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Visions of the Body, Appearance after Dance

『身体の夢〜ダンスの後に残るもの』

【1】

福原 哲郎




 「いま、物理学はたいへんな時代に入っている。かつてはSFの範疇と思われていたような考えが、理論的に、ひょっとすると実験的にも、ありうると見なされるようになってきた。余剰次元という新しい概念が発見されると、素粒子物理学者、天体物理学者、宇宙論研究者の世界の見方はがらりと変わり、もはや従来の考えには戻れなくなっている。」(リサ・ランドール/理論物理学者 『ワープする宇宙』2005)

■目次

[序]  動物たちの記憶を辿る旅
【2】
第1章 『新しい知〜身体と環境は一体という思想』
【3】【4】【5】
第2章 『身体知の情報化〜新しい科学の言葉で語るという課題』
【6】 【7】
第3章 『宇宙視点から地球を見ると』
【8】 【9】
第4章 『進化の夢〜分身創造』
【10】【11】 【12】
第5章 『スペースミュージアム』
【13】【14】
第6章 『芸術の新しい役割』
【15】【16】
第7章 『経済を生み出す新しい文化〜身体・家具・家・都市・コミュニケーション』
【17】 【18】
第8章 『「大家族」という生き方』
【19】 【20】
[おわりに]
【21】


[序] 動物たちの記憶を辿る旅

1 二つの「心」

 私が書き始めたSF作品『宇宙年齢17才、イカイ少年のエレナ探し』に登場するスペーストンネル少年少女学校では、アスカとノアという二人の主人公と共に、10才から17才までの世界中から集められた1000人ほどの生徒たちが、「身体の動きの中に宿された<動物たちの記憶>を辿る旅」というテーマのもとに、深さ20メートルの巨大プールと巨大空間に設置された長さ100メートルのスペースチューブの中で、人間の赤ちゃんが記憶として残している「動物たちの多様な歩行」の再現も含め、さまざまな「姿勢形成訓練」に挑戦している。そして、その最後のコースでは、数人の生徒が一体になり、巨大なイルカロボットを形成し、「コマのような高速回転」にトライしている。
 なぜかと言うと、この作品の設定では、「姿勢形成訓練」の成果により生徒たちが脳機能を発達させ、身体を「新しい身体」として成長させることができ、人類の「ニュー世代」として登場できるという設定になっているからだ。そして、この学校の目的が、優秀な生徒たちを新・国連が2035年に創設したことになっているエックハルト軍による情報戦争の戦士として育てること、さらには新・国連が推進する『ヒト宇宙化計画』を担い、地球再生と宇宙文化創造のための革命に参加させるというストーリーになっているからである。
 この作品のなかでは、理論物理学者のリサ・ランドールが提唱する余剰次元と似た5次元世界が存在し、5次元世界には失われた動物たちや異星人たちや死者たちが、われわれの現実世界に重なり合うようにして住んでいる。そして、エックハルト軍による情報戦争の相手とは、人間だけではなく、異星人たちであり、また生徒たちの優秀さを判定する基準が、スペースチューブ体験で得られる失われた動物たちや異星人たちや死者たちの友だちの種類の「豊富さ」によるということになっているため、生徒たちはなおさら「姿勢形成訓練」に熱心に取り組むのである。
 それは、たとえば、次のような訓練である。

 生徒たちは、「失われた動物A」に出会うために、
 スペースチューブ内部に出現する「境界」で、「姿勢A」を形成する。
 同様に、「異星人B」に出会うために、
 「姿勢B」を、同じ「境界」で形成する。
 同様に、「死者C」に出会うために、
 「姿勢C」を、同じ「境界」で形成する。
 こうして、多様な姿勢形成をできる生徒ほど、
 多くの失われた動物たちや異星人たちや死者たちに出会い、友だちになることができる。


