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1) 道明寺天満宮神門前(南より) 2017(平成29)年4月 社号標には「天満宮」しか書かれていない。昭和18年の建立。 |
2) 道明寺天満宮神門(南より) 2015(平成27)年3月 旧道明寺境内では中門だった門。寺の門の面影がある。 |
神門と社号標-神社の歴史を伝えるもの 写真1)・2)は、階段を上って入る神門とその周辺の様子です。何度か来たことのある人は、「あっ、道明寺天満宮の門だ!」とすぐ気が 付くことでしょう。特徴のある門前の様子です。実はこの写真の中には、道明寺天満宮の歴史として大変重要な事柄が秘められています。 まず、写真2)で様子がよくわかる神門ですが、神社の入口として何か違和感がありませんか? 普通、たいていの神社では最初の入り口 にはこのような門ではなく、神域の結界を示す鳥居が立っています。京都・北野天満宮では、大鳥居から入った奧に楼門があります。九州 ・太宰府天満宮では、いくつもの鳥居を通った最奧に楼門があります。もっとも、中には例外的なケースもあり、大阪天満宮の場合は入り 口が表大門になっていて、門と社殿の間には鳥居が一つもありません。最初の入口が門という配置は例外的な方だと思われます。藤井寺市 内の神社でも、扉付きの門があるのは道明寺天満宮だけです。実は、この神門はもともと神社の門として存在していた場所ではありません。 背景には、この神社の重要な歴史が存在します。 次に、写真1)に見える社号標ですが、「天満宮」とだけ刻まれています。なぜ「道明寺」が付いていないのでしょうか。社号標の建立は 太平洋戦争真っ最中の昭和18(1943)年です。当時のこの神社の正式な名称は「土師(はじ)神社」でした。つまり、「道明寺天満宮」でも「天満 宮」でもなかったのです。ただし、「道明寺に在る天満宮」或いは「道明寺と一緒に在る天満宮」という意味で、「道明寺天満宮」という 呼び方は明治以前からあり、明治以降も「道明寺天満宮」という呼称は庶民の間では習慣的に使われてきました。 ところが、新政府の政策として神仏分離が行われた明治初期からは、「道明寺天満宮」は正式名称としては認められる名前ではなくなり ました。おそらくは、「道明寺」という「寺」の名前が付く神社名を良しとしない新政府神祇官の思惑が働いたのでしょう。また、この時 期、全国各地で「○○天満宮」の名が「○○神社」に改められました。天満宮の総本社とされる北野天満宮は「北野神社」となり、太宰府 天満宮も「太宰府神社」となりました。「宮」号は皇族を祭神とする神社に付けるものと定められたからです。そんなわけで、道明寺天満 宮も明治5年以降は「土師神社」を名乗ることになりました。この時期に何があったのでしょうか。 明治初年、明治新政府は一連の太政官布告や神祇官達(命令)で、全国の神社に対して神社境内にある仏教堂宇の廃止や神社からの仏教色 の分離・区別を求めました。いわゆる「神仏判然令(神仏分離令)」と言われるものです。この政策によって、この地でも神仏分離が実行さ れることになりました。 もとは道明寺と一体-古代「土師神社」から「道明寺天満宮」への概略 それまで、ここの境内地全体は「道明寺」として存在していました。元は古代に「土師寺」という土師氏の氏寺として創建された寺で、 当時の境内域は現在の道明寺天満宮の南側に位置したものと推定されています。一方、土師氏の氏神として祀られていたのが「土師神社」 でした。やがて神仏習合が一般化する中、土師寺と土師神社が同じ土師氏の氏寺・氏社として一体化していったのも自然な流れした。 土師氏から出て平安時代に「菅原氏」を名のる一族が生まれますが、この菅原氏の一人で右大臣にまで出世したのが、菅原道真(すがわらのみ ちざね)公でした。道真公の姨(おば)・覚寿尼(かくじゅに)が土師寺の住職をしていたことから、道真公と土師寺のつながりは深く、道真公はたびたび土 師寺を訪れていたそうです。道真公が藤原時平の策謀によって九州・大宰府に左遷された時にも土師寺に立ち寄ったと伝えられています。 道真公が都に帰ることなくそのまま没すると、やがて都を中心として天災や疫病が続発します。道真公の怨霊がもたらしたのだというこ とから、その霊が947年に京都の北野に天神として祀られ、北野天満宮が造られました。天神信仰としての天満宮の始まりです。土師神社 でも道真公を祭神とする天満社が祀られました。同じ頃、土師寺は「道明寺」に改称されました。やがて、天満社は「道明寺にある天満社」 ということで、「道明寺天満宮」と呼ばれることが一般化していきます。土師神社の摂社であった天満社が、土師神社に替わって本社とし て存在することになりました。以来、900年余りに渡って、道真公を祀った天満宮(天神社)は道明寺と一体となって存在してきました。 ところで、寺号「道明寺」の「道明」については、道真公の「雅号」とか「幼名」といった説がありますが、確たる由来を示す史料はあ りません。大宰府に赴く道真公が淀川を下る舟の中で『世につれて浪速入江もにごるなり 道明らけき寺ぞこひしき』と詠んだ歌にヒント を得られるかも知れません。伝えでは、道真公はこの直後に土師寺へ立ち寄ることを許され覚寿尼のもとを訪れています。 明治5(1872)年、その道明寺も神仏分離を余儀なくされ、道明寺は境内地の西側に新しい境内を造って移転することになりました。残っ た神社が「土師神社」を名のることになったのです。神仏判然令の趣旨は神社からの仏教色排除を徹底することでしたから、当然のことな がら、「寺」の名が付く神社名など問題外のことでした。また、全国の神社を国家が管理する国家神道の体制となり、神社の「社格」や神 社名称の規定が定められました。その結果、道明寺天満宮は「道明寺」や「天満宮」を名のることができなくなったのです。 昭和18年の時期、「天満宮」に「道明寺」や「土師」を付けて固有の神社名として表すことはできなかったわけです。「天満宮」だけな ら、「ここの神社に天満宮がありますよ」ということを表しているだけなので、ぎりぎりセーフということだったのでしょうか。 土師神社が「道明寺天満宮」と正式に改称したのは、昭和27(1952)年のことでした。敗戦の年、昭和20(1945)年にGHQ(連合国占領軍総 司令部) から出された命令、いわゆる「神道指令」によって国家神道の体制が解体され、神社は宗教法人として再スタートすることになっ たのです。前年の昭和26年に町制施行記念で発行された『道明寺町史』(道明寺町発行)では、まだ「土師神社」の名で載っています。 |
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寺号の付く天満宮の名称-今では珍しい「○○寺天満宮」 国家神道の縛りが無くなったことで、「道明寺」の寺号が使えるようになったわけですが、「土師天満宮」とか「道明天満宮」などとは ならずに、近世以前からの呼称であった「道明寺天満宮」に改称されたことが、この神社の歴史に千年の長きに渡る道明寺(土師寺)との神 仏習合の歩みのあったことを示しています。一村が丸ごと寺領であったことから、村や地区の名称は長らく「道明寺」を名乗ってきました。 氏子の人達としても「道明寺」の名は神社名から外すことはできなかったことでしょう。 ちなみに、○○寺という寺号が付く天満宮は、現在までの私の調査では全国でも5社しかありませんでした。その中で、単独の境内規模 や社殿、神社の由緒などを見ると、道明寺天満宮が随一だと思われます。そもそも、「寺」の付く神社名のほとんどが明治初期に消えてお り、全国でも現在15~20社程度のようです。道明寺天満宮のように習合していた寺の名を付けたものとは限らず、単に地名が付けられ たものや、八王子信仰の八王子神社が「八王寺」と改字したものなど、その由来は様々なようです。 ついでに紹介しておきます。京都・北野天満宮と並んで天満宮の総本宮とされる福岡の太宰府天満宮は、その昔「安楽寺天満宮」と呼ば れていた時期があったそうです。太宰府に左遷された菅原道真が当地で亡くなり、墓所となった所に祀廟が造られました。ここに後に「安 楽寺」が創建されます。神仏習合が一般化する中で安楽寺も神仏混淆(こんこう)となり、「安楽寺天満宮」とも呼ばれるようになりました。こ れが、室町時代以降に「太宰府天満宮」と呼ばれるようになったと伝わります。安楽寺は明治初期の神仏分離政策によって廃寺となり、そ の姿を消しました。以後、「安楽寺」という名称がここの天満宮で用いられることはありませんでした。 道明寺天満宮も太宰府天満宮と同じように、もともとは道明寺を中核とする神仏習合形態でした。明治初期に道明寺と分離して、一時は 「土師神社」となりましたが、神社の長い歴史から見ればほんのわずかな期間のことでした。寺号の付く天満宮の名は、今では珍しい存在 となりましたが、寺社一体の名称は千年を超える神仏習合の長い歴史を伝える貴重な証人であるとも言えるでしょう。 「道明寺」と「道明寺天満宮」-勘違いや間違いも 「道明寺」と「道明寺天満宮」という、昔から伝わる由緒ある名称ですが、どちらにも「道明寺」があることから、時として誤解や勘違 い、間違いが起こり、ちょっとした混乱を生じさせることがあります。元は神仏習合で一体だった寺社が二つに分かれたことを知っている 人でも、口頭でやり取りする中では勘違いすることがあります。そこで、地元の人々は昔からの知恵で、間違うことのないような言い方を 使い分けてきました。かつて私が道明寺小学校に勤務していた時、子どもたちもうまく使い分けている様子に「なるほど!」と思いました。 その使い分けとは、片や「尼寺」或いは「道明寺さん」、片や「天神さん」或いは「天満宮」、というものです。中でも、「道明寺」を 使わない「尼寺」と「天神さん」の組み合わせが最も確実で、間違いを起こさないものでした。どちらも藤井寺市内では1ヵ所しかないも ので、隣接地域にも無かったからです。道明寺地区を含む旧道明寺町地域では、どちらのことかすぐに通じました。 最近、ネットで掲示板などの書き込みを見ていてあることに気づきました。「道明寺」と「道明寺天満宮」の区別がついていない人がい るようだ、ということです。他の投稿者とかみ合っていない書き込みをたまに見かけます。内容は明らかに道明寺天満宮のことを言ってい るのに、投稿者自身は「道明寺」に行った話として書いているのです。「道明寺」は「道明寺天満宮」の省略形ぐらいに思っているのかも 知れません。或いは、「道明寺」という寺の名前が付いているので、ここは本来は寺なのだと認識しているのかも知れません。はたまた、 こういう人は道明寺に行ったことがなく、道明寺の存在そのものを知らない可能性もあります。最も残念に思うのは、そもそも寺と神社の 区別がついていない、という場合です。そこまでになると、もはや「何をか言わんや!」です。 |
四つの「道明寺」の名 「道明寺」と「道明寺天満宮」の間で起きる間違いを取り上 げましたが、現在、道明寺天満宮がある地域を巡っては、四つ の「道明寺」という言葉が存在しており、さらに勘違いや混乱 のもととなることがあります。それもこれも、道明寺や道明寺 天満宮の長い歴史があってのことだと思います。 まず挙げられるのは、当然ながら、「道明寺」「道明寺天満 宮」という寺院・神社に付く「道明寺」です。これだけでもよ く間違われるのですが、この二つの寺社が存在する地区の地名 も「道明寺」なのです。この地区は、近世までは丸ごと道明寺 の寺領であったことから「道明寺村」を称していました。明治 期以降の合併で村域が大きくなってからも、大字(おおあざ)として の地区名は現在まで変わらず「道明寺」でした。 |
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3) 道明寺天満宮拝殿と周辺の様子(南より) 2018(平成30)年3月 拝殿は、棟札から延享元(1744)年の建立と知られている。拝殿前には 毎年大きな干支の絵馬が掲げられる。左側建物は「能楽殿」。 |
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そこに、新たに誕生したのが「道明寺駅」で、1898(明治31)年のことでした。河陽鉄道が柏原-古市間を開業する時に設置されたのが道明 寺駅でした。「道明寺駅」という命名の由来は、「道明寺の近くにある駅」ではなく、「道明寺村の駅」であったと思われます。河陽鉄道が 開業した他の駅も、「柏原(かしわら)」「古市(ふるいち)」「富田林(とんだばやし)」「喜志(きし)」と、いずれも当時の町村名を付けているからです。つまり、 「道明寺」は本来は寺の名称なのに、地名としても使用されることがある、ということです。 1889(明治22)年以降、道明寺村は周辺のいくつかの村と合併しますが、その大きくなった村も「道明寺村」で、旧道明寺村は大字の「道明 寺」という地区名となりました。実は、道明寺駅ができた明治31年以降は、村名(町名)・地区名・寺名・神社名・駅名と、五つもの「道明寺」 が存在することになっていたのです。この状態は、旧道明寺町(昭和26年町制施行)が旧藤井寺町と合併するまで続きました。 |
道明寺天満宮の御祭神 道明寺天満宮の現在の祭神は、菅原道真公・天徳日命・覚寿尼公が配祀されています。明治期の国家神道の始まりと共に制定された近代 社格制度では、「郷社」の位置付けでした。戦後にこの社格制度は廃止され、現在では「旧郷社」と称されることもあります。郷社は、府 県社と村社の間に位置付けられた社格でしたが、これらの社格は神社を管理する国家から受ける待遇の差であって、氏子や参詣者などから 受ける崇敬の度合いとはまったく別のものです。 平凡社発行『日本歴史地名大系 大阪府の地名Ⅱ』(1986年刊)の「道明寺天満宮」の項にある記述の一部を要約して紹介しておきます。 |
『(前略)道明寺と道明寺天満宮は古代、当地(志紀郡土師郷)に集住した土師氏の氏寺(土師寺)・氏神(土師神社)の関係に発すると言われる が、土師神社については詳しいことはわからない。一説では天安2(858)年3月22日、従五位下を授けられた河内天夷鳥神(文徳実録)を土師 神社のこととするが不詳。土師氏の氏祖天穂日命を祀る社が古くよりあったと思われるが、近世にも道明寺境内に天満宮のほかに天穂日命 社があるので(国花万葉記・河内名所図会ほか)、天満宮は氏神とは別に祀られるようになったと考えられる。大和菅原(現奈良市)に集住す る土師氏出身の菅原道真が中央貴族として活躍していた頃、道明寺の住持は道真の姨覚寿尼であったと伝え、その関係から道真は度々道明 寺を訪れたという(「道明尼律寺記」社蔵)。道真の死後、京都北野天満宮に代表されるように、各地に道真を祀る社が建立されていくが、当 天満宮もその一つで道明寺の伽藍開基記(同蔵)に「有天神祠、此神(中略)天暦元年、始垂跡於京兆北野、其時設祠於当寺、蓋天神之姨娘、 居于此地、因以建之」とある。創祀以後天神信仰の盛行とともに当宮も衆庶の信仰を集めたと思われるが、道明寺と一体のものであり、天 満宮だけ切放した動きはわからない。なお当初の土師寺・土師神社(天穂日命神社)の関係から道明寺・道明寺天満宮の関係が主となってい く過程で、天穂日命社は境内社的位置に低下していったものと推測される。前述のように近世には道明寺境内に天満宮社殿とは別に天穂日 命社があるので、天穂日命の配祀は近代に入ってからのことであろう。(中略) 当天満宮の霊験譚・天神信仰は能「道明寺」に取上げられ、近世には浄瑠璃や歌舞伎の「菅原伝授手習鑑」道明寺の段で喧伝された。こ うして衆庶の信仰を集めた道明寺・道明寺天満宮では、寛延元(1748)年には「当寺天満宮御自作之尊像、来ル未之年八百五十年忌ニ相当り 申侯、依之右之尊像幷(並)神宝等(中略)当寺於境内開帳仕度奉願侯」という願書を大坂町奉行に出しており、開帳の年にはそれを知らせる 立札を大坂三郷の橋々に立てた(道明寺天満宮文書)。』 菅原道真公を祀る天満宮・天神社・土師社・北野社・菅原社などの神社は、全国に約1万2千社あるそうですが、生前の道真公が直接関 わりを持っていた場所は、京都の生誕地跡や旧居跡の神社、太宰府天満宮、道明寺天満宮など、ごく少数に限られます。その中でも、道明 寺天満宮の母体であった道明寺はもともと土師寺と土師神社であり、道真公の祖である土師氏の根拠地に創建されたものです。つまり、道 真公が都で活躍する以前から存在していて、しかも、道真公の姨・覚寿尼が住職をしていたという、たいへんつながりの深い寺院でした。 道真公の死後、道真公の怨霊を鎮めるために天神として祀る北野神社(現北野天満宮)が創建されました。現在1万2千社の総本社とされ る北野天満宮も、道真公の死後にできた神社なのです。北野天満宮と並んで有名な太宰府天満宮も、道真公の墓所に創建されたものです。 そもそも、道真公の生前に公が死後に神として祀られることなど想定されておらず、当然ながら天神・道真公を祀る神社などは存在するは ずもなかったのです。あったのは、道真公の祖である土師氏の氏神・土師神社を擁する土師寺(後の道明寺)だったのです。こうして見てく ると、道明寺天満宮の由緒がたいへん重みのあるものだということがわかります。 ![]() ![]() |
