タイトル・Web風土記ふじいでら
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どこにもある珍景・謎景
 街角でふと見た事物・景観に「えっ!何で?」と思ったことはありませんか。「何でこうなっている?」「何でこんな形?」「何でここ
にこんなものが?」「これはいったい何?」などなど、よく見ると、珍しいものや不思議なもの、時には驚くようなものなど、いろいろな
ものが見つかります。どこの地域でも一つや二つは必ずあるものです。ここでは、それらを「珍景・謎景」として取り上げてみました。
 何を珍しいと思うのか、何を謎だと思うのか、本来は人によって分かれるところですが、ここでは、私の全くの勝手な独断で選んでいる
ことをお断りしておきます。また、掲載の順序には特に意味はありません。
 メニューページやサイトマップで掲げる分野や順序に関係なく、興味・関心を持った珍景・謎景を選んで見てみてください。それぞれの
珍景・謎景についての解答や説明は、該当するページにリンクが貼られています。時には長文のページもありますが、悪しからずご容赦く
ださい。「へーえっ、そうだったのか!」と受けとめていただければ幸いです。なお、トピックは追加や入れ替えを行うことがあります。
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 タイトルバーの色分けは題材の分野区分を表しており、次の通りです。
地形・古墳 河川・ため池 鉄道・駅  道路・橋 施設・建造物 寺・神社
 この区分は本ページに取り上げた題材の区分であって、リンク先で紹介する内容の区分が異なる場合もあります。本ページは各トピック
の目次や表題部のようなもので、話題の入り口になるように題材を取り上げています。

 あちこちに見えるあの小山は何?
 藤井寺市内を移動していると、
街の中のあちこちに小さな山が目
に入ります。藤井寺市って山が多
い所? いえいえ、そうではあり
ません。藤井寺市は大阪平野の南
東の端といえる位置にあり、高低
差は小さく、ほとんど平地といっ
�@ 南より北方を見る �A 北西より南東を見る
�@ 南より北方を見る    2019(令和元)年5月 �A 北西より南東を見る    2017(平成29)年9月
てよい地形です。周辺の地形を見ても、生駒山地や金剛山地からは離れており、あち
こちに里山が点在するような土地ではありません。神社やお寺の森にしては大きすぎ
ますね。では、これらの山はナニ?
 実は、これは自然の山ではなく言ってみれば「人工の山」で、藤井寺市内にいくつ
もある大型の前方後円墳です。藤井寺市は隣接する羽曳野市と共に、古市
(ふるいち)古墳
群という古墳の集まっている場所にあります。この古市古墳群は、2019(令和元)年7
月に堺市の百舌鳥
(もず)古墳群と共にユネスコの世界文化遺産に登録されています。
�B 西より東方を見る
�B 西より東方を見る    2017(平成29)年9月
 古市古墳群では24件26基の古墳が世界文化遺産の構成資産として登録されました。この内、16基の古墳が藤井寺市内に存在していま
す。�@は「岡ミサンザイ古墳」、�A「仲津山古墳」�B「市野山古墳」です。           
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 なんで街の中に船が?
 なんと、街の中に大きな船
が! いったいこれは?
 手前には住宅地が、後方に
は大きなマンションなどが並
んでいます。どう見ても港が
あるような場所には見えませ
ん。そもそも藤井寺市は大阪
湾から
20km近くも東に離れた
奈良県に近い所です。
 そうです。もちろん、これ
は本物の船ではありません。
�@ 南より北方を見る �A 南東より前方部を見る
�@ 南より北方を見る    2019(令和元)年5月 �A 南東より前方部を見る   2019(令和元)年5月
 これは市立施設の建物で、正式名称は「藤井寺市立にぎわい・まなび交流館(旧・生涯学習センター)」と言いますが、ほとんどの市民
は別に付けられたある愛称で呼んでいます。この建物の形は、市内の古代遺跡から出土したある遺物をモチーフとして造られています
。
 藤井寺市内には古墳の他にも地下に眠っている古代の遺跡が多く存在しています
。発掘調査によって多くの貴重な遺物が出土しており、
それらの中から象徴的な遺物の形がモチーフとして選ばれました。               
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 なんで側道が急に曲がっている?
