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◆  石 川  ◆
  (いしかわ)    一級河川    《 一級水系・大和川 》   《 大阪府 》
 近畿日本鉄道・南大阪線及び道明寺
(どうみょうじ)線 道明寺駅より南東へ約230m 徒歩約(玉手橋西詰まで)
 流域面積 222ku   流路延長 約36km   指定延長 29.9km
(大阪府が法定受託で管理する区間)
 管理:大阪府富田林(とんだばやし)土木事務所
大和川合流点から石川橋まで(約0.8km)は国土交通省の直轄管理区間〉
@ 石川 (石川橋より北東を見る) B 藤井寺市域の石川流域
     @ 石川 (石川橋より北東を見る)         2021(令和3)年11月
          前方が最下流で、大和川に合流している。左岸堤防上に市道があり、新大井橋や河内橋と石川
         橋を結ぶバイパス路の役目もあり、自動車の通行量はかなり多い。後方の山並みは生駒山地の南
         部。川の中央が市の境界となっており、左側(西)が藤井寺市、右側(東)が柏原市。以前は右岸河川
         敷に大きな数本の立木があったが、最近伐採されて見通しがよくなった。前方中央は柏原市役所。
南河内地域をつらぬく川
 石川は、一級水系・大和川水系の支流のひとつで藤井
寺市の東に接して流れています。大阪府の東南部、奈良
県との境にある金剛山地の西側斜面と丘陵地、及び和歌
山県との境にある和泉山脈東部の北側斜面の水を集めて
北へ流れ、藤井寺市の北東部で大和川と合流します。こ
の辺りでは、石川の中央部がとなりの柏原市との境界と
もなっています。
 石川の源流は、南河内地域の最南部・河内長野市の南
部にある滝畑
(たきはた)地区に始まります滝畑地区南端と
和歌山県伊都郡かつらぎ町との境にある蔵王峠付近に川
の源を発し、府道61号・堺かつらぎ線沿いに北流して行
きます。
A 石川の河川管理境界を示す看板
 A 河川管理境界を示す看板
   (東より)  2019(令和元)年9月
    石川橋西詰め北側の親柱横に立つ
  看板。左が南側の上流。右が下流。
 B 藤井寺市域の石川流域   2017年
     (YAHOO!JAPAN地図サイト)より
                  文字入れ等一部加工
     《 ロールオーバー効果設定 》
 流路延長約36kmを経て、藤井寺市北東部で大和川と合流します。合流点から南側の石川橋まで、約0.8kmが国土交通省の直轄管理区
間になっており
以南の約30kmは国から委託を受けた大阪府の富田林土木事務所の管理区間です。石川は大和川水系の数ある支流の中で
流路延長も流域面積も最大の支流河川です。         アイコン・指さしマーク「藤井寺市の川と池」    アイコン・指さしマーク「大和川−藤井寺市の川と池」
C 石川距離標 0.0km(給食センター前堤防)   藤井寺市が属している南河内地区は、金剛山地のふもとを南北に流れる石川の河岸段丘に古くから集落が発
 達し、これらをつなぐようにして東高野街道ができてきました。また、明治以降にできた鉄道も、石川や東高
 野街道に並行して建設されてきました。このように、石川は、多くの町や村が南河内地域にできて発展するも
 ととなった重要な存在なのです。
  写真@は石川の最下流部分を最も下流側にある石川橋から見た様子です。石川橋から約
900m付近で大和川
 に合流します。普段の水量は写真に見える程度なので、東側の右岸河川敷にはサッカー練習場が設けられてい
 ます。この部分は柏原市域です。
  合流点付近の左岸堤防には、写真Cの「
大和川合流点0.0km」の距離標が設置されています。別の面には
 「
いしかわ」「石川距離標0.0km」の文字も見られます。つまり、この地点が石川の終点で、河口に当たる
 位置なのです。同時に、そこから先は大和川の流れであるわけです。
  合流点の西側で急カーブとなっているため、流れの内側となる藤井寺市側の左岸には昔から広い川原ができ
 ています。この場所を利用して、市立の「大和川河川敷運動広場」が造られました。野球グラウンドとテニス
 コートですが、休日には多くの利用者で賑わいます。 アイコン・指さしマーク「大和川河川敷運動広場−藤井寺市の施設案内-」

