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(近鉄藤井寺球場跡地)
       所在地:藤井寺市春日丘3丁目   交通:近鉄南大阪線・藤井寺駅から西へ約250m 徒歩約4分
                          府道
186号(大阪羽曳野線)・藤井寺第2号踏切南から西へ約800m
1) 在りし日の藤井寺球場(北西より) 2) 藤井寺球場跡地の現在の様子(北西より)
1) 在りし日の藤井寺球場(北西より)    1999(平成11)年6月
    藤井寺球場は何度も改修されたが、写真の様子が藤井寺球場の最終の
   姿である。球場の右側に並ぶ集合住宅は、住宅公団春日丘団地。
2) 藤井寺球場跡地の現在の様子(北西より)
   大型マンションは外野スタンドになぞらえた形になっている。
          〔Google Earth
3D画 2019(平成31)年3月〕より
今や伝説の球場−かつては藤井寺のランドマーク
 藤井寺球場は現在は存在しない球場です。
2006(平成18)年に解体されて姿を消し、その跡地には学校と大型マンションが建てられていま
す。上の写真2)が現在の様子ですが、聞かなければとても球場の跡とは思えません。藤井寺駅近くのこの広い場所の様子が一変しました。
 藤井寺球場がかつてプロ野球球団・近鉄バフアローズの本拠地球場であったことはよく知られていますが、実はそれは意外と新しい歴史
です。昭和初期に開場した藤井寺球場は、戦前は関西のアマチュア野球の試合場として重要な役割を果たしてきました。中でも、全国中等
学校優勝野球大会
(後の高等学校野球選手権大会)の大阪府予選や大学野球などによく利用されてきました。また、周辺諸学校の教育活動と
しての体育行事などにも利用されました。今日のように広い陸上競技場が各地にあるような時代ではなかったので、多人数が一度に集結し
て行われる行事には、広い野球場はもってこいの場所だったのです。
 戦後は、敗戦の翌年、昭和21(1946)年に第28回全国中等学校優勝野球大会の大阪府予選が藤井寺球場で開催されています。戦時中に荒れ
果てた状態になっていた球場も、取りあえず試合のできるところまで復旧されたよ
うです。この年の大阪府代表は浪華商業学校(後浪商高等
学校)
でしたが、8月に西宮球場で行われた全国大会でみごと全国優勝を成し遂げました。これ以後、藤井寺球場は大阪府予選大会の会場と
して使用されてきました。後に参加校が大幅に増えてからは試合会場が数箇所になりましたが、主会場であった日生球場が閉鎖になった平
成10(1998)年からの数年間は、準々決勝〜決勝の試合は再び藤井寺球場で行われていました。
 一方、昭和31(1956)年から同55(1980)年までは、全国高等学校軟式野球選手権大会の会場としても使用され、全国の各地域代表チームが
藤井寺に集まってきました。藤井寺球場は、軟式野球の球児にとっての“甲子園”だったのです。現在、この大会は兵庫県の明石トーカロ
球場
(兵庫県立明石公園第一野球場)とウインク球場(姫路市立姫路球場)で開催されています。
プロ野球球団の誕生
 昭和25(1950)年、近畿日本鉄道が自前の球団「近鉄パールズ」を創設してプロ野球に参入しました。藤井寺球場がプロ野球の試合や練習
にも使われるようになったのですが、本格的な本拠地球場となるのはまだ先のことです。プロ野球界がナイター試合を導入すると、設備を
持たない藤井寺球場での試合は避けられ、平日のナイターゲームは、日生球場
(大阪市森ノ宮)や大阪球場(同難波)を借りて準本拠地として
行われました。藤井寺球場は土日・祝日のデーゲーム限定で使用される状態が続きました。パリーグ優勝をして迎えた日本シリーズも、大
阪球場を借りて開催されました。このような状態を解消するために近鉄が自前の藤井寺球場の本拠地化を考えたのも当然と言えるで
しょう。
 近鉄が藤井寺球場の本拠地化を目指して具体的計画を立てたのは、昭和40年代の終わり頃でしたが、すぐには実現できませんでした。計
画発表から約
10年間に及ぶ紆余曲折を経て(後述)、ようやくナイター実施による本拠地化が実現したのは、昭和59(1984)年4月のことでし
た。以来、「藤井寺球場」の名はテレビのスポーツニュースや新聞記事でくり返し登場することとなり、小さな「藤井寺市」の名前が球場
名を通じて全国に知られていくことになります。「藤井寺球場のある所」という形容句で他地域の人々にも紹介しやすくなり、全国区で使
えるランドマークとなりました。「古市古墳群」も藤井寺市を特徴づけるものですが、こちらは歴史や古墳に興味のない人にはほとんど通
じない弱点がありました。プロ野球に興味・関心のある人の方がずっと多い、というのが実情です。   アイコン・指さしマーク「近鉄バファローズ」
近鉄バフアローズと藤井寺球場の消滅
 やっと近鉄バフアローズの本拠地となった藤井寺球場でしたが、1997(平成9)年のシーズンからは新設された大阪ドーム
(現京セラドーム
大阪)
へ本拠地を移しました。藤井寺球場は、その後も2004年まではシーズンオフの練習や2軍の試合、高校野球に使用されてきました。
 2004(平成16)年の秋、近鉄球団とオリックス球団の合併によって「オリックス・バファローズ」が誕生し、大阪近鉄バファローズ
(当時)
というチームはなくなりました。藤井寺球場は、近鉄本社の方針により残念ながら2005年1月で閉鎖となり、翌2006年春からは解体撤去工
事が行われ、すっかりその姿を消してしまいました。数々の伝説を残して消滅していった「近鉄バフアローズ」とセットとなって
、80年近
い歴史を残して消え去った「藤井寺球場」もまた、伝説の球場となりつつあります。藤井寺球場のスタンドでバファローズを応援してきた
ファンにとっては忘れがたい郷愁の球場です。そんな藤井寺球場の歩んできた道のりと変遷の様子を少しだけでも知っていただけたらと、
このページで紹介するものです。まずは、藤井寺球場が閉鎖され消滅していった時期の様子から紹介してみたいと思います。
3) = 2006年2月 =
  閉鎖から1年が経っているが、外観は
 現役の球場に見える。
  照明鉄塔の塗装のはげた色が、解体を
 待つ球場の運命と侘びしさを物語ってい
 る。
  このあと、解体工事が始まり、日に日
 に球場はその姿を消して行く。
 
  3) = 2006年2月 =
 
4) = 2007年8月 =
  解体撤去から約1年、球場は完全に姿
 を消した。見通しのよくなった向こうに
 は、春日丘団地や大阪女子短大
(当時)
 校舎がよく見えている。あらためて球場
 敷地の広さがよくわかる。跡地では次の
 工事の準備が始まっている。
 
  4)= 2007年8月 =
 
5) = 2008年8月 =
  跡地では、学校建設の工事が進んでい
 る。広い球場の敷地が再び埋まっていっ
 た。
  左手後方の春日丘団地背後に見える高
 層住宅は、団地建て替え高層化で誕生し
 た「サンヴァリエ春日丘」。手前の団地
 住宅も間もなく姿を消して行く。
 
  5) = 2008年8月 =
 
6) = 2009年8月 =
  4月には、四天王寺学園小学校(現四
 天王寺小学校)
が開校した。球場とはま
 ったく雰囲気の違う建物が誕生した。
  外野と外野スタンドの場所にはマンシ
 ョンがほぼ完成している。まるでスコア
 ボードと外野スタンドがそびえ立ってい
 るようにさえ見えてくる。
 
  6) = 2009年8月 =
 
7) = 2014年4月 =
  校舎が増設され、四天王寺学園中学校
 
(現四天王寺東中学校)が開校した。
  完成したマンションと小中学校の校舎
 と、色の組み合わせが巧く調和
しており、
 新たな駅前景観が誕生した。
  2017年4月には
ここに高校(現四天王
 寺東高等学校)
も開校した。
     
アイコン・指さしマーク 四天王寺小学校HP
     アイコン・指さしマーク 四天王寺東中・高校HP 
  7) = 2014年4月 =
藤井寺球場の誕生−鉄道会社兼営事業の一つとして
 藤井寺球場は、もともと大阪鉄道
(近畿日本鉄道の前身会社の一つ)が開発に取り組んだ「藤井寺経営地」計画の一環として造られました。
藤井寺経営地とは、電鉄会社による沿線の地域開発事業の一種で、今日のニュータウン開発の小型版といった感じです。
 1922(大正11)年4月に大阪鉄道
(2代)の道明寺(どうみょうじ)−布忍(ぬのせ)間が開通し、藤井寺駅が開業しました。翌1923年4月には布忍−大阪
天王寺
(後大阪阿部野橋)間が延伸開業して、大阪天王寺−河内長野間が1本の線でつながり、秋にはこの区間の電化が完成しました。南河
内地域と大阪市とが、1本の電車で行き来できるようになったのです。日本一の大都市になっていた大阪市の近郊にあった藤井寺の地は、
この後、大都市大阪に勤労者を供給する衛星都市化に向けて変化を始めていきます。  アイコン・指さしマーク「道明寺線・長野線・南大阪線の歴史」
 藤井寺駅開業2年後の1924(大正13)年には、阪神電気鉄道が阪神甲子園球場を完成させ、さらに、遊園地・動物園・水族館・総合競技場
・テニスコート・競技用プールなどをも次々と開業していきました。また、これらレジャー産業に先立って、それ以前に宅地開発・分譲な
どの不動産事業も手掛けています。このような電鉄会社による多角経営の形態は、小林一三が創業した箕面有馬電気軌道
(現阪急電鉄)によ
ってすでに展開されていました。沿線の適地に大型テーマパークやレジャー施設、スポーツ施設、分譲住宅地などを建設していくという、
今日につながる沿線開発の形態が広がってきていました。
 このような鉄道会社による兼営事業拡大の流れの中で、大阪鉄道は藤井寺の地を一つの開発拠点に選び、新たな事業展開
に乗り出します。
それが「藤井寺経営地」という計画でした。1925(大正14)年、大阪鉄道は「藤井寺経営地」の計画を発案します。分譲住宅地の開発、自然
体験学習施設の「藤井寺教材園」の開設、運動施設の建設など、藤井寺駅の周辺に展開する一大計画でした。運動施設としては、阪神電鉄
が建設した阪神甲子園球場が全国中等学校野球大会で人気を集めていたことから、中心施設として野球場が建設されることになりました。
 こうして誕生したのが、「藤井寺球場」です。藤井寺球場は、1927(昭和2)年11月11日に起工し翌年年5月25日に竣工するという、わずか
6ヶ月半のスピード工事での完成でした。アメリカのヤンキースタジアムを目標に大阪鉄道が設計した野球場は、敷地面積が甲子園球場を
越える
59,400uで、内野席と芝生の外野席を合わせた収容人員は7万人とされるものでした。完成当時のグラウンド面積は、これまた甲
子園球場の
13,000uを越える15,180uと広く、外周が315mあるスタンド建物は3階建てで、内野席一面は甲子園のような大屋根
(鉄
傘)
でおおわれていました。
 完成当時、大阪鉄道は「東洋一のグラウンド」と宣伝し、沿線住民からは「白亜のお城」と評判されたそうです。洋風の建物自体がまだ
珍しかった田園地帯の藤井寺の地に、突然誕生した巨大な西洋のお城のような建築物は、この地域の人々を驚かせるに十分な存在だったこ
とでしょう。周りにはまだ田畑が広がる農村地帯の藤井寺だったのです。            アイコン・指さしマーク「藤井寺経営地と教材園」
 藤井寺経営地の建設が進み藤井寺球場が完成した昭和3年には、藤井寺村の人口が5千人を越え、10月15日に
「藤井寺町」となりました。
 藤井寺球場の建設について、『大鉄全史
(1952年 近畿日本鉄道株式会社)の記述とともに、同書を基にまとめた藤井寺球場とその工事の
概要を紹介します。
藤井寺球場  大正の中頃より我国に野球熱勃興し、とりわけ大阪朝日新聞社主催の下に、毎夏阪神電鉄甲子園球場に於て催される
全国中等学校優勝野球大会は、全国的な呼物の一つであった。当社は此気運に鑑み、沿線藤井寺の地を相して完備せる一大野球場を
建設するに決し、設計を練って此事業に着手した。即ち工事設計監督には当社事業課が当り、合資会社錢高組の工事請負にて昭和二
年十一月十一日起工、約六ヶ月半の日子と総工費約七十万円の資金を費やして、昭和三年五月二十五日竣功した。
 敷地面積約一万八千坪
(約5.94ha)、観客定員約三万人の鉄筋コンクリート三階建の大スタンドを有し、外野ローン・スタンドを含
めば裕に七万人の観客を収容し得る。グラウンドの地下には蜘蛛巣形に排水暗渠
(あんきょ)を設け、ダイヤモンド内は全部栗石を敷き上
層を伊勢の黒土と砂とを混じて敷き均してあり、今日に於ても関西に於ける最大且つ最も完備せる野球場たるを失はない。
…(略)
                      藤井寺球場工事概要     ※ 数量表示の漢数字は、すべて数字に変えている。 
位     置 大阪府南河内郡藤井寺町
敷 地 面 積 18,000坪 (約5.94ha) 運 動 場 面 積  4,600坪(約1.52ha)
観 覧 席 坪 数 (内野)2,730(約9,000u)  (外野)1,450(約4,800u)     (総収容人員) 70,000人
観覧座席設備総数 (内野)30,000          (外野)23,000
構 造 大 要 (1) 鉄筋コンクリート構造大スタンド
       3階建、外周
1,040尺(約315m)、奥行94尺(約28.5m)、面積2,730坪(約9,000u)
  
