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藤井寺経営地とは
 「藤井寺経営地」とは
大正12(1923)年に道明寺−大阪阿部野
橋間を全通させ、前年に藤井寺駅を開業していた大阪鉄道
(大鉄)
が、沿線開発の一環として取り組んだ住宅地開発事業の一つです。
今風に言うならば、「藤井寺ニュータウン」というところでしょ
うか。ただし、千里ニュータウンや泉北ニュータウンのような巨
大ニュータウンに比べると、ミニニュータウンと言った程度の規
模ですが。それでも総面積
約10万9千坪(約36ha)という規模で、
これは大鉄が各地で開発した経営地の中では最大の面積でした。
 下の2)地図で各経営地の分布がわかりますが、地図中の経営地
の大きさは住宅地として表示されており、藤井寺の場合は住宅以
外の部分がかなりあります。また、この地図では経営地の位置が
微妙にずれているものもあります。
 これら経営地の中で最初に分譲住宅販売を開始したのは、「恵
我之荘
(えがのしょう)経営地」で、大正13年9月でした。前年の4月に
道明寺−大阪阿部野橋間が全通しており、大阪市内勤労者のため
の大都市郊外住宅地が大和川の南に初めて誕生しました。今で言
う、“大阪市のベッドタウン”です
次いで昭和2(1927)年2月開
始の「矢田経営地」、同3月土地分譲開始の「白鳥園経営地」と
続きました。「藤井寺経営地」は、白鳥園経営地と同じ昭和2年
3月に宅地分譲を開始していますが、住宅地以外の施設もあった
ので、経営地全体の完成はもう少し後のこととなります。
 大阪鉄道が沿線の郊外地である藤井寺に「藤井寺経営地」を展
 
藤井寺経営地の模式地図 
1)藤井寺経営地地図
 1) 藤井寺経営地地図 〈 昭和4,5年頃 〉
  『大鉄全史』(近畿日本鉄道 1952年)「第十一図 藤井寺附近地図」より
   明治時代に拡大された仏供田池が載っている。
                
着色加工し、寺社記号と青色文字を追加。
開する計画を発案したのは大正14(1925)年のことでした。分譲住宅地の開発、野球場などのスポーツ施設の建設、自然体験学習施設の「藤
井寺教材園」の開設など、藤井寺駅の周辺に展開する一大計画でした。
 翌大正
15年にこの計画の立案を依頼されたのは造園学者で都市計画家の大屋霊城(おおやれいじょう)でした。 大屋霊城は都市公園の計画・設
計等で著名であり、昭和初期に全国各地の都市公園計画を手掛けています。また、大屋霊城はヨーロッパのガーデンシティを念頭に置いた
「花苑
(花園)都市」という概念を提唱しており、「藤井寺経営地」計画も彼としては「藤井寺花苑都市構想」というものでした。経営地内
にメインストリートとなる広い大通りを藤井寺駅前から通し、その道路を中心として分譲住宅地の区画を配置して、さらに児童遊園地や運
動施設の設置をも構想して立案されました。ただ、大屋霊城の「花苑都市構想」が藤井寺経営地の中で具体的にどこに実現されたのか、実
はよくわかっていません。藤井寺教材園ぐらいではないかとも言われています。
 
       2)           大阪鉄道が開発した経営地の様子    (昭和7年の地図)
2)大阪鉄道が開発した経営地の様子
  『大鉄全史』「第十二図 直営バス路線及住宅経営地地図」を下記のようにCG加工して使用。一部加筆あり。
   ※ 線画・文字のかすれやつぶれを補修し、見やすいようにカラー化した。 ※ 山地部分や住宅地、遊園に着色した。
   ※ 記号
と青色文字の名称は『大鉄全史』の原図には無く、筆者が追加したものである。
  この地図についての説明・考察は別ページ「道明寺線・長野線・南大阪線の歴史」を参照のこと。
なぜ「藤井寺」だったのか
 『大鉄全史
(近畿日本鉄道 1952年)の中に、大鉄時代前期の兼営事業について「住宅及住宅地経営」という項があります。その一部を紹
介します。住宅地経営に臨む大阪鉄道の考え方の一端がわかります。
 『
自社営業路線の通過する大都市近郊に住宅地を開設し、若しくは住宅を建設して大都市の住宅難を緩和し、併せて沿線の開発を図るこ
とは、近年郊外電鉄経営の定石であったかの如き観がある。此住宅及び住宅地経営は、日夜騒音と煤煙に悩む都市生活者に清朗なる安息の
場所を与える意味に於て、社会的に有意義であ
ると共に、経営的見地よりしても自社営業線の固定的乗客を増して運輸収入を確実ならしめ、
且つ事業夫自体よりも若干の収益を期待し得る利益がある。我が大鉄も大阪延長線
(道明寺−大阪阿部野橋間)の完成と共に、此住宅地経営
の機会が得られることに着眼し、大正十一年新設の天王寺事務所に新たに住宅係を設けて此事業を開始した。
(以下略)
 大正末期〜昭和初期、大阪市の人口が東京市
(当時)を抜いて「大大阪」と呼ばれるようにまでなり、大阪市の周りには郊外住宅地が各電
鉄会社によって次々と開発されている時代だったのです。大阪鉄道もこの時流に乗るようにして次々と経営地を開設していきました。次に
「藤井寺経営地」についての『大鉄全史』の文を紹介します。藤井寺の地を選んだ理由が述べられています。
『 
藤井寺経営地(南河内郡藤井寺町、土地108,662(約35.9ha 原文は漢数字))       (※藤井寺町は昭和3年10月15日発足)
 
