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Visions of the Body, Appearance after Dance

『身体の夢〜ダンスの後に残るもの』

【4】

福原 哲郎




 「いま、物理学はたいへんな時代に入っている。かつてはSFの範疇と思われていたような考えが、理論的に、ひょっとすると実験的にも、ありうると見なされるようになってきた。余剰次元という新しい概念が発見されると、素粒子物理学者、天体物理学者、宇宙論研究者の世界の見方はがらりと変わり、もはや従来の考えには戻れなくなっている。」(リサ・ランドール/理論物理学者 『ワープする宇宙』2005)

■目次

[序]  動物たちの記憶を辿る旅
【1】【2】
第1章 『新しい知〜身体と環境は一体という思想』
【3】【5】
第2章 『身体知の情報化〜新しい科学の言葉で語るという課題』
【6】 【7】
第3章 『宇宙視点から地球を見ると』
【8】 【9】
第4章 『進化の夢〜分身創造』
【10】【11】 【12】
第5章 『スペースミュージアム』
【13】【14】
第6章 『芸術の新しい役割』
【15】【16】
第7章 『経済を生み出す新しい文化〜身体・家具・家・都市・コミュニケーション』
【17】 【18】
第8章 『「大家族」という生き方』
【19】 【20】
[おわりに]
【21】


3 宇宙環境に対して

 現在までの宇宙開発の最大の成果のひとつは、私の舞踏家としての観点からは、宇宙飛行士たちが宇宙遊泳やスペースシャトルで無重力状態を体験し、また月において六分の一の重力状態を体験したことによる、「人工重力」の創出による「重力調整のチャンスを手に入れたこと」である。
 もし、「姿勢は文化創造の母胎である」と定義できるなら、その内容が私たちの人間的観点からはどれほど異なっているとしても、魚・両生類・鳥・サルにもその姿勢に応じた固有の文化があると考えていい。動物にも文化があるのだ。二足歩行を完成させた人間の場合も、それで終りではなく、ゼロ重力と一重力の間を自由に往来することで地上では成立しない姿勢群を成立させ、そこからさらに「新しい姿勢」を媒介にした「新しい文化」を開発する可能性が出てくる。
 生物が環境の変化に直面するたびに延命や発展に必要な技術を開発し、その技術により自己と環境をつくり変えて進化を遂げてきたこと、それができなかった生物は滅びてきたことは、いまにはじまったことではない。しかし、人間が宇宙環境でゼロ重力と一重力の間を自由に往来することになれば、それは人間の歴史にはなかったまったく新しい出来事であり、魚が陸に進出して両生類に進化した場合に似て、「人間の次のステップへのチャレンジ」という、進化の舞台上の特別のドラマに結びつく可能性がある。人間は生命の進化史における最終ランナーではないはずだ。人間に「次」が存在するとすれば、それはこのような新しい姿勢形成による「人類の次の種の形成」によってはじまるのではないか。

 そして、少なくとも以上の「新しい知」により、宇宙環境において宇宙飛行士たちが体験する「身体の劣化」というやっかいな問題も、それを矯正するために現在までスペースシャトルで行われている運動機能維持の方法がそれほど有効ではないという問題も含め、とても理解しやすくなる。それは、人間の身体は地球の一重力環境で育ってきたからで、いまも地球環境と不分離だからである。
 したがって、この関係を無視して無防備に宇宙環境に投げ出された身体とは、「木の根」と「土」の関係に喩えるならば、「土」のない中空に放り出された「木の根」と同じで、すぐに枯れてしまうことは明瞭、ということになる。どうしてもそうしたいなら、「土」とともに持ち出す必要があるというわけである。
 そして、さらに考えるべきことは、人間が地球文化の矛盾を克服した宇宙文化の創造をめざすと宣言するかぎり、地球にある以上の優れた「土」を工夫することである。「土」が同じであれば、また同じ矛盾をもつ地球文化が宇宙環境において再生産されるだけである。


