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伴林氏神社(ともばやしのうじのじんじゃ) 《 延喜式内社 》 〈 元村社・元府社 〉 |
《祭神》 ・高皇産霊神(たかみむすびのかみ) ・ |
〒583-0007 大阪府藤井寺市林3-6-30 TEL 072-954-5126 FAX 072-955-8582![]() |
近畿日本鉄道南大阪線・土師ノ里駅から北西へ約700m 徒歩約12分 国道170号より東へ約530m 国道旧170号より西へ約370m 駐車場 東側入口を入る(台数少) |
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1) 伴林氏神社正面からの様子(南より) 2022(令和4)年4月 合成パノラマ 鳥居と社号標は、戦前の拡張造営の際に現在の境内地の西方に西向きに 建てられたが、近年に現在地に移転された。 |
大伴氏の祖先神を祀る古社 伴林氏神社の創建時期は不詳ですが、『延喜式・神名帳』に小座として記さ れている格式ある古社です。「伴林氏」と付くので、これはもう伴林氏の氏神 だろうと思いきや、実はことはそう簡単ではないのです。1990(平成2)年藤井寺 市教育委員会発行の『藤井寺市文化財 第11号藤井寺市の神社』という小冊子に簡 潔に説明されているので、以下に紹介します。 『(前略)当社は社名からみると伴林氏(とものばやしうじ)が奉斎氏族であったとも推 測できるが、伴林氏に関しては、『続日本後紀』天長10(833)年3月30日条に見 えるぐらいで、国郡名を知ることができない。むしろ『日本三代実録』貞観9 (867)年2月26日条に「志紀郡林氏神(はやしうじのかみ)」が官社に列せられた記事が見え るので、林氏をこの社の奉斎氏族とするのが妥当であろう。林氏に関しては、 『新撰姓氏録』(河内国神別)に「林宿禰大伴宿禰同祖」とみえ、大伴宿禰は同 |
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2) 伴林氏神社疑似鳥瞰写真(南東より) 〔GoogleEarth 3D画 2020(令和2)年5月〕 |
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書左京神別に「高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)五世孫天押日命(あめのおしひのみこと)之後也」とあり、現在の二祭神はこれに由来するのであろう。また、 道臣命(みちのおみのみこと)も大伴氏の遠祖の一人で、もと日臣命(ひのおみのみこと)といい、神武東征に従い、天皇を熊野から「菟田下県(うだのしもつあがた)」 に導いたことにより道臣と言う名を与えられたと伝えられる(『日本書紀』神武即位前紀戊午年6月23日条)。やはり大伴氏の祖ということ で当社の祭神になっているのである。伴林(とものはやし)というのは、大伴氏が弘仁12(821)年に伴と改姓したからである。なお、『日本三代実録』 貞観15年12月20日条によれば、河内国正六位上天押日命神(あめのおしひのみことのかみ)が従五位をさずけられているが、もしこの天押日命神が当 社であるならば、当社の元々の祭神は天押日命であったと想定できる。 中世の様子は不明で、『河内名所図会』によると、「この地の産土神(うぶすながみ)なり」とあり、近世には林村の産土神であった。天明元 (1781)年と慶応2(1866)年の修復を記した棟札がある。(以下略)』(※ 原文の縦書き漢数字は数字に変えている。) これによれば、「伴林氏神社」の「伴」は、「大伴氏」のことで、「林」は「林氏」を表すということです。伴氏も林氏も同祖なので、 同じ祖先神を祀っている神社だということがわかります。 戦火で焼失-消滅の危機を超えて産土神に もう一つの小冊子からも紹介します。『伴林氏神社略誌』(伴林氏神社 1978年発行)という小冊子があります。発行された当時の宮司・故 山野高大氏は私もよく存じ上げていました。その頃、伴林氏神社のある地域を校区とする道明寺小学校に私は勤務していたので、山野宮司 ともご縁がありました。『伴林氏神社略誌』の記事から、中世以降の様子がわかる部分を抜き書きで紹介します。 『同神社も戦国時代に織田信長勢の兵火にあってすっかり焼失してしまい、同神社を維持管理してきた大伴氏の子孫林氏も断えてしまっ た。地元の人たちはこの由緒ある神社がなくなってしまうのはもったいないと産土(うぶすな)神として祀ることになった。小さな社殿でいにし えの面影はなかったが、神社を再建して三神を祀り、敬神講を設けて奉斎し護り続けて明治九年村社となった。大正の初め、神社の合併を その筋より勧奨されたが道明寺天満宮の南坊城宮司の兼務の神社として届けて他に合併されることをまぬがれた。』 ※「大正の初め、神社の合併をその筋より勧奨された」となっているが、神社合祀の政策は明治末期のことなので、「大正の初め」に ついては疑問が残る。藤井寺市域では明治40~41年に6社の神社が合祀され廃社となっている。5社は戦後に復社している。 伴林氏神社に残る史料等からわかるのは、中世後期から近世にかけては、この地域である林村の鎮守・防疫神とされる氏神は、「牛頭天 王(ごずてんのう)社」であったことです。「伴林氏神社」とはっきり名のるようになったのは明治初期からであったと思われます。と言うのも、 「牛頭天王」は神仏習合神であり、明治政府が政策として発した「神仏判然令」によって、全国の牛頭天王社から排除された祭神なのです。 牛頭天王が記紀神話の素戔嗚尊(すさのおのみこと)と同一視されていたことから、多くの牛頭天王社では祭神を素戔嗚尊に変えました。京都の八坂 神社がその典型例ですが、この神社の場合は「感神院祇園社」の名称も「八坂神社」に変えることになりました。今では祇園祭にその名を 残しています。伴林氏神社の場合は、大伴氏・林氏の祖先神である高皇産霊神・天押日命に道臣命を加えた三神を祀る神社となりました。 つまり、近世後期になって国学の研究が盛んになるにつれ、式内社・伴林氏神社と村の鎮守が結び付けられ、明治初期の国家神道体制発 足によって、氏神・牛頭天王社は国家によって「村社・伴林氏神社」と定められたのです。鎮守と式内社を結び付けた点については、林村 出身の国学者・伴林光平(ともばやしみつひら)の影響があったとみられています。江戸時代に発刊された書物・『河内名所圖會(かわちめいしょずえ)』(1801年 秋里籬島)では、『伴林氏神社 林村にあり。貞観九年(868)、官社と成。此地の本居神なり。』と書かれているので、中世の戦乱以降の荒廃 があっても、「伴林氏神社」の名は生き続けていたようです。 |
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3) 社殿と周辺の様子(南より) 2012年10月 狛犬の前には「右近の橘・左近の桜」が植えられている。 |
4) 立派な手水舎(東より) 2017年4月 戦前の境内拡張造営の時に、靖国神社からの譲渡で移築された。 |
変わってきた境内の様子-戦前には大きな変化も 写真3)は、落葉樹も茂っている時期の社殿周辺の様子です。大きく育った樹木が社の杜を形づくっています。現在の社殿は、本殿が1940 (昭和15)年、拝殿他が翌年に竣工したもので、境内の基本形もその時に整えられました。実は、伴林氏神社はその時期にたいへん大きな変 化をくぐり抜けて来たのでした(後述)。写真4)の手水舎(てみずしゃ・ちょうずや)も同じ時期に建てられたものです。この手水舎は新規に造られたもの ではなく、他所から移築されたものです。東京・靖国神社の旧手水舎が伴林氏神社に譲渡され、解体して藤井寺の地まで運ばれて来たので す。近隣の神社と比較して見ると、その立派さがよくわかります。手水舎も社殿も、完成した時の屋根は檜皮葺(ひわだぶき)でしたが(写真18) 19))、現在は銅板葺に変わっています。下の写真で、少し時代を遡った様子を見てみましょう。 写真5)は、石の大鳥居と社号標ですが、現在は石鳥居は拝殿前の正面にあり、社号標も正面入口脇にあります。石鳥居は1941(昭和16)年 10月29日の建立で、大阪市の島安兵衛氏という方が奉納されたそうです。明神型の立派な石鳥居ですが、神社所有地の用途転換により、19 89(平成元)年7月に現在地に移設されました。写真5)の鳥居と社号標は、現在の神社入り口から西方約150mの位置にありましたが、戦前 の神社拡張造営事業の際に、西を向いてここに建てられました。武神を祭る神社ということで、流鏑馬(やぶさめ)神事の構想もあったそうで、 境内地の拡張に合わせて、鳥居から東方の社殿に向かう約100mの長い参道がわざわざ造られました。現在道明寺こども園や伴林ハイタウ ンが建つ場所です。つまり、それまでの境内敷地よりもずっと広い敷地に拡張されていたのです。現在の境内地は、その頃よりもかなり減 少しています。 私が初めて伴林氏神社を見た頃は写真5)の位置に鳥居があり、「変な位置に鳥居があるな。」と思っていました。社殿は南向きで鳥居が 100mも西にあって西向き、という位置関係に違和感を覚えていました。しかも、その頃にはかつての参道はすでに参道としては機能して いなかったのです。鳥居と社号標だけがなぜか社殿と離れた所にポツンと立っている、という感じでした。 社号標は、1942(昭和17)年11月22日に除幕式が行われています。当時、更池(さらいけ)銀行が三和銀行に合併するに当たり寄贈したものだそ うで、「伴林氏神社」の文字は前首相・近衛文麿公の揮毫によるものです。揮毫された書には「文麿」の文字もありましたが、社号標には 刻まれませんでした。書は掛け軸にされて神社に残されています。 『伴林氏神社略誌』によれば、昭和50年代初めの敷地面積は約2,500坪(約8,250㎡)だそうです。戦前の拡張造営事業によって拡大した 境内地面積の2割程度になっていました。拡張前の敷地はずっと小さくて549坪程度(約1,800㎡)だったそうですから、境内は一挙に拡張さ れていたことがわかります。 |
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5) 石の大鳥居と社号標(南西より) 1978(昭和53)年 『伴林氏神社略誌』より |
6) 鳥居・社号標移設前の正面からの様子(南より) 1980(昭和55)年3月 写真1)と比較すると、鳥居・社号標移設に合わせて周辺整備されたことがわかる。 |
登録有形文化財建造物に登録-本殿ほか4件 2022(令和4)年3月18日に開催された国の文化審議会において、第102次登録有形文化財建造物として、伴林氏神社の5件の建造物を登録す るよう、文部科学大臣に答申されました。藤井寺市内では4例目となる登録有形文化財建造物です。 答申されるに至ったその評価は、『堂々とした外観と洗練された細部を有する近代社殿群であり、登録基準(一)「国土の景観に寄与して いるもの」または、(二)「造形の規範となっているもの」に該当する。』というものでした(藤井寺市サイト・「指定文化財」より)。 登録されたのは、「本殿」「拝殿及び幣殿(へいでん)」「棟門(むねもん)及び透塀(すきべい)」「手水舎(てみずしゃ)」「若宮八幡宮社殿(旧澤田尋常小学校 奉安殿)」の5件です。いずれの建造物も、戦前の昭和15~16年の拡張造営の時期に造られたものです。この内、本殿・拝殿・幣殿・棟門 ・透塀は、伴林氏神社拡張造営事業で新たに建てられたものですが、手水舎と若宮八幡宮社殿は他所から移設されたものです。 手水舎は東京の靖国神社から譲渡を受け、解体・輸送されて現在地で組み直されました(詳しくは後述)。若宮八幡宮社殿は、当時の道明 寺村の澤田尋常小学校(現道明寺小学校)に昭和15年に建てられた奉安殿(ほうあんでん)を、戦後になって伴林氏神社に移築したものです。 奉安殿というのは、戦前の学校で天皇・皇后の御真影と教育勅語を納めるために建てられていたものです。奉安殿の建築は明治の終わり 頃が始まりと言われ、特に昭和10年頃から盛んになりました。皇民・軍国教育が強化される時期と併行しています。もともとは、校舎内に 造られた「奉安所」でしたが、校舎火災や地震・台風などでの校舎倒壊で御真影に害を及ぼす危険があり、独立した頑丈な「奉安殿」が建 築されるようになりました。澤田尋常小学校に奉安殿が造られたのも、そのような時期のことだったのです。このような奉安所や奉安殿の 御真影の保護を目的として学校の宿直が始められたとも言われます。御真影や教育勅語の保護は、戦前の学校管理職にとっては極めて重要 な任務だったのです。校舎の火災から御真影を守ろうとして殉職した校長の話がいくつか伝えられています。 敗戦の年、1945(昭和20)年の12月15日、GHQ(連合国軍最高司令部)から発せられた神道指令により奉安殿を廃止することが決定します。 翌昭和21年6月、文部省次官より全国の奉安殿を小学校から全面撤去する具体的な指示が出されました。そこから、全国で奉安殿の撤去が始 まっていきます。しかし、「中央からの指示は“撤去”である」として、移設をしたり小学校の敷地から切り離したりすることで解体を免 れた奉安殿が、全国各地に残存しています。伴林氏神社に残る「旧澤田尋常小学校奉安殿」も、そのような奉安殿の一つなのです。 |
