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 蓮土山・道明寺(れんどさん・どうみょうじ)   《古義真言宗御室派》  尼寺
 〒583-0012 大阪府藤井寺市道明寺1-14-31    TEL 072-955-0133      アイコン・指さしマーク 公式サイト「道明寺」
 近畿日本鉄道南大阪線・道明寺駅から西へ約460m 徒歩約7分(山門まで)
 国道旧
170号・道明寺交差点の東方約130mの位置に参拝者用駐車場入口(寺号標前) 東門横にも参拝者用駐車場(台数少)
 道明寺駅前にコインP(4台) 
1) 道明寺山門前の参道(南より) 2) 山門と参道の枝垂れ桜
1) 道明寺山門前の参道(南より)  2013(平成25)年9月
 右の寺号標は「蓮土山  道明寺」、左基は「菅公御作  十一面観世音」。
2) 山門と参道の枝垂れ桜(南より)  2018(平成30)年3月
    参道の枝垂れ桜は、山門を背景として美しい景観を見せている。
3) 道明寺山門(南より) 4) 道明寺本堂(南東より)
3) 道明寺山門(南より)       2013(平成25)年9月
     山門を入った正面は大師堂で、本堂は左手にある。
4) 道明寺本堂(南東より)      2020(令和2)年4月
    静かな境内だが、お参りの人影は絶えることがない。
5) 山門より見た境内の様子(南東より)
5) 山門より見た境内の様子(南より)
              2020(令和2)年4月

    正面は大師堂、右手は護摩堂。左手後方に
  本堂がある。
   境内は、桜の時季でも至って静かである。
  いつ訪れても、穏やかな空気の感じられる
  お寺である。
               (合成パノラマ)
6) 正面より見た大師堂(南より) 7) 護摩堂と八重桜(西より)
6) 正面より見た大師堂(南より)   2020(令和2)年4月 7) 護摩堂(西より)          22020(令和2)年4月
土師氏の氏寺
 道明寺は山号を蓮土山と号し、真言宗の尼寺です。この寺は、7世紀の
中頃に土師
(はじ)氏の氏寺として創建されたと考えられており、もとは土師
(はじでら)と言いました。もともとこの寺は、現在の道明寺や道明寺天満宮
の南側一帯にあったもので、今でも巨大な塔の心礎
(柱の礎石)が残ってい
ます。大きな伽藍でしたが江戸時代に石川の洪水で流されたため、現在の
道明寺天満宮境内のある台地上に移転しました。
 寺伝によると、推古天皇の時代に土師八島連(はじのやしまのむらじ)が自分の家
を寄進して寺とし、「土師寺」と称したのが始まりとされています。
 土師氏はこの地を本拠地として古墳築造などに活躍した土木技術集団と
言われ、古代にはこの一帯は「土師郷」と言いました。現在もこの近くの
駅名「土師ノ里」にその名を残しています。
 一方、土師氏の氏神として当地に祀られていたのが「土師神社」でした
が、やがて神仏習合が一般化する中で、土師寺と土師神社は同じ土師氏ゆ
かりの寺社として一体化していきました。
8) 3D化画像で見る疑似鳥瞰写真の道明寺(南東より)
8) 道明寺の疑似鳥瞰写真(南東より)    文字入れ等一部加工
      東高野街道をはさんだ東側には道明寺天満宮が位置する。
         〔(GoogleEarth
3D画 2015(平成27)年11月〕より
菅原道真と道明寺
 奈良時代になって、土師氏の中に「菅原
(すがわら)」の姓を賜って菅原氏を称する一族が誕生しました。平安時代の初期、菅原道真(すがわらのみ
ちざね)
公の姨(おば)である覚寿尼(かくじゅに)が土師寺に住んでいたといわれ、道真公が藤原時平たちの策謀で九州の大宰府に左遷される時に、姨に
別れを告げるために土師寺に立ち寄ったと伝えられます。この時、一本の檜を材料として道真公自ら彫って寺に残したと伝えられるのが、
ご本尊の国宝「十一面観音菩薩立像
(じゅういちめんかんのんぼさつりゅうぞう)」です。
 道真公の死後
、10世紀中頃(平安時代)に土師寺は「道明寺」と改められました。寺号道明寺」の道明」については、道真公の「雅号
とか「幼名」といった説がありますが、確たる由来を示す史料はありません。大宰府に赴く道真公が淀川を下る舟の中で『
世につれて浪速
入江もにごるなり 道明らけき寺ぞこひしき
』と詠んだ歌にヒントを得られるかも知れません。この直後、道真公は土師寺へ立ち寄ること
を許されて覚寿尼のもとを訪れています。              アイコン・指さしマーク「菅原道真と天神信仰」    アイコン・指さしマーク「道明寺天満宮」