4 高齢社会に対して

 私たちの身近な問題として、大人や高齢者を中心とする毎日の健康維持やリハビリテーションによる身体ケアの問題でも、これからは誰にも同じメニューが施されるのではなく、そこには団塊世代以降の個人の意識の高さも反映され、それぞれの個人において個別のテーマになる部分を集中してケアすることができる新しいプログラムが必要とされていくはずだ。そのような要請の場合にも、スペースチューブがもたらす「新しい知」は、身体と空間の親和的な関係に対する感覚の回復をバネとして、何よりも個人が大切にする感覚に根ざした個人のための新しい身体ケアの方法を考えさせ、これまでにない健康開発の発想を提供できる。
 近代デザインは、バリアフリーやユニバーサルデザインの概念に辿り着いたが、それも個別性や当事者性の発想を取り入れなければ、次第にうまく機能しなくなるだろう。今後の高齢者は「弱者」だけであるとは限らず、まったく新しいタイプの「強者」も増え、その幅が広がるからである。
 「障害者に優しいデザイン」という発想にしても、それが実際には「健常者の視点から想像した障害者に優しいデザイン」ということで、障害に対する差別意識を残しているだけでなく、障害者の実態に即していない場合が多いことも明らかになってきた。つまり、歩行支援器具の開発などにおいても、障害者が実際に街の中で必要とする情報は健常者には理解できず、かえって障害者の歩行を困難にする情報が含まれていることがわかってきたのだ。
 高齢者や障害者の身体をやさしくサポートするという目的で進められている動作支援型の介護ロボット開発の場合にも、現状ではうまく行っていない。その理由も、ロボットの側に人間の反応を取り入れて人間の側の拒絶反応を除去するシステムを開発できないからである。簡単に言って、それは人間とロボット間の協調関係を構成できないからで、そのために人間がロボットを親しみをもって受容することができないままになっている。


5 エンハンスメント(生体改造)に対して

 さらに、難病患者や緊急を要する患者を中心に医療的な大テーマとして登場しつつある人工臓器や遺伝子治療やIps細胞利用等などによるエンハンスメント(生体改造)という問題がある。これからは、倫理的に問題がない場合はむろん、その問題が顕著に出た場合にも、それが当事者にとって受容できるかぎりは、次第に「外部」から待てをかけることが困難になっていくだろう。これまでは、当事者には倫理的判定を含め、それがほんとうに有効なのかどうか、医学的にも感覚的にも推量できることはなく、医師や外部の判定に委ねるしか判断の材料はなかった。
 しかし、個々の人工身体化の案件について当事者の側から「これは問題ない気がする。これには感覚的につよい違和感がある」等々の判断ができるようになると、様相は大きく変化することになる。化粧や整形美容やクスリや麻薬の使用もはじめ、刺青やピアスや身体損傷や自殺を含め、個人の身体をどう扱うかは個人の自由であるため、その判断が当事者の主体的判断として生まれてくるような状況では、基本的には誰も反対できない。
 難病患者や高齢者でなくても、必要な人工身体化を実施して少しでも五体満足を回復でき、あるいは生得以上の身体能力を獲得し、術後に何の副作用もなく、しかも長生きについてもある程度自由に調整できるというような事態になれば、それはまさに人間の長年の夢の実現であり、反対すべき理由は何もなく、多くの人びとが躊躇なく飛びつくことになる。
 以前は、そのような判断を当事者に与えるための機会は一切存在しなかった。しかし、今後は、ヒトと人工物との機械的関係の改善をめざす新しい再生科学や認知ロボティクスなどが台頭してくれば、両者の協調関係を検証するための条件が整ってくる。そうすれば、当事者による主体的判断が可能になり、よしと思う当事者の感覚が得られない場合だけ中止すればいいことになる。その感覚がなければそれが不快であり、伴うリスクに対して責任が持てないことは、当事者においてもっとも明瞭であるからだ。

