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Visions of the Body, Appearance after Dance

『身体の夢〜ダンスの後に残るもの』

【20】

福原 哲郎




 「いま、物理学はたいへんな時代に入っている。かつてはSFの範疇と思われていたような考えが、理論的に、ひょっとすると実験的にも、ありうると見なされるようになってきた。余剰次元という新しい概念が発見されると、素粒子物理学者、天体物理学者、宇宙論研究者の世界の見方はがらりと変わり、もはや従来の考えには戻れなくなっている。」(リサ・ランドール/理論物理学者 『ワープする宇宙』2005)

■目次

[序]  動物たちの記憶を辿る旅
【1】【2】
第1章 『新しい知〜身体と環境は一体という思想』
【3】【4】【5】
第2章 『身体知の情報化〜新しい科学の言葉で語るという課題』
【6】【7】
第3章 『宇宙視点から地球を見ると』
【8】【9】
第4章 『進化の夢〜分身創造』
【10】【11】【12】
第5章 『スペースミュージアム』
【13】【14】
第6章 『芸術の新しい役割』
【15】【16】
第7章 『経済を生み出す新しい文化〜身体・家具・家・都市・コミュニケーション』
【17】【18】
第8章 『「大家族」という生き方』
【19】
[おわりに]
【21】


第4節 旅

 旅は、一人の人間を個人的な地縁・血縁から解放し、『大きな家族』への夢を与えてくれる。旅に出て、また同じ出発地に戻ってくることもあれば、まったく違う地点にたどり着くこともある。

第5節 家族

 人間の多様性を愛し、生前に三人の夫と一人の同性愛者をもち、自分のことも他人のことも共に自分たちの経験として楽しもうとして生涯を生産的に生きたマーガレット・ミードは、共有し合うことの天才だった。

第6節 死

 どのように生きるかというテーマと共に、どのように死ぬかというテーマもまた重要なテーマである。ダライ・ラマ14世は、ソギャル・リンポチェによる『チベットの生と死の書』(講談社 1995)の序文で次のように書いている。

 「わたし自身は死をなにかの終末、幕切れとしてではなく、古くなってすりきれた衣服を着替えるようなものとしてとらえている。仏教の観点では、実際の死の体験を重要視する。死後どこに、いかにして生まれ変わってくるかは総じてカルマの力によるが、死の瞬間の心の状態もまた再生の質に影響を与える。死の瞬間はもっとも深遠で有益な内的体験が生じる時でもある。死と死のプロセスは、チベット仏教と現代科学の間に出会いをもたらす」。

 死について、このように考え、転生のための明確な実践的プログラムを用意し、このプログラムは現代科学に対しても開かれており、現代科学と対話可能であることを宣言できているのは、世界の宗教のなかでもチベット仏教だけだろう。死に方がわからなくなったと言われ、そのため死に対する恐怖を増大させていると言われて久しい現代人にとって、再生や輪廻が存在するか否かは各人が判断すればよいことであるとして、このようなプログラムを用意できていること自体、素晴らしいことであり、大いなる啓示であることは間違いないだろう。特に自分なりの能動的な死に方を模索したいと考えている者たちにとっては、まさに貴重な先行事例である。

1 現代科学との対話

 私なりに「生と死と現代科学の対話」について考えてみると、次のようになる。
 現代医学は、国により死の定義は大きく異なっているとはいえ、その基本が「脳死」と「心臓停止」により死を判断することに変わりはない。「脳死」により、意識を生成させているのは脳であるという理由から、意識も消滅すると考え、「心臓停止」により死は完成され、身体の腐敗も始まると考えている。いずれにしても、これらはすべて物理現象の世界についての記述である。
 しかし、たとえばリサ・ランドールのような現代の優れた物理学者がどれほど開かれた心をもって宗教・芸術・科学の間の対話を熱心に進めても、物理現象の解明の進展が示されるだけで、これらの三者の間の「溝」が埋められるわけではない。つまり、物理学者の側から物理現象の生成の理由が示されることはない。しかし、死の問題は、物理現象の生成の理由に深く関わることなしには一歩も前進しない。だから、物理学者が死について、人びとが宗教や芸術に求めてきたものを肩代わりして説明し、人びとがその説明を聞いて納得するということはない。物理学の世界とはわからないことはわからないと言って済ませる世界のままであり、それでは人間は満足しないのである。
 しかし、確かに意識は脳の死と共に消滅するだろうが、その消滅とは物理学者が扱える範囲内での消滅に過ぎないだけで、他の物理現象の中では違った形式で存続を続けているかも知れない。つまり、リサ・ランドールが提案している余剰次元論を「比喩」として使用して説明すると、次のような主張も成立するかも知れず、このような主張については、少なくとも物質誕生の根拠を示せない現代科学に反論の余地はなさそうだ。