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貴重な史料-書籍『伴林氏神社史料』 一冊の書物を紹介します。『伴林氏神社史料』(伴林氏神社 2002年5月20日発行)という本が平成14年に発行されています。写真7)~10)、 14)16)18)19)はこの本から借用させていただきました。多くは出回っていない書籍だと思いますが、私は一つの歴史書として貴重な専門書 ではないかと思っています。戦前の伴林氏神社の様子や拡張造営の様子を見ることのできる貴重な写真が掲載されています。それ以上に価 値があると思われるのは、『伴林氏神社重要日誌』という部分です。1937(昭和12)年1月から1947(同22)年5月までの10年余りの間、伴林 氏神社をめぐってどんなことがあったのか、如実に知ることができます。この期間というのは、伴林氏神社にとって最も大きな変化のあっ た時期であり、神社の歴史を語る上では欠くことのできない時代でした。のみならず、この一地方の神社に起こった一大変化の事実を通し て、戦前昭和期の軍国主義の時代に展開された数々の事例を知ることができます。現在の憲法・法律や行政制度、教育制度、宗教法人のあ り方などからは、およそあり得ない、考えられないような事実が次々と記録されています。当時の実相を知ることができる生の史料なので す。また、伴林氏神社の歴史を知る上で価値のあるいくつかの一次史料や解説も貴重な内容です。 この本の編者として、膨大な神社の史料を整理・分析して書籍化されたのは、遠藤慶太氏(大阪市大)・高島正憲氏(大阪大)・福島幸宏氏 (大阪市大)の、当時大学院生だった方々です。熱意を持ってこの出版にエネルギーを傾けてくださった若き学者の方々に敬意を表したいと 思います。なお、福島幸宏氏は2015年吉川弘文館発行の『地域のなかの軍隊4 古都・商都の軍隊 近畿』に、『大阪 伴林氏神社と「西の靖国」 造営運動』というコラム記事を執筆されています。 『伴林氏神社史料』が出版された時の伴林氏神社宮司・故辻花市郎氏は、伴林氏神社のとなりのような場所にある市立道明寺中学校の教 頭・校長を務められ、定年で校長を退職されてから神職の道を志されました。伴林氏神社の宮司に就かれる以前には、道明寺天満宮で禰宜 などを務められていました。ちょっとした異色の宮司さんでした。 |
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旧社殿があった頃の様子-戦前の拡張造営以前 写真7)は『伴林氏神社略誌』(前掲)に掲載されたもので、戦前の拡張造営以前の境内の様子を知ることができる貴重な写真です。現在よ りもずっと小規模な社殿や鳥居で、境内を囲う塀や垣根も無く、実にのんびりとした鎮守の社の様子です。境内にそびえ立つ大木の姿が、 古くから存在する神社であることを教えてくれます。その樹木の一部だけが、当時の名残として今に生き続けています。写真8)がその当時 の社殿で、改築前に撮影されたものと思われます。石段を登って拝殿に向かうようになっています。社殿の規模の割には高い石垣を組んだ 上に建てられているのが特徴的です。『伴林氏神社重要日誌』の冒頭、昭和12年1月の記事では、当時の伴林氏神社の現況を次のように述 べています。『現在ニ於ケル境内ハ五百四十九坪国有地ニシテ、祭神ハ天押日命・道臣命、貞観九年二月二十六日官社ニ列シタル式内社ニ シテ本殿ハ桁行五尺(約1.5m)梁行四尺(約1.2m)、拝殿ハ桁行参間(約5.45m)梁行壱間参尺(約2.73m)、外ニ若宮(八幡神社)ノ小祠ヲ摂社トス。 附属物トシテハ石ノ鳥居壱基、石燈籠参基、獅子狗壱基ノ外八脚、三宝若干アル外何物モ無シ。境内ハ古松老楠数十本天ヲ覆フ。』 写真9)は尚武祭で行われた奉納剣道大会で、場所は旧社殿の前です。『伴林氏神社史料』の重要日誌の記録から、昭和14年5月7日の尚 武祭だと思われます。翌15年の尚武祭にも剣道大会が行われていますが、「中等学校剣道大会」と書かれているので、この写真とは違うと 思います。14年の大会は、「南河内郡各小学校教員児童ヨリナル尚武会々員ノ奉納剣道大会挙行」と記されており、写真の模範試合らしい 剣士は明らかに大人と見えるので、この写真の大会は14年の時だと推測できます。16年以降は社殿が改築されています。 それ以後の尚武祭の記録は、昭和17・19年の日誌に登場しますが、18年にはありません。実施されなかったのか記載漏れなのかはわか りません。昭和20年の尚武祭については、5月5日の記録として、『尚武祭 午前六時朝ノ祈願ニ引続キ尚武祭ヲ執行ス。松下総代其他参 列ス。本年ハ空襲頻(しき)リナルヲ以テ奉納剣道ハ之ヲ中止ス。』と書かれています。剣道大会どころではなかった、ということでしょう。 写真10)は、夏祭りで行われた奉納学生相撲大会の様子です。日誌の記録では、富田林(現府立富田林高校)・桃山(現桃山学院高校)の各 中学校(旧制)、成器商業学校(現大阪学芸高校)・大阪市立天王寺商業学校(2014年閉校)、それに3校の小学校が参加しています。団体戦・ 個人戦とも桃山中学校が一等になっています。伴林氏神社の夏祭りは7月25日ですが、重要日誌では相撲大会の記録は昭和14年にしか記 されていません。それ以前にも以後にも相撲大会の記録は載っていません。毎年行うものでもなかったようです。 |
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7) 拡張造営以前の境内の全景 『伴林氏神社略誌』より どこにでもある、素朴な姿の村の鎮守であった。 |
8) 拡張造営以前の拝殿の様子 『伴林氏神社史料』より 小規模ながら、石垣の上に造営された拝殿であった。 |
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9) 尚武祭での奉納剣道大会 1939(昭和14)年5月7日 『伴林氏神社史料』より 開催日付も同書の「重要日誌」による。 |
10) 夏祭りでの奉納学生相撲大会 1939(昭和14)年7月25日 『伴林氏神社史料』より 開催日付も同書の「重要日誌」による。 |
武神・大伴氏を祀る神社-注目を集める伴林氏神社 おそらく、伴林氏神社ほど時代に翻弄された神社も他にはないでしょう。時代の波、時の政治・軍事の思惑 によって、伴林氏神社はその運命が大きく変えられることとなったのです。その波は、ある時期突然にやって 来ました。1932(昭和7)年の「軍人勅諭」下賜50周年事業の際に、勅諭に登場する武神である大伴氏・物部氏 の宗祠(おおもとの神社)について調査が行われました。軍人の祖神として崇め祀ろうという軍の思惑がありました。 前年の昭和6年9月には満州事変が起こり、翌昭和7年3月には関東軍によって傀儡(かいらい)国家・満州国が建国 されました。そして5月には「五.一五事件」がありました。そんな時代背景の中でのことでした。 当時の陸軍次官・柳川平助中将の依頼を受けた国学者・歴史学者の生田目経徳(なまためつねのり)は、執筆した『大伴 氏神社考査』の中で、『(前略)…督将元戎を統率し、天皇の内兵として、国史に光輝を垂れたる大伴氏の神社の 現存するは、唯、河内の伴林氏神社あり、…(中略)…大伴氏の祖神として、国史に事蹟を伝へ、延喜の神名帳 に載せ、官祭に預かりたる社は、今は伴林氏神社の一社あるのみなり、祭神は独、大伴氏の祖神たるのみにあ らず、物部氏の祖神と共に軍の祖神として崇敬する所なり。』と述べています。 ほぼ、この生田目氏の考査説が決め手となったと思われます。生田目氏は、先ず「氏神の起」「大伴氏の遠祖」 「大伴氏の姓族」について論じ、他の有力候補であった「伴氏神社(京都市)」と「大伴神社(長野県)」についても 論じた上で、上記のような結論を導いています。しかし、大伴神社は他所にも存在しており、今日の歴史学者 や神社史の専門家からみれば、考証の不十分な論考だとみなされたであろう結論でしたが、当時は深く検討さ |
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11) 新聞記事(大阪朝日新聞) 1934(昭和9)年6月15日 |
れた様子もなく軍に受け入れられていきました。陸軍によって伴林氏神社は日本最古の武神大伴氏の祖神を祀る神社であると折り紙を付け られることになりました。 なお、『大伴氏神社考査』は、後の昭和13年に加筆・改題されて『伴林氏神社由緒』として伴林氏神社に送付され、現在まで保管されて きました。『伴林氏神社史料』でその論考を読むことができます。 蘇る伴林氏神社-「西の靖国」造営運動 以上のような経過があって、伴林氏神社を「武神を祀る神社」として顕彰しようという事業が計画されます。それを世に知らしめたのが 写真11)の新聞記事でした。1934(昭和9)年6月15日の大阪朝日新聞に載った記事です。何と、伴林氏神社を「西の靖国神社」にしようと言う のです。当時、靖国神社は一般の神社とは別で、陸軍省・海軍省の共同管理下にありました。伴林氏神社の顕彰事業についても、陸軍省が 大きく関わっていくことになります。前掲の福島幸宏氏の記事『大阪 伴林氏神社と「西の靖国」造営運動』から、一部を紹介します。 『その結果、1934(昭和9)年6月15日付の『大阪朝日新聞』には「西の靖国神社に浄財を募って維持顕彰荒廃から伴林氏神社蘇る」という見 出しの記事が掲載されることになる。これによると、陸軍省・文部省・大阪府が、東京帝国大学国史科教授の黒板勝美などの協力をえて実 地調査を行ない、保存顕彰方法をとりまとめた。その上で「祖国守護の武神を祀る由緒の神社としてふさはしい尊厳を醸(かも)し出し更に関 西の靖国神社として一般愛国将兵の英霊も分祀(ぶんし)しようと」いう目的を持って、社域を20倍弱に拡大して、増築や造林を行なおうとす るものであった。 戦局の推移のために最終的には実現はしなかったものの、伴林氏神社の復興は、「武神」の顕彰による戦意発揚というものにとどまらず、 関西の諸部隊の戦没者の霊を祀る「靖国神社」を建設するためのものであったのである。大阪の近郊にあり、幕末には志士伴林光平を輩出 し、交通の便も良い伴林氏神社が、「武神」として顕彰される条件は整ったのである。』 顕彰事業の開始-奉賛会の設立 いよいよ顕彰事業が開始されますが、まず、1937(昭和12)年2月に予備役陸軍歩兵大佐・渡邊喜一氏が社掌として赴任します。それまで は常住の社掌は居らず、土師神社(現道明寺天満宮)の宮司が兼務していました。社掌となった渡邊氏は、この後10年間に渡って伴林氏神社 の激動の時代を神社の責任者として務めていくことになります。この動きとほぼ同時に、大阪府庁に事務所を置く「伴林氏神社奉賛会」が成 立します。当初の主な役職は、名誉顧問に林銑十郎陸軍大臣・大角岑生海軍大臣・山本達雄内務大臣・鈴木荘六帝国在郷軍人会会長、顧問 に寺内寿一第4師団長・原五郎海軍監督官・関一大阪市長など、会長に懸忍(あがたしのぶ)大阪府知事、副会長に土岐大阪府内務部長・池川大阪 市助役、庶務係長に府社寺兵事課長、会計係長に第4師団職員、事業係長に伴林氏神社神職、などの体制でした。陸軍第4師団は、明治初 期の大阪鎮台を基とする師団で、大阪城公園内に師団司令部を置いていました。旧大阪市立博物館のレンガ造建物が司令部庁舎として造ら れたものです。この第4師団が、伴林氏神社奉賛会の進める顕彰事業に大きく関わっていくことになります。 その後、奉賛会は組織が拡張され、昭和14年年3月には、陸海軍大臣を総裁、第4師団司令部付少将・大阪府学務部長・大阪市助役を副 会長とし、名誉顧問には第4師団長、陸海軍省次官をはじめ、永野修身、寺内寿一、松井石根、林銑十郎などの陸海軍大将、顧問には、陸 軍省副官や大阪出身の貴族院議員などが名を連ねていました。また、事務所が大阪府庁から伴林氏神社社務所に移ってます。この時期、昭 和13年度の事業報告によると、奉賛会会員は大阪府下を中心に「目下十万人」、収入5万990円53銭、支出2万3642円16銭となっています。 一般の浄財も含めて、それらの管理・会計はすべて第4師団経理部が統括していました。 予備役とは言え陸軍軍人の神職を配置した上、事実上大阪府と陸軍が運営する奉賛会が神社経営を支えていくことになりました。この奉 賛会の成立過程や役職構成を見ると、顕彰事業が何を目的としていたのか、一目瞭然となります。かつて戦乱を経て自然消滅の危機すらあ った神社を、村の産土神として細々と守り維持してきた林村の人々の素朴な信仰心は、どこかに押しやられそうになっていました。 境内整備と建物造営 顕彰事業の一環として、境内地拡張計画の方も着々と進められました。1937(昭和12)年5月には、拡張予定地4495.23坪(約1.48ha)の 売買契約が成立し、1938年11月からは学校生徒などの勤労奉仕によって整地工事などが開始されました。