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Visions of the Body, Appearance after Dance

『身体の夢〜ダンスの後に残るもの』

【8】

福原 哲郎




 「いま、物理学はたいへんな時代に入っている。かつてはSFの範疇と思われていたような考えが、理論的に、ひょっとすると実験的にも、ありうると見なされるようになってきた。余剰次元という新しい概念が発見されると、素粒子物理学者、天体物理学者、宇宙論研究者の世界の見方はがらりと変わり、もはや従来の考えには戻れなくなっている。」(リサ・ランドール/理論物理学者 『ワープする宇宙』2005)

■目次

[序]  動物たちの記憶を辿る旅
【1】【2】
第1章 『新しい知〜身体と環境は一体という思想』
【3】【4】【5】
第2章 『身体知の情報化〜新しい科学の言葉で語るという課題』
【6】【7】
第3章 『宇宙視点から地球を見ると』
【9】
第4章 『進化の夢〜分身創造』
【10】【11】 【12】
第5章 『スペースミュージアム』
【13】【14】
第6章 『芸術の新しい役割』
【15】【16】
第7章 『経済を生み出す新しい文化〜身体・家具・家・都市・コミュニケーション』
【17】 【18】
第8章 『「大家族」という生き方』
【19】 【20】
[おわりに]
【21】


第3章 宇宙視点から地球を見ると

第1節 地球問題と宇宙開発はループ状の構造

 地上の問題は、どれを取っても複雑で、わかりにくくなっている。誰もが知るように、人類の未来はバラ色ではない。現在も絶えることがない国家間の紛争、民族紛争、テロ、病気、貧困、勝者の奢り、環境破壊などの地球問題は、原因が複雑に絡み合い、解決できる見通しは立っていない。
 2006年度のノーベル平和賞を受賞したムハマド・ユヌスのような人物が世界の貧困の撲滅運動を展開する一方で、貧富の格差はもっと拡大されていく。私たちは、依然として核のボタンひとつで地球が死の灰に覆われる危険性のある世界を生きている。一方で、リアルな世界を離れネット上に「もう一つの地球」を見出し、ネット人間として「新しい自由」を手に入れても、現実の国家の一員として縛られていることに変化はない。現実の自由な往来は許されず、誰もが相変わらず「国家という権力=パスポート」で厳重に管理されている。ネットの中で得る自由と国家における自由はまたくの別物である。地球がダメになった場合も想定している宇宙開発も、このままでは地球での過ちを宇宙にもちこむだけかも知れない。近未来映画の多くは、人類が滅亡した荒廃した地球の風景を描き続けている。2007年に出版されベストセラーになったアラン・ワイズマンの『人類が消えた日』は、人類が消えた後の地球の姿を克明に描いて説得力がある。人間の多くの努力は無駄になり、そのまま闇に消えていく運命なのかもしれないのだ。
 しかし、このような地球問題も、宇宙に浮かぶ青い地球を月から見るようして宇宙視点から見ると、理解しやすい。複雑骨折した問題も、いくつかの単純骨折の複合によっていることがわかってくる。宇宙開発も地上の知の反映であるため、宇宙開発に人間が持ち出している内容を検討することで、地上の人間の知の現状がわかる。「宇宙から見れば地球がよく見える」という、私たちの新しい時代の特徴である。

 宇宙飛行士たちによる初期の宇宙開拓時代を経て、世界各国による月や火星への人間の「居住計画」が具体的に進行するようになれば、まっさきに真価を問われるのが宇宙政策である。1966年に国連で採択された宇宙条約では、「宇宙空間の利用の自由、領有の禁止、平和利用、国家の責任」が定められ、国際協調により共同で宇宙開発を進めることが謳われている。
 しかし、この宇宙条約がその通りに実現される保証はまったく存在しない。正しい「精神」がいくら存在していても、ひとつでも政治的対立や経済的利権をめぐる利害が発生すれば、かならず逸脱者が登場し、その逸脱者が武力をもつことで戦争になり、強い武力をもった者が戦争に勝ち、勝った者がいつの間にか正義になるという、地球と同じ道をたどるのではないか。
 たしかに、宇宙での悲劇的事態の発生を防ぐために宇宙政策が立案されている。しかし、その防御策には、相変わらず人間の理性と善意に頼むだけで、何も新しいことが書かれていないとしたら? それでは地上と同じである。地上では結局そのために、現在のような深刻な地球問題が発生した。とすれば、月や火星も同じ状態になると予想しておいた方がいいのではないか。
 国連の軍縮会議は、現在も国際協調にしたがった宇宙政策のあり方を議論している。しかも、一方で、国別の宇宙政策も同時に進行しているのである。宇宙開発をリードするアメリカは、2006年に独自の国家宇宙政策を発表した。しかし、それは徹底的に自国の利害を優先する内容で、宇宙を制する国家が他国に対して優位を保つと宣言し、アメリカが引き続きその役割を担うこと、そのためアメリカの宇宙活動の自由を最優先に確保することが要件であり、その自由を制限する政策には反対することを明言している。このような自国中心主義が、国際協調の精神に反することは明白である。アメリカは地上だけではなく、宇宙でも自らの大国主義を貫こうとしている。このような横暴を他国が許すわけがない。

