『身体の夢〜ダンスの後に残るもの』「いま、物理学はたいへんな時代に入っている。かつてはSFの範疇と思われていたような考えが、理論的に、ひょっとすると実験的にも、ありうると見なされるようになってきた。余剰次元という新しい概念が発見されると、素粒子物理学者、天体物理学者、宇宙論研究者の世界の見方はがらりと変わり、もはや従来の考えには戻れなくなっている。」(リサ・ランドール/理論物理学者 『ワープする宇宙』2005) スペースチューブは、その構造からバウンダリー・オブジェクトと呼ばれている。バウンダリー・オブジェクトとは「境界に存在するオブジェクト」という意味で、子供も大人も、男も女も、一般の人も専門家も、理系の人も文系の人も、共通に関心を示すことができるモノであり、スペースチューブはその空間モデルの一つであるといわれている。 スペースチューブは、体験者の身体のバランスを奪う空間であるとともに、体験者の動きがスペースチューブの空間としての形状を決定するために、体験者に「なつかしい感覚」を与える空間である。体験者は、この「なつかしい感覚」に誘われて空間の先に進み、人間の基本的姿勢である「立つ・坐る・寝る」にまつわる多様な流動的姿勢を発生させ、あるときは魚のように、宇宙遊泳のように、胎児のように、未知の生物のように、さまざまな「姿勢」をとって遊ぶことができる。体験者はスペースチューブの中で、「姿勢」の形成のためには空間からのサポートが不可欠であること、自分らしさの発揮のためには自分らしい「姿勢」を維持する必要があることを、身をもって学ぶことができる。 21世紀社会は、仮想化とともに、ロボット社会としても実現されていくことが時代の趨勢である。人間の夢の対象がいよいよロボットとしても体現され、家事・介護・医療・コミュニケーションなどを担う支援ロボットとして、また危険地域において人間の代わりに働くロボットやロボット兵士などとして現実世界に登場してくる。そのときには、子供たちがロボット利用により現在よりもさらに痛ましい犯罪を犯すことも、大人たちがロボット兵士をあやつり「夢の感覚の中での殺人」をさらに拡大させていくことも、充分に想定しておく必要がある。 したがって、子供にも大人にも切実に必要になるテーマとは、科学技術リテラシー習得の一環として、いかなる仮想(夢)の登場に対しても正しく対応できるための新しい能力としての「21世紀を生きる知恵〜新しい科学的センス」を育成することであり、リアリティを保証する全身的な身体感覚はそのための「最後の拠点」となり、またその方法として「最初の出発」になる。 身体感覚の回復、リアルな身体的存在であることの認識。しかも、リアル(現実)とバーチャル(仮想)のどちらかの味方をするのではなく、両者を分別し、両者の必要な配合を調整する能力を育てるための教育。この点が、子供たちの今後の科学教育を考えるにあたっても重要になる。それは、今後の科学教育に求められるものも、単なる新しい興味の喚起ではなく、科学技術が社会技術として調和的に人間生活のデザインをリードできるように、そのために役立つ新しい興味の喚起であって欲しいからである。 その意味で、現在の情報社会と予想されるロボット社会の両刃性を考えるとき、まずは探求したい対象に向う子供たちの身体感覚を覚醒させるということは、非常に時機に適ったふさわしい方法になる。今後の社会は、「体験性」やリアリティに根ざした新しい社会の実現に向って欲しいからであり、豊かな身体感覚に裏づけられた科学的発展こそ、次の時代の科学技術の創造を担う可能性がある。スペースチューブにより、子供たちをはじめとする体験者たちは、その体験の第一歩を味わい、新しい科学的センスを養うことができる。 ダライ・ラマは、「人生の目的は幸福(ハピネス)を得ること」といっている。与えられた自己の身体的条件を受け入れ、それを不満と思わず、それで毎日の生活を笑って楽しんでいられたら、それが最高のハピネスであり、その時には究極の健康法が満たされている。 しかし、身体的条件を受け入れるためには、持病も含め、自分の身体が蒙っている何らかの「欠損」にもました「長所」が発見されている必要がある。人は誰も苦痛のみに耐えることはできない。ひとつでも苦痛や心配事があれば何も手がつかなくなるのが人間である。したがって、その「長所」が獲得される必要があるが、通常の方法では手に入らない。通常の方法は一般的な解決をもたらすだけである。そして、やっかいなのは、たびたび一般的な解決が個人が見つけたい自分の「長所」を隠してしまうことである。 