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Visions of the Body, Appearance after Dance

『身体の夢〜ダンスの後に残るもの』

【7】

福原 哲郎




 「いま、物理学はたいへんな時代に入っている。かつてはSFの範疇と思われていたような考えが、理論的に、ひょっとすると実験的にも、ありうると見なされるようになってきた。余剰次元という新しい概念が発見されると、素粒子物理学者、天体物理学者、宇宙論研究者の世界の見方はがらりと変わり、もはや従来の考えには戻れなくなっている。」(リサ・ランドール/理論物理学者 『ワープする宇宙』2005)

■目次

[序]  動物たちの記憶を辿る旅
【1】【2】
第1章 『新しい知〜身体と環境は一体という思想』
【3】【4】【5】
第2章 『身体知の情報化〜新しい科学の言葉で語るという課題』
【6】
第3章 『宇宙視点から地球を見ると』
【8】 【9】
第4章 『進化の夢〜分身創造』
【10】【11】 【12】
第5章 『スペースミュージアム』
【13】【14】
第6章 『芸術の新しい役割』
【15】【16】
第7章 『経済を生み出す新しい文化〜身体・家具・家・都市・コミュニケーション』
【17】 【18】
第8章 『「大家族」という生き方』
【19】 【20】
[おわりに]
【21】


第2節 身体知とは何か?

1 建築も新しい主張をはじめた

 建築の場合も同様である。世界には、大別して欧米建築、日本建築、アジア建築、中東建築、アフリカ建築などがあり、周囲の環境との関係の仕方は、外見上の構えも、風・光・音などの自然の要素の流通のさせ方も、電気・水・ガスなどのライフラインの使用法も、大きく異なっている。
 全体的にはダンスの場合と同様で、アジアやアフリカの家の方が、見かけは簡素で貧弱に見える場合があっても、欧米の家よりも環境との対話性にすぐれている。それは単純に貧富の差の反映ではなく、世界のそれぞれの建築が相手にしている周囲の環境と文化的身体の差であり、身体と環境の関係の仕方の相違がそのまま反映されている。したがって、建築の場合も、この差を可視化できると、一体何が見えてくるだろうか。
 コルビジェやミス・ファン・デルローエが近代建築を確立し、身体と空間の関係を確定して以来、建築は身体に対して必要な配慮を行うことに成功してきた。しかし、ひとつの大きな時代が終り、ここにきて、建築もまた身体に対して新しい対応を迫られるようになってきた。それは、思いがけず、身体の側が新しい主張をはじめたからである。そのために、身体を入れる容器としての建築も、容器であることの反省も含めて、新しい対応をせざるを得なくなってきた。
 建築家・伊東豊雄も、古来より人びとは自然という流動する空間のなかに生活の場を設定してきたこと、建築の行為はこの流動する自然と相対的な関係を生み出す作業であったことを指摘し、次のように書いていた。

 「しかしいまや建築行為は流動性とは無縁に切り取られ、閉じられた部屋を結び合わせる作業と化してしまった。身体はこの静止した部屋なかに息づくこともなく閉じ込められている。」(『アンダーコナストラクション/仙台メディアテーク』NTT出版 2001)