 道真公ゆかりの土師寺にも道真公を天神として祀る天満社が土師神社境内に造られ、道真公が残したといわれる道真公自身の影像が安置
されました。やがて、時代を経る中でこの天満社が土師神社に替わって本社となり、「道明寺にある天満社」として「道明寺天満宮」と呼
ばれるようになっていきました。以後、道明寺と道明寺天満宮は一体のものとして栄えていくことになります。
縁起『河洲志紀郡土師村道明尼律寺記』より
 天正7(1579)年の『河洲志紀郡土師村道明尼律寺記』に道明寺の縁起が詳しく説明されていますが、その一部の要旨を紹介します。
(一) 道明寺は土師寺といい、この名は土師の里に草創したことによる。この里は垂仁天皇の時代に野見宿禰が初めて姓を賜ってこの地
を領知し、さらに敏達天皇の時代、土師八嶋の代に相次いでここに住むようになる。宅の北に高い丘があって、八嶋はこの風景をことに愛
し、丘の底盤根に太い宮柱を建てて、天穂日命を祀った。天穂日命は、土師氏の遠祖だからである。俗に奧の天神
というのはこの社である。
後に牛頭天王と婆利塞女を勧請して、相殿に祀った。今に至って毎年八月一日から二十六日まで神事をとり行っている。昔は御旅所に神輿
を渡御したが、今は式だけでわずかに神輿御幸の道の跡が残るのみである。
(二) 当寺の開基・聖徳太子が尼僧伽藍を建立したが、狭く思われ、そのため八嶋が自らの住宅を捨てて梵刹(寺院)とした。
(中略)これか
らあとは土師家が代々檀越となり、天応元年には土師古人
(菅原道真の曾祖父)が菅原姓を賜って後、道真の代に至るまで、菅原家が外護者
であった。神護景雲三年、詔によって若江郡稲葉・菱江の二村を土師の里と合せて、永く寺領と定められた。これでますます寺院は栄え堂
宇はことごとく備わった。
(以下略)
(三) 菅参議是善(道真の父)卿の妹覚寿比尼は、道明寺が氏寺であるので、当寺において落飾して戒行正しく同心堅固に生活した。そのた
め、甥の菅原道真は非常に信仰を厚くして仕官の暇があれば当寺にきて坐禅・誦経などをした。
(中略)延喜元年、丞相道真が大宰権師に左
遷されて大宰府に赴く途中、一夜のいとま乞いを許され当寺に立ち寄った。別れのかたみとして覚寿尼に五色・五粒の仏舎利を贈った。そ
れに対し覚寿尼は道真の姿を木像に刻ませた。道真は配所で死に安楽寺に葬られた。そののち安楽寺の僧長権僧都から、道真の遺品として
かたみの品々が覚寿尼のところへ送られてきた。
 (四)~(十)略 (『 藤井寺市史 第2巻・通史編二 近世 』より)
国宝・十一面観世音菩薩立像
 道明寺ご本尊の国宝「十一面観世音菩薩立像
(じゅういちめんかんぜおんぼさつりゅうぞう)」の概要は、藤井寺市公
式サイトの説明によると次のようなものです。
この十一面観世音菩薩立像は、像高99.4cm、檜の一本造です。表面は、彩色や漆箔にせず、頭髪、
眼、唇等にわずかに絵具を
さしただけで、あとは木肌のまま仕上げた檀像彫刻です。「檀像」とは、元
来白檀のような香木を用いた彫像であり、香りを消滅させないために素地のまま仕上げているのが特
徴です。しかしわが国では、香木の入手が容易でないことから良質の檜材を用いて代用する場合が多
く、本像もその好例です。本像の表面は小豆色で光沢があるため見落としがちですが、素地の木肌は
緻密で美しいことが特徴です。
 頭上に十一面を頂き、胸を張り、両足を揃えて蓮花座上に直立する姿は、均整のとれた体躯と相ま
って温雅端正な形と姿を作り上げています。お顔はふくよかで、しかも威厳があり、両眼には黒い石
をはめ込んで生気のある眼を作り出しています。肩から腕や腰にかかる天衣の緩やかな曲線や、腕を
おおう天衣の柔らかな丸み、指のふくよかな肉付きは、檀像彫刻の技巧の妙味を感ずるとともに、厳
しさが和らぎ、日本的な造形美をも感じさせてくれます。
 本像の製作年代は、道真公生存年代と推定されていますが、未だ諸説があり判然と
しません。本像は
彫技の精巧さと檀像彫刻中特筆すべき優品として、1899(明治32)年に旧国宝指定を受けており、さら
に、1952(昭和27)年には現在の国宝に新指定されています。毎月
18日と25日には厨子の扉が開かれ
ご本尊を拝観することができます。

 国宝に指定されている十一面観音菩薩立像は全国で7体(2018年)ありますが、すべて関西で滋賀・
京都・大阪・奈良の4府県です。大阪府内で国宝に指定された仏像は7体ありますが、その内2体が
藤井寺市にあります。道明寺と葛井寺です。小さな藤井寺市に国宝仏像が2体もあるというのは、実
はすごいことなのです。道明寺の十一面観音菩薩立像は、1952(昭和27)年11月22日、同じ藤井寺市内
