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Visions of the Body, Appearance after Dance

『身体の夢〜ダンスの後に残るもの』

【6】

福原 哲郎




 「いま、物理学はたいへんな時代に入っている。かつてはSFの範疇と思われていたような考えが、理論的に、ひょっとすると実験的にも、ありうると見なされるようになってきた。余剰次元という新しい概念が発見されると、素粒子物理学者、天体物理学者、宇宙論研究者の世界の見方はがらりと変わり、もはや従来の考えには戻れなくなっている。」(リサ・ランドール/理論物理学者 『ワープする宇宙』2005)

■目次

[序]  動物たちの記憶を辿る旅
【1】【2】
第1章 『新しい知〜身体と環境は一体という思想』
【3】【4】【5】
第2章 『身体知の情報化〜新しい科学の言葉で語るという課題』
【7】
第3章 『宇宙視点から地球を見ると』
【8】 【9】
第4章 『進化の夢〜分身創造』
【10】【11】 【12】
第5章 『スペースミュージアム』
【13】【14】
第6章 『芸術の新しい役割』
【15】【16】
第7章 『経済を生み出す新しい文化〜身体・家具・家・都市・コミュニケーション』
【17】 【18】
第8章 『「大家族」という生き方』
【19】 【20】
[おわりに]
【21】


第2章 『身体知の情報化〜新しい科学の言葉で語るという課題』

第1節 身体知を情報化する

 「私」という存在は、環境との間で、どんな情報のやり取りをしているのか? 「私」は情報を担う存在であると共に、「私」が情報から構成されている。私自身が、私の性格も、私の体格も、遺伝子情報や生体情報などの多くの情報から構成されている。呼吸したり、食べたり、汗をかいたり、排泄したりすることで、私の細胞も日々刻々と入れ替わっている。
 知らない人間と出会い、新しい仕事をし、未知の都市を旅することで、私の記憶も日々更新されている。生存に必要な情報や危険情報に注意することを含め、私は一刻も休むことなく外部と情報のやり取りを続けている。ネットで私が得る情報も、ネットで私が表現する情報も、このような広大な情報のやり取りの一部の外部情報の入力と出力にすぎない。
 そして、細胞レベルでの情報のやり取りも含めて、一切の情報のやり取りの刻々の結果として、私もそうであるように、すべての人びとが、自分と周囲に対して快・不快の感情をもち、否定と肯定の意志をもち、自分と周囲に対して同意したり拒絶したり、多様な切り口をもって改善要求や誘惑や愛の思いを発信している。そして、このような情報交換の基地として機能しているものが、身体であり、脳である。


1 身体知を可視化できると何が起きるだろう?

 身体は、環境との間で、全体としては何をやっているのか。身体と環境の関係は、私たちが想像する以上に、動的で親密である。このような身体と環境の間の親和的関係を情報化し、可視化できるとすると、一体何が起きるだろうか?
 分子生物学の巨大な発展も、1953年のワトソンとクリックによるDNAの可視化からはじまった。それまでは、DNAの存在は直観的に、あるいは神秘的に語られていただけで、誰にも見えず、分子生物学も生物学の一分野を形成していたにすぎなかった。しかし、この可視化により、まさに大変身したのである。
 身体と環境の関係も、情報化され、可視化されたら、同様にして大きく変化するものがあるはずだ。まず、身体を環境から切断しても身体として扱うことができるとする間違った知見と、それに基づく科学技術とデザインは、それらのすべてが変更を求められ、大きな転換を迎える。そして、生活の中で切り捨てられていた多くの視点も重要な要素として甦る。そして、このような転換から期待される成果が、今後の世界を変え、現状を変化させていく新しい推進力になる。