藤井寺の地は土地高燥、空気清澄にして附近に西国五番の札所葛井寺、古戦場等の名所旧蹟多く、殊に仲哀、雄略、允恭、応神四帝の御
陵、仲津媛皇后、来目皇子の御墓等も程近い。御陵、御墓をめぐる鬱蒼たる古柏老松の間には幽邃
(ゆうすい)の気湧き自ら俗塵を洗はしめるも
のがあり、大阪市との距離より云っても好適の住宅地である。依って当社は大正十四年此地を卜
(ぼく)して一層大規模なる理想的住宅地を開
設する
に決し、総面積十万八千余坪を買収した。藤井寺駅より幅員八間(約14.4m)の幹線道路を敷き其車道と歩道との間には街路樹として
公孫樹
(いちょう)を植栽した。此道路を中心に幅員三間(5.4m)乃至五間(9m)の道路が放射線状又は方形に整然と敷設せられ、勿論上下水道は完
備、電燈、電話、売店、旅館、幼稚園舎等の諸施設、又後に記する球場及び教材園等の文化的設備も置かれ、当社経営地の尤なるものとな
ってゐる。土地の分譲は昭和二年三月より開始せられた。

 1)の地図を参照していただくとわかりやすいと思いますが、ただ、この地図は模式化されているので、形・長さなどが正確ではありませ
ん。この時期の藤井寺経営地の正確な地図は見つけられませんでした。当時の経営地の様子に最も近いと思われるのが写真 3)です。
3)戦後すぐの写真で見る藤井寺経営地の様子
3) 戦後すぐの写真で見る藤井寺経営地の様子1946(昭和21)年6月6日米軍撮影 国土地理院〕より
       文字入れ等、一部加工。「藤井寺経営地範囲」は@地図を基にした筆者の推定による書き込み。
藤井寺経営地」の様子
 藤井寺経営地の全体像を知ることができる画像は、1)地図と写真3)しか入手できませんでした。これらと『大鉄全史』の記述などをを基
に藤井寺経営地の様子を紹介します。
 藤井寺経営地は昭和
2(1927)年3月に土地分譲が開始されますが、当然それまでに道路が建設されて住宅地の街区が整えられ、各区画の宅
地が造成されてきたわけです。建設前のこの場所の写真はありませんが、土地利用の様子がわかる地図があります。昭和4年6月発行の地
形図で、『大阪府東南部ノ四・古市』という地図です。4)地図がその部分ですが、わかりやすいように着色加工しました。この地図でわか
りますが、建設される前の経営地の範囲は、池と樹林地以外のほぼ全体が水田です。さらに、その周囲も水田が広がっています。鉄道が通
ったとは言え、この一帯はまだまだ水田ばかりの田園地帯だったのです。そこに、わずか
2,3年のうちに突然のようにニュータウンが誕生
したのですから、鉄道南側のこの一帯の様子はガラッと変わってしまったことでしょう。村の人々の驚きと期待とが目に浮かびます。
 経営地の全体像を『大鉄全史』の記述内容から改めてまとめてみます。
総面積:108,662(約35.9ha) の土地を大阪鉄道線に接する南側に確保。大正14年に買収。
道 路:藤井寺駅より幅員8間(約14.4m)の幹線道路を建設。
      幹線道路には歩道を設け、車道と歩道の間にはイチョウの街路樹を植えて「いちょう通り」と名付けた。
(図1))
      幹線道路を中心に、幅員3間
(5.4m)〜5間(9m)の街区道路が放射線状や方形に整然と設けられた。(図1))
設 備:上下水道を完備。電灯線・電話線を敷設。
(※最初の電灯線導入は大正6年6月、電話加入開始は同11年12月。いずれも道明寺村内。)