屋 根 鉄骨鉄板葺
   観覧席 階段式、段数
40、コンクリート上に木造腰掛を装置し、スタンドは観覧に便ならしむ為め
      『フアウル・ライン』に接近せしむ。
   観覧席下間取り
       階段下は各階廊下にて観覧席に通じ、大食堂、医務室、本部室、選手控室、浴場、売店、新
       聞記者室、特別休憩室を始め
700人を収容し得る集会室2ヶ所あり其他スタンド中央上部
             部にも喫茶店兼用の休憩所を設け、各室採光を充分ならしめ、種々の催物の利用にも便せし
       む。
   便 所 階上階下に
10ヶ所、全部水洗式。
   電燈給水設備   館内隈なく完備。
    
(2) 外野観覧席
       第1期工事にてはローン・スタンドとなし、第2期工事として鉄骨スタンドを設け収容人員
             を増大する予定、周囲にプール
角力(すもう)場、テニスコート等建設の計画中。
(3) 競技場 野球を主とし蹴球、陸上競技其他の野外運動、競技にも充当し得べく諸種の運動器具を完備
       し、特に規定の蹴球場としてスタンドの右翼側を利用し得。
起     工 昭和2年11月11日 竣  工  昭和3年5月25日 開 場  昭和3年5月27日
総     工    費 約70万円
 竣功に引続き五月二十七日盛大なる開場式が挙げられた。処女球は楠本大阪医科大学長の手に依って投げられ、午前中は学童野球
試合、午後は中等学校野球試合があり、招待者並びに一般観覧者の来場多く、盛会裡に記念すべき開場第一日を終った。爾来関西六
大学リーグ戦其他幾多の大試合、好試合に依り、試合毎に数万の観衆が惹きつけたることは、汎く
(ひろく)知らるゝ如くである。
 これらの概要を見ると、藤井寺球場が当時としてはたいへん施設の完備された球場であったことがわかります。また、球場の規模も甲子
園球場にひけを取らないものであったことがわかります。ただ、その後に予定されていた外野スタンドの建設は、戦前には実現することは
ありませんでした。資金不足であったのか、或いは、やがて始まる日中戦争以降の戦時下物資統制の影響で資材不足だったのか、いずれに
せよ、内外野合計5万3千席というスタンドはまぼろしに終わりました。結局、第2期工事計画で実現したのは相撲場だけでした。
開場当初の藤井寺球場−“白亜のお城”
 完成した藤井寺球場は
、3年後の1931(昭和6)年の第17回全国中等学校優勝野球大会から大阪府予選会場の一つに使用されるようになり
ました。以後、戦争による中断をはさんで、1950(昭和25)年までは初戦から決勝まで、ほぼ藤井寺球場のみが会場となっていました。
 藤井寺球場は、中等学校(現高等学校)の大会のほかにも、学童
野球や大学野球の試合にも使用され
年間100を越える試合が行
われていたそうです。
 藤井寺球場の全体の様子がわかる写真は少なく、完成記念に製
作された絵はがきに載っている写真が、貴重な写真となっていま
す。近鉄本社にも資料写真が残っていないのか、近鉄社史でも登
場してきません。右の写真8)が完成当時の様子ですが、今見ても
球場のデザインとしては見事なものだと思います。この後、何度
も改装されていきますが、最初の姿もなかなか捨てがたい秀逸な
ものと言ってよいでしょう。
8) 開場当時の藤井寺球場外観(北西より)
  8) 開場当時の藤井寺球場外観(北西より)
     まるで西洋の古代コロシアムのようである。“白亜のお城”と
    呼ばれたのもうなずける。  昭和3年落成記念絵はがきより
  
9) 内野スタンドの様子 10) 南西上空より俯瞰する
9) 内野スタンドの様子     昭和3年落成記念絵はがきより
   甲子園球場と同じような大鉄傘があったが、戦時中に金属供出
  のため撤去され、二度と復活することはなかった。
10) 南西上空より俯瞰する   昭和3年落成記念絵はがきより
   当時の球場周辺の様子も見える貴重な写真である。球場北側を
  通る大鉄電車線路の向こうは農地ばかりである様子がよくわかる。
 写真9)10)では、内野スタンドを覆う大鉄傘の様子がわかります。甲子園球場に匹敵する見事な大鉄傘で、観覧に集まった多くの野球フ
ァンを夏の日差しから守ってくれました。残念ながら、この大鉄傘は戦時中の1943(昭和18)年、 金属供出に提供されるため解体撤去され
ました。甲子園球場では戦後に復元されましたが、藤井寺球場の場合は球場が消滅する最後まで復活することはありませんでした。
 次に、開場から数年間のうちに撮られた写真で様子を見てみましょう。
11) 1929(昭和4)年 12) 1929(昭和4)年
11) 1929(昭和4)年    スタンドは立ち見客も多く、超満員で
   ある。人気のあった中等学校野球大阪府予選の決勝であろうか。
         『大鉄全史』(
近畿日本鉄道株式会社 1952年)より
12) 1929(昭和4)年
  11)と同じ試合と思われる。大鉄傘の鉄骨の構造がわかる。
    『懐かしの球場 関西編』(産経新聞社 2014年)より
13) 「球場に於ける体育大会」と説明が付いている 14) 三塁側スタンドの外に造られた「藤井寺相撲場」
13) 「球場に於ける体育大会」との説明がある
    左手後方の森は、藤井寺教材園に生かされた自然樹林である。
14) 三塁側スタンドの外にあった「藤井寺相撲場」
     1936(昭和11)年6月8日に土俵開きが行われた。
13)14)とも『大鉄全史』より
15) 第20回全国中等学校優勝野球大会大阪府予選の準決勝第2試合 16) 藤井寺球場とデニ506電車
15) 第20回全国中等学校優勝野球大会大阪府予選
  準決勝第2試合
         1934(昭和9)年8月3日
           『大阪の昭和』(中経出版 2013年)より
16) 藤井寺球場とデニ506電車(北西より)
             1937(昭和12)年5月

        球場のそばにはまだ草地が広がっている。
 藤井寺球場は、開場してから10年ほどは学生野球を中心として大いに賑わったようです。その間の様子を『大鉄全史』は次のように伝
えています。『
…(略)… 既に述べたる如く昭和三年五月開場せる藤井寺球場は、一般の野球熱昂揚と共に大阪近傍唯一の完備せる球場と
して知られ、
シーズンには中等学校の試合が毎日曜に催ふされ、恰(あたか)も近畿中等野球の檜舞台たる観を呈した。又早稲田大学野球部は関
西に於ける冬期合宿練習場として専ら当球場を利用し、正月には恒例の対関西大学定期戦にフアンの血を湧かせたものである。わけても盛
況を極めたのは夏の中等野球大阪予選であって、定員二万を容るゝ大スタンドも超満員となり、炎天下に大鉄傘をゆるがした有様は尚人の
記憶に残ってゐるであらう。これを記録について見るも毎年の試合回数は百回より百二十回を数へ、入場人員は凡そ二十五万を下ることは
なかったのである。
』ということで、「兵庫県の甲子園球場」と並ぶ「大阪府の藤井寺球場」の賑わいがわかります。
 ところが、その後の押し寄せる時代の波によって、藤井寺球場の運命は大きく変わっていくことになります。再び『大鉄全史』です。
『 
然るに支那事変(日中戦争)の拡大と太平洋を圧する戦雲(太平洋戦争)とは我国朝野の人心を一変せしめ沸騰した野球熱も急速に冷
却するに至った。加之
(之に加え)政府当局の学生野球に対する監督も次第に厳重となり、対抗試合も著減、流石(さすが)二十数年連続を誇って盛
大を極めた夏の中等学校野球大会も昭和十六年を最後として、終に中絶せられることゝなった。斯くては学生野球の華として満都の人気を
(よ)んだ藤井寺球場も自ら其名を失はざるを得ない。大スタンドに人影もなき春秋の続くに従ひ、球場の転身はやがて必至の運命と見られ
るに至ったのである。