 情報化とは、身体と環境の間で行われている情報交換の様子を「身体知」として捉え、この「身体知」を「新しい科学の言葉として表現する」ということである。それがこれまでの同様の芸術・宗教・科学の言葉で表現されている限り、求める情報化は達成されない。したがって、「身体知は言葉で表現できないので手をつけることができない」と言っている内は駄目なのである。「身体知」は語ることができないとする立場は古いものになる。語ることができないものを語る努力から新しい科学が誕生する。
 たとえば、もし私が豊かな身体知をもつダンサーで、介護が必要な老人の身体をやわらかく扱うのが特別にうまいとする。そのとき、ロボット開発者が私のもつ身体知を情報化すれば「老人をやわらかく持ち上げることができる介護ロボット」をつくれると思い、私にコラボレーションを申し込んだとする。そのとき私が、「この身体知は私だけの秘密です」と言ったり「身体知は語ることができず、語ることができないものとして扱う必要がある」と言って拒んでいれば、新しいことは始まらない。逆に、私がコラボレーションを受け入れ、目的とするロボット開発に成功したとすれば、この介護ロボットは量産され、世界中の多くの老人たちの期待に応えることができる。拒んだ私の場合は、自分が出かけていくしかないので、手助けできる老人の数は限られている。
 もちろん、当然ながら、誰も何の装置や方法もなく、手ぶらで身体知を情報化することはできない。私たちは、そのためにスペースチューブという装置にこだわり、スペースチューブとそのなかで動く人間の身体像を要素とする『身体・空間モデル』の形成について考えてきた。『身体・空間モデル』が、私たちの場合における、身体知を情報化するための方法である。
 スペースチューブにこだわるのは、それが人びとがもつ身体知を情報化するための媒体になるからである。スペースチューブの中では、個人が秘密にしていたり、或いは自分でも気づかずにいた身体知が、その動き方により、自然に表現されてしまう。したがって、表現されているものを顕在化し解読する方法として『身体・空間モデル』を確立できれば、身体知の情報化は達成される。

 ダンスを例にとれば、ダンスの場合では、基本的に、スタート時には力づよいが20分もすれば力を失い終息に向うダンスと、逆に、はじめは虚弱で目立たないが次第に力を増し20分後にはスタートの状態からすれば信じられないほど活性化されていくダンスの、二通りがある。いわゆる「疲れるダンス」と「疲れないダンス」である。
 その時、それぞれのダンスでは、「身体と環境の関係」はどうなっているのか。身体をどのように扱えば、そのような差が生まれるのか。この点が、ダンスの場合の興味深い情報化の対象になる。
 一般的な批評では、欧米のダンスが「疲れるダンス」に属し、日本の舞踏やアジア系ダンスやアフリカンダンスが「疲れないダンス」に属することになっている。前者には筋肉質の圧倒的パワーが必要になるが、後者はひ弱でもよく、その代わりにエネルギーのたくみな増殖方法が必須の技術として求められる。
 いま、両者の身体知を可視化できると、その差から何がわかるだろうか。そして、その成果は何に使えるのか。超スローな動きや静止も含む日本の舞踏などの後者からは、環境対策にも有効な、エコロジカルな効率的な身体の使い方に対するヒントが得られるはずだ。「疲れない生活」などの、「新しい身体生活のデザイン」を形成するためのユニークなアイデアが得られることも間違いない。


2 日本の舞踏の場合

 私は、20代から舞踏家として活動し、舞踏のエッセンスを活かしたくて『スペースダンス・イン・ザ・チューブ』をはじめたが、この舞踏には日本人の農耕民族としての知恵や仏教的な思考からの影響がつよく生きている。  2001年にニューヨーク国連本部でスペースチューブを使用して公演した際にも、担当のロシア人ディレクターが日本文化に詳しいことも関係していたと思うが、「日本人ダンサーの身体と空間に対する感性は、仏教的なセンスも想像させ、素晴らしい」と評論された。私は、特定の仏教の信者でもなければ仏教を正式に学んだわけでもないが、大乗仏教の龍樹(ナーガールジュナ)には特別の親しみを感じ、作品をつくるときにはよく龍樹の教えを参考にしている。仏教の教えの核心が「形(フォルム)」に対するものではないとしても、舞踏家として仏教を見たときに、形に傾倒しつつ形への執着を脱する方法を説く教えとしても解釈できるため、面白いからである。