1941(昭和16)年8月までの間に実 施された勤労奉仕には、累計で591団体74,469名が参加しています。さらに1939年にも拡張が行われ、拡張前には549坪(約1,800㎡)し かなかった境内地面積は、総計1万2004.23坪(約39,600㎡=3.96ha)にもなりました。実に22倍にも拡張されたのでした。 写真12)は、拡張整備工事が開始されたころの撮影と思われる伴林氏神社周辺の空中写真です。この一帯は、当時は明治時代の合併で成立 した道明寺村でした。旧林村と旧沢田村の集落以外はみな田畑でした。平面に見える部分は水田で、大水川の両側に広がる濃い色の部分は 当時この辺りで栽培の多かったブドウか梨、或いは名産と言われた巴旦杏(はたんきょう)の果樹園だと思われますが、果樹の密度から推察すると ブドウ畑ではないかと思います。昭和初期には大阪府のブドウ生産量は全国最多で、道明寺村周辺も有力生産地の一つだったのです。いず れにせよ果樹の整然と並んでいる様子がわかります。伴林氏神社の北側・東側を見ると、すでに整地作業が行われているとも取れる様子が 見られます。 ※「巴旦杏」…スモモの一種 伴林氏神社に残されている別の写真には、当初の境内拡張計画範囲が赤線で書き込まれています。写真12)のピンク色線範囲がそれです。 その写真には別に、新たに造る2ヶ所の参道も書き込まれています。緑色の部分がそれです。表参道とされる道路は、当時建設中であった と思われる産業道路(現・国道旧170号)から伴林氏神社に進入する参道として計画されたものでしょう。しかし、この参道は実現していませ ん。用地買収ができなかったのか、資金不足だったのか、理由はよくわかりません。寄贈された石の大鳥居や社号標が裏参道とされる道路 (こちらは造られた)の西の端に設置されたことを見ると、計画具体化の過程でこちらを新しい参道として整備することになり、東側の参道 計画自体が取り止めになったと思われます。また、写真に書き込まれた当初計画では、新しい社殿も西側の果樹園辺りに造り、従来の境内 は外苑とするようになっていますが、こちらも実現はしていません。『伴林氏神社重要日誌』の昭和15年1月8日の記録に、『御本殿ノ位置 ハ現在地ニ御改築ノコトニ決定ス。』(下記日誌内容に詳述)とあり、境内拡張の造成工事が開始された後でも、新しい社殿の場所については 決まっていなかったようです。いずれにしても、顕彰事業は壮大な境内拡張計画であったのです。 写真13)は同じ範囲を比較できるように、Google Earth衛星写真の3D画像を切り出したものです。12)と比べやすいように少し傾斜角を取 っています。伴林氏神社を見ると、22倍にも拡張されていた境内が、戦後の変化の中で再び縮小されたことがわかります。そして、神社の 周りがすっかり市街化していることに驚かされます。家が増えれば当然人口も増え、新たな学校も必要になってきます。1970(昭和45)年、 神社のすぐ近くに道明寺中学校が開校しています。道明寺小学校が見えていますが、このすぐ左上の位置に近鉄・土師ノ里駅があります。 伴林氏神社の整地工事のために、大勢の勤労奉仕の学校生徒や各種団体の人々が、土師ノ里駅(当時は大阪鉄道)から伴林氏神社まで集団で 歩きました。比較的駅に近いという立地条件が、この事業を進める上で大きく貢献しています。 |
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12) 境内拡張工事が開始された頃と思われる空中写真(北より) 1937~1939(昭和12~14)年頃の撮影か 『伴林氏神社史料』より 線画・文字入れ等一部加工 |
13) 現在の伴林氏神社周辺の様子(北より) 写真12)の俯瞰撮影に合わせるために、北寄りに斜角を取っている。 〔Google earth3D画 2020(令和2)年5月〕より 文字入れ等一部加工 |
建築物については、奉賛会が建築して神社に寄贈する形が取られました。1940(昭和15)年8月5日には「御本殿立柱上棟祭」が執行され、 (後述)。同年9月には、靖国神社の手水舎を譲り受けて移築が行われました。わざわざ靖国神社から建物を移築したことが、この顕彰事業の 性格と目的を象徴しています。数年前までの伴林氏神社では想像もつかなかった大きな出来事でもありました。 1941(昭和16)年1月15日、拝殿・祝詞殿・神饌殿・祭器殿の上棟式が執行されていますが、『重要日誌』の記事からは、拝殿等の建物が 「金剛組」によって建設されたことがわかります。金剛組は日本最古(世界最古とも)の企業と言われ、百済からの渡来人・金剛重光を初代 とする宮大工集団が起こりです。我が国最初の官寺・四天王寺の建立に携わり、江戸時代までは四天王寺お抱えの宮大工として続いてきま した。明治以降は各地の寺社建築も請け負うようになっており、伴林氏神社もその一例となったわけです。 次いで同年12月17日には、社務所・新橋・燈籠・制札・社号標・狛犬・手水舎・参道が竣工しました。その直前の10月29日には、石の大 鳥居が竣工しています。翌1942(昭和17)年2月8日、この日の午前に「大詔奉戴日祭」が執行され、午後には、神橋・鳥居・参拝道路の渡り 初め式が行われています。 昭和17年2月10日には、社殿の「竣工奉告祭並ニ祝賀式」が行われました。『重要日誌』には運営に携わる神社関係者のほかに、多くの 参列者が記載されています。少々煩雑ですが、“新”伴林氏神社の性格につながることなので、敢えて紹介しておきます。(敬称略) ◇奉賛会総裁・陸軍大臣及び海軍大臣※1 ◇奉賛会長代理(副会長)第4師団兵務部長・三浦陸軍少将 ◇大阪府知事代理・伊藤府学務部長 ◇中部軍司令官・藤井洋治陸軍中将 ◇大阪第4師団長・関 原六陸軍中将※2 ◇大阪警備府司令長官・小林 仁海軍中将 ◇大阪商工会議所会頭代理・副会頭・湯川忠三郎 ◇帝国在郷軍人会代表・吉積陸軍中将※3 ◇道明寺村長・松村平一 ◇寄付者代表 ◇国防婦人会代表 ◇崇敬者総代々表 ◇氏子総代々表・麻野芳一 ◇工事関係者 花輪技師・朝倉氏・山田組・金剛氏 ◇一般参列者代表 山口伊一郎道明寺国民学校(現道明寺小学校)長 ◇其他軍部関係・府庁関係者・国防婦人会員七百名、寄附者多数、道明寺国民学校児童。 ※色文字部分が『重要日誌』の記述。グレー文字は筆者が補足。 |
※1 日誌には個人名の記載が無いので代理と思われる。 ※2 日誌では「関大阪師団長閣下」となっているが、関 原六中将と思われる。ただし、関中将の師団長就任は昭和17年7月なので矛盾するが、よくわからない。 ※3 吉積正雄中将と思われるが、昭和17年では少将だったので、疑問が残る。また、なぜ在郷軍人会代表なのかもよくわからない。当時の会長は別の軍人。 |
この年11月22日には、社号標の除幕式も行われています。 |
「府社」への昇格 竣工奉告祭並祝賀式から1年半、1943(昭和18)年9月7日には、申請以来2年で「府社」への昇格が実現します。既述の通り、明治初期に 伴林氏神社は林村の「村社」と定められていました。府社・村社などは、明治期になってすべての神社が国家管理のもと置かれる体制(国家 神道)になり、明治4年に制定された近代社格制度で定められた「神社の格付け」です。神社は大きく官社・諸社・無格社に分けられました。 官社には官幣社(かんぺいしゃ)と国幣社(こくへいしゃ)があり、全国的に有名な神社の多くがこれでした。諸社の分類が府社・県社・郷社・村社で、以 上の社格に入らないその他の神社を無格社としました。市町村制が制度化される以前だったので、市や町が付く社格はありません。村社で あった伴林氏神社は、大伴氏の祖先神を祀る神社として顕彰されたことで、一挙に「村社」から「府社」への昇格を果たしたのでした。そ れまでに南河内地区にあった府社は、誉田(こんだ)八幡宮(現羽曳野市)・建水分(たけみくまり)神社(現千早赤阪村)の2社だけで、土師神社(現道明寺 天満宮)でさえ「郷社」でした。広く信仰された学問の神様よりも軍事を司った武神の方が重視される、そんな時代だったのです。 この府社昇格を祝って、この年10月7日には「昇格奉告祭」が行なわれています。このような「奉告祭」は神社整備事業の節目にも行な われ、有力者の出席やラジオ中継・新聞の特集なども行なわれました。ここにおいて、伴林氏神社は「西の靖国」としての最盛期を迎える ことになるのでした。 この顕彰事業による境内整備と府社昇格の過程を概観してみると、道明寺村長の指導のもと、周辺の民有地を買収して国有地に編入した 後、学校生徒を中心とした勤労奉仕で整地を行ない、軍関係者や一般からの寄附金で成立している奉賛会の資金により陸軍技術者の監督で 社殿を建設するという、まさに当時の伴林氏神社の高い位置付けを反映したものであったと言えるでしょう。 |
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14) 勤労奉仕による作業の様子 1939(昭和14)年頃か。 作業しているのは高等女学校の生徒か。遠方右手の山地は 生駒 山地なので、南から北方を見ている。後方に果樹畑が見える。 |
15) 勤労奉仕による作業の様子 これも女学校生徒による奉仕作業と思われる。 『カメラ風土記ふじいでら』(藤井寺ライオンズクラブ 1979年)より |
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16)新本殿立柱上棟祭「もちまき行事」 1940(昭和15)年8月5日 「午後5時ヨリ撒餅行事を行フ」(『伴林氏神社史料』より) ※ 14)16)は、『伴林氏神社史料』より |
17) 完成した新本殿 従来とは比較にならないほど大きくて立派な本殿である。 『カメラ風土記ふじいでら』より |
進む顕彰事業の中で-勤労奉仕作業・もちまき行事 写真14)15)は、女子生徒による勤労奉仕作業の様子です。昭和14年頃の撮影ではないかと思われます。『伴林氏神社史料』掲載の勤労奉 仕関係の史料によると、1939(昭和14)年5月に大阪府学務部体力課より伴林氏神社に送付された書類で、5月下旬の勤労奉仕出動予定の学 校として、第二大谷高等女学校(現東大谷高等学校)・天王寺高等女学校(現四天王寺高等学校)・阿部野高等女学校(現府立阿倍野高等学校)・大阪女子 商業学校(現あべの翔学高等学校)の名前を見ることができます。 同様に他の女学校も動員されていたものと思われます。男子校であった中学 校(旧制)や実業学校、男性勤労者などに限らず、このような女学校の生徒や国防婦人会などの女性団体もかなり動員されていたようです。 さらには、近隣市町村の小学校からも高学年児童が動員されています。 写真16)は、1940(昭和15)年8月5日に執行された「御本殿立柱上棟祭」で行われた「餅まき」の行事の様子です。『伴林氏神社史料』の「重 要日誌」からこの日の記事を取り出してみます。『御本殿立柱上棟祭・上棟撒餅 五日 午前九時ヨリ御本殿立柱上棟祭執行。参列者 第4 師団司令部附少将・松井閣下、辻尾規矩彦・大阪府社寺兵事課長、湯川忠三郎・大阪商工会議所副会頭、佐竹三吾・大鉄社長、山下良眼・ 師団司令部附中佐、松村平一・道明寺村村長、松村・郵便局長、田中季太郎・奉賛会常任理事、山口伊一郎・道明寺国民学校校長・代理、 松川・道明寺村助役、中井・大鉄支配人、石田書記、長唄協会今藤長太郎、若宮八幡大神宮桑田重孝、氏子総代、世話人、大阪女子商業学 校生徒諸氏。 午後五時ヨリ撒餅行事ヲ行フ、午後四時頃ヨリ続々ト遠近ノ人々集リ「餅マキ」時分ニハ御本社前黒山トナル。』 餅まき行事に集まった旧林村や周辺地区の人々が、新しい大きな本殿の姿を見て、これから始まろうとしている伴林氏神社の大きな変化 を予感したことは、想像に難くありません。3年前の昭和12年7月に始まった日中戦争(当時・支那事変)は泥沼化の様相が見え始めており、 1年余り後には太平洋戦争が始まるという時期でしたが、それでもまだ、餅まき行事を楽しむという少しばかりの余裕はあったのです。 本殿は、この年の10月29日に完工検査を受けて竣工しました(写真18))。その後、拝殿や社務所などの施設も竣工していきます。 |
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18) 改築された新社殿 石段等に汚れがあり、数年後の 撮影と思われる。檜皮葺の屋根は現在は銅板葺になっている。 『伴林氏神社史料』より |
19) 寄贈により移築された靖国神社の旧手水舎 手水舎も檜皮葺の屋根が現在は銅板葺に変わっている。 『伴林氏神社史料』より |
