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Visions of the Body, Appearance after Dance

『身体の夢〜ダンスの後に残るもの』

【11】

福原 哲郎




 「いま、物理学はたいへんな時代に入っている。かつてはSFの範疇と思われていたような考えが、理論的に、ひょっとすると実験的にも、ありうると見なされるようになってきた。余剰次元という新しい概念が発見されると、素粒子物理学者、天体物理学者、宇宙論研究者の世界の見方はがらりと変わり、もはや従来の考えには戻れなくなっている。」(リサ・ランドール/理論物理学者 『ワープする宇宙』2005)

■目次

[序]  動物たちの記憶を辿る旅
【1】【2】
第1章 『新しい知〜身体と環境は一体という思想』
【3】【4】【5】
第2章 『身体知の情報化〜新しい科学の言葉で語るという課題』
【6】【7】
第3章 『宇宙視点から地球を見ると』
【8】【9】
第4章 『進化の夢〜分身創造』
【10】【12】
第5章 『スペースミュージアム』
【13】【14】
第6章 『芸術の新しい役割』
【15】【16】
第7章 『経済を生み出す新しい文化〜身体・家具・家・都市・コミュニケーション』
【17】 【18】
第8章 『「大家族」という生き方』
【19】 【20】
[おわりに]
【21】


第2節 現実と仮想の区別は難しい?

 ゲーム空間やCG映画のなかを動く人間や動物のキャラクターは、多くがモーションキャプチャーという装置を使用して制作されている。たとえば、リアルな武道家の動きをモーションキャプチャーでコンピュータにデータ化し、それにドラえもんの絵をかぶせれば、「武道家になったドラえもん」を演出できる。しかし、よく見てみると、ドラえもんはそこに描かれた地面に自分の足をつけられず、少し浮いている。制作者が絵の精度をどれだけ上げても、この関係は変わらない。
 その理由は簡単で、そこに表現されているのはリアルな武道家の動きの情報だけで、それを生み出した武道家の環境情報が入力されていないからである。「武道家になったドラえもん」を本当にリアルにしたければ、武道家が属する環境情報も入力しなければならない。そうすれば、身体が地面を介して重力との間で姿勢の調整をやっている情報も入力され、身体と地面が接続される。つまり、ドラえもんの足ははじめて地面の上を歩ける。しかし、残念ながら、その方法は開発されていない。
 たとえば、ふつうのゲーム開発者たちに、「登場人物たちの足が地についていませんが?」と聞いても、彼らは理解しない。地面や建物の屋根を描きこんでいる彼らに、「仮想空間では重力もなく、雨もふらないので、地面も屋根も不要では?」と質問してみても、彼らには質問の意味がわからない。仮想空間を描いているのに、ここでは現実と仮想の区別はどうでもよく、ただ「リアルらしく見えればいい」という世界だからである。だから、「現実と仮想の区別は何ですか?」と問えば、返答に窮することになる。つまり、現在のゲーム空間などの仮想空間は、定義すれば、「ウソの仮想空間」なのである。しかし、仮想にも「本当の仮想」と「ウソの仮想」の二つがあるとすれば、いったい何のことかわからなくなるのが正直のところだろう。
 「現実と仮想の区別」には、よくわからない点が多く残されている。しかし、情報社会における仮想化現象を分析するためには決定的に重要なカギを握ることになる。
 たとえば、脳科学者・茂木健一郎は『脳と仮想』(新潮社 2004)のなかで、「私たちは因果的現実の中に囚われている。私たちは、生きているかぎり、一リットルの脳内現象の中に囚われている。しかし、私たちの心の中に浮かぶ仮想には、どうやら限界がない。仮想の世界の中で、私たちはそれをまともに見れば立ちくらみがするほどの無限と向き合っている。有限の現実世界と無限の仮想世界を生きることが人間の運命なのだとすれば、私たちは、そのダブルバインドな状況からくみ上げることができる喜びを感謝を込めて味わうべきなのだろう」と書いている。
 私たちが、ついついこのように現実と仮想を別けて、「有限の現実世界と、無限の仮想世界」と言ってしまいがちなのはなぜだろうか。それにはつねにもっともな理由があり、茂木がこの本のなかで述べている場合では、人間の想像力の価値を積極的に擁護したいという切実な問題がある。想像力が衰退すれば、人間文化も衰退するからである。
 しかし、「有限の現実世界と、無限の仮想世界」とは、考えてみれば正確ではない。人間は現実に対しても「無限」を感じるからである。古代より人間は星空を見上げて「無限」を感じてきた。宇宙の果ては、存在するとしても、「無限」の果てにあると感じている。宇宙物理学者が宇宙の果ての存在を確かめ、しかしそこに行くには「無限」の時間がかかると言われれば、私たちはなるほどと思う。身体が無数の細胞から構成されていることを知っても、簡単に「無限」を感じてしまう。他者との完全なコミュニケーションは「無限に不可能」と感じているし、心が通じ合わなくなった恋人同士にはお互いの間に「無限の距離」があると感じる。
 一方の「無限の仮想世界」しても、仮想世界こそかえって「因果的世界」であり、限界があり、きゅうくつで、有限なのかも知れない。つまり、「私」が「一リットルの脳内現象の中に囚われている存在」であることは事実としても、それと「現実世界は有限か無限か」という議論とは別の次元のものである。限られた世界のなかを生きる私たちであっても、現実がもつ多様な「無限」を感じている。
 こうして、「現実世界も無限」ということになれば、現実の有限性を根拠にした「仮想世界は無限」という表現には何も特別の効果はないということになる。「無限の現実世界と、無限の仮想世界」となれば、何を言いたいのかが不明になるからである。

