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Visions of the Body, Appearance after Dance

『身体の夢〜ダンスの後に残るもの』

【14】

福原 哲郎




 「いま、物理学はたいへんな時代に入っている。かつてはSFの範疇と思われていたような考えが、理論的に、ひょっとすると実験的にも、ありうると見なされるようになってきた。余剰次元という新しい概念が発見されると、素粒子物理学者、天体物理学者、宇宙論研究者の世界の見方はがらりと変わり、もはや従来の考えには戻れなくなっている。」(リサ・ランドール/理論物理学者 『ワープする宇宙』2005)

■目次

[序]  動物たちの記憶を辿る旅
【1】【2】
第1章 『新しい知〜身体と環境は一体という思想』
【3】【4】【5】
第2章 『身体知の情報化〜新しい科学の言葉で語るという課題』
【6】【7】
第3章 『宇宙視点から地球を見ると』
【8】【9】
第4章 『進化の夢〜分身創造』
【10】【11】【12】
第5章 『スペースミュージアム』
【13】
第6章 『芸術の新しい役割』
【15】【16】
第7章 『経済を生み出す新しい文化〜身体・家具・家・都市・コミュニケーション』
【17】 【18】
第8章 『「大家族」という生き方』
【19】 【20】
[おわりに]
【21】


第2節 スペースチューブは世界のあらゆる場所で適用される

1 小中高校・大学で

 『スペースダンス・イン・ザ・チューブ』を新しいミュージアムを拠点に展開できれば、そこから出張する形で、地域の小中高校・大学での実施が容易になる。学校の授業にも、科学技術リテラシー教育やコミュニケーション促進を目的にして、新しいタイプの特別授業を追加できる。
 たとえば、いま学校教育の世界では「子供たちの理科離れ」が指摘され、心配されている。しかし、その原因はどのように解明されただろうか。たしかに現在の子供たちは、昔の子供たちのようには「理科」に興味を示さない。「公園」でも遊ばない。しかし、現在の子供たちのゲームやマンガに対する熱心な関心は何か。スペースチューブのような新しい装置に出会えば、ものすごい勢いで遊ぶ。そこには昔の子供たちと同じ情熱が含まれている。
 時代の動向に適った理科教育が存在するのではないか? たとえば、「理科離れ」の直接の要因として、子供たちがラジオや機械を分解したり修理したりすることがなくなったことが容易に考えられる。昔の少年たちは、父親とともにラジオの分解と組み立てにはじまり、いろんな模型工作に熱中していた。しかし、それは父親たちがまさに工業化社会の申し子であり、多くの親たちがそれに関連する職業についていたからだ。
 現在は工業化社会から情報社会に転換しつつある大過渡期であり、周囲にそういうものがない。家にあるテレビや多くの家電製品は分解できないものばかりで、しかも修理して大切に使う必要がない。新しく買うことを促進する消費社会をつくり出したのは大人たちであり、子供たちではない。したがって、工業化社会の基準に照らしそれに必要な学力が衰えているだけなら、大きな問題はない。問題は、情報社会を生き抜くために必要な学力や新しい想像力の育成である。
 いまの子供たちが熱中するのは、情報社会を象徴するゲームであり、マンガであり、ケイタイであり、ネットである。たしかに、ゲーム機やケイタイは分解したり修理して使う構造にはなっていない。しかし、分解や修理だけが必要な学力増進のための方法ではないだろう。