立派な社殿と手水舎-「西の靖国」の象徴 写真18)は、新しくできた社殿の様子です。写真に見えるのは拝殿・石灯籠・狛犬などで、本殿は拝殿に隠れて見えません。拝殿の石段や 石灯籠の基壇などに汚れが見えるので、完成時から数年後の撮影のように思われます。写真8)の旧社殿と比べると、ずいぶん大きく立派な 社殿に変わったことがわかります。屋根も美しい檜皮葺(ひわだぶき)です。写真1)3)でわかるように、現在は銅板葺きに変わっています。右側 石灯籠の前に立つ大木は現在(写真3))はありませんが、後方の樹木は大木となって現存しているようです。 写真19)は、既述で触れた通り、伴林氏神社顕彰事業に合わせて靖国神社から譲渡された手水舎です。太い柱に檜皮葺の立派な屋根の大き な造りで、普通の地方神社ならあり得ない規模の手水舎です。わざわざ東京の靖国神社から解体・輸送され、拡張された伴林氏神社の新境 内で組み立て・建立されました。 もともと靖国神社では、建て替えによってこの手水舎が不要となっており、1940(昭和15)年8月15日に伴林氏神社から出された「手水舎 無償移管願」に対して、9月15日付で鈴木孝雄・靖国神社宮司より『手水舎移管ノ件回答』が出され、移管が了承されています。それに先 だって、9月13日付で『手水舎材料運搬ノ件通牒』が靖国神社社務所より出され、「(前略)来ル十五日頃ヨリ逐次柏原駅ニ到着スル筈ニ付、 御受領相成度候也」と記されています。つまり、正式な移管認可の前に手水舎運搬の手はずが進められていたわけです。誰が手水舎移管を 言い出したのかはわかりませんが、靖国神社は陸・海軍省の管轄だったので、顕彰事業に関わっている大阪の陸軍第4師団司令部や、顕彰 事業の発端をつくった柳川平助陸軍中将及びその周辺などが、背景に関与していたのかも知れません。いずれにせよ、実に手際よくことが 運ばれています。靖国神社の手水舎新築が陸軍大臣より認可されたのはこの年の6月のことなので、解体した材料が3ヶ月後の9月中頃に 大阪に到着するというのは、如何にスピーディーに進められたのかを示しています。伴林氏神社や靖国神社に残されている史料から、手水 舎移管については、伴林氏神社奉賛会常任理事の田中季太郎(すえたろう)氏が中心的な役割を担っていたこともわかります。 昭和15年9月の『重要日誌』には、手水舎の材料到着の状況が記されています。荷物は現在の柏原市・JR柏原駅(当時鉄道省線)に到着し、 牛車で伴林氏神社に運ばれました。『靖国神社手水舎運送シ来ル 17日靖国神社御手水舎材料第一回(牛車三台)三六点運送シ来リ中野惣吉 方小屋ニ一時保管ス。 20日第二回(牛車二台)壱壱四点受領ス。 21日第三回(牛車二台)八四点受領ス。第四回(牛車二台)六六点受 領ス。 22日第五回(牛車一台)六八点受領ス。第六回(〃一台)十点受領ス。第七回(〃二台)十三点受領ス。』 |
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『重要日誌』に残る戦時下の伴林氏神社-顕彰事業が進む中で 昭和17年2月10日に社殿の竣工奉告祭並ニ祝賀式が行われ、新生伴林氏神社は一応の完成を見ました。実際にはそれ以前に本殿や拝殿な どが竣工しており、昭和17年以前にも新築成った武神の神社・伴林氏神社を参拝に訪れる人もかなりいたようです。『重要日誌』には、名 のある人々や団体の参拝の記録も残されています。神社の完成以後はその数も増えており、動員された団体の参拝や参列も多く見られます。 日誌への記録はすべてではないと考えられるので、実際にはもっと多くの事例があったことでしょう。昭和12年2月5日付で渡邊喜一氏が 社掌に任命され、『重要日誌』もそこから始まります。ほとんど、或いはすべてが渡邊社掌によって記録されたと思われる日誌ですが、そ の中から、参拝・参列した個人名・団体名がわかる記録例を列挙してみます。『重要日誌』を読んでみて、元教師であった私が注目したの は、当時の学校の児童・生徒が頻繁に神社の祭礼や参拝に動員されていたという事実です。政教分離が徹底された日本国憲法の下にある今 日の学校教育ではとうてい考えられないことです。裏を返せば、当時の学校教育の中に国家神道を媒介として、軍国主義がそれだけ深く入 り込んでいたということでもあります。 下の表では、参拝・参列者のほかに、伴林氏神社であった主な出来事も抽出・列記しました。原文通りの場合以外は、地元の氏子・崇敬 者・公職者などや奉賛会の地元役員は省いています。薄グレー文字部分は筆者による補足部分です。 |
《 色別の各表記区分 》 日誌の原文通り 政府・大阪府等公職者 軍人 学校児童生徒 一般団体及び代表者 | |||
年 | 月 | 日 | 日 誌 の 記 録 内 容 |
1937 (昭和12) |
2 | 5 | 予備役陸軍歩兵大佐正五位勲三等功五級・渡邊喜一、本日附当社社掌ヲ命セラレ十級俸支給ノ辞令ヲ交附セラル。 |
7 | (略)、前兼任社掌土師神社社司・南坊城良興ト事務ノ引継ヲ終了ス。但シ金銭物品等ハ何等引継ヲ受ケタルモノ無シ。 当時ノ氏子ハ道明寺村字林一円ニシテ約九十戸アリ。氏子総代左ノ如シ。(総代名略) |
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17 | 午後五時奉賛会発起人トシテ左記ノ者大阪ホテルニ会合シ、将来ノ行動ニ付打合ヲ行フ。(出席者名略)一、先ヅ既収ノ寄附金ニ テ敷地ヲ買収ス、買収ハ地元村長ニ委任ス 一、奉賛会役員ヲ改選ス |
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7 | 10 | (第4)師団司令部付少将・河村 薫、陸軍省副官・川原少佐参拝。 7月7日、日中戦争(支那事変)が勃発する。 | |
25 | 午前八時ヨリ道明寺分会長・松村平一斎主トシテ、在満将士ノ為祈願祭ヲ又引続キ夏祭ノ祭典ヲ挙行ス(中祭)。 | ||
8 | 1 | 神社御守制定ノ為祭典ヲ行ヒ出征氏子ニ配布ス。 | |
9 | 27 | (略)、献供田抜穂祭ヲ行フ。大阪府知事・池田清閣下参拝。 | |
12 | 9 | 月並祭執行ス。道明寺婦人会三百名参拝ス。 | |
1938 (昭和13) |
2 | 26 | 大阪ホテルニテ辻尾、湯川、田中、渡邊会合。寄附金募集ニ付陸軍省・師団ヘ積極的協力ヲ依頼スル様打合ヲナス。 |
3 | 14 | 在満将士ヘ御守一万体ヲ発送ノ手続ヲナス。 | |
25 | 柳川平助・陸軍中将参拝。五百円寄附ス。 | ||
4 | 26 | 靖国神社臨時大祭ニ付祭典ヲ行フ。道明寺婦人会約三百名藤井寺国婦(国防婦人会)約五百名、村長、青年団等多数参拝。 | |
5 | 7 | 東京市渋谷区代々木山谷一七五番地・生田目経徳(なまためつねのり)ヨリ伴林氏神社ニ関スル考証ヲ送付シ来ル。 | |
7 | 7 | 午前十時日支事変一周年記念祭ヲ施行ス。道明寺婦人会、柏原婦人会、道明寺小学校、在郷軍人会、青年団、地方名誉職 等約二千人参拝。 |
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10 | 9 | 午前十時ヨリ例祭並ニ祈願祭執行ス、(略)。村長以下名誉職、軍人会、婦人会、学校児童氏子総代参列ス。 | |
24 | 午前十時ヨリ地鎮祭執行、主ナル参拝者左ノ如シ。会長知事・池田清、顧問中将・柳川平助、来賓中部防衛司令官・中将谷壽夫、 中将・秦眞治、少将・熊谷敬一、同・森本義一、海軍少将・松崎伊蔵、大佐・土谷直三郎、中佐・山下良眼、湯川忠三郎、 大阪鉄道社長・佐竹三吾、奉賛会常任理事・田中季太郎、外三百六十名 (略) |
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28 | 漢口陥落奉告祭執行。婦人会、小学児童、氏子総代其他参拝者多シ。社掌ヨリ天佑神助ノ講演ヲナス。 | ||
11 | 23 | 大阪市産業部商工課長・草刈孟以下尚志会員約百名参拝、社掌ヨリ神社ノ由来ヲ説明ス。(略)本日ハ新嘗祭ニ付参拝者多シ。 | |
27 | 勤労奉仕ヲ開始 新境内整地工事勤労奉仕第一日。会長知事・池田清、中部防衛司令官・谷壽夫中将ヲ始メ大鉄社員八十名、 道明寺村名誉職員他八十名、大井軍友会三十名参集、午前九時ヨリ別紙勤労奉仕日誌ノ如ク作業ヲナシ午後二時終了。 |
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12 | 9 | 午前十時ヨリ月並祭執行。(略)西区廣教小学校女生徒六十九名仁木正一引率ノ元ニ参拝ス。本日奉仕ノ団体ナシ。 | |
1939 (昭和14) |
1 | 1 | 元旦 午前零時ト共ニ既ニ数名ノ参拝者アリ、引続キ参拝者絶ヘズ。(略) (1~3日、連日参拝者多数の記録あり。) |
15 | トンド祭 (略)午後一時ヨリ七五三縄聖火神火ヲ初ム。尚午前九時ヨリ河南北部青年学校奉仕団勤労奉仕ヲナシ、午後ヨリ 攻防戦ニ参加シ境内福引ト共ニ参拝者多数アリ、(略)。 |
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2 | 11 | 午前十時紀元節祭典執行、(略)。本日ハ天気良好ニシテ紀元節ナル故学校、生徒各種団体ノ参拝多数アリ。 | |
12 | 午後四時陸軍大将・寺内壽一閣下正式参拝セラル。玉串料トシテ金拾円也供進ナル。他に武運長久祈祷一件アリ。 | ||
3 | 27 | 熊谷・中将閣下以下幹部十名参拝、当社仮社殿敷地ノ整地作業奉仕セラル。(略) | |
4 | 15 | 午前九時ヨリ大阪府立天王寺中学校ノ勤労奉仕作業実施、午後二時終了。午前十時ヨリ月次祭並ニ武運長久祈願祭執行。 阪神飛行学校ヨリ参拝アリ。 |
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5 | 7 | 午前十時尚武祭執行。同十時半ヨリ南河内郡各小学校教員児童ヨリナル尚武会々員ノ奉納剣道大会挙行。(略) | |
8 | 午前ヨリ播種式並ニ地鎮祭執行。参列者左ノ如シ。松村村長、山口澤田・道明寺尋常小学校校長六年男子児童外二三名。 | ||
9 | 午前十時半月例祭執行。参列者麻野、安井両氏、藤井寺小学校職員生徒二百二十名。 | ||
15 | 午前十時ヨリ月次祭執行。並ニ武運長久祈願祭執行、四条畷高女、喜志小学校生徒参列。本日電話開通ス。 | ||
6 | 15 | 午前十時月次祭執行、小学校児童参列ス。 | |
7 | 1 | 午前十一時月次祭執行、西浦小学校生徒参列ス。 | |
25 | 午前十時ヨリ夏祭執行。引続キ奉納学生相撲大会挙行(略 上記で記述)。富田林・桃山の各中学校、天王寺・成器各商業学校、 澤田(道明寺)、国分、誉田の各小学校、大鉄従業員が参加している。 |
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8 | 1 | 月次祭 午前十時、武運長久祈願祭執行。大谷高女(現大谷高等学校)生徒参列ス。 | |
9 | 9 | 午前十時月次祭執行。生野中学奉仕団参列。(略) | |
10 | 1 | 午前十時月例祭執行。本日ハ興亜奉公日ニ付早朝ヨリ阪神飛行学校職員生徒ヲ始メ多数ノ団体参拝アリ。 | |
23 | 生國魂(いくくにたま)神社ヨリ無償譲渡受ケナシタル仮殿本社東側ニ建築中ノ処、概ネ竣立ス。 | ||
11 | 18 | 午後七時ヨリ御仮殿遷座祭執リ行ハレ、午後九時十分無事終了セリ、(略)。参列者として、大阪府知事閣下、遠藤・閣下、 森崎・中佐、山下・中佐、辻尾・課長、佐竹三吾・大阪鉄道社長、山口伊一郎・道明寺小学校長 などの記述が見える。 |
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1940 (昭和15) |
1 | 8 | 本殿御改造ニ付奉賛会ヨリノ申請ニ依リ内務省考證官・坂本廣太郎氏来社。第4師団ヨリ遠藤・少将、山下・中佐、 大阪府ヨリ辻尾・課長…(略) 立会。御本殿ノ位置ハ現在地ニ御改築ノコトニ決定ス。 |
15 | 午前十時左義長祭ヲ執行ス。(略)午後一時三十分ヨリ「ドンド」神事ヲ行フ、烈風吹キスサブ寒気ナレド見物人黒山ノ如ク出店モ アリ大変販フ。当日中央放送局ヨリ局員出張神事ヲ録音ニオサム、来ル二十八日午前十時ヨリ放送スル由、又朝日新聞社ヨリ「ニ ュース」映写班出張撮影ヲナス、大朝(大阪朝日)、大毎(大阪毎日)、大阪時事各新聞記者来社、行事午後三時大ニ終ル。 |
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2 | 11 | 午後一時三十分ヨリ紀元節祭執行。 本年ハ特ニ二千六百年相当ニ付大祭ニ準セラル。(略) 在郷軍人会林班、道明寺婦人会林班、 小学児童、氏子総代参列。 |
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28 | 作業中拝殿棟ヨリ左ノ棟札出ズ。 ( 日誌の28日欄及び『伴林氏神社史料』解説本文で棟札の内容を提示している。) | ||
3 | 4 | 午前九時三十分ヨリ本殿木造初式祭典執行、同十一時祭典終了。師団ヨリ遠藤・閣下、山下・中佐、府ヨリ池辺属、木村技手、 奉賛会ヨリ湯川忠三郎、田中季太郎、大鉄ヨリ奥野政一・道明寺駅長、澤田小学校長、氏子総代並ニ世話人、天理教、 勤労奉仕学校大谷高女 以上。 |
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5 | 5 | 午前十時尚武祭執行。引続キ奉納府下中等学校剣道大会挙行。大阪府下の中等学校35校が参加。 | |