 相手にすべき身体が明確で、その要求もそれほど強くないおとなしい身体で、近代建築が身体に対して一定の力を発揮できているうちは、伊東のこのような発言はそれほど注目されることはなかったはずだ。しかし、今では身体が黙っていないため、このような主張がじわじわと力を持ち始めている。  デザイン評論家の柏木博も、最近になって、「心地よい装置や空間のデザインとはどういうものか。たとえば、私は子供の頃、柳行李に座布団を入れてその中で本を読みとても楽しく心地よいと感じた。誰もが体験しながらそれをいえないのは、それを意識化してこなかったからではないか」と書いている。
 このように、柏木のような思いが今になり湧き出てくるとは、どういうことか? それでは、それまで建築やデザインがやってきたことは何だったのか、ということになる。いずれにしても、それらはこれまでの時代の要請に対応してきたものであるということで、今後の時代のものではなく、建築やデザインがいま大きな転機を迎えていることは確実なようだ。  平面がない曲面のみだけで構成されたまったく新しい空間を岡山・岐阜・東京につくって世間を驚かせ、「これから人間はここに住んだ方がいい」と言っていた美術家・荒川修作の仕事も、その先陣だったのだ。これから、建築は、伊東が提案する流動的空間を内包した形式で、居心地のいい空間の建築に乗り出していくことができるだろうか。
 スペースチューブもまた、ここで求められている「新しい空間」のひとつのタイプであることは間違いない。ダンスからの提案としてスタートしたスペースチューブもにも、バウンダリー・オブジェクト〜「境界」に存在するオブジェクト〜としての地位を確立する一方で、ここにきて今向うべき三つの方向が見えてきた。それは、身体に向う方向としての「新しい衣服」であり、モノに向う方向としての「新しい家具」であり、空間に向う方向としての「新しい家」である。
 いずれにしても、現在のスペースチューブがそのままでは求められる新しい衣服や家具や家ではないのは当然であるが、それに至る貴重な媒体の役割を果たすことは間違いないだろう。スペースチューブは伊東がいう意味での「流動的建築」そのものであるからだ。身体の動きがスペースチューブの空間の形状を決定し、身体と空間が一対一の関係で対応するために、体験者に理屈ぬきの「なつかしい感覚」を与える空間。体験者たちはスペースチューブを「居心地のいい空間」といい、その中で安らいでいるといいアイデアが湧いてくるという。たとえば、体験者が残した次の感想があり、ひとつの予感を端的に表現してくれている。

 生まれる直前って、こんな感じ?
 お母さんのおなかの中にいるみたい
 ずっと入っていたくなりました
 家にあったら楽しい
 ハンモックとはまた違う浮遊感
 裸で入ったら気持ちいいかも
 (泉とも花『サイエンスアゴラ』国際交流センター 2007)

 スペースチューブは、来るべき衣服・家具・家などの手前に位置して、私たちを呼んでいるのである。今後は、スペースチューブを、近代建築やデザインとは違う手法を採用することで、どんな新しい建築やデザインとして展開できるかが面白いポイントになる。
 たとえば、デザイナー・吉岡徳仁は「私が抱く未来の建築のビジョンとは、これまでの常識のように硬いもので強度をつくりだすのではなく、細かい繊維組織が絡み合うことで、軽く、そして驚くほどの強度を兼ね備えた構造を生み出すものです」といい、「繊維の建築」への挑戦をはじめている。近代建築の象徴である鉄・コンクリート・ガラスからの転換の開始を、まずはこのようなデザイナーが先頭を切って担うことになるのだろうか。
 さらに、吉岡の場合は繊維だが、たとえばエアロジェルという固体と気体の中間のような新素材を建築に使用するとどうなるだろう。空間概念が一変することは間違いない。スペースチューブもエアロジェルでつくってみれば、きっと面白いことになる。エアロジェルがいまだ開発段階の素材のため需要は少なく高価であることは承知している。しかし、それは宇宙エレベーターの素材として期待されているカーボンナノチューブが高価な場合と同様である。人間は、このような困難は技術的課題としていくらでも解決してきた。エアロジェルのような固体と気体の中間の素材を使用できるなら、いまスペースチューブが東レの強化繊維の使用で暗示的に表現している「新しい感覚」を、もっと実体的に表現できる可能性が出てくる。建築にもこのような「新しい感覚」を導入することで、一大革命が起きるはずである。
 現在も世界的に注目されている理論物理学者リサ・ランドールは、著書『ワープする宇宙』のなかで余剰宇宙論を展開し、五次元宇宙が私たちの四次元宇宙に紛れ込んでいるかもしれない可能性を、たくみな比喩を使って説明している。そして、五次元宇宙はSFが描いてきた世界と似ているかも知れないといっている。
 スペースチューブの素材と構造を改良していくと、リサ・ランドールにならい、私たちがスペースチューブの中で感情移入も含めて体験している感覚を現実化できる可能性が出てくるだろう。伸縮性・透過性・形状記憶性などの機能が改善されるだけでなく、スペースチューブで体験できる「懐かしさ」の感覚も、もっと記憶が泡立つように感覚的に表現できる。情報技術も導入することで、実際にスペースチューブの向こう側から体験者にとっての「懐かしい人」がやってくる感覚も表現できる。動物たちに対する追想も、彼らが住んでいた空間も含めて、もっと触覚的に体験できるようになるかも知れない。