戦時下の藤井寺球場−野球を奪われて…
 「球場の転身はやがて必至の運命」と見られる中、まず1941(昭和16)年8月24日、大阪鉄道は大阪中央放送局
(現NHK大阪放送局)と貸借
契約を結びます。藤井寺球場建築物の一部約
250
(約830u)を、大阪中央放送局が放送局藤井寺分局として使用することになりました。
この年の12月8日、太平洋戦争が始まります。この後、昭和19年12月から20年8月敗戦まで大阪中央放送局藤井寺分局は、連合軍の日本向け
宣伝放送を妨害するための「ジャミング
(雑音)放送」発信局の一つとしての役割を担います。これは「防圧雑音放送」と呼ばれたそうで、
大本営の命令で行われました。球場の側には高さ数十メートルの2本の木柱が東西に
50m間隔で建てられアンテナ線が張られていました。
戦争が終わるとすぐに、これらの木柱や放送設備は撤去されたそうです。
 次いで、翌昭和17年6月2日には大阪市との間に土地建物使用貸借契約を締結し、向こう30年間藤井寺球場を無償で大阪市に貸与するこ
とにしました。大阪市はこれを青年学校郊外学舎と健康学園に当て、また、学生・生徒・児童・園児等の体育諸行事に使用することに決め
ました。これによって、1年間の利用者50数万人と予定する大阪市の計画に従って、市民の一大錬成道場に模様替えされることとなりま
した。藤井寺球場は、戦時下の国家的要請に沿う方向で再出発することになったのでした。
(この項、『大鉄全史』の記述に基づく。)
 日中戦争開始の前年に藤井寺球場の敷地内に完成した「藤井寺相撲場」については、『大鉄全史』は次のように述べています。
『 
尚これに先立ち、当社は昭和11年6月8日当球場の横に坪数約五百坪(1,650u)観客定員約三千人の相撲場を設置した。此相撲場は球場と
は逆に、国技相撲熱復活の波に乗って其使用回数次第に増加し、最近関西大学専門学校学生相撲大会を始め、主なる年中行事のみにても十
三の多きが此処で行はわれることになって居た。しかし此相撲場も球場と運命を共にして、大阪市に対し同一条件を以て無償貸与せられる
ことゝなった。

 戦時体制が強化される中で野球などの“敵性スポーツ”が制限・禁止され、代わって心身鍛練のための武道や相撲が奨励されていきまし
た。野球場併設の相撲場の変遷・盛衰にさえ、戦争が影響していたことがわかります。総力戦の戦時下にあっては、ありとあらゆるものが
戦争遂行という一点のために、動員され制限され、強制されます。一つの野球場の歴史が、戦争の時代をも私たちに教えてくれています。
戦況不利が強まる中で
 既述の通り、戦局が悪化してきた1943(昭和18)年には、内野スタンドの大鉄傘が戦時金属供出のために解体撤去されました。さらに、食
料不足によりグラウンドは畑に変えられて、大豆やさつまいもが植えられました。コンクリート製スタンドの下部は軍の食料倉庫にされ、
すっかり野球場ではなくなりました。大鉄傘の無くなったスタンドの床には大きな迷彩柄の塗装が施され、空襲に備えた偽装が行われてい
ます
(写真17))。当時を知る人の証言では、球場内には3門の高射砲が南方向を向いて並んでいたそうです。
 それらとは別に藤井寺球場の敷地内には、防空監視要員を養成する青年学校の訓練所が設置されました。高さ5mほどの築山が造られ、
その上に鉄道の枕木で建てられた訓練用の立派な防空監視哨
(かんししょう)小屋があったそうです。
 1945(昭和20)年8月の敗戦直後には、グラウンド一面に雑草が生い茂り、外野席の土手の土がえぐり取られて赤肌を見せて
おり、建物の窓
ガラスは至る所が割れたままになっていました。戦争をくぐる中で荒廃した野球場は、まるで廃墟のような姿となっていたそうです。戦時
中から敗戦直後にかけての荒廃した藤井寺球場の様子を伝える写真は、今までのところ私は目にしていません。おそらくは、ほとんど存在
していないと思われます。
 軍事優先の戦時下で一般社会の物資窮乏が広がる中、荒れ果てた野球場の写真を撮る余裕など誰にもなかったことでしょう。しかも、昭
和17年6月からは藤井寺球場は大阪市に無償貸与されて
おり、その管理運営は大阪鉄道の手を離れていたのです。その大阪鉄道も、昭和18年
2月に関西急行鉄道
(大阪電気軌道と参宮急行電鉄の合併で誕生)と合併しており、大鉄本線も「関西急行天王寺線」となっていました。さ
らには、その関西急行鉄道が、翌昭和19年6月に国策による戦時統合で南海鉄道と合併し、「近畿日本鉄道」となっていたのです。
 球場所有者の鉄道会社は合併をくり返す最中にあり、貸与したままの球場のことを考えるどころではなかったでしょう。それでなくても
各地の私鉄は様々な戦時統制や指示を受けていたのです。不要不急の鉄道路線としていくつもの路線が運行休止にさせられたり、複線の一
部を単線に縮小してレールを資材供出させられたり、といったことが行われていたのです。南大阪線でも一部が単線に変えられています。
 かたや球場を貸与されていた大阪市と言えば、こちらも、日に日に進む戦局悪化の中、学童集団疎開の実施を余儀なくされ、体育諸行事
どころではなくなっていました。やがて大阪市内は度々の空襲で痛めつけられることになります。
 野球場の所有者も使用者も、どちらも球場のことをかまっていられなくなった、というのが実情だったのではないでしょうか。このよう
な状況下、藤井寺球場の荒廃した様子を写真で記録に残すことなど、誰にとっても思いもつかぬことだったかも知れません。
戦後の藤井寺球場の歩み−占領軍による接収も
 廃墟のように荒廃した状況の中、藤井寺球場は敗戦を迎えました。この時点では、藤井寺球場はとても野球の試合ができるような状態で
はなかったと思われますが、驚いたことに、1年も経たないうちに中等学校野球が再開されていたのです。
 ページの初めで述べたように、戦後に初めて開催された第28回全国中等学校優勝野球大会の大阪府予選は、1946(昭和21)年7月19日から
藤井寺球場で
54校のチームが参加して行われました。敗戦から11ヵ月後のことです。実はこの大阪予選に、藤井寺市(当時の藤井寺町)
らも1校が出場しています。その学校は、財団法人菊水学園・菊水中学校
(旧制、後菊水高等学校 1952年廃校)いいます。戦時中の昭和20
年に藤井寺駅の南側に開校した私立の学校でした。藤井寺球場の隣の学校と言ってもよい場所にある学校でした。南河内地区からは、もう
1校、府立富田林中学校
(現富田林高校)も参加していました。現在の府立高校に当たる旧制府立中学校(男子校)は、当時の南河内地区では
富田林中学校だけでした。
 実は、この戦後で最初の中等学校野球の大阪府予選が開催されていた時期は、当時占領統治のために日本に駐留していた米軍に藤井寺球
場が接収されていました。正確に言うと占領統治を行ったのは連合国軍ですが、その実質はアメリカ軍の占領駐留部隊でした。これらの占
領軍は世間では俗に「進駐軍」と呼ばれていました。国内の各地に進駐軍の駐留拠点ができ、連合国軍が必要とする様々な施設が接収され
ました。駐留兵士の宿舎、事務所や司令部施設、軍用車両や物資の保管場所などに使用するために、企業所有のビルや工場敷地、学校の校
舎などが接収されたほか、病院・映画館・公園・プール・グラウンドなどの医療・余暇利用施設も接収されました。藤井寺球場もその中の
一つだったのですが、兵士の余暇利用のためだったのか、或いは倉庫代わりの施設利用だったのかはよくわかりません。近鉄社史によれば
1946(昭和21)年5月16日に接収が開始され、翌22年7月18日には接収が解除されています。1年余りという短い接収期間から考えて、おそ
らくは余暇利用施設として接収されていたものと思われます。その接収期間の最中に中等学校野球の大阪府予選を藤井寺球場で開催できた
経過については、資料がなかったのでよくわかりません。中学生の野球大会ということで、米軍の配慮があったのかも知れません。
 この大阪府予選で再開された中等学校野球は、やがて「高校野球」と名を変え、このあとも藤井寺球場を舞台として使っていきます。既
述の通り、戦争による中断をはさんで、1950(昭和25)年までは初戦から決勝まで、ほぼ藤井寺球場のみが会場となっていました。他の球場
が併用されるようになってからも、1964(昭和39)年までは決勝などを行う主会場として使用されました。
 その後、交通の利便性などから日生球場
(大阪市)が主会場となりましたが、1997(平成9)年に日生球場が閉鎖されると、翌1998年から24
年ぶりに決勝会場として復活しました。藤井寺球場で最後に大阪府大会の決勝戦が行われたのは、2004(平成16)年の第86回大会でした。
 昭和
25(1950)年、既述の通り近畿日本鉄道がプロ野球球団「近鉄パールズ」を創設してプロ野球に参入しましたパールズはプロ野球が
2リーグに分裂して誕生したパシフィック・リーグに加盟しました。この年のパ・リーグは7チームで構成されていました。藤井寺球場は
プロ野球の試合や練習にも使われることになり、グラウンドやスタンドの改修が行われました。しかし、外観がガラリと変わって見えるよ
うな大規模改装が施されるようなことはなく、プロ野球の使用に必要な最低限の改修でした。
 大阪出身の詩人である佐々木幹郎さんの著書『河内望郷歌』の中に「球場今昔」という一節があります。佐々木氏は6歳の時に藤井寺に
引っ越して来て、小学校時代を藤井寺の地で過ごされています。敗戦から数年後の昭和20年代の藤井寺球場を直接見て過ごされた氏の経
験が書かれています。文筆家による古い藤井寺球場の回想記は珍しいので紹介しておきます。
球場今昔 』 
 子供の頃に見た夢の中で一番鮮明に憶えているのは、両手を広げて空を飛んでいる夢である。手をいっぱいに伸ばせば伸ばす
ほど、身体はゆっくりとグライダーのように高く舞い上がった。見下ろすと、なんとわたしは藤井寺球場の真上を飛んでいるの
である。
 わたしの家はこの球場の真裏の住宅街にあったので、球場周辺は格好の遊び場だった。球場を普段は見上げてばかりいた。し
かし夢の中では真下に見える。こんな機会はめったにないと思い、風にあおられながら(夢の中では風まで吹いていた!)できる
だけゆっくりと旋回した。
 その頃の藤井寺球場は、大きな廃墟のかたまりだった。まるでローマ帝政時代のコロシアムのように古びていた。鉄筋コンク
リート三階建て、敷地面積約一万八千坪。外野ローン・スタンドを含めば七万人収容の能力を持って昭和三年関西一の規模で完
成した球場は、戦争中の野球禁止とともにさびれ、昭和二十年代末になっても、なかなか機能を回復しなかった。
 東京でパ・リーグの野球中継があると、テレビに時折藤井寺球場が映し出される。そのたびに、まるで別の球場を見ているよ
うに驚き、つくづく感嘆する。ナイター設備も出来、なにもかもが美しくなった。テレビ中継されることすら、わたしの子供時
代には夢のまた夢のオンボロ球場だったのだ。
 昭和二十年代末、藤井寺駅前の幼稚園に通っていたとき、同級生に駅前の交番のおまわりさんの息子がいた。彼と遊んでいた
とき、球場から米軍のジープが何台も出てきた。「ギブミ−」と叫ぶとチョコレートをもらえるよ、と言うので勇気をふるい起
こしてジープの後ろを追いかけた。米軍兵士達は笑って手を振るばかりで何もくれなかった。進駐軍はずいぶん長くこの球場を
利用していたわけで、戦後生まれのわたし達ほ、とんだ敗戦後遺症を知らぬ内にひきずっていた。藤井寺球場でプロ野球の試合
が始まったのは、小学校上級生になってからだ。夏の高校野球予選のときはにぎわい、わたしの家の二階からアルプス・スタン
ドの応援団の姿がよく見えた。毎年開かれた球場での花火大会。それ以外のときは閑散としていた。
 悪童連中と、球場の窓ガラスに向けて石の投げあいをしたこともある。ガラスの割れる音が神殿のような球場の、奥深いとこ
ろから反響してきた。中へ入るには子供達専用の秘密の穴が幾つもあって、わたし達はよくそこからもぐり込んだ。球場内部の
広い通路は乾いた挨の匂いがした。
 近鉄チームがパールズという名称からバッファローズに変わった頃。球場裏手に二軍の合宿所が出来、喜びいさんで友達とサ
インをもらいに行ったことがある。選手の一人から「君らも野球選手になれよ」と言われた。「そしたら毎日肉が食えるぞ」と
彼は付け足した。
…(後略)…                 『河内望郷歌』(佐々木幹郎 1989年 五柳書院)より
 佐々木氏が幼稚園に通っていたのは、氏の生年から計算すると昭和28年ではないかと推測されます。米軍による藤井寺球場の接収は昭和
22年7月に終わっていましたが、接収解除後も米軍は藤井寺球場を利用していた様子がわかります。