 写真�@は南東から北西方向を見ています。直
進してきた車が小さな急カーブを回って向こう
に消えていきます。ここは、大阪府松原市と奈
良県天理市を結び、名古屋市へとつながってい
く高速道路「西名阪自動車道」の下に沿って通
る側道の北行き車線です。写真�Aが反対の北西
側から見た様子です。
 このような側道は、普通は高速道路に沿って
並行するように造られるものですが、ここはど
うして急に曲がっているのでしようか? ヒン
トは写真の中に見えています。
�@ 北行き車線(南東より) �A �@の反対側から見た様子(北西より)
�@ 北行き車線(南東より) 2014(平成26)年4月
  側道は急に外側に出っ張って曲がっている。
�A �@の反対側から見た様子(北西より)
            2016(平成28)年2月
 側道がポコリと外側に曲がり出ている部分を見ると、その中に小さな山の形が見えます。藤井寺市内で“小さな山”と言えば‥‥。
そうです。この小山は「古墳」です。現存する墳丘を見ると円墳のように見えますが、発掘調査によって一辺約
22mの方墳であること
が確認されています。その名を「赤面山
(せきめんやま)古墳」と言い、古墳域の半分以上が高速道路の高架下に存在しています。
 赤面山古墳は、古墳ファンにはちよっと知られた古墳です。そこにはどんな背景があるのでしょうか。 
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 えっ! 神社の境内を電車が走る?
 静かな神社の境内に、突然、カンカンカンという踏切の警報音が鳴
り響き、赤いランプが点滅を始めます。しばらくすると、境内の大木
の陰から現れた電車が、数秒間で鳥居と拝殿の間を横切って行きまし
た。なんでこんな所を電車が通る?
 左の写真を見ると、鳥居や石燈籠と奥の拝殿との間を電車が通って
います。間違いなく、ここは神社の境内であることがわかります。
 ここは、境内を電車が通り抜けるという、全国的にも数少ない珍し
い神社で、鉄道ファンや神社ファンには知られた存在でもあります。
 神社の名は「澤田八幡神社」と言い、地元沢田地区の氏神です。江
戸時代の初め、当時の澤田村の氏神として創建されました。境内には
創建当時に植えたと思われるクスの大木がそびえています。
 そのような神社の境内を電車が通り抜ける、そんなことになったの
には、いったいどんな経過があったのでしょうか。
 ここを通る電車は、大阪阿部野橋
(あべのばし)駅を起点とする近畿日本
境内踏切を通過中の近鉄電車
境内踏切を通過中の近鉄電車(北西より)  2018(平成30)年10月
鉄道・南大阪線です。澤田八幡神社は、市内の藤井寺駅と土師ノ里(はじのさと)駅の間にあります。この場所を鉄道が通るようになったのは、
1922(大正11)年4月のことで、藤井寺駅もその時に開業しています。1年後には電化されました。当時の鉄道会社は「大阪鉄道」で、後
に合併で近畿日本鉄道となっています。2年後の1924(大正13)年6月には土師ノ里駅が開業しました。
 村の氏神様の境内を列車が横切る。その背景には、いったいどんなことがあったのでしょうか。   
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 なんでこんな所に消火栓が?
 写真�@は「消防隊専用」と表示
された消火栓ですが、設置されて
いる場所が少しばかり?です。
 この場所は、市立藤井寺駅南駐
輪・駐車場の東側コインパーキン
グの地盤を支える擁壁の上です。
市街地で普通よく見かける消火栓
のあり方とは何か違っています。
 写真�Aがコインパーキングの全
景ですが、消火栓の位置はこの写
�@ 駐車場の消火栓(西より)
�A 市営駐車場のコインパーキング(北東より)
�@ 駐車場の消火栓(西より)
        2016(平成28)年11月
�A 市営駐車場のコインパーキング(北東より)  合成パノラマ
                      2026(令和8)年4月
真の向こう側です。そちら側(西側)は段差地形なので、コンクリートの擁壁が駐車場地盤の基礎となっています。その上に消火栓が設置
されているのですが、写真�@の右の方にはもう一ヵ所同様の消火栓があります。全部で4口の採水口があるわけです。
 コインパーキングの周辺は昭和
30代から商店街が広がってきた地域で、駐車場の西側は公園です。消火栓の位置に至る道路は狭く、消
防自動車が入りやすい場所ではありません。どうしてこんな場所に消火栓が設置されたのでしょうか。実は、この消火栓が誕生するまで
の過程では、この地域のとんでもない変遷の歴史が展開していたのです。            
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 なんで川に並行して川が流れる?
 写真を見ると、大和川の左岸堤防に寄りそうように並行して、小さな川の
流れていることがわかります。川の横に川? 少し変な感じがしますが、お
よそ
300年余り前から続いている光景です。
 この小さな川は「落堀川
(おちぼりがわ)」と言います。自然にできた二つの川が
こんなにきれいに並行して流れているはずはありませんね。実は、落堀川も
この部分の大和川も人工の川です。約
300年余り前の江戸時代、1704年に約
8ヵ月間という超スピード工事で造られました。なぜ人工の川を造ることに
なったのか、その理由や経過については、別ページ「大和川の付け替え」で
紹介しています。そちらをご覧いただきたいと思います。
 ひと言で言えば、旧大和川で起きる洪水への対策として今の大和川が造ら
れたのですが、では、なぜその大和川に並行してわざわざ落堀川という別の
川を造ることになったのか、大きな疑問てすね。
大和川に沿って流れる落堀川(南東より)
大和川に沿って流れる落堀川(南東より)
      〔GoogleEarth3D画 2023(令和5)年5月10日〕より
 必要もない川を造ることは考えられませんから、そこには何らかの大切な理由があったはずです。この小さな川が造られた背景には、
江戸時代の人々が多くの力を注いできた工夫や苦心が秘められていました。           
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 この場所はいったい何? なんでこんな道?