施 設:売店・旅館・幼稚園舎等の施設を設置。
      スポーツ施設として野球場と第二運動場を設置し、文化的施設として教材園を開設。
後に相撲場も開設。(図1))
        野球場敷地
18,000坪(約5.9ha)  第二運動場敷地 4,600坪(約1.5ha)  教材園敷地 22,000坪(約7.3ha)
時 期:土地分譲開始 − 昭和2(1927)年3月〜
      藤井寺球場  − 昭和2年11月11日起工 〜 同3年5月25日竣工・5月27日開場式
      藤井寺教材園 − 昭和3年2月起工 〜 同年5月末完成         (※ 昭和3年10月15日藤井寺町が発足)
      藤井寺相撲場 − 昭和11年6月8日土俵開き 観客定員約3千人
 藤井寺経営地には大阪鉄道によって専用の浄水施設が設置され、上・下水道が整備されました。当時、藤井寺村や道明寺村には上水道施
設などはまったく無い時代のことです。上水道は、隣接する当時の高鷲村・埴生村
(現羽曳野市)の一部にも供給されました。戦後になって
この上水道施設は、昭和
29(1954)年に給水開始する藤井寺町営水道に譲渡され引き継がれました。
 また、電灯線や電話線が引き込まれて完備していました。 この地域では、電灯線が引かれてからやっと
10年足らずで、初めて電話線が
敷設されたのはわずか
4,5年前のことでした。この時にできた住宅街が後々まで高級住宅地と呼ばれたゆえんの一つです。今日の住宅地や
住宅の分譲では、電気・ガス・上下水道・電話回線などのインフラ完備は当たり前のことですが、当時の藤井寺村周辺の一般的な住宅事情
からすれば、藤井寺経営地のインフラが完備された住宅は、“あこがれの未来住宅”の感じではなかったかと想像されます。
 実は、この“閑静な高級住宅地”という位置付けが、
45年後の「藤井寺球場ナイター化問題」へとつながって行くのです藤井寺球場で
プロ野球の夜間営業が行われることなど、当時経営地の住宅地に入居した人々にとっては、想像の域にすら無いことだったからです。
 
空中写真3)から読み取る「藤井寺経営地」
 藤井寺経営地の様子を留めている空中写真3)の内容を読み取ってみたいと思います。まず道路網ですが、『大鉄全史』が言う幹線道路が
藤井寺駅前から南西に向かって一直線に伸びている様子が目立ちます。注目すべきは、何よりもその幅員です。幅員8間、約
14m余りのこ
の道路は「いちょう通り」と名付けられましたが、文字通りイチョウの並木が造られていました。写真でも、その並木が黒い点の列となっ
て見えます。住宅地内には、東西南北に整然と街区道路が造られていますが、これらの道路と比べると、いちょう通りがいかに広い道路で
あったのかがわかります。当時としては異様に広い道路の出現に、藤井寺村の人々はさぞ驚いたことでしょう。昔からあった道路は、荷馬
車がすれ違うことが可能な、せいぜい4m程度の幅か、それ以下が普通でした。藤井寺市内の現在の幹線道路である国道
府道がまだどれも
出来ておらず、自動車通行も現代に比べればごくわずかだった時代です。そんな時代に登場した「いちょう通り」は、大都市郊外にできた
“新しい町”を象徴するメインストリートだったのです。当時まだまだ田舎で田園地帯であった藤井寺村では、この新時代道路はさぞかし
目立ったことでしょう。
 写真5)の現在の様子で見ても、いちょう通りの広さは目立ちます。府道番号の付いた南北道路は最近拡幅されたものです。藤井寺に住む
ようになって、初めて藤井寺市の地図を買いそれを広げて見た時、私はこのいちょう通りの部分だけが周囲の道路よりも目立って広いこと
に大きな違和感と疑問を持ちました。現地に行って実際の道路を見ても、やはり違和感がありました。この
300mほどの区間だけが異質に
思えたのです。駅前から延びる幹線道路としては短か過ぎ、なぜここだけが広いのかという疑問がずっと残りました。 旧国道170号や府道
堺大和高田線・大阪羽曳野線など、いちょう通りよりも後の時代に造られた幹線道路でも、並木どころか歩道すら無かったのです。私がこ
の広い道路が藤井寺経営地の遺産だと知るのは、ずっと後のことでした。
 写真3)と写真5)を比べて見るとわかりますが、いちょう通りを含めて経営地建設の時に造られた道路が、ほぼそのまま現在も健在である
ことがわかります。1)の地図に表示された内容のうち、現在もその形態を残しているのは、道路網と住宅街だけと言えるでしょう。
 写真では藤井寺球場の姿も目につきます。規模の大きい施設だということもありますが、この写真ではスタンド部分の奇妙な模様が気に
なります。これについて述べた資料が無いのでよくわかりませんが、おそらくは、戦時中に空襲被害を避ける目的で施された迷彩模様では
ないかと思われます。戦時中には建物の一部が軍の食料倉庫にされていたそうなので、爆撃目標にされないための対策だったのでしょう。
ちなみに、スタンドの上には甲子園球場と同じような大鉄傘が設置されていましたが、戦時中の金属供出のために昭和18年に解体撤去され
二度と復元されることはありませんでした。                            アイコン・指さしマーク「近鉄藤井寺球場」
 外野グラウンドから外野席にかけて植物が茂っている様子が見られますが、戦時中には食料不足の対策でグラウンドが畑に変えられて、
大豆やさつまいもが植えられていたそうです。その名残かも知れません。昭和
20年8月の敗戦直後にはグラウンド一面に雑草が生い茂り
外野席の土手の土がえぐり取られて赤肌を見せている状態だったそうですが、写真で見る外野席の様子がそれを示しています。
4)藤井寺経営地ができる前の様子 5)藤井寺経営地だった場所の現在の様子
4) 藤井寺経営地ができる前の様子       (昭和4年の地図)
 1/2万5千地形図大阪近傍九号・和歌山五号大阪東南部ノ四「古市」(昭和4年
  