 このような「仮説」を裏付ける例証としては、牛の解体施設で牛の姿勢を取った時に「私は、牛。だから、人間とのコミュニケーションがうまく行かなかった。いま、私は、牛と同じ姿勢をとることで、牛の気持ちがわかる」というようなことを言い、自閉症患者としてはじめて大学教授になったテンプル・グランディンが特別に面白い。彼女は、自閉症の辛い症状から解放されるために独自に「しめつけマシーン」というスペースチューブに似たものを開発し、動物と人間の間に橋をかける仕事をして、 「姿勢形成訓練」におけるエキスパートになった。テンプルにおいても、牛の気持ちを理解するためには「牛の姿勢」をとることが必要だったのである。
 もちろん、私がSF作品の中で書いているこのような「姿勢形成訓練」とは、誰にとってもはじめての内容なので、奇妙に聞こえるかも知れない。しかし、テンプルの例も含め、しばらくこの訓練を続けていると、いたって自然で必然的な訓練であることが誰にも理解できてくるはずだ。
 とにかく、この本においては、科学的真実といわれるものも今だ「仮説」の域に留まっているものが多いという事情も考慮に入れ、「仮説」であるか真実であるかは、第一義的に重要ではない、という立場をとる。重要なのは、私という一個のアンテナにとって「真実らしく感じられるか」どうかであり、それが「仮説」であっても、或いはSFとしての主張であっても、私がこの本で探求したいテーマにとって面白く、重要であると見做される見解については、その全てを採用するという方針を採っていく。
 つまり、私にとっては、失われた動物たちや異星人たちや死者たちが私たちの四次元世界とは別のあり方で存在しているという感覚は真実であり、或いはそのように存在して欲しいと希望していることは事実であり、それが現在の科学によっては事実として立証されないからと言って否定する必要は何もない。それは、科学自身が更新されていく運命にあることが間違いないからであり、また、私の感覚は「仮説」の中でどのようにも生かすことができるからである。
 したがって、次節に述べる「物語」も、ほとんどが「仮説」から構成される推論の域を出ていない「物語」かも知れない。しかし、私にとっては「思い当たる内容」であり、心に響くものとして、重要な「物語」である。このような「物語」でも、現実世界に起きる問題を解決するために力を発揮するならば、それは貴重な試みであるということになる。
 私のこのような方針は、何よりもリサ・ランドールが以下に述べていることからも裏づけを得ることができるだろう。私たちのこれからの時代は、よい意味において、宗教と科学が再び接近する時代になるだろう。宗教を否定することで成立した科学の時代は、その意味で終るのである。リサ・ランドールも、自分の余剰次元の考えが自分が「信じている考え」であることを告白している。つまり、彼女も、自分の科学的発想を科学以外のものに基礎を置いており、彼女はもはやその点について後悔しない。現代においても、或いは現代においてはなおさら、リサ・ランドールのように、信仰や直観が最先端の宇宙物理学やその他の科学を発展させることになるだろう。SFや宗教が科学をリードすることはあり得るのだ。そして、科学が、一度否定した宗教に対して新しい内容を与え、宗教を更新することもあるだろう。

 「いま、私たちのまえには、無視できない新しい世界観が現れている。
 余剰次元によって、物理学者はこの宇宙に関する考え方を変えせられた。
 私たちの世界とは別に、まったく違う性質をもつ見えない並行世界があってもおかしくはない。
 ・・・ふと、自分の本当の気持ちに気づいた。
 私は余剰次元が何らかのかたちで存在しているに違いないと、信じているのである。
 まさか自分がそんなふうになるなんて。」
(リサ・ランドール『ワープする宇宙』 NHK出版 2005)

 同様の意味で、脳科学者・入来篤史(理化学研究所脳科学総合研究センター)の次のことばも、大変興味深い。入来はここで、人間の脳と心の未来について語っているのであるが、「身体を離れても存在する心の存在」を前提にして語っている。しかし、入来はリサ・ランドールと同様に現代科学の最前線に立つ科学者なのである。これまでの脳科学であれば、身体の一部である脳が自己の内部に心を生成させていることを主張する以上、「身体を離れても存在する心の存在」を認めることはない。脳科学の世界ではそのような「心」は存在しない。しかし、入来はそうではないように見える。したがって、もしそうであるとすれば、入来もまた新しいタイプのユニークな科学者であり、次の時代の科学の方向を示す旗手の一人であるといえる。