2−1 舞踏は「立ち上がった禅〜Standing ZEN」である〜欧米の批評家はなぜ舞踏に注目したか

 舞踏を「立ち上がった禅〜Standing ZEN」と批評したのは、私の知る限り、フランスのイボンヌ・テネンバウム(批評家・パリ)である。日本の舞踏は欧米人にはまさに新しい仏教の一勢力として「立ち上がった禅」に見えたようで、舞踏にはタブーに挑戦し世界に立ち向かうというつよい姿勢があるため、このような動的な表現は絶妙である。
 次の文は私の舞踏に対するイボンヌ・テネンバウムの批評であるが、ここにも人間にとって普遍的な「自我をどう脱するか? 自我とどうつきあうか?」という課題に対するつよい関心が見てとれる。そして、私の場合だけではなく、多くの欧米の批評家が日本人舞踏家たちに対して、このような仏教哲学を参照したかたちでの批評を残しているのである。

 「日本の舞踏は欧米の視点からは異例の出来事であり、稀少価値が高い。福原のダンスの特徴は、自己のダンスの経過を聴きつつダンスする、という点である。つまり、この舞踏家は、「自我としての主体」とは異なる「空間としての主体」という新しい位置を獲得している。この「空間としての主体」という観点こそ、今後の芸術や文化全般において重要な役割を形成することになる新しい哲学であるため、舞踏の重要な今日的な宝なのである。」(『西欧とアジアの芸術』パリ第八大学 1994)

 舞踏が、1970年代後半からフランスを入り口とした欧米文化に「発見」され、「BUTOH」として再生を果たすことができたのは、ちょうど欧米文化が自らの成熟に飽き、エスニックなものを求めていた時期と重なっている。舞踏の動き方や自我に対する態度や空間形成の方法は欧米のダンスとは大きく異なるため、その点が彼らの関心を引いたわけである。
 欧米の他にも、中東での珍しい批評としてフセイン・ビン・ハムザ(アンナハール紙/ベイルート 1996)の次の新聞記事があり、ここでも「フォルムとの距離のとり方」についてつよい関心を示している。

 「この夜、福原がベイルート劇場で演じたダンスは、われわれアラブ人には衝撃的な体験だった。それは、この夜の福原が、一目でダンスの素晴らしいテクニシャンであることを感じさせながら、フォルムに対して驚くほど淡白で、個々の動きに感情移入することなく、明確な距離をとっていたからである。」


2−2 ダンスにおける身体の客体化

 たしかに、舞踏においては、海外の批評家たちが指摘するように、身体を客体化できるほど、つまりフォルムに対して淡白であるほど、自由に動ける。それは、身体をぬけ出して身体を自由に操作している感覚だ。その身体はまさに「異物としての身体」。そして、その身体を、冷静な「心」が見つめている。この冷静な「心」が、身体を自由に扱うのである。
 したがって、この「心」こそ、イボンヌ・テネンバウムが言う意味での「空間としての主体」、つまり「空間に住む私」であり、龍樹が『中論の頌』において説く「空(くう)」を実現する主体であると、私は思う。
 そして、驚くべきことは、「そのときに身体に満たされるエネルギーがすごい!」ということだ。使えば使うほどエネルギーが雪ダルマのように膨張するからである。それは、エネルギーが身体と環境の間を大きく循環するという感覚であり、このような空間との一体化は人間を劇的に変化させる。「疲れないダンス」が成立するのも、このときである。
 ただし、たった一つでも動きに執着した途端、このエネルギーの循環回路は絶たれてしまう。一挙にダンスの力は衰退し、エネルギーは消費されて枯れはじめ、新鮮さを失う。どんな動きにも執着しないからこそ動きが動きを呼び寄せ、多様な動きの世界が展開される。まるで動き自体に、どうしてもそうしたい理由があるようだ。つまり、「心」を形として展開するが、形には執着しないことで形を更新し、更新される形によって「心」を時間の岸辺に沿って前方に運んでいく、というあり方である。
 たしかに、形に執着しないことは難しい。愛する思いがつよくなり、そこに立ち止まりたいからである。しかし、執着しないことで、さらに思いがけない形の世界が現れてくる。愛する相手も、多様な形の世界その先で、思いがけない姿をして私を待っているようだ。そこに留まるのか。或いは、その先に行くか。まさに精神の力と欲望が試される世界である。
 そして、この体験は観念的で無機質な感覚に満たされたものかと言えば、まったく違う。これほど多様な感覚や色彩や記憶や生命感に満たされる体験は、他には存在しないだろう。まさに、世界が一瞬のうちに一新される至福の感覚である。
 ダンサーはこの感覚が得たくて、毎日身体の使い方を工夫して、何度でも踊る。身体を動かさなければ形はできず、形のないところでは「心」も躍動しない。ダンスを観る観客にも。その様子はよく理解できる。優れたダンサーほど、形に執着せず、空間に住み、濃密な感覚と記憶に満たされた空間とともに踊るからである。そのときに動いているものは、ダンサーの身体ではなく、身体を包摂した空間である。観客は、身体ではなく、そのように祝福された空間を見ている。
 この「空間とともに」という感覚が大変に楽しい。そのために私たちは、その楽しさをふつうの人たちにも体験して欲しくてスペースチューブの開発を続けている。スペースチューブはふつうの人を即席のダンサーにする装置だからである。