 みなさんは写真を見て、この場所は何だと思いましたか? すぐには答えにくい形
状ですね。これは府道
186号大阪羽曳野線の藤ヶ丘2丁目側の沿道にある側道の様子
です。右側が府道本線で、写真のすぐ右側には上りの藤ヶ丘バス停があります。
 一般の府道に小さな分離帯歩道をはさんで側道がある構造、何だか変だとは思いま
せんか。しかも、この側道は府道の車線とは平行になっておらず、写真手前側から入
ると
50m先で府道に出ます。まるで府道の補助道路のような存在です。歩道のような
分離帯も、南側が細くとがったくさび形になっています。いったい何なのでしょう。
 この写真で、前方右側には藤井寺郵便局があります。藤井寺市民の多くがこの道路
を利用しており、この場所を一度や二度は見たことがあることでしょう。そして、多
くの人が「これはナニ?」と疑問に思ったことでしょう。最大の疑問は、そもそも何
のためにこんなものを造る必要があったのか、ということです。
府道186号の側道(北より)
府道186号の側道(北より)  2023(令和5)年8月
  藤ヶ丘2丁目側の沿道。藤ヶ丘上りバス停の向
 かい側。分離帯歩道は南へ行くにつれて細くなる。
 この府道が開通したのは戦前の昭和13(1938)年のことでした。その後この道路が今日に至る過程では、完全に市街化した今日の姿か
らは想像することもできない驚きの歴史がありました。                     
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 手水舎が立派なのはなぜ?
 写真�@は林地区にある由緒ある神社の手水舎
です。神社は、伴林氏神社
(ともばやしのうじのじんじゃ)と
いう延喜式内社です。古くから旧林村の産土神
(うぶすながみ)として村の人々に守られてきました。
 ところで、この手水舎は大きくてたいへん立
派だとは思いませんか? 写真�Aは近隣にある
よく知られた神社の手水舎です。左は藤井寺市
の代表的な神社とも言える道明寺天満宮で、右
は隣の羽曳野市で代表的な神社である誉田
(こんだ)
八幡宮です。かなり違いますね。
 明治初期に制定の近代社格制度
(戦後に廃止)
で、道明寺天満宮は「郷社」に、誉田八幡宮は
「府社」に定められましたが、林村の鎮守であ
�@ 辛伴林氏神社手水舎(東より) �A 左)道明寺天満宮・右)誉田八幡宮の手水舎
�A 左)道明寺天満宮の手水舎
�@ 伴林氏神社の手水舎(てみずしゃ)(東より)
     文化庁「文化遺産オンライン」より
  右)誉田八幡宮(羽曳野市)の手水舎
  (いずれも南西より)
 2026(令和8)年8月
った伴林氏神社は「村社」でした。つまり、この制度では道明寺天満宮と誉田八幡宮が格上だったのです。なのに、伴林氏神社の手水舎
の何と立派なことか。違いの大きさに驚きます。いったい、なぜでしょうか。
 実は、伴林氏神社の社殿や手水舎・石鳥居などの建造物は、1940(昭和15)年頃に新たに造営されたものです。それまでの伴林氏神社は
村のこぢんまりした氏神で手水舎もありませんでした。ある時に突然、神社を丸ごと大改造する事業が行われたのです。何があったので
しょうか。そこには、時代の大きな波に翻弄された伴林氏神社の激動の歴史がありました。     「詳しくはこちらへ」
 なんで公園広場が盛り上がっている?
 写真は、府営藤井寺道明寺住宅の中央部にある公園で
す。公営住宅地内の公園としては、全体の面積の割には
広い公園だと言えるでしょう。実際、藤井寺市の都市公
園では最も広い面積を持つ公園です。
 よく見てください。この公園中心部にある緑でおおわ
れた円形の広場が、少し盛り上がっているのがわかりま
すか? ゆるやかな階段もありますね。公園内の広場に
しては、ちょっと変わっていると思いませんか。
 この公園の都市公園としての名称は「道明寺盾塚古墳
公園」と言います。「道明寺
(どうみょうじ)」は、この場合は
道明寺盾塚古墳公園(北入口より)
道明寺盾塚古墳公園(北入口より)    2009(平成21)年7月   合成パノラマ
寺の名前としてではなく、地区名として付けられています。「盾塚古墳公園」という名称から想像されるのは、この場所は「盾塚古墳」
という古墳で、それが公園になっている、ということです。ところが、盾塚古墳は今は存在しません。
70年ほど前に跡形も無く姿を消
してしまっていたのです
。その場所には戸建ての府営住宅が並んでいました。写真のような公園が開設されたのは2002(平成14)年のこと
です。いったい、どのような変遷の歩みがあったのでしょうか。                
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 この川の水はどこから流れてくる?