  写真@で左側の左岸河川敷に細い道が見えますが、これは愛称「南河内サイクルライン」というサイクルロ
C 石川距離標 0.0km
 (給食センター前堤防)
  石川の最下流地点であり、
 大和川との合流点でもある。
ードです。この道は細い自転車用道路ですが、れっきとした大阪府道で、「府道802号・八尾河内長野自転車道線」と言います。南河内サイ
クルラインについては下で後述します。
整備された河川敷−スポーツ広場や公園に

 写真DEは、玉手橋から見た石川の南北両方向の様子です。写真でわかるように、河川敷は河川敷公園やスポーツ用広場として整備され
ています。ずっと以前には単なる川原という感じでしたが、その後計画的に整備が進められて両岸の河川敷はきれいになりました。同時に
護岸整備も行われて、コンクリート護岸に変わりました。写真Eで、溜まった砂の上に見える黄色い花の草は、近年各地の河川敷や堤防で
増えているセイヨウカラシナかセイヨウアブラナの群生です。石川や大和川でも最近急速に増えてきました。
 撮影場所の玉手橋から南方へ
約270mまでが藤井寺市域で、写真Eで右手に見える高層住宅(府営住宅)の場所は、もう羽曳野市域です。
D 石川の流れと河川敷(玉手橋から北を見る) E 石川の流れと河川敷(玉手橋から南を見る)
D 石川の様子(玉手橋から北を見る)   2016(平成28)年4月
     河川敷の直線道路はサイクルロード。前方の橋は石川橋。
E 石川の流れと河川敷(南を見る)    2016(平成28)年4月
     東はスポーツ広場、西は公園。前方の橋状建造物は西名阪自動車道。
一変する川の様相−増水時の石川
 きれいに整備された石川の河川敷ですが、大雨で増水した時には多くの川がそうであるように、その様相が一変してしまいます。下の写
真FGは、2023(令和5)年6月2日、南海の台風2号に押し上げられた梅雨前線よる大雨で増水した石川の様子です。上の写真DEと比べて
見ると、その光景の違いに驚かされます。「静かな川」と「怖い川」の二面性をはっきりと見せつけています。この濁流の写真は、小雨に
なった夕方の撮影ですが、堤防下に打ち寄せられたゴミの位置を見ると、増水した水位の最高位はもう少し高かったと思われます。
F 増水時の石川(玉手橋から北を見る) G 増水時の石川(玉手橋から南を見る)
F 増水時の石川(北を見る)       2023(令和5)年6月2日
          写真Dとほぼ同じ位置から撮影している。
G 増水時の石川(南を見る)       2023(令和5)年6月2日
          写真Eとほぼ同じ位置から撮影している。
河川敷を通る府道−南河内サイクルライン
 石川のこの辺りの河川敷には愛称「南河内サイクルライン」というサイクルロードが通っています。この道は細い自転車用道路ですが、
既述の通りれっきとした大阪府道で、「府道
802八尾河内長野自転車道線」と言います。八尾市域の大和川北岸から南河内最南部の河
内長野市までの総延長
21.1kmの自転車歩行者専用道路です。まさに南河内を縦断するルートになっています。近所の人々にはちょうどよ
い散歩道となっており、また、ロードレースの競技者にとっては貴重な練習コースとなっています。現在、大阪府が府道として整備したサ
イクルラインは3ヵ所あり、その一つが「南河内サイクルライン」です。
 「府道802号・八尾河内長野自転車道線」は、八尾市から柏原市→藤井寺市→羽曳野市→富田林市→河内長野市と、6市にまたがって続
くサイクルロードです。ついでなので、概要を次に紹介しておきます。
 この道路は、一部で自動車道と重なっていますが、多くは大和川・石川の堤防や河川敷に造られたコースを通ります。起点を出て大和川
の堤防上のコースを
3kmほど進んで新大和橋を渡るとあとは石川に沿って堤防と河川敷を下ったり上ったりしながら、延々と南に進んで
行きます。以下はコースの概略です。
   
大正橋北詰交差点
(八尾市太田5丁目大和川堤防上)  大和川右岸(北岸)堤防上を東へ  新大和橋
                                               

   
石川サイクル橋
(富田林市新堂〜北大伴)    石川の左岸(西岸)堤防・河川敷(上ったり下ったりする)
      