〈1929年〉6月(大日本帝国陸地測量部発行
)より。  
着色・色文字などを
 CG加工。藤井寺経営地の範囲は@地図に合わせている。水色の池・周濠
 は写真3)の時点で存在していたものを示す。町村名は当時のもの。
5) 藤井寺経営地だった場所の最近の様子  (GoogleEarth 2015年)より
  藤井寺経営地の中で誕生時の形態を残すのは、東住宅地と西住宅地の街区
 といちょう通りぐらいである。教材園の場所は高校の敷地と住宅地に、藤井
 寺球場の跡地は学校と大型マンションになっている。仏供田池・新シ池・上
 谷池は姿を消し、下谷池も一部だけを残す。    
文字入れ等一部加工
 球場の東側に接して、敷地の中に相撲場が見えます。昭和11年に完成したの
ですが、戦後も昭和
40年代の終わり近くまで存在し、解体された後は駐輪場に
なっていました。その後、藤井寺球場での主催試合が増えた昭和
50年代の後半
には、屋内練習場が造られました。

 もう一つ大きな存在として目立つのが、「藤井寺教材園」跡地の様子です。
教材園については後述しますが、この写真でわかるのはこの時点でもおおむね
教材園時代の形態を維持していることです。南西側に学校用地に転用されて校
舎などの展開する様子が見られますが、園内の池や正面入口前の花壇や植物園
の形態はほぼそのまま残っています。教材園としての運営は昭和8年頃に休止
していたのですが
、その後も教材園の基本的な姿は10年以上続いていたわけで
す。この後、この場所は次々と変化をしていくことになります。
6)藤井寺経営地の跡地の様子(南西より北東を見る)
 6) 経営地跡地の様子(南西より)   2013(平成25)年6月
   手前の住宅地は教材園跡地。左手マンションは藤井寺球場跡地。
7)新緑の「いちょう通り」の様子(北東より) 8)黄葉の「いちょう通り」の様子(北東より)
7) 新緑の「いちょう通り」の様子(北東より)
                                  2020(令和2)年4月
   近年歩道が整備され、イチョウの木も新しく植えられた。
 
8) 黄葉の「いちょう通り」の様子(北東より)
    道路突き当たり後方の樹木は、教材園にあった樹林
   の一部。
(写真15))      2016(平成28)年11月 

