『身体の夢〜ダンスの後に残るもの』「いま、物理学はたいへんな時代に入っている。かつてはSFの範疇と思われていたような考えが、理論的に、ひょっとすると実験的にも、ありうると見なされるようになってきた。余剰次元という新しい概念が発見されると、素粒子物理学者、天体物理学者、宇宙論研究者の世界の見方はがらりと変わり、もはや従来の考えには戻れなくなっている。」(リサ・ランドール/理論物理学者 『ワープする宇宙』2005) 私たちはスペースチューブを使い、『スペースダンス・イン・ザ・チューブ』という、子供たちや一般の人たちを対象としたプロジェクトを開始している。スペースチューブは、「全身的な身体感覚覚醒のための新しい体験ソフト」として注目を集めはじめ、国内・海外のミュージアム等で実施されて子供たちから大人・高齢者まで幅広い入場者を集めることができ、テレビや新聞にも紹介されて大きな話題になっている。国内では、昨年夏には山梨県立科学館で多くの来場者を集め、今年に入り再度同館で、またナゴヤドームでも開催され、現在は東京都現代美術館で長期開催中である。 スペースチューブは、弾力性にすぐれた布を使用した「やわらかい空間」である。ダンス公演のための装置として、また一般展示用として現在も進化を続けている。スペースチューブの中に入ると、誰もがやわらかく「姿勢」を崩され、アンバランスの状態からいかにバランスを回復するか、そのやり方が人により大きく異なるため、自分で試みても、そばで見ていても、大変に面白い。要は、ムリをせず、与えられた空間の中に身体を投げ出して同化する人が一番うまく、スペースチューブも左右と下方からの強い反力により身体に柔軟に対応してくる。スペースチューブは体験者の「新しい身体」として拡張され、スペースチューブの中では多様な動きや姿勢の形成が可能で、誰もが即興のダンサーに変身できる。 次の記事は、2004年に東京・お台場の日本科学未来館で実施した時の朝日新聞による紹介である。 「のぞきこむと、まるで白いトンネル。中に足を踏み入れる。霧中を進むように方向感覚は定かではなくなってくる。体を動かすと、スペースチューブの弾力でバランスを失い、包まれるようにも感じる。大人たちは、思い思いの姿勢を楽しみ、子供たちは、寝転んだり歓声を上げたり。」 スペースチューブの公式のお披露目は、2001年のニューヨーク国連本部での公演で、国連からは「国連が実施した歴代アートイベントのベスト5に入る」という評価があった。「日本人の身体や空間に対する感性は独特で素晴らしい」という批評だった。しかし、それはあくまでもアートとしての評価であり、一般社会の人びとに触れたところでスペースチューブが評価されたわけではない。その転機をつくったのは、2004年〜2006年に実施した宇宙航空研究開発機構(JAXA)との共同研究だった。 その共同研究では、近い将来の一般の人びとの「宇宙生活」を想定し、スペースチューブを使用して、「無重力環境での人間の姿勢変化、および生活様式のあり方の考察」というテーマで研究した。その結果、スペースチューブは「宇宙での人間の姿勢形成の方法に新しいヒントを与える空間」という評価とともに、地上で生活する人びとの身体に対する「次世代ケアテクノロジー」としても有効ではないかと評価された。 舞踏家である私がスペースチューブを面白いと思うのは、スペースチューブがダンスを進化させる可能性をもつとともに、子供たちや一般の人びとの身体ケアのためにも役立つことがわかったからである。アートの社会化を使命と考えてきた私にとっては、スペースチューブはその使命を実現してくれる絶好の対象になった。スペースチューブに対する人びとの反応には何か特別のものがあると、つよく感じたからである。 スペースチューブは単なるモノで、ある場合には一つの新手の遊具にすぎないが、この数年の私たちの取り組みでそれだけではない、何か時代の象徴性を帯びたデザインに変質してきたようだ。ボードリヤールがいう意味での「ブランド」や「記号」の新しいバージョンの登場なのである。 日本人は、腰を中心とする豊かな身体文化を長い時間をかけて培ってきた。日本人の身体の使い方は現在も欧米と比較した時にかなり独特で、職人芸を含む伝統文化としても、舞踏(BUTOH)などの前衛の身体芸術としても、欧米の批評家から高く評価されてきた。 しかし、現在の情報社会における急速なデジタル技術の進展の中で、それらは失われつつある。一時世間を騒がした子供たちによる殺傷事件なども、子供たちの世界でも現実の仮想化がすすみ、リアリティ感覚が欠如し、いのちの価値が軽くなっている背景がその原因の一端としてあるだろう。 大人たちの世界でも、イラク戦争などの最近のハイテク兵器による戦争のゲーム化に象徴されるように、殺人も夢の中での出来事のように画面上で実行されており、現実は軽くなる一方で、その仮想化が一段とすすんでいる。健康・福祉・医療の世界でも、いまほど自分の身体が不安になっている時代はなく、「身体ケアの新しい方法の確立」が社会全体の欲求として要請されている。 この時、スペースチューブは、日本的な空間感覚を生かした現代的な手法により、意識化に埋もれつつある古くて懐かしいそれらの身体感覚を、一度身体のバランスを奪うという方法で、覚醒させることができる。