2 身体知と科学技術の協同が求められている

 しかし、なぜ、このような身体知は科学技術から遅れるという運命を辿ってきたのか。それにもたしかに理由があった。佐倉統(東京大学大学院情報学環助教授)は、私たちの2006年のJAXAとの共同研究の中で次のように述べていた。

 「身体知が後追いになるという現象は、人工知能でも技術開発でも、歴史を見れば明らかであり、人間がいかに頭でっかちの存在かということの典型であり象徴でもある。はじめは一緒だったものが、普遍化できる部分からやって行こうということで、論理や数理がまとまってくると、身体知が遅れはじめる。そうすると、これはいかんということで、ダ・ヴィンチなどが出てきたりして、回復がはじまる。ロボット開発の現場でも、知能と身体が不可分であるという認識は常識になりつつある。科学技術は全知全能ではないわけだから、その点において他方の側が重要なことをいっていると感じられる場合には、多くの場合それは芸術家や感性的なことをやっている人たちが言い出すわけだが、そのときにはそれを聞く耳をもつ必要がある」。(『身体知が後追いになることの科学論的意味』 2006)

 たとえば、当時マイクロマシンを開発していた藤正厳(元・東京大学先端科技研センター教授)は、ある研究会で私と議論になり、「脳だけで生きられる可能性」について主張し、この脳には身体も足も不要のため私の心配も不要といっていた。
 しかし、この主張は、藤正が属する科学の世界では矛盾がないように見えても、身体知の観点からすれば完全に間違っている。身体と脳を区別して、「脳だけでも生きられる」という発想自体が根本的におかしい。仮に、物理的に脳だけの状態を形成できたとしても、地球上に存在する限りは、この脳も必ず地面と接するので、その接触面が「足」になるからである。「足」とは、いまある「足」だけがそうではない。重力と接し、重力との関係を調節して必要な姿勢を形成するための身体の部位を「足」と名づけている。だから仮に脳だけになった脳でも、必ず「足」をもつ。或いは、その接触面が「足」になる。これが身体知による理解である。
 したがって、逆に、たしかに重力が存在しない宇宙環境では、そのままほっておけば、人間の身体からはやがて「足」がなくなる。重力がなければ、重力との関係を調整するための「足」も不要になるからだ。つまり、無重力環境で生活する人間は、やがて四手人間に向うことになる。しかし、果たしてそれでいいのだろうか。四手人間とは何か? 二足歩行がもたらしてくれた人間の大きな脳を支えるための身体的構造を失い、新しいタイプの爬虫類の状態に戻ることではないのか? しかし、少なくともこれまでの科学の知では、このような問いに答えることがまったくできない。そんな状態では、これまでの科学技術に宇宙環境における私たちの生活デザインを任すことができないのは当然である。
 そして、怖いのは、以上のような議論の延長から、間違った脳の改造プランが容易に出てくることを想像できることである。実際、それが宇宙環境において、またこの地上においても、予想されるもっとも深刻な「脳問題」を発生させることになる。