【 ユニークな施設「藤井寺教材園」 】
藤井寺教材園」の誕生
 藤井寺経営地の南西部分には、経営地敷地の
1/4近くの土地を利用して大屋霊城の設計による「藤井寺教材園」が造られました。自然学
習・観察園として設計されましたが、わずか4ヶ月足らずのスピード工事で完成しました。
 自然観察園として造られましたが、その目的は『大鉄全史』によれば、『
主として大阪府下の中等学校(旧制)及び小学校の生徒児童に
自然科学研究の資料を提供することを目的とする。
』とあります。そのために、広く教材用の動植物を収集してこれを園内に分類・植栽飼
育し、現場での生態研究ができるようにしました。さらに、希望に応じて学校に対して生きた教材を提供することもしました。このような
施設は日本ではこれが最初の試みで、現在からみても大変ユニークな施設だったと言えるでしょう。それだけに教育界のみならず多くの方
面から大きな期待が寄せられました。植物園と公園を合わせた上に遊園地の要素も加わっており、しかも教材提供という教育機関の役割ま
でをも備えていたのです。整然と並ぶ住宅地に接してこのような施設が造られたのは、設計者である大屋霊城が提唱する「花苑都市」の構
想が強く反映されたものと思われます。現在のよく似た施設を挙げるとすれば、東京都港区にある「国立科学博物館附属自然教育園」でし
ょうか。こちらは昔の大名屋敷や御料地だった場所で、自然樹林の規模が教材園よりもずっと大規模です。学習支援活動として様々なイベ
ントが実施されていますが、教材園のように市中の一般学校へ教材提供をすることはありません。そういった点でも、教材園はやはり独特
な施設と言ってよいでしょう。教材園の施設概要について下にまとめてみました。      アイコン・指さしマーク「国立科学博物館附属自然教育園」
 『大鉄全史』には、教材園の様々な施設を『園内適宜の箇所
に配置して、自然美の保存と研究観察の便宜を計り、日常煤煙
と騒音に悩む都市の生徒、学童をして、清新の気を養ひ、同時
に科学研究の興味をそそるに遺憾なきを期してゐる。
』とあり
ます。
 小学校の遠足などを積極的に誘致したことで、藤井寺教材園
は大阪市内の小中学生などでにぎわったことが伝えられていま
す。また
園内で作られた自然教材の配布先は大阪市内の200
校余りの内の120校にも及んだそうです。
 ◆ 面 積:22,000(約7.3ha)
 ◆ 時 期:昭和3(1928)年2月起工 〜 同年5月末完成
 ◆ 施 設:中央部は自然の松林(元から在った樹林地 )(図4))
       水中動植物養殖池(約1,200坪
約0.4ha〉)
       果樹園・蔬菜
(そさい)園・草卉(き)園・花卉(かき)
       樹木見本園・桜樹園・楓樹園
       温室・動物舎・学校専用実習地・児童運動場
 