 「ネットでつながれた近未来世界では、身体を離れ、電子社会を浮遊する自己はどうなるのでしょうか。
 心が身体を離れたとき、それは一体どこへ向うのでしょうか?
 科学技術と知性をもった人間の脳と心は、また新たな「何か」を創造するのでしょうか?
 その未来を予測し、来るべき「進化」に対応するためには、自然科学系と人文科学系を融合した、
 人間知性の科学を推進することが、われわれ人類にとっての火急の要となるでしょう。」

 (入来篤史『脳研究の最前線』 講談社 2007)

 ここで入来が提案する「自然科学系と人文科学系を融合した人間知性の科学」とは何か? この点が非常に重要である。入来が提案する科学とは、明らかに理系・文系と分けて考えてきた近代以降のこれまでの教育の歴史における理系分野から立ち上がってきた科学ではなく、その科学にもう一度文系が加わることで誕生する「新しい科学」のことである。入来がこの「新しい科学」の立場に立つかぎり、脳が生み出す心について研究する一方で、脳を離れても存在する心について考えることにも矛盾は生じないのである。なぜか? リサ・ランドール的にいえば、これらの二つの心は別次元に存在しているからである。そして、別次元といっても、別々に離れた別世界としてではなく、同じ場所に、重なり合って存在しているのである。このような新しい事態については、既成の科学による理解を超えており、既成の科学から事実として認証される必要はまったくない。


2 百万の仮説の上に構成される「一つの物語」

 むかしむかし、イクティオステガやユーステノプテロン等の「弱い魚たち」が、「強い魚たち」たちに海を追われ、川に逃れたという「仮説」がある。そして、イクティオステガたちが胸ビレを川底のじゃりに入れて急流に耐えている内に、胸ビレが骨格を備えて足になり、肺呼吸を発明し、やがて足を使って陸上に進出し、両生類になったという「仮説」がある。これらの「仮説」によれば、両生類は、川から、しかも、「弱い者たち」から誕生したのである。
 両生類は、イクティオステガたちの記憶を、自分たちの脳や動作の中に宿しているだろうか。
 そして、両生類がイクティオステガたちの記憶をもっているとするならば、それは喜びに満ちた記憶なのだろうか。つまり、両生類は、自分たちが両生類になったこと自体が嬉しい事件であり、このようなルーツをもつことを誇りに思っているだろうか。或いは、逆に、それは悲しみに満ちた記憶なのだろうか。
 私がこのように問うのは、このような両生類が多様な陸上の環境で成長することで、多くの四足動物として進化していくからである。
 そして、一部の四足動物は、食物を採るためか、或いは別の理由もあったのか、「空中に飛び出す必要」に迫られ、彼らは前足を翼に変え、鳥になった。
 また、他の一部の四足動物は、これも同様に、食物を採るためか、或いは別の理由もあったのか、「立ち上がりたいという欲求」にさいなまれるようになり、前足を空中に上げ、後ろ足だけで立ち、二足歩行を不完全ながらも成功させるようになり、サルになった。
 このようなサルが、自由になった前足を「手」として使い、動物の骨を武器としても使用するようになり、道具文化の第一歩を記したといわれているが、それは真実だろうか。
 そして、最後に、われわれ人類についてであるが、一部のサルたちが、或いはサルに近いものたちが、いまだ不完全な自分たちの二足歩行について反省し、「何かの不足を感じた」のか、或いは別の動機によるものなのか、この二足歩行を他のサルたちにはない二本の筋を腰に進化させて完全なものに高め、後足だけで真っ直ぐに立てるようにして、自分たちを最初の人類としての特徴を際立たせることに成功した。真っ直ぐに立つ動物は人類だけではなく、他のサルの一部に出来る。しかし、真っ直ぐに立つことを常態として採用したのは、人類だけである。
 こうして、二足歩行を完成させた人類が、直立することによって脳を肥大化させ、「手」をさらに自在に使用して多様な道具を発明し、モノを誕生させ、新しい食物を生産し、言葉をたくみに使い、コミュニケーションを進化させ、サルにはない高度な文化を築きあげ、人類として地上に君臨するようになっていく。
 以上の過程でも、人類は、さまざまな迷いごとや、悩みや、自分にも理解不能な数々の欲望に襲われただろうか。このような人類草創期における「悩み」について、また魚からの進化の歴史も含めこのような特徴をもつ人類として成立したことの「喜び」について、或いは「悲しみ」について、今でもそれを記憶として語ることができる人間が、この世に存在するだろうか。