 写真�@は国道170号(大阪外環状
線)
の下にある暗渠(あんきょ)の開口部か
ら手前側に流れ出ている川の様子で
す。この川は大阪府が管理する一級
河川「大水川
(おおずいがわ)」です。
 写真に写っている場所は、藤井寺
市に隣接する羽曳野市域です。この
開口部から東に約
260m流れると、
流れは北へ向きを変えて藤井寺市内
に入り、市の中央部を北へ向かって
流れていきます。
 この写真を見ると、この流れは国
道の向こう側から来ているように見
�@ 誉田1号暗渠出口(東より) �A 応神陵前交差点周辺の様子
�@ 誉田1号暗渠出口(東より) 2019(令和元)年6月
     暗渠の上が国道170号の応神陵前交差点
�A 応神陵前交差点周辺の様子 文字入れ等一部加工
    〔GoogleEarth 2025(令和7)年4月9日〕より
えますが、少しおかしいのです。国道の反対側に行って見ても、この暗渠に続く川は見当たらないのです。暗渠の上は国道の応神陵前交
差点で三叉路になっています。交差点付近を真上から見た様子が写真�Aですが、暗渠出口の反対側にはチェーン店のレストランがあるだ
けで、川らしきものは見えません。写真�@に見える流れ出る水は、いったいどこから来ているのでしょうか。
 この大水川は古代からこの地域を流れている川
(旧名・大乗川(だいじょうがわ))ですが、現代に至ってから、国道建設や河川改修事業によって
大きく変化した部分があります。藤井寺市域にとっては重要な存在の大水川ですが、現在の姿からは見えない様々な変遷の歴史を持つ川
でもあります。いったい、その変遷はどんなものだったのでしょうか。              
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 堤防のような段差地形は何?
 写真の場所は藤井寺市の最も東に位置する梅が園町の南端となる部分です。
向こう側に見えているのは市立道明寺東小学校の校舎ですが、校舎の下の部分
が見えていませんね。階段を昇った上の道路の向こう側もこちら側と同じよう
に低いのです
。下の道路と上の道路の高低差は約3.6mあります。自然にでき
た地形とは見えません。この地形はいったい何なのでしょうか。
 タイトルで“堤防のような”とありますが、実はこの地形はズバリ「堤防」
なのです。とこ
ろが、この堤防のこちらにも向こう側にも川は流れていません。
では、なぜこんな所に堤防が造られたのでしょうか。そもそも、川が無いのに
堤防と言えるのでしょうか。
 この堤防が造られたのは、江戸時代中頃近くの
300年余り前のことです。そ
梅が園町南端の段差地形(北西より)
梅が園町南端の段差地形(北西より) 2026(令和8)年8月
      向かいに見えるのは市立道明寺東小学校の校舎
れ以後、堤防上の道路はルートを変えた東高野街道の一部として利用されてきました。現代になってからは、造られた当時の堤防の役割
は終わりましたが、堤防としての地形の多くの部分が残っています。写真はその代表的な部分です。
 川も流れていないのに造られた堤防、ふしぎですね。そこには、江戸時代の人々が働かせた大いなる知恵が秘められていました。それ
はいったい、どんなものだったのでしようか。そこには驚きの歴史がありました。         
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 住宅地の中にミニラウンドアバウト?
 静かな住宅街です。街路の中を行くと、とつぜん環状道路が現れま
す。「なんでこんな所にラウンドアバウトが?」と一瞬途惑います。
 人通りも車の通行も少なく、幹線道路から入った住宅街の中の通り
です。この街区は藤井寺市藤ヶ丘2丁目で、第1種住居専用地域に指
定されている住宅街です。どう見てもラウンドアバウト
(環状交差点)
が必要な場所のようには思えません。
 私は何度もここに写真を撮りに来たことがありますが、一度も他の
車と行き交ったことがありません。そのような、たまにしか車が通る
ことのない場所に、どうしてこのような環状道路が造られたのでしょ
うか。そのカギは、中央に見える植え込みにあります。
住宅地の中のミニラウンドアバウト(西より)
住宅地の中のミニラウンドアバウト(西より)
             2013(平成25)年7月
    合成パノラマ
 低い山のような所に雑然と樹木が繁っています。ラウンドアバウトの中央島に当たる部分ですが、実は、そのでき方が少しばかり特別
でした。住宅地の街路設計の中にラウンドアバウトが組み込まれ、それによってこの中央島の植え込みができた、というのが普通の順序
でしょうが、ここの場合はその順序が逆だったのです。どういうことでしょうか。         
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 なんで鳥居に違う神社の名前が?