6 | 19 | 午後三時、陸軍省副官陸軍歩兵大・佐川原直一殿参拝サル。(略) | |
24 | 午前十時神饌田御田植祭渡邊社掌斎主ノ下ニ執リ行フ、(略)村長、山口・校長、松村・局長、林婦人会小学校生徒多数参列。 | ||
27 | 午前八時三十分第4師団司令部附少将・松井閣下参拝サル。(略) | ||
8 | 5 | 午前九時ヨリ御本殿立柱上棟祭執行。参列者松井・閣下、辻尾・社寺兵事課長、湯川忠三郎、佐竹・大鉄社長、山下・中佐、 松村・村長、松村・郵便局長、田中・常任理事、山口・校長・代理、松川・助役、中井・支配人、石田・書記、 長唄協会・今藤長太郎、若宮八幡大神宮・桑田重孝、氏子総代、世話人、大阪女子商業学校生徒諸氏。 午後五時ヨリ撒餅行事ヲ行フ。(略) (※ 上記写真16)で既述) |
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9 | 17 | 靖国神社手水舎運送シ来ル(略) 17・20・21・22日の4日に渡って記録あり。 (上記写真19)で既述) | |
10 | 29 | 第一期工事御本殿并ニ透塀竣工検査、師団ヨリ長谷川・技師、朝倉・技手、府ヨリ木村・技手、荻野氏、山田組ヨリ二人、 田中・常任理事、道明寺村長、渡邊社掌立会。山田組ヨリ奉賛会ニ引継グ、設計室山田組ヨリ購入ス。 |
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11 | 3 | 午前十時明治節祭執行。(略)同十一時布忍村各種団体参拝、(略)午後二時天美村々長以下十七名参拝。 | |
1941 (昭和16) |
1 | 15 | 午前十時拝殿、祝詞殿、神饌殿、祭器殿、上棟式執行。午後二時左義長祭並ニ(略)武運長久祈願祭執行。(略) |
2 | 18 | 午前十一時陸軍大将・阿部信行閣下参拝セラル。 | |
27 | 午前九時三十分奉賛会副会長、大阪第4師団司令部附陸軍少将・松井閣下参拝セラル。山下・中佐、田中季太郎氏同伴(略)。 | ||
4 | 7 | 午後一時四十分、李王(李垠)殿下御参拝遊バサル。石井、下川、太田・各少将、玉置・参謀長、奈良・副官、光森・武官、 山下・中佐等従ヘサセラル。(略)殿下ニハ記念撮影後松ノ木ヲ記念植樹遊バサル。(略) (後述で関連記述あり) |
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5 | 3 | 午後三時大阪地方裁判所検事正参拝セラレ、神社前ニテ記念撮影ヲナス。 | |
12 | 午前十一時大阪控訴院長・鈴木秀人、大阪地方裁判所長・藤田八郎諸氏参拝サル。 | ||
18 | 午前十時司法大臣・柳川平助閣下御参拝。 大阪師団司令部附陸軍少将・石井嘉穂閣下、大阪商工会議所副会頭・湯川忠三郎、 大阪控訴院検事長・金山季造、司法書記官・梶村敏樹、司法大臣秘書官・江藤基経、大阪鉄道社株式会社々長・佐竹三吾、 大阪控訴院長・鈴木秀人、司令部附陸軍中佐・山下良眼、社寺課長・横山格、社寺主任・柄谷為継、奉賛会常任理事・田中季太郎、 道明寺村長・松村平一諸氏参拝サル。社頭ニ於テ記念撮影ナス。氏子総代、道明寺国民学校生徒、婦人会、名誉職員等送迎ス。 |
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19 | 午前、東京第二陸軍造兵廠長、陸軍中将・大島駿閣下参拝。 同廠宇治製造所長陸軍中佐・山賀卯之助参拝、内務省ヨリ御社殿写 真撮影ノ為来社。 |
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26 | (略) 午後七時三十分御本殿遷座祭別紙ノ通リ執行ス。 午後九時三十分終了ス。当日午後七時三十分ヨリ同八時三十迄三十分 間、都市放送ニ依リ中継ス。 |
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6 | 10 | 午前九時十分陸軍大将・林銑十郎閣下参拝セラル。師団ヨリ山下・中佐、府ヨリ香西・祭務官、(略)道明寺名誉職、婦人会、 国民学校生徒出迎フ。閣下記念植樹ノ後一旦設計室ニテ休憩ノ後、附近皇陵参拝、(略)。 |
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7 | 4 | 午前九時大阪第4師団長・宮(李垠)殿下御参拝。師団ヨリ石井・閣下、山下・中佐随行、松村・村長、湯川・顧問、 府社寺課・柄谷社寺主任、大鉄社長代理・中井専務、田中・理事、氏子総代、柏原警察署長、村名誉職、婦人会、 国民学校児童迎ヘヲナス。(略) (後述で関連記述あり) |
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30 | 午前十時四十分師団司令部附・石井中将閣下、山下・中佐殿正式参拝セラル。 | ||
10 | 3 | 午後一時道明寺村銃後奉公会主催ノ武運長久祈願祭執行ス、参列者二百五十名、例祭案内状発送。 | |
4 | 午前十一時城北銃後奉公会員六百名参拝祈願祭ヲ行フ。 | ||
8 | 午前十時大阪府食糧国防団結団式祈願ス。曾根崎国防婦人会壱壱百名参拝祈願ス。 | ||
9 | 午前十時ヨリ例祭執行ス。 (略) 杵屋勝太郎氏他数十名、相撲元締、陸軍大佐・福見幸殿、(略)参列セラル。 午後一時ヨリ長唄協会出演ノ長唄・舞踊・続イテ中島氏ノ居合奉納セリ。午前十時ヨリ素人相撲大会開催、盛大ヲ極メ午後六時 終了ス、観衆六千人餘リ。 |
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16 | 午前八時三十分、大阪師団・石井中将閣下御参拝。(略) | ||
24 | 午後大阪師団経理部長陸軍主計大佐・原田佐太郎殿参拝セラル。 | ||
29 | 石鳥居柱建立。 | ||
11 | 16 | 大阪中央電話局約弐千四百名参拝祈願ス。 | |
17 | 午前十一時五十分林氏親和会々員林桂・中将副会長先頭ニ約百三十名参拝、御神前ニテ奉告祭ヲ執行、終リテ青年会館ニテ野 戦料理ニテ接待ス。副会長ヨリ伴林氏神社ニ就テト題シ御講演アリ、渡邊社掌ヨリ御祭神ノ御功績ニ就テ話アリ、(略)。 |
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18 | 大阪医師婦人会五十名参拝祈願ス。 十四日ヨリ二十日迄、大阪中央電話局約八百名宛毎日参拝。 皇軍ノ武運長久祈願祭ヲ執行、 渡邊社掌ヨリ神社御由緒ニ就キ講演アリ。 |
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12 | 7 | 大阪師団兵務部長・三浦閣下参拝。 翌8日、太平洋戦争(大東亜戦争)が始まる。 | |
21 | 午後二時宣戦奉告祭執行ス。(略)参列者左ノ如シ。 福見・大佐、在郷軍人会南河内郡聯合会分会長・吉年宗兵衛以下五百名、 中島栄蔵、氏子総代、駐在所、氏子、名誉職員多数。 |
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22 | 午前六時道明寺村戦勝祈願祭執行、約五百名参拝。 | ||
1942 (昭和17) |
1 | 15 | 午前十時月次祭執行ス。本年ヨリ大東亜戦争中「トンド神事」取止ム。林氏親和会大阪支部員九名参拝、社務所ニテ懇談ス。 |
2 | 8 | 午前十時大詔奉戴日祭執行。午後二時神橋・鳥居・参拝道路ノ渡リ初、通リ初式ヲ行フ、(略)。 渡リ女、東尾和一郎氏夫婦、 工匠長、木村・技手、工匠、大工一人、石ヤ三人、松村・村長、(略)参列。 |
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10 | 午前十時竣工奉告祭並ニ祝賀式挙行ス。(これについては既述しているので、参列者のみ再度掲載。) 奉賛会総裁陸軍大臣及び海軍大臣、奉賛会長代理(副会長)陸軍少将・三浦閣下、大阪府知事代理・伊藤府学務部長、 中部軍司令官・藤井中将閣下、関・大阪第4師団長閣下、大阪警備府司令長官・小林海軍中将閣下、大阪商工会議所会頭代理・ 副会頭・湯川忠三郎、帝国在郷軍人会代表・吉積陸軍中将閣下、道明寺村長・松村平一氏、寄付者代表、国防婦人会代表、 崇敬者総代々表、氏子総代々表・麻野芳一、工事関係者 花輪・技師・朝倉氏・山田組・金剛氏、一般参列者代表、 山口・道明寺国民学校長、其他軍部関係・府庁関係者・国防婦人会員七百名、寄附者多数、道明寺国民学校児童。 |
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18 | 午後三時シンガポール陥落奉告祭、並ニ米英撃滅祈願祭典執行。 参列者、(略)、大鉄産業報国団三百名。当日ハ早朝ヨリ団体ノ 参拝多数ニ上リ午後四時過マデ社頭賑フ。 |
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3 | 12 | 戦勝祝賀第二回目ニテ各国民学校児童参拝ス。 | |
19 | 陸軍中将・柳川平助閣下同夫人御参拝。 | ||
24 | 午後二時軍功会々員十五名参拝、祈願祭ヲ行フ。 式後社務所ニ於テ来賓陸軍少将・三浦閣下、遠藤・閣下等ノ御講演アリ。 参拝記念トシテ会員ヨリ各十円宛ノ献木ノ寄附ヲ受ク。(計壱百五十円也)。 |
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6 | 30 | 午後三時大祓式執行ス。(略)、午後五時柏原郵便局(局長以下局員五十一名)社頭ニ於テ大祓式執行ス、後神社正式参拝。 | |
7 | 20 | 正午大阪師団兵務部長・三浦少将参拝サル。 | |
8 | 10 | 午後一時道明寺村鉱山勤労報国隊参拝祈願ス。 柏原職業指導所長、松村・村長、鉱山関係者、橋田・署長代理、山口・青少年 団長、名誉職員等多数参拝。有田浅吉班長以下十五名勤労報国隊員。 |
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10 | 4 | 午後二時傷痍軍人平癒並ニ出征軍人武運長久祈願祭執行ス。参列者左ノ如シ。(略)、各氏子総代及ビ出征遺族二十一名。 | |
9 | 午前十時例祭ヲ執行ス。参列者左ノ如シ。 中部軍司令官閣下代理、警備府司令長官閣下代理、大阪師団長閣下、 奉賛会長大阪府知事閣下代理、聯隊区司令官閣下、兵務部長閣下代理、福見大佐殿代理、(略)。 |
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11 | 22 | 午後二時社号標除幕式挙行ス。参列者左ノ如シ。奉賛会代表大阪師団兵務部・木村少尉、大阪師団工務課技師、道明寺村々長、 (略) 関西石材会社、元更池銀行・岡田吉左門外関係者多数、駐在所・古賀巡査。 |
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12 | 8 | 午前十時大東亜戦争一周年記念祭執行ス。(略)、早朝ヨリ多数団体ノ参拝アリ。 | |
1943 (昭和18) |
3 | 27 | 帝国在郷軍人会大阪師管区聯合支部長・下川少将閣下参拝セラル。 |
4 | 17 | 午前十時尚武祭執行。献花式・献茶式、大阪護国神社奉仕靖国ノ舞、中島氏ノ居合術奉納アリ。茶室ニテ参列者に献茶アリ。 | |
7 | 5 | 午後二時「海行カバ…」国民歌選定奉告祭、大政翼賛会大阪府支部主催ノ下ニ当神社ニ於テ挙行ス。 | |
9 | 7 | 府社ニ昇格ス。 | |
18 | 午前九時道明寺国民学校銅像除幕式執行。 (銅像は楠木正成の騎馬像ではないかと思われる。※) | ||
10 | 26 | 藤井寺町産業戦士訓練所(徴用士ノ就職前二十日予備訓練ヲ実施ス、所長上森・少将)二百名訓練ノ目的ノ為境内ノ清掃ヲ実施ス。 引続キ毎日午後約三時間約一週間連続奉仕。 |
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11 | 29 | 午前十時新嘗祭執行。供進使ハ南河内郡地方事務所長・篠崎茂、随員同所員・坂口源次郎。前日華道会員ニテ献花十瓶、 当日茶道同人ニテ抹茶ノ席ヲ設ク。 直会ハ社務所ニテ海魚・野菜ノ寄煮。 淡路由良ノ漁夫・福島大吉、大鯛・カレイノ神饌ヲ持参ス。 遠藤三郎助ヨリ野鳥・水鳥ノ神饌を献ル。 |
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12 | 2 | 内務大臣通牒ニ依リ本日ヨリ七日間毎朝皇軍ノ武運長久及国威宣揚祈願祭リ執行ス、毎朝参籠潔斎ノ上祭典ヲ行フ。 | |
1944 (昭和19) |
1 | 1 | 午前六時ヨリ拝殿ニ急造ノ受付ニテ氏子総代、世話方四名助手トシテ奉仕ス。午前十時歳旦祭ヲ執行ス、例年ニ比シテ参詣者多シ。 大阪華道奉仕会ニテ献花、献茶ヲナシ参詣者ニ茶ノ接待ヲナス。 |
6 | 午前八時ヨリ社頭ニ於テ柏原署管内警防団出初式ヲ行フ。 | ||