 そして、「物語」はさらに続く。
 驚くべきことに、パキケトゥスやアンプロケトゥスという一部の四足動物たちが、何を思ったのか、再び海に還る道を選んだのだ。彼らが、クジラやイルカたちの祖先になったという。
 パキケトゥスやアンプロケトゥスたちは、地上生活の中で「何か」に気づき、それで自発的に海に還ったのだろうか。或いは、彼らもまた、かつてのイクティオステガたちと同じで、「よわい動物たち」として、「つよい動物たち」に邪魔者扱いされ、或いは捕食され絶滅させられる恐怖にさらされ、それで仕方なく海に還るしかなくなったのだろうか。或いはもっと単純に、食物の関係で、彼らの生息地の食料が不足し始め、かつての海の生活の方が食料確保に楽だということを思い出したのだろうか。
 このパキケトゥスやアンプロケトゥスたちの行動の「謎」については、おそらくは誰もが関心をもつのではないだろうか。なぜ、せっかく、魚から動物になれたのに、ふたたび魚と同じような存在になる道を選んだのか。陸上に存在することに恐怖があったとしても、或いはその他にも、何か居心地の悪さのようなものを感じたり、或いは地上にやがて危機が訪れることをいち早く感じ取った等の理由で、それで海への帰還を決断したのだろうか。
 そして、われわれ現代の人間は、なぜ、クジラやイルカを特別に愛したり、クジラやイルカに人間に似た高度な知性が宿っていると推測したり、特に平和な顔つきをしたイルカに特別の親しみを感じたりするのだろうか。人間はなぜ、海に潜ることを特別に愛するのだろうか。人間がクジラやイルカを「友人」と感じたり、彼らの存在に「癒し」を感じたりするのはなぜなのか。或いは、人間もまた、時が来れば彼らと同様に海への帰還を選択する運命にあることを無意識に悟っているため、それで、我知らず、彼らに先行者としての親しみを感じているのだろうか。
 海への郷愁をテーマにした映画や小説は、数え切れないほどたくさんあるだろう。そのなかでも、漫画家・市川春子の『25時のバカンス』は異色だ。主人公の西乙女(おとめ)は貝殻になってしまった女で、弟に「貝が、私の中に入って内臓も脳も食い尽くされた。私の人格はその中にはりついている。貝を口の中に住まわせるコントロールができるようになれば、人が海に住むのも夢ではないかもしれない。生物進化は環境適応よりも、共生による飛躍が有力説だ。貝と共に住めば人間の新しい未来が開くかも知れない」と、奇妙なことを説いている。単なる海への郷愁ではなく、戦略的な海への帰還の方法が描かれていて、私には大変面白い。
 そもそも、人間が、クジラやイルカを特別視するようになったのは、歴史的にはいつ頃のことなのか。その記録は残されているだろうか。人間が残した洞窟絵の中には、クジラやイルカたちの絵も含まれているだろうか。
 もし、パキケトゥスやアンプロケトゥスたちが地上生活の中で「何か」に気づいたのだとすれば、私の「物語」もその「仮説」を採用してパキケトゥスたちに進化史上の特別の位置を与えたいと思う。しかし、真実はどうなのか。そして、人間の場合も、気づいてはいたが、しかし、あくまで陸上に残る道を選択したのだろうか。或いは、今ではないが、「いずれは」と思っているのだろうか。或いは、やはり、何も気づかなかったがゆえに、現在の姿があるのだろうか。

 そして、「物語」は、ここから、さらに、次のように、私の「仮説」に基づいた物語として展開される。

 人間は、近く、
 イクティオステガたちやパキケトゥスたちと「同じ種類の行為」をはじめる。


 そのために、私は、まず人間とサルの差について、次の「仮説」を採用する。
 むろん、私がここで人間とサルを差別化するからといって、サルを人間より劣った存在と見做すわけではない。私の「物語」では、「人間の次の存在」を準備するために、サルが重要な協働者として登場する。サルと人間は、対等な友人同士なのである。
 人間とサルの差別化を成功させた「仮設」とは、次のようなものである。