                    
(藤井寺市・羽曳野市・富田林市)
   
石川右岸(東岸)河川敷    川西大橋
(富田林市西板持〜錦織東)     新家(しんけ)交差点(国道170号)
                                              

   
河内長野市原町北交差点
(国道170号)   国道310号手前の側道(河内長野市)    国道170号沿道
H 南河内サイクルライン(北より) 南河内サイクルライン・ルート図
H 南河内サイクルライン(北より)
    道明寺東小学校東側付近。正面に見える橋は
   石川橋。        2017(平成29)年4月
I 南河内サイクルライン(南より)
I 南河内サイクルライン(南より)
     玉手橋の北側付近から石川橋までの様子。
               2016(平成28)年4月

もう一つの堤防−今に残る控堤
 大和川に合流する石川の河口付近から左岸
(西岸)堤防の道路を南へ進むとす
ぐに、南西へ分岐する道路があります
(写真B)。石川の堤防道路と同じ高さの
この道路は、近鉄道明寺線の踏切を渡ると右側に梅が園善徳保公園を、左側に
道明寺東小学校の運動場を見下ろしながら、国府
(こう)八幡神社前まで続きます。
つまり、この道路面は両側の土地よりも高いのです。と言うよりも、この道路
のある部分は、もともと堤防なのです。人為的に盛り土をして造られたれっき
とした堤防です。と言っても、この堤防の両側には“川”らしきものはありま
せん。では、いったい何のために造られた堤防でしょうか。
 この堤防は「控堤
(ひかえてい)」とか「副堤(ふくてい)」と呼ばれるもので、江戸時代
の中頃までには築かれていました。川の両側に築かれる堤防は本堤
(ほんてい)と言
いますが、控堤は本堤とは別の目的で造られています。
 
 K 控堤の上を通る道路(南西より) 2020(令和2)年4月
    右(南東側)に見えるのは、道明寺東小学校の校舎。左の
   桜並木の向こうに梅が園善徳保公園がある。
 この控堤の上を通る道は大和川付け替えの後に、石川堤防の道と共に東高野街道の一部として使われるようになりました。それまでの元
々の東高野街道は、北から下って来て東西に大和川を橋で渡り、船橋村から国府村に抜けていました。大和川付け替え後には、船橋村の辺
りで南北に船で渡るように変わりました。いつ頃から控堤の道が東高野街道となったのかははっきりしませんが、比較的新しい時代ではな
いかと私は推測しています。写真Kが現在の控堤の上を通る道路です。石川の方に向いて撮影していますが、右手に見える3階建て校舎が
道路面よりも低い位置に建っていることがわかります。  アイコン・指さしマーク「藤井寺市の昔の街道−東高野街道」   アイコン・指さしマーク「大和川の付け替え」
 この控堤は、石川堤防のある構造に連動して造られたものです。現在の地図や写真ではわかりませんが、昔の絵図などでその様子を知る
ことができます。その石川堤防のある構造とは、「霞堤(かすみてい)」と呼ばれる堤防の形状の一種です。
治水の知恵−霞堤と控堤
 石川の控堤は今でもその形状を残しており、
堤防であったことが目で確認できます。ところ
が、霞堤の形状は現在では跡形も無く、目で確
かめることはできません。現在の地図を基に作
成した霞堤の復元概念図で説明します。
 図Lが霞堤の復元概念図です。大和川に合流
する手前の部分で堤防の一部が切れています。
と言うより、わざと堤防に開口部を設けてある
のです。これでは堤防の役に立たないのではと
思われますが、実はこれは洪水に備えた治水対
策なのです。なぜこの部分に霞堤が設けられた
のか、堤防に切れ目を造っても大丈夫なのか、
その説明は少々煩雑となるので、箇条書きで進
めていきます。
 石川が大和川と合流する河口に近い下流部
 分は、大増水の時に堤防が切れたり水が堤防
 から溢れたりして氾濫する可能性が高かった
 のです(原因については後述)。それを確実に
 