 一方で、脳科学者・入来篤史(理化学研究所脳科学総合研究センター)は、「現実と仮想の区別」について、「現実はスイッチを切れないが、仮想はスイッチを切れる」と言っていた。これはこれとして、一つの明解な区別である。人間は仮想から覚め、現実に帰還することができるからである。
 この意味で、現実と仮想はまったく違うのであり、この区別は大変に重要なものになる。つまり、人間は、現実を忘れて仮想に入り込むことはできるが、現実のスイッチを切ったり、現実を無いものにしたりすることはできない。そのために、逆に、現実から覚めて仮想に帰還する、というような事態も生じない。
 そして、本書の論点においては、現実に帰還できる場所こそ「身体」なのであり、その帰還を確認する主体が脳内現象としての「意識=私」であるということになる。身体こそ、現実のリアリティを誕生させている場所であり、「私」が仮想を見抜くことができる唯一の拠点である。そして、情報社会を豊かに生きるためには、仮想の正体を正確に見抜くことが重要になる。それができてはじめて、いかに仮想を有効利用するのかという戦略も成立するからである。
 ごく近い将来、脳科学の進歩により、人間の脳をBMI(ブレイン・マシン・インターフェイス)などのデバイスでつないだ電脳空間がネットのなかに登場してくるだろう。そのときに、「現実と仮想を区別できる能力」が必須の課題になる。この能力が貧しいと、電脳空間の是非についての議論も、その成果も、すべてが貧しくなるからだ。


第3節 電脳空間の分身をつくる

 電脳空間とは、近い将来において人間たちの脳をBMIでつないだ脳内ネットワークとして想定されている。この電脳空間にも「身体」を存在させ、分身としての自己を誕生させることができるだろうか?
 梅田望夫は『ウェブ進化論』(ちくま新書 2006)のなかで、ネットに思い入れをして、自分は「分身としてネット空間に住んでいる」という形容をしていた。しかし、実際には梅田はパソコンの前に坐っているだけで、ネットのなかに住んでいるわけではない。ネットに人間が住めるような内部はいまだ存在しない。押井守のアニメーション『攻殻機動隊』でも、主人公・草薙素子は最後には「電脳空間に住み、そこに身を潜めている」という設定になっていた。 しかし、SFの主人公たちは別として、実際そこに住んだことのある者たちはまだ誰もいないだろう。「住む」は比喩として使われているだけである。
 しかし、電脳空間が発展すると、リアル世界とは様相がまったく違うとしても、「電脳空間を生きる身体」をもつことが可能になり、私たちは実際にそこに「住み」、そしてその世界を「往来する」ことができるようになるだろうか? 依然としてパソコンの前に坐っているリアルな私は同じでも、身体をもった私の「分身」がネットを移動して遠方にいる相手に会いに行ったり、また分身同士が出会えるようになったとしたら。そして、その成果がパソコンの前の私にも還元されるとすれば。そのときには、私はどのように拡張された存在になるのか。そして、コミュニケーションは飛躍的に進歩するだろうか。