境内の様子 写真4)は、神門を入ってそのまま北へ向かって進む参道です。石畳の参道は途中で右寄りに折れ進んで、注連柱の間を通り拝殿へと向か って行きます。一方、石畳の左側に見える土の部分も1本の道のように見えます。総合結婚式場・天寿殿の塀に沿って真っ直ぐ続き、北の 方にある土師社や宝物館の前に至ります。これは、神仏分離の明治初期以前まで道明寺本堂に向かう参道だった所です。下の 38)図「河内 名所圖會」を見ると、右側に見える中門から左側の本堂までの様子がよくわかります。 39)図の境内図では、真上から見た位置関係を知る ことができます。天満宮拝殿に向かう参道は、当時から中門を入ったあと右斜めに折れ進んでいたことがわかります。 石畳の参道を注連柱の間を通って進んで行くと、写真5)・6)の場所を通ります。参道沿いには、例祭の日や花見のシーズンになると出店 が並びます。桜が満開の時期になると、桜のトンネルを通り抜けた眼前に拝殿が見える、という感じです。 |
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4) 社殿への参道(南より) 左側土面は旧道明寺参道跡 2018(平成30)年3月 |
5) 桜のトンネルとなった参道(南東より) 周辺には道明寺時代の石灯籠も並んでいる。 2018(平成30)年3月 |
6) 出店の並ぶ参道(南より) 左上には早くもモミジの新緑が一緒に見られる。 2013(平成25)年3月 |
写真 7) 8)は、道明寺天満宮本殿を裏側から撮った写真です。本殿自体も立派な造りですが、玉垣や石の扉も立派です。石の扉は、花崗 岩と見られる石の板に天満宮の紋である梅鉢紋と格子が透かし彫りにしてあります。しかも、実際に開閉できるように造られています。な かなか手間を掛けたものですが、石の色からすると比較的新しい感じと見受けられます。本殿は、元禄時代(1688~1703年)の頃に再建され たものを、元文5(1740)年から延享元(1744)年にかけての拝殿・幣殿再建時に改築して現状のような権現造(ごんげんづくり)としたものだそうです (『藤井寺市文化財 第6号 近世の建築』より)。 写真9)は拝殿の前に建っている能楽殿です。江戸時代後期の文化12(1815)年に創建されたもので、この能楽殿は大阪府下では最古のもの だそうです。能楽以外の様々な催しにも舞台として使用されています。舞台奧の老松の絵(鏡板と言うそうです)の製作者は上方浮世絵師の 五世長谷川貞信氏だそうです。 |
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7) 裏から見る本殿(北より) 2018(平成30)年3月 |
8) 本殿北側軒と裏門石扉 2013(平成25)年9月 |
9) 能楽殿(北西より) 2017(平成29)年3月 |
いろいろな境内社 道明寺天満宮の境内には、御本殿のほかにもいろいろな神社があります。一般に摂社・末社と呼ばれるものです。天満宮の総本社である 京都・北野天満宮などは、51もの摂社・末社があります。写真10)11)は、道明寺天満宮にとって大切な「土師社」です。名前の通り、土師 氏の氏神として祖先を祀った神社で、もともとのこの地の神社です。道明寺天満宮サイトでは、「道真公の薨後、天暦元(947)年に天満宮が 創建されるまで、土師社が本社でしたので、現在でも道明寺地区に住む人にとって氏神さまとしての信仰もされてます。ご祭神は天夷鳥命 (あめのひなとりのみこと)・野見宿祢(のみのすくね)・大国主命(おおくにぬしのみこと)の3柱です。」と説明されています。 写真12)は「八嶋(やしま)社」です。同サイトでは、「土師連(はじのむらじ)八嶋をお祀りしています。八嶋は推古天皇の3年に自宅を喜捨して土 師氏の氏寺である土師寺を建立します。その後土師氏は菅原氏や大江氏、秋篠氏にわかれ、土師寺も道明寺と名を改めます。つまり、道明 寺の前身である土師寺をつくった方をお祀りしています。」とあります。ついでながら、道明寺天満宮の神門下の道路を西へ300mほど行 くと、「八島塚古墳」があります。宮内庁によって「仲姫皇后陵ろ号陪冢」に治定されている一辺50mの方墳です。墳丘西側の周濠跡の濠 底からは、古代の巨石運搬用の木ぞり「修羅(しゅら)」が発見されています。土師連八嶋にちなむ伝承名ですが、関係性については不明です。 築造時期についても複数説があり、はっきりしていません。八島塚の西側にさらに2基の方墳が一列に並んでおり、総称して「三ツ塚古墳」 と呼ばれています。1基は仲姫(なかつひめ)皇后陵い号陪冢の「中山塚古墳」、もう1基は国史跡の「助太山(すけたやま)古墳」です。 |
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10) 土師社鳥居と拝殿(東より) 2013(平成25)年3月 | 11) 土師社本殿 2013(平成25)年3月 | 12) 八嶋社(南より)2017(平成29)年3月 |
写真 13)は「白太夫社(しらだゆうしゃ)」です。「菅原道真公が大宰府へ下向のとき、菅公のお伴をされた白太夫命をお祀りしています。」と天 満宮サイトでは説明されています。社のすぐ横には神木のクスの大木が立っています。おそらくは江戸中期からのものではないでしょうか。 道真公に関係する祭神なので、北野天満宮など他の天満宮でも白太夫社はみられます。 写真 14)は「和合(わごう)稲荷社」です。「商売の神様、和合稲荷大神をお祀りしています。毎年2月25日に午後2時より稲荷大祭を斎行し、 そのあと午後4時より福餅まきを行なっています。」と、同サイトで紹介されています。 これらの神社のほかにも境内には、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)を祀る「霊符(れいふ)社」、白蛇神といわれる白光大神(しらみつおおかみ)を祀る 「白光社」の社があります。 |
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13) 白太夫社(しらだゆうしゃ)(東より) 2017(平成29)年3月 | 14) 和合(わごう)稲荷社(南より) 2023(令和5)年8月 |
ちょっと珍しい施設 写真15)は、写真 4)の参道を進んだ所に見える注連 柱です。左右の石柱には立派な書蹟の文字が刻まれて います。菅原道真公を讃える文で、道真公の肖像画に ある対聯(ついれん 対句)だそうですが、「神化粛雍百世 長斯仰敬(右) 玄徳明美万邦咸致尊親(左)」と書かれ ています。時空を超えた道真公の感化の力を讃えた句 だそうで、読み方は、次のようになります。 「神化は粛雍(しゅくよう)にして 百世長く斯に(ここに)仰敬(ぎょうけい)す」 「玄徳は明美にして 万邦咸な(みな)尊親を致す」 |
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15) 参道に立つ石の注連柱(南より) 2015(平成27)年3月 注連柱の書蹟は、大阪の漢学者・藤澤南岳が書いたものである。 |
16) 右基の裏面 2012(平成24)年10月 |
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神化…不思議な感化 粛雍…つつしみ和らぐ 仰敬…あおぎうやまう 玄徳…眼に見えぬ徳 明美…明らかに輝かしく立派 万邦…万国 尊親…尊び親しむ |
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左基の裏側には、「明治四十五年壬子夏五月大阪敬神組献之」とあり、明治が終わる時に寄進されたものだとわかります。右基の裏側は この書蹟を残した人の名で、「藤澤南岳 書」とあります(写真16)。藤澤南岳(なんがく)は幕末に大坂で随一の大きな漢学塾を営んでいた儒学 者で、「通天閣」の命名をしたことでよく知られています。大阪市の旧清華小学校・旧集英小学校・旧愛日小学校などの命名もしています。 南岳は大正9年に没していますが、当時にあっては、大阪で大変有名な文化人に書を書いてもらったということになります。南岳は各地 に書蹟を残しており、大正元(1912)年(明治45年7月30日改元)の8月には津堂城山古墳(藤井寺市)にある津堂八幡神社の記念碑にも書蹟を残 しています。津堂八幡神社の現在の新しい社号標には、その記念碑の書蹟が生かされています。 ![]() 藤澤南岳と道明寺天満宮とは、ほかのことでもつながりがありました。境内の北西部、梅園の西側入口の横に「大成殿」という建物があ ります。普段は閉まっていて、一見してもどんな施設なのかよくわかりません。建物の姿も神社でよく見かけるような造りではありません。 この施設の誕生には藤澤南岳が深く関わっていました。少しばかり紹介しておきます。 |
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17) 大成殿 2023(令和5)年8月 神社には珍しい形である。写真の右手には 「孔子の木(くしのき)」と言われる「カイノキ (楷の木)」が立っている。 |
18) 扁額(藤澤南岳 筆) 関西大学サイト「泊園書院- ゆかりの地を旅する」より |
19) 藤澤南岳像 (古希祝いの記念写真) 関西大学サイト 「白園書院」より |
藤澤南岳が主宰した漢学塾は、父の藤澤東畡(とうがい)が創設した「泊園書院」で、関西大学のルーツの一つとなる私塾でした。大成殿につ いて関西大学サイト「泊園書院」では次のように紹介しています。 ![]() 『道明寺天満宮の大成殿(大阪府藤井寺市) 南岳は明治36年(1903)、当時土師(はじ)神社と呼ばれていた道明寺天満宮に宮司の南坊城良興 らの協力を得て、孔子像を奉祀する大成殿を作り、同年3月30日、第1回釈奠(せきてん、孔子の祭り)を行なった。 大成殿の設計者は帝室技芸員の9代目伊藤平左衛門。伊藤は寺社建築の設計監理で知られ、同宮には建築時の詳細な費用見積書も残され ている。この大成殿は現在に残る泊園関連の建築物としては唯一のものである。 奉祀される木造の孔子像はもと足利学校蔵と伝えられ、高松藩藩校講道館で長く祀られたのち、明治6年(1873)に南岳が譲り受けた由緒 あるもの。』 また、道明寺天満宮サイトでは、「釋奠」と大成殿について次のように述べています。 『せきてんとは、孔子及び顔回以下の十哲を祀る儀式です。江戸時代、高松松平藩の藩校に、その昔栃木の足利学校にあった、小野篁(おの のたかむら)作の孔子の木像が祀られていました。明治維新で藩校が廃止され、聖廟は破毀、聖像もまた散逸の運命にあったのを、儒者藤澤南岳 が払い下げを受け、その私塾泊園書院に安置し、そこで釋奠を行っていました。 明治36年に聖像を譲り受け、毎年5月の日曜日に祭典が執り行われています。当日は大成殿での午前10時の祭典に始まり、経書の講演、 煎茶席・抹茶席や書画等の抽籤、席上揮毫等がおこなわれます。 この大成殿は帝室技芸員であった9代目伊藤平左衛門の手によるものです。この前には、孔子の木とも言われる楷の木を植樹しています。 孔子廟はその名のとおり、孔子さんをお祀りする建物で、日本では聖堂や聖廟と呼ばれています。日本での釋奠は大宝元年(701)に大学寮 内の廟堂で行ったのが最初といわれています。道真公も釋奠のたびに詩を作られました。』 ※「楷の木(かいのき)」‥‥ ウルシ科カイノキ属の落葉高木。「孔子の木」「学問の木」とも言われる。「楷書」に由来するとされる。日本には大正時代に移入された。 |
そのほかの境内外のもの 道明寺天満宮の境内にはたいへん多くのものが存在します。特に石灯籠などの石造物は、道明寺時代からのものも多く、後にできた記念 碑なども合わせるとかなりの数に上ります。いくつかのものを紹介します。 写真 20)は「土師窯跡碑」で、神門前の階段を上りきった左側にあります。右隣には建碑の由来を記した碑も建てられています。天満宮 サイトには「我が国の陶業発祥の地として建碑された土師窯跡碑です。」と説明されています。左側面には「土師窯跡 昭和十七年十二月 八日 大阪陶磁器同業組合」とあり、太平洋戦争開戦1周年(1942年12月)の日の建碑寄進であったことがわかります。この場所に建てられ たのは、道明寺天満宮(当時は土師神社)のある国府台地の南側段差を利用して設けられた、古墳時代の埴輪窯跡が見つかっていたことによ ります。現在では、発掘調査によって道明寺天満宮門前から西の方に続く多くの窯跡列が確認されています。また、土師氏の祖とされる野 見宿祢が、土偶をもって殉死に代えることを奏上し、それが埴輪の起こりだと伝える日本書紀の記述もあり、土師氏の氏神社である土師神 社に建てられました。たくさんあった埴輪窯では、当時この地を根拠地としていた土師一族によって多くの埴輪が焼かれたことでしょう。 写真21)は「筆塚」です。天満宮サイトの説明では、「昭和34年に筆塚建碑会より奉納されました。当時の大阪の書道用品を扱っていた 方々が中心となって作られたのが筆塚建碑会です。現在でも毎年、4月25日に筆まつりを行っています。」とあります。日付・寄進者名は 「昭和三十四年四月廿五日 筆塚建碑会建之」の文字でわかります。右には36名の発起人名が刻まれた石標もあります。書道用品関係の人 々が天満宮に建立されたのは、祭神の菅原道真公が小野道風・空海と並ぶ「三書聖」とされていることに因むものでしょう。書の聖人と伝 えられる道真公ですが、残念ながら確実に道真公自筆とされる書蹟は一つも伝わってはおらず、どんな書風であったかは不明です。ただ、 道真公の遺筆と伝えられている書蹟が、いくつの神社などにあるようです。 |
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20) 土師窯跡碑(南東より) 右は由来記碑 2013(平成25)年3月 | 21) 筆塚(西より) 2014(平成26)年2月 | 22)明治天皇行在所記念碑 |