 社会的適応をうまくできずに困惑するようになったのは、何よりも大人たちである。社会のエリートだった男たちが、定年になり家に戻ってみれば、妻たちに「さようなら」を告げられるケースがふえている。大多数の男たちにはその理由がわからない。こんな家庭内悲劇が社会現象になり、男たちは自信と行き場を失い、いま一番問題なのは大人社会の再生である。
 子供たちはいま、このような大人たちの困惑の隙間をぬって、自分たちの思考や感性を磨くべきである。大人たちは、子供たちの状態を「理科離れ」といい、否定的に見ているのではなく、まず自分たちの新しい居場所を確立すべきである。その作業のなかで、子供たちのために、情報社会に必要な「新しい理科」を発見すべきである。
 科学技術リテラシー教育のひとつとして、けいたいネットの創造的な使い方や、「現実と仮想の区別の仕方」を教えるという重要な教育が待っている。そして、そうであればあるほど、そのような情報教育の新しい根幹として、「身体感覚を回復させる」という教育が必要になる。取り組むべき最大の課題は、「理科離れ」ではなく「身体離れ」なのである。
 一時、少年たちによる刃物を使った犯罪が多発した時期があり、世間を驚かせたことがあった。しかし、本人たちはクールなもので、一人の少年は「包丁で人を刺せば血が流れることを知りたかった」と言っていた。また子供たちによる凄惨な親殺しの事件も新聞のニュースを飾った。いずれも、自分も相手も「身体」をもつ存在であること、物理的空間に住んでいるという感覚が希薄になり、子供たちの怒りの感情が容易に物理的境界を突破してまう。これらは、「身体離れ」がもたらす典型的な症状である。
 たとえば、任天堂のWiiのような身体性を触発するインターフェイスが、一時期であったにせよ突然人気ツールとして登場するのか。それも、現代社会が「身体」を見失っていること、身体性への欲求が飽和状態にあることの何よりのサインである。

 スペースチューブのなかでは、これまで保谷小学校・女子美術大学・多摩六都科学館・川口市アートギャラリー・山梨県立科学館などでの実施例を挙げたように、子供たちや学生たちは本当に水を得た魚のように生き生きとしている。その点が彼らには何の問題もないのである。各人に差があるとはいえ、彼らは大歓声をあげて身体的経験を楽しみ、自分の動き方を楽しそうに工夫している。
 ジャンプがうまいスポーツ系の男の子たちや女の子たちがいる。彼らはまるで飛魚のように、スペースチューブの内部に働く反力を利用しものすごい勢いで跳躍を繰り返している。逆に、何もしないで考えこむアート系を思わせる子供たちもいる。何をしているのとひとりの女の子に聞いてみると、「めずらしい音がするので、じっとして聞いているの」と答えた。この子は、スペースチューブに入る前と入った後の、空気密度の差を音として感じているようだ。また一方で、外見からはスペースチューブが人間の身体を浮かせる力をもつとは思えないため、なぜ浮くのか、それが不思議だと言ってしきりにスペースチューブやそれを支えるロープに触り、懸命にスペースチューブの構造を調べている建築や技術系を思わせる子供たちもいる。
 女子美術大学の場合では、ひとつだけ子供たちと違っていたのは、スペースチューブを楽しむだけでなく、ケイタイのカメラを使って友人の体験の様子を撮影し、お互いに送信し合っていた。なぜと聞くと、ふだんは見たことがない友人の姿があって面白いという。彼女たちは写真にコメントをつけて友人に送り、感想をいい合い、授業に参加していない学生たちも巻き込んでネット上に新しい展示と議論の場をつくり出していた。さすがに彼らは大学生だけあり知的かつ貪欲で、情報もうまく使いこなして楽しんでいた。
 そして、これまで実施したどの会場でも、大勢の子供たちが他の子供たちと押し合い、つかみあったりしながら、大騒ぎで遊びまくっている。そこに見られる子供たちの遊びと運動の多様性は、大人たちのスペースチューブ体験よりはるかに豊富である。親子連れの場合では、親よりも子供の方が遊び方がうまいため、最後には子供が親に遊び方を教え、親がそれに感心するという微笑ましい光景も展開される。
 このように、スペースチューブは、身体を使った多様な遊びやコミュニケーションの開発に利用でき、そこからこれまでにない教育プログラムを取り出すこともできる。小中高校・大学用として、「理科教育」はもちろん、何よりも身体的体験を基礎にした新しい科学教育と情報教育という重要なプログラムもつくれる。
 人びとが身体の内部にしまい込み忘れたままになっている「環境情報〜身体知」という宝物を外部に解放することで、参加者の多様性に応じた予想外の新しい世界がはじまるのである。これからの世界に期待される新しい建築家・デザイナー・科学者・アーティストたちも、このような世界から誕生してくるかも知れない。