の葛井寺の「千手観世音菩薩座像」と同時に国宝に指定されました。文化庁の正式な登録名称は「木
造十一面観音立像」です。
  9) 国宝・十一面観世音菩薩立像
 道明寺には、国宝の十一面観世音立像とは別に、もう一体の十一面観音菩薩立像があります。「試みの観音」と称される「十一面観音立
(伝菅原道真作)」で、ご本尊の十一面観音立像に先だって作られた試作の像で、道真公が自ら作られたと伝えられています。檜の一木造
で、像高は50.3cmという小さな像です。この像が作られたのは平安時代であると考えられていますが、近年の研究では奈良時代末とする考
えも有力になりつつあるそうです。この十一面観音立像は1950(昭和25)年に国の重要文化財に指定されています。
 道明寺にはもう一体、重要文化財に指定されている像があります。「試みの観音」と同じ時に指定を受けた「聖徳太子立像」です。聖徳
太子立像は、太子が16歳の時に父である用明天皇の病気が治るように香炉をささげて祈願したという姿を表したもので、「聖徳太子孝養
像」と称されています。父のために真剣に祈願する太子の様子が、像の顔の表情など見事に表現されています。寄木造で、像高は 106.4cm
です。厳しい顔の表情や袈裟の表現など、鎌倉時代の写実的な彫刻表現の伝統を受け継いでいる
ことがわかります。この像が作られたのは、
胎内に納入されていた『法華経』『勝鬘経
(しょうまんぎょう)』などの経巻の奥書から、1286(弘安9)年であることが知られます。 これらの経典は
「太子像胎内一括品」として1974(昭和49)年に重要文化財に追加指定されました。
10) 寺号標(本堂前) 11) 多宝塔と英文の由来記碑(東より) 12) 英文の石碑と説明板
10) 寺号標 2020(令和2)年4月 11) 多宝塔と英文由来記碑(東より) 2014(平成26)年11月 12) 英文の石碑と説明板
寺号標と多宝塔・石碑
 写真10)の寺号標は、本堂の前に建てられているものです。北面に「
道明寺」の寺号があり、東面には「菅公御作 十一面観世音菩薩
彫られています。これらの書蹟はある有名人によって残されたものです。南面でその人の名を知ることができます。南面には「
京師(けいし)
鐵齋百錬書
」と書家の名があります。「京都の富岡鉄斎(百錬)が書いた」ということです。「百錬」は鉄斎の後の名で、「鉄斎」を号とし
ていました。本堂側の西面に「
大正十三年三月建設 施主 大坂市 吉川與三郎」とあり、大正13(1924)年3月に寄進によって建てられた
ことがわかりますが、実はこの年の12月31日に富岡鉄斎は病没しています。つまり、この寺号標の書蹟は鉄斎の最晩年の遺作だということ
になります。富岡鉄斎は、明治・大正期の文人画家として知られ、儒学者でもありました。また、日本最後の文人とも称されてきました。
 写真11)の多宝塔は、山門を入った左手に見えています。1918(大正7)年に藤澤友吉氏が亡き実父(友吉氏
は藤澤家の養子)の17回忌供養に
あたって、道明寺の本堂落成を記念して建立されたものです。藤澤友吉氏とは、藤沢薬品工業
(合併により現アステラス製薬)の創業者で初代社
長だった人です。藤澤氏には、この多宝塔に込めた別の願
いもあり、その説明を英文で書いた石碑が多宝塔の前にありますお寺に寄進され
た英文の石碑というのも珍しいですが、ありがたいことに読めない日本人のためにさらにその内容を説明する説明板が横に立っています。
説明は次の通りです。
この英文石碑は左後方にある多宝塔建立の趣旨を、ここを訪れる世界各国の人々に伝えるべく、初代社長藤澤友吉が、昭和4年(1929年)
に建てたものであり、その概要は次の通りです。
 「1914年、セルビアの若者のうった一発の銃弾は世界大戦(第一次)をひき起こした。祖国のため、そして全人類の平和と幸福のために戦
った幾多の人たちは、不幸にして戦場に倒れ野に山に屍をさらしていった。五年にわたる長い戦いも終わって、ようやく平和が訪れた。そ
して世界中に、永遠に平和な幸多き日
々の続くことを、私たちは信じている。戦いが終わればそこには敵も味方もない。互いに恨みを忘れ、
戦場に散った人たちの冥福をただひたすらに祈ろうではないか。この多宝塔は、大正7年
(1918年)10月、藤澤友吉が、亡父の十七回忌供養
にあたって、道明寺本堂落成を記念し、あわせて、正義と人類愛のためにその尊い命を捧げた世界大戦戦没者の霊を、敵味方の区別なく慰
霊しようとして建立したものである。」
 この石碑の下には、第一次大戦最大の激戦地であったフランスベルダンの鮮血に染まった土が、同市長から寄贈され納められています。
                               昭和