写真 22)は「明治天皇行在所(あんざいしょ)」を示す碑です。碑の側面には明治12年2月12日の建立日付がありますが、明治天皇が道明寺天満 宮に宿泊されたのは、ちょうど2年前の明治10(1877)年2月12日のことでした。前日の2月11日は当時は紀元節で、明治天皇は奈良県にあ る畝傍御陵(現橿原市・神武天皇陵)を参拝し、その後大阪府に入られました。政府高官をはじめ相当な人数の随伴者も宿泊するわけで、当 時の道明寺村では、この一行を迎えるために大がかりな準備が行われています。また、詳細な記録も残されています。藤井寺市史には、こ の行幸についての多くの史料(第九巻・史料編七)や記述(第二巻・通史編三近現代)が掲載されています。それらを見ると、村の人々が行幸 の一行を迎えるに当たって、大いに戸惑ったり、てんやわんやしたりする様子が目に浮かんできそうです。 この行幸は、明治10年1月22日~2月19日に行われた「京都並大和国行幸」で、神武天皇陵への即位の奉告と兵庫-京都間の鉄道開通式 への臨御が目的でした。1月22日東京-汽車-横浜-船-24日神戸泊-汽車-25日京都着・2月5日鉄道開通式-7日宇治泊-8日奈良泊-10日 日今井村(現橿原市)泊-11日畝傍御陵参拝・今井村泊-12日道明寺泊-13日堺泊-14~16日大阪泊-17日汽車-神戸-船-19日横浜、とい う行幸行程が、1月8日付で宮内卿・徳大寺実則から陸軍卿・山県有朋宛てに出されています。随行した供奉(ぐぶ)者はそうそうたる顔ぶれで 政府と宮中の中枢が天皇と共に移動して来たかのような様子です。主な人物を市史史料から以下に紹介してみます。 【 太政官(だじょうかん) 】 《 正院 》 太政大臣・三條実美 参議・伊藤博文 《宮内省》 従三位・木戸孝允 宮内卿・徳大寺実則 侍従長・東久世通禧 式部頭・坊城俊政 他 【 麝香(じゃこう)之間詰 】 議長・有栖川宮熾仁親王 二品(にほん)・山階宮晃親王 従一位・中山忠能(娘が明治天皇の生母 外祖父) 正二位・松平慶永(春嶽・旧福井藩主) 従二位・伊達宗城(旧宇和島藩主) 従二位・池田慶徳(旧鳥取藩主) 従三位・毛利元徳(旧山口藩主) 他 《 その他の供奉者・従者を合わせて 総勢140名余り 》 この顔ぶれを見ると、東京に残っていた政府の主要人物は、岩倉具視・大久保利通・山県有朋・井上馨などでしょうか。「明治6年の政 変」によって、西郷隆盛・板垣退助・大隈重信・後藤象二郎・江藤新平・副島種臣など多くの政府要人が東京を去っていた時期です。 明治天皇は土師神社に宿泊されて、他の供奉者・従者は道明寺や道明寺村・沢田村・国府村・林村の有力者宅に分散宿泊しています。余 談ですが、この行幸の最中に近世以降最大の内戦となった西南戦争が勃発し、2月15日に西郷軍が鹿児島を出発しています。一行が横浜に 着いた19日、明治政府は征討の勅を出して西郷軍征討に乗り出しました。征討軍に権威と正当性を持たせるためでしょうか、戊辰戦争で 東征大総督を務めた有栖川宮熾仁親王を鹿児島県逆徒征討総督(総司令官)に任命しています。つまり、有栖川宮は約1ヶ月の行幸供奉から 帰着したとたんに征討総督の任に就き、九州へ向かうということになったわけです。行幸供奉直後の長期の軍事出動となってしまいました。 |
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23) 神牛(なで牛)(西より) 2020(令和2)年2月 |
24) 夏水(げすいの)井(南より) 2017(平成29)年3月 |
25) 西宮の「もくげんじゅ」(東より) 2016(平成28)年7月 |
写真 23)は「神牛」と呼ばれる牛の像です。説明板には「撫で牛」と書かれています。各地の天満宮に行くと、必ずと言ってよいほど神 牛の像が見られます。しかも、みな地面に臥せている牛の姿です。これも、やはり道真公に関わる由来であるためです。天満宮サイトの説 明を紹介します。「牛は、天神さま・菅原道真公のお使いの動物として信仰されています。これは、道真公が丑年の丑の刻に誕生されたた め、とか大宰府で道真公が亡くなられたときご遺骸を運ぶ牛車の牛が動かなくなり、その地をご墓所とした、ということに由来していると 考えられています。さらに、道明寺の地では、道真公がおば様である覚寿尼公に別れを告げに道明寺の地に立ち寄られたとき、(藤原)時平 の刺客が道真公を襲おうとしたときに、白牛が助けた、ということから白牛が道明寺では信仰されています。」。現在、天満宮には複数の 神牛が献納されており、写真の牛像などは絶えず撫でられて頭がピカピカの銅色に輝いています。 写真 24)は、境内南側の道路沿いの法面にある「夏水(げすいの)井」です。天満宮サイトでは次のように説明されています。「菅原道真公が 40才のときに4月から7月まで当地にご滞在され、この井戸から水を汲み、青白磁円硯(写真29)により、五部の大乗経を写されました。 その経塚から胚芽が経巻の形をしたもくげんじゅ(写真25)が生え、謡曲「道明寺」にも謡われるようになりました。その時に汲まれた井戸 が現在でも境内の南に残っています。」。 写真 25)は、境内を出て神門から130mほど歩いた所の、別宮である西宮の境内に立つ「もくげんじゅ」です。西宮は三社神祠とも言い 江戸時代には旧道明寺の境内の一部でした。 38)絵図や 39)境内図にも描かれています。写真で後方中央に立つ木が木げん樹です。左側が 西宮の拝殿です。天満宮サイトの説明を紹介します。「元慶8(884)年の夏、菅原道真公が当宮に滞在され、五部の大乗経を書写されました。 その時、その大乗経を埋納する地を示したのが、伊勢・春日・八幡三神の化身であり、ここに神殿をつくってお祀りしたのが西宮で、三社 神祠ともいいます。普段は施錠いたしておりますので、ご見学の際はご連絡ください。 その経塚から生えた木を「もくげんじゅ」といいます。その種子で数珠を作り、念仏を唱えると、極楽往生できるというのが、謡曲「道 明寺」に謡われています。現在、「もくげんじゅ」は大阪府の天然記念物に指定されています。「もくげんじゅ」は6月中旬頃から咲き始 め、下旬には満開を迎えます。」。写真は7月ですが、まだ花が残っています。近くでは古代道明寺の塔礎石を見ることもできます。 |
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道明寺天満宮の宝物 《 国宝・菅公遺品 》
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30) 国宝・銀装革帯(ぎんそうかくたい) | ||||||||||||
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31) 国宝・玳瑁装牙櫛(たいまいそうげのくし) |
道明寺天満宮には数々の宝物があり、多くが写真32)の宝物館に収蔵・展示されています。中でも、上の26)~31)の6点は国宝に指定され ている有名な「菅公遺品」です。宝物館は明治35(1902)年、菅原道真公千年祭の記念事業として建てられました。開館の時期や日が限定さ れていますので、見学を予定される場合は道明寺天満宮サイトで確認してください。 ![]() 道明寺天満宮サイトで述べられているそれぞれの宝物の説明を以下に掲げておきます。 ◆伯牙弾琴鏡 鋳銅製の八花形の鏡。左側には琴を弾く中国古代の名手伯牙(春秋時代の琴の名手)と机、右側には羽を広げて飛ぼう とする鳳凰を鋳しています。最近の研究では、伯牙と特定できない、ということで、「高士弾琴鏡」ともいわれます。 ◆牙 笏 象牙製の笏。道真公の時代には、五位以上の人のみ牙笏を使用できました。因みに、道真公は、生前は正二位右大臣 まで昇られました。平安時代の牙笏は全国にも6枚しか残っておらず、その中でも使用された人物が特定されるのは、 この牙笏だけです。 ◆犀角柄刀子 犀(動物のサイ)の角で柄を造ってある刀子。柄の縁は銀金具で飾ってあります。このような刀子は、正倉院や法隆寺 などに伝わっていますが、平安朝期の珍しいものです。この刀子は、道真公がご自分のお姿を荒木に刻まれたときに使 われたものとして伝わっています。 ◆青白磁円硯 現在の分類では、青白磁ではなく、白磁に入りますので、「白磁円硯」ともいわれます。中央をややくぼませ、周囲 に池を設けた円形の硯(すずり)。20個の脚で支える形式でしたが、脚部は欠損しています。欠損は道真公が使用されるよ り以前ではないかと思われますので、道真公が使用されたのも現在の形だったと考えられます。この時代のこの大きさ の硯は他に例はありません。器体は、青みを帯びた白釉の磁質で、硯面は地肌としています。唐舶載。実際に目にする と、想像より大きいものです。 ◆銀装革帯 麻の搓糸(さしいと)を芯に入れ、2枚の革を縫い合わせたバンド。金メッキの上に銀メッキされた巡方(じゅんぽう)が15個あ り、実際にレプリカがありますが非常に長いものです。 ( 巡方…役人のベルトに付ける帯飾りの一種で正方形 ) ◆玳瑁装牙櫛 前髪を飾る象牙製の爪櫛です。棟に7個の花形を彫り、朱を敷いて玳瑁(べっ甲)をすかしています。櫛の部分がひと つも欠けずに残っています。 道明寺天満宮にはそのほかにも、「織田信長朱印状(天正3年11月9日)」「豊臣秀吉朱印状(文禄3年12月2日)」や道明寺寺中・寺領・道明 寺村関係などの文書も多数所蔵されています。また、旧石器時代遺蹟である国府(こう)遺跡の出土品の一部も所蔵されています。 |
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32) 宝物館(東より) 2014(平成26)年2月25日 | 33) 総合結婚式場・天寿殿(南東より) 2017(平成29)年4月 |
写真 33)は、「天寿殿」という建物で、挙式から披露宴までできる総合結婚式場として運営されています。また、地域の人々には宴会や 会議の会場としても利用されています。下の写真 35)は昭和初期の道明寺天満宮(当時は土師神社)です。これを見ると現在の天寿殿と同じ ような建物が見えますが、現在の建物の方が大きいようで屋根の形状も異なるので、新たに建てられたものと思われます。境内に存在する 最も大きい建物です。 |
変わってきた境内と周辺の様子-昭和初期と現在 写真 34)は、2020年撮影のGoogleErarthの衛星写真を3D機能を使って疑似鳥瞰写真に加工したものです。写真 35)と比較するために作 りました。写真 35)は昭和初期のものなので、90年ほど前ということになります。道明寺天満宮の周りの様子がすっかり変わってしまって います。道明寺天満宮も昔はもっと木々の繁った森であったことがわかります。特に、境内東側の大きな森が今は住宅地街に変わっている のが目立ちます。現地で見るとわかりますが、この住宅地に変わった部分は、現在の境内地よりも一段低い土地となっています。境内地は その東側部分よりも高い台地上にあります。国府(こう)台地と呼ばれる地形です。この辺りから北方の国府遺跡分布地帯にかけて低地性の台 地になっており、この台地上には古墳時代に多くの大小古墳が造られてきました。現在の道明寺天満宮境内は、江戸時代の道明寺であった とき、石川の氾濫による洪水で境内が流されたために台地上に移転されたものです。 戦後の昭和40(1965)年頃に、天満宮の神門前から東の近鉄道明寺駅まで直接つながる新しい道路が造られます。現在の道明寺駅前商店街 の通りです。これによって、天満宮や道明寺に参拝に行く人々にとっては随分と近道になりました。それまでは、天満宮からから道明寺駅 へ行くには、神門から南へ旧参道を進み、地区会館の所を東に折れて近鉄線の踏切前まで行き、北へ曲がって駅に着く、という回り道しか なかったのです。現在の府道189号のルートで、この府道名は「府道道明寺停車場線」です。「これが府道?!」と驚くような狭い部分も あり、わずか600mほどの短い道路ですが、主要駅から有名神社・古刹につながる道路として府道に指定されています。大阪府内には、似 たような条件で認定された「○○停車場線」という名称の府道がほかにもたくさんあります。ちなみに、道明寺駅は南隣りの古市駅ととも に、286ある近鉄全線の駅の中で最古の歴史を持つ駅です。 一方、道明寺天満宮や道明寺の西の方には、東高野街道のバイパスとして産業道路(府道柏原富田林線・現国道旧170号)が開通しました。 昭和13(1938)年のことです。大阪の商工業が発展してきた中で、自動車輸送の拡大に対応させる必要がありました。文字通り産業に資する 道路だったのです。 ![]() |
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34) 道明寺天満宮周辺の疑似鳥瞰写真(南東より) 〔GoogleErarth・3D画 2020(令和2)年〕より 文字入れ等一部加工 |
35) 昭和初期 今の境内の東側に広い森の在ったことがわかる。 現国道旧170号がまだできていないので、昭和13年以前と思われる。 |
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江戸時代の境内の様子-「道明寺」だった頃 38)図は、享和元(1801)年に刊行された『河内名所圖會(かわちめいしょずえ)』の中の「道明寺」の絵図です。左右がそれぞれ2ページの見開きで 全部で4ページの構成です。グラフィック加工で合成しました。江戸時代の後半の様子で、明治期に近い様子を知ることができます。 全体的な状況は現在とも多くが共通していますが、最も大きな違いは、当時はこの境内のすべてが「道明寺」であったということです。 絵図の標題も「道明寺」となっています。左ページ絵図中の「本社」が現在の現在の道明寺天満宮本殿と拝殿です。当時は神仏習合の形態 であり、道明寺と天満社とが一体のものとして存在していたことは上で既述した通りです。このような習合形態は当時は普通のことで、全 国各地で見られたものです。ただ、絵図のように本堂と本社が境内の中央に並んで建っている姿は珍しいと思います。明治期に入ってから 神仏分離政策によってすべての仏教的なものは境内から消えていき、完全な神社へと変わりました。 河内名所圖會には、絵図とは別に道明寺の由来やまつわる話、知られているもの、名物などが本文として書かれています。原本の文字を 読むのは難しいので、下記にあるように復刻本では活字印刷で掲載されています。 |
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38)「河内名所圖會」〔享和元(1801)年〕掲載 道明寺境内全景(南西より見た方向) 面積や長さの比率が実際とは異なり、高台の上が広く強調して描かれている。 左右2ページずつ、全4ページを合成して一部を加工。赤文字は絵図中の文字を示す。青文字は筆者による加筆。 |
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下の 39)図は、寛政3(1791)年に作成された道明寺の境内図です。『藤井寺市史第五巻史料編三』掲載の史料「境内諸堂建物間数書」に 添えられた図ですが、市史では絵図を線画に描き直した「読み取り図」が載っています。文字が絵図のままの向きで読みづらいので、すべ て天地揃えに入れ直しました。また、見やすいように一部を彩色してあります。この図では、題名のとおり「境内諸堂建物」が表示されて おり、河内名所圖會にはない境内建物の種別や名称もわかります。「境内諸堂建物間数書」は、境内を構成する建物・施設の配置とそれぞ れの規模・面積を文書と絵図で寺社奉行に提出したもので、河内名所圖會発刊のちょうど10年前のことです。 本体文書には、石高や境内の総面積のほか、36の堂宇・社殿・塔頭(たっちゅう)・僧坊が列記されており、それぞれの間口・奥行と坪数が書か れています。最初の2行には「一 御朱印高百七拾四石弐斗」「一 境内惣坪数六千三百八十四坪七分六厘 拝領地」とあります。境内総 面積は約21,070㎡(約2.1ha)あったことになります。この数値は戦後間もない時期の地図等から概算される面積よりもかなり少ないので、 図の中で示されている「森」などを除いた面積ではないかと思われます。 |
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39) 道明寺文書の図面で見る道明寺境内 〔寛政3(1791)年1月 寺社奉行所宛の『絵図間数書』より〕 (『藤井寺市史第五巻史料編三』掲載史料「境内諸堂建物間数書」の絵図より) 市史掲載の図を基に複製作図。文字は市史原図と同じ位置に打ち直し、一部は拡大。市史原図では文字の向きが絵図と同じ になっていて読みにくいため、すべて天地揃えに直した。境内の様子がわかりやすいように一部を彩色加工。 「表門」は、図 38)にある「南大門」、「池」は「蓮池」を示す。 色凡例は次の通り。 【 ■…堂宇・社殿・門等の建造物 ■…塔頭・僧坊 ■…森・林 ■…水路・池 】 |