 ここで、今後の展開のために、藤井寺球場の誕生から戦後の歩み、そして消滅していくまでを、年表形式にまとめて紹介しておきます。
ページ内の本文を読まれる時に参照していたたければと思います。参考となるよう、藤井寺球場と関係の深い藤井寺経営地・藤井寺教材園
・近鉄球団の変遷も入れておきました。
年表でみる藤井寺球場の歩み
年・月・日                 で  き  ご  と        ※ 番号は近い時期の写真をを指す
大正11. 4.19 1922 藤井寺駅が開業。大阪鉄道の道明寺−布忍間の旅客営業開始。
   12. 4.13 1923 大阪鉄道の布忍−大阪天王寺間の旅客営業開始。同時に道明寺−大阪天王寺間の電化開始。
   14. 1925 大阪鉄道が「藤井寺経営地」計画を発案。藤井寺駅南側に約10万9千坪(約36ha)の土地を買収。
昭和 2. 3. 1927 藤井寺経営地で住宅地分譲が開始される。
    2.11.11 藤井寺球場建設の起工式が行われる。
    3. 2. 1928 藤井寺経営地内で藤井寺教材園建設の起工式が行われる。同年5月末に完成。 
    3. 5.25  藤井寺球場が竣工。5月27日に開場式と記念試合が行われる。8) 9)10) (10月15日、町制施行で藤井寺町が誕生)
    6. 4. 1931 藤井寺教材園の教材配給を廃止。(昭和5年からの昭和大恐慌で大阪鉄道の経営が悪化。)
    6.  7. この年の第17回全国中等学校優勝野球大会から、大阪府大会が藤井寺球場で開催されるようになる。
    6. 8. 教材園の経営を大阪府教育会と南区教育会に委託、「藤井寺郊外学園」に改称。「教材園」は事実上閉鎖状態。
    8. 1933 教材園の両教育会との委託契約が解除され、大阪鉄道の直営に戻る。その後、何校かの学校用地として利用。
   11. 6. 8 1936 藤井寺球場の横に藤井寺相撲場が開場。 14) 16)               (12年7月日中戦争が始まる)
   16. 8.24 1941 大阪鉄道は大阪中央放送局と貸借契約を締結、球場の一部が放送局藤井寺分局となる。(12月8日太平洋戦争始まる)
   17. 6. 2 1942 大阪鉄道は大阪市と土地建物使用貸借契約を締結、向こう30年間藤井寺球場を無償で大阪市に貸与とする。
   18. 2. 1 1943 大阪鉄道が関西急行鉄道と合併し、大阪鉄道は解散する。
   18. 7. 藤井寺球場の内野スタンドの大鉄傘が戦時供出のために解体撤去される。
   19. 6. 1 1944 国策により関西急行鉄道と南海鉄道が合併して近畿日本鉄道が誕生。    (20年8月15日敗戦により戦争終結)
   21. 5.16 1946 藤井寺球場が連合国軍(占領軍)に接収される。(翌昭和22年7月18日、接収が解除される。)
   21. 7.19 戦後最初の第28回中等学校優勝野球大会大阪府予選が藤井寺球場で開催される。以後、主会場となる。17)
   24.12. 1 1949 近畿日本鉄道がプロ球団「近鉄パールズ」を創設し、パシフィック・リーグに加盟。(シーズンとしては25年から)
   25. 4. 1 1950 藤井寺球場でプロ野球の公式戦が開始される。
   34. 1. 9 1959 プロ野球球団「近鉄パールズ」の球団名を「近鉄バファロー」に変更。 27)
   37. 2. 1 1962 プロ野球球団「近鉄バファロー」の球団名を「近鉄バファローズ」に変更。 18) 28)
   48. 2. 5 1973 近鉄球団が藤井寺球場の本拠地化とナイター実施用の改装などを計画していると、新聞各紙が一斉報道。
   48. 2〜4 近鉄と藤井寺市の協議、市議会内の対応協議が重ねられる。周辺各地区が陳情・反対決議等を提出。この間、
藤井寺市と周辺地区住民との話し合いが続く。反対住民の動きも活発となる。
   48. 4.27 近畿日本鉄道と藤井寺市の間で、「確認書」と「協定書」が調印される。 29) 30
   48. 7. 調印を受けて、近鉄が工事に着工。外野スタンドやスコアボード等が設置され、照明用鉄塔2基が建てられる。
   48.10. 「藤井寺ナイター公害反対連合会」が照明塔工事差し止めの仮処分を申請。工事中止の仮処分決定が出る。工
事は中断され、以後原告と近鉄との話し合い等が続けられる。
20) 31)
   48. この頃、球場横にあった相撲場が撤去され、駐車場となる。 20)
   56. 3. 1981 近鉄が大阪地裁に工事差し止めの異議申し立てを行い、以後本裁判が続くこととなる。
   58. 9.26 1983 大阪地裁が仮処分決定を取り消し、近鉄が逆転勝訴。原告の連合会が控訴し高裁が和解勧告をするが、年間試
合数をめぐって不調に終わる。
35)
   58.11.21 1983 近鉄が工事を再開する。照明塔・防音壁などを設置し、来シーズンからのナイター開催に向けた準備を進める。
   59. 4. 6 1984 藤井寺球場初のナイトゲーム、近鉄−西部戦が開催される。(近鉄5−19西部 観客2万人) 36)
   59. 5.25 大阪高裁、工事完成によって仮処分申請の利益は無くなったとして、原告住民側の控訴を棄却。
   60. 1985 球場施設のリニューアルを実施。外野が人工芝になり、スタンドの一部を改修、「バファローズ・スタジアム」の愛
称が付けられた。
22)   (1996年に内野も人工芝になる。)
平成 1. 7.26 1989 藤井寺球場では初のプロ野球「’89オールスターゲーム第2戦」が開催される。
    1.10.21 藤井寺球場では初のプロ野球日本シリーズが開催される。(近鉄−巨人戦 22日・28日・29日にも開催)
    8.10. 7 1996 本拠地としての藤井寺球場での最終戦、近鉄−ロッテ戦が行われる。近鉄0−8ロッテ。 37)〜 40)
    9. 1997 近鉄バファローズが、本拠地球場をこの年オープンの大阪ドームに移す。藤井寺球場では一部の試合を開催。
   10. 7. 1998 第80回全国高等学校野球選手権大会大阪府大会の決勝戦が、24年ぶりに藤井寺球場で行われる。
   11. 4.  1 1999 近鉄バファローズのチーム名が「大阪近鉄バファローズ」に改称される。 1)
   11.10. 7 藤井寺球場での1軍公式戦の最終ゲーム近鉄−ロッテ戦が行われる。以後、開催は2軍の試合のみとなる。
   16. 7. 2004 藤井寺球場では最後となる第86回全国高等学校野球選手権大会大阪府大会の決勝戦が行われる。
   16. 8.10 大阪近鉄バファローズとオリックス・ブルーウェーブとの合併基本合意書が調印される。
   16. 9.30 藤井寺球場でのプロ野球公式戦として最後となるウエスタン・リーグの試合近鉄−中日戦が行われる。
   16.11.30 大阪近鉄バファローズがオリックス・ブルーウェーブと統合。「大阪近鉄バファローズ」が終了する。 23)
   17. 1.31 2005 藤井寺球場が閉鎖され、78年間の球場の歴史が幕を閉じる。 52)〜60)
   17. 6.5・6 藤井寺球場とのお別れイベント「藤井寺市民フェスタ」が2日間開催される。参加者約7万1千人。 41)〜51)
   18.2〜8. 2006 藤井寺球場の解体撤去工事が行われ、秋には完全に球場の姿は無くなった。  3) 4) 24)
   21. 4. 2009 藤井寺球場跡地に四天王寺学園小学校が開校。 6)   四天王寺学園校舎前に「白球の夢」像を設置。61)〜66)
   21.11. 藤井寺球場跡地の外野スタンド等の場所にマンション「グランスイート藤井寺」が竣工。 6)