54(1979年)10月       藤沢薬品工業株式会社 』
 石碑の左側面には、『
謹みてベルダン市長より寄贈せられたる同血戦地の土塊をこの石碑の下に斂(おさ)む  藤澤友吉記』という藤澤氏
直筆の文が彫られています。多宝塔の建立は1918年10月ですが、第一次世界大戦の休戦協定の締結は1918年11月11日なので、世界大戦が終
結するより前に藤澤友吉氏は多宝塔の建立を考えたことになります。近代世界が初めて経験した大規模な総力戦の実相は、ヨーロッパから
遠い日本でも驚きをもって知られていったことでしょう。そのあまりの惨状に、藤澤氏は大きく心を痛めたものと思われます。
 また、多宝塔の正面には
10行の漢文が刻まれています。内容は上記の建立趣旨と同じようなものですが、その文末には、大正七年十月
 正五位藤沢南岳撰 泊堂愿謹書
」とあります。藤沢南岳が撰者で、泊堂愿が文字を書いたということです。藤沢南岳は明治から大正中頃
に活躍した儒学者で、大阪で随一の漢学塾を主宰した有名な人です。道明寺天満宮の注連石や津堂八幡神社の記念碑などに南岳の書蹟が残
されています。藤沢薬品の藤澤氏と関係があるのかどうかはわかりません。泊堂愿とは川上泊堂のことで、名を愿といい、泊堂は号です。
泊堂も大阪の人で、書家にして漢学者でもありました。南岳の書蹟や南岳撰・泊堂書のコンビによる石碑は大阪のあちこちに存在している
と思われます。
 多宝塔建立の後にも藤澤氏は寺号標を寄進されています。写真1)・2)に写る左右一対の寺号標がそれで、左基標柱の裏面には「
昭和四年
五月施主 大阪市東区道修町 藤沢友吉 喜和子
」とあります。1929年の寄進で、多宝塔建立の11年後のことです。藤澤氏が道明寺に対して
持っておられた何か特別な思いを感じさせる寄進でもあります。
 藤澤氏はまた、道明寺天満宮
(当時は土師神社)にも石鳥居を寄進されています。本殿の北東に位置する和合稲荷社の南側にある石鳥居に
は、藤澤友吉夫妻と養子・友之助
(2代友吉)夫妻の名が左右の石柱に刻まれています。道明寺の寺号標といい、この石鳥居といい、夫妻連
名になっているところに藤澤友吉氏の人柄が感じられます。また、1916(大正5)年5月には藤澤商店
(後藤沢薬品工業)の新店舗建設に際して
敷地内に土師神社より菅原天神を勧請して奉祀されています。その2年後に上記の多宝塔の建立がなされました。
傾いている?-道明寺山門
 右の写真 13)は山門を真正面から撮影したものですが、棟瓦や軒瓦、垂木、楼台にラインを
入れてみました。よく見ていただくと、本来平行であるはずなのに、そうなっていないことが
わかります。黄色の軒瓦のラインが右下がりに傾いているのです。垂木のラインも少し傾いて
います。山門は20年ぐらい前だったでしょうか、瓦の葺き替えが行われましたが、それ以前に
撮られた写真を見ても、やはり同じように傾いています。どうしてこのような状態になってい
るのでしょうか。それには、1200年にも及ぶこの寺の長い歴史の中で起きた辛い出来事が関係
していると考えられます。
 実はこの山門は、初めから山門として建てられたものではなかったのです。もともとは鐘楼
堂として以前の道明寺境内
(現道明寺天満宮)に存在していた建物でした。現在の道明寺は、明
治6(1873)年から現在地に存在するようになりました
(後述)。そして、明治25(1892)年に元境
内より鐘楼堂を移し、鐘楼兼大門に改造して設置しました。つまり、鐘楼門になったのです。
 この鐘楼門については、『藤井寺市文化財 第6号 近世の建築』(1985年 藤井寺市教育委員
会)で次のように説明されています。
13) 正面から見た道明寺山門
13) 正面から見た道明寺山門
      軒瓦のラインが斜めになっている。
             2014(平成26)年4月
 『道明寺山門は楼門の一種で、上層に梵鐘を釣った鐘楼(しょうろう)門である。下層は三間一戸楼
門と同じ柱数とするが、両端の柱間を極端に狭めているため一間一戸楼門に見える。これは明
治5年の神仏分離による寺地移転に際し、江戸末期建立の鐘楼(袴腰
(はかまごし)付き)を移築して
鐘楼を兼ねた門に改築したことにあった。上層屋根の軒の出が深く、木柄も細くて、軽やかな
外観を見せる。

 この鐘楼堂は、安政年間(1854-60)に大坂の両替店・吹田四郎兵衛が建立したものと寺蔵文
書は伝えています。移設・改造があったとなると、当然そのための構造物の解体や修築が行わ
れたはずです。その過程で、わずかな寸法間違いなどが起きたとしても不思議
ではありません。
或いは使用する部材の都合で、敢えて傾きを承知の上で組み上げたのかも知れません。現在地