 人間は、「坐るための椅子」をデザインすることで、
 サルとは違う人間としての特有の進化を決定づけ、新しい文化を誕生させた。


 私の「物語」では、魚・両生類・四足動物・鳥・サル・人間のそれぞれにおいて、それぞれの姿勢に応じた文化が存在するという、「姿勢は文化創造の母胎である」という「仮説」を採用している。そのために、「姿勢」が重要なキーワードになっている。この観点では、人間が、二足歩行を完成させたがゆえに「坐る」という行為の意味に気づいたこと、そして、「坐る」という行為を支援するために「坐るための椅子のデザイン」をはじめたこと、それらが「人間としての特有の進化を決定づけた認識とその行為」として、特別に評価される。
 なるほど、「坐る」のは、人間だけではなく、サルも坐る。岩の上に。草の上に。木の上に。その他、あらゆる場所にサルも坐る。しかし、わざわざ「椅子」という人工物をつくり、その上に坐ったのは、人間だけである。
 では、「椅子」という人工物をもって坐る場合と、そうでない場合の違いとは、一体何か。それは、当然、単なる坐り心地等の問題だけではない。それは、端的に、「椅子」という人工物の上に坐ることで、初めて人間が、自己を拡張し、拡張した先で「自然」と衝突し、そのことで「自然」を、或いは「地球」を、「客体視」できるようになった、ということである。この「客体視」の存在が、私の「物語」では、サルと人間の間の決定的な差異をつくり出すことになる。
 つまり、人間だけが、この「客体視」により、地上に生きる自己の存在を、同時に「外部の目」をもって見つめることが出来るようになった。その最初の成果が、「宗教」の発生である。人間は、この「客体視」により、地上の生活者としてありながら、同時に自分が宇宙にも存在する者となり、この宇宙に存在する者が、地球に存在する同一の者を見つめはじめたのである。
 サルは、たしかに坐るが、しかしサルは常に地球だけに所属しているだろう。サルは、どんな時にも自然と一体であるだろう。しかし、「椅子」という人工物に坐るようになった人間は、違う。地球に所属していながら、地球の外側にも所属している。それは外見上の相違ではなく、人間は精神において自然と一体ではなく、自分を自然から切り離して見る視線をもったのである。
 人間が、ふとした時に、急に淋しさを感じ、或いはつよい郷愁の思いにかられ、自然への「帰還」を恋焦がれるのも、自然から切断されている自己を抱えているからである。自然と一体である者は、このような自然への「帰還」は必要としない。人間が、宇宙について思索することに不自然さを感じないのも、人間の「もう一つの自己」が宇宙に属しているからである。人間は、「もう一つの自己」を、「神」の名で代表させ、或いは「大きな我」と呼び、或いは他の名称を使用し、地上の自己よりも「もう一つの自己」の方がより大きく偉大な存在であるかのように、その存在を敬いつつ生きてきた。
 しかし、また、以上の話しだけで終るなら、人間がもつ「客体視」という能力も、この地球では、それ以上特別な進化を引き起こすことはないだろう。私にはそう思える。
 しかし、この能力が、再度、特別な能力として注目されることになる。その理由は、人類が今、科学技術の進展と過度な消費行動の功罪として、一方で地球環境の破壊を進めることになり、他方で宇宙への進出を現実に可能なものとし、こうして人類が宇宙時代という「新しい時」を迎え、「これから、人類として、どうするのか?」という、これまで存在しなかった問いを、かつてない規模で突きつけられるようになったからである。
 つまり、私の「物語」では、この問題の解決のために、「客体視」の能力を使用できる。そのために、再度、重要な能力として注目される。この「客体視」の能力を有効利用するプランを作成し、それを実現するならば、人類をはじめ、地球に住む全生物たちに「新しい発展と新しい延命」のあり方を提供できる、と考えるからである。
 その為に、私はこれまで述べてきた一連の「仮説」の上に、更に次の「仮説」を導入する。