 脳科学者・藤井直敬は『つながる脳』(『脳研究の最前線』講談社 2007)のなかで、BMIを使用した電脳空間の可能性について述べている。私は、藤井を案内役として、「ネット上の分身=電脳空間の身体化計画」というテーマを自分に課し、電脳空間にも「身体」をもたせることができるかどうかについて考えていく。
 それは、もし電脳空間に「心」に相当するものが存在するなら、「形」に相当するもの、つまり「身体」も誕生させることができるのではないかと考えるからである。藤井が次に述べることが実現されていくと、電脳空間の主人公たちは「何らかの身体」をもったことになるのか。そうだとすれば、それをもっと発展させることができるのではないか。

 「BMIを脳にインストールすることで、よりスムーズにコンピュータネットワークのような外部デバイスと連絡が取り合えるとしたら? 考えるだけで、検索エンジンが最適な答えを返してくれるとしたら。そして、会話を行うように、考えるだけでBMIを通じて他者とのコミュニケーションができるとしたら。脳デバイスを使うことで、ラットが快楽中枢の電気信号で自由に動かされたのと同じように、感情操作も可能になるかもしれません。地球の裏側にいる、会ったこともない、誰かの手の上げ下げを、自分が考えただけで制御できるようなものです。その場合、自分の気持ちというものはどれが本当になるのでしょう。制御された社会的に正しい感情が自分の感情なのか、それともまったく制御れていない自然な感情が自分の感情なのでしょうか。その場合、自然とは何でしょうか?」。

 もしBMIが進化していくなら、たとえば、BMIを使って次のような実験をしてみるとどうなるだろうか。

ネット上の分身

 はじめに、東京に住むXが、ひそかに、自分の脳とパリに住む恋人Aと友人Bの脳をBMIネットワークでつなぎ、電脳空間を構成しておく。Xにとり、このシステムが、それに必要な電気信号(意志)を送ることで、まるで研究者がラットの行動を自由に制御するように、自由にAとBを操ることができるほど進化しているものとする。

 【実験@】XはAの身体を自分の身体と感じるか?

 Xは、BMIによりパリに住むAに電気信号(意志)を送り、Aを操り、自分の身代わりとしてAの身体を使い、パリの自分の別荘を掃除させ、新しいベッドを用意させる。Aは必要な動機付けも含めて指示を与えられ、Aがこの行為を不思議に思うことはないとすれば、Xは、このとき、どんな身体感覚を味わい、どんな達成感を得るだろうか? Aの身体も自分の身体になっていると、Xには感じられるだろうか? Aは、そのとき、まるで金縛りにあったかのように、何かに自分の身体を支配されたと感じるだろうか? あるいは何も感じないだろうか? またAは、そのときは気づかなくても、後にこの事実を知ったとき、どんな風に感じるだろうか? 最初は拒否の気持ちが強くても、次第に慣れてくることもあるだろうか?

 【実験A】仮想体験は現実体験にもなるか?

 東京にいるXは、急に忙しくなり、パリにいるAに会いに行くことができなくなった。Xは、BMIを使用し、Aとセックスしなくても、自分の脳の性的に反応する箇所を電気信号で刺激することで、Aとセックスとした快感を味わうことにした。Aの脳も電気信号で情報操作して、AにもXとセックスした刺激を与え、その記憶を捏造することにした。Xは、Aも快感を感じていることを確認できたので、自分の感覚もウソではないし、虚しくもないと思えた。このとき、Aも、Xと同じような満足を味わえるだろうか?

 【実験B】ハッキングは複数の相手に対しても知られずに成功するか?

 Xは、東京の仕事が忙しくてパリになかなか行けず、やがてAと二人の共通の友人Bとの関係に疑いをもつようになり、現在のAのほんとうの心を知り、自分に対する愛情の種類を確かめたくなった。そのためXは、BMIによりAとBに電気信号を送り、AとBを操り、AとBにセックスさせ、Xは、Aが体験する快感もBが体験する快感も味わってみることにした。これでAとBのほんとうの気持ちも知ることができると考え、自分の今後のAとの付き合い方を決定したいと思ったのだ。しかし、このような操作が、AとBに対してできるだろうか?