3 スペースチューブにおける身体の客体化〜「心」が発生する現場を体感する

 したがって、『スペースダンス・イン・ザ・チューブ』の一番のお勧めは、一般の人たちに「空間とともに動く」という感覚を味わってもらうことである。
 スペースチューブの中では、体験者はスペースチューブと一体化できる。何度もスペースチューブに入り、馴染むことで、その大きさも、ロープで空中に浮いているスペースチューブの強度も、知覚できる。スペースチューブは体験者の第2の身体になる。つまり、自分がスペースチューブとして拡張された感覚で動ける。そのときに、注意して自分の「心」を検証してみれば、その「心」が増幅された「新しい心」として目覚めていくことに気づくのである。
 たとえば、脳科学者の入来篤史(理化学研究所脳科学総合研究センター)は、「心」の発生について次のようなユニークな仮説を立てている。

 「様相が一変したのは、ヒトの祖先が、外界の事物を手に持ち、それを身体の延長として動かそうと、道具の使用をはじめたときでした。このとき、道具が身体の一部となると同時に、身体は道具と同様の事物として「客体化」されて、脳内に表象されるようになります。自己の身体が客体化されて分離されると、それを「動かす」脳神経系の機能の内に独立した地位を占める「主体」を想定せざるを得なくなります。その仮想的な主体につけられた名称が、意思を持ち感情を抱く座である「心」というものではないでしょうか。」(『脳研究の最前線』講談社 2007)

 以上は、脳にとって、客体化されていない身体を動かすためには脳機能の変化も「心」も必要ではなかったが、客体化された身体を動かすためには脳機能の変化と「心」が必要になったという素晴らしい議論である。
 スペースチューブの体験者も、自分の身体とスペースチューブを連続させることで両者を「新しい身体」として客体化し、その身体を動かすために脳を新しく刺激し、「心」を増幅させる。そうしないと、拡張された身体を動かせないからだ。
 さらに入来は、ヒトの祖先は、他者の「心」も、自分の客体化された身体と同様に「動かす対象」として扱うようになり、そのために自己の「心」と他者の「心」との相互作用として「心の理論」が形成されはじめたと推論している。
 このような入来の考えは、『スペースダンス・イン・ザ・チューブ』にとっても大変に面白い。私たちは、体験者が「心」が発生する現場を体感することを通して、その成果を多様なコミュニケーションに応用することをめざしているからである。
 今後の世界を生きる人びとが、歴史上に存在しなかった「新しい他者」に次々に直面し、そのような他者との関係の親和性について、誰かに教えてもらうのではなく、自分の感覚で判断しなければならなくなることは間違いない。そのときに、「身体の客体化」という体験が役立つ。「心」が発生するとすれば、自分とそこに存在する「他」との間に、その「他」が、スペースチューブのような空間であれ、他者の「心」であれ、ロボットのような機械であれ、遺伝子テクノロジーによって改造される生体であれ、ネット空間に存在するアバターであれ、ひとつの親密な関係が誕生するということである。逆に「心」が発生しないなら、そこには親密な関係は誕生しないとがわかり、その関係は大切ではないことになる。
 イボンヌ・テネンバウムは日本の舞踏に欧米の自我とは異なる「新しい心」の誕生を見たわけだが、そのような「心」による「身体の客体化」という新しいレッスンは、広く現代人の必須のレッスンになっていく可能性がある。スペースチューブも、「立ち上がった禅」のように立ち上がり、人びとが直面する「迷い」から人びとを救い出すツールに成長するかもしれない。


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