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Visions of the Body, Appearance after Dance

『身体の夢〜ダンスの後に残るもの』

【13】

福原 哲郎




 「いま、物理学はたいへんな時代に入っている。かつてはSFの範疇と思われていたような考えが、理論的に、ひょっとすると実験的にも、ありうると見なされるようになってきた。余剰次元という新しい概念が発見されると、素粒子物理学者、天体物理学者、宇宙論研究者の世界の見方はがらりと変わり、もはや従来の考えには戻れなくなっている。」(リサ・ランドール/理論物理学者 『ワープする宇宙』2005)

■目次

[序]  動物たちの記憶を辿る旅
【1】【2】
第1章 『新しい知〜身体と環境は一体という思想』
【3】【4】【5】
第2章 『身体知の情報化〜新しい科学の言葉で語るという課題』
【6】【7】
第3章 『宇宙視点から地球を見ると』
【8】【9】
第4章 『進化の夢〜分身創造』
【10】【11】【12】
第5章 『スペースミュージアム』
【14】
第6章 『芸術の新しい役割』
【15】【16】
第7章 『経済を生み出す新しい文化〜身体・家具・家・都市・コミュニケーション』
【17】 【18】
第8章 『「大家族」という生き方』
【19】 【20】
[おわりに]
【21】


第5章 『スペースミュージアム』

第1節 ミュージアムで

1 アートとサイエンスの交通

 私は、前章までにおいて、スペースチューブという新しい文化ソフトがもつ可能性について考えてきた。スペースチューブがもたらすものは、これまでの発想にはなかった地点からの「身体生活の新しいデザイン」であり、スペースチューブで人びとの「今日の生活」に新しい変化を起こせるだけではなく、「明日の生活」についての展望も開かれる。しかし、このような可能性を、どこで、どのように実現したらいいのか。スペースチューブイベントを世界展開するだけではなく、家庭用スペースチューブを世界の家庭に普及させる事業もスタートしたい。
 私は、その拠点としてふさわしいのは、今後開館する新しいタイプのミュージアムも含め、危機意識と変革の意志をもつようになったミュージアムではないかと考える。内外のミュージアムと連携することで、『スペースダンス・イン・ザ・チューブ』はうまく運営されるのではないか。
 上山信一・稲葉郁子による『ミュージアムが都市を再生する』(日本経済新聞社 2003)ではミュージアムがもつ可能性が多様に論じられている。本書に関係する要点をひろい出すと、次のようである。

 ●ミュージアムの地域再生や社会変革に果たす役割が注目されている。19世紀の近代資本主義は鉄道と学校に支えられた。20世紀の大衆消費社会は道路と証券取引所が切り拓いた。21世紀にはインターネットとミュージアムが切り拓くのではないか。
 ●これまでは経済が文化を支えてきた。これからは逆もあり得る。
 ●次の主役とフロンティアは何か。ヒトである。21世紀はヒトが希少資源となり、また消費の対象になる。人気のある個人はブランド化し、才能のある人材の争奪戦が起こる。担い手が組織から個人に代わると、経済や社会運営のモチーフも変わる。今や最も贅沢な消費は一流のプロを一人占めすることなのだ。
 ●ヒトの潜在能力の開拓が持続的成長の鍵だと喝破したのは、ノーベル賞を受賞した経済学者アマルティア・センである。能力はモノと違い、使えば使うほど磨かれる。潜在能力の開拓がさらなる開拓を呼ぶのである。ヒトをめぐるこのようなパラダイム転換は、ひたすら利潤追求をすると描かれたホモ・エコノミクスを前提とした従来の経済学では説明がつかない。