 近鉄藤井寺駅から200mほど南に行くと、辛國
(からくに)神社という延喜式内社に列せられた由緒ある
古社があります。東西に長い境内で、東側に正面
入口があります。そこには立派な木製鳥居が立っ
ていますが、そこをくぐって進むと、参道のちょ
うど真ん中辺りに二ノ鳥居に当たる石鳥居があり
ます。近年には両脇に石の玉垣も設置されました。
 鳥居をくぐって柱の後ろ側を見ると、「ん?」
と疑問に思う文字列が目に入ります。それは、北
側の柱に彫られている「長野神社」という神社名
です。「えっ! ここは辛國神社では?」と、た
いていの人は疑問を覚えます。
�@ 辛國神社の二ノ鳥居(東より)   �A 鳥居の後ろ側に刻まれた文字
�@ 辛國神社の二ノ鳥居(東より)
          2018(平成30)年2月
�A 鳥居の後ろ側に刻まれた文字
  (西より)
     2013(平成25)年9月
 南側の柱には「明治廿七年九月再建」と彫られています。辛國神社の中で見る「長野神社」の名前。いったい、どういうことでしょ
うか。大きな神社では、境内に別の神社がいくつもある場合があります。摂社とか末社と言われるものですが、辛國神社の境内には末
社として春日稲荷神社 と春日天満宮はあっても、「長野神社」は見当たりません。「長野神社」とは何なのでしょうか。
 そこには、時の政府の国策によって運命を変えられた、ある村の鎮守の歴史がありました。    
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 なんで学校の前に野球小僧?
 近鉄藤井寺駅から西へ200mほど行くと、線路から道路をはさんだすぐ南側
に、立派な校舎の並ぶ学校が見えます。電車からもよく見えます。
 ここには、学校法人・四天王寺学園が運営する四天王寺小学校・四天王寺東
中学校・四天王寺東高等学校という三つの学校があります。最初にできたのは
2009(平成21)年4月に開校した四天王寺学園小学校
(四天王寺小学校に改称)で
した。5年後には四天王寺学園中学校
(四天王寺東中学校に改称)が開校し、さ
らにその3年後には四天王寺学園高等学校
(四天王寺東高等学校に改称)も開校
しました。この場所で共学の小・中・高の学校がそろったのでした。
 この四天王寺学園の校地から百数十メートルほど南西側には、学校法人・谷
岡学園の大阪緑涼高等学校の広い敷地が展開しています。この一帯がちょっと
した学園地帯となっている感じです。
 その四天王寺学園の校舎の前には、道路に面して写真のようなモニュメント
が設置されています。ボールに腰掛けた野球小僧、といった感じです。台座の
説明板を読むと、四天王寺学園とはまったく関係ありません。では、なぜこん
な場所に置かれたのでしょうか。そもそも、四天王寺学園が設置したものでは
ありません。まったく別のものを記念して造られたモニュメントなのです。
 それは、かつてこの場所に存在した藤井寺市のランドマークとも言えるもの
です。藤井寺市のランドマークと言えば‥‥。  「詳しくはこちらへ」
四天王寺学園校舎の前に立つモニュメント(北西より)
四天王寺学園校舎の前に立つモニュメント
 (北西より)
         2016(平成28)年10月
       後方に見えるのは四天王寺学園の校舎
 なんで古墳に変なくぼみがある?
�@ 大鳥塚古墳の全景(南西より) �A 墳丘後円部の北側に見えるくぼみ(西より)
�@ 大鳥塚古墳の全景(南西より)     2014(平成26)年4月
  落葉樹が多く、冬場は墳丘の様子がよくわかる。
 合成パノラマ
�A 墳丘の後円部に見えるくぼみの一つ(西より)
                2023(令和5)年2月
 写真の古墳は市内古室2丁目地区にある「大鳥塚古墳」です。国史跡に指定されており、ユネスコ世界文化遺産「百舌鳥・古市古墳群」
の構成資産No.
32に登録されています。墳丘長110mの中規模前方後円墳で、4世紀末の築造と推定されています。現在は市有地化され
ており、保存・保護の手が加えられています。
 写真�@は南西側からの撮影で、手前側が前方部です。奥側の後円部は直径
72.6m、高さ33.3mの大きさですが、写真の向こう側に
回って北側を見ると、ちょっと不思議な様子が見えてきます。写真�Aがその一つですが、大きなくぼみがあるのです。それも
、3ヵ所も
あるのです。本来は円形のはずの墳丘に
3ヵ所のくぼみ地形、いったいなぜでしょうか。このような形の後円部を持つ前方後円墳は、古
市古墳群はもちろん、全国的にも例がありません。つまり、これは築造の時からの形ではなく
、後世に何者かによって改変が加えられた
ものと考えられます。すぐ思いつくのは盗掘ですが、盗掘の穴跡にしては大きすぎます。また、3ヵ所も同時に盗掘穴を掘るというのも
変で、もっと違う理由のようです。実は、このくぼみは盗掘が横行した時代よりもずっと後の時代に造られたことがわかっています。
 陵墓ほど目立つことはない大鳥塚古墳ですが、このくぼみ地形には驚きの歴史が秘められていました。  「詳しくはこちらへ」
 駅の構造がこんなに複雑なのはなぜ?