明治初期の神仏分離-道明寺から土師神社へ 39)の境内図にある塔頭・僧坊の内、隆松院・東福院・新光院は、前年の寛政2年2月に奉行所に提出された『寺内人別書』(「藤井寺市史同 編」)では、「無住」となっており、また、得宝院は三井家の造った隠居所みたいなものだったので、実質的なものは一之室・二之室・三之室 ・松寿院・梅香院だったようです。明治初期の神仏分離が行われた時点でも、ほぼ同じような体制だったと思われます。 (塔頭・僧坊の詳しいことについては、当サイトの「道明寺」に掲載。 ![]() 既述の通り、明治初年に神仏判然令が出され、その後の数年間に全国で神仏分離が進められました。道明寺でも明治5(1872)年に神仏分 離が実行されました。三之室と松寿院が境内地を移して道明寺を継ぐことを認められ、それまでの境内地の西方に新境内を開いて今日に至 っています。本社(天満宮)の方は一之室(むろ)・二之室が継いで「土師神社」となり、梅香院はそのときに廃されました。 『大阪府の地名』(平凡社「日本歴史地名大系」 1986年)の「道明寺天満宮」の項では、寺社分離による本社継承の経過を次のように述べて います。『明治5年(1872)神仏分離が断行され、道明寺一之室・二之室の住持が復飾して神職家となり天満宮を継いだ(神仏分離史料)。天 満宮の主体となった二之室の当時の住持は公家(従一位)坊城俊明の八女愛媛(得度して春寿尼)であったが、復飾して南坊城梓を称した。翌 年には公家(贈正三位・参議)高倉永祐の次男良興(南坊城梓の甥)が同家に入り、以後南坊城家が代々宮司を務めている。(後略)』 土師神社の初代宮司は、元春寿尼の南坊城梓氏という女性であったことがわかります。2代目良興氏からは男性ですが、2022年現在では 宮司は5代目となっていて、南坊城光興氏が務めておられます。 良興氏の父・高倉永祐氏は、戊辰戦争で北陸道鎮撫総督兼会津征討総督を務め会津で戦病死しました。官位は従三位でしたが、戦死後に 贈正三位・贈参議に叙せられています。良興氏の母初子氏は坊城俊明氏の娘で、南坊城梓氏と姉妹です。良興氏の兄で高倉家を継いだ高倉 永則氏は陸軍歩兵大佐となり、子爵に叙せられて貴族院議員を務めました。“明治維新”は、公家の当主や子女たちの運命をも変える出来 事だったのです。 |
右の写真40)・41)は、江戸時代に道明寺に献納された石灯籠に見られる文字 です。現在も道明寺天満宮の境内に安置されています。 「取次 二之室」「取次 梅香院」の文字で、それぞれどの塔頭・僧坊を窓 口として寄進されたのかを知ることができます。他にも「三之室」「松寿院」 の文字の見られる石灯籠もあります。これらの文字の入った石灯籠は境内のあ ちこちにあり、その名の塔頭・僧坊が存在していたことを実感させてくれます。 参拝に行かれたら探してみてください。 三之室・松寿院は道明寺を継いだので、それらの文字が入った石灯籠は道明 寺に在ってもよさそうなのですが、寺社分離の時に何らかの経過があったのか も知れません。新しい境内に移って堂宇の整備をしなければならなかった道明 寺としては、石灯籠どころではなかったのかも知れません。いずれにしても、 |
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40) 「取次 二之室」「元文3(1738) 年1月」 2014(平成26)年4月 |
41) 「取次 梅香院」 2017(平成29)年3月 |
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道明寺に献納された石灯籠が今でも道明寺天満宮に建っているという事実が、この神社の歴史的経過を、また、古くからの道明寺との関わ りを示してくれています。 |
道明寺天満宮と梅の花-例祭「梅花祭」・梅園 | ||
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左の紋は、道明寺天満宮サイトで使用されている「梅鉢紋」で、道明寺天満宮の神紋です。これでわかるように、道明寺天満 宮は「梅」と深いつながりがあります。デザインの仕方に違いはありますが、全国の天満宮のほとんどが同様に梅鉢を神紋とし ています。天満宮の御祭神・菅原道真公と梅の花に深いゆかりがあったからです。 |
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延喜元(901)年、右大臣であった道真公は左大臣・藤原時平の策謀により、突然九州の大宰府へ左遷されました。都の屋敷を離れるに当た って、日頃から梅の花をこよなく愛していた道真公が、屋敷の梅の木との別れを惜しんで詠んだと言われる歌が、『東風(こち)吹かば にほひ (匂い)をこせよ梅の花 あるじなしとて 春を忘るな(春なわすれそ)』です。道真公を慕う梅の木は、公の後を追いたい気持ちが強いあま り、一夜のうちに大宰府の地に飛んで行った、という伝説があります。その梅の木は「飛梅(とびうめ)」と呼ばれて、現在の太宰府天満宮の神木 となっています。もちろん梅の木が飛ぶはずはなく、実際には家臣の一人が株分けの苗木を植えたとか、都の旧邸からひそかに持ち出した苗 木を届けてくれた人がいたとか、伝説の続編のような諸説が言い伝えられています。ちなみに飛梅は、樹齢千年を超えるとされる白梅で、社 殿前の脇に植えられています。伝説はともかく、立派な梅の木であることには違いありません。 ![]() 「東風吹かば…」の歌と「飛梅伝説」によって、梅は道真公と深いゆかりのある木として伝えられてきましたが、実は道真公が好んだの は梅の木だけではありません。同様に桜や松の木も愛していたと伝えられます。飛梅伝説では、桜の木は道真公との別離を悲しんで枯れて しまい、松の木は梅の木と一緒に飛んだものの、途中で力尽きて摂津国の地(現神戸市)に降り立って根を下ろしたそうです。つまり、大宰 府まで飛びきったのは梅の木だけで、それだけ道真公を慕う気持ちが強かったとされ、道真公との深いつながりが強調されました。「飛梅 伝説」は、偉人の伝記・伝説には付きものの“後付け伝説”の域を出ませんが、道真公が梅の木にさえこれだけ慕われる人徳高い人であっ たことを、より強調するものとして成立したと思われます。道真公が梅を愛したことの強調ならば、もっとふさわしいエピソードがほかに あったことでしょう。道真公が自ら梅の木を植えた、などの伝説ではないことが、それを裏付けているように感じさせます。 |
道真公と梅の木の伝説や和歌にちなんで、道明寺天満宮でも多くの梅の木が植 えられています。本殿の北側には広い梅園が造られており、天満宮サイトによれ ば、約80種800本の梅の木が植えられているそうです。道明寺天満宮梅園は大 阪府内でも有数の存在で、シーズンになると新聞に掲載される「梅だより」で、 大阪天満宮や万博記念公園、大阪城梅林などと並んで道明寺天満宮も毎年掲載さ れています。この梅園は「大阪みどりの百選」にも選ばれているそうで、毎年2 月~3月にかけて「梅まつり」が開催されています。梅まつりの期間中には、道 真公の命日である2月25日に「梅花祭」が行われます。この梅花祭が道明寺天満 宮の例祭です。ちなみに、藤井寺市の「市の木」も、「梅」に定められています。 なお、道明寺天満宮では桜の木も多く、例年3月25日の「菜種御供(なたねごくう)大 祭」が終わると開花が始まって、4月初旬には満開を迎えて多くの花見客で賑わ います。藤井寺市内では桜名所の一つです。 |
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42) 梅花祭(毎年2月25日) 2020(令和2)年2月25日 拝殿前で神事が行われている。 |
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下に、満開となった梅園の様子を紹介します。 ![]() |
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43) 梅園の様子(石橋より南東を眺める) 右上は背面から見た本殿 2022(令和4)年3月 |
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44) 梅園の様子(石橋より北を眺める) 2022(令和4)年3月 | 45) 梅園の様子(通路より南を眺める) 2022(令和4)年3月 | |
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46) 梅園の様子(通路より西を眺める) 2022(令和4)年3月 | 47) 梅まつり期間中に開かれる盆梅展 2022(令和4)年3月 |
いろいろな祭事と催し 梅花祭のほかにも、道明寺天満宮ではいろいろな祭事や催しが行われています。うそかえ祭(初天神)や菜種御供(なたねごくう)大祭、天神まつ りなどの様子を紹介します。 |
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48) 初天神うそかえ祭(毎年1月25日) 境内いっぱいの大勢の人で賑わう 2014(平成26)年1月25日 |
49) 菜種御供大祭(毎年3月25日)の稚児行列 2019(平成31)年3月25日 |
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50) 梅花祭では植木市も並ぶ 2014(平成26)年2月25日 | 51) 毎月25日の骨董市(南東より) 2014年2月25日 |
うそかえ祭は、毎年1月25日に行われます。天満宮や天神社で行われる1月25日の祭事を、一般に「初天神」と言いますが、道明寺天満 宮では「初天神うそかえ祭」と称しています。お正月気分もおさまってきた頃ですが、うそかえ祭は毎年多くの人々で賑わいます。特に休 日と重なった年などは多くの子どもも加わって大賑わいです。天満宮サイトでは、うそかえ祭について、『道真公が無実の罪で大宰府に左 遷され、任地に到着された翌年1月7日、神事をされている時に、寒中なのに無数の蜂が襲来して参拝者を悩ませました。そこに一群のう そ鳥が飛来し、蜂を食い尽くして人々を救いました。このことから、当宮では毎年1月25日の初天神の日に、身替災難除けとして「うそか え祭」を行い、神職が1年がかりで奉製した手彫りの「うそ鳥」を授与しています。』と説明されています。午前と午後の2回行われます が、その手順は次のようなものです。『①ご参加の方は、その時間までにお参りし、列にお並びください。②時間になりましたら、順番に お配りいたします。③配られましたら、「替えましょう、替えましょう」と言ってどんどん交換してください。④太鼓の合図で、袋を開封 してください。⑤「金」と書かれていたら18金の、「銀」と書かれていたら純銀の、「木」と書かれていたら三寸の木製のうそ鳥と交換に なります。書かれていないものも身替り災難除けの御守です。』 菜種御供大祭は、毎年3月25日に行われます。この大祭の由緒について天満宮サイトでは次のように書かれています。『左遷の詔(みことの り)を受けて大宰府へ向かう途次、道真公は当地に立ち寄られましたが、辺り一面には菜の花が咲いていました。大宰府下向の後、おば君であ る覚寿尼(かくじゅに)公は毎日陰膳を据えていましたが、その飯を粉にし、梅の実の形にした黄色の団子をこしらえたところ、病気平癒の効があ るとして、参拝者がこぞって求めました。これが河内の春を告げる神事となり、「河内の春ごと」として親しまれています。当日は午後1 時から稚児行列が行われ、写真のように菜の花をお供えします。また前日の24日から26日まで菜種色の団子を授与しています。』 |
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52) 天神祭 2016(平成28)年7月25日 | 53) 天神祭・鳳輦(ほうれん) 2013(平成25)年7月25日 | 54) 天神祭 2013(平成25)年7月25日 | ||
写真52)~55)は、毎年7月25日に行われる「天神まつり」の様子です。24日には宵宮も行 われます。天満宮サイトの説明では、『活動の季節を迎え、無病息災・五穀豊穣・家業繁栄を 祈っての夏まつりです。町内をはじめ近隣こぞって参加し、当日は鳳輦・子供みこし・花車が 巡行します。前日の24日が宵宮で、両日ともに夜は奉納河内音頭で賑わいます。』となってい ます。梅雨明けの暑い時期ですが、夏休みになっているので子どもたちも大勢参加します。大 阪では天神祭と言えば、日本三大祭の一つと言われる大阪天満宮の祭が有名ですが、全国の天 満宮や天神社で天神祭は行われます。 鳳輦(ほうれん)…屋根上に金色の鳳凰(ほうおう)の飾りをつけた輿(こし) 下の写真 56)は、毎年1月15日に行われる「左義長(さぎちょう)」の様子です。左義長とは、も ともと宮中や公家で1月15日の朝に悪魔払いに行ったものが起源と言われており、広く民間行 事としても行われるようになったものです。ある事典では『小正月を中心に行われる火祭り。 正月の松飾りを各戸から集めて、14日の晩方ないしは15日の朝にそれを焼くのが一般的な方 式である。社寺の境内、道祖神のそばや河原などで行われる。』とあります。 |
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55) 天神祭 2013(平成25)年7月25日 |
「どんど焼き」とか「とんどさん」など、地方によって様々な呼び名が伝承 されています。昨今、野焼きの弊害が問題視されるようになり、この行事が姿 を消した地域も少なくないようですが、藤井寺市内の各地区の状況を見ると、 継続されている度合いは高いようです。ただ、1月15日が固定祝日ではなくな ったので、そこに近い日曜日などに行われるように変わっています。 道明寺天満宮では古来の神事の一つという性格から、曜日に関係なく1月15 日の早朝に実施されています。天満宮サイトには『左義長とは、小正月の火焚 祭(ひたきさい)をいい、一年の災厄をあらかじめ祓(はら)っておくために、1月15日の 早朝より行います。当地では「とんど」ともいわれます。一年間お世話になっ たお札やお守りを焼納し、またお正月の注連(しめ)飾りなども焼納します。最近の ダイオキシン問題にも配慮して行われています。早朝6時の点火にも多くの参 拝があり、小豆粥(あずきがゆ)が振舞われます。』とあります。また、実施の日につ |
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56) 左義長(毎年1月15日) 2014(平成26)年1月15日 | ||
いては、『15日は祝日でなくなりましたが、もともとは小正月の祝日でしたので、小正月の行事であります左義長の日程は変更せず、平日 でも1月15日に行います。』とあります。写真のように、まだ真っ暗な早朝から多くの地域の人たちが集まっていました。 |
珍しい展示物-復元された「修羅(しゅら)」 道明寺天満宮には、ちょっと変わった展示物があります。下の写真 57)は、復元製作された「修羅」と呼ばれる巨石運搬用の古代の木ぞ りです。一見、神社とは直接結び付かないような感じですが、これも道明寺天満宮の旧身である土師寺・土師神社とのつながりが考えられ、 展示場所もあるということで、ここに展示されるようになりました。どんなつながりでしょうか。 |