スペースチューブは、体験者〜子供から大人、高齢者、何らかの障害をもつ人たちまで〜の身体を刺激し、自分がいかにリアルな身体的存在であるかを教え、人間としてもっている本来の豊かな身体感覚を覚醒させ、自然なコミュニケーションを発生させる。このようなスペースチューブが、いま各方面より、現代のデジタル社会にふさわしい身体ケアのための新しい体験ソフトとして評価されてきたわけである。 したがって、スペースチューブは、私たちアーティストを飛躍させるだけではなく、社会に浸透させることで、これまでとは異なる方法で新しい身体文化を開拓する可能性をひらくことになる。その時にはアートも新しく甦り、アートの新しい社会化も起き、アーティストの意識改革もはじまる可能性がある。こんな可能性は、私にとっては突然にふって湧いたようなものだが、まさに新しい時代を開くのにふさしい特別の可能性である。 2006年に東京の多摩六都科学館において『スペースダンス・イン・ザ・チューブ』を実施した際、館長の高柳雄一氏(元・NHK解説委員)は、スペースチューブを「空間を自覚し、表現する冒険」と呼び、次のようにコメントされた。 「デジタル化された世界に取り巻かれて生活する現代の人間は、空間世界を体全体で認識して進化してきた生命活動の源泉にある感性を枯渇しつつある。スペースチューブを使った体全体による空間の自覚体験、それによる表現の試みは意識化に埋もれている感性を甦らせ、集団で共有できる新たな冒険となるに違いない。多くの皆さんの体験的参加を呼びかけたい。」 2007年1月、私たちは、東京・西東京市保谷小学校で『スペースダンス・イン・ザ・チューブ』を特別授業として実施し、子どもたちに対するスペースチューブの可能性を実証する上で、記念すべき経験をした。全校生徒にあたる440人の子供たちが、まだ寒い冬の体育館でスペースチューブで遊び、全身を使って自分たちを表現した。これほど子供たちの大きなエネルギーに満たされたスペースチューブ体験も、私にははじめてだった。 子供たちは、スペースチューブの中でいろんな姿勢をとって楽しみ、怒涛のように走り、すごい轟音をあげ、スペースチューブの内と外からつかみあい、笑いあい、ヒラヒラと妖精のように宙を舞って、どこかに行き、消えてしまった。と思った途端、私たちの周囲に帰還していて、可愛い顔をして笑いかけてくる。 子供たちはスペースチューブを「真っ白なタイムマシーンみたい!」といったり「ブラックホールみたい!」といったり、この日はホワイトとブラックの二つのホールが限りなく接近して存在していたようで、スペースチューブの中に大量に去り、スペースチューブの外に大量に出現するという印象だった。つながった大きなヒモのように、蒼いままの若い星々の誕生のように。スペースチューブの中でどんな体験があったのか、みなすごい笑顔で戻ってくる。「うちの子がいつもと違う動きをしていた。うちの子は天才かしら?」と口々に楽しそうに証言してくれたお母さんたち。 この体験だけでも、いまの子供たちには好奇心や元気が欠けているという指摘が間違っていることがわかる。おとなしいのは表面だけのこと。スペースチューブのように一皮剥く装置が登場すれば、子供たちは野生に満ちた動物のままで、このように破竹の勢いだ。つまり、大人のつくったものが装置として古くなり、子供たちの心を隠しているだけなのだ。ならば、その装置を交換してみたら? 冬の体育館には思いがけず凄まじい子供たちのエネルギーが満ちたので、はじめは実施に消極的だった管理側の校長先生も最後には「感動しました!」と子供たちと父兄の前で演説してくれた。明日から、世界中の古くなった装置を新しいものに取り替えよう! 単純にそう思えたことが何よりも貴重な体験だった。 スペースチューブは新しい装置の役割を果たせるようだ。改革や起業の精神をもつ者なら、ここで動くに違いない。スペースチューブの意味は? 持続的な実施方法は? 必要な組織は? どうして私たちがそれをしないでいられるだろうか。保谷小学校は別に特別の小学校ではなく、日本中のどこにでもある学校だ。日本や世界にはこういう学校がいったい何校あるだろう? 家庭にもスペースチューブを入れることができるとしたら、世界にはどれだけの家があるだろう? 私たちの社会が情報とエイジング(生体改造)の社会として加速度的に進展し、また宇宙時代が近づくにつれて、私たちの目の前にはいままで経験したことがない新しい問題が現れてくる。情報社会において生じる現実の仮想化問題も、高齢社会において生じる人工身体問題も、宇宙環境において生じる身体・脳問題も、いよいよ避けることができない大問題として登場してくるはずだ。 このような問題を扱うためには、既存の方法は役に立たないか、役に立つとしても大幅な改訂が必要になる。私は、これらの問題に対処するためには、新しい身体論・テクノロジー論・人間観・宇宙観の総合による「新しい知」が必要になると考える。そして、その「新しい知」の形成のために、身体の新しい経験を可能にするスペースチューブが役立つ、という仮説である。 これまでの知〜特に社会技術をリードする科学技術とデザイン〜においては、身体は環境から切断されても身体として扱えるとして考えられてきた側面がつよい。