20 | 午後一時ヨリ土師神社ニテ臨時南河内郡神職会開催、飛行機献納負担金割当ノ協議ヲナス。支部ヨリ支部負担額三百七拾五円ノ 十倍、則チ三千七百五十円ヲ、当神社ヨリハ百二十七円外ニ神職俸給月額ノ一割ヲ拠出スルコトニ決定ス。 |
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2 | 6 | (略)。在郷軍人会文ノ里分会員約百名、神前ニ於テ武道試合ノ奉納ヲナス。 | |
22 | 午前十時ヨリ祈年祭ヲ執行ス。供進使神武祭務官、随員・芝山属。 参列者上森・中将、福見大佐代理・木村少尉、 村長、松村・局長、林・校長、道明寺国民学校児童一同。(略) |
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3 | 1 | 南河内郡ヨリ陸軍ヘ献納ノ飛行機命名祭ヲ富田林地方事務所講堂ニテ執行、渡邊社司斎主トシテ奉仕ス。(略) | |
17 | 午後二時ヨリ富田林国民学校ニ於テ南河内郡ヨリ海軍ニ献納シタル飛行機命名祭リ執行、渡邊社司斎主トシテ奉仕ス。(略) | ||
4 | 16 | 午後二時ヨリ青年会々場ニ於テ伴林光平先生景仰会発会式ヲ執行ス、渡邊社司、高部社掌奉仕ス。知事代理・平尾氏、同会々長・ 畑中氏ノ祭文、島田兵三氏ノ講演、阿部野(現府立阿倍野高等学校)、帝塚山高女生(現帝塚山学院高等学校)ノ光平讃歌、自作 歌ノ斉唱等アリ、来会者二百余名、盛会裡ニ終ル。当日午前ヨリ当神社々務所ニ於テ遺墨展アリ。 |
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29 | 午前十時天長節祭執行。 参列者(略)。 午後一時藤井寺元教材園ニ新設戦場走路競技場ニ新設セラレシ当神社御分霊御鎮座ノ 大伴神社鎮座祭ニ渡邊社司、高部社掌出仕ス。 |
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5 | 9 | 午前十時尚武祭執行。(略)午後1時30分より剣道・銃剣道の奉納競技が行われた。 剣道参加者は有段者13名外3名。 銃剣道 参加者は、在郷軍人会道明寺・国分分会10名、付近青年学校生徒が5校20名。 |
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29 | 午前十時ヨリ北方緊急軍工事挺身隊(柏原署管内)祈願祭ヲ執行ス。挺身隊員十五名、外ニ署長、動員署長、支部長以下三十数 名参列、祭典後社務所ニ於テ送別壮行会ヲ行フ。 |
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6 | 1 | 午前十一時ヨリ武運長久祈願祭ヲ執行ス。六月一日ヲ期シ関西急行鉄道株式会社ト南海鉄道株式会社ト合同シ、新タニ近畿日本 鉄道株式会社ヲ新設シ、ソノ記念料トシテ金壱百円奉納サル。 |
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9 | 午前十時半ヨリ月次祭並ニ道明寺村出身出征軍人武運長久祈願祭ヲ執行ス。 本月ヨリ九日月次祭ヲ期シ道明寺出身応召者ノ武 運長久祈願祭ヲ各字(あざ)毎ニ、毎月出征者家族ヲ招待シ執行スルコトトナリ、本月ハ当(神社)氏地、林並ニ東林ノ御家族ヲ招待ス。 農繁期ノ上ニ初メテノコトナリシヲ以テ参列者八名ニスギザルモ、式後神前ニ於テ野立ノ茶ノ湯ノ奉仕アリ。(略) |
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19 | 本日ヨリ高鷲訓練所ノ応徴士百数十名ノ境内清掃勤労アリ、本月中奉仕ノ予定ナリ。 | ||
25 | 本月中奉仕ノ予定都合ニ依リ本日ヲ以テ一応打切トナル。 | ||
26 | 出征軍人武運長久御守寄贈ノ為、ソノ第一回分五千体ヲ阿倍野区内出征家族ヘ各聯合町会ヲ通ジテ贈与ス。 | ||
30 | 午後一時大祓式ヲ執行ス。参列者、(略)、道明寺国民学校長、及三学年以上ノ男女生徒一同。 | ||
7 | 9 | 午前十時半ヨリ月次祭並道明寺村出身出征者ノ武運長久祈願祭ヲ執行ス。本月ハ当林、並ニ船橋ニ案内状ヲ出スモ一遺家族ノ参拝 ヲ見ズ(農繁期ノ為カ)。(略) |
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10 | 午前十時ヨリ緊急工作隊柏原支部結成式典ヲ執行ス、参列者柏原警察署長以下四十名。 | ||
11 | 本年ハ六月中ニ於テ二、三回ノ夕立、本月ニ入リテモ降雨ヲ見ズ。昨日常会ノ決議ニ依リ本日ヨリ向一週間午前五時ヨリ祈雨祭並 ニ武運長久祈願祭ヲ執行ス。大阪府勤労訓練所生約百五、六十名境内清掃奉仕ス。 祈雨祭の参列者数は、12日約100名、13日約50名、14日約50名、15日約50名、16日約50名、17日約70名。 |
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20 | 午前十時四十分高野直満・大阪師団長閣下新任挨拶ノ為正式参拝セラル。 | ||
8 | 4 | 夕刻警戒警報発令セラル。 | |
5 | 正午警報解除。午後三時柏原警察署管内大阪府綜合食糧国防団柏原大隊結成祈願祭執行。食糧品従業者約二百名参列。 | ||
9 | 午前十時ヨリ月次祭並ニ道明寺村出身出征軍人ノ武運長久祈願祭ヲ執行ス。 本月ハ当氏地並ニ沢田ニ案内ヲ出スモ一人ノ参列 者ナシ。(略) |
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11 | 零時二十分頃警戒警報、続イテ空襲警報発令サルモ、同日三時半頃、空襲次イデ警戒警報共ニ解除サル。 | ||
9 | 8 | 午前十時ヨリ大詔奉戴日祭ヲ執行ス。 本日ヨリ滅敵ノ為、全国神社ニ於テ戦争終了ノ日マデ神職、氏子、崇敬者一体トナリテ 祈願ヲ行フ事トナリ、当社ニ於テモ午前五時半ト正午ノ二回に亙リ執行スルコトトナリ定刻挙行ス。コノ日ノ参列者朝十数名、 正午ハナシ。 |
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11 | 今般新ラシク発令サレタル在郷軍人国土防衛隊結成式典午前五時執行ス。 参会団体道明寺村分会及ビ村内各種団体約二百五 十名。 |
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18 | 午後一時過ヨリ藤井寺訓練所ニ入所中ノ応徴士約百名ノ境内清掃奉仕アリ。 | ||
24 | 25日との両日ニ亙リ大阪鉄道局奉公会湊町管理部支部柏原分会員約百名参拝祈願ヲナス。 | ||
10 | 8 | 午前十一時ヨリ大詔奉戴日祭ヲ執行ス。 午後二時ヨリ藤井寺陸軍糧秣廠軍属七十余名ノ勤労奉仕、並ニ第一回氏子隣組奉仕ノ 境内清掃勤労奉仕アリ。 |
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9 | 午前十時ヨリ例祭ヲ執行ス。 供進使森川健民・課長、随員小川・神社係。 参列者左ノ如シ。 中部軍司令官閣下代理・美作法輪 大佐殿、大阪師団長閣下代理・阪口中佐殿、大阪憲兵隊長陸軍少将・長友次男閣下、上森・閣下、柏原警察署長殿、(略)。 |
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26 | 午前十時四十分池田・知事正式参拝サル。 | ||
11 | 1 | 午前十時ヨリ武運長久祈願祭ヲ執行。 午前四時第百二十二部隊、七時半堺憲兵隊長・末長大尉以下二十名参拝。 午 前九時大阪府統制経済実践会柏原支部長以下各軍位部会長等約三十名武運長久闇取引絶滅祈願ノ為参拝ス。 |
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5 | 午後四時阿倍野区各聯合町会長ニヨル皇軍武運長久国威宣揚祈願祭ヲ執行ス。 参列者、阿倍野区長以下各聯合町会長以下 十四名。(略) |
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11 | 午後二時中部第九十五部隊長・北島閣下正式参拝サル。 | ||
12 | 午後二時京阪神德島県人会員約二十数名出征家族ノ武運長久祈願ノ為参拝、後社務所ニ於テ休憩。 | ||
15 | 午前十時半ヨリ七五三祝御祈祷ヲ執行ス、参拝幼児十七名。 | ||
16 | 午前十時柏原丙種事業所得納税報国会結成式ヲ挙行ス、参列者柏原警察署長以下約百名。 | ||
29 | 午前十時新嘗祭ヲ執行ス。供進使・寺尾事務官、随員河上・神社係。参列者左ノ如シ。吉年在郷軍人会南河内聯合分会長、 柏原警察署長、宮川豊麿・應神天皇御陵監、松村・村長、(略)。 |
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12 | 3 | 本日ヨリ高鷲訓練所百八十名境内整備奉仕ヲナス。 | |
8 | 午前十時大詔奉戴日祭ヲ執行ス。(略)大正飛行隊(現八尾空港に所在)其他団体ノ参拝多シ。 | ||
12 | 伊勢御親拝記念日ニ当リ大日本神祇会、大政翼賛会合同主催ニテ全国各神社ニテ一億憤激米英撃摧祈願祭ヲ午前十時ヨリ執行ス。 | ||
19 | 午前二時半三宅(現松原市)附近ニ敵機投弾被害軽微。 | ||
22 | 敵機数機午後一時来襲セシモ投弾セス。昨今連日敵機来襲アルモ投弾セス。 | ||
1945 (昭和20) |
1 | 3 | 午前十時ヨリ元始祭ヲ執行ス。(略)敵機八機大阪市上空ニ侵入シ○ニ焼夷弾ヲ投下セシモ損害少シ(阿倍野区ニ十数軒ノ焼失)。 |
6 | 午前十時ヨリ柏原署管内警防団設立六周年ノ記念日ニ当リ米英撃滅必勝祈願祭ヲ執行ス。署長以下約四十名参列ス。 | ||
14 | 午後二時頃敵機十機編隊ヲ以テ潮崎方面ヨリ大阪東方上空ニ飛来、次テ名古屋方面ニ進路ヲ転ス。大阪附近ニハ投弾セス。 | ||
19 | 午前十時頃、午後十一時頃各一機、午後二時頃約八十機、阪神軍需製産工場ヲ目標トシテ爆弾ヲ投下ス。 毎夜帝都、名古屋、 京阪地方ニ一、二機来襲シアリ。 |
||
2 | 4 | 午前九時大日本産業報国会柏原支部必勝祈願祭ヲ執行ス。前月来毎夜、初夜、夜半、早暁ニ各一機阪神地方ニ敵機ノ来襲アリ。 | |
16 | 午前関東方面ニ海上機動部隊ノ艦載機延約一千機来襲、主トシテ飛行場交通機関等ヲ襲撃ス。(略) | ||
3 | 15 | 午前六時半朝ノ祈願ト同時ニ月次祭ヲ執行ス。去ル十四日夜半ヨリB29約九十機大阪市上空ヲ襲ヒ焼夷弾攻撃ヲ行フ。 旧市ハ殆ンド烏有(うゆう)ニ帰ス。 |
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4 | 9 | 午前六時朝ノ祈願ニ引続キ月次祭ヲ執行ス。沖縄島ニ敵上陸以来約三百隻ノ艦船ヲ撃沈破シ尚攻撃続行中ナリ。 | |
5 | 5 | 午前六時朝ノ祈願ニ引続キ尚武祭ヲ執行ス。(略)本年ハ空襲頻リナルヲ以テ奉納剣道ハ之ヲ中止ス。 | |
30 | 午前十一時三十分有田工場ノ国民義勇隊結成式ヲ行フ。 午前十時ヨリ聖旨奉戴寇敵撃滅祈願臨時大祭ヲ行フ。供進使及随員左 ノ如シ。供進使南河内地方事務所総務課長事務官・中島正一、随員右同所主事・阪口源次郎。参加者道明寺村長・松村平一 (略) 誉田国民学校代表三名、氏子十数名。午前十一時三十分終了、社務所ニテ直会ヲナス。 |
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6 | 5 | 午前五時三十分朝ノ祈願ニ引続キ道明寺国民義勇隊結成式ヲ、又午前六時ヨリ労報柏原支部ノ結成式ヲ行フ。(略) | |
7 | 午前十時頃ヨリ十二時頃迄B29約二百五十機大阪北部、東北部ヲ襲撃セリ。 | ||
7 | 1 | 午前五時半朝ノ祈願ニ引続キ月次祭ヲ執行ス。昨今B29ハ全国特ニ九州・中国・ノ中小都市ヲ焼爆撃ス。 | |
25 | 夏祭 午前十時執行、参列者ナシ。 | ||
27 | 午前六時柏原町義勇軍結成式奉告祭執行、柏原警察署長以下五十名参列ス。 | ||
8 | 9 | 午前五時三十分朝ノ祈願ニ引続キ月次祭ヲ執行。参列者総代一名。 | |
15 | 午前五時三十分朝ノ祈願ニ引続キ月次祭ヲ執行。 (略 )十五日正午、大元帥陛下御自ララヂオヲ通シテ大東亜戦争ヲ終了スルノ 詔書ヲ御発表アラセラレタリ。嗚呼一億又何ヲカ謂ハンヤ。再建日本ニ邁進セシノミ。 |
||
25 | 午前十時大阪師管区兵務部長・古思了少将、奉賛会・田中常任理事ト共正式参拝。 同少将ノ手ニテ軍関係ノ解散スル会ヨリ 合計約七万円ノ寄附ヲナス様処理シアル旨伝ヘラル。 |
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9 | 26 | 午前十時ヨリ戦争終熄奉告祭ヲ執行ス。 供進使南河内地方事務所長・花岡善吾、同随員同右主事・阪口源次郎。(略) 参列者松村・村長、柏原農林署長、朝日記者、氏子総代トス。 |