L 石川に設けられた霞堤の概念図
〔記号〕学校:市立道明寺東小学校の中心位置
    神社:国府
(こう)八幡神社
M 霞堤の跡を示す昔の地形図
  明治31(1898)年発行 1/2万地形図より
        着色・文字入れ等一部加工 
 防げる高くて頑丈な堤防を延々と築き続けることは、経済的にも技術的にも現実的ではありません。
 そこで、たまに洪水が起きるのは仕方のないことと考え、次善の策として被害をできるだけ小さくしようとしたのです。現在よく言わ
 れる「完全な防災が不可能な自然災害では“減災”を考えることが大切」という防災思想で、ある程度の被害は避けられないものとして
 受け止め、より大事なものを守る、という考え方です。
 図Lのように、平常時には大和川へ向かって流れている石川の水は、大増水の時には霞堤の切れ目からの地域へ流出します。平常時
 は河川敷に隔てられていて流出することはないのですが、大増水で水位が上がると切れ目からどんどん流出していきます。
 地域の北側には控堤が築かれており、西側では国府台地が遮っているので、氾濫した水は南側へと流れ込みます。控堤はこの氾濫に
 備えて築かれたもので、川の両岸に築かれる本堤のように直接に本流を制御する役目ではありません。この場合は、地域を氾濫から守
 る役目を果たします。この一帯の土地は南高北低のわずかに傾斜した地形なので、この控堤がなければ氾濫した水流はたちまち地域の
 方へ向かい、この一帯やさらに西の方にも流れて溜まります。
 そのように地域に溜まった水は、石川の増水が収まって水位が下がっても、上流側の切れ目から石川に戻ることはありません。
 域やその西側に続く農地を守るために、控堤は重要な役目を担っているのです。それゆえ、この控堤は本堤ではないにもかかわらず、幕
 府が国役普請
(くにやくぶしん)で造成した「国役堤(くにやくづつみ)だったのです。地域やそれに続く西の地域は、藤井寺市域の村々の中でも最も多
 くの田畑が広がる安定した農作地帯でした。
 地域に流出した水は、石川の水位が下がると自然に切れ目から石川へと流れて戻っていきます。北側の方が低いからです。しかし、
 A地域の農地が洪水の被害を受けることは避けられません。つまり、地域が犠牲を払うことでより重要な地域の農地を守る、という
 減災の仕組みが取られているわけです。当然ながら、両地域の利害は対立するわけですから、両地域の耕作者どうしの話し合いで
 は簡単には決められないことです。江戸時代のことです。この地域を支配する領主や幕府の判断が決定を左右したことでしょう。
 もし控堤も切れたりした場合はどうなるでしょうか。当然地域の方へ水が流入し、どんどん溜まっていきます。ここに溜まった水は
 洪水後にもなかなか引きません。土地の低い北側には大和川の堤防があるからです。大和川の南岸堤防に沿って落堀川という排水路が造
 られていますが、洪水のような大量の水を排水する能力はありません。落堀川については別ページで紹介しています。 アイコン・指さしマーク「落堀川」

 図Lで地域の北に流れる大和川は、実は江戸時代の宝永元(1704)年に西向きへの付け替え工事で造られた人工の川なのです。元々の
 旧大和川は、石川と合流したあと自然の地形に合わせて北向きに流れていました
(図M)。石川もほぼ直線的に北へ向かって流れる流路だ
 ったのです。ところが、大和川の流路が西向きに変えられたため、石川は直角に近い形で大和川に流入することになりました。大きな増
 水が起きると、大和川の水勢に押されて石川の流れは流入しにくくなります。「バックウォーター現象」と言われる状態です。その結果
 石川の堤防を水が越えたり
(越流)、堤防の一部が崩れたりする(決壊)ことが起きます。つまり、大和川の付け替えが石川の流れに大きな
 影響を与える結果となり、付け替え後は石川での洪水の危険性が高まることになったのです。その対策の最終打が霞堤の造設だったとい
 うことでしょう。大和川付け替えからほどなくして霞堤が造られたものと思われます。