 たしかに、ここで言われるように、これからは「集団」に代わって「個人」が注目される時代になりつつある。大組織に滅私奉公的に所属していれば一生が安泰という企業神話は崩壊した。「個人」が新しい力をつける必要に迫られるようになった。そのために、「ヒトの潜在能力の開拓」が新しい成長のカギになる。カルチャースクール、語学学校、フィットネスクラブ、ヨガなどの個人の資質を磨くためのスクールの勢いはすごい。ネット上のコミュニティも爆発的に賑わっている。誰も彼もがブログを書き、発信している。結局は面白いものはそれほど多いわけではないので、一定の時間が経過すれば生き残り組みは自然に淘汰されていく。それでも、全体の表現者数は大きく底上げされ、ブランド化された新しいスターたちも登場をはじめている。
 特に、日本のような高齢者社会では、若者文化のスターだけではなく、高齢者文化の新しいタイプのスターが輩出し、一定の力をもつ可能性がある。それは高齢者文化が弱い日本にとっては好都合である。団塊世代やそれに続く世代が超高齢社会を担うようになれば、予想もしなかった面白い文化が出現するかもしれない。世界には、高齢になればなるほど力を発揮するため若者たちからも一目をおかれる素晴らしい文化が残されている。それらが、新しい形式をまとった高齢者文化として再生産される可能性もある。
 高度な医療が発展し、これからは簡単には「死ねない社会」である。生殖期間を過ぎても死ねない人間が「文化」を生み出した。今後、120歳までは医療の力で平均寿命がのびるといわれている超高齢社会では、予定された「死期」を過ぎても死ねない人間たちがあふれ出す。文化のあり方が現在の延長のままで続くはずがない。
 人びとは、リアルな移動とネット利用を組み合わせ、これまでとはまったく違う形式の生活をはじめるだろう。生活スタイルの変更自体が「個人の時代」のシンボルになる。そこでは高い値段がつく新しくブランド化された個人が登場するだろう。そして、そのような現象の動力としてキーになるものが、文化と経済の交流であり、その内部で進行するアートとサイエンスの融合という現象なのである。
 私たちが2007年に開催した東京の多摩六都科学館での『スペースダンス・イン・ザ・チューブ』の最大の収穫も、多くの入場者を得たことよりも、このイベントをアートとサイエンスの両面から支援する人たちに出会えたことだった。館長がイベントの全体を統括し、以前は美術館にいてアートに造詣が深い学芸員が現場をリードした。この二人が、はじめは科学館でダンスすることに躊躇していた私たちを企画段階から励まし、ダンサーが踊らないとスペースチューブの本当の意味が入場者に伝わらないと説得してくれた。それで私たちも、スペースチューブの展示以外に公演の時間を設け、安心してメンバーと共に踊った。終了後に、「アートとサイエンスがつながった」という評価を周囲の多くの人びとから受けた。これは、科学館の現場の声として、画期的なことではないだろうか。
 これまでは、アートとサイエンスの間には一線が引かれており、科学館はアートを歓迎しない。美術館はサイエンスを歓迎しない。それに対して多摩六都科学館では、スペースチューブを使用したダンス公演が一方にあり、子供や大人のための体験型展示が他方にあった。いま、内外では、美術館、劇場、科学館、博物館等で、自己の垣根を越えようとする動きがはじまっている。しかし、その媒介をつとめるコンテンツは既成のもので、スペースチューブのような新しいソフトを媒介にする試みは少ないだろう。

 しかし、そもそも、いまなぜ、ミュージアムが流動化をはじめ、地域住民との連携や町おこしなどの企画にまで乗り出すようになったのか。それは、表向きは新しい観客層を開拓しなければ衰退するという危機意識の現われであるとしても、深層にはアートとサイエンスの境界が溶けはじめたという事実に対する認識も存在するはずだ。それらの新しい運動の特徴は、有名な美術展などを内容とする全国一律型から、地域の個性や個人の開発を内容とする地域開発型への転換である。個性や個人の開発についてはアートが特別な力を発揮する。アートとは「個性の開発」そのものであるからだ。
 私が海外で経験している範囲でも、科学館がアートイベントを開催したり、デザインや工業系大学がダンス教育を採用したり、これまでにないケースがふえている。その接近のあり方を加速し、その成果を展示する場所として、ミュージアムほどふさわしい場所はないのである。
 本来、アートとサイエンスは同根のものであり、それは誰もが指摘することである。ギリシャ時代の「テクネー」からはじまり、ルネサンスと呼ばれるアートとサイエンスによる協同運動は、歴史上何度でも繰り返されている。東京・新宿にある新しいタイプのミュージアムであるICCでは本格的にメディアアートが紹介され、東京・六本木にある21_21design siteではアートとサイエンスを横断するデザインに特化された展覧会が開催されている。
 しかし、いま起きている現象は、一時の流行をこえ、もっと庶民レベルのもので、広汎な潜在的願望として現れ、ふつうの人びとがアートとサイエンスの接近が生み出す効果を期待しているように見えるのである。
 「境界のオブジェクト」として評価されるスペースチューブへの人びとの反応のよさも、そのひとつの例証なのである。スペースチューブは、アート作品であり、同時にサイエンス作品である。スペースチューブを体験した人びとの感想には、これまでと確実に違うものがある。多摩六都科学館も奇しくもスペースチューブを「来るべきソフト」と呼んでくれ、この館が率先してその真偽をめぐる実験を実践したことになる。科学館からすれば、アートを取り込みサイエンスを拡張する機会になり、それを美術館や劇場が実施すればサイエンスを取り込みアートを拡張する機会になる。
 このようなミュージアムにおけるアートとサイエンスの交通と、文化と経済の共存こそが、都市を新しく活性化し、人びとの潜在的願望を顕在化させることができるという意味で、今後の社会開発プロジェクトを成功させる大きな動力になるに違いない。
 したがって、『スペースダンス・イン・ザ・チューブ』も、「ヒトの潜在能力」を開拓するという趣旨で、これまでの成功事例を宣伝し、それを地域に拡大して実施し、ひとつの地域開発事業としてまとめれば、ふだんはミュージアムに来ない人びとの動員にも成功し、新しい運動がはじまる。家庭用スペースチューブの販売は、地域の新しい産業として展開される可能性もある。
 そして、同時に科学館・美術館・劇場・図書館などで並行して実施したい。同じ内容の事業を実施しても、取り込み方は異なるはずで、その違いを見ていくことも面白い。アートとサイエンスの新しい概念が誕生する可能性もある。