3 新しく発生する「脳問題」

 まず、無重力環境では人間は「宇宙酔い」になる。無方向になるために、単純に脳が混乱するからである。さらに、同じ無重力の部屋に10人の人間が浮遊して存在している場合には、脳がアタマのある方向を「上」と認識することから、10人分の「上」がひとつの空間に同居してしまう。この状態は、一人の時に体験する「宇宙酔い」にも増してもっと本質的に気分が悪いはずである。特に訓練を受けていない一般人が長期宇宙滞在をするようになれば、一時的に無重力状態でプカプカ浮いているのが楽しいと感じる時期を過ぎてしまえば、それに気づいた途端に、精神的におかしくなる者が続出する可能性がある。脳は発狂するか、昏睡状態に陥るか、何らかの機能停止に陥るかもしれない。これは、身体劣化よりもさらに深刻なテーマである。
 現在の宇宙開発の段階でこの問題が「深刻」として認識されていないのは、いまだ訓練された宇宙飛行士たちしか宇宙環境に行っていないからであ。お互いのコミュニケーションに何の問題もないと考えているのも、お互いが了解し合った仲間同士だからにすぎない。
 しかし、現実の地上の人間の世界はそうではない。どれほど努力しても、相手が何を考えているかわからず、まったく通じ合わない世界が無数に存在する。そのために無数の対立があり、無数の戦争がある。地上は現在も民族や宗教の違いによる人間同士の大きな憎悪に包まれている。それでも地上の人間には、まだしもお互いが同じ地表に二足歩行で立っているという共通の地盤がある。相手が憎悪の対象だとしても、お互いが異星人であるという認識はない。
 それが、無重力環境ではこの地盤も奪われることになる。さらに混乱に拍車がかかるのではないか? 異星人としか思えない地球人も出現してしまうかもしれない。二手二足の人間と四手人間の抗争も、冗談ではなく想定できる。このようなまったく想定外の事態が起きるとすれば、仲間同士の宇宙飛行士たちによる現在の宇宙での実験結果が将来の宇宙政策作成のための有効な材料として使えるとは思えない。
 たとえば、欧米人のキリスト教徒のようにアタマの「上」の方向に「神」が存在するとすれば、人数に応じただけの「神」が存在することになり、これまで聞いたこともないような奇妙な宗教的対立がはじまるかもしれない。宇宙飛行士の何人かが証言している「神秘体験」も、無重力環境での「無方向性の体験」が後押ししている可能性が高い。360度の方向に「神の遍在」を感じるからだ。しかし、宇宙にはこのようなキリスト教世界を生きる欧米人だけが進出するのではない。
 したがって、以上のような理由から、「宇宙酔いを防止するために」などの理由で、脳の混乱を防ぐために、脳の改造論が出てくるこもきわめて自然である。無方向のために昏睡したり、アタマのある方向を「上」と感じる脳の機能を変えてしまえば、「脳問題」は解決する。
 しかし、このような改造は、倫理的に許されるのかという問題以前に、実際に可能になるだろうか。脳もまた、身体の一部として、重力環境のなかで進化を遂げてきた要の神経系であり、地上環境と分離できず、方向の察知はまさに脳の基本的機能のうちのひとつである。それが無重力環境ではうまく機能しないからといって改造してしまえば、先に述べた「土」のない中空に投げ出された「身体=木の根」の例と同じであり、すぐに枯れてしまうのではないか。
 このような問題をどう解決すべきか。そもそも、どうしてこのような「脳問題」が発生してしまうのか。答えは明瞭であり、すべては身体に対する認識が充分ではないからである。あるいは、科学の知と人文科学の知が相変わらず乖離したままであるからである。身体知が欠けていることの決定的な証拠がここにあるといえる。
 たとえば、チップ・ウォルターも『この6つのおかけでヒトは進化した』(早川書房 2007)のなかで、脳改造について次のような楽天的な物語を語っている。

 「無数のニューロンがひしめく脳のなかにナノマシーンを送り込めば、知性を高めることもできるだろう。想像力もしかりで、強化していない現状の脳では思いもつかない発想を得ることができる。やがて、人間は完全なデジタル生物になるだろう。脳は分解・再構築されて、現在よりもはるかに強力なデジタルバーションになる。人類は別の種に進化するといってもいいかも知れない。私たちはもはやホモ・サピエンスではなくなり、サイバー・サピエンスになる」。

 このような楽天性も、典型的に身体に対する認識の欠如、身体知の不足からきている。チップ・ウォルターのこのような表現はかなり軽薄であるが、この構造のままであればどれほど表現に凝ったとしても本質は変わらない。脳だけを見ていると、このような空想はいくらでもできる。しかし、現実の脳は環境との不可分な関係性のなかを生きていて、このような世界とは無縁である。身体と環境の関係に踏みこむことなく、脳だけを改造できるという事態がありえない。
 仮に人類がデジタル生物になるとすれば、その場合には現在の人工物世界をはるかに超え、環境もデジタル環境になっている必要がある。身体と環境は切断できず、つねに一体であるからだ。しかし、自然や宇宙という環境をどうやってデジタルにできるのか。
 もし、チップ・ウォルターが空想するように脳を扱うとすれば、まったく期待に反した出来栄えで、改良された脳は周囲の環境に置き去りにされすぐに萎縮をはじめることは間違いない。生物アートの世界で、耳の遺伝子を腕に移植し新しい耳を誕生させて喜んでも、腕には耳が必要ないため、数日で耳としては消滅する運命にあるのと同様である。
 脳改造の成功は、実現されるとしても、このような楽天性とはまったく違う別の物語になるはずである。


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