 以上のように、霞堤は洪水が起きることを前提に造られ、その被害を限定地域に留めようとするものだったのです。重機もトラックも
 無い時代に、堤防を強固にするという発想だけでは限界があり、“水を治める”方法として昔の人々が生みだした知恵でした。現在でも
 全国各地に霞堤の構造は存在しており、現役としてその役割を担っているものもあります。
霞堤の現在の形状は
 写真Bでわかるように、現在の石川堤防には霞堤の形状や切れ目はありません。堤防上を道路として利用している控堤の形だけがその名
残として存在しています。石川堤防の形状が現在のように1本の直線的堤防として改修されたのがいつなのか、はっきりとはわかりません
でした。戦後すぐの1946(昭和21)〜48年に当時の占領軍である米軍が撮影した空中写真では、すでに現在と同じ形状で写っています。それ
以前だということがわかります。                 アイコン・指さしマーク「空から見る藤井寺市−空から見る昔の藤井寺市域」
 図Mは1898(明治31)年陸地測量部発行の1/2万地形図の一部です。これを見る
と、霞堤の切れ目部分は本堤とつながれています。地図記
号を見ると盛り土の堤防上に道路が造られているので、すでに霞堤ではなくなっています。この地図の様子は、写真Bに見られる近鉄道明
寺線の線路が敷設される直前の時期ですが、江戸時代末期とほとんど変わらない村地の様子です。最も早い時点で確認できた地図は明治18
年地形図で、図Mとほぼ同じに描かれています。霞堤でなくなったのは、かなり前からだと思われます。
 以後、昭和9年地形図まで同じ形状で描かれていました。私の調査でわかったことを総合すると、「明治10年代にはすでに霞堤ではなく
なっていたが、堤防切れ目の跡はくびれの形で残っていた。少なくとも昭和9年頃まではその形状であった。昭和21年には1本の堤防に改
修済みであった。」となります。したがって、昭和10年代のどこかで現在の堤防の形状に改修されたと推測されます。
今に残る遊水池の地形−道路から下る小学校
 堤防の形としてはすでに霞堤ではなくなった石川堤防ですが、控堤やその上を通る道
路はそのままの形で現存しています。そして、図Lで地域と表示した洪水の時に遊水
池(氾濫原)となる場所の地形も残っています。
 図Lに表示された学校の記号は藤井寺市立道明寺東小学校ですが、この場所は霞堤が
在った時代に洪水が起きれば、まともに水に浸かってしまう所です。江戸時代以来ずっ
と水田地帯だったのですが、1967(昭和42)年 4月、ここに道明寺東小学校が開校しまし
た。当時の藤井寺市は人口急増期に入っており、前年に市制施行したばかりでした。小
学校の分離新設が急がれていたのか、開校の年度には最初の校舎一棟で発足しました。
建設工事も急いだのか、敷地はかさ上げされることもなく、田地に土を入れて整地した
だけでした。つまり、遊水池の時と同じ土地の高さのままだったのです。
 現在でも、もし石川の堤防で越流や決壊が起これば学校の敷地はたちまち池となり、
N控堤の道路から下って行く学校の正門
N 控堤の道路から下って行く学校の正門
  (北より 道明寺東小学校)
       〔GoogleMap 2018(平成30)年10月〕より
    右側の避難場所指定表示では、「風水害」は対象外。
水の逃げ場が無いので長時間に渡ってその状態が続くことでしょう。右の写真は正門付近の様子ですが、右側の避難場所指定表示看板では
指定避難場所・一時避難場所ともに「地震」の場合だけで、「風水害」は対象外となっています。隣の校区へ行くことになります。
 このような場所に小学校が造られたのは、新たに区分される校区の真ん中辺りで広い土地が得やすかったことが大きな理由だと思われま
す。他の場所は国府台地に連なる段差地形が多く、学校用地を確保する適当な場所が無かったものと思われます。もっとも、その後、道明
寺南小学校の分離新設によって道明寺東小学校の校区は南北に分割され、現在では校区の東南の端に学校が在る配置に変わりました。
 私はこの道明寺東小学校でも8年間勤務しましたが、この敷地の形状には大きな違和感を持っていました。控堤上の市道に面して正門が
ありますが、その門から急な坂を下って学校内に入るのです
(写真N)。車高の低い乗用車では車体の腹を擦ってしまうのではないかと心配
するような阪です。坂を上った所にある学校はよく見ますが、鍋底のような凹地に下って入る学校は、ここで初めて見ました。
 こんな地形で元が水田なので水はけが悪く、運動場の周縁部ではすぐに雑草が繁茂していました。雨上がり直後の運動場の水引きが悪く
て運動会を延期したことがありましたが、同じ日に市内の他校では実施していました。そんなこともあり、私が在勤していたある年の夏休
みに、地盤改良のために運動場の土を総入れ替えする大規模な工事が行われました。地下に排水処理の透水構造を造り、その上に特殊な配
合の土を敷くものでした。工事監督さんに聞いたら、競技場に使われるのと同じ専用土だということでした。工事の霊験あらたか、直後の
2学期からは雨上がり後の運動会練習が実にはかどりました。
 1977(昭和52)年5月、市立老人福祉センター「松水苑
(しょうすいえん)」が道明寺東小学校の北東側に隣接して開設されました。敷地面積が学校
ほど広くなく、高齢者の利用が多いことからでしょうか、控堤上の市道の高さまで盛り土をして建設されました。小学校の運動場とは、高
さ2m位のコンクリート擁壁で接しています。小学校の敷地も同じように盛り土をして造ってくれていたら、と何度も思いました。
 