9) 藤井寺教材園の入口            『大鉄全史』より
    樹木が苗木状態なので、開園直後の様子と思われる。
 
  10) 藤井寺教材園内の農園    戦前の絵はがきより
     文字は「大阪教材園 藤井寺 農園 大鐵電車」  
 
10)藤井寺教材園内の池 11)藤井寺教材園内の池
11) 藤井寺教材園内の池 (池の南から北方を見る)
   水中動植物養殖池として人工池が造られた。右上端に藤井寺
  球場のスタンドと大鉄傘が見える。  『大鉄全史』より
12) 藤井寺教材園内の池  後方の林は元から在った樹林。
   貸しボートが、娯楽にまだ余裕のあった時期を感じさせる。
 『カメラ風土記ふじいでら』(藤井寺ライオンズクラブ 1979年)より 
教材園から学園の地へ
 藤井寺教材園は、大都市郊外にできた当時としては画期的な施設でしたが、残念なが
らその寿命は短いものでした。藤井寺経営地の全体が完成し終わった直後に、昭和大恐
慌に見舞われるという不運が大阪鉄道を襲いました。多くの兼営事業に多額の投資を続
けていたことも響き、大阪鉄道の経営は悪化していきました。
 経営立て直しが迫られる中
まず昭和6(1931)年4月に教材の配給が廃止されました。
さらに、同年8月には教材園の経営を大阪府教育会及び南区教育会に委託し
、名称も「
井寺郊外学園」と改められました。「教材園」としては事実上の閉鎖状態となったので
す。その後、昭和8年に両教育会との委託契約が解除されて教材園は再び大鉄の直営に
戻りましたが、当時の大鉄は財務状況が窮迫しており、教材園の効果的な経営が見いだ
されない中、敷地の一部が債務の代償として提供されるという事態にもなりました。
 その後この敷地が学校用地として適切であることが世に知られるようになり、大阪鉄
道も学校用地としての利用を歓迎したことで、いくつもの学校が進出してきました。財
団法人・天王寺高等女学校藤井寺分校、大阪市立天王寺商業学校郊外学舎、藤井寺学園
相愛第二高等女学校(後藤井寺高等女学校)などが、続々と建設されました。そのため、
天王寺高等女学校藤井寺分校の校舎
13) 天王寺高等女学校藤井寺分校の校舎
                                  昭和12年頃
 『四天王寺誌
』(四天王寺事務局発行 昭和13年4月)より
教材園の敷地は約 1/10弱にまで縮小され、戦前から残っていたのは第二運動場と園池・温室など、わずかなものでした。このような事態
について、『大鉄全史』は次のように述べています。
 『けれども、其敷地の大部分が清新なる子女教養の場所となってゐることは、当初教材園設置の目的から見て、寧ろ往くべき道を得たも
のとも称することが出来るであろう。
』。教材園と同類の文教施設に利用されたので良しとすべし、と言ったところでしょうか。
戦後の移り変わり−学園と団地
 戦後は、藤井寺高等女学校だけが残り、教材園の敷地はテニスコートやサッカー
場・ラグビー場などにも利用されました。昭和
30年代になると、日本住宅公団(現
都市再生機構)
が敷地の東側の約半分と第二運動場跡地に、春日丘団地」を建設し
ました。大都市への人口集中が始まり出しており、大阪市のベッドタウンとして手
頃な場所であった藤井寺町・道明寺町
(当時)には、住宅公団・府営住宅・市営住宅
などの公営住宅が次々に建設されていました。公団住宅は、ほぼ同時期にもう1ヵ
所の「藤井寺団地」も建設されました。
 春日丘団地の建設は、教材園時代の地形や自然を生かして行われました。敷地内
の土地の高低差の一部を敢えて残し、教材園建設の前から在った自然林(4)図)もか
なりの部分が残されました。団地内の植栽の手間が大きく省かれたことでしょう。
春日丘団地の入居は昭和
35年2月に開始されました。他の公営住宅等の入居も続き
美陵町
(藤井寺市の前身)の人口は急速な増加を開始します。6年後の昭和41年には
人口がついに4万人を越え、市制施行によって藤井寺市が誕生したのです。
  12)旧春日丘団地の案内図(左が北)
 14) 旧春日丘団地の案内図(左が北)
     敷地内には羽曳野市域の部分が含まれている。
    Webサイト「公団ウォーカー・春日丘団地」より
  
(http://codan.boy.jp/danchi/kinki/kasugaoka/index.html)
     同サイト掲載のオリジナル画像
13)戦後の経営地の様子(北西より) 14)1999(平成11)年の様子
15) 戦後の経営地の様子(北西より)    昭和20年代終わり頃
    教材園の東側のおよそ半分には、ラグビー場やテニスコートなどが造
   られている。 右上は第2運動場だった場所。右下には2両編成の近鉄
  電車が走っている。
       『カメラ風土記ふじいでら』より
    
 
 16) 1999(平成11)年の様子   教材園の東側部分は住宅団地となり、
   その西側(写真右側)は短大・高校の敷地となった。団地と短大の間の樹林は、
   教材園時代の樹林がそのまま生かされていることがわかる。写真15)で農地だ
   った場所もすっかり住宅地となって、ベッドタウン化の進んだ様子がわかる。
 