 マイケル・クライトンは『ネクスト』(早川書房 2007)において、近未来の出来事ではなく、いま実際に世界の研究所や医療機関で手をつけられていることが予想される事例を中心に、アーティストによる人工の耳、光るウサギなどの遺伝子利用による「生物アート」や、ヒトの遺伝子を導入したオウムやチンパンジー、あるいは成熟調整剤などについての物語を展開し、読者にその是非を問うている。
 たとえば、自分の精子を導入して言葉を喋り自分のことを人間だと思っているチンパンジー・デイブを誕生させてしまった一人の研究者の場合、現実のデイブを見た途端に心変わりし、「この子も、ぼくの子・・・」といたく心情的に感じてしまっている。その後のこの研究者の心変わりの様子と、彼の家族による「デイブの父や母」としての行動の変化についての記述には、もし本当にそのような心の交流が彼らとデイブとの間に生まれるとすれば、外部のどんな者にも「否」といえない説得力をもつことになる。どんな倫理もこえて、人間にとっては一番やっかいでもある「愛情」を両者が通わせてしまったからである。
 したがって、『ネクスト』でも、エンハンスメントの問題は、表面的にはいわゆる政府や学会などの管理者側とついつい手を出してしまう開発者・受容者側との対立・葛藤という形式をとっていても、内部においては倫理基準の根幹となる価値観と人間観が問われており、規制を課す側が特定の宗教的価値観などに根拠を置く場合には、再検討の余地がある立場として崩されていく。宗教的価値観などは世界の地域で大きく異なり、普遍的妥当性をもたないからである。つまり、『ネクスト』の主張は、管理者側が現在の倫理基準だけで制御できる事態ではなくなっていくこと、受容者側の台頭の仕方で事態は大きく変化することを認めざるを得ないというストーリーになっている。
 この数年、京都大学・山中教授による開発の成功によって世界的に話題になっているヒト人工多能性幹細胞(ips細胞)についても、つい最近まで「クローンES細胞利用は生殖細胞の破壊であり、つまり胎児殺しを意味するため倫理的に問題があったが、ヒトips細胞は自分の細胞の利用であるためその点問題がなく、拒絶反応もないため、その利用もOK」という方向の議論になっていた。
 しかし、この議論も、開発者と提供者側に必要な倫理問題が中心であり、本来議論されるべき「全体」についではない。つまり、受容者側にとっての問題が含まれていない。受容者側には、ES細胞でもips細胞でも、どちらでも安全性と有効性が確保されるならば同じであり、問題はその先にある。難病患者のための血液や臓器再生などの例では問題が出ないとしても、たとえば『ネクスト』のデイブの場合には、ES細胞から生まれるデイブだけではなく、ips細胞から生まれるデイブも大問題だからである。ips細胞からであれデイブが誕生したら、それを受容する側の世間には何の準備もできていないため、大混乱になる。そして、倫理問題に限った場合でさえ、ips細胞が新しい精子と卵子をつくり出し新しい生殖細胞を誕生させる可能性があるため、当の山中教授も、「ips細胞も別の倫理問題をひき起こす可能性がある」と既に述べていた。
 このように、エンハンスメント問題は、倫理問題が解決したらそれでOKなのではない。問題の中心は倫理ではなく、倫理を含めた、当事者や世間などの受容者側の受容態度や受容能力の確立という点である。後者が遅れている以上、その対策が急いで求められる必要があるのである。
 したがって、このエンハンスメント問題においても、スペースチューブがもたらす「新しい知」は、受容者側の「身体と人工物との親和性」を体験するための拠点をつくり、否定・肯定の判断の根拠を感覚面から鍛えることができるという点で、受容者側の受容態度や受容能力を養うのに役立つことができる。


6 情報社会に対して

 情報社会における仮想化の問題も同様である。人間は現在ほど情報を仮想として実体化し日常の世界に浸透させたことはなかった。それがメールであれブログであれ、ネット上に自己の分身を形成して一日の大半の時間を過ごす者たちは、ネット世界をもう一つリアルとして日々成長させている。ウォークマンにはじまりipodなどの愛用者たちは、人工的な音で現実の音を遮断し、或いは調整し、現実体験を変容させている。今後はそこに映像も加わり、網膜ディスプレイやメガネスクリーンなどの普及により、映像による現実の変容が開始されることもまちがいなく、私たちの日常生活は聴覚環境と視覚環境を中心にもっと大きく変化する。
 このような状況でも、仮想化は、医療現場でのバーチャルリアリリティとしての有効活用などの他は仮想化のマイナス面から否定的に捉えられ、子供たちや大人たちの生存に必要なリアリティ感覚をおびやかす原因こそ仮想化であるとして、いぜんとして「現実か仮想か」という選択を迫られるままなのか。
 仮想化の衝動もまた、本来的に夢の実現を願う人間心理の発露であり、誰にも止めることはできない。仮想化自体がマイナスなのではなく、問題は人びとの側に個々の仮想化の事例が自分にとり本当に必要なものなのかどうか、それを判断する主体的な力が育ってないことにある。
 現状では、たしかに人びとは情報技術がつくり出す一方的な情報洪水に押し流され、あるいは仮想世界が現実からの逃避の場所として利用され、その弊害には無視できないものがある。しかし、そのような理由から仮想化の流れを止めることはできない。
 したがって、ここでも取り組むべき課題は、仮想化に対する否定ではなく、スペースチューブ体験などにより、それが自分の夢の実現に関係する仮想化なのかどうか、身体の拡張としてそれを自分の新しいリアルとして感じられるかどうか、その判断を支援するシステムを成長させることである。その成果により、選択は個人に委ねられ、「現実か仮想か」の選択から、「現実と仮想化の調合の仕方こそテーマ」という方向にシフトできる。
 しかし、この方向においてはじめて個人の責任が明瞭になり、個人の判断の重要性が高まることになる。スペースチューブ体験では、体験者は一度身体のバランスを崩された後、ふたたびバランスを回復するために、リアルとバーチャルの両者による情報群から本人に必要な情報のみを選択して利用する。そのために、「現実と仮想の調合の仕方」を養うシステムとして好都合なのである。  


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