2 世界の家庭にスペースチューブを

 一般の家庭にスペースチューブが入れば、身体遊びが身近になり、親子で宇宙ダンスができる。親子の触れ合いが盛んになり、子供たちは身体の冒険に毎日でも挑戦できる。子供たちが遊ぶことで、親たちも遊びはじめる。子供の運動能力や才能の傾向についてつぶさに観察したり、親は自分の健康状態や体力の衰えも確認できる。忙しい親には、子供を定期的に外の遊びに連れ出すことは難しい。しかし、スペースチューブが家にあれば、その代りが見つかる。日曜日にはスペースチューブの取り合いで家中が大騒ぎになるかも知れない。
 子供たちの遊びは、いつの時代でも、どんな国でも、大人には想像もできない多様さをもっている。押入れのなかのかくれんぼからはじまり、親のいない間に部屋中にすべてのふとんを出して隠れ家をつくって遊んでみたり、床下に潜って 秘密基地をつくったり。子供たちがはじめることには親には想像がつかない。誰にも発見されないようにベッドの隙間に宝物を隠したり、トイレのなかで大量のトイレットペーパーを積み上げてピサの斜塔をつくったり、そのような遊びのなかで、子供たちは親には教わらない部分での自己開発を独力でやり、将来の天才の芽を育てている。
 日本の場合では、蚊帳があった。スペースチューブのイベント会場では、スペースチューブから蚊帳を連想したという親も多い。子供たちは、隠れることや、発見されることが大好きだ。バランスを崩す遊びも大好きだ。スペースチューブのなかでは、蚊帳と同じように、出たり入ったり、スペースチューブ一枚を隔てて友だちの身体を確認したり、内部と外部の境界を透かして見ていたり。子供たちがスペースチューブを蚊帳に見立て、そのなかで考えごとをしたり、本を読んだりすることもあるだろう。
 さらに、大人たちも、スペースチューブを風呂場の隣に設置して「癒しの空間」として使用すれば、お湯に浮いたついでに空中にも浮いてみて、格別な効果を味わえる。大人たちには過酷さをます現代社会レースを行き抜くために、新しい休息や、新しい思索が必要になっているだろう。家のなかにあるそのための手段や場所は、これまでと同じで足りるだろうか。考え事をする場所も、書斎や狭いトイレのなかだけなのか。

 そして、スペースチューブは、一度家のなかに落ち着くことになると、空間装置の範囲をこえて、家のあり方についてのヒントも与えることになるはずだ。五感が敏感になれば、伊東豊雄がいう「流動的建築」に対する感覚も甦り、自然にこの感覚をベースに家を見つめ直すことができる。
 建築家・竹山聖は、「身体の快楽ということを考えたときに、行き着くのはお風呂」といい、今後もっとも注目され、新しい開発が必要とされるのは風呂場ではないかと提案していた。家の大きな役割の一つは疲れて帰ってきた身体を癒すことなので、風呂場はたしかに重要な場所である。しかし、その風呂場は多くの家では外の風景も見えない奥の狭いスペースに押し込まれている。伊東や竹山ように考える建築家なら、近代建築が合理性の観点から排除してきた身体的欲求を発見するたびに、それを回復したいと願うだろう。
 スペースチューブの機能が「多様な姿勢形成の支援」にあることを考えるとき、スペースチューブを風呂場の隣に設置すると、そこから新しい発見が出てくるかも知れない。お風呂で水中遊泳を、スペースチューブで空中遊泳を体験した身体が、そのままイスに坐ると果たして何を思うだろうか。ベッドではどんな寝相で眠りたいだろう? 思索にふさわしい姿勢が、各人ごとに、そして気分ごとにあるとすれば、イスはもう少し可塑性を備えていた方がいいかも知れない。ベッドは、見たい夢が寝相にも影響されるなら、もう少し可動性を備えていた方がいいかも知れない。
 すると、この実験を続けていくと、イスとベッドが連続する場面も出てくるだろう。そのときには、スペースチューブをそれに合わせて変形させれば、「イスでもありベッドでもあるような中間の形態」をかたどることができる。そして、このような「中間の形態」が人びとに新しい快適さと活力を与えることが確認されれば、そこから「新しい家具」についてのヒントが得られることになる。
 あるいは、宗教人類学者・植島啓司は、現代の家が失くしたもののひとつとして死者を祀る場をあげ、現代の家が死者との連続性を保証する神棚や仏壇を簡素化して縮小してしまったことで、死に対する感性が衰え、現代人は安心して死ねなくなっていると指摘している。人間が死に対する安心をほとんど絶対的に要求する存在である以上、この指摘も重要である。
 そして、このような要請に対してもスペースチューブは、スペースチューブの「内部=この世」と「外部=あの世」という比喩をたくみに使用することで、照明の調整により両者の境界が溶けてなくなる感覚をつくり出せる。このようなスペースチューブの内部を移動すれば、スペースチューブがタイムトンネルに似た印象を与えるため、「その先=死」に進むことが「なつかしい感覚」に包まれて怖くないという感覚を演出できる。つまり、スペースチューブは新しい神棚や仏壇の役割を果たせるのである。この点について宗教学者・正木晃は、「スペースチューブをお寺のイベントにすると面白い」といっていた。