 人間が、「ポスト人間」に進化する為に必要な条件とは、宇宙を舞台として、
 0重力〜1重力間における「多様な姿勢構築」を実現する「姿勢支援ロボット」を開発することである。
 そして、その時に生まれる新しい姿勢を支援するための「流体的家具」をデザインすることである。


 かつて人類が、地上において、「坐るための椅子」をデザインすることで新しい進化を決定づけたように、人類が「ポスト人間」への進化を果たすためには、宇宙において、「姿勢支援ロボット」の開発と「流体的家具」のデザインが必要、という「仮説」である。
 「スペーストンネル少年少女学校」の生徒たちが、「姿勢支援ロボット」をロボットスーツとして着用し、「姿勢形成訓練」に熱心に励むのは、まさにこのような一連の「仮説」に基づいている。
 その結果、この学校の生徒たちは、「海に還ったクジラやイルカ」の状態を、無重力状態の宇宙に持ち込み、「クジラやイルカの祖先が陸上生活の途中で気づいたであろう<何か>」について、その解決を、実践の場を宇宙に移して行うのである。その「何か」についての解決は、「宇宙で挑戦する仕事」として昇華されることになる。つまり、パキケトゥスたちは海に還ったが、人類は宇宙にその思いを託すのだ。
 それにより、この学校の生徒たちは、そして私たちも、これまで地球では発想されたことがない、「新しいタイプの宇宙文化開発の方法」を実践し、その道を邁進することになるのである。

 そして、このような開発の成果は、欲張りな人間としては当然のことに、この地上においても、「宇宙からの贈り物」として、さっそく利用されることになる。たとえば、今、「流体的家具」の地上版として、「椅子でもあり、ベッドでもあるような不思議な家具」が登場したとする。その時、10年や20年前ならば普通の人びとが違和感を覚えたに過ぎないとしても、なぜか、この家具の方が既成の椅子やベッドよりも機能的で心地いいと感じるとするならば、一体何が起きていることになるだろう。
 それは、明らかに、人間の感覚の変化をベースとする、重要な「ひとつのサイン」である。つまり、人びとは、椅子とベッドの間に位置するような、「<坐る>と<寝る>の中間に位置する新しい姿勢の創造」を求めはじめている。そのために、その新しい姿勢を可能にする「新しい家具」を求めはじめ、椅子とベッドの間に、より繊細で、なめらかで、迅速なデザインを求めはじめている。そういうことになるだろう。
 その結果、それが、今後、どれほどの時間がかかるとしても、地球でも、「宇宙文化開発」に連動する形で、地球文化再生のための「新しい事件」が起きる可能性がある。或いは、その事件が起きることが待望されることになる。
 実際に、人びとは、このような不思議な家具が登場してもおかしくはないとする、その意味で「一歩進んだ感覚」をもちはじめているのではないか。それは、デパートの家具売り場に行くたびに、「椅子やベッドの形は、いつまで同じなのか?」と思う疑問であり、また、「私たちの感覚も、私たちの欲求も、急激に変化している以上、それに対応して、ひとつくらいは、これまで見たこともないような、まったく新しい家具が登場してもいいのではないか?」と願う希望である。

 そろそろ、新しい家具を見たい。
 人類が「坐るための椅子」をデザインしたのは、もう遠い昔のことなのだから。
 「椅子でもあり、ベッドであるような不思議な流体的家具」が登場し、
 それをふつうの人びとが好むとすれば、この不思議な家具こそ、
 地球時代に大きな変化を告げる「ひとつのサイン」になるに違いない。


 こうして、地上でも、新しい革命が、「姿勢創造」という身体的レベルから開始されることが可能になるのである。デザイン・建築・情報などを専攻する敏感な学生たちや、それを職業とする優秀な人びとは、いち早く、この徴候に気づいているのではないか。かつて、日本の倉俣史郎が風変わりな椅子をデザインしていたように。
 私たちは、今、かつての倉俣史郎のように、積極的に新しいタイプの風変わりな椅子を求めはじめていいのではないか? それも、新しい時代の要請として、倉俣が夢見た重力からの解放だけではなく、宇宙文化創造と人類進化を視野に入れた、「姿勢創造」を目的とする「重力を調整できる新しい家具」の登場を。


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