもの歩行たちに起源をもっている可能性がある。発生の文脈のちがう動きの集合としての歩行のプールがあって、そこから歩きのパターンがあらわれてくる」。 そうだとすれば、成人になった人間でも、たとえば0G〜1G環境のなかで自由に遊べ、また同時に何らかの記憶誘発のための刺激を受けることができる場合には、両生類や四足動物やサルなどの歩行を「歩行のプール」から思い出して、再現することができるかも知れない。 そして、歩行だけではなく、実際に自分の動きの中に「ヒトとしての動きとは思えない多様な動き」が混じっていることを発見した時に、突然、誰もが、言葉では表現できないほどの「なつかしさ」に襲われ、その秘密に驚き、動きにはそれまで知らなかった未知のステージが既知のステージの裏側に畳みこまれていることに気づくことになるだろう。 私も、ダンスしている時、「この動きは、ヒトのものとは思えない」と感じる瞬間がたびたびある。そして、なぜか、そういう時が特別に楽しい。人間は骨格の構造上、動物たちの動きの記憶を宿し、その記憶を脳が保存している。人間の脳も、爬虫類の脳、旧哺乳類の脳、新哺乳類の脳という、三層構造からできている。そのために、二足歩行する人間の動きとそうでない動きの差も、人間は判別できる。 洞窟時代の人間は、地球の広大な地域において、洞窟の壁に、「動物の顔をもつ人間」の絵も、たくさん描いていた。動物に特別の親近感をもっていたからで、描くという行為が、何らかの文化的儀式のようなものになっていたにちがいない。 現在の私の身体の中にも、いろいろな動物の記憶が残されているはずだ。それを感じる時に、とても懐かしく、また嬉しい気持ちになる。私はその楽しさをもっと追求したくて、わざわざ関節をずらして、新しい身体空間をつくり出し、新しい動きの工夫をしたりしている。ダンサーが本能的に「奇妙な動き」を試みるのも、恐らくはそのためだろう。追求したい感覚が動きによってどのように広がるのか、どのような感覚になるのか、 判断はそこに集中される。それは、ダンサーのひそかなもう一つの楽しみになっているはずだ。人間として生まれてからの記憶だけではなく、魚・両生類・四足動物・鳥・サルの進化史を、動きの組み合せを通して辿ること。それが面白い。 しかし、何のために? そんな進化史を辿ることに何の意味があるのか? 私がそう問うたびに、私の内部の動物が、私に「何か」を囁きかける。私は、その囁きを聞いている内に、その理由を、生命の進化史にうまく所属しないと人間の進化もうまく進展しないから、と考えるようになった。それは、人間の動きの面白さ自体が示唆することであり、進化史をうまく辿れた時ほど、過去からのリターンとして、より新鮮な「人間の次の動き」を与えられる気がするからだ。 したがって、すぐれたダンサーという存在も、 このリターンの振幅の大きいダンサーのことではないか。 だからこそ、すぐれたダンサーは、ひどく懐かしい存在を演じると同時に、 それまで誰も見たことがない動きの世界をいともやすやすとつくり出す。 そうだとすれば、観客が舞台のダンサーに求めるものも、単なるダンス技術ではないこともよくわかる。リターンの振幅の大きいダンサーとは、観客を思いがけない動きの世界に誘う者であり、その動きによって動物たちの姿も再現させ、はげしい郷愁に誘ったり、人間よりも大きな存在を感じさせることで、人間として生まれてきたことをしみじみとよしと感じさせてくれる者である。優れたダンサーとはそのような存在だろう。 人間が最初の二足歩行に成功した時、その人間は、どんな思いで立っていて、どんな思いで歩いただろうか。それは、月面に到着して最初のムーンウォークを成し遂げた宇宙飛行士たちの思いと、何が似ていて、また何が異なっているだろうか。 私が、「二足歩行の恩恵」と考えるのは、次の点である。 つまり、ヒトの世界においては、まさに二足歩行によって、「坐る」という休息の姿勢が新しい意義をもつことになり、その姿勢を確定するために、椅子をつくるという新しいデザインの行為がはじまった、という点である。二足歩行とは、骨格の構造からしても物理的に大きな奇跡であったと共に、文化の観点からも大きな奇跡だったのだ。 しかし、人間は今、そんな奇跡の意味はすっかり忘れている。二足歩行が当たり前で、そこに特別な意義などはなく、二足歩行を維持するための努力も不要で、それ以外には何もないと思っている。 しかし、人間の一つ一つの動きには人間が二足歩行を開始した頃の記憶も、動物たちの記憶も含めて膨大な記憶が宿り、人間は毎日そのような動きを、多様に、無意識に選択して、それぞれの行為を組み立てている。その関係から、人間は何かあるたびに理由もなく「なつかしさ」を感じたり、「なつかしさ」にまつわる趣向をひそかに美や祈りの体系として育てたり、そしてその趣向が知らない内に人間の一人ひとりの個性を、他と異なったものとして形成することに役立っている。まさに、個性とは、考え方などの知的な相違だけではなく、このような行為の無意識の選択の違いからも来ているのである。 養老孟司も、「個性は、脳ではなく、身体に宿っている」と言っていた。ちょっとした人間の仕草も含めて、喜怒哀楽や誘惑や拒絶を表現するための「話し方」や「目つき」や「ポーズ」や、歩き方も、人によりみな違い、個性を決定する重要な身体的特徴になっていて、それぞれにみな遠いルーツをもっている。こんな大切なことを、人びとは社会の忙しい日々の生活にまぎれて忘れている。 私は、人間が最初に二足歩行に成功した時の歓びを味わってみたい。そして、大地の上を自由に移動しはじめた時、身体を動かすためにどんな苦労をしていたのか、その経験を反芻してみたい。おそらく、たった一歩を踏み出すためにも、信じられないほどの苦労と新しい発見があったにちがいない。それを知ることができれば、現代を生きる人間が、失くしたものが何であり、進歩したものが何なのか、もっと感覚的に知覚できるのではないか。 松岡正剛は『17歳のための世界と日本の見方』(春秋社 2006)の中で、次のように書いている。 ・・・そのダンサーはまるで全身で宇宙を引き取ろうとしているかのように、指先から足の先まで、すべての筋肉をつかいながら一歩を踏み出して、今度は自分の胸のなかに抱きかかえた宇宙をそのまま虚空に放つかのように腕を大きく広げながら、また次の一歩を踏み出している。そんな踊りをしていました。そして、ダンサーと私との距離が七メートルくらいになったとき、私の身も心も凍りついてしまった。すばらしいダンサーだと思ったその人は、なんと身体障害者だったのです。その人が、一歩を進むために全身の筋肉をふるわせて格闘している姿だったんです。 私にとっては、このような身体障害者による歩行こそ、二足歩行をはじめたばかりの頃の人間を想像させるものとして、日常生活の中で行われるダンスそのものであり、「二足歩行の意義」を体現している素晴らしい一例である。私も、舞踏家の一人として、このような歩行からダンスを始めたい。 私たち人間は、このようなダンサーの動きにも本能的に感じるように、「忘れてしまった動きの全体性」というものに触れた瞬間に、いまでも我知らず深い感動に襲われてしまう存在であるようだ。 TOP HOME |