に移転する時に寺領地の多くを国有化で失い、道明寺の財政は大変苦しいものとなりました。
鐘楼門に傷みが生じても、多額の費用を掛けた修理はままならないことだったと思われます。
そんなことも影響したかも知れません。
 いずれにせよ、移築・改造されてから
120余年の間、この鐘楼門は現在の道明寺の山門とし
14) 鐘楼門の裏側(北西より)
14) 鐘楼門の裏側(北西より)
   撞木
(しゅもく)が吊られており、鐘楼である
  ことがわかる。   2017(平成29)年4月
てその役割を立派に果たしてきました。通常の寺院の山門の形態とは異なる独特のバランスを見せる鐘楼門は、今や道明寺のシンボルと言
ってもよい存在です。この門の姿を見ると「あっ、道明寺だ。」と判別できる目印になっているとさえ言えるでしょう。
 1200年にも及ぶ歴史を持つ道明寺が、明治の初めに移転して建物を移築することが無ければ、このような門の姿は誕生していなかったこ
とでしょう。傾いた屋根を持つ山門は、道明寺の歴史の一部を象徴する姿でもあるのです。道明寺を訪れた時には、是非この屋根の様子を
じっくりと見ていただきたいと思います。
中世~江戸時代の道明寺
 
16世紀の戦国時代、織田信長軍の高屋城(現羽曳野市)攻めによって七道伽藍が焼亡してしまいますが、尼僧たちが命懸けで仏像・持経
菅神像・宝物等を持ち出し、後世に伝えられてきました。後に織田信長の朱印状を受け、本堂をはじめ天満宮・僧房・宝蔵等の伽藍が再興
されました。また、その後には豊臣秀吉にも朱印状を与えられて復興に努め、保護を受けてきました。
 写真 15)は1575年に織田信長から下された朱印状
です。本文の内容は『当寺事 今度放火無是非次第也 所詮各早速可令帰寺 当知行等聊不
可有相違侯也 仍状如件 天正参 十一月九日
』で、「当寺(道明寺)について この度の放火(戦火)は致し方ないことであった。詮ずると
ころ、それぞれ早々に帰寺を申し付けるべし。当寺の知行地
(領地)等は、(従来と)いささかの相違もないものである。よって、右に記した
通りである。」ということになりましょうか。
 写真 16)は1594年の豊臣秀吉の朱印状で、本文は『
河内国志紀郡道明寺内 百七拾四石弐斗事 以今度検地之上 令寄進之訖 可全寺納
侯也 文禄三 十二月二日
』です。道明寺領内について、「この度の検地」の結果を以て、174石2斗の石高を改めて寄進する、という
内容です。この石高は、江戸時代になってもほぼ同じ程度が維持されていきます。
15) 織田信長朱印状 16) 豊臣秀吉朱印状
15) 織田信長朱印状 天正3(1575)年11月9日 16) 豊臣秀吉朱印状 文禄3(1594)年12月2日
(道明寺天満宮文書より)
 戦国時代の兵火で伽藍が焼失した道明寺ですが、その後に再建されています。ただ、再建された時期がはっきりしていません。唯一の手
掛かりが一対の石燈籠です。「
文禄四年(1595年)」の銘があり、再建された道明寺に寄進されたものと思われます。つまり、それ以前には
寺は再建されていたと推測することができます。
 江戸時代には「
道明尼寺
(どうみょうにじ)と呼ばれていたことが書物に残っていますが、現在も道明寺は尼寺として続いています。また、江戸
時代の道明寺村は、村全体がまるごと道明寺が支配する寺領で、徳川幕府からも所領を認められ保護を受けていました。徳川家康や秀忠・
家光などの朱印状も残されています。幕末にも
200石近い寺領高がありました。そのころの有力寺院としての道明寺の存在の大きさがうか
がえ
ます。
 江戸時代中期の正徳
6(1716)年6月20日(享保改元の2日前)、石川の氾濫による大洪水で境内の堂社がすべて壊滅してしまいました。藤井
寺市域でも多くの村々に甚大な被害が出ています。戦乱で焼けたこともありましたが、それにも増して大きなダメージでした。古代道明寺
から伽藍が展開していた場所での再建をあきらめ、水害を受けにくい場所へ移転して再建することになりました。古刹道明寺の長い歴史の
中でも、この正徳の大洪水は大きな転機となる出来事でした。8年後の享保9(1724)年、元の境内地よりも高い境内北部の国府台地の一部
であった丘の上
(現道明寺天満宮境内地)に移転・再建されました。もともとこの台地上の場所は天満宮本社があった所で、その横に道明寺
本堂が再建されました。本社と本堂が並ぶ光景の誕生です。下に紹介する2種類の絵図と境内図面は、いずれも移転してからの境内の様子
を描いたものです。                          アイコン・指さしマーク「藤井寺市の川と池-石川-正徳の大洪水」
絵図で見る道明寺境内の様子
 下の17)絵図は、享和元(1801)年刊行の『河内名所圖會