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土師寺や土師神社をこの地に創建した土師氏の祖は、野見縮禰(のみのすくね)とさ れます。日本書紀の記述によれば野見縮禰は土偶をもって殉死に代えることを 奏上し、それが埴輪の起こりだと伝えられます。これにより野見の一族は「土 師」の姓を授けられて、古墳造りなどの葬儀を扱うようになったそうです。復 元のモデルとなった「修羅」は道明寺天満宮の近くに在る古墳の周濠跡から発 見されており、この周辺にある数々の古墳の築造に携わった土師氏が、この修 羅による巨石の運搬にも関わっていたものと考えられています。つまり、菅原 道真公の祖先である土師氏が、古墳造りの仕事でこの近辺でこの修羅を使って いたのではないか、ということです。 「修羅」は、道明寺天満宮の西方約300mに在る通称「三ツ塚古墳」から出 土しました。東西に並んだ三つの方墳を総称して三ツ塚古墳と言いますが、1 基ずつに古墳名があります。1978(昭和53)年、東側の八島塚古墳と真ん中の中 |
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57) 復元「修羅」(前から) 2017(平成29)年3月 | ||
中山塚古墳の間にある周濠跡の発掘調査が行われ、埋められていた周濠の底から修羅が発見されたのです。調査を行った大阪府教育委員会 が4月5日に発表すると、修羅発見のニュースは考古学上の大発見として全国を駆け巡り、大きな注目を集めました。4月15日(土)の現地 説明会では、修羅を見ようと全国から集まった1万2千人もの見学者が長蛇の列をつくり、その時の様子は、いまだに語りぐさとなってい ます。 修羅発見が古代史上の大きな話題となると、この年の秋、朝日新聞社が厚生文化事業として修羅の復元に取り組み、それを使って実際の 牽引実験を行いました。発掘した修羅に近いものを目指して、徳之島から探し出したカシの大木を使い、形や綱を通す穴も本物そっくりに 造られました。牽引実験は、藤井寺市の東部を流れる石川の河川敷で9月3日に行われました。多くの市民や中学生、自衛隊員など約400 人が牽引の人手として協力し、実際に14トンもある花崗岩を乗せて綱で曳く実験が行われました。約5千人もの見物者が訪れ、堤防から実 験を見守りました。この事業の経過は朝日新聞紙上でも連載記事で報告され、後に「修羅」という単行本にまとめられて、翌1979年11月に 朝日新聞社から出版されています。この時の復元修羅が後に藤井寺市に寄贈されました。保管展示場所として道明寺天満宮に委嘱され、写 真のように境内の一角に保管展示されています。 ![]() ![]() 出土した実物の修羅は元興寺文化財研究所(奈良県生駒市)で14年にも及ぶ保存処理が行われ、現在は大阪府立「風土記の丘」に建設され た古墳時代中心の博物館「大阪府立近つ飛鳥博物館(大阪府河南町)」に展示されています。また、同時に発見された小型修羅は、一足先に 保存処理を終えて、藤井寺市立図書館の古代史展示コーナーに展示されました。 ![]() |
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神になった人-菅原道真 図①は、かつて私も勤務したことのある藤井寺市立道明寺小学校の校歌1番の歌 詞です。いつ頃できた校歌なのか、私もついにわからずじまいだったのですが、学 校の歴史も古いので、歌詞の内容からみて戦前の早い時期だったのではないかと思 われます。道明寺小学校は明治6(1873)年の創立(当時は河内二十四番小学)で、校 区分離の昭和42(1967)年になるまでの95年間、旧道明寺町(旧道明寺村)域全体を 校区としてきました。道明寺天満宮や道明寺のある旧々道明寺村もまるごと校区内 でした。そんな地域に存在した学校なので、道真が祀られた“天神さん”は子ども たちにとっても身近な存在でした。何百年前の昔から「学問の神様」として信仰を 集めてきた天神様がすぐ近くの神社に祀られていて、しかも、周辺の地域は道真の 先祖・土師氏が根拠地とした場所で、「土師の里」とも呼ばれてきました。まさに そんな地域を表した歌詞と言ってよいでしょう。 ところで、菅原道真がどうして「天神」として祀られたのか、その概要を振り返 ってみたいと思います。現在では、「天神」と言えば神として祀られた菅原道真を 指すのが一般的ですが、本来は違うものでした。もちろん、道真以前の時代には、 「天神」は道真を指すものではありませんでした。「天神地祇(てんじんちぎ)」という天 と地のすべての神々を表す言葉がありますが、本来の「天神」はこの天神を意味し ていました。天神地祇とは「天つ神」と「国つ神」のことで、天つ神は高天原(たかまのはら) |
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① 道明寺小学校 校歌(1番) |
②『束帯天神像』(中央部分) 伝・藤原信実筆 北野天満宮蔵 |
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に天降った神の総称です。国つ神は、初めから葦原中国に誕生した土着の国土の神の総称です。この「天つ神」と菅原道真が結び付いた背 景には、道真の生前の生い立ちや家系、道真の地位や仕事をめぐる複雑な歴史があります。 写真②は、南北朝~室町時代の絵師・藤原信実作と伝えられる菅原道真の肖像画として有名な『束帯天神像』です。『根本御影』と称さ れ、所蔵する北野天満宮では最も重んじられている天神画像だそうです。写真の無い時代なので、似ているのかどうかは何とも言えません が、この北野天満宮は一般に全国の天満宮・天神社などの総本社とされています。道真を祀った天神信仰の出発点となった神社ですが、そ もそも道真が祀られた背景には「怨霊信仰」というものがあり、怨霊信仰の枠組みの上に成立していったのが「天神信仰」でした。 |
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土師氏から菅原氏へ 菅原氏は野見縮禰を祖とする一族で、古くには「土師」氏でした。野見縮禰は、日本書紀などであちこちに名 前が出てくる有名人ですが、その祖先が「天穂日命 天穂日命が入っているのはそのためです。祖先中の祖先というわけです。 道真の家系は、土師氏の一つの流であった道真の曾祖父、古人の時代に「菅原」を名のるように変わります。 ほかにも、同じように名を改めた大枝(大江)氏や秋篠氏などの他の流があります。図③が略系図ですが、古人の 5代前にいた土師八嶋が、その昔自宅を寄進して道明寺のもとである土師寺を建立した人です。八嶋の代の時に 大枝氏や秋篠氏となった流と分かれています。 土師氏の改姓は、桓武天皇が即位した天応元(781)年6月、土師宿禰古人とその長男・道長など15人による請 願が聞き入れられて許されたものです。この請願の文が『続日本紀』に載っており、その口語訳の要約を『菅原 道真』(坂本太郎 吉川弘文館)から紹介します。少々長くなりますが、土師氏の成り立ちも述べられており、菅原 氏の出発点でもあるので、敢えて掲載させていただきます。 『土師の先祖は天穂日命から出ています。命の十四世の孫を野見宿爾といいました。昔垂仁天皇の時には、古 代の風習が残っていて、凶事の場合には、殉死者を生きながら埋葬することが行なわれました。たまたま皇后が 薨去(こうきょ)したので、天皇はその葬礼をどうするかと、群臣にお尋ねになりました。群臣は従来通りと申し上げま したが、野見宿爾ひとり、殉埋(じゅんまい)の風は仁政にそむき、国を益し人を利する道でないことを奏上し、土師三 百有余人を指揮して、埴土(はにつち)をとり、いろいろの物象を作って差上げました。天皇は喜んで、これをもって <もって 殉死の人にかえました。これが埴輪であります。昔の天皇の仁徳、昔の臣下の遺愛によって、後世そのおかげを 蒙っているのであります。つらつら土師の先祖の業を顧みますに、昔は吉凶半々でありまして、天皇・皇后の葬 |
③ 菅原氏略系図 | |
儀にあずかると共に、祭日の吉事にも奉仕してきました。所が、今はそうでありません。もっぱら、凶事にばかりあずかっています。祖業 を思うに、これはその意とする所ではありません。どうぞお願いですから、居住地の名をとって、土師の姓を改め、菅原とさせて下さいませ。』 この請願文によって、土師氏の祖が野見宿禰であり、さらにその祖であるのが天穂日命だとわかります。また、埴輪を創作して殉死に代 えたという、埴輪の起源も述べられています。有名な「埴輪伝承」です。 ただ、同書の著者・坂本太郎氏は、この請願文の後の記述で、『(中略)このような起原伝説が事実として信ずるに足りないことは、今日 の常識であるが、ただ土師連(むらじ)がこの伝説の行なわれた時代に、天皇の喪葬を掌る職掌をもっていたことは、事実としなければならぬ。 また、その氏名に負っているように、土師器の製作を世業とする土師部(はじべ)をひきいる伴造(とものみやつこ)であったことも認めねばならぬ。 氏に伝わる古伝承を豊富にもった点だけから見ると、土師氏は伝統を重んずる保守的な氏族であったように思われる。しかし『日本書紀』 を丹念に調べると、事実はむしろその逆なことが発見される。この氏の人々は、時代に応じて新らしい動きをすることを怠らず、外来文化 にも敏感であり、多分に進歩的な性格をもっていたらしいのである。(後略)』と述べています。 土師氏と朝廷 古人たちが菅原姓を賜る以前の7世紀、天武朝の朝廷にも土師連(むらじ)真敷(ましき)・土師連馬手(うまて)の二人が仕えていました。二人とも壬申 の乱に従軍し活躍したようです。特に馬手は挙兵の初めから従軍し功績をたてました。そして、天武13(685)年の八色姓(やくさのかばね)授与の際 には土師連は「宿禰」を賜り、これにより「土師宿禰」を名のることとなります。馬手は従四位下の官位で和銅4(711)年に没しています。 四位なったということは、いわゆる貴族の圏内に入ったことを示しています。 一方、7世紀の頃には、土師氏から遣唐留学生が出ています。古人の2代前、宇庭の前の土師宿禰甥(おい)という人です。この早い時代に 遣唐学生が土師氏から出ていることは注目されます。土師宿禰甥は、のちに大宝律令の編纂者として「続日本記」に記されています。道真 直系の祖と仰がれている存在です。 その後の土師氏が叙せられた官位は、必ずしもはかばかしくなく、せいぜい従五位止まりで、天平頃からは外従五位下と外位に置かれる のが通例となっていました。この不遇状態から脱するべく努力したのが、菅原改姓を願い出た古人たちだったと思われます。古人は、天応 元(781)年6月16日、ただ一人外従五位下から従五位下に叙せられました。この月の25日に改姓の請願を提出し、認可されています。 坂本太郎氏の指摘によれば、古人たちがいた桓武朝にあって土師氏(菅原氏)にとって幸運なことは、桓武天皇の外祖母が土師氏の出身で あったことです。天皇の母である皇太夫人・高野新笠(たかののにいかさ)の父が高野乙継(おとつぐ)、母が土師真妹(まいも)でした。延暦9(790)年12月、 乙継と真妹にそれぞれ正一位が追贈(死後の叙位)されます。そして、土師氏に大枝朝臣・秋篠朝臣・菅原朝臣などの「朝臣(あそん)」の姓(かばね) が与えられました。古人の菅原家は、土師氏の中でも大枝朝臣を賜った土師真妹の家とは別の流でしたが、同じ土師氏としてこの幸運に恵 まれたことは、この後の発展に大きなブラスとなったことでしょう。菅原氏は桓武天皇の即位に伴って台頭し、天皇の始めた平安京ととも に栄えるべき運命を約束されたかのようにさえ見えます。 菅原の姓と地名 古人たちの請願文に「居住地の名をとって、土師の姓を改め、菅原とさせて…」書かれていた地名とは、『和名抄(わみょうしょう)』に「大和添 下(そうのしも)郡菅原郷」とある所で、現在の「奈良市菅原町」だそうです。式内社「菅原神社(現菅原天満宮)」が鎮座し、「菅原寺(現喜光寺)」 も奈良時代以来の古寺として存在しています。喜光寺は、西の京と呼ばれる地域の薬師寺や唐招提寺の北方にあります。唐招提寺から北西 に約1.7kmほど歩くと喜光寺で、阪奈道路(国道308号)のすぐ北側に接して境内があります。この周囲が菅原町で、喜光寺の山門から北へ 約200m歩くと菅原天満宮の社があります。 ![]() ![]() 『和名抄』では「土師郷」として、このほかに大和添上(そうのかみ)郡・河内志紀郡・同丹比(たじひ)郡にありと記されています。河内志紀郡の 土師郷というのが、道明寺のあった道明寺村(現藤井寺市内)とその周辺の地域を指します。 また、『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』には、「土師宿禰」または「土師連」が、右京・山城・大和・摂津・和泉などに居たことが記されて います。四流に分かれたと言われる土師氏が、広く各地に存在していたことがわかります。 |
学問に生きた家系-「古人」に始まる菅原氏 改姓で誕生した菅原氏の初代である菅原古人は、宝亀10(779)年正月に外従五位下となり、天応元(781)年5月には遠江(とおとうみ)介(すけ)とな って、同6月に従五位下となりました。『菅原道真』で坂本氏は、『また、『続日本紀』の菅原清公の伝によると、古人は儒行(じゅこう)世に 高く、人と同ぜず、家に余財なく、諸児寒苦したとあるから、いつにかわらぬ学者の貧乏で、学業はすぐれた人であるが、経済的には恵ま れなかったと見える。四人の男子が衣粮を給わって学業を勤める恩典に浴したのは、桓武天皇が古人の学問を推重したからであろう。道真 出現の素地は、すでにこの曾祖父の代に築かれたといってよいであろう。』と評しています。 古人の長男は道長ですが、道真直系の祖父として系図に名を残すのは、古人の四男・清公でした。清公は少年時代より優秀で、20歳で 文章生(もんじょうしょう)、延暦21(802)年に遣唐判官となり、同23年に29歳で入唐しています。この時の遣唐使は藤原葛野(かどの)麻呂が大使で、 最澄・空海・橘逸勢(はやなり)などが同行しています。豪華メンバーと共に入唐して唐皇帝に謁見し、1年後に無事帰国したことは、清公やその 一家にとって大きな幸運となりました。 帰朝後、大学助となり、尾張介に任じられています。任期満了で帰京した後は、左京亮(すけ)・大学頭(かみ)・主殿頭(とのものかみ)・右少弁・左少 弁・式部少輔(しょう・しょうゆう)などを歴任しました。その後、文章博士(もんじょうはかせ)を兼ね、承和6(839)年には従三位に叙せられ、菅原氏では初めて 公卿(くぎょう)の列に加わりました。承和9(842)年10月、文章博士をもって73歳の人生を終えています。清公は名利を争い求めるような人で はなかったと伝えられますが、父祖の地位からは叶わないと思われていた公卿の地位に就くことができたのは、大きく学問の力によるものと 思われます。講学と学生の寄宿のための特別機関として文章(もんじょう)院を創立したのも清公でした。学問と共に生きた菅原氏の性格は、清公 の代に至っていよいよ牢固たるものとなったと言えるでしょう。 清公の四子のうち、すぐれた経歴が伝えられるのは、第三子の善主(よしぬし)と道真の父である第四子・是善でした。善主は文章生から弾正 少忠となり、承和の遣唐判官となって唐に渡っています。父子2代続いて遣唐の名誉を得ることができました。帰朝後、諸官の職を経て、 仁寿2(852)年11月、勘解由次官(かげゆのすけ)・従五位下をもって50歳の生涯を閉じました。 学問の道で父を継いだと言えるのは、第四子の是善の方でした。是善も幼少より聡明であり、弘仁の末に11歳でめされて殿上に侍し、 天皇の前で書を読み詩を創ったと伝わります。承和2(835)年、22歳で文章得業生(とくごうしょう)となり、その後、大学少允(しょうじょう)・大学助・大内 記(だいないき)・文章博士・東宮学士など、儒門の要職を歴任します。文徳天皇即位により2階上がって正五位下となり、仁寿3(853)年大学頭に 任じられました。引き続き文章博士も勤めています。次いで、左京大夫(だいぶ)・弾正大弼(だいひつ)・刑部卿(ぎょうぶきょう)等を経て、貞観14(872)年 に61歳で参議に任じられて式部大輔(たいふ)を兼ね、元慶3(879)年に従三位に叙せられました。参議の在任期間は9年に及び、元慶4(880)年 69歳で亡くなりました。 三位という叙位は父・清公と同じでしたが、父の任じられなかった参議を長く勤めたこで、是善の方が政治の実務については大きな業績 を果たしたと言えるでしょう。しかしながら、是善の本領はやはり学者・文人であったことにあると思われます。著書は『東宮切韻』20巻・ 『銀牓輸律』10巻・『集韻律詩』10巻・『会分類集』70巻・『家集』10巻などの多数に上ります。『貞観格式』『文徳実録』などの編修にも携 わっています。当時の公卿・良吏・儒士・詞人の多くが是善の門弟として講義を受けたと言われています。 |