 そして、政治だけではなく、宇宙での居住生活のデザインも、身体に対する配慮が不足しているため、1重力環境における地球と同じ居住デザインが持ち出されているだけである。それでは身体がダメになる。しかし、身体がダメになれば元も子もない。したがって、まずその対策が必要になり、その対策に応じて居住生活デザインも柔軟な変更が求められる。
 たとえば、宇宙の無重力環境や減重力環境に長く生活する人間が「無足人間」の方向に向うとすれば、あるいは次第に脳が大きなダメージを受けるようになるとすれば、それを防ぐ場合には、どんな建築的な対応とテクノロジーが必要になるのか? 使用する道具のデザインは? 情報環境は? しかし、NASAもESA(ヨーロッパ宇宙機関)も日本のJAXAも、当面の施策に精一杯で、それに対する積極的な対策は打ち出していない。そんな余裕がないのが現状なのである。私が参加した2005年の福岡での国際宇宙会議においても、私のような「文科系」からの参加者はごく一部に過ぎず、全体は圧倒的に科学技術主導で進められていた。それは現在でも何も変わっていない。身体についてよく知らない者たちが身体に対するデザインを主導しているのである。
 こうして、宇宙開発のレベルは、政治的にも文化的にも、今後大幅に改革される必要がある。しかし、その改革を実現するためにこそ、地球文化に対する反省が不可欠になる。その反省が、宇宙開発にそのまま反映されるからである。地球問題と宇宙開発はループ状の構造なのである。地球文化に対する反省が充分でなければ宇宙開発も失敗し、宇宙開発が失敗すれば地球はいよいよ出口を失う、という構造だ。或いは、地球住民は滅び、宇宙住民だけが生き延びるというストーリーである。


第2節 環境問題は解決するのか?

 以上のような認識もあり、たしかに地球文化に対する反省も議論されるようになってきた。その一つが、環境問題に集中した議論である。それは地球救済のためであるが、同時に宇宙で同じ過ちを繰り返さないためのシュミレーションでもある。それらの議論のうち、どの部分が有効で、どの部分が役立たずの議論なのか。それについての正確な検証が必要である。
 たとえば、かつてのアメリカの副大統領アル・ゴアは『不都合の真実』で2007年度のノーベル平和賞を受賞した。しかし、それには賛否両論が多かった。それはアル・ゴアの主張には明白な矛盾が含まれていたからである。
 アル・ゴアはこれ以上地球環境を破壊しないために、温室効果ガス削減の必要性について力説していた。受賞はその科学的根拠の正しさが世界的に認知されたことの証明である。しかし、個人的には、アル・ゴアの家は実は豪邸で、ふつうの家よりも数倍の二酸化炭素を排出していたことがわかり、エネルギー節約を説く姿勢と矛盾していると非難された。
 また、一番の矛盾は、環境破壊の最大の原因は過剰な石油の消費にあり、その最大の消費国がアメリカだということだ。石油の最大の消費国であるとともに温室効果ガスの最大の排出国であるアメリカは、京都議定書を離脱しただけではなく、現在もポスト議定書をめぐり中国やインドと駆け引きを行い、経済と共存できる独自の環境対策を実行するとして、『不都合な真実』に述べられている方策にブレーキをかけている。アメリカには石油資源の確保が自国を延命させる生命線である以上、それは仕方ないという理屈である。
 しかし、アル・ゴアはアメリカの副大統領だった人間だ。『不都合な真実』の主張をどう実現しようとしたのか。最大の問題児アメリカに対する方策はどうだったのか。たしかにアル・ゴアは以前から政治家として率先して環境問題に取り組んでいた。しかし、『不都合な真実』には、当時の共和党が支配する議会やその後のブッシュ大統領の反対により、自分の政策が通らなかったと報告されている。しかし、それでは自分たちの民主党が議会の多数を占めていれば実現できたのか。現在、ブッシュ以後として民主党のオバマが次の大統領になっているにもかかわらず、アメリカは環境政策を優先できていないではないか。実際、オバマも自分が大統領になった場合には、環境対策のためにアル・ゴアを副大統領に起用したいと言っていた。しかし、アメリカは、石油資源確保のためにもイラク戦争を引き起こし、今もなお一国のエゴを世界に強いている国である。その理由が経済優先であれば、簡単に方向転換されるとは思えない。
 『不都合な真実』でも、問題はアメリカにありとは主張されていない。アル・ゴアは最大の問題は、政治ではなく、世界中の人びとの「生き方=倫理」にあると言っている。率直な批評で定評のある養老猛司は、この点にいて、「アル・ゴアの『不都合な真実』は、実は一番大事なことを隠している。炭酸ガスの温暖化問題はアメリカ文明そのものの問題。そこを言っていない。彼は環境問題は倫理問題だというが、石油に依存してきたアメリカ文明そのものが倫理問題にひっかかってくる」と指摘していた。
 つまり、アル・ゴアは、自国の体質について繊細ではなかったのである。もし、本気で環境問題が倫理問題であるというなら、はじめに食文化について考え、世界中でどの国が「肥満」で悩んでいるかをよく考える必要がある。肥満大国を牽引しているのはアメリカであり、そのアメリカと世界最大の石油消費国がそのままつながっている。アメリカ文化が「肥満」を象徴し、一方でアフリカでは子供たちが「飢え」に苦しんでいる。アメリカ文化ほど倫理に反した文化はないことになる。アル・ゴアが二酸化炭素の削減を訴えるならば、同時にその原因になっている「食べすぎる身体」についても反省すべきである。他面においてアメリカが世界で一番「個人の自由な活動」を保証する国であるとしても、この点は指摘される必要がある。