(図会)』に「道明寺」の題で載っているものです。左右がそれぞれ2ページ見開き
になっているものをCG合成しています。合わせて4ページで構成された詳細な絵図ですが、幕末に近い時期に描かれた絵図なので、近代
に最も近い道明寺境内
(現道明寺天満宮境内)の様子を伝えていると思われます。現在の道明寺天満宮境内やその南側門前の様子を、この絵
図と対応させて見ることができます。空から見る手段の無い時代としては、様子が巧く描かれた絵図と言えるでしょう。
 現代に最も近い絵図としてよく使われる絵図ですが、現在の様子を比べると、絵図の中の建物のいくつかは無くなっています。南大門、
梅香院、薬師堂、本堂、得宝院です。いずれも道明寺という仏教寺院としての建造物です。それらは、明治の初期に道明寺が現在地に移転
すると同時に消えていきました
(南大門は現代になってからの自動車事故で損壊)。つまり、仏教関係のものが除かれて、完全な神社境内に
変わったということです。これが、世に言う「神仏分離」の結果です。それまでは、寺院と神社とが同じ境内地に共存していたのです。こ
れを「神仏習合」と言います。
 平安時代から神仏習合は広がっていき、江戸時代までにごく普通の形態として定着していました。神社の境内に建立された寺院は、神宮
寺とか宮寺と呼ばれました。また、寺院の境内には有力神社から勧請した鎮守社が置かれました。江戸時代末期の道明寺境内も典型的な神
仏習合の姿を見せています。絵図の左手にあるように、道明寺本堂と天満宮社殿が並んで建てられています。神仏習合寺社と言っても、道
明寺のように本堂と社殿が同じような規模で二つが並んで在るという姿は少ないと思います。形態上は仏堂と神殿とが同等に扱われていま
す。これは
、18世紀前半に洪水被害の後、この場所に移転して境内を再建したことによると思われます。ただ、この絵図や下の24)絵図でも
わかるように、神仏習合は全体としては仏教寺院優位の形態で成立していました。そして、そのことが後に幕末から明治初期にかけて、仏
教寺院に大きな混乱と破壊をもたらすことにつながっていきます。
17)「河内名所圖會」(享和元(1801)年)掲載 道明寺境内全景(南西より見た方向)
  17)「河内名所圖會」(享和元(1801)年)掲載 道明寺境内全景(南西より見た方向)             赤色文字は絵図中の文字を示す。紫色文字は筆者が追加。 
【 河内名所圖會(かわちめいしょずえ)
  
◆発行 享和元年(1801年)9月   ◆著者 秋里籬島(あきさと りとう)    ◆画 丹羽桃渓(にわ とうけい)
  ◆出版社 《京都》出雲寺文治郎・小川多左衛門・殿為八   《大坂》高橋平助・柳原喜兵衛・森本太助
  
◆構成 6巻6冊 《巻之一》錦部郡  《巻之二》石川郡  《巻之三》古市郡・安宿郡
           
《巻之四》志紀郡・丹南郡・丹北郡・八上郡・渋川郡・若江郡  (※ 道明寺の所在は志紀郡)
           
《巻之五》大縣郡・高安郡・河内郡    《巻之六》讃良郡・茨田郡・交野郡
  
※ 大坂心斎橋・柳原喜兵衛の書肆(しょし)河内屋をもととして、大正時代に合資会社・柳原書店を設立。戦後
   京都に移転し、2002年に柳原出版株式会社に組織と社名を変更。現存する日本で最古の出版社とされる。
    復刻本の『河内名所圖會』は柳原出版(柳原書店)の出版で、文章ページは活字版で印刷されている。
絵図とくらべて見る写真
 下の写真 18)は、 17)の河内名所図会の絵図に合わせて、GoogleEarthの3D化機能を使って作成した疑似鳥瞰写真です。比べて見
ると、
階段を上がった所にある道明寺の中門
(現在の道明寺天満宮表門)から本堂や社殿までが、やたらと広く描かれているのがわかります。広い
境内であることを強調したかったのでしょうか。逆に、南大門から階段までは近くに描かれています。つまり、絵図の縮尺比が部分によっ
てまるで異なる描き方です。これは当時の絵図ではよく見られることで、河内名所図会でも「葛井寺」など随所に見られます。基にする航
空写真など無い時代なので、ある程度はやむを得ないことでしょう。境内の様子を全体として比べて見ると、やはり絵図はかなりよく出来
ていると言ってよいでしょう。縮尺比のアンバランスはありますが、全体の配置や位置関係はかなり忠実に描かれている
ことがわかります。
18)3D化画像で見る疑似鳥瞰写真の道明寺・道明寺天満宮とその周辺(南西より)
18) 道明寺・道明寺天満宮とその周辺(南西より)   〔GoogleEarth3D画 2015(平成27)年11月〕より