 大阪出身の詩人である佐々木幹郎さんの著書『河内望郷歌』の中に「教材園跡」という一節があります。佐々木氏は6歳の時に藤井寺に
引っ越して来て、小学校時代を藤井寺の地で過ごされています。氏の生年からすると、まさに写真15)の時期からの数年間の様子を見てこら
れたことになります。実際に教材園で楽しんだ経験が書かれた文は珍しく、なかなかお目にかかりません。その一部を紹介しておきます。
教材園跡 』
…(略)…
 教材園とは不思議な名称だが、これは当初の目的が大阪の中学生や小学生に、自然科学研究の教材を提供することにあ
ったからだ。
…(中略)… 遊園地と植物園の機能を合体させた、規模の雄大な、日本で初めてのユニークな施設であった。戦争が
この施設の機能を停止させる。土地は2千坪に縮小された。それでも
、昭和30年中頃まで「教材園」の名称は残り、温室や植物園、
テニスコートやサッカー、ラグビー場などが、緑豊かな起伏に富んだ地にあった。
 わたしが6歳のとき、藤井寺に引っ越してきて母親に最初に散歩に連れていってもらったのは教材園だ。家から3分はどの距離
だった。その頃は園の中に池もあって、ボートが浮かんでいたことを覚えている。幼稚園で最初の遠足があったとき、どこへ行く
のかと喜んでいたら、行き先は教材園だった。
 その遠足のとき、小山の上でお弁当をひろげると、友達のオニギリがコロコロと転げていった。面白いので見ていると、小さな
穴の中に入ってしまったので、わたしたちは大騒ぎした。ちょうど遠足の前に、先生からこれと良く似た日本の昔話を聞かされて
いて、その話では穴の中でネズミがおもちをついているはずだった。子供の頃の教材園は、そういう不思議な感興を誘
うところで、
小学生になってからは、園の片隅に密生していた竹藪の中で、友人達と「隠れ家」作りに励んだりもした。
 その土地が整備されて、わたしが中学生の頃、住宅公団のアパート群が出来た。これは土地の起伏と樹木をそのまま残した設計
になっていて、住宅公団としては、日本で初めての試みだったという。
      『河内望郷歌』(佐々木幹郎 1989年 五柳書院)より
 その後、春日丘団地は都市再生機構の建て替え高層化事業によって、平成20(2008)
に「サンヴァリエ春日丘」に生まれ変わりました。旧団地敷地の半分ほどは民有地とな
って戸建ての住宅が並んでいます。団地全体が「春日丘新町」という新町名に変わりま
した。
 春日丘団地には、「スターハウス」と呼ばれた変わった形の建物が3棟ありました。
真上から見た形が星形みたいだというので、俗称としてスターハウスの名が付いたので
すが、全国にある公団住宅団地のあちこちに造られま
した。上の写真14)の図や右の写真
17)でわかるよ
うに、春日丘団地のスターハウスは団地の西側に3棟が並んでいました。
この内の一番北側の棟が、春日丘団地の記念建物として保存され
ることになり、改修工事
が行われてきれいな姿に生まれ変わりま
した(写真21)22))内部は改修されて給水施設と
して利用されています。かつてスターハウスに住んだことがある人にとっては、見るだ
けでも懐かしい思い出の建物でしょう。
 
15)春日丘団地の様子(南より)
  17) 春日丘団地の様子(南より) 1983(昭和58)年
        左下に3棟のスターハウスが見える。
   『懐かしの球場・関西編』(2014年 産経新聞社)より
 
16) 旧団地内の様子 17) 使用されていた頃のスターハウス(南より)
18) 旧団地内の様子 Webサイト公団ウォーカー」より
    高低差のある地形が見られる。  (建て替え間近の頃)
19) 使用されていた頃のスターハウス(南より)
    (後に保存された棟)   「公団ウォーカー」より
18) 団地内に残る教材園の樹木(北西より) 19) 団地内に残る教材園の樹林とスターハウス(南東より)
20) 団地内に残る教材園の樹木(北西より)
   集会所の周りに残されたアカマツとコナラの大木。元々の
  自然林にあったもので、樹齢は400年を越えると言われて
  いる。
           2013(平成25)年6月
21) 団地内に残る教材園の樹林とスターハウス
   (南東より)           2012(平成24)年6月
     右手の樹林地は奧まで続いている(写真5))
 教材園跡地に残った藤井寺高等女学校は、戦後になって藤井寺高等学校→相愛第二高等学校と名称を変え、昭和29(1954)年6月には谷岡
学園に吸収合併されて、大阪商業大学附属女子高等学校となりました。そして、翌昭和
30年4月に同じ場所に大阪女子短期大学が開学する
と共に大阪女子短期大学附属高等学校と改称されました。短大・高校の敷地は隣接する羽曳野市域に複雑にまたがっています。
 藤井寺教材園が閉鎖状態となってから約
80年余りが過ぎました現在は、藤井寺教材園の施設らしいものは何も残っていません。わずか
に、サンヴァリエ春日丘と短大・高校の敷地内に残された樹林地の松の大木などが、ありし日の「藤井寺教材園」にしっかりと存在した自
然林の名残を伝えてくれています。
 