 環境問題は、倫理問題である以上に、政治問題なのである。そして、政治問題解決のための要点は、アメリカという大国による国家エゴイズムを克服することしかない。アル・ゴアの主張が胸をうつと共に空疎なのは、この点に対する指摘がないからだ。
 大国であればあるほど、その克服が課せられる。それが現在でも、問題児アメリカのエゴの主張がまかり通る土俵の上で、今後の環境対策が議論されている。他国がこの件ではアメリカを村八分にしたくても、政治経済的に相互依存関係にあるためにできない。このような状態だから、先進国と後進国が対立する局面でも、「現在の地球環境の窮状をいかに解決するかがテーマだ。過去は不問に付し、現在のテーマをどう解決するかを共に考えよう」という先進国の態度に、後進国が納得するはずがない。
 「過去を不問に付す」とは何か。先進国は、過去において、生き延び成長を確保するために、現在の基準からすれば間違っていたことを「やむなし」としてやってきた。その結果が現在の地球の窮状をつくった。現在は、後進国が「やむなし」としてそれをせざるを得ない状況に立たされている。自分たちだけ成長しておいて、後進の者に「成長するな」とはいえないだろう。
 このような矛盾を調停できる政策は、どこにあるのか。環境問題を解決する方法に決定打は形成されていない。文明の片方の担い手であるはずの人文社会科学も、経済と結びついた科学技術の独走を許したままだ。協同すべき二大勢力がいまも離反したままなのである。科学と文化の両者について、「この人はよくわかっている」と納得させる優れた政治家たちも絶望的に不足している。
 結局は、地球文化に対する反省の深さがポイントを握るのだ。地球文化に対する反省は充分なのか。それ自体が怪しいわけである。たとえば、世界の知の一翼を担っていた文化人類学者クロード・レヴィ=ストロースは、環境問題としての人口問題をとりあげ次のように述べている。

 「さまざまな悲劇のなかでも私が第一に留意するのは、私が生まれた時点で一五億だった世界の人口が、現在は六〇億に達しているという事実です。人がこの地球上に現れて以来、これ以上の大規模な災厄が他の生命体に、そして災いの責を負う人間に降りかかったことはありません。まず私たちは、人間の占有物ではない生き物としての性質を基礎として、その権利を確立するべきです。この条件が満たされてはじめて、人類に認められている権利が、その行為により他の種の存続を脅かそうとする瞬間に効力を失うのです。このような人権の再定義こそが私たちの未来、そして私たちの惑星のあり方を決定づける精神革命に必要な条件だと、私には思われます。」(『百年の愚行』 紀伊国屋書店 2002)

 しかし、果たしてそうだろうか? このような反省の精神は重要である。かし、なぜ、人口が六〇億に達していることをもって危機というのか。
 クロード・レヴィ=ストロースが生まれた時点で世界の人口が一五億だったときも、危機はすでに始まっていたのではないか。少なくとも後進国の人間にとっては、先進国の人間のやり方は自分たちを圧迫し、依存の権利を奪うものだったのではないのか。
 あるいは人類にとっては確かにそうでも、地球や他の生物には人間の数が一億を超えたところですでに決定的な災厄だったのかも知れない。地球や他の生物にとっては人類という種は、隕石や大氷河期到来などの理由で、途中で滅んでいてくれた方が幸福だったのかも知れない。
 その理由は、環境破壊する能力をもち、それを実践してきたのは人間だけであるからだ。動物は環境破壊するような能力をもっていない。生態系のなかを受動的に巡回しているだけである。人間だけが破壊の技術をもち、動物を過剰に食べ、生態系を混乱させて絶滅種の動物をつくり出し、環境資源を消費し、それで成長してきた。それが、自分たち人間にとっても危機と思える現在になってはじめて騒ぎはじめている。そして、これから人間が打ち出す対策が「動物のためにもなる」といっている。それで果たして動物は納得するだろうか。
 なぜ、このような騒ぎ方では遅いということを反省しないのだろうか。


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