高位に上った菅原氏の逸材-菅原道真 是善には三子があり道真は第三子でしたが、兄たちの名は伝わらず、早くに亡くなったものと思われます。坂本氏は、『(前略)道真はそ の伝統(父祖三代の輝かしい学者の伝統)をしっかりと受けとめ、さらにそれを発展させるだけの才能と気力とに恵まれていた。いわば父祖 の優秀な学者的素質は、この人に遺憾なく伝えられ、その天成の素質はこの人の精進によって、さらに磨き高められたとも言うべきもので あった。家系が個人に幸いし、個人が家系を高めた実例の、最もいちじるしいものを、私はここに見るのである。』と、道真と彼の家系に ついて述べています。 幼少時の道真は健康には恵まれなかったようですが、学問の才は少年時よりその片鱗を見せていました。11歳の時に初めて漢詩を詠ん でおり、『菅家文草(かんけぶんそう)』の巻頭第一に「月夜に梅華を見る」という題で載る詩がそれだそうです。当時、父・是善の門人で文章生 であった島田忠臣(ただおみ)の指導を受けていました。後に、この忠臣の娘・宣来子(のぶきこ)が道真の正室となります。 15歳で元服し、18歳の時には文章生(もんじょうしょう)の試験に合格します。当時、18歳での合格は最も早い方でした。さらに、選ばれて23歳 で文章得業生となり、正六位下の官位を授けられました。そして、26歳で方略試に合格します。方略試とは、官吏任用の国家試験で、これ を受けることは学者の名誉であり、宣旨によって受験が許可されるという狭き門でした。文章生から文章得業生の時期にかけて、道真は寸 暇を惜しんで勉学に励んだと思われます。 この時期には、彼の文才は貴族社会に広く知られ、その力が大いに利用されました。この時期に依頼を受けて代作した願文や上表の類が 『菅家文草』にたくさん存在します。依頼者には大納言や参議などの高位者もいました。20代半ばまでのことです。これらの文書は能文の 者に書かせるのが当時の慣例でしたが、若年で多くの代作を依頼されているのは、文才の名声がよほど高かったものと思われます。方略試 に合格した道真は1階を加えられて正六位上となりました。 その後も道真の才能は遺憾なく発揮されていきます。細かくは下の年譜に譲りますが、主な官位・官職は次の通りです。 30歳-従五位下・兵部少輔・民部少輔 33歳-式部少輔・文章博士 35歳-従五位上 42歳-讃岐守 48歳-従四位下・左京大夫 49歳-参議・式部大輔・左大弁 50歳-遣唐大使・侍従 51歳-従三位・中納言 53歳-正三位・権大納言・右大将・中宮大夫 55歳-右大臣 57歳-従二位 道真の昇進はめざましいものでした。特に宇多天皇の時代の出世が際立っています。参議・従三位となった時点で父・是善に並びました が、さらに正三位・右大臣へと上り、ついには従二位という、かつて菅原氏で誰も達し得なかった地位にまで到達しました。宇多天皇にそ の才能を認められ重用されたことが大きく作用したものと思われますが、朝廷社会にあっては、それは“家格”を超えた昇進であったかも 知れません。このことは、後に起こる突然の左遷人事で都から追われるという悲劇の伏線の一つでもあったことでしょう。 道真の事績の一つとして、「遣唐使の停止」を進言し実現させたことが知られます。寛平6(894)年8月に道真は遣唐大使に任じられます。 副使は道真と親しい左少弁・紀長谷雄(きのはせお)でした。ところが、9月14日に道真は『遣唐使の進止を議定せられんことを請うた奏状』を諸 公卿に呈出しました。奏状では、唐の政情が不安定となっていること、従来の遣唐使節が途中で度々遭難しており、唐に達することが困難 であること、などを述べています。結果、9月30日に遣唐使の停止が決定されました。しかしながら、この決定の後も数年間に渡って道真 と長谷雄は遣唐大使と遣唐副使の職名をそれぞれ名のっていたことが古文書等で知られています。このことから、最近では、遣唐使の廃止 ではなく取りあえず停止を決めたが、その後道真の左遷や唐の滅亡(907年)ということがあり、再開される情況にならないまま自然廃止とな った、という捉え方が一般化しつつあります。坂本太郎氏は『菅原道真』で、『遣唐使の任命は初めから政府に派遣の意志がなくて、せら れたものてせはあるまいか。道真と長谷雄もまた、実現しないことを承知の上で、任命せられた使節ではあるまいか、と憶測するものであ る。(以下略)』と見解を述べています。詳しくは『菅原道真』を読んでいただきたいと思います。 |
宇多天皇譲位と突然の左遷 宇多天皇が道真を重用したのは、道真の才能を高く評価していたことに加え、藤原基経・時平父子を中心とする藤原勢力の伸張を望まぬ 天皇が、その牽制となる役目として道真に期待していたからとも言われます。基経の死去を受けて藤原北家の嫡流を継いだ時平は、家格で は道真よりもずっと上でしたが、宇多天皇が31歳で譲位した寛平9(897)年7月、二人は同時に正三位となります。敦仁親王が醍醐天皇とし て即位し、翌年には昌泰と改元されました。さらに、昌泰2(899)年2月、道真は右大臣に、時平は左大臣に、それぞれ就任します。3月に は道真の正室・島田宣来子が50歳の算賀に際して従五位下を授けられ、宇多上皇の道真邸への御幸を受けます。この頃の道真は、まさに栄 達の絶頂に達していたと言えるでしょう。 宇多天皇が若くして譲位したことについては様々論じられています。自らも31歳という若さであり、病気でもないのにわずか13歳の皇 太子に譲位したことを考えると、何らかの思惑があったことは確かでしょう。よく言われるのは藤原北家との関係ですが、実際のところは よくわかりません。譲位から2年後、宇多上皇は仁和寺で出家し、日本史上で初めて「法皇」を名のった人となりました。 昌泰3年8月、道真は自分の詩文を集めた『菅家文章』12巻、父・是善の集『菅相公集』10巻、祖父・清公の集『菅家集』6巻の菅家三代集 を天皇に献上しました。その年10月には、時の文章博士・三善清行から「学者から出世して大臣にまで至り、天皇のおかげで栄達を遂げた のだから、分をわきまえてここらを潮時として辞職したらどうか。」という趣旨の書が道真に送られています。道真の周囲の高位の公卿た ちの妬みを心配しての忠告とも取れますが、清行と道真が親しくはなかったことを考えると、清行の真意はよくわかりません。道真はこの 勧告を聞き入れることはしませんでしたが、実はそれまでに、昌泰2年から3年にかけて右大臣や右大将を辞する表(辞表)を何度も上げて おり、「家柄ではない、学者の身で、大任を汚したことを苦痛とする」旨を述べています。周囲の見る目や清行の勧告する情況に気づかな かったわけではなかったのです。そして、昌泰4(901)年1月7日、道真・時平の二人は従二位に上がりました。道真にとってはこれが位階 昇進の頂点となりました。 その半月余り後の1月25日、道真は大宰権帥(だざいのごんのそち)に任じられます。余りにも突然の任命でした。明かな左遷人事で、流刑に近 いと言ってもよいものでした。朝廷の太政大臣・左大臣に次ぐ右大臣の地位にいた人が、突然国の地方出先機関の副長官に降格・転出させ られるのです。当時の官位官職では、長官の地位である大宰帥でさえ従三位で就く役職だったのです。大臣の突然の左遷は、当然ながら朝 廷内の政事権力バランスを変えます。これは客観的に見れば“政変”であり、世に言う「昌泰の変」です。 |
「昌泰の変」-左遷人事の背景 この左遷人事についての『政事要略』に載せられている公式の説明の趣旨は、「右大臣菅原朝臣は寒門より俄に大臣に取り立てられたの に、止足の分を知らず、専権の心があり、前上皇(宇多法皇)を欺き、廃立(現天皇の廃位)を行おうとしている。うわべの詞は穏やかだが、 心は逆である。大臣の位におるべき人ではない。法に従って罰すべきであるが、特に思うところがあるから、大臣の任を解き大宰権帥に貶 (へん)する(地位を下げる)。」というものです。そもそも廃立の動きが本当に在ったのか、在ったとしても、その動きに道真の関与があった のか、あれだけ自分を重用してくれた宇多法皇を道真が欺くようなことがあったのか、或いは、まったくの讒言(ざんげん)を醍醐天皇が信じた のか、その実情についてはよくわかりません。諸説論じられてきたところです。 経過を考えるヒントとなるのが、人事発令直後の動きです。宇多法皇はこの左遷人事を聞いて直ちに内裏に馳せ参じましたが、警護の衛 士(えじ 衛兵)たちが通さず、終日庭に座して待つも、ついに門が開かれることはなく、やむなく帰還しました。宇多法皇は最初に法皇を名のっ た上皇ですが、院政を否定する醍醐天皇や時平によってその影響力は排除されたのでした。この門前払い警備の担当者は藤原菅根でした。 この左遷人事は、宇多法皇にまったく知らせずに断行されていました。左遷人事の理由が事実で正当性があり、道真の罪状が証拠歴然とし ているのならば、道真を重用してきた宇多法皇に事前に報告があってよいはずです。事態を知って取りなしをしようと駆け付けた法皇を門 前払いにするという、この対応が事件の背景を示唆しているように思われます。決して菅根一人の判断で実行したこととは考えられません。 一般に重きを置いてよく言われるのは、道真が廃立を図ったかどうかではなく、藤原氏の思惑の方です。宇多天皇に重用されて高位に上 りつめた道真とその一族の菅原氏が勢力を拡大して行くことに、時平が脅威を感じていたのではないか、ということです。道真が父祖から 引き継いで主宰していた「菅家廊下(かんけろうか)」という学問所(私塾)の出身者が、官吏となって朝廷に多数仕えており、一大勢力となってい ました。朝廷内で最高位家格の貴族として君臨してきた藤原北家の嫡流を継ぐ時平にとっては、これらの菅原一派が藤原一族の勢力を削ぎ |
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兼ねない存在に思えても不思議ではありません。それまでにも、藤原氏 が有力他氏を排斥して権力を維持してきた例は珍しくありません。それ ばかりか、同じ藤原氏の中でさえ主流争いがあり、時平の祖父・良房の 時期に藤原北家の嫡流の位置が確立されました。このような藤原氏の権 力護持の思惑が、道真と菅原勢力の排斥に向けられたと考えるのが左遷 人事の背景として最も自然で受け入れやすかったものと思われます。 道真のめざましい出世を快く思わない公卿たちが少なくなかったこと も、時平の策謀が簡単に実現できた大きな要因だと思われます。それに しても、醍醐天皇はどうしてこの人事を承認したのでしょうか。詳しく はよくわかりません。讒言とされる時平の上奏がよほど巧くできていた のでしょうか。それとも、天皇自身が道真に対して思うところがあった のでしょうか。もっとも、昌泰の変が起きた時、醍醐天皇はまだ17歳 |
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④ 藤原北家の略系譜 | |
の若さでした。朝廷政事の実務を担う公卿たちの影響を受けずに、自らの考えでことを進めるには、余りにも若い天皇だったのです。 |
⑤ 菅原道真 略年譜 |
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道真 大宰府に赴く 昌泰の変により、それまでの任を解かれた道真の後任として、右大臣には源光(みなもとのひかる)が、右大将には藤原定国がそれぞれ任じられま した。左遷人事は道真やその一族にとどまらず、道真の党与と見なされた高官たちも都を追われ、地方の役職に左遷されました。道真の門 弟も左遷され、さらに文章生・学生も放逐される、という噂が広まり、都は物情騒然となりました。この時、三善清行は時平に書を送って 諫言します。内容の趣旨は『道真の門人の数は官吏全体に半ばしているのに、これをみな左遷したならば、おそらくは善人を失うことにな るであろう。門人はただ請益・受業しただけであるから、この度の謀議にあずかるはずはない。ましてや、紛乱の時には陰徳を立てて怨門 を塞ぐべきである。』というものでした。これにより、門人たちへの処分は止まりました。一方、任官していた道真の息子たち4人は、父 と同様に地方の役職に任じられました。長子・高視(たかみ)は土佐へ、影行(かげつら)は駿河へ、淳茂(あつしげ)は播磨へ、兼茂(かねしげ)は飛騨へと、父子 5ヶ所に分かれて都を追われました。 道真が大宰府に向けて都を発ったのは昌泰4年2月1日でした。任命からわずか1週間後のことです。現在の時代に置き換えてみても、余 りにも早い出発でした。この慌ただしい旅立ちに同行したのは幼い男女子二人だけで、妻と年長の女子は家に残りました。妻の同行は認め られなかったのです。従者としては道真の高齢の門人・味酒安行(うまさけやすゆき)だけがお伴しました。道真を送る使いの役人は、左衞門少尉・ 善友益友と警護兵2名でした。この大宰府赴任の道中については「道中の国々も職・馬を給うことなし。」と、道中諸国に命令が出されて おり、まさに酷薄の待遇のもとでの旅路となったのです。『菅家後集』では、「ひづめが割れるほど馬が疲弊していても馬を交換すること ができず、港に着けば壊れかかった船を出された。」という道中の様子を知ることができます。 ![]() |
大宰府での過酷な生活 厳しい道中を経て赴任した大宰府での生活は、これまた道真にとって過酷なものでした。『菅原道真』の坂本氏の記述を紹介します。 『道真の大宰府の生活は惨めであった。空家であった官舎は、床も朽ち、縁も落ちていた。井戸はさらい、竹垣は結わねばならなかった。 屋根は漏って、蓋(おお)う板もなく、架上(棚の上)に衣裳を湿(うる)おし、箱の中の書簡を損する始末であった。しかも、虚弱の彼は、健康の不調 を訴えることがしばしばである。胃を害し、石を焼いて温めても効験はない。眠られぬ夜はつづき、脚気と皮膚病とにもなやまされた。』 初めの間、道真は望郷の思いに駆られることが甚だしく、いつの日に京に帰れるかと、そればかりを待ち望んでいた心情がいくつかの詩 に残されています。その間にあって、京の留守宅からの便りが、道真をどれほど元気づけたことでしょうか。『家書を読む』という七言律 詩には、留守宅の哀れな状態と気丈な賢夫人のけなげさとが切々と示されています。『主を失った留守宅は生活に苦しく、庭木を売り、人 を住まわせた。しかも主の身を案じて、薬用の生薑(しょうが)、斎用(清め・物忌みに用いる)の昆布を、遠く京から送ってよこしたのである。』(『菅原 道真』七言律詩説明より)。 道真は、伴って来た男の子を大宰府で失っています。母と離れ、父に連れられて遠く都から離れた九州の地にやってきた小児の死は、道 真にとってどれだけの傷心事であったか、察するに余りあります。道真は自分の身の悲運を嘆き、謫居(たっきょ)(配流されていること)の苦しさを歌っ ていますが、それでも人を恨むことはなかったと伝えられます。過酷な左遷の命を受けながら、天皇に対する忠誠の念にはいささかの曇り も生じなかったと言います。その心情が、700年後の江戸期の儒教の世に忠孝の範として、はたまた千年後の昭和・軍国主義の世にあって は“忠君”の鑑として忠君愛国教育に、道真が役割を持たされることにもつながっていきました。 |