空から見る戦後の藤井寺球場の変遷
 藤井寺球場は何度も改装され、やがて解体されて消えました。その変貌の様子を戦後の空中写真で追ってみたいと思います。下の写真17)
〜25)は、敗戦から1年足らずの時期に始ま
って、藤井寺球場が消滅した後の現状までの写真を並べてみました。多くは国土地理院撮影の写
真ですが、17)は戦後最初に米軍によって撮られたもので、戦時中までの様子に最も近い姿を見ることができる貴重な写真です。
17) 1946(昭和21)年6月6日 18) 1961(昭和36)年5月30日 19) 1968(昭和43)年
17) 1946(昭和21)年6月6日    (米軍撮影)  18) 1961(昭和36)年5月30日  (国土地理院)  19) 1968(昭和43)年    (市勢要覧1978より)
 17)は敗戦から10ヵ月ほど経った頃です。外野グランウンドや外野席が草地のようになって荒れている様子がわかります。それでも、こ
40日ほど後には、戦後最初の中等学校優勝野球大会の大阪府予選がここで開催されています。内野スタンドには、幾何学模様のような不
規則な黒い形が見えますが、これは、戦時中に空襲対策でスタンドに施された大掛かりな迷彩塗装です。藤井寺球場やその周囲の様子は、
全体的には戦前とそんなに変わっていないようです。いちょう通りの並木も、きれいに並んでいる様子がわかります。
 それから15年後の様子が18)です。全体が整備された球場の様子が見て取れます。球場の南西どなりに選手寮の「球友寮」ができてお
り、
道路をはさんだ南側の教材園跡地には、新しく住宅公団
(現都市再生機構)の春日丘団地もできています。球場設置の前からあった西側の池
が更地になっているのもわかります。やがて住宅地に変わります。
 さらに7年後の様子が19)です
内野スタンドがきれいになっていますが、外野席にはまだスタンドがありません。池の跡には住宅が建っ
ており、近鉄線の北側では恵美坂地区が住宅で埋まっています。3塁側スタンドが狭く見えますが、これは撮影の視点が東側に傾いている
ためです。20)と22)も同様です。
20) 1975(昭和50)年1月24日 21) 1978(昭和53)年 22) 1985(昭和60)年11月4日
20) 1975(昭和50)年1月24日  (国土地理院)  21) 1978(昭和53)年    (市勢要覧1978より)  22) 1985(昭和60)年11月4日  (国土地理院)
 20)では、ガラリと改装された球場の様子が見えます。内野スタンドがきれいに改装されて、外野スタンドも設置されています。2,3年前
に撤去された相撲場の跡は駐車場となり、球場正面前も広場のようになって駐車・駐輪場が整備されています。レフトスタンドとライトス
タンドには、ナイター照明用の鉄塔が建っていますが、内野側にはありません。この様子は21)でよくわかります。21)では藤井寺駅が新し
い橋上駅に変わっている様子も見えます。実は、これらの変化は藤井寺球場での
ナイター試合実施に向けて実行された改装計画の一環です。
 
 昭和48年、近鉄がナイター実施を前提に藤井寺球場の本拠地化計画を
発表したことを受けて、藤井寺市は近鉄と協議して協定を締結しました
(後述)。当時、藤井寺駅の北方でショッピングセンター進出の工事が行
われており、藤井寺駅周辺整備も計画されていました。藤井寺駅を西側
に移動して橋上駅に変え、南北に通行できるようにして、駅北側にはロ
ータリー広場を設けるというものです。球場と駅周辺が一気に改変整備
されるかと思われました。
 ところが、球場ナイター化については、周辺地区の住民から強い懸念
と反対の声が上がり、それを受けて藤井寺市は近鉄と協定を締結したの
です。近鉄は球場の改装工事にも着手しましたが、強く反対する住民に
よって工事差し止め仮処分の訴えが起こされ、訴えが認められた結果、
ナイター化のための工事は休止されました。その後の状態が20)と21)の
写真です。照明装置用の鉄塔が2基建てられた時点で工事は止まったの
です。この後、この状態が
10年近く続くことになります。
23) 1999(平成11)年6月21日
 23) 1999(平成11)年6月21日
       (藤井寺西小学校創立30周年記念撮影航空写真より)
         写真1)と同じ時期に反対側から撮られた様子である。

 昭和58年になって工事が再開され、翌59(1984)年4月6日に、藤井寺球場初のナイター試合、近鉄−西部戦が行われました。22)はその翌
年の様子です。この年、球場施設のリニューアルが行われました。外野に人工芝が張られ、内野スタンドの色分けが増えており、指定席の
種類が多くなったことが見て取れます。いっぺんにカラフルな感じになりました。かつて相撲場だった場所には、雨天用の屋内練習場が新
たに設置されています。
24) 2004(平成16)年11月4日 25) 2007(平成19)年8月11日 26) 2019(平成31)年3月9日
24) 2004(平成16)年11月4日 25) 2007(平成19)年8月11日  (国土地理院) 26) 2019(平成31)年3月9日 (Google Earth)
 ナイターが始まってからちょうど20年後の様子が24)です。この間にもプチ改装はありましたが、大きな変化は内野も人工芝に変わって
全面人工芝の球場になったことです。しかし、その人工芝の色は薄くなり、外野ははげている感じです。上の年表でわかるように、この年
2004年8月には大阪近鉄
バファローズオリックス・ブルーウェーブとの合併調印をしており、それ以前から試合本拠地を大阪ドームに移してい
ました。チームの練習や2軍の公式戦、高校野球などには使用されていましたが、この年11月30日には球団がなくなり、翌2005年に入って
間もなく球場は閉鎖されました。本拠地ではなくなり、必要な改修も先延ばしされていたため、照明鉄塔の塗装がはげて赤い下地塗装が見
えています。なんとも哀れな藤井寺球場の姿と言わざるを得ません。球団がなくなった以上、近鉄本社にとっては藤井寺球場はただのお荷
物でしかなくなったのです。藤井寺球場はついに、譲渡先が決まって解体される日を待つだけの身の上となってしまいました。
 2006年春から藤井寺球場の解体工事が始まり、秋までにはすっかりその姿を消して行きました。そのほぼ1年後の様子が 25)です。既に
工事事務所などが造られ、次の施設建設の準備が始まっています。球場跡地は、藤井寺市の意向もあって、教育文化施設の設置を目指す学
校法人・四天王寺学園に譲渡され、小学校が進出することになりました。もともと、四天王寺学園は戦前に教材園跡地に学校を設置してい
た経緯があり、藤井寺市や近鉄
(元大鉄)とは無縁ではなかったのです。跡地の一部には大型分譲マンションも建設されました。
                                             アイコン・指さしマーク「藤井寺の教育・保育」
 26)の写真が最近の様子がわかるものです。2009年4月に四天王寺学園小学校
(現四天王寺小学校)が開校し、次いで2014年4月には四天王寺
学園中学校
(現四天王寺東中学校)も開校しました。さらに2017年4月には四天王寺学園高等学校(現四天王寺東高等学校)が開校し、この場所
に小・中・高の3種の学校が揃いました。球場フィールドの外野部分だった南側部分には、大型マンションの「グランスイート藤井寺」が
そびえています。
 藤井寺球場のあった場所は、すっかり様相が変わってしまいました。近くに行っても、球場のあった痕跡は何も残っていません。わずか
に、マンション横に近鉄球団の「球友寮」だった建物が残るのみです。球場廃止後に大阪女子短期大学が取得して研修施設として使用して
いました。短大閉学後は、同じ学校法人経営の大阪緑涼高校
(旧大阪女子短期大学高校)が使用していたようですが、現在の施設名は「大阪
商業大学藤井寺学舎」となっています。いずれも学校法人・谷岡学園が経営する大学・高校です。
 隣接の
UR都市機構・春日丘団地も一部が民有化されて一般住宅地となり、団地だった全域が「春日丘新町」という新町名になりました。

アルバム・懐かしの藤井寺球場−戦後の昭和時代
 街の様子や施設をモノクロ写真で撮るような時代の藤井寺球場の写真は、探してみると意外と少ないのだと感じました。
 2014(平成26)年に産経新聞社から刊行された『懐かしの球場
・関西編』では、消滅した球場である大阪球場・日生球場・西宮球場と共に藤井
寺球場が取り上げられています
。その中からお借りした数枚を中心にしてナイターが始まるまでの戦後の昭和時代をアルバムにしてみました。
 いずれの写真も、二度と再現されることのない光景を見せてくれていますが、「消えてみて、見たくなる光景。」のあることがしみじみと
わかります。写真 31)は私自身の撮影ですが、これを見る度に「もっと撮っておけばよかった。」と思います。ナイター化に向けた改装が行
われる前の藤井寺球場を私が撮ったのは、この1枚だけでした。当時は、藤井寺球場にほとんど興味が無く何の思い入れも無かったのです。
球場だけでなく、変わっていく街の様子や昔からの駅、広がっていた田や畑、そういう普段見慣れていた、それだけに見過ごしていた光景を
撮り逃がしていました。実際の様子を見たことの無い方には想像の光景として、見た経験をお持ちの方には懐かしの光景として、楽しんでい
ただきたいと思います。
27) 昭和27年高校野球夏期大会大阪府予選の表彰式 28) 高校野球夏期大会の開会式と思われる。
27) 昭和27年高校野球夏期大会大阪府予選
  の表彰式(北西から南東方向を見る)
  この年優勝して大阪府代表となったのは八尾
 高校。左端の森は辛國神社。  昭和27(1952)年
『近畿日本鉄道80年のあゆみ』(1990年 近畿日本鉄道)より
8) 高校野球夏期大会の開会式と思われる。(北西から南東方向を見る)
   中央に見える山は岡ミサンザイ古墳。外野席フェンスに、藤井寺に工場進出した
  ニチバンの広告看板が見える。その後方の家並みは、藤井寺経営地の東住宅地とし
  て造られた住宅街である。                     昭和32(1957)年
       『懐かしの球場 関西編』(2014年 産経新聞社)より〈 29)・30)も 〉
29) 古代遺跡?(北東より) 30) 住宅街のスタジアム
29) 古代遺跡?(北東より)   昭和36(1961)年
    開場当時に“白亜のお城”と比喩された建物も、戦争を
   くぐってすすけた姿となった。
30) 住宅街のスタジアム(南より)    昭和48(1973)年
    球場の西から南側は住宅街が囲んでいた。ナイター化への懸念
   が出るのももうなずける。改装工事前最後の姿。
31) 近鉄線越しに見る藤井寺球場(北より)
31) 近鉄線越しに見る藤井寺球場(北より)        昭和48(1973)年5月
   30)の反対側から見た様子で、球場前を近鉄線が通っている。ここから線路まで土地が
  低いため、球場がより高く感じられる。 30)と同じ年の春に撮影
32) 止まった工事 33) 超満員の藤井寺球場(北より)
32) 止まった工事(南より)
      30)の翌年シーズン。外野に2基の鉄塔
   が建った時点で工事はストップした。
          昭和49(1974)年
33) 超満員の藤井寺球場(北より)         昭和51(1976)年
    依然として鉄塔に照明器具は無く、2基のままである。駐車場を埋めた車、
   超満員のスタンド、どんなカードの試合だったのであろうか。球場の南には住宅
   街が広がっている。   『懐かしの球場 関西編』より〔 32)・34)・36)・37)も〕
34) 超満員の近鉄−阪急線 35) 人工芝になる前の藤井寺球場(南西より)
34) 超満員の近鉄−阪急線  昭和53(1978)年9月23日
   優勝に関わる重要な決戦であった。これだけの人で
 スタンドが埋まることはめったになかった。
35) 人工芝になる前の藤井寺球場(南西より)
  依然として鉄塔は2基。左下の球友寮は旧寮。近鉄電車も
 単色のマルーン色電車である。     昭和55(1980)年
36) 団地の横に 昭和58(1983)年 37) 記念すべき藤井寺球場初のナイトゲーム
36) 団地の横に 昭和58(1983)年
   この写真の直後にナイター化工事
  が再開される。後には団地も高層化
  されて、すっかり様変わりした。
37) 記念すべき藤井寺球場初のナイトゲーム   昭和59(1984)年4月6日
   初ナイターは近鉄−西部戦であった。まだ肌寒い夜に2万人の野球ファン
  が来場した。試合は
5−19で近鉄が負け、鈴木啓示が敗戦投手。この年から
  1996年まで藤井寺球場が本拠地であった。