しかし、身体はつねに環境とともに存在し、環境から切断された身体は身体とはいえない。 その矛盾が、宇宙環境では、宇宙飛行士たちが経験する骨の減少や筋力低下などの身体劣化という深刻な問題として明らかになりつつある。情報社会と高齢社会の問題を検証する過程でも、仮想空間や人工身体に対する無理解と過度の警戒により、同様の矛盾が存在することが明らかになってきた。 したがって、私たちに必要な「新しい知」とは、身体を単独で扱う知ではなく、身体をそれを支援する環境とともに一体として考える知である。スペースチューブが注目されるとすれば、単に新しい遊具として面白いということだけでなく、この「新しい知」を形成するツールとして有効であるからだ。 私は、このような環境論的な知が、情報社会・高齢社会・宇宙時代における問題群を解決するための共通の基盤になり、それらの問題に対処していくことから、これまで想像もできなかった未来への展望が開かれると考える。身体と環境の関係は、これまで考えられてきたよりももっと動的で親密である。私は、その様相を「新しい知」として表現したい。 つまり、スペースチューブの中では、よく見れば、「新しい知」が誕生しようとしているのである。スペースチューブの中で、一度バランスを失い、ふたたびバランスを回復させる過程において、誰もが日常では経験することがない身体の新しい動かし方を求められ、その結果として、その独特な動かし方がもたらす知。 その身体の動かし方は、安定した地面の上でのものとは異なり、また人間的な動きだけでなく動物たちの動きの記憶に対する回想も含まれており、まさに全身的な身体感覚の覚醒といわれるのにふさわしく、加速度的に進展するテクノロジー社会という状況において「ある感覚」が特有に目覚めるような身体の新しい動かし方であり、それがもたらす「新しい知」である。 私たちは、現在、情報社会の中で特有な感覚を育てつつあり、「ある感覚」に対して特別に敏感になっているのではないか? それが私の推測である。それほど仮想化を促進する情報社会はそれまでの社会とは際立って異なった点があり、その「ある感覚」に触れると身体の敏感なセンサーがいっせいに目覚めて全身に鳥肌が立ってしまうというような。 おそらく、人びとは、この感覚をもって、技術先行によって進行する現在の情報社会に一定の修正をもとめる必要があるのである。つまり、スペースチューブとは、私が描くストーリーでは、現代社会において無意識に形成されつつある「ある感覚」を知覚するための装置であり、スペースチューブはその知覚のために必要な身体の新しい動かし方を提供し、新しい修正を加えるための実践的な場所になる。 何よりも、スペースチューブの中で遊ぶ人びとは、子供から大人まで、人間と環境との関係を再発見して面白がっているように見える。それは、既に知っていたはずのことなのに、「こうだったのか」ということをいまになって再発見した時の喜びに似ている。このような喜びは、近代建築や近代デザインがつくり出す空間とモノとの関係ではもはや味わえなくなっている。 建築の世界では、曲面や柔軟な空間を多用する建築家のフランク・ゲーリーや伊東豊雄の作品が世界的な反響を呼ぶようになった。それはなぜか? デザインの世界でも、新しさを開発する使命に縛られたデザインではなく、関係性の見直しによる世界のあり方の新しい発見をテーマに掲げる工業デザイナー・深澤直人たちの仕事が注目されている。これらの現象も、人間と環境との関係の再発見を求めるという潮流に関係しているに違いない。 同様に、スペースチューブが誕生させる知も、人間と環境との関係を新しくつくり出そうというのではなく、その関係がすでに存在することを再認識することから出発して、関係の仕方に新しい工夫〜デザイン〜を加えるというものである。たえば、誰も自然界に存在する重力をつくり出すことはできないが、この新しい知は、重力との関係の仕方を工夫することはできることを教えてくれる。この知は、いま生活の中で人びとが必要としているデザインや身体的欲求に直結し、それらに積極的なヒントを与える知である。私は、このような知について、2004年〜2006年のJAXAとの共同研究において次の四つの特徴をもつ知として提案した。 @ 環境 その知は、身体がつねに空間とモノからのサポートのもとに存在していることを教え、身体は環境との関係ぬきに単独には存在していないことを教える。 A 記憶 その知は、個人による身体の個性的な動かし方によって得られるもので、個人に蓄積された身体知を目覚めさせ、人間の動きにはかつて動物だった遠い昔の動きの記憶も含まれていることを教える。 B デザイン その知は、人間がモノを使用して環境と同化した分だけ「身体の拡張」を実現できることを教え、環境との同化の仕方を決定するものがデザインという行為であり、人間の気づきの数に応じた無数のデザインがあることを教える。 C テクノロジー その知は、テクノロジーによって人間が体験する重力をゼロから一の間で自由に調節できることを教え、人間がもつ夢と欲望が人間の未来を決定すること、テクノロジーの使用の仕方が人間進化の方向に大きな影響を与えることを教える。 TOP HOME |