道真の最後-ついに都に帰ることなく 道真が大宰府に着任してすぐの7月15日、昌泰4年は「延喜」と改元されました。初めは帰京の念に駆られていた道真も、延喜も2年に なるともはや望みを失って、はかない諦めの気持ちに移っていきました。そして、もともと仏心のあった道真は、仏に帰依する心を深めて いきます。晩年の『偶作』という詩は、その頃の心境をよく表しています。『病は衰老を追って到り、愁は謫居を趁(お)って来る。此の賊逃 るゝに処なし。観音念ずること一廻。』。 道真の大宰府における謫居中の生活は、彼の詠んだ詩の数々から知ることができます。道真は自らの最期に臨み、謫居中に詠んだ詩を集 めて封緘し、紀長谷雄のもとに送りました。長谷雄はそれを見て、天を仰いで嘆息したと言います。この詩集は長谷雄の手によってまとめ られ、『菅家後集(かんけこうしゅう)』の名で今に伝わる一巻です。道真は、先の『菅家文草』と合わせて自作の詩のほとんどを後の世に残すことが できました。 『北野天神御伝』によれば、道真は大宰府にあって念仏・読経を事とし、そのほかは時々筆硯(書)を慰みとして愛好したようです。そし て、延喜3(903)年の正月に病が重くなり、『他国で死んだ者は骸骨を故郷にかえすのを例とするが、自分はその事を願わない。また吉祥院 の十月の法華会は累代の家の事であるから、将来絶やさないように。』と遺言したと記されています。 延喜3年2月25日、ついに道真は薨じました。年59歳でした。とうとう都に帰ることもなく、妻や多くの息子・娘たちに見取られること もなく、寂しい旅立ちとなりました。遺言によって大宰府の地に葬られました。その経過について太宰府天満宮サイトでは次のように紹介 されています。『門弟であった味酒安行が御亡骸を牛車に乗せて進んだところ、牛が伏して動かなくなり、これは道真公の御心によるもの であろうと、その地に埋葬されることとなりました。延喜5年(905)、御墓所の上に祀廟(しびょう)が創建され、延喜19年(919)には勅命により立 派なご社殿が建立されました。』。各地の天満宮や天神社に神牛像があるのは、この道真葬送の時の逸話がもとになっています。伏して動 かなくなった姿を表す「臥牛」ばかりが境内に安置されているのはこの逸話に由来しています。 905(延喜5)年、その墓所に味酒安行によって祀廟が建てられましたが、後に「天満大自在天神(てんまだいじざいてんじん)」の神号を授けられたと伝 わります。ここに後に「安楽寺」が創建されます。神仏混淆(こんこう)の安楽寺は後に「安楽寺天満宮」とも称されました。これが室町期以降、 「太宰府天満宮」と呼ばれるようになりました。安楽寺は明治初期の神仏分離政策のもとで廃寺となり、改称した「太宰府神社」が残りま す。戦後、再改称して「太宰府天満宮」となりました。 道真に最後まで付き従った味酒安行一族はその後も当地に留まり、そのご子孫は太宰府天満宮の重職を勤められています。安行から42 代目の味酒安則(みさけやすのり)氏は、太宰府天満宮の権(ごん)宮司を務められ、大学教員の仕事や講演・出版活動にも注力されてきました。 配流(はいる)同然に大宰府に左遷された道真に最後まで付き添って薨去にも立ち会い、都の家族に代わって弔った後には祀りも行ってきた味 酒一族は、安楽寺の住職や後の太宰府天満宮の宮司を代々受け継いできてもよかったのではないかと私は思いました。太宰府天満宮の宮司 は代々道真公のご子孫が務められていますが、祀られて神となった方のご子孫よりも、祀ってお世話をした側の人の方がふさわしいのでは と、私には思えるのです。そうとはならなかった事実の背景には、古代における身分制度の少なからぬ影響を感じざるを得ません。 |
相次ぐ凶変-道真の怨霊か 延喜3年に道真が薨じてからしばらくすると、都では朝廷の高官や皇族の身の上に凶事が相次ぎ、さらには天災・疫病までもが重なりま した。現代の科学的原因分析や医学的見地をもってすれば、単なる偶然の所産と見ることができる出来事も、当時の人々にしてみれば不可 解で強い怖れをいだかせる凶変の連続にしか思えなかったのかも知れません。どこからともなく、「道真公の怨霊が為したのではないか。」 という噂が広まり出しました。と言うのも、道真薨去から5年後の延喜8年、参議に就任して間もない藤原菅根が雷に打たれて死亡すると いうことが起きます。その翌年には、藤原北家の嫡流・左大臣・藤原時平が39歳で急死してしまいます。天寿によらぬ二人の急死を知り、 都の人々の心には二人に共通するキーワードが浮かびます。“菅原道真の祟り”でした。時平は道真左遷の首謀とされ、菅根は宇多法皇の 参内を門前で拒んだ人です。道真が左遷されたことを知る人々からみれば 二人の共通点はどちらも“道真の仇人”であったのです。この 二人の急死に重なるように、延喜8~10年には疫病や旱害が続き、12年には京で大火が発生しました。さらに13年には、鷹狩りに出てい た右大臣・源光(みなもとのひかる)が沼に落ちて溺死する事故が起きます。死体が上がらなかったと伝わります。源光は道真の後任で右大臣に就き ましたが、時平による道真左遷に加担した人とされています。その5年後には京を暴風雨が襲い、淀川が氾濫する被害が起こります。 相次ぐ凶変の原因が「道真の怨霊」だと人々が見なす上で、決定的だったと思われるのが、道真薨去からちょうど20年後の延喜23年3 月21日、時平の妹・穏子が産んだ皇太子・保明親王がわずか21歳の若さで薨じたことでした。ついに凶変は皇族の身の上にまで及んだの です。『日本紀略』では『世をあげて云ふ。菅帥(かんそち)の霊魂宿忿(しゅくふん)のなす所なり。』とこの事態を伝えます。あわてた朝廷は直ちに 対策に動きます。皇太子薨去1ヶ月後の4月20日、天皇は詔を発して道真に本官の右大臣の地位を復し、正二位を追贈しました。さらに昌 泰4年1月25日の太宰権帥任命の詔書を破棄させました。つまり、あの左遷人事は無かったことにする、という回復措置です。 道真薨去から20年も経っていましたが、その間“道真の怨霊”が数々の厄災をもたらしているという見方や噂はかなり広まっていたよう ですが、これに朝廷として積極的に対応した様子は見られません。しかし、この延喜23年の道真に対する回復措置は、明らかに“道真の怨 霊”を公式に認め、それを鎮めるために行われたと見ることができます。この年、改元が行われて「延長」元年となりました。しかし、皮 肉なことに、不幸な出来事はなおその後に“延長”されていったのでした。 延長3(925)年、保明親王の薨去後、直ちに皇太子に立てられて慶頼(よしより)王が、5歳でこの世を去ります。慶頼王の母は藤原時平の娘でし た。醍醐天皇にとっては二人の皇太子を続けて亡くしたわけで、その驚きと悲しみ、そして怖れはどれほど大きかったことでしょう。 これに追い打ちをかけるように起きたのが、延長8(930)年の宮中清涼殿への「落雷」でした。後に道真が天神信仰の対象として祀られる 起源となる決定的な出来事でした。この年の6月、長らく雨が降らないので雨ごいについて公卿たちが会議をしていた清涼殿の上に、俄に黒 雲が起こって雷鳴がとどろき、ついには清涼殿に雷が落ちたというのです。落雷により大納言・藤原清貫(きよつら)が即死、右中弁・平希世(たいらのま れよ)は顔を焼かれてしまいました。他にも死傷者が出て、宮中は大パニックとなりました。これにショックを受けた醍醐天皇は病気になって しまいます。そして、病状が悪化したた天皇は、9月に皇太子・寛明親王(朱雀天皇 保明親王の同母弟)に譲位、その1週間後の9月22日に 出家すると同日崩御したのです。 朝廷の高官急死のみならず、相次ぐ皇太子の薨去の上に上皇自身の崩御と続けば、もはやただ事ではないと人々が思ったのも無理のない ことだったでしょう。道真の怨霊を鎮めるための祀りが必要とされていくのでした。 |
⑥ 道真死去後のできごと (下記参考図書等より抽出して構成) |
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御霊信仰の広がり-怨霊から“御霊”へ これより先、奈良時代半ばまでには、“道真の怨霊”に先立つこと200年の天平元(729)年に謀反の疑いで自害した長屋王の“怨霊”の 存在が意識されていたようで、「権力抗争の末に敗死した特定の者の霊が怨みをもって現れる」という観念が生まれつつあったようです。 しかし、この時期の“敗死者の怨霊”は、まだ宮廷貴族の範囲内で問題にされるにとどまっていました。ところが、奈良時代末~平安時代 初頭以降になると、これら王権反逆者の怨霊が、社会底辺を含む広範な人々によって祀られるようになり、怨みの心を慰め鎮めるための法 会(ほうえ)が盛んに行われるようになりました。法会を営んだ人々は、「怨霊」を敬意を込めて「御霊」と呼びました。これらの法会が「御霊会 (ごりょうえ)」と称されるもので、「御霊信仰」の始まりでした。疫病や天災が続くと人々は怨霊の為せることとし、盛んに御霊会が行われたのです。 怨霊に対する慰霊と仏式の法会が結び付いた御霊会は、すでに広まっていた神仏習合の信仰形態が密教を媒介として成立させたものと考え られます。御霊信仰は京・畿内からやがて諸国へと広がっていきました。 政争敗死者で最初に「御霊」と呼ばれるようになったのは、桓武天皇の同母弟・早良(さわら)親王(のち崇道天皇)だとされます。延暦4(785)年、 早良親王は藤原種継暗殺の首謀者とみなされ、無実の罪で皇太子の地位を追われて淡路に配流される途上に断食死しました。桓武天皇は早 良親王の死後数年を経た以降に、祟りを避けるために数々の対策や法会を実行しています。そして、延暦19年には淡路の墓所に謝罪の使い を送り、「崇道(すどう)天皇」の追称を贈りました。それ以後にも、これでもかというほどの鎮魂を行っています。さらに、それは子の嵯峨天皇 にも引き継がれて行きます。早良親王の「御霊」から道真の薨去まで約1世紀、すでに広く知られていた早良親王の事件や説話を思い起こ して、10世紀の人々が道真の非業の死に重ねて見ていたことは、想像に難くありません。 御霊信仰は、大きな疫病・天災が起こるたびに民間信仰として広まっていきました。とうとう朝廷も正面から取り組まざるを得なくなり、 貞観5(863)年5月20日、朝廷自ら御霊会を開催します。道真がまだ文章生の頃のことです。禁苑(天皇の庭園)・神泉苑に崇道天皇以下6霊の 座を設けて催されました。この御霊会を監督したのは藤原時平の父・基経などでした。天皇以外の皇族・貴族が総出で参加しただけでなく、 神泉苑の四門をこの日に限って勅命で開き、都や周辺の人々が自由に出入りして観覧できるようにしたと、『日本三大実録』は伝えます。 貞観4~5年は、諸国で疫病が頻発し、田畑の五穀も不作で人々は疲弊していました。また、それ以前の9世紀初めにも飢饉や疫病の記 録が多く見られます。さらに、9世紀という時代は地震や火山噴火が多発しており、特に東日本では貞観5年にかけて地震が続発していま す。世紀後半には、東北の貞観大津波や西海道の南海巨大地震も発生しています。社会不安が増大しやすい状況だったと言えるでしょう。 朝廷がこのように御霊会を強く意識したのは、続く疫病・天災による社会不安を静めることのほかに、社会不安の延長線上に予想される 対朝廷・王権への批判・不満を抑えることがあったと思われます。「厄災が続く→○○の怨霊の仕業だ→○○が怨みを持つのは□□だ」と いう論理が広がり、□□或いはその関係者は怨霊を鎮める役割を負わされることになります。□□が時の天皇その人であることも珍しくあ りません。道真の怨霊に対する醍醐天皇がよい例でしょう。これらの場合、厄災が治まらなければ人々の心は王権から離れたり、或いは反 感を持ったりしかねません。時には、それを利用しようとする勢力が存在し、拡大すれば王権にとっては大変なことになります。怨霊の遺 族や身内のみならず、今風に言えば、野党勢力とか反政府勢力とされる反王権の人々です。かつて藤原氏によって朝廷から排斥されたり、 没落させられたりした有力貴族も数々あります。御霊会をないがしろにすれば、とんでもない危険な事態を招くこともあり得るのです。 |
“神”となった道真-怨霊から“天神”へ 前述の通り、10世紀に入るまでに御霊信仰は諸国に広まっており、 ひとたび厄災が続けば、道真のような高位で有能だった“敗死者”ほど 御霊(怨霊)に結び付きやすい存在だったと思われます。 すでに相次ぐ不幸な出来事が道真の怨霊によるものだという見方は 広がっており、その怨霊を神と結びつける決定打となったのが「清涼 殿落雷事件」でした。「道真公の怨霊が雷神となって雷を落とした」 という見方から、「道真の怨霊=雷神」というイメージが広がってい きます。雷神が「天神」の神々の一つであったことから、道真は「火 雷天神(からいてんじん)」とされるようになりました。道真と「天神」との 結び付きの始まりです。 清涼殿への落雷や被害の様子を詳しく記述する『日本紀略』には、 この落雷事件と道真の怨霊とを結びつける記述はないのですが、当時 の人々の間には次第に「道真=雷神」というイメージが広がっていっ たようです。『北野天神縁起』では、落雷の様子を述べた上で、『こ れ則ち、天満天神の十六万八千の眷属(けんぞく)の中、第三使者火雷火気 毒王の仕業なり。其日、毒気はじめて延喜聖主(醍醐天皇)の御身のう ちに入り…(後略)』と記述しています。天満天神(道真霊)の第三使者 |
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⑦ 清涼殿の落雷を描いた絵(『松崎天神縁起絵巻』(防府天満宮蔵)) 『週刊・新発見!日本の歴史14 平安時代2 』(朝日新聞出版2013年)より |
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火雷毒神の仕業であり、この毒気はその日のうちに醍醐帝の神体に入り込んだというのです。そして天皇は病の床に伏し、ほどなくして崩 御してしまいます。その直前に落飾して出家したにも拘わらず。この一連の出来事は、「理不尽な処置で人を死に追いやれば、その怨霊は その罪を犯した人すべてに報復を加え、ついには最高責任者たる帝王をも死に至らしめる。」という怨霊の力を人々に認識させるのに十分 なインパクトを提供しました。客観的には単なる偶然の積み重なりであっても、すべて道真の怨霊の仕業だと理解することですっきりと納 得できる精神構造が、この時代の共通の心のあり方になっていたと考えられます。 恨みを持たれた人が次々と死に至るという、余りにも強い霊力を示した道真の怨霊は、雷神と結び付くことで、“怖ろしい神”となりま した。天神(あまつかみ)の中で雷神は畏怖される神だったのです。火雷天神は天神の代表のように扱われ、天神(道真の霊)は恐怖の対象とし て祀られる神となりました。やがて、天神のその強い霊の威力が、人々を守護する霊力としても期待されるようになり、「守護神」という 善神として崇められるようになっていきます。その結果、「天神」の神としての性格は、多種多様なものへと変化していきました。今日、 最もよく知られる「道真=学問の神様」という姿も、その中の一つであったのです。道真は、ついに「崇められる神」となりました。 |