藤井寺球場ナイター問題
 それは突然のことでした。昭和
48(1973)年2月5日、近鉄球団が藤井寺球場の本拠地化とナイター実施用の改装などを計画していると、
聞各紙が一斉に報道しました。藤井寺市当局も事前に知らされておらず、市民もびっくりでした。藤井寺市民や周辺地域の人々の間では、
おもに三通りの受けとめ方があったと思われます。「やっとここでナイターを見ることができる!」、「なんでここでナイターを?」、そ
して、もう一つは、もともとプロ野球に何の関心も無い立場です。それからが大変でした。
 既述の通り、近鉄球団はそれまで大阪市森ノ宮の日生球場を借りてホームゲームの本拠地としていましたが、この年昭和48年に入って、
自前の藤井寺球場を改装整備してホームグラウンド化することを計画します。それは藤井寺球場でのナイトゲーム開催が前提となっていま
した。その計画公表が
2月5日だったのです。その後の経過の概略を、『藤井寺市史第2巻・通史編3・近現代』の記述を中心に紹介します。
 2月
26日になって、初めて近鉄から藤井寺市に対して計画の説明がなされました (内容は別ページ)。これに対し藤井寺市長は、ナイタ
ー実施に伴って予想される問題点や公害について十分な対策が考慮されているかどうか近鉄側に問いただし、改めて近鉄の具体的な対策の
提示を強く求めました。一方、市議会でも関係委員会等で何度か協議が行われ、駅前整備問題、駐車場対策、路上駐車対策、交通整理、騒
音対策、球場周辺の清掃対策、防犯対策等について話し合いが行われました。その結果、これらについて近鉄にその履行・対策を強力に迫
ることとし、周辺地域の住民に対し近鉄側が直接出向いて説明するように申し入れをしました。その後、藤井寺市と近鉄球団は再三協議を
重ね、連絡協議会を設けるための協定書案と、近鉄に約束した事項を確実に履行させるための確認書案が作成されました。
 一方この近鉄の計画に対して、周辺住民の問では不安は広がっていました。そのため周辺の区長、町内会長などから、路上駐車や騒音の
規制、治安問題などについての陳情が相次いで藤井寺市に出されました
(内容は別ページ)。市は各区長の意見を聴取した上でそれを確認書
案に盛り込みました。
 4月に入って、住民意思を反映させる機関としての連絡協議会の設置と、確認書・協定書およびその細目が、市議会全議員によって了承
されました。この間にも、住民と市との話し合いが何度も持たれました。周辺地区の中には、ナイター設備の設置そのものに強く反対する
主張もあり、その後様々な曲折を経て行くことになります。
 そうした中、4月
27日に藤井寺市長と近畿日本鉄道社長との間で、確認書・協定書の調印が行われました(内容は別ページ)。 藤井寺市
は6月1日発行の『広報 ふじいでら・別冊No.2 特集号』で、「藤井寺球場ナイター問題の経過」と題して2月以来の詳細な経過を市民に
報告しました。
(リンクページで全文の内容を紹介)
 一方の近鉄は確認書・協定書の調印を受けて、7月にナイター化のための改装工事に着手します。外野スタンドやスコアボードなどを完
成させ、さらに外野スタンドの後方にはまず2基の照明用鉄塔が建てられました。このまま工事が進み、翌シーズンからは藤井寺球場での
ナイトゲームが開始されるかと思われました。しかし、
事態はそう簡単な経過では済みませんでした。
 アイコン・指さしマーク 「藤井寺球場ナイター問題の経過」(全文)
 
〔『広報 ふじいでら』(昭和48年6月1日発行 別冊No.2 特集号)より〕
11年の裁判係争を経て
 藤井寺球場ナイター設備の設置に反対する周辺住民で結成された「藤井寺ナイター公害反対連合会」(約1,000世帯)は、昭和48(1973)年10
月、種々の公害を理由に照明塔工事差し止めの仮処分を大阪地裁に申請しました。審理の結果、その申請が認められて工事中止の仮処分の
決定が出されました。仮処分決定は直ちに効力が発効するため、照明塔の工事はこの時点で一旦中断されます。外野スタンド後方に2基の
鉄塔が立った状態でした。無論照明装置の設置はまだです。予定された鉄塔は内外野合わせて6基でした。ここから約10年間、スタジア
ムに2本のツノを立てたような姿の藤井寺球場の時代が続きます。
 その間、近鉄と反対住民は仲介や調停などを重ねてきましたが不調に終わったため、近鉄が工事差し止めの決定に対して昭和
56(1981)
3月に大阪地裁に異議を申し立てを行い、再び法廷で争われることになりました。そこから長い係争期間が続くことになったのです。よも
やの約
11年間でした。その間、藤井寺球場での公式戦は、もちろんデーゲームだけの開催でした。
 
昭和58(1983)年9月26日、大阪地裁は「ナイター公害は受忍限度内」として仮処分の決定を取消しました。近鉄の送転勝訴となり、近鉄
は2ヶ月後の
11月21日に工事を再開しました。
 この大阪地裁での判決を不服として、原告の公害反対連合会は大阪高裁にナイター公害は受忍限度を超えるとして控訴します。控訴審で
は第1回口頭弁論で裁判長が原告・被告双方に和解を勧告し、そのため和解交渉が行われました。最大の争点であったナイター実施回数で
年間
30試合で合意に達するかに思われましたが、しかし近鉄側は現在藤井寺球場と併用している日生球場での試合数が制限された場合、
その分藤井寺球場を使用できる旨の条項を入れたいと希望したため、住民側が
30試合の制限がなし崩しになるとして、これに異議を唱え
調停は不調に終わりました。その間にもナイター化の設備工事は着々と進められ、最初の着工から約
11年を経てようやく完成します。
 昭和
59(1984)年3月27日、照明塔の点灯テストが行われ4月6日に藤井寺球場初の公式戦ナイトゲームの近鉄−西部戦が開催されまし
た。まだ肌寒い4月初旬の夜でしたが、待ち望んでいた多くの野球ファンが来場しました。記念の試合は、5−
19で近鉄の大敗でした。
 すでに藤井寺球場でのナイター興業が始まっている昭和
59年5月25日、大阪高裁は、「ナイター工事はすでに完成し、住民側が工事中止
を求めた仮処分申請の利益は無くなった」として、住民側の控訴を棄却しました。これにより、
11年近い裁判係争が幕を下ろしました。
 完成した改装工事では、ナイター設備として、球場スタンドの周囲に高さ
38mの照明塔6基を建て、周辺住宅への騒音防止設備として
高さ5mの昇降式防音壁が設けられました。また球場正面や外周壁も改装され、総工費は5億円だったそうです。地域への対策としては、
球場沿いの公団住宅
40戸に防音窓とクーラーを設置した他、球場−藤井寺駅間の防犯灯の取り付け、移動トイレの設置も行われました。
 4月6日夜の最初のナイターは2万人の入場者でしたが、球場側はガードマンを増やして
100人を配置し、不法駐車を監視しカネや太
鼓の持ち込みを禁止する看板を立てると共に、場内放送をくり返し行って騒音問題にことのほか配慮をしたそうです。一方、公害反対連合
会も、騒音・不法駐車・照明公害を調査するため、役員
10数人が球場周辺を巡回しました。その結果、騒音・不法駐車・照明公害の報告が
相次いだため、問題点について近鉄本社に抗議を申し入れる一方、今後とも調査を続けることになったそうです。
藤井寺市民へのサービス−優待割引券
 右の写真はバファローズ公式戦開催期間中、藤井寺市の『広報ふじいでら』に毎月掲載されてい
た藤井寺市民向け「優待割引券」です。年によってデザインは変化していますが、1軍公式戦の本
拠地が大阪ドームに移るまでの間、毎年広報紙に付けられました。当時の料金でどの程度の割引だ
ったのかは別ファイルをリンクで用意したので、そちらを見てください。内野自由席などは、かな
りお得になる割引券だったと思います。計算上は最大で4割引となる割引率だったことがわかりま
『広報ふじいでら』掲載の優待割引券
広報ふじいでら』掲載の優待割引券
す。おもしろいのは、「対西武戦」だけが他のカードよりも2割ほど高い料金だったことです。当時は西武ライオンズが強い時代で、パ・
リーグでは“東の雄”とされるチームだったので、近鉄−西武戦は藤井寺球場でのゴールデン・カードだったのです。近鉄球団は各界の企
業などと提携して様々な割引券や招待券を提供していましたが、本拠地である地元藤井寺市の市民に贈られたささやかなプレゼントがこの
優待券でした。                  アイコン・指さしマーク
「割引優待券(料金表付)と記事(『広報ふじいでら』1994年4月号より)