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10 | 22 | 本社奉賛会役員会ヲ午後一時ヨリ夕陽丘女学校ニテ開催、(出席者略)左ノ通リ議決ス。 一、奉賛会ノ規則ヲ改正ス。一、事務所 ヲ村役場ニ置ク。一、理事、監事ヲ五、六名ヘ減少シ地元本位トシ官公吏ハ退職ス。(その他、寄附金扱い、新役員の項略) |
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1946 (昭和21) |
1 | 2 | 引続キ天気良カリシモ参拝者例年ニ比シ著シク少シ。 |
7 | 午後三時ヨリ氏子総代会ヲ開催シ氏子納金ヲ倍額ニ増シ、休閑地料従来一年一坪三十銭ヲ五十銭ニ増額スルコトヲ決議シ、神社 行政改正ノ要点ヲ説明。会食後散会ス。 |
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15 | 午前十時ヨリ「トンド」祭執行。在郷軍人会村班解散ヲ機トシ神前講結成ヲ協議ス。 | ||
3 | 5 | 午前十時ヨリ夕陽丘高等女学校ニ大阪府神職総会開催。大阪府神社庁庁規ヲ設定、午後一時散会ス渡邊社司出席ス。 | |
7 | 午前十時ヨリ土師神社ニテ南河内郡神職総会開催、大阪府神社庁南河内郡支部創設ヲ議決シ左ノ役員ヲ決定ス。(略) | ||
5 | 15 | 左ノ時間ニ於テ夫々神社制度変革、兼務神職就職奉告祭ヲ執行ス。 午前八時古室八幡神社、十時沢田八幡神社、午後一時大井 志疑神社。 |
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6 | 23 | 午後七時総代会開催。 若宮神社ヲ当神社摂社トシテ祭祀スルコト、其ノ奉安殿ハ目下当村道明寺小学校ニ奉安殿トシテ遠藤三郎助 ヨリ寄附シアルモノヲ移管スルコト、其経費ハ遠藤ニ於テ負担スルコト等ヲ議決ス。 |
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7 | 25 | 左ノ通リ夏祭ヲ執行ス。午前八時古室、九時沢田、十時伴林、十時半大井。 | |
10 | 12 | 午後一時ヨリ総代会開催。従来ノ氏子納金、初穂料等直接氏子ヨリ神社ニ納金スルコトヲ止メ、全員奉賛会ニ入会シテ会費一口 十円トシ、一年一回集会奉賛会ヨリ神社ニ寄附スル件ヲ議決。 又不十分ノ為専任宮司ヲ置カス南坊城氏ヲ兼任神職トシテ委嘱 スルコトヲ決議散会ス。 |
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26 | 幣殿飾付ノ眞榊五色絹及短剣(御鏡・曲玉除ク)並ニ拝殿飾付ノ錦幡(布ノミ)ヲ持去ラレタルヲ発見ス。 戸締ニ異情無キヲ以テ、 昨日午後三時(日供撤去時)ヨリ同四時(社僕戸締時間)迄ノ間ニ行ハレタルモノト認ム。 |
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11 | 14 | 昨夜拝殿中央上部ヘ掲ケタル幌ヲ持去リタル者アリ、前回ノ者ト同一人タルヘシ附近ノ神社ニテモ同様ノ被害アリ。 | |
25 | 十月二十二日附渡邊宮司退任辞令到着。 28日には堺区裁判所古市出張所で渡邊宮司退任・南坊城良修代務者就任の登記が終了している。 |
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1947 (昭和22) |
1 | 15 | トンド際午前十時執行、本年ハ資材不足ノ為特別行事ヲナサス。 |
3 | 22 | 午前十時ヨリ道明寺土師神社ニテ大阪府神社社寺課員ヨリ神社ノ寄附行為及其他ニ関スル進駐軍指令並ニ神社規則登記事項ニ付 講習ヲ聴取ス。(略) |
※ この時建てられた楠木正成の騎馬像は戦後も20数年間は存在はしていた。昭和34年6月に竣工した道明寺小学校初の鉄筋コンクリート2階建て校舎(管理棟) の裏に、台座と共に長い間放置されていた。昭和40年代後半の様子を筆者は記憶しているが、銅像とは言うものの、陶器製ではなかったかと記憶している。 一部が欠けた状態を記憶している。戦時中の金属供出が行われていた時期であり、新たな銅像造りはできなかったと思われる。昭和48(1973)年、道明寺小学 校の創立100周年記念事業の一つとして、岩石教材園を造ることになり、そこに「希望の像」を設置することになった。その台座として、騎馬像の台座が転用さ れた。立派な御影石だったので、表面を磨き正面に校章が彫られた。この希望の像は、校舎・体育館の建て替えに伴って移設され、現在は新正門を入った南側 に安置されている。 |
『伴林氏神社史料』に掲載されている『重要日誌』の記録は、昭和12(1937)年1月~昭和22(1947)年5月20日の範囲です。昭和12年7月 の日中戦争開始から昭和20年8月15日の敗戦までの8年間が、そっくり含まれています。まさに“戦争の時代”と並行した伴林氏神社の姿 を物語る日誌です。上の表を読んでいただくのは少々煩雑だと思いますが、これでも部分的に抽出した項目だけです。機会があれば、ぜひ 一度『伴林氏神社史料』を読んでみていただきたいと思います。『重要日誌』には、当然ながら通常の神社祭祀である例祭・月次祭・夏祭 ・歳旦祭・祈念祭・田植祭・新嘗祭・大祓式・トンド神事などの実施状況が克明に記録されています。多くの神社に共通するものですが、 伴林氏神社の場合には、それらとは明らかに性格を異にする祭祀・行事が多く見られます。 上の日誌内容からは、顕彰事業が始まってから伴林氏神社が背負わされたものが何であったのか、よくわかります。上の表の中だけでも 「武運長久祈願」という言葉が何度も登場します。『重要日誌』全体では、昭和20年8月の敗戦までに、実に76回も出てきます。そのほか にも全体を通して、戦時下を象徴する言葉が多く登場しています。「漢口陥落奉告祭」「天佑神助の講演」「応召兵奉告祭」「興亜奉公日」 「国威宣揚」「大東亜共栄圏建設講習会」「銃後奉公会」「食糧国防団」「宣戦奉告祭」「戦勝祈願」「大詔奉戴日」「シンガポール陥落奉 告祭」「米英撃滅祈願」「戦勝祝賀」「大東亜戦争一周年記念祭」「大東亜戦争完遂祈願」「飛行機献納」「国民総奮起敵国降服必勝神拝 会」「警戒警報」「B29」「焼夷弾」「国民錬成神拝行事」「一億憤激米英撃摧祈願」「米英撃滅必勝祈願」「聖旨奉戴寇敵撃滅祈願」 「国民義勇隊」など、年を追う毎に激しい言葉の増えていく様子がわかります。 武神を祀る神社としての役割を担うということは、まさにこういう神社に変わるということだったのです。そのためにこそ、顕彰事業は 取り組まれてきたのです。その意味では、伴林氏神社は顕彰事業のねらいに応えて立派に役目を果たしたと言ってよいでしょう。一方で、 昭和初期までは村の鎮守として、村民に静かに守られ維持されてきた地方の一小神社としての姿は、どこかに飛んで行ってしまいました。 しかしながら、とにもかくにも、戦勝祈願・武運長久祈願の場として、戦意高揚を促す場として、この神社が注目され、多くの人々が参拝 に訪れたことは確かな事実でした。多くの軍人・軍属をはじめ、何百人単位の集団参拝も珍しくなかったのです。 戦時中から戦後へ-再び村の神社に 昭和15年8月の本殿上棟祭から20年8月の敗戦までの約5年間、それが軍国日本の中で伴林氏神社が脚光を浴びた時期だったと言えるで しょう。しかし、それもやがて、満開の花が一気に散るが如く、再び大きな変化を迎えます。『伴林氏神社略誌』(1978年)には、戦時中の様 子や戦後になって苦難を抱えることになった伴林氏神社の様子が述べられています。 『社殿の竣工後は諸設備に移り大東亜戦争に突入後は日夜を分かたず戦捷(せんしょう)祈願、武運長久を祈る真摯なる参拝者門前市をなす状態 であったが終戦真近には八尾陸軍飛行場の襲撃に敵戦闘機が低空で飛行士の顔がはっきり見える程で神社の拝殿に機関銃を打ち込まれたこ ともあり、遂に昭和二十年八月十五日終戦を迎え、神社は火の消えた如く、任命された神官も俸給の出る処なきため、辞めて国へ帰える等 神社は元の村に返されて収入零で管理を続けて行った。一時は神官もなきまま村の役員でお守りをし、その後田中禰宜(ねぎ)を無報酬で来て もらい自動車庫の建設、土地の切売りで修繕その他を賄ってきてこの三十年間を閲(えっ・けみ)してきた。しかし今は神官も常駐で他の神社に劣 らない格式のある日本唯一の神社らしく維持できたことは神恩の然らしむる処であるが村人の協力が多大であった事を声を大にして言える し、今後もかくあらねばと思う。』 ※「閲する」…経過する 現在の伴林氏神社へ行くと、静かな境内でゆっくりと過ごすことができます。祭礼の時以外は多くの人が訪れることもなく、日常は至っ て静寂あふれる境内です。たまに、境内の西隣りにある道明寺こども園の子どもたちの声が少し聞こえて来るぐらいです。聞かなければ、 この神社が80年ほど前に武神の神社として大きく変貌したことや、大勢の参拝者で賑わったことなど、今の伴林氏神社の雰囲気からはとて も想像できないことでしょう。近年、境内の周囲に桜が植えられて育ってきました。満開の時季にはちょっとした桜景観で、お参りの人や 門前を通る人々を楽しませてくれます。 ![]() 2017(平成29)年9月23日、伴林氏神社では「大伴家持生誕1300年記念祭」が盛大に催されました。大伴家持(おおとものやかもち)を含む大伴氏一族 を祀る神社として顕彰され、官民から多くの人々の支援を受けてきた歴史からすれば、当然取り組むべき祭典だったでしょう。当日は生誕 祭・記念講演・記念式典が行われました。 |
◆◆◆ 一枚の記念写真から ◆◆◆ | ||
時代を語る記念写真 『伴林氏神社史料』には、一枚の貴重な記念写真が載っています。右 の写真20)ですが、同書の写真説明は「李垠(イウン)陸軍中将の参拝」となっ ています。李垠中将は当時は陸軍第4師団の留守師団長の職にありまし た。当時の第4師団は、昭和12年7月に始まった日中戦争に動員されて 中支那方面に派遣中でした。こういう場合に、国内の師団司令部をあず かる責任者として任命されるのが留守師団長です。 大阪を拠点とする師団であり、伴林氏神社の拡張顕彰事業推進の中心 的役割を担った第4師団の師団長が、竣工成った「西の靖国」とされる 神社に参拝するという行動は、別に珍しいことではありません。むしろ 当然とも言えるでしよう。 私が注目したのは、李垠中将という人そのものです。歴史の歯車が少 し回転を変えていたならば、李垠氏が藤井寺の地にある伴林氏神社を参 拝することなどあり得なかったでしょう。李垠という人はどんな人なの でしょうか。はたして、どれだけの人が李垠氏をご存知でしょうか。 李垠氏は、よく「最後の韓国皇太子」という代名詞で語られます。或 いは「悲運の王子」ともされます。明治時代の日本による韓国併合がな かったら、大韓帝国の第3代皇帝に、或いは李氏朝鮮の第28代国王にな っていたかも知れない人だったのです。 |
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20) 李垠(イウン)陸軍中将(中央)の参拝記念写真 1941(昭和16)年4月7日 当時、李垠中将は第4師団(大阪)の留守師団長であった。右端の 神職正装の人が渡邊喜一社掌と思われる。 『伴林氏神社史料』より |
最後の韓国皇太子-李王垠 李垠氏は1897(明治30)年10月20日、李氏朝鮮第26代国王で初代大韓帝国皇帝・高宗の第7男子として誕生し ました。後に高宗の退位後に皇帝となった純宗は異母兄です。大韓帝国の称号は「英親王」で、李垠の日本語 読みは「りぎん」とされていました。 日露戦争終結後の1905(明治38)年11月17日、日本は韓国と第二次日韓協約(乙巳保護条約)を締結し、韓国の 外交権を剥奪して日本の保護国としました。条約とは言え、事実上は伊藤博文による恫喝交渉の末に強引に調 印させたものでした。この後日本は、同年12月21日に漢城(現ソウル)に統監府を設けて事実上の韓国支配を行 います。初代の韓国統監に就いたのが伊藤博文自身でした。皇帝・高宗は、1907年6月にオランダ・ハーグで開 催された第2回万国平和会議に秘密裏に特使を派遣し、日本による韓国支配の実情を国際世論に訴えようとし ました。「ハーグ密使事件」と呼ばれるものですが、日本の権益を認めていた列強各国からは無視されて終わ ります。この密使派遣を知った伊藤統監は激怒し、高宗を退位に追い込みました。7月20日に皇太子・純宗が 33歳で即位して第2代皇帝となり、純宗には子が無かったため、皇太子には異母弟の英親王(李垠)が就きまし た。この時、李垠10歳でした。 皇太子となった李垠氏はこの年、伊藤博文の建議により日本へ留学するために来日します。日本の近代的教 育制度で学んでもらおうと、日本政府が招いたとされますが、私には体のいい人質としか思えませんでした。 この時点で10歳の皇子をわざわざ留学させる必要があったのでしょうか。伊藤博文が中心となって大事に育 |
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21) 来日した李垠皇太子 伊藤博文との記念撮影 |