人智を超えた災害−正徳の大洪水
 大和川付け替えによって石川の洪水の危険性が高まり、その対策として霞堤
という治水の知恵が投じられました。減災で乗り切ろうという知恵でしたが、
それを超える大規模な洪水の場合には霞堤・控堤にも限界があります。
 その恐れていた大洪水
が、大和川付け替えからわずか12年後に現実のものと
なっています。それは、正徳6(1716)年6月20日
(享保改元の2日前)に発生した
大洪水です。被害の状況を示す絵図が残されており、かなり詳しい様子を知る
ことができます。図Oがその絵図の部分です。石川・大和川の合流点付近を切
り出して、わかりやすいように着色し、筆文字に活字体を添えました。
 絵図は『藤井寺市史第2巻 通史編二 近世
』〔2002(平成14)年〕に掲載されて
いるもので、「図1 正徳6年 洪水川切之図
(小泉家蔵)です。絵図に書かれ
た標題は『
正徳六歳六月廿日洪水川切之圖』です。この絵図を見ると、この
時期までに霞堤・控堤の出来上がっていたことがわかります。しかし、その効
果むなしく、人智の工夫をあざ笑うかのような自然の猛威が甚大な被害をもた
らしています。
 絵図には石川の西岸堤防の切れた様子が3ヵ所描かれています。図O右端に
もある道明寺村の南方では「
切口百間余」とあります。約 182m余りが決壊し
たことがわかります。さらに道明寺村の南にある碓井村
(現羽曳野市)では「
口百間
(約182m)」、さらに南の古市村(同)では「切口三百間余(約545m余り)
書き込まれています。これだけでも相当な被害なのですが、事態はもっと深刻
でした。
 船橋村や北条村・大井村、さらに西の小山村・津堂村を守るための控堤まで
もが切れてしまったのです。上で述べたように、氾濫した水が図Lの地域に
 O 正徳6(1716)年の洪水を表す絵図(部分)
      『藤井寺市史第2巻 通史編二 近世』掲載の
      「図1 正徳6年 洪水川切之図」より
                着色・文字入れ等一部加工
  ■本堤・控堤  平常の川の水面  氾濫した水
大量に流出したのです。絵図の控堤には「切口八十間余(約145m余り)」と書かれています。この切れ口から勢いよく北へ西へと大量の水が
流れ込んだことでしょう。霞堤・控堤を築いた後でも、最も恐れていた万が一の事態が起きたわけです。新大和川ができていなければ、お
そらくはここまでの洪水にはなっていなかったでしょう。
 その大和川も、北岸の築留
(つきどめ)と呼ばれる新川切り替え地点の角地で「切口九十間余(約164m余り)」という決壊が起きています。また
そこから東方の上流側でも3ヵ所の小規模な切れ口が発生しています。しかし、ここからの流出区域は人家はほとんどなく、被害はほぼ農
地だけで済んだようです。流出区域の西側には天井川であった旧大和川の跡地があり、それが壁となってその西側の集落部分が浸水をまぬ
がれたようです。被害が深刻だったのは、やはり石川西岸沿いの村々と大和川南岸沿いの村々です。現在の藤井寺市域にあった村も多くが
被害を受けました。                                アイコン・指さしマーク「村だった頃の藤井寺市域」
 前掲『藤井寺市史第2巻』の記述によれば、氾濫によって水に浸かったのは、船橋・北条・大井・林・国府・沢田・志紀小山・丹北小山
・津堂の村々でした。また
津堂村の西で落堀川の下流側に在る若林村(現松原市)も水に浸かっています。津堂村では潰れ家10軒のほか、
村高
(村全体の収穫量)の7割が失われています。丹北小山村では村高の4割が流され、志紀小山村では潰れ家7軒のほか村高の7割が流さ
れています。若林村では死者3人、潰れ家
21軒のほか、田畑のほとんどが流されました。その他の村々も被害をまぬがれることはなかった
でしょう。6月29日付の報告によれば、浸水農地の合計面積は、26町1反4畝24(約26ha)に達したとあります。藤井寺市の施設で例える
と、市立スポーツセンターの約
15個分に相当します。市立小中学校10校の敷地を全部合わせてもはるかに及びません。
 この正徳6年の大洪水では、古刹である道明寺の伽藍が壊滅的な被害を受け、堂社のすべてが流されたといいます。当時の道明寺は道明
寺村の一村丸ごとを寺領として支配するこの地域の有力寺院でしたが、この洪水によるダメージは大きく、古代から伽藍があった場所での
再建をあきらめて、国府台地の一部である丘の上
(現道明寺天満宮境内地)に移転して再建されました。       アイコン・指さしマーク「道明寺」
 堤防の復旧工事は急を要しますが、幕府は国役普請として直ちに工事計画に取り掛かり、8月から復旧工事を開始し、2年後の享保3年
秋には完了しています。これを機に幕府は、2年後の享保5年6月に大規模な治水工事を国役普請で行う基準を定めています。
 正徳・享保の時代からは
300年余りが過ぎています。大和川や石川の周辺もすっかり様子が変わりました。しかし、川の流れは今も同じ
所から出て同じ所へと向かっています。石川堤防や控堤の道を歩くことがあったら、当時の人々の優れた工夫や避けられなかった苦難に少
しばかり思いを馳せてみてください。近年、毎年のように各地で水害が起きています。気候変動があると言うものの、
300年を経てもなお
「治水」ということが如何に大切であるか、如何に難しいものであるかを、私たちに考えさせてくれる歴史のひとコマだと思います。