この点から見た時に、本当は必要がない、あるいはかえってマイナスになっている身体訓練法、健康回復法、ジョギングやマラソンを含め、ムダな筋肉をつけることも含め、それらがいかに多いことだろう。その見分けは、当人にしかわからない。しかもその当人が自分を知らないのである。一箇所の故障の治癒を図っても、それがどんな方法による治癒だったのかが後で問題になり、知らないうちに他の箇所で二倍の故障になって出てくるかも知れない。 したがって、どんなテクニックを学んでいても、たとえばスペースチューブの中での動作が「幼い」とすれば、「長所」の獲得に役立っていないことがわかる。多くの人が自分なりの歩行があることも知らないのが現状であるとすれば、世間にはそのようなテクニックだけが一人歩きしていることも充分に予想できる。 それよりは、もっと単純に、スペースチューブの中で自分なりの歩行を回復することからはじめてみたらどうか。今後の健康法は、歩行や姿勢をつくることなど、もっと初歩的なレベルから再出発する必要があるのではないか。重要なポイントは、自分の「長所」を獲得することだけである。 その意味で、健康開発もアートに近づく。アートはこの「長所」に基づいた個性的表現の開発であるからだ。スペースチューブは、この「長所」の監督に必要な体験を与えてくれる。スペースチューブの中で遊んでいると、歩き方にも、ころび方にも、身体の預け方にも、自分なりの方法があることがわかってくる。それも非常に大切な発見である。ふだん使わない筋肉も使うので、身体が自然に温まる。その体験を積めば、自分に必要な身体ケアとそうではないケアを判別することもできるようになる。 そして、もうひとつ重要な点が、これからは「人に見られ、人からエネルギーをもらう」という要素を導入することだろう。私たちは以前、東京都・世田谷区の高齢者プロジェクトとしてスペースチューブを使用したリハビリテーションを実施したが、足があがらなくなっていた一人の半身不随に近いおばあさんの足がスペースチューブの中ではあがり、一時的だったが歩くことができた。それは、スペースチューブの効果もあったが、そのときのおばあさんの行為が人に見られ、人に褒められたことにも大いに関係がありそうだった。 健康障害や、身体の故障や、病気が、何らかの社会生活のストレスから生まれている場合が多いことも周知の事実である。社会的関係が原因で生まれた傷は、社会的関係の中でしか治らない。このおばあさんの場合にも、人に見られ、人に褒められるという劇場型の処方が必要だったのではないか。 このように、健康開発の新しい方法は、個人による単独の努力からだけではなく、もっと社会の中からも誕生する必要がありそうである。スペースチューブは、このような劇場型の処方も用意できる。 また、スペースチューブ体験では、高齢者や何らかの障害をもつ人たちふる舞いが特にユニークである。たとえば、視覚障害をもつ人は触覚・聴覚・臭覚などに優れていることが多く、スペースチューブに仕込まれたテクスチャー・音・匂いなどの情報に対し、バランスの回復や姿勢の形成にあたり一番利用する情報は何か、それを調べ、体験後に話しを聞くと、さまざまな有益なデータが得られる。 私たちは数年前に、原因不明の理由で視力を失くした舞踊家と、東京・多摩六都科学館でスペースチューブを使用したスペースダンス公演を開催した。彼女は、めが見えない分だけ触覚を中心にスペースチューブを体感するそうで、スペースチューブの中での動きは私たち健常者よりも大胆かつ繊細で、そのダンスには非常に美しいものがあった。しかし私たちは、観客には彼女が視覚障害者であることを知らせなかった。同情票を集めることを避けたいためだったが、彼女のダンスは自然に注目されたため、終演後にその事実を知った観客はとても驚いて帰った。私たちは、このような可能性は彼女だけでなく、基本的に障害をもつすべての人が持っていると考えている。 このダンサーの場合では、視覚を失った分を触覚・聴覚・空間知覚などの他の感覚を総動員して補っているように思われ、スペースチューブという媒体に出会うことで、結果的に周囲から高い評価を受ける素晴らしいダンスを実現している。したがって、スペースチューブは、障害をもつ人が自分の知覚上の特徴を生かして、自然なやり方で自己の潜在的な身体能力を再発見し、自分を高めるのに役立つ。障害をもつ人が、ある局面では健常者よりも優れた能力を発揮することは事実である。それを、自身でも確認し、人びとも確認するならば、その人の自立意識がよりつよいものとして育っていくことが可能になる。 それは、「高齢者対若者」の関係でも同様である。高齢者には、長い人生の中で培ってきた知恵と大切にしている記憶の蓄積がある。その核心を自信をもって表現すれば、若者には手が届かない味が出る。