バファローズ本拠地の座をゆずる
 昭和
59(1984)年のシーズンから、藤井寺球場は名実共に近鉄バファローズの本拠地球場として存在し働いていきます。 翌年には球場施
設のリニューアルが行われ、外野が人初めて工芝になりました。また、スタンドの一部も改修され、藤井寺球場には「バファローズ・スタ
ジアム」の愛称が付けられました
(写真 22))。さらに平成8(1996)年には、それまで土のままだった内野にも人工芝が張られました。
 平成
8(1996)年10月7日、来シーズンからの本拠地移動を控え本拠地藤井寺球場での1軍公式戦最終戦となる近鉄−ロッテ戦が行われま
した。この試合の結果は近鉄0−8ロッテで、近鉄の完敗でした。これ以降、藤井寺球場のプロ野球使用は、2軍のウエスタン・リーグ公
式戦が中心となり、1軍公式戦も一部が開催されました。また、バファローズの練習や高校野球の大阪予選にも使用されました。
 下の写真38)〜41)は、本拠地ゲームとしては藤井寺球場で私が撮影した最後の公式戦です。消化ゲームの段階に入っており、寂しい限り
の観客数でした。しかし、熱心な地元ファンは、本拠地が去ってしまうことに強い惜別の念を持っており、熱い声援を送っていました。
38) 本拠地として最後のシーズン 39) この日のゲームは近鉄−ダイエー戦
 38) 本拠地として最後のシーズン  1996年9月27日(40まで同じ)    39) この日のゲームは近鉄−ダイエー戦
40) 1塁側にはいつも熱心な私設応援団が陣取っていた 41) 手動パネルのスコアボードも懐かしい
 40)1塁側にはいつも熱心な私設応援団が陣取っていた
   青緑色シートは内野B指定席。その向こうは内野自由席。
41) 手動パネルのスコアボードも懐かしい
   右上の照明に照らされた建物は大阪女子短大
(当時)の校舎
 近鉄バファローズは翌平成9(1997)年のシーズンから完成したばかりの大阪ドームに本拠地を移します。藤井寺球場の位置が大阪府南部
に片寄っていたため、より多くの観客動員が望める大阪市内への移転を考えたものです。しかしながら、この本拠地移転が間違いの始まり
だったと、後々悔しそうに振り返るバファローズファンも少なくありません。大阪ドームに移転したことで確かに入場観客数は増えました
が、一方で、大阪ドームの年間使用料が新たな負担となりました。
 結局、ナイター開催とセットとなった本拠地球場としては、藤井寺球場の実働期間はわずか13年でした。ナイター化改装工事の開始から
完成までに
10年もの時間を費やしたことを考えると、この13年という年数は余りにも短いと言わざるを得ません。しかしながら、この間に
はオールスターゲームの開催も実現し、この球場でのリーグ優勝決定もありました。そして、やっと本拠地球場での日本シリーズが実現し
たのでした。
 平成11(1999)年4月、地元企業との提携と地元密着を目指すとしてチーム名が「大阪近鉄バファローズ」に改称され
、9月には従来の近鉄
野球株式会社に代わる新会社「株式会社大阪近鉄バファローズ」が設立されました。近鉄線エリアだけでなくより広範な地域のファンを獲
得して、「大阪のチーム」となることを目指したのです。しかし、地元密着も思うような展開にはならず、累積赤字は膨らむ一方でした。
とうとう親会社・近畿日本鉄道は野球事業からの撤退を考えます。この年のシーズン終盤の10月7日、藤井寺球場で開催される最後の1軍
公式戦、近鉄−ロッテ戦が行われました。以後、藤井寺球場で開催されるのは2軍の試合だけでした。
 2019(令和元)年12月2日(月)配信の「東洋経済オンライン」の記事「近鉄球団消滅
15年でプロ野球は何が変わったか」の中に、次のよう
な一節が載っていました。『
2003年の近鉄球団は、入場料、放送権料などで約35億円の収入があった。選手年俸などの人件費が23億円、大
阪ドームの使用料など支出があり、その差はマイナス約50億円。本社からの広告宣伝費として補填される10億円を除いても、赤字は約40億
円もあった。経営に苦しむ近鉄グループが球団を切り離したくなるのも理解できなくはない。
』。あの日本一の巨大私鉄・近畿日本鉄道を
中核とする近鉄グループも、バブル経済崩壊後の低迷する日本経済の中では、厳しい経営状況に置かれていたのでした。

バファローズとともに消えゆく藤井寺球場
 平成
16(2004)年8月10日、大阪近鉄バファローズとオリックス・ブルーウェーブとの間で、合併に関する基本合意書が調印されました
これによって、大阪近鉄バファローズというチームの消滅が決定したのです。ところが、この合併劇に端を発して秋にはプロ野球界は大混
乱となり、とうとう
9月18・19日にはプロ野球選手会による日本プロ野球史上初となるストライキが決行されました。2日間に渡って12
球団すべての試合が中止となりましたが、世論は選手たちの味方でした。たくさんの熱い声援と激励が選手会に寄せられました。
 この年の
9月30日、藤井寺球場でのプロ野球公式戦として最後となるウエスタン・リーグの試合、近鉄−中日戦が行われました。この試
合が、藤井寺球場で見る「大阪近鉄バファローズ」の最後の野球となり、バファローズや藤井寺球場との別れを惜しむ約5千人のファンが
来場しました。そして、ついに
11月30日には、プロ野球チーム「大阪近鉄バファローズ」が終わりを告げました。
 藤井寺球場の方はと言うと、平成
17(2005)年1月31日をもって球場は閉鎖となり開場以来77年間の歴史に幕が降ろされました。敷地
の譲渡先が決まるまで、静かに解体を待つ身の上となったのです。球場閉鎖に当たって球団や近鉄本社による惜別セレモニーは何もありま
せんでした。球団が消滅した今となっては、イベントを開催しても今後のビジネスには貢献しない、ということだったのかも知れません。
何の区切りも無く球場が消えて行くことに、多くの市民やかつての近鉄ファンが残念な思いをつのらせていました。
最後のお別れ−「さよなら藤井寺球場」
 そんな多くの人々の思いを受けて、一度限りのイベントが企画されま
した。閉鎖から4ヶ月ほど後の2005年6月4・5日に藤井寺球場を会
場として開催された『藤井寺市民フェスタ』です。藤井寺市の象徴的ランドマークであった藤井寺球場が、このまま市民やファンから切り
離されるように黙って消えていくのはやっぱり寂しい、そういった思いが結集した企画でした。このイベントの準備や運営には多くの人手
が必要であり、また、多くの参加者に来場してもらうために、既存のイベントの臨時版として計画されました。この年に実施が予定されて
いた「第26回 藤井寺市民まつり
(しゅらまつり)」と「第21回 藤井寺市民運動会」に代わる合同企画として行われました。2日間に渡って開
催されたフェスタのフルネームは、『さよなら藤井寺球場 藤井寺市民フェスタ』です。会場には家族連れを含む大勢の人々が来場しまし
た。藤井寺球場に思い出を持ち郷愁を感じる人は、プロ野球ファンだけではありません。青春を高校野球に打ち込んだ人とその家族、遠い
大学時代に球場で対戦した人、学校の運動会や地域の連合体育行事、企業や団体が開催した行事に参加した人、はたまた、戦時中の青少年
錬成行事に動員された人、そして、それら行事の準備や運営に携わった人々等々、実に多くの人々の胸中にいろいろな“藤井寺球場”が抱
かれていたことでしょう。もう一度この目で藤井寺球場をしっかりと見つめ最後のお別れをしたいと、この2日間のイベントに来場した人
は、のべ約7万1千人にもなりました。「この人数がもっと普段のバファローズの試合に来てくれていたら…」という元近鉄ファンの嘆き
が聞こえてきそうです。
 以下に、6月
5日(日)に私が撮った写真からいくつかを紹介します。また、藤井寺市公式サイト掲載の平成17(2005)年6月1日発行『広報
ふじいでら 6月号
(PDF ファイル)』から、「表紙・P2・P28・P29」を取り出してリンク・ファイルとして紹介しています。フェスタのプロ
グラム内容や会場設営の様子を知ることができると思います。 アイコン・指さしマーク『広報ふじいでら 6月号』より〔表紙P2・P28・P29〕
(PDFファイル)
「さよなら藤井寺球場 藤井寺市民フェスタ」 2005(平成17)年6月4(土)・5日(日)
42) 大勢の人でにぎわう会場の様子 43) センター位置からバックネット方向を見る
42) 大勢の人でにぎわう会場の様子 43) センター位置からバックネット方向を見る
2005(平成17)年6月5日 以下同じ
 42) は内野1塁側の上段より撮った様子です。この辺りに陣取ってバファローズを応援していたファンの人達には懐かしい景色だと思い
ます。レフトスタンド後方壁の向こうに、岡ミサンザイ古墳
(仲哀天皇陵)と辛國神社の森が見えます。その遙か後方には、金剛山地の山並
が続いています。スコアボード横の一番高い峰が金剛山で、ちょうど照明塔の後ろが葛城山、左端の二こぶの山が二上山
(にじょうざん)です。
 デーゲームの時にはこれらの山々がいつも視界に入っていました。夏場のナイターの時には、この景色を見ながら夕暮れを迎えます。薄
暮が終わる頃には、この山並が段々とシルエットになって見えてきました。その頃には照明灯の明かりに集まった多くの虫が飛び回り、そ
れを狙ってどこからともなく飛来したコウモリたちが、観客の眼前を好き勝手に飛び回っていました。スタンドでは、三々五々来場して来
たファンの人達が、挨拶を交わしながら席を埋めていきました。球場外周の一角にある駐輪場にはいつもたくさんの自転車が並んでいまし
た。近隣から自転車で気軽にやって来られる球場でもありました。私は、藤井寺球場の持つこの“ローカルさ”がたまらなく好きでした。
 球場解体工事開始の8ヶ月ほど前の時期でしたが、よく見ると場内のあちこちに解体を待つ球場の侘びしさが感じられました。8年前に
バファローズ本拠地が大阪ドームに移ってからは、それまでほど球場施設の手入れがされていなかったようです。外野の人工芝は傷みが激
しく、照明塔の鉄骨は塗装がはげて下地のさび止め塗装の赤色が見えています。そのほかでも金属部分の塗装がはげてさびている箇所はあ
ちこちに見られました。消えゆくものに治療はしないという感じがして、フェスタの賑わいとは裏腹に、一抹の悲しさが湧いてきました。
 