�@ 土師ノ里駅(南西より) �A 土師ノ里駅周辺の疑似鳥瞰写真(南西より)
�@ 土師ノ里駅(南西より)     2018(平成30)年3月
  全面改築された駅舎と新設の駅前広場。手前の道路は国道
 旧170号。駅舎後方の森は市野山古墳(允恭天皇陵)の後円部。
 写真�@の場所を上空から俯瞰した様子が右の写真�A。
駅前ではよくわからない鉄道と駅、道路の位置関係の
全体がよく見えている。
�A 土師ノ里駅周辺の疑似鳥瞰写真(南西より)
       駅前の交差点が最も高くなっている様子がわかる。
 〔GoogleEarth3D画 2023(令和5)年5月10日)
〕より  文字入れ等一部加工
 写真は近畿日本鉄道・南大阪線の「土師ノ里(はじのさと)駅」です。こぢんまりした駅舎ですが、これでも以前よりはずいぶん大きな駅舎に
改築されたものなのです。駅広場も新設されています。改築前の旧駅舎はずっと小さくて高さの低いものでした
。目立たない駅だったた
め
、「地下鉄の入口みたいな駅」と揶揄されることもありました。それと言うのも、この駅の構造は少しばかり複雑な構えになっている
のです。駅前に行っても
、どこを電車が通っているのかよくわかりません。写真�@の駅舎の周りには線路が見当たりません。地下鉄みた
いと言われる所以です。この背景には、鉄道や周辺道路が時を隔てて誕生した歴史がありました。
 写真�Aを見て
、どこを電車が通るかわかるでしょうか。土師ノ里駅舎のすぐ前には国道旧170号が通っています。駅舎のすぐ北側には
府道
12号堺大和高田線が通っており、国道と土師の里交差点で交わります。土師ノ里駅舎はこの交差点に接して存在します。
 近鉄線の線路は府道12号の南側に接して平行に通っているのですが、駅のホームは国道の跨線橋の真下にあります。
つまり、道路や駅
舎などよりもずっと低い位置に線路があるのです。そのため、駅前の場所からは電車が見えにくいのです。と
、文章で説明してもわかり
にくいですね。いったい、どうしてこのような複雑な駅の構造になったのでしょうか。       「詳しくはこちらへ」
 なんでこの道路は広くて愛称がある?
 写真�@は「いちょう通り」という愛称が付け
られている道路です。認定されている正式な路
線名は
「府道西藤井寺線」で、府道番号は190号
です。「いちょう通り」と呼ばれる道路は、藤
井寺駅前の藤井寺駅西交差点から南西へ
320m
ほどの区間です。藤井寺市内の国道や府道で愛
称が付いているのはこの通りだけです。なぜ愛
称が付けられたのでしょうか。
 この道路が開通したのは
100年近く前のこと
でした。当時はまだ「藤井寺村」で、この地域
は農地が広がる田園地帯でした。その5年ほど
前に藤井寺駅ができたばかりの頃です。その直
後に村は「藤井寺町」になりました。
�@ いちょう通り(府道190号西藤井寺線)(北東より) �A 府道186号大阪羽曳野線(南より)
�@ いちょう通り(府道190号西藤井寺線)(北東より)
   歩道を含む幅員は14m余りある。 2016(平成28)年11月
�A 府道186号大阪羽曳野線
 
(南より) 2026(令和8)年9月
 ある時に突然、村の駅前にこのような広い道路が誕生したわけで、村の人々にとっては驚きだったことでしょう。写真�@に見える道路
全体の幅員は約
14.5mあります。当時のこの地域にあっては、格段に広い道路だったはずです。それまでからあった村々を結ぶ街道で
も、せいぜい4
,5mの道幅しかありませんでした。荷馬車がすれ違いできれば事足りるという、江戸時代からの街道でした。
 写真�Aは
、いちょう通りの開通から10年後に藤井寺町内に開通した「府道古市大阪線(現大阪羽曳野線)」の一部です。写真の部分は開
通当時の道幅を残しており
、幅員は6mしかありません。同じ府道で、どうしてこんなに違うのでしょうか。しかも、10年も前の道路の
方がずっと広いのです。大きな都市と結ぶ、などという役割がある道路でもありません。これは?です。
 実は
、いちょう通りは元々府道として造られた道路ではありません。大阪府が造ったのでもありません。この道路が誕生した背景には
壮大な街づくりプロジェクトが存在していました。今風に言えば、「ニュータウン」の誕生です。  
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 神社にお寺の燈籠があるのはなぜ?