 「なぜ、物質が誕生し、宇宙が誕生したのか? それはまだ誰も知らない。物質を誕生させた原因、或いは『物質を生む主体』は、謎のままである。しかし人間はそれを知りたいのである。リサ・ランドールの余剰次元論と、余剰次元を構成する私たちの四次元世界には属さないとされる新粒子についての提案は、この意味で示唆的である。『物質を生む主体』というものが存在するとすれば、これが物理現象を多層な物理世界として誕生させていることを予想させる。四次元世界とはその多層な物理世界のうちのひとつである。したがって、私は、仮説として、人間の脳は四次元世界に属する物理現象として意識を生成しているが、この脳の死後、意識は別次元世界の別の脳の内部に存続している、と考えてみる。

 私がそのように考えるのは、そうあって欲しいと思うからであり、『物質を生む主体』も同じであると予想されるので、私がその『物質を生む主体』に連なり、同調したいからである。
 リサ・ランドールも、物理学の仮説として、余剰次元の内の一つの五次元世界は四次元世界と別の場所にあるのではなく、お互いに重なり合うようにして存在している可能性があると言っている。私が想定する五次元世界と四次元世界も、同じように、一つの場所に重なり合うように存在している関係であり、それが人間がこれまで感じてきたこと、考えてきたことと一致する場合が多いため、大変に面白いと思う。たとえば、死者たちが何らかの形で存続しているとして、その彼らは五次元世界に存在すると仮定すれば、「草葉のかげから死んだ親しい人が見守っているという感覚」や、「死者のような存在が自分の首のうしろにいるという感覚」など、その多くが単なる迷信ではなく、新しい説得力をもつ現代的感覚として甦ることも可能である。そして、このような仮説を「現代的」にしている点が、五次元世界と四次元世界を構成する物質は、それぞれ別であるとする考えである。
 最先端のLHCは、ヒッグス粒子の検出に成功した。今後、LHCで、或いはLHCの次世代機で、暗黒物質の解明も含めてどんな粒子が検出されることになるのかまったくわからない。そして、新粒子が検出される度に、科学者たちはそれまでこれこそ宇宙の真の姿と提案していた世界モデルを捨て、次々に新しいモデルに乗り換えていく。一般の人びとはその度に置き去りにされ、それらの世界モデル群に振り回されるのである。
 先に引用したように、チベット仏教では『ポワ(意識の転移)の行』というものを実践プログラムとして用意している。上記の私の仮説が使えるもので、またこの『ポワ(意識の転移)の行』も使えるならば、私は私の死後、五次元世界の別の物理現象として存在し、この世界を見通すことが出来る度合いに応じて自分の輪廻の質を決定し、私が望むかぎりにおいてではあるが、やがては新しい衣服をまとった新しい存在として四次元世界にふたたび登場できることになる。
 私は、実際にこのような転移を面白いと感じ、或いは自分なりに信仰としてもっており、このような転移をもっと私たちの住む四次元世界の「秤」でも計測し、認識できるように、その転移を「目に見える転移」にするために、分身ロボット・アパロスを開発し、その転移をアパロスに担わせたいと考えるようになった。このようなアパロスが登場すれば、アパロスは私と輪廻する私をつなぐ架け橋のような存在であり、或いはどこかで私がもう再生を望まなくなるとすればアパロスこそが宇宙の終末にむけて輪廻し続ける私であり、このような目に見えるアパロスを観察することで、これまで人間に隠されてきた死と死がもつ可能性が、人間にもよくわかる現象として社会化されることになる。


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