2016年、大阪女子短期大学は、平成29年度学生募集の停止とその後の閉学予定を発表しました。高校は継続されますが、「大阪女子短
期大学」の名称は使えないので、
2017年4月より「大阪緑涼高等学校」に改称されました。緑涼”が、何となく教材園の在った場所の雰
囲気を表しているような感じがする、と言うのはこじつけでしょうか。短大が開校してから60年が過ぎています。教材園が出来てから短
大の敷地に変わるまでは、わずか27年間でした。すっかり藤井寺駅近くの短大として定着していただけに、閉学は何とも惜しまれます。
こんな駅の近くで靜かな教育環境の場所は、新たに確保することはまず無理なことでしょう。
2018年3月18日、大阪女子短期大学で閉学
式が行われ、
63年間の短大の歴史が幕を閉じました。短大の校地・施設だった場所を含む全体が「大阪緑涼高等学校」となりました。
20)スターハウス(南東より) 21)大阪緑涼高等学校周辺の現在の様子(北東より)
22) スターハウス(南東より) 保存の
  ために補修されて、内部は給水設備として
  利用されている。
  2013(平成25)年6月
23)大阪緑涼高等学校周辺の最近の様子(南東より)
 〔藤井寺西小学校創立50周年記念撮影写真 2019(令和元)年5月
〕より
                      文字入れ等一部加工
アイコン・指さしマーク「大阪緑涼高等学校」公式サイト    アイコン・指さしマーク「藤井寺市の教育・保育施設」
藤井寺経営地の場所は今…
 最後に、かつての藤井寺経営地の現在の様子を最近の画像でご覧いただきましょう。2019(令和元)年に創立50周年を迎えた市立藤井寺西
小学校が、記念事業として行った記念撮影の航空写真の一部です。元号が令和に変わったばかりの
5月14日に撮影されました。かつての藤
井寺経営地は藤井寺西小学校の校区の一部です。
 藤井寺経営地の土地分譲が始まった当時は「藤井寺村」でしたが、翌年には町制を施行して「藤井寺町」になりりました。戦後の昭和34
(1959)年に隣の道明寺町と合併し、さらに昭和41(1966)年には市制施行により「藤井寺市」となりました。昭和30年代に旧藤井寺教材園の
跡地にできた日本住宅公団春日丘団地は「春日丘公団」の町名になっていましたが、その他の旧藤井寺経営地の地区は、この時点ではまだ
旧大字
(おおあざ)名を引き継ぐ「岡」地区の一部でした。その後、昭和43(1968)年の地区名再編により、これらの旧経営地地区は「春日丘1〜
3丁目」という新しい地区名に変わりました。概ね「東住宅地」だった範囲が「春日丘1・2丁目」に、「西住宅地・藤井寺球場」と「藤
井寺教材園」跡地の一部が「春日丘3丁目」になりました。
 既述の通り、平成20(2008)年に春日丘団地が建て替え事業によって「サンヴァリエ春日丘」となり、旧団地敷地の半分ほどは民間の住宅
用地として売却されました。これにより、旧春日丘団地の範囲全体が「春日丘新町」という新町名に変更されました。
 この地区に「春日」が付いたのは、隣接する辛國
(からくに)神社に由来します。辛國神社は「延喜式」の志紀郡の一覧に載る式内社ですが、
神社由緒では室町時代に丹南郡岡村の現在地に移されたと伝わります。郡をまたいでとなり村に移されたわけです。江戸時代の『河内名所
図会
(ずえ)』(1801年)には、「辛國神社 延喜式に、志紀郡に載す。岡村にあり。今、春日と称す。」とあります。「今、春日と称す。」と
いうのは、この地に移ってから「春日社」と称していたことによるものと思われます。宝暦8(1758)年の『河州丹南郡岡村明細帳』では、
「氏神春日大明神」の名称が見られます。この春日社が位置した岡村の一帯が「春日山」と呼ばれていました。「春日社」は、明治時代に
入ってから式内社の名称「辛國神社」に改称されました。「春日山」の名残を伝えるのが、「春日丘」の新地名だったのです。
 写真 24)の中央上部に見える四天王寺小学校、四天王寺東中学校・高校と大型マンション
「グランスイート藤井寺」の部分が藤井寺球場の
あった場所です。球場跡地の左側と右側の住宅街が、経営地に造られた住宅地の部分です。マンションの右下側の住宅街は、春日丘団地の
跡地で民有地化された場所に最近できたものです。そのさらに右下に見える高層住宅群は、春日丘団地に替わって建てられた「サンヴァリ
エ春日丘」です。春日丘団地跡地の左側に見える樹林と建物群は、大阪緑涼高等学校です。この樹林の中には、教材園建設以前からこの地
に在った樹木も含まれています。
 4)図の時代には、この一帯のほとんどが水田地帯であったことを思
うと、80数年間を経た変貌ぶりに感嘆せざるを得ません。村から町へ、
町から市へと、家が増え人が増えてどんどん街が拡大してきた過程の中に、多くの人々の数え切れない暮らしの積み重ねがあったことでし
ょう。単に「昔のこと」と言って忘れ去ってしまうには、余りにも惜しい地域の歴史です。
 
24) 藤井寺経営地だった場所の現在の様子(南西より)
24) 藤井寺経営地だった場所の現在の様子(南西より)
   〔藤井寺西小学校創立50周年記念撮影写真 2019(令和元)年5月14日〕より  切り抜きの上、文字入れ等一部加工。

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