 こうして、スペースチューブを家のなかに置くことで、思いがけない発見が生まれ、この発見をヒントに新しい家具をデザインしたり新しい居住空間を設計したり、さらに展開して「新しい家」をつくるプロジェクトを企画することができるかも知れない。そのときには、スペースチューブによる「四つの部屋」が新しい感覚地図を提供でき、「新しい家」のためのヒントとして大活躍するはずである。
 バングラディッシュを中心に世界中でグラミン銀行による貧困の撲滅運動を展開してノーベル平和賞を受賞したムハマド・ユヌスは、次のようにいっている。

 「イスラム教徒でも、ヒンドゥー教徒でも、キリスト教徒でも、仏教徒でも、グラミンは誰に対しても等しくローンを貸し付けている。文化や地理、繁栄の状況が違っていても、貧しい人びとは根本的に、地球上のどこでも同じ問題を抱えている。貧困という文化は、言語や人種や習慣の違いなどを超越している。それゆえ、マイクロクレジットは世界のあらゆる場所で適用される。マイクロクレジットにより、社会のなかで凍結され、固定され、動かなくなったものが、解き放たれるのだ。私は、クレジットが人間の可能性を解放するための全世界的な道具になりうると確信している。私たちにはできる。独立国家をつくったように、あるいは民主主義や自由市場経済をつくったのと同じ方法で、私たちはこれまで、奴隷制度のない世界、ポリオのない世界、アパルトヘイトのない世界をつくりだしてきた。」(『ムハマド・ユヌス自伝』早川書房 1998)

 長年の実践に裏づけられ、人びとの日々の懸案のひとつが貧困であることをつんかでいるムハマド・ユヌスの確信は、つよい。
 スペースチューブもまた同様でありたい。「身体が世界70億人の毎日の関心事」であることは、貧しい者にも豊かな者にも共通している。同じひとつの身体の苦痛が両者に共通の「ゆがみ」を与え、その回復が共通の「笑顔」をつくる。このような身体が、本人が自覚できない範囲で世界中で「改造」され、「曖昧」になり、「感覚の混乱」が進行していくとすれば、その回復を実現する新しい装置が登場し、身体ケアの新しい方法が確立される必要がある。身体がゆらげば、あらゆる生活がゆらぐからである。
 私たちの『スペースダンス・イン・ザ・チューブ』も、「新しい身体生活のデザイン」を目標に掲げる以上、身体があるところにはどこにも出かけて行く。国境は存在しない。地域に合わせ、個別の事情に合わせ、私たちはスペースチューブを運び、世界中をめぐる必要がある。
 身体問題もまた、世界中の固定電話が急速にケイタイに取って替わっていくように、エイズの薬や鳥インフルエンザ用ワクチンが世界中に普及していくように、それらと同じスピードで、先進国・後進国の違いをこえ、共通のテーマとして波及していく。そのとき、スペースチューブが世界の家庭に入っていけば、古くなっていた道具を発見でき、その道具と交換し、生活の新しい必需品として活躍できる。
 そうすれば、ムハマド・ユヌスのように、私たちもまた、「スペースチューブは世界のあらゆる場所で適用される。スペースチューブにより、社会のなかで凍結され、固定され、動かなくなったものが、解放される。私たちは、スペースチューブが人間の可能性を解放するための全世界的な道具になりうると確信している」といえるようになる。  


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