石川に架かる橋−文化財の橋も
 写真Bでわかるように、藤井寺市域の石川に架かる橋は2本あります。「石川橋
」と「玉手橋」です。府道12号・堺大和高田線が通る石川
橋の最初の架橋は、1873(明治6)年のことでしたが、当時は長尾街道の通る橋として掛けられました。現在の橋は、戦後、長尾街道のバイ
パス線として府道堺大和高田線が建設されるのに合わせ、旧石川橋を架け替えて1955(昭和30)年に竣工しました。
 独特の景観を見せている玉手橋は、1929(昭和4)年
の竣工ですが、それ以来ずっと同じ橋脚橋梁です。完成から90年を経た歴史ある
橋です。昭和4年に当時の大阪鉄道
(近畿日本鉄道前身会社の一つ)によって架けられた玉手橋は、道明寺駅で降りてから石川を渡って石川
の東方にあった「玉手山遊園地」へ行く利用者のために造られました。玉手山遊園地は、名前の通り玉手山という丘陵地を利用して、1908
年(明治41年)に大阪鉄道の前身である河南鉄道が開業した西日本最古の遊園地です。当時も細い木橋が架けられていましたが、大雨の増水
で度々橋の損壊が起きていました。利用者のために永久橋の建設が求められ、昭和になってやっとコンクリート製の橋ができました。
 玉手山遊園地は長い間に渡って多くの家族連れや遠足などに利用されてきましたが、1998年(平成10年)に閉鎖となりました。施設の譲渡
を受けて、翌年に柏原市立玉手山公園として再開されています。
 玉手橋は、戦後の1953(昭和28)年に近畿日本鉄道より地元自治体
(当時国分町)に移管され、現在はセンターライン付きの歩行者自転車専
用道路として柏原市が管理する橋です。橋の中間点の少し西寄りが藤井寺市と柏原市の境界となっています。
 玉手橋はその歴史が古いだけではなく
小型吊り橋が連続した構造の「5径間吊り橋」という珍しいものです。2001(平成13)年に吊り橋
としては全国で初の国の「登録有形文化財(建造物)」に登録されました。橋長
151m、幅員3.3mで、センターライン付きの歩行者自転車
専用道路となっています。             「石川橋−藤井寺市の交通」     アイコン・指さしマーク「玉手橋−藤井寺市の交通−」
 ※『大鉄全史』では玉手橋の竣工が昭和3年3月17日となっているが、編者の誤認か記憶間違いと思われる。道明寺天満宮に当時の『玉手橋渡初式祝詞』
  が現存しており、記されている日付は「昭和四年三月十七日」となっている。玉手橋の竣工は1929(昭和4)年3月
17日であったと思われる。3月29日に
  は、大阪鉄道は古市−久米寺
(現橿原神宮前)間を延伸開業している。現在の近鉄南大阪線となる路線の完成した日である。
J 石川と玉手橋(上流の南側から見る)
          P 石川と玉手橋(上流の南側から見る)        2016(平成28)年4月      合成パノラマ
                      造られてから90年を越えており、ケーブルや路面は何度も補強されてきた。写真で右から2番目の橋脚は、河川敷と
                     流路の改修工事の折に、大増水に備えて基礎部が強化された。玉手橋後方に見える山並は生駒山地の南部。
古代名「餌香川」
 『日本書紀』などに記述のある「餌香川
(えががわ)」というのは、石川の古代名とされています。 672年の「壬申(じんしん)の乱」の時の戦い
は「衛我河の戦い」と呼ばれています。また、それに先立つ587(用明2)年7月
蘇我馬子(そがのうまこ)や厩戸皇子(うまやどのみこ 聖徳太子)らの蘇
我軍主力が、物部守屋
(もののべのもりや)軍の先鋒と激戦の末突破したという「餌香川原の戦い」もよく知られています。
 下って1615(元和元)年5月の大坂夏の陣では、石川
(餌香川)の両岸地域を戦場として激戦が展開され、豊臣方の後藤基次(又兵衛)や薄田
兼相
(隼人)などの武将が討ち死にします。「道明寺合戦」と呼ばれる戦いです。古来、餌香川」付近が重要な戦いの舞台になっていたわ
けです