スペースチューブの中では、やわらかく歩くことができるほど、かえってスペースチューブは体験者の身体の拡張として身体化され、奥行きをもったダイナミックな形態として自らを表現できる。ゆっくりやわらかくふるまうことの大切さを知るのは、何よりも高齢者の知恵のはずである。スペースチューブは、失くしかけていた高齢者の自信回復のために感覚面から支援することができる。 私たちは、女子美術大学でのスペースチューブを使用した特別授業でも、第1章で紹介した保谷小学校と同様の体験をした。いつもは授業が終ればすぐに帰ってしまう学生たち。それが、授業時間が過ぎても帰らない。そして、外から内部の様子が見えるガラス張りのスタジオだったせいもあり、他の教室からも学生が集まってきて一緒にスペースチューブで遊んでいる。そのとき学生たちがあげる「」えーっ、何これ? 面白い!」という歓声も、保谷小学校の子供たちがあげる「あの歓声」とそっくりだった。 この歓声はいったい何なのか? 何かが起きているのか? この歓声には何か重大な秘密が隠されているにちがいない。この歓声は、それまで抑制されていたものがいっせいに解放されたときに人間があげる歓声に似ているのではないか。しかし、学生たちにどんな抑制されたものがあるというのか? 学生たちにスペースチューブ体験の感想を聞くと、「からだがつながっいる感覚」「すごくなつかしい感覚」「お母さんの胎内みたい」「動物に戻ったような気持ち」というものから、「ふつうの子をダンサーにしてくれる装置」「自分の動き方をはじめて知った」「いつもの自分と違い大胆になれた」「新しい感覚をつくれる気がする」などがあった。 たしかに、スペースチューブの中では誰もが即席のダンサーになれ、学生たちの動きもふだんとは違っていた。スペースチューブの内部も無重力空間や胎内空間に似ている。学生たちが取る姿勢も多様なもので、外から見ていると、まるで魚のようだったり、四足の動物のようだったり、人間の姿とは思えないような姿勢がたくさんあった。スペースチューブが日常とは違う動きと感覚を体験者に提供するという点は、保谷小学校の子供たちと共通だった。スペースチューブは、新しい感覚をつくる表現の場としても最適なのである。 私たちは、ふつうの人間も宇宙に出かけることができるようになるという最近の宇宙旅行時代を迎えてはじめて、「宇宙生活」という新奇なテーマに対しても、一定のリアリティをもって想像できるようになってきた。無重力環境では人間はどうなり、自分が行った時にはどんな生活になるのかと、宇宙に行く可能性が現実的でないうちは、そのテーマは科学者や一部の限られた人間たちのもので、世間一般の者には縁がなく、考えたとしても自分に対応する感覚がないままの観念的な想像だったはずである。 それがいまでは、月からの地球の映像を見たり、月に着陸した宇宙飛行士の経験を聞いたり、宇宙ステーションに浮かぶ宇宙飛行士の姿を見るだけで、近い将来の自分たちの出来事として重ねられ、「宇宙生活」が地上とは大幅に違うらしいことも想像できる。宇宙空間では蹴るべき地面がなく歩くことが出来ないことから、地上のやり方は宇宙では通用しないことに気づき、そこから人間の衰退を予想して無力感に陥ることもできれば、その逆に、新しい解放と能力を獲得するかも知れないと想像して希望をたくましくすることもできる。つまり、否定・肯定のどちらとしても、「宇宙生活」というテーマに向き合うことで、人びとは想像力を刺激され、未知の感覚を養いはじめるのである。 試しに、スペースチューブで擬似的無重力を体験しながら、「宇宙生活」をシミュレーションしてみたらどうだろう。まず、身体はどうなるのか? 無重力環境では歩くことがないため足が不要になり、足も手になる? いつも浮いているとすると、地上で可能だった他者との接触が曖昧になるため、親密な関係はどうやって結ぶのか? 拒絶の反応も、誤解されずに相手に伝わるだろうか? 地上の成果は、どの範囲までそのまま使え、どの範囲から無効になるのか? つまり地上デザインと宇宙デザインの差は? 宇宙で人間が進化するとすれば、どんな進歩が予想されるのか? 宇宙人にも遭遇できるのか? 宇宙で生まれる子供たちと地球の子供たちとの関係は? 戦争がはじまったりしないのか? このように、人間にとっての宇宙はまだわからないことばかりで、何も書き込まれていない「白紙」に近い。したがって、宇宙に行く行かないにかかわらず、豊かな想像力をもって生きることが人生を豊かにする決め手になるとすれば、「宇宙生活」というテーマほど想像力を鍛えるための絶好のエクササイズはない。 TOP HOME |