           写真右下一帯は、江戸時代には旧道明寺の境内地であった。
         文字入れ等一部加工
19) 道明寺文書の図面で見る道明寺境内
19) 道明寺文書の図面で見る道明寺境内 (寛政3〈1791〉年1月 寺社奉行所宛の絵図間数書』より)
                 (『藤井寺市史第五巻史料編三』掲載史料「境内諸堂建物間数書」の絵図より)      一部着色加工
   市史掲載の図を基に複製作図。文字は市史原図と同じ位置に打ち直し、一部は拡大。市史原図では文字の向きが絵図と同じ
  になっていて読みにくいため、すべて天地揃えに直した。境内の様子がわかりやすいように一部を彩色加工。
   凡例は次の通り。
 【 …堂宇・社殿・門等の建造物   …塔頭・僧坊   …森・林   …水路・池 】
地図で見る江戸後期の道明寺境内
 上の 19)図は、『藤井寺市史第五巻史料編三』に掲載されている史料「境内諸堂建物間数書」にある『絵図間数書』添付の絵図を基に作
図したものです。市史では、史料の絵図を元に線画を作成して文字を活字で入れたもの
(読み取り図)が印刷されています。線に濃淡があっ
たり文字が小さくて読みにくかったりするので、線画を作り直して文字も拡大して入れました。さらに、見やすいように文字の向きを揃え
一部彩色加工を施しました。原図では左端に「
右絵図之通当寺建坪相違無御座候 以上 道明寺村 道明寺 寛政三年辛亥正月 寺社御奉
行所
」と書かれています。本体の『絵図間数書』の標題部分には「御朱印所河州志紀郡道明寺村真言律宗 無本寺 道明寺 絵図間数書
とあります。当時の道明寺は本山を持たない無本寺で、真言律宗だったことがわかります。後に明治入ってからの神仏分離の時に真言宗御
室派総本山・仁和寺の末寺となり、現在に至っています。
 『絵図間数書』は、境内を構成する建物・施設の配置とそれぞれの規模・面積を文書と絵図で報告するために寺社奉行所に提出されたも
のです。寛政3(1791)年の日付なので、上の「河内名所圖會」発行のちょうど10年前ということになります。本体文書には、石高や境内
の総面積のほか
、36の堂宇・社殿・塔頭(たっちゅう)・僧坊が列記されており、それぞれの間口・奥行と坪数が書かれています。最初の2行には
一 御朱印高百七拾四石弐斗」「一 境内惣坪数六千三百八十四坪七分六厘 拝領地」とあります。境内総面積は約21,070(約2.1ha)
あったことになります。この数値は戦後間もない時期の地図等から概算される面積よりもかなり少ないので、図の中で示されている「森」
などを除いた面積ではないかと思われます。
道明寺を構成した塔頭・僧坊
 地図中には6院3室の塔頭・僧坊として、「松寿院・隆松院・梅香院・東福院・新光院・得宝院・一之室・二之室・三之室」の名が見ら
れます。道明寺は、全山一ヶ寺としては「道明寺」でしたが、構成としてはこれらの塔頭・僧坊で成り立っていました。京都の大寺院など
でもよく見られる構成です。寛政
2(1790)年2月に奉行所に提出された『寺内人別書』(「藤井寺市史同編」)では、住僧尼の名が載るのは 松寿
院・梅香院・一之室・二之室・三之室だけで、隆松院・東福院・新光院は「無住」となっています。また、「宝寿院中絶」とあり、宝寿院
という塔頭もあったことがわかります。中絶したので、翌年提出の『絵図間数書』にはその名が無かったわけです。
 「得宝院」は少々特別で、これは道明寺の檀那であった豪商三井家3代目当主の三井八郎右衛門高房が、両親及び先祖代々の菩提を弔う
ために建立
寄進したものです。奧の院として元文2(1737)年に落成して先祖後霊牌が安置され、その後代々の位牌も安置されてきました。
三井家はその後も道明寺に多額の寄付をしており、明治以降により大資本家となった三井家は、神仏分離以降の道明寺を支え、大正年間の
本堂再建等に大きく貢献しています。得宝院は『絵図間数書』の記載では「奧院長福寺輪番所」の肩書きが付いています。なお、『寺内人
別書』の記載では省かれています。
 道明寺のもとである土師寺を建立した土師連八嶋を祀った「八嶋社」が、得宝院建立の翌年元文3(1738)年12月に建立されました。現在
の道明寺天満宮境内にあります。その裏面に彫られた文字の中に、建立に関わったと思われる当時の各塔頭・僧坊の名前が見られます。そ
の中には、「眉間院・來迎院」という塔頭名があります。半世紀ほど後の 18)図には載っていない塔頭名です。塔頭・僧坊は時代によって
その数が変化していたことが見て取れます。
 寛政2年
『寺内人別書』では18名の尼僧の名が列記されています。上は74才から下は9才までの老若尼僧ですが、8名が20才未満です。