2 新しい学校

 スペースチューブが現代社会で要請されるとすれば、その理由は結局は何だろうか。スペースチューブは特別なのか?
 身体感覚を覚醒させることだけが目的なら、他にも多くの方法がある。しかし、たとえば、一部で大きな話題を呼んだ『ダイアローグ・イン・ザ・ダーク』というプロジェクトがある。視覚障害者が健常者を闇の部屋に案内し、五感を覚醒させるという内容で、これが大きな反響を呼んだ。しかし、それも、「現代に適った方法」で身体感覚を覚醒させているからに違いない。この「現代に適った」という点が重要なのだ。
 おそらくスペースチューブも同様の性格なのである。スペースチューブの特徴も、体験者を閉じた空間に誘い、身体のバランスを奪うという方法で新しいバランスを獲得する方法を教えるもので、これまでにないやり方で全身的な身体感覚を覚醒させるという方法をとっている。思いがけない、予測できない形式で存在を揺さぶることで、人間がリアルな身体的存在であることを知覚させるという方法である。
 つまり、スペースチューブが要請される理由は、『ダイアローグ・イン・ザ・ダーク』と同様に、それほどまでに現代社会が一定の「臨界点」に来ていることの証拠ではないか。そこまでしなければ身体感覚を覚醒させることができない。単に身体感覚を覚醒させるだけでは、それ以上のことに結びつかない。つまり、情報社会における仮想化の力は、そこまで深刻な現象として進行しているのである。あるいは、「身体を求める声」が、ひとつの「域」をこえようとしているのである。そのために、人間は新しい対応を求められ、スペースチューブのような空間装置も要請される。
 アニメーション監督の宮崎駿は、養老猛司との対談『虫眼とアニ眼』(新潮文庫 2008)の中で、荒川修作とのコラボレーションとして想定した「子供たちのための保育園」という提案で、次のように書いている。

 「この子供たちは、小さい頃から非現実(バーチャル)のものばかりにとりかこまれてきたのだ。生活のあり方を変えないと、この文明は亡びるぞ。家をかえよう、町をかえよう、子供たちに空間と時間を! 子供たちが夢中で遊べる場所。地域の子供なら、誰でも入れる所。いつの間にか、すべての感覚を使って、身体を動かしてしまう所」。

 スペースチューブも、新しい空間装置としてスタートした後、「家」や「町」の改革の一端を担えると、その効用の範囲はアートやサイエンスの世界だけではなく、広く社会に還元されるものになる。同様に、このような広範囲の試みは、アートやサイエンスの一部の分野によってのみ担えるとは思えない。
 そのために、私たちは、ダンス・建築・デザイン・情報の四部門によるコラボレーションを組織し、この形式を『新しい学校』と名づけ、『スペースダンス・イン・ザ・チューブ』を運営することにする。『新しい学校』は、生産工場であり、その担い手を育てる教育の場でもある。『新しい学校』がミュージアムと連携するだけではなく、新しく立ち上がるミュージアムの経営をまかされるようになれば、ひとつの新しい文化モデルを誕生させることもできるはずだ。
 現代という時代は、このような協同作業をもっと必要とする時代になる。それは、これまでの方法では解決できない「新しい問題群」を扱うからである。そのために、それを扱う専門家たちの専門性も更新される必要が出てくる。
 私もまた、『スペースダンス・イン・ザ・チューブ』のためには、舞踏家としてのアイデアだけではなく、建築をはじめデザイン・遺伝子工学・ロボット工学などに対してもアイデアを出せる舞踏家に変身する必要があった。
 やっと私たちの世界も、概念の協同ではない、感覚の協同による自由なコラボレーションが可能な時代に入ってきたのである。概念の世界ではアーティストと科学者は相変わらず別世界に住む異邦人たちだが、感覚の世界では両者は驚くほど近づき、一人の人間が両者を兼ねることも矛盾ではなくなっていく。これまで一緒に歩くことが必要だったのにいろんな事情で別々に歩くことを強いられてきた者たちが、いまはじめて一緒に歩くことを求められ、驚いている。そんな新しい時代がやってきているのである。


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