 写真は市内にある道明寺天満宮の境内で見られる石燈籠ですが、注
目してほしいのは竿石に彫られている文字です。「松壽院」や「三之
室
(むろ)」は、大きな寺院の中に在る塔頭(たっちゅう)・僧坊を表します。塔
頭というのは、もともとは禅宗の寺院で用いられた用語ですが、後に
他宗にも広まり、一般的に大きな寺院の子院・末寺・草庵などを表す
用語として使われています。
 本寺を中心としてすべての塔頭などを含む全体を「一山寺院
(いっさんじ
いん)
」と言います。大寺院ではよく見られた形態ですが、現在でも京都
市の大徳寺などはその典型としてよく知られています。
 燈籠に刻まれた「執次
(とりつぎ)」は、「取り次ぎ」のことで、「執次
松壽院」は「松壽院に取り次いでいただいてこの寺に奉納したもの」
ということを表します。実質的には松壽院に寄進したことと同じだと
  �@「執次 松寿院」 �A「三之室(むろ) 執次」(天保3年)
�@「執次 松寿院」
    2013(平成25)年7月
�A「三之室(むろ) 執次」(天保3年)
        2014(平成26)年4月
道明寺天満宮境内にある石灯籠の文字
思われます。「三之室 執次」も同様です。そのようにして寺院に奉納された燈籠が、どうして神社である道明寺天満宮にあるのでしょ
うか。天満宮の境内にはほかにも塔頭・僧坊の名称が彫られた石燈籠がたくさんあります。これらの燈籠が奉納された寺院とは、「蓮土
山 道明寺
(どうみょうじ)」です。道明寺は古代氏族の土師(はじ)氏の氏寺として創建された古刹で、菅原道真ゆかりの寺として知られています。
 道明寺天満宮の名称には「道明寺」が付いているため、道明寺天満宮と道明寺が同じものだと思っている人がいるようですが、まった
く別ものです。一方は神社で一方は寺です。境内も、隣り合っているものの別の場所です。寺院に奉納された燈籠が神社の境内にある、
これは何を物語っているのでしょうか。ちなみに、松壽院も三之室も現在は存在しません。    
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 道明寺駅で見るこれは何?
�@ 道明寺線の東側に見える装置(北側) �A 道明寺線の東側に見える装置(南側)
�@ 道明寺線の東側に見える装置(北側)    2017(平成29)年5月
           茶色が多い中で真っ白な塗装が目立っている。
�A 道明寺線の東側に見える装置(南側)
                2017(平成29)年5月
 写真は近畿日本鉄道・南大阪線の道明寺(どうみょうじ)駅で見られるちょっと珍しい装置です。道明寺駅は南大阪線の駅であると同時に、道
明寺線
(道明寺駅−柏原駅)の起点駅でもあります。元となる鉄道会社が1898(明治31)年に開業した駅で、近畿日本鉄道全線にある286駅
(2026年)の中で、最も古い歴史を持つ駅の一つです。現在は分岐駅であると共に保線基地にもなっており、保線作業用の車両もよく見か
けます。そんな道明寺駅であるだけに、一般の乗降駅では見ることのない珍しいものを目にします。
 写真�@�Aがその装置ですが、道明寺線の東側にあるのでホームから見ることができます。ホームに入った車両に乗って見ると
、さらに
近くから様子を見ることができます。この装置は、いったい何なのでしょうか。使用目的や使い方を知ると
、「なるほど!」と思わず感
心してしまいます。鉄道ファン、中でも線路や配線のマニアの人はすぐわかることでしょう。    「詳しくはこちらへ」
 えっ これが府道? この通りだけ広いのはなぜ?