 以上のような実験は、BMIが洗練されていくと、実際にうまく行ってしまう日がくるのだろうか? とすれば、脳科学を利用したまったく新しいドラマが登場することになり、人間の世界は大混乱に陥るだろう。当然、このような場合には、Xもまた、自分の知らないうちにAとBから同様のハッキングを行使されることも想定すべきであるが。
 以上の実験において、@の場合には、Xの体験は仮想であるとしても、Aの体験は現実であり、毎日の生活のなかで起きている体験と何ら遜色がないかも知れない。Xも、自分の現実ではないが、他者の現実を確実に動かしている。そのため、XがAの身体を自分の身体であるかのように感じたとしても、それほど不自然ではない。
 実験Aの場合には、XもAも実際にはセックスしていないので、どちらの体験も仮想である。しかし、この仮想体験は恋人同士として以前からセックス体験がある二人には現実体験との区別がつけにくく、現実体験に等しいものとして知覚されている。
 実験Bの場合には、Xのみ仮想で、AとBは実際に会ってセックスしているので現実である。誰もが「ある行為」をするときに、それが自分の意志であるのか何かに影響されてなのかは曖昧であるため、BMIの存在さえ二人に隠されていれば、二人はXに操作されたにもかかわらず、そのときも、その後も、何も気づかずに終ってしまうかもしれない。そのハッキングの間には、Aの身体も、Bの身体も、Xにより、Xの身体として変化していたのかもしれない。そして、Xの意識も、二人の意識の内部に住み込んでいたのかもしれない。
 以上の考察に間違いがないとすれば、これらの@〜Bの実験は発展させることができる。
 しかし、たとえば、以上の例題がセックスではなく、食事をするという体験の場合はどうなるだろうか? セックスと同様に、実際に食べなくても、脳にその刺激を与えることで、「食べた」という満腹感を与えることはできる。
 しかし、実際には食べていないので、リアルな胃はすぐに異議を唱え、「空腹」という情報を脳に送るはずである。それにより脳は、仮想と現実の二つの情報を同時に受け取ることで混乱するか、或いは「正常」な意識を取り戻し、仮想を排除し、実際に食べないと飢え死にすることになるという緊急指令を発し、その声を「私」が聞いて、「私」は実際に食べることになるだろう。そのことで、「食べる」という経験が仮想であり、誰かに仕込まれたものであることを見破ることになる。

 まず、一般的にいって、SFの作者とは違い、仮想空間をバーチャルリアリティ(VR)で表現している仮想空間の開発者たちの場合、仮想の効果を強調したいがために、仮想がもつマイナス面や未成熟面には触れたくないという傾向がある。このような、VRの精度を高めることに熱中する一般のVR開発者にひとつだけ困った点があるとすれば、次の点を認識していないことである。
 つまり、VRで「リンゴを食べる」という仮想を構成することはできる。計算能力が高いスーパーコンピュータを使えば、そしてCAVEなどのVRの空間化システムを併用すれば、その現実感はまさに「超・現実」の形容にふさわしいものになる。さらにその効果の上に、体験者の脳もBMIで操作して感覚的な実感を与えれば、現実体験とまったく遜色がないか、あるいは精度の上でそれを超える体験を得られる。
 しかし、実際に食べていないことに何ら変わりはない。したがって、もしこのまま何日も体験し続けたとすれば、空腹で死んでしまう。その場合には、VR体験で「その場しのぎ」をしなければもっと現実に早く手を打てたということで、非難される場合も出てくる。それを阻害したわけであるから、過失致死罪(?)や自殺幇助罪に当ると訴えられるかもしれない。
 一方で、たとえば病院で寝たきりの患者に、行きたくても行けない旅行の疑似体験をさせるなどの場合は、まったく問題ないのかもしれない。
 したがって、以上のふたつの事例の差について、その差が大きいことをVR開発者や提供者側は自覚する必要があるる。そして、いずれの場合も、それが仮想であることをユーザーに事前に告知しておく必要がある。    


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