44) 中央スタンドから3塁側を見る 45) 中央スタンド上段からセンター方向を見る 46) 中央スタンドから1塁側を見る
44) 中央スタンドから3塁側を見る 45) 中央上段からセンター方向を見る 46) 中央スタンドから1塁側を見る
 かつてこのスタンドが超満員の人で埋まったことがありました。 平成元(1989)年10月14日の対ダイエーの優勝決定戦は、土曜日のデー
ゲームでしたが、通路まで観客が並ぶ超満員でした。記録では入場者数3万2千人となっていますが、実数はもっとあったのではないかと
思われます。5対2で近鉄が勝ち、9年ぶり3度目の優勝を藤井寺球場で決めました。1シーズン制としては初のリーグ優勝でもありまし
た。残りゲームがあと1試合という日の優勝決定でした。この年のシーズンは、近鉄・西武・オリックスの3チームが熾烈な争いをしてお
り、最後まで優勝の行方がわからないという、ファンにとってはたまらないシーズンでした。終わってみれば、近鉄と2位オリックスとの
ゲーム差は「
0.0」、3位西部とも「0.5」という結果でした。近鉄の勝率「0.568」、オリックス「0.567」で、その差わずか1厘という
僅差でした。勝利数ではオリックスの方が1つ多かったのですが、負け数と引き分け数によって近鉄の勝率が上回ったのです。ちなみに、
この試合の勝利投手は加藤哲郎投手、セーブは胴上げ投手となったエース阿波野秀幸投手でした。この日のダイエー戦が、藤井寺球場で行
われたただ一度のリーグ優勝決定戦となりました。
 続いて、藤井寺球場初開催の日本シリーズも超満員となりました。ファンが夢に見て待望していた、藤井寺球場で見られるリーグ優勝と
日本シリーズが、同じ年に実現したのです。対巨人戦となったこの日本シリーズは、近鉄の3連勝4連敗というまさかの結果に終わり、伝
説のシリーズとなりました。これが藤井寺球場で開催された、唯一ただ一度の日本シリーズでした。
 思えば、この年のリーグ優勝も奇跡的でした。
10月9日時点では首位西武に2ゲーム差の3位だったのです。10日・12日の対西武3
連戦で全勝して首位に返り咲きました。特に12日のダブルヘッダーでは、ブライアント選手の2試合4打数連続ホームランという奇跡の
ようなことが起こりました。しかもその内1本は満塁ホームランでした。これによって西部は3位に転落、息の根を止められました。これ
で近鉄の優勝を確信した多くのファンが14日の決定戦に押し寄せたのでした。漫画に描いたような大逆転優勝でした。
47) バックスクリーン前の中央ステージ 48) 大人気のピッチャーマウンド 49) グラウンドのシンボル、ホームベース
47) バックスクリーン前の中央ステージ 48) 大人気のピッチャーマウンド 49) グラウンドのシンボル、ホームベース
 47)のスコアボードは、当時のプロ野球12球団の本拠地球場の中で唯一の手動パネル式のボードでしたS・B・O」と「H・E・Fc」だけ
がランプ表示で、得点や選手名・審判名などは白色文字を書いた緑色パネルが使用されていました。ボード全体を電光表示に変えることは
しなかったので、後にボードの右側に球速表示用の電光表示板が取り付けられました
(写真41))
 48)はピッチャーマウンドで、記念にマウンドの土を持ち帰る人たちの様子です
強い思い入れがあったのでしょう。このマウンドでいっ
たいどれだけの投手が投げたことでしょうか。中には、自分の選手生活が変わってしまう一試合の登板だった投手もいたでしょう。母校や
地域の期待を背負って必死に投げた高校球児もいたでしょう。投げた投手にも、見守った仲間や家族にも忘れることのできないマウンドで
す。同じように人気のあったのが、49)のホームベースです。ちょうど報道テレビカメラの撮影に遭遇しました
。ここにも数え切れないほど
の打者が立って、投手との勝負に挑んできたことでしょう。見慣れたバッターの姿がいくつか浮かんできます。
50) ピッチャーマウンドから見たセンター方向 51) 内野席下のダッグアウトと記者カメラ席(右端) 52) 元エースで監督だった鈴木啓示氏も登場
50) ピッチャーマウンドから見たセンター方向 51) 3塁側ダッグアウトとカメラ席(右端) 52) 元エースで監督だった鈴木啓示氏も登場
 写真51)の右下部分には、カメラ席用のボックスとダッグアウトが見えます。すぐ上の内野席ネットの後ろはA指定席でした。ダッグアウ
ト後ろの席に居ると、帰って来た選手の顔がすぐ前に見えました。この距離感は大阪ドームにはありませんでした。内野中央席の上には、
記者席や中継放送席、VIPルームの窓が並んでいます。それをはさんで左右には、藤井寺球場独特の塔屋が立っています。上から見ると
半円形で、外側の球場正面で見ると西洋のお城の塔のように見える、何とも特徴のある塔でした。このアングルの写真を見ると、すぐに藤
井寺球場であると区別できる目印でもありました。この塔屋の塗装もはげてきており、滅びゆくものの悲哀を見せているようでした。
 52)は、近鉄バファローズでエースピッチャーとして活躍し、後に監督も勤めた鈴木啓示氏のトーク
藤井寺球場の思い出を語る」の一コ
マです。写真右端には、スコアボードで使われていた「鈴木」のパネルが置かれています。別のプログラムでは、元外野手の村上隆行氏の
トークもありました。このようなショーステージや出店などが何ヵ所もあり、多くの人がそれらを回って楽しんでいましたが、私が印象的
に感じたのは、内野スタンドのシートに座って何時間もの間球場内を眺めている人たちでした。かつて藤井寺球場でゲームを楽しんだ光景
を、心ゆくまで目に焼き付けておきたい、そういう思いで座っている人なのだと私には見えました。

ありがとう そして さようなら 藤井寺球場
いよいよ解体へ
 藤井寺市民フェスタの開催から約8ヶ月後の翌2006(平成18)年2月、いよ
いよ解体工事の始まる日が近づいていました。この間も藤井寺球場はひっそ
りとただ解体を待っている日々が続いていたのですが、一方で新しい計画が
進行していました。球場跡地の身の振り方が決まったのです。
 市民フェスタの開催からちょうど2ヶ月後の2005年8月4日、近畿日本鉄
道は球場跡地の内、北側の約33,000uを学校法人・四天王寺学園に売却する
ことを公表しました。四天王寺学園の計画は、この場所に四天王寺学園小学
校と羽曳野市に在る四天王寺大学の藤井寺駅前キャンパスを開校するという
ものです。もともと球場の周囲が開場当時から住宅地であり、環境維持を望
む地元地域や藤井寺市の意向を受けて、跡地の利用は文教施設を中心とする
53) 静かに解体を待つ藤井寺球場(北東より)
 53) 静かに解体を待つ藤井寺球場(北東より)
   この直後に解体工事が開始された。遠目には、今日にも試合が
  開催される球場に見える。  2006(平成18)年2月9日(他も同じ)
ことになったものです。残りの跡地南側の約 9,200uは総合商社の丸紅が取得して、大規模マンショングランスイート藤井寺」が建設さ
れることとなり、2009(平成21)年11月に竣工しています
(写真6)の直後)。 53)〜61)の写真は、解体工事開始直前の時期に撮影した中から
選んだものです。一般市民が目にすることのできた、ほとんど最後の藤井寺球場の姿です。
54) 球場前広場(北東より) 55) 照明塔・駐車場とともに(北西より)
54) 球場前広場(北東より)  多くの人や自転車で埋まった。 55) 照明塔・駐車場とともに(北西より)
56) 照明塔・駐車場とともに(北西より) 57) 試合案内板
56) 正面ゲート(北東より) 駅から来た人々は皆ここから入った。 57) 試合案内板  赤白青のバファローズ3色が懐かしい。
58) 堂々たる正面の威容 59) 入場券売り場と入場口
58) 堂々たる正面の威容 既に工事の準備が始まっている。 59) 入場券売り場と入場口 何度ここを通ったであろうか。
60) 屋内練習場(左端)と東側照明塔(北より) 61) 昇降式防音壁と照明灯
60) 屋内練習場(左端)と東側照明塔(北より)
     塗装がはげて赤い下地の見えた鉄塔がもの悲しい。
61) 昇降式防音壁と照明灯 藤井寺球場独特の防音壁。ナイ
  ターの時だけ吊り上げられる。上端はそのための滑車
 上の写真を撮ってから数日後に解体工事が始まりました。これらの写真は、最後の見納めとなった“遺影”です。藤井寺球場の解体撤去
工事は、2006(平成18)年
2月〜8月に行われました。解体工事用の囲いが撤去されたとき、あの大きな建物が無くなっている様子に驚いた人
も多かったと思います。「こんなに広い敷地だったのか!」と。
 昭和3年の完成時には、人々は逆の驚きを感じたことでしょう。あれから実質
78年間、藤井寺球場は藤井寺の地に在り続けていました。


そして、藤井寺球場の姿は完全に消えてしまいました。



藤井寺球場の場所は今…
 2009(平成21)年4月、藤井寺球場跡地に四天王寺学園小学校(現四天王寺小学校)が開校しました(写真 6))球場が姿を消してから3年近
くが経っていました。次いで2014年4月には四天王寺学園中学校(現四天王寺東中学校)も開校しています。さらに2017年4月、四天王寺学
園高等学校
(現四天王寺東高等学校)が開校しました。近鉄電車の車窓から、立派な校舎の並んでいる様子がよく見えます。
 現地に行って見ると、そこにかつて球場があったことの名残は何も見当たりません。藤井寺球場がここに存在していたことを後世の人に
伝えるべく近畿日本鉄道の寄贈によって設置された記念像が、過去に「藤井寺球場」が存在した唯一の証となっています。像の台座には、
『白球の夢』という像の題名が見られます。彫刻家の玉野勢三氏による作品で、一目でわかる“野球小僧”の姿です。小僧が腰掛けるボー
ルの下の台座は、藤井寺球場正面に見られた塔屋や建物全体をイメージしていると思われます
その側面には「Buffaloes」のロゴが付いて
います
(写真 64))。バファローズや藤井寺球場のファンだった人にとっては、なかなかにくいデザインです。赤みかげ石の立派な台座の正
面には、ホームベース形の記念プレートが付けられています
(写真 66))
 台座右側面には近畿日本鉄道の名で藤井寺球場の簡単な由来が書かれていますが、その中に「近鉄パールズ」が出てきます。近鉄球団の
最初のチーム名のことですが、これは三重県の近鉄志摩線の沿線で真珠の養殖が盛んであることから付けられたネーミングです。日本プロ
野球機構の記録では「近鉄パールス」ですが、近畿日本鉄道社史の『近畿日本鉄道 100年のあゆみ』では「パールズ」となっています。こ
の記念碑プレートでも同じ名称を使用したものと思われます。
 この「白球の夢」像の位置を新旧の空中写真で比べてみると、藤井寺球場正面ゲート西側にあった試合案内板
(写真 57))のもう少し西側
に当たる位置にあります。校舎のすぐ前で白い玉石に囲まれて立つ像は、なかなかのインパクトが感じられます。
62) “野球小僧” 63) 「白球の夢」像の全体の様子 64) 台座と記念プレート
62)“野球小僧”(北より) 63)『白球の夢像の全体の様子後方は四天王寺学園校舎 64) 台座と記念プレート
65) 『白球の夢』銘板 66) ホームベース形の記念プレート 67) 近畿日本鉄道による記念像の由来記
65)『白球の夢』銘板 66) ホームベース形の記念プレート 67) 近畿日本鉄道による記念像の由来記

 【 参考図書 】 『大鉄全史』(1952年 近畿日本鉄道株式会社 )
         『近畿日本鉄道
80年のあゆみ』(1990年 近畿日本鉄道株式会社)
         『近畿日本鉄道
100年のあゆみ』(2010年 近畿日本鉄道株式会社)
         『藤井寺市史第二巻 通史編3 近現代』(2008年 藤井寺市)
         『広報ふじいでら縮刷版 第1巻』(1980年 藤井寺市)
         『藤井寺市勢要覧 1978』(1978年 藤井寺市)
         『大阪の昭和』(2013年 中経出版)
         『懐かしの球場 関西編』(2014年 産経新聞社)
         『河内望郷歌』(1989年 佐々木幹郎 五柳書院)
         『宝島MOOK 大阪近鉄バファローズ 伝説の野武士軍団DVD BOOK』(2005年  兜島社)
         プロ野球 伝説の猛牛軍団 近鉄バファローズ クロニカル』(2011年 潟Xコラマガジン)
         
B.B.MOOK833 近鉄バファローズ球団史 1950−2004』(2012年 潟xースボール・マガジン社)
         『
洋泉社MOOK 秘蔵写真でよみがえる 近鉄バファローズ大全』(2013年 蒲m泉社)
         BBMタイムトラベル 俺たちの藤井寺バファローズ』(2015年 潟xースボール・マガジン社)
         『日常と地域の戦争遺跡』(2022年 大西 進(編) 批評社)               〈その他〉

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