 写真�@の通りを少し進んで右に入った所は、
元藤井寺市民病院があった場所です。通りの突
き当たりには近畿日本鉄道・南大阪線が通って
おり、左に折れると道明寺駅に至ります。
 この広くはない道路は
、これでも府道189号
です。認定路線名は「府道道明寺停車場線」で
す。道路の幅員は約5mしかなく、大型自動車
は通行規制されている通りです。このことを初
めて通った人が聞けば
、「えっ これが府道?」
と驚くことでしょう。
�@ いちょう通り(府道190号西藤井寺線)(北東より) �A 府道186号大阪羽曳野線(南より)
�@ 元藤井寺市民病院の前の通り
  (西より)
     2026(令和8)年9月
�A 道明寺天満宮前の通り(南より)
             2026(令和8)年9月
 路線名が示している通り、この道路は道明寺停車場(道明寺駅)につながる道路として府道に認定されています。それだけ道路に重要な
位置付けがされているということでもあります。“せまいけど大切な道路”というわけです。
 ところが、写真�@の通りを手前側に進んで来ると
、写真�Aの通りに出てきます。ここは広い道路で10mの幅員がありますが、この通り
も府道189号です。同じ府道路線で、どうしてこんなに違うのでしょうか。余りにも違いすぎます。
 実は、「府道道明寺停車場線」という府道の路線名が誕生するまでには
、この周辺の様々な変遷の歴史がありました。古くは300年ほ
ど昔の出来事にまでさかのぼります。いったいどのような歴史を経て府道ができたのでしょうか。   
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 学校名に「寺」が二つも! 「藤井寺市立道明寺小学校」
 右の表は藤井寺市立の小・中学校、全10校の名称です。
ひと目見てお気づきでしょう。1校を除く9校の名称には、
「○○寺」という寺名が二つも付いています。しかも、四つ
の学校名の寺名は異なる二つの寺名です。これは、ちょっと
珍しいと思いませんか?
 寺名の付く公立学校名は全国にいくらでもあります。その
多くは「○○寺」という地名から付けられているようです。
大阪府内だけでも、藤井寺市のほかに14校
(2026年)の公立
小・中学校の校名に「○○寺」が付いています。
  藤井寺市立の小・中学校名
 しかし、藤井寺市のように二つも「○○寺」が付く学校名は極めて珍しい存在です。「○○寺市」や「○○寺町」という自治体が、現
在では大変少ないからです。藤井寺市のほかには
、国分寺市(東京都)、永平寺町(福井県)、王寺町(奈良県)、善通寺市・観音寺市(香川県)
だけです
(2026年)。その内、二つの「○○寺」が付く学校名は5校あります。ただし、校名に付く「○○寺」は自治体名と同じです。
 藤井寺市立学校の場合も、
「藤井寺」「道明寺」は地名として付けられているものです。「藤井寺」「道明寺」は元々は村名で、後に
町名となり現在は地区名として存在します。ただし、「道明寺」は元々は古刹である道明寺の寺領として「道明寺村」が存在していまし
た。道明寺は現在も歴史と由緒のある尼寺としてよく知られています。
 学校名に「藤井寺」や「道明寺」が登場したのは、戦時中の「藤井寺国民学校
」「道明寺国民学校」が始まりでした。1941昭和(16)年
のことです。当時はまだ、
「藤井寺町」「道明寺村」の時代です。どちらも「○○寺」が付く町と村が、その後20数年の時を経て「藤井
寺市」となります。その結果として誕生したのが二つの「○○寺」が付く学校名でした。
 通学している児童・生徒や保護者、或いは多くの市民は、「○○寺」が二つ付く学校名を日頃何ら疑問にも感じていないでしょうが、
市の外側からの目で見ると、「“寺”が二つも入ってる!」となる驚きの学校名とも言えるものです。実は、過去の一時期には、さらに
驚きの学校名の存在したことがありました。その学校名とはいったい?             
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 この建物はいったい何?
 写真は、道明寺天満宮境内で社殿の北西、梅園の入口脇に見える建物です。普段は扉が
閉まったままで、一見すると倉庫のようにも見えます。ほかの施設に気を取られていると
見逃してしまいそうになる存在です。よく見ると、神社にある建物にしては少し変わった
デザインの感じがします。いったい、この建物は何なのでしょうか。
 閉まっている扉の上を見ると、金色に縁取られた扁額が掲げられています。立派な文字
で『大成殿』とあります。中国の宗教歴史や�コ川幕府の学問施策、漢学などに詳しい方は
すぐにピンときたことでしょう。
 実は、この建物も立派な宗教施設です。ただし、境内にある他の摂社・末社とは違い、
道明寺天満宮の祭神とは直接関係ありません。造られたのは明治時代のことで、この境内
にある宗教施設としては、かなり新しいものと言うことができます。
 この施設と同じ役割を持つ施設は、現在では国内で数ヵ所になっていますが、東アジア
全体では多く存在しています。『大成殿』という名称も、本家本元は中国の山東省曲阜市
  道明寺天満宮「大成殿」
道明寺天満宮「大成殿」 2023(令和5)年8月
にあるもので、ユネスコ世界文化遺産にもなっています。韓国や台湾にも『大成殿』があり、日本国内でも数ヵ所に存在していて、道明
寺天満宮もその内の一ヵ所です。『大成殿』とはいったいどんな施設なのでしょうか。
 道明寺天満宮
(当時「土師神社」)に『大成殿』が造られた歴史を見ると、当時の藤井寺村や道明寺村の有志の人々が土師神社を軸として
結集し、この施設を完成させた様子がわかります。そこには、ある著名人の存在がありました。   
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