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てたとされますが、もとより、それは高宗がやるべきはずだったことです。写真21)は書物でもよく使用される写真ですが、まさに当時の日 韓の力関係を象徴している写真です。この写真を見た韓国国民の多くは、日本化させられていく皇太子の姿を悲しんだことでしょう。 李垠氏は、学習院・陸軍幼年学校・陸軍士官学校で教育を受け、陸軍軍人の道を歩みます。その間、1910(明治43)年には大韓帝国は日本 に併合され、日本の皇族に準じる「王族」の待遇として王世子となり、「殿下」の敬称を受けることになりました。日本の皇族男子は、陸 ・海軍いずれかの軍人となるよう定められており、王族の李垠氏も陸軍軍人となったのでした。1920年(大正9)年4月、皇族・梨本宮守正王 の第一王女・方子(まさこ)女王と結婚し、1926年には兄の李王・純宗の薨去に伴い李王家を承継して「李王垠」となりました。 |
軍人としての李垠氏 時を経て、李垠氏は陸軍内で昇進を重ね、1935(昭和10)年8月、歩兵大佐に進級して歩兵第59連隊(宇都宮)の連隊長という要職に就きま した。次いで、1938(昭和13)年7月に少将に進級し、翌昭和14年8月には近衛歩兵第2旅団長に就任しました。そして1940(昭和15)年5月 25日、第4師団・留守師団長に就きました。この年12月には中将に昇進しています。明けて昭和16年4月の伴林氏神社参拝が写真20)です。 この参拝から3ヶ月後の7月1日、李垠氏は 第51師団(宇都宮編成)師団長に任命され、師団は満州や華南地域に派遣されました。この経 過を見ると、李垠氏の大阪での第4師団長在任期間は、昭和15年5月25日~16年6月末ということがわかります。伴林氏神社の拝殿などの 上棟式が行われたのが昭和16年1月15日なので、写真20)の4月7日の李垠中将参拝は、拝殿完成の直後であったと思われます。 韓国併合、陸軍軍人となった李垠氏、伴林氏神社の顕彰事業、第4師団への赴任、昭和15~16年という在任期間、などのいくつもの条件 が重なった結果として、写真20)の記念撮影が実現しています。この偶然の重なりがなければ、「李王垠」の伴林氏神社参拝は無かったはず のことなのです。その意味で、私にはこの記念写真がとても貴重なものに思われました。 師団 … 陸軍の部隊編成の一つ。戦略出動の基本単位とされ、師団単独で作戦を実行できるように構成される。歩兵連隊4個を中心 として、他に砲兵連隊や工兵連隊、衛生部隊なども合わせて編成され、総数1万人を超える。日中戦争当時の大阪・第4師 団の歩兵連隊は、第8連隊(大阪)・第37連隊(大阪)・第61連隊(和歌山)・第70連隊(篠山)であったが、後に師団編成制度 が3個連隊編成に変わり、70連隊は他の師団に転出した。より大規模な作戦用に複数の師団で編成される単位が「軍」で、 複数の軍を統括する単位が「方面軍」である。 『重要日誌』の4月7日欄には次のような記事も見られます。『(前略)…殿下ニハ記念撮影後松ノ木ヲ記念植樹遊バサル。(中略)…、田中 常任理事ヨリ経過報告申上ケル中、種々有難キ御下問アリ。特ニ靖国神社拂下ケノ御水舎ガ御気ニ召サレタ様ニ洩レ承ル、午後二時十五分 過御退社遊バサレリ。』。また、『重要日誌』によれば、李垠中将は7月4日にも再度参拝されています。上記の通り、7月1日には第51 師団長として発令されていますが、実際にはすぐに赴任せずに参拝されたものと思われます。7月4日の記事より、『4日 午前九時大阪師 団長宮殿下御参拝。(中略)殿下ニハ御参拝後御水舎ヲ御覧ニナリ、鳥居等何時何分出来ルカトノ御下問アリシ由承ル。天幕内ニテ御小憩。 「名産巴旦桃(巴旦杏)」ハ殿下ノ御気ニ召シ御持帰リニナル。約二十分ニシテ、イトモ御満足気ニ御退社遊バサル。婦人会三、四名接待願 フ。』。大阪城内の師団司令部から藤井寺は近いので、李垠師団長の参拝は専用自動車だったと思われますが、これとは別に、大阪在任中 の李垠氏は電車を利用して度々大和方面を訪れていたようです。 |
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『大鉄全史』(近畿日本鉄道株式会社 1952年)の年譜を見ると、昭和15~16年に4回の記事が出て います。昭和15年10月7日・昭和16年5月18日には、『李王垠殿下當社線御乗車の栄に浴す』と 記されています。また、昭和16年5月31日・6月11日には、『李王垠、同妃両殿下當社線御乗車 の栄に浴す』とあります。「当社線」というのは現在の近鉄南大阪線です。おそらくは、奈良 県内の橿原神宮や近くの神武天皇陵の参拝だったのではないかと推測されます。昭和15年とい うのは、紀元2600年の年だと言うので、初代神武天皇が即位した場所である橿原神宮を中心と して大々的に記念行事が行われた年だったのです。昭和天皇をはじめ多くの皇族や軍人が参拝 に訪れました。妃殿下を伴っての2度の参拝は昭和16年なので、吉野神宮など他の場所へ行か れている可能性もあります。写真22)は、第4師団留守師団長として大阪に在任中の李垠中将で す。方子妃と李玖(イ・ク)王子が同伴されていますが、後方に師団参謀長と思われる大佐が随伴し ているので、半公的な行事などに出席された時ではないかと推測されます(※ 拡大写真の階級 |
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22)第4師団長時代の李垠中将 右は方子妃と次男李玖(イ・ク)王子。長男は夭逝。 |
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章から大佐と判断。参謀飾緒という房を着けているのは参謀職。)。王子の服装から、昭和16年6月の大鉄電車御乗車の時の可能性も考えら れます。いずれにしても、大阪在任中の数少ない李王家御一家の写真です。この時玖王子は、父・李垠氏の来日時と同じ10歳でした。 その後の李王家の歩み 第2次世界大戦の敗戦から2年後、1947(昭和22)年5月3日の日本国憲法施行に伴う王公族制度廃止により、李垠王は皇族待遇の身分を失 い、同時に無国籍の状態に置かれてしまいました。また、陸軍の高級将校であったため、GHQの指令による公職追放の対象となりました。 在日韓国人となった李垠・方子夫妻は帰国を望みましたが、戦後しばらくして誕生した大韓民国の間の国交は成立しておらず、独裁性を強 めていた李承晩大統領が反対したことなどもあり、帰国はかないませんでした。 そんな中、李玖氏にGHQ(占領軍司令部)が手を差し伸べます。1950(昭和25)年、李玖氏は米国でマサチューセッツ工科大学に留学するこ とができました。1957(昭和32)年、李垠氏は日本国籍を取得することができ、夫妻で渡米して李玖氏の大学卒業式に出席しました。この渡 米中の1959(昭和34)年3月に李垠氏は脳梗塞で倒れ、5月に日本へと戻りました。その後、1962(昭和37)年12月に韓国政府より李垠夫妻に 大韓民国国籍の回復が告示され、翌1963年11月22日、当時の朴正熙大統領の計らいで李垠夫妻はやっと帰国を果すことができました。すで に病身であった李垠氏は、金浦空港からソウルの聖母病院へと直接運ばれたそうです。東京オリンピック開催の前年のことでした。 李垠氏の母国で暮らすことになった方子夫人は韓国に帰化し、1970(昭和45)年4月28日には結婚50周年の金婚式を病院で開きました。そ の3日後の5月1日、悲運の王子・李垠氏はその生涯を病院で閉じました。満73歳でした。李垠氏は即位したことはありませんが、朴大統 領の認可によって王家の宗廟である永寧殿に皇太子の身分として位牌が納められました。 韓国の土となった李方子氏 夫人の李方子氏は、韓国帰化後は、知的障害児や肢体不自由児の援護活動に取り組み、知的障害児施設「明暉園」と知的障害養護学校の 「慈恵学校」を設立し、その運営に尽力しました。方子氏の功績は韓国で高く評価されていますが、それは、韓国人・李方子に惜しみなく 贈られた評価と言ってよいでしょう。1989(平成元)年4月30日、方子夫人はソウルの居宅で亡くなりました。享年87でした。日本では旧令 に従って「韓国皇太子妃」として対応が執られました。遺体はソウル郊外にある夫・李垠氏の墓所に合葬されました。 武田鏡村氏の著書『清々しい日本人』(東洋鮮済新報社 2008年)で李方子氏が取り上げられています。一部を紹介します。 『方子は六十年代の韓国で誰もしていなかった身体障害者者への事業をはじめ、日本の皇族出身でありながら韓国人として、厳しい日韓 関係に人道をとおした息吹を吹き込んだのである。韓国政府は方子の葬儀に多額の金を出して支援したが、それは李王朝最後の王妃として 扱ったと同時に、彼女の献身的な慈善活動を最大に評価していたことを示している。 葬儀は李王朝の礼式によって行われ、日本から天皇・皇后両陛下の弔花が供えられ、皇族を代表して三笠宮両殿下が出席している。その 葬列は一キロにも及び、李王朝の御陵となるソウル郊外の金谷陵まで続いたのである。』。同書にはまた、李方子氏のこんな言葉が紹介さ れています。『私の祖国は二つあります。一つは生まれ育った国、そしてもう一つは私が骨を埋める国です。』 |
李玖氏の死-終焉の地・赤坂 李夫妻のただ一人の子・李玖氏は、大学の建築科で学んだ後、ニューヨークで建築 家として働きました。その後、1963年に両親と共に韓国に帰国して一緒に暮らします が、10数年後からは日本と韓国を行き来しています。 2005年7月16日、東京・赤坂プリンスホテルの一室で李玖氏が変死しました。父李 垠氏と同じく享年73歳でした。死因は急性心不全とされたそうですが、看取った者は いませんでした。日本の法律上は変死に当たるので、日本の警察が手続きとして司法 解剖を実施しました。その頃、李玖氏は日本で暮らし、母の実家である梨本家(旧梨本 宮家・戦後皇籍離脱)の世話を受けていたそうです。梨本家の人が18日に李玖氏を訪問 してその遺体を発見したということです。李王家直系の後継者であった元王子は、こ うして寂しくこの世を去りました。 李玖氏の終焉の地となった赤坂プリンスホテルには、別館と呼ばれた旧館がありま した。1955(昭和30)年に赤坂プリンスホテルとして最初にオープンした洋館です。奇 しくも、この洋館こそ、戦前に李王家が住まいとした「旧李王家東京邸」でした。昭 |
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23)現在の赤坂プリンス・クラシックハウス 元の場所からは、曳家工法で移設されている。 |
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和初期に宮内省の設計によって建造された立派な邸宅でしたが、戦後に売却され、西武鉄道グループ総帥の堤康次郎氏がこれをホテルとし て開業しました。堤氏はいくつもの旧宮家邸宅を買収してホテル事業を拡大していきましたが、そのホテルブランドが「プリンスホテル」 でした。軽井沢にあった旧朝香宮家の別荘を改装して1947(昭和22)年に開業したホテルが「プリンス・ホテル」と命名され、これが「プリ ンスホテル」の始まりでした。赤坂プリンスホテルの場合も、「プリンス」が「李垠皇太子」に由来することは言うまでもありません。 赤坂プリンスホテルは2007年に「グランドプリンスホテル赤坂」と改称された後、2011年3月をもって閉鎖され、2013年7月には解体作 業が完了して姿を消しました。旧館は歴史的建造物として保存されることになり、施設配置の都合で曳家工法による移設の後、「赤坂プリ ンス・クラシックハウス」として生まれ変わりました。現在は東京都指定有形文化財となっており、そのことを赤坂プリンスのサイトでも しきりにアピールしていますが、歴史的建造物としての意義については「国の要人であるご家族の邸宅」としか述べていません。韓国併合 を背景として進められた李氏王家の日本化、その象徴としての皇族・方子王女と李垠氏との政略結婚、そしてその御一家の住まいとして使 用された洋館の邸宅‥‥これらの歴史的事実には触れたくなかったのかも知れません。赤坂プリンス・クラシックハウスは、「‥‥、レス トラン・結婚式会場として生まれ変わります。歴史を感じさせる洋館は、ゲストの方をご自宅に招いてもてなすような、邸宅ウエディング をお楽しみいただけます。」とサイトでアピールしています。 |
【 参 考 図 書 】 | 『藤井寺市史 第2巻・通史編三 近現代』(藤井寺市 1998年) |
『藤井寺市文化財 第11号 藤井寺市の神社』(藤井寺市教育委員会 1990年) | |
『伴林氏神社略誌』(伴林氏神社 1978年 非売品) | |
『伴林氏神社史料』(伴林氏神社 2002年) | |
『地域のなかの軍隊4 古都・商都の軍隊 近畿』(原田敬一編 吉川弘文館 2015年) | |
『大鉄全史』(近畿日本鉄道株式会社 1952年) | |
『日本の韓国併合』(山辺健太郎著 太平出版社 1966年) | |
『日韓併合小史』(山辺健太郎著 岩波書店 1966年) 〈 その他 〉 |