天神(道真)を祀る神社-北野天満宮の始まり 醍醐天皇崩御の12年後、天慶5(942)年に、京の右京七条に住む童女・多治比文子(たじひのあやこ)が、社殿を望む道真霊の託宣を聞きます。 貧しい文子は、ひとまず庭に小さな祠を建てて道真の霊を祀りました。5年後の天暦元(947)年、今度は近江国(滋賀県)比良宮の神職・神良 種(みわのよしたね)の息子・太郎丸が同じ託宣を受けます。良種は道真霊が社殿を望んだ地にあった北野朝日寺の僧侶・最珍と協力して北野社を創 建し、文子の祠を移しました。北野天満宮の始まりです。道真は、実在の人物が神として単独の神社に祀られた最初の人でした。 その後、北野社は藤原氏の保護を受けるようになり、天徳3(959)年には藤原忠平(時平の弟)の息子の右大臣・師輔(もろすけ)によって大規模 な社殿の造営が行われました。そして、永延元(987)年8月、初めて官幣(かんぺい)にあずかる勅祭(北野祭)が行われ、国家の平安が祈念されま した。この時、一条天皇より「北野天満大自在天神」の神号が道真に贈られました。この時から天満天神が公式のものとなったのです。 正暦4(993)年5月には「正一位・左大臣」の位が道真に追贈されましたが、それでも神霊は安んじないというので、この年の閏10月に は、「太上大臣」を追贈されます。これが道真の生前であったなら、と道真の子孫たちは一度ならず思ったことでしょう。ついに道真は、 人臣として最高の栄位を極めたのですが、この遇し方こそが、たたりを為すと信じられた天満天神への恐れの表れだったのです。その後、 寛弘元(1004)年10月には一条天皇の行幸にあずかりました。それ以来、代々皇室や公家の尊崇を受けてきましたが、中世以降は武家の崇敬 も集め、足利将軍家や豊臣秀吉の厚い保護も受けてきました。秀吉の盟友で重臣ともなった前田利家は、自らを菅原氏の末裔であると宣言 して「梅鉢紋」を前田家の家紋としました。もちろん、家系としての直接のつながりはありません。菅原道真の徳や学績を敬愛して天神を 守護神と頼み、加賀の国における治世に天神信仰が役立てられたものでしょう。 ![]() 諸国に広がった天神信仰-庶民が信仰する神へ かつてそのたたりを恐れられた神は、守護の神として公家や武家にも信仰されるようになり、やがて、上層町人や知識人たちの間でも広 まっていきました。諸国に北野天満宮の神霊が勧請され、天満社や天神社が各地に次々と創建されました。北野天満宮では田楽や猿楽など 様々な芸能行事が催され、芸能発祥の地とも言われており、「芸能の神」としても信仰されました。もとより、道真の本業であった学問に 関する信仰は強く、「学問の神」は根強い信仰を集めました。また、人間道真が誠実をその本領としたことから、天神も正直を喜ぶ神・「至 誠の神」ともされました。多様な神を崇める形に発展した天神信仰は、全国の天神を祀る社に多くの人々を引き寄せ、千年の後まで学業成 就や芸道上達が祈られるようになっていったのでした。今日、私たちが知る「天神信仰」の姿がそれです。 道真より後の平安中期の儒者で歌人の大江匡衡(おおえのまさひら)に、「文道の太祖 風月の本主」と評された天神・菅原道真ですが、江戸時代 に入ると、天神講という信仰組織を通じても一般庶民に広く信仰される神となって行きました。また、庶民の子弟の教育機関であった寺子 屋を通じても、特に「学問の神様」としての天神信仰が普及することになりました。当時、寺子屋に入るのは数え7歳の頃だったと言われ、 七つの祝いには天神様にお参りして手習いの上達を祈願する習慣があったとされます。わらべ歌『通りゃんせ』の歌詞に、『通りゃんせ通り ゃんせ ここはどこの細道じゃ 天神様の細道じゃ ちっと通して下しゃんせ 御用のない者通しゃせぬ この子の七つのお祝いに お札 を納めに参ります (後略)』とあります。まさに、当時の天神信仰の習慣が歌い込まれた歌詞となっています。 寺子屋では毎月25日の天神講で道真を描いた天神像の掛け軸が掲げられ、子どもたちが天神様を拝みました。平安時代以降、多種多様 な天神像が数多く描かれ、北野神社などに奉納されてきましたが、数においても、写真技術や機械印刷が一般化した近代以降は別として、 およそ菅原道真ほど多くの場所で肖像画が掲げられた歴史上の人物もいなかったでしょう。寺子屋で使用していた教本も道真に関するもの が多かったと言います。寺子屋に通っていた子供たちにとって,「天神さん」は日常的で身近な神様だったのです。 天神参りは、現在では学業成就よりも、より現実的な受験の「合格祈願」が専らという感がありますが、通底しているのは学者・菅原道 真の本領である「学問」の力を崇め、素直に「学問の神様」にお願いする心と言えるでしょう。 まったくの余談ですが、「カンコー学生服」という制服ブランドがあります。製造メーカーは創業以来別の名称でしたが、2013年に創業 160周年を記念して「菅公学生服株式会社」に改称しました。そう、「カンコー」は菅原道真公を表す「菅公」です。子どもたちの健康と 学業成就を願い、「菅公」という言葉にちなんで名付けられたそうです。学問・学業と天神信仰のつながりは、現代にも生きています。 |
渡唐天神と書道の神-多様な神となった道真 天神を文道・学問の神とした考えは、室町時代においては「渡唐天神(ととうてんじん」という不思議な信仰に発展し ました。禅僧たちの間で起こった信仰ですが、「天神は南宋に渡って径山(きんざん)の無準(ぶしゅん)師範に禅を学んだ」 というものでした。そして、その姿を夢想に得たと言って、仙冠道服(仙人の冠と道士の衣服)で一枝の梅を持っ た天神像を描き、これを礼拝の対象や詩文の題材としました。何事にも中国に習おうとした禅僧たちが、学問の 祖と仰ぐ天神(道真)に、生前には遂げられなかった渡唐を禅宗によって実現させ、禅儒(禅宗と儒教)一致の理想 を描こうとしたものだったのではないでしょうか。 一方、天神(道真)は「書道の神」としても広く信仰されました。江戸時代の寺子屋で天神をまつり、天神講を 行ったのは、「学問の神」に加えて、「書道の神」がより強く意識されたからとも考えられます。もともと、道 真の筆跡を神筆として、弘法大師・空海と小野道風(おののみちかぜ・とうふう)に並ぶ能書家とする説が古くからあったよう ですが、実は道真の書蹟の実物は一点も伝わっていません。実際に能書家であったのかは、何とも言えません。 道真の存在当時の文献には、彼の書が優れていたことを示すようなものは見当たりません。道真が「書道の神」 と称される能書家であったというのは、歴史的事実というよりも、天神(道真)に対する強い信仰の所産ではなか ったのかと思われます。 ある時は学問の神、文道の神、またある時は和歌の神や芸道の神、そしてある時には書道の神、至誠の神、忠 節の神などと、多様な神として道真は崇められてきました。天神の持つ強い霊力のご加護に期待する、時の権力 者や貴族、学者、文人、芸能者、そして多くの民衆の広く厚い信仰心が生み出したまさにスーパーヒーロー的な 「神」が、「天神・菅原道真」であったと言えるのでしょう。 |
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⑧ 渡唐天神像(部分) 『狩野元信 渡唐天神図 天保3年 晴雪斎・模』 (東京国立博物館所蔵)より |
藤原氏のこと-貴族の頂点に 「昌泰の変」以降に道真の身に起こった悲劇を芝居や映画にすると、 最大の敵役はやはり藤原時平でしょう。道真怨霊説話からは、藤原氏の 権力を維持するために道真を排斥し配流した、とんでもない悪い人のイ メージが浮かび上がります。時平や藤原氏について少しばかり触れてお きたいと思います。 道真を大宰府に追いやった時平は、藤原北家の嫡流・藤原基経(もとつね) の長男でした。基経は実父が良房の兄・長良(ながら)で、叔父である良房の 養子となっています。藤原鎌足を祖とする藤原氏ですが、その息子・不 比等(ふひと)によって朝廷内での最大権力を持つ一族となります。藤原四氏 と言われる不比等の男子4人、武智麻呂(むちまろ)・房前(ふささき)・宇合(うまかい) ・麻呂が、それぞれ南家・北家・式家・京家を立て、「長屋王の変」を経 |
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⑨ 藤原北家の略系譜(再掲) | ||
て政権を握りました。ところが、天平9(737)年の天然痘流行により、不比等の四子をはじめ多くの朝廷高官が命を落とします。その結果 政権は藤原四家を離れて橘諸兄(たちばなのもろえ)が握りますが、そこから政権をめぐる争いが次々と起こりました。藤原広嗣(ひろつぐ宇合の子)の乱 (740)、橘奈良麻呂(諸兄の子)の謀反(757)、藤原仲麻呂(武智麻呂の子)の乱(764)、藤原種継(宇合の孫)の暗殺(740)、藤原薬子(くすこ 種継の娘)の変(平城上 皇の変)(810)などと続きました。 これらの政争の結果、より力を持つことになったのが不比等の二男・房前の立てた「藤原北家」でした。房前の4代後の良房の時には、 承和の変(842)、応天門の変(866)を処理したことで、藤原北家はその地位を藤原氏の中でも朝廷貴族の中でも、大きく高めることになりま した。不比等から良房に至る間(その後の時代もそうですが)、藤原氏なかんずく藤原北家は、天皇家と姻戚関係を結び、政敵となる有力氏 族を排除することで、朝廷貴族の中心的地位を維持してきたと言ってもよいでしょう。時には天皇を取り替えることすらいとわなかったの です。その意味では、時平が当時最大のライバルであった道真を朝廷から排除したことは、それ以前の藤原氏の振る舞いから考えて、至極 当然のことだったと言えるかも知れません。 良房の頃から道真と同時代のことになります。良房の養子となった基経は、北家の嫡流を継承して4代の天皇に仕え、太上大臣から初め て関白の地位に就くなど、藤原北家の地位と権力を確立しました。基経には4人の男子がおり、その長男が時平です。寛平3(891)年、基経 の死を受けて時平は21歳で参議に就きました。道真47歳の時です。家格としては北家嫡流の時平の方がはるかに上ですが、道真が宇多天 皇に重用されたことで家格を超える昇進を果たし、寛平9(897)年7月には、二人はそろって正三位を叙位され、位階の上では二人は並ぶ存在 となったのです。4年後の昌泰4(901)年1月7日、二人はそろって従二位を受けますが、この時の二人の違いは左大臣・右大臣の大臣格だ けでした。その18日後に、道真は太宰権帥(だざいのごんのそち)に任命されました。藤原北家の最大のライバルが排除されていきました。 「とんでもない悪い人のイメージ」に見られがちな時平ですが、どの視点から見るかによって人間像や評価は異なってきます。時平につ いて記述している『大鏡』やその他の書物においても同様です。政治家・時平として見た時、決して彼は凡庸な政治家ではなく、父・基経 の資質を受け継ぐ有能な人であったと見られています。道真が排除された朝廷にあって、彼はただ一人の実力者として、その政治力を十分 に発揮できたと思われます。延喜3(902)年3月には諸政刷新の官符を次々と発し、国政改革への並々ならぬ決意を示しています。しかし、 その有能な政治力も長く発揮し続けることは能わず、39歳の働き盛りで没したことは前述の通りです。 |
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繁栄つづく藤原北家-天神を守護神に 道真のたたりとされた時平の死の後も、この家には不幸が続きました。『大鏡』によれば、時平の長男で大納言・右大将・安忠(やすただ)は 承平6(936)年に47歳で没しています。病床で物の怪に取り憑かれ、恐れをいだいて絶え入ったと言います。三男の権中納言・敦忠(あつただ)は 天慶6(943)年に38歳で没しました。二人の女子も早くに没しています。孫の慶頼王が5歳で薨じたことは前述の通りです。ただ一人、二男 の顕忠(あきただ)だけは、諸事謙遜にふるまい、毎夜庭に出て天神を拝むことを怠らなかったので、従二位・右大臣にまで進み、68歳の天寿を 全うしたと言います。藤原長者(宗家の当主)の一家にこれだけ不幸な没し方が続けば、世の人々は「普通ではない。何かが…」と思わざる を得なかったことでしょう。 時平の没後、藤原北家の嫡流を継いで藤原長者となったのは基経の四男・忠平(ただひら)で、時に29歳でした。忠平は醍醐天皇のもとで昇進 を重ね、大納言から延喜14(914)年右大臣、延長2(924)年正二位・左大臣となります。延長5(927)年には、時平の遺業を継いで『延喜格式』 を完成させました。農政などに関する忠平の政策は、兄・時平の行った国政改革と合わせ「延喜の治」と呼ばれています。延長8(930)年9 月、病の重い醍醐天皇が幼帝の朱雀天皇に譲位すると、基経以来就任者の無かった摂政に就任しました。承平2(932)年には従一位に叙され、 承平6(936)年太政大臣に昇りました。天慶4(941)年、朱雀天皇の元服により摂政を辞しますが、詔により関白に任じられました。父・基経と 同じ地位にまで達したことになります。天慶9(946)年に村上天皇が即位すると、引き続き関白として朝政を執りました。天暦3(949)年、数 年前からの病がいよいよ重くなり、ついに70歳で薨去しました。その後、正一位が追贈されています。 70という享年や30数年に及ぶ朝廷最高権力者としての歩みなどを見ると、忠平やその一族が道真の怨霊にたたられたような気配はまっ たくありません。むしろ、忠平は道真と関係が良好で、大宰府への左遷にも反対しており、兄・時平が対立していた宇多法皇とも関係が良 かった、などの見方が伝えられています。そのことから、忠平やその子孫は天神に守護されるという神託があったと伝えられますが、これ は多分に後付けの話だと思われます。「天寿を全うした忠平、藤原北家の嫡流として繁栄した子孫→道真の怨霊にたたられていない→忠平 が道真と親しく左遷にも反対したから→むしろ天神に庇護されている」という逆順の論理でできたものでしょう。 坂本太郎氏は、『(前略)…、これは忠平一流の繁栄を見て、これと結ぼうとした北野社関係の人々の作為と見るほかはない。時めく藤原 氏摂関流の人々も、恐ろしい祟りをなす天神を、己の庇護神とすることができれば、それほど幸いなことはない。天神に対する藤原氏の崇 敬は、この意味において早くより高く、北野社は創立の日の浅いにもかかわらず、古来の大社にまじって二十二社の一に加えられたのであ る。』と述べています。権力者としての藤原氏の思惑と、道真の怨霊を鎮め祀るという慰霊の神社の思惑とが、複雑に絡み合ってできた伝 え話だったと思われます。しかしながら、その後の藤原北家の繁栄を見ると、これぞ天神のご加護かと思うほど目を見張るものがあったの も確かです。忠平がたたりに合うこともなく、北家嫡流を無事に継いだことが、その後の藤原氏の摂関家としての繁栄を可能にしたわけです。 天徳3(959)年、忠平を継いだ二男・師輔は北野社に新たな社殿を造営・寄進しています。その際には藤原氏の繁栄を祈願していますが、 師輔の孫・道長の時代には藤原北家の全盛期を迎えます。摂関政治の最盛期の中で藤原北家の権力をより強固なものにした道長ですが、こ の後、その子孫たちは五摂家という流をつくり、20世紀に至るまで公家や華族の頂点としてその地位を維持し続けました。 |
【 参 考 図 書 】 | 『 藤井寺市史 第2巻・通史編三近現代 』 『 藤井寺市史 第5巻・史料編三 』 |
『 藤井寺市史 第9巻・史料編七 』 『 藤井寺市史 第10巻・史料編八中 』 | |
『 藤井寺市史 補遺編 』 (各巻・編とも 藤井寺市発行) | |
『 藤井寺市文化財 第6号 近世の建築 』(藤井寺市教育委員会発行 1985年) | |
『 道明寺町史 』(道明寺町発行 1951年) | |
『 河内名所圖會 』(柳原書店〈現柳原出版〉 1975年) | |
『 日本歴史地名大系・大阪府の地名Ⅱ「藤井寺市-道明寺天満宮」 』(平凡社 1986年) | |
『 神々の明治維新 』安丸良夫 (岩波書店 1979年) 『 神仏習合 』義江彰夫(岩波書店 1996年) | |
『 人物叢書 菅原道真 』坂本太郎(吉川弘文館 1990年新装版) | |
『 大阪春秋 第35号 -特集・道明寺天満宮と釈奠-』(大阪春秋社 1983年) | |
『 週刊・日本をつくった先人たち 日本の100人 No.072 菅原道真 』(㈱デアゴスティーニ・ジャパン 2013年) | |
『 週刊・日本の神社 No.6 北野天満宮 』(株式会社 デアゴスティーニ・ジャパン 2014年) | |
『 週刊・新発見! 日本の歴史14 平安時代2 』(朝日新聞出版 2013年) | |
『 洋泉社MOOK 歴史REAL 敗者の日本史2 』(株式会社 洋泉社 2016年) | |
『 創立九十周年 記念誌 』(美陵町立道明寺小学校 1964年) 《その他》 |