 『万葉集』に詠まれている「河内大橋」は、この餌香川の下流付近、つまり、現在の藤井寺市国府
(こう)地区の近くに架けられていたとす
る説が有力です。歌では、この橋の架かっていた川は「片足羽河
(かたあすはがわ)という名前で、朱塗りの立派な橋であったことが詠まれてい
ます。「片足羽河」については、大和川のことだとする説もあり、河内大橋があった位置は定まっていませんが、多くの説に共通するのは
石川と大和川の合流点付近にあったとみる推定です。そうなると、やはり国府付近であった可能性が高くなります。
 この国府地区は、古来「国府村」の名が受け継がれていて、河内国府の所在地であったと推定されている場所でもあります。また、この
地域かその近くには、古代の「河内の市
(いち)」とされた「餌香市(えがのいち)」が設けられていたと考えられています。「餌香市」も『日本書紀』
『続日本紀』の記述に出てきます。              アイコン・指さしマーク「河内大橋のこと」     アイコン・指さしマーク「国府遺跡−餌香市のこと」
 こう見てくると、「えが(餌香、衛我、恵我)」というキーワードが重要な意味を持っていることがわかります。ちなみに、宮内庁によっ
て治定されている「恵我」の付く天皇陵が、藤井寺市内に2ヵ所、隣接の羽曳野市内に1ヵ所あります。「恵我三陵」とも呼ばれます。

【 参 考 図 書 】 『 藤井寺市史第2巻 通史編二 近世 』(藤井寺市 2002年)
『 河内木綿と大和川 』(山口之夫著 清文堂 2007年)
『 大和川付け替え300年 −その歴史と意義を考える− 』(大和川水系ミュージアムネットワーク編 雄山閣 2007年)
『 大和川付替えと流域環境の変遷 』(西田一彦監修 古今書院 2008年)
  『 大和川の歴史 土地に刻まれた記憶 』(安村俊史著 清文堂 2020年) 
  『 大鉄全史 』(近畿日本鉄道株式会社 1952年)  〈 その他 〉

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