役名に「浄者」と書かれた人が5名見られますが、仏教用語で言う「浄人」のことと思われます。広辞苑によれば「在俗のままで寺に住み
衆僧に仕える信者」のことです。一方、各尼僧の生国地名や親の名も載っています。戸籍に相当するものでしょう。出身や身分がわかりま
す。町人・農民と思われる親の名も多く見られますが、各院・室の院主クラスには公家出身者の並んでいるのが注目されます。出身と役職
だけ紹介します。「
京都高辻大納言殿猶子(城州八幡社司柏村真直息女)・松寿院老師和上」「京都小川坊城左大弁殿妹・松寿院主京都高
辻大納言殿猶子(城州八幡社司落合監物息女)・梅香院主
」「京都中山前大納言殿息女三之室院主」「京都庭田一位殿息女・一之室院主
南都春日社司富田三位殿息女・二之室院主」。城州八幡社」は山城国・石清水八幡宮のことです。高辻大納言の猶子(養子)となってか
ら道明寺に入っている尼僧が二人います。公家から迎えるという形が必要とされたのでしょう
。「左大弁」は太政官の幹部役職の一つです
これらの出身を持つ尼僧が多く在籍していることが、道明寺の御朱印所寺院としての格を示すことにもなっていたと思われます。
 弘化3(1846)年8月に道明寺村役人から御勘定所に提出された『道明寺領人数書』という史料が、『藤井寺市史第五巻史料編三』に載っ
ています。言うなれば村内在籍人口の報告書といったところです。これによれば、総人口は
520人で、寺中人数26人(尼)、門前寺役人24
人(男12、女12)、百姓人数
467人(男244、女226)、僧3人(道明寺とは別の寺)となっています。道明寺に属する居住者は合計50人だった
ことがわかります。幕末の時期はだいたいこれぐらいの人数だったのでしょう。明治3(1870)年6月に道明寺村役人から堺県役所に提出さ
れた『河内国志紀郡道明寺人数帳
(市史同編)では、「尼僧25人、俗女12人、男15人」の計52人の人数となっています。
 下の写真20)~23)は、現在の道明寺天満宮境内で見られる石灯籠に刻まれている文字です。いずれも江戸時代に有志信者から寄進された
ものです。「執次・取次」は、その塔頭・僧坊を受け入れ先として道明寺に寄進されたということです。松寿院・三之室は明治になって神
仏分離の時に現在の道明寺の場所に移転して道明寺に統合され、梅香院は同じ時に廃止されています。すべて移設することもできなかった
のでしょう。現在も、旧道明寺境内であった場所に石灯籠は静かに立っています。道明寺天満宮境内では、ほかにもかつての塔頭・僧坊の
名が入った石造物をいろいろと見ることができます。側面や裏面で建立年を知ることもできます。境内に行かれたら探してみてください。
20)「執次 松寿院」   21)「三之室 執次」(天保3年)   22)「御取次 三之室」   23)「取次 梅香院」
20)「執次 松寿院」   21)「三之室 執次」(天保3年)   22)「御取次 三之室」    23)「取次 梅香院」 
詳しい境内絵図-「河内道明寺繪圖」
 下の24)絵図は、
安永2(1773)年に再版で発刊された『河内道明寺繪圖』です。掲載レイアウトの都合で左右に分割しました。上の河内名
所図会の絵図よりも
30年近く前、19)図からは18年前の発刊で、水害の後にこの場所に境内を移してから約50年後の時期です。絵図全体
が名所図会よりもかなり大きいので、建物の様子などはかなり細かく描かれています。各施設や名所の名称も詳しく載っています。名所図
会の絵図とは微妙に異なる部分もありますが、境内の全体的な姿は概ね共通していると言ってよいでしょ
う。19)図とは比較的時期が近いの
ですが、こちらも微妙に違いがあります。なぜか塔頭・僧坊の名称は一つも載っていません。これは意図的としか思えません。
 手間暇を掛けた手彫りの木版刷りでこのような詳しい絵図が刊行されるということは、それだけ道明寺が世に知られた存在であったと思
われます。参詣した人にも、行ったことがない人にも役に立ったことでしょう。不要で余計なものが省かれているので、現代のように写真
を見るよりもわかりやすいかも知れません。
24)「河内道明寺絵図」(安永2(1773)年)・左図
24)「河内道明寺絵図」(安永2(1773)年)・右図
 24)「河内道明寺絵図」(安永2(1773)年)   下地が黄色の名称の建物は仏教関連の施設。境内地の西側は東高野街道に接していた。
                            『藤井寺市史・補遺編』付録絵図より
     一部着色・文字入れ等加工
旧道明寺境内を伝えるもの-近世と古代
 
かつての道明寺伽藍から消えていったものの名残となる写真を紹介します。写真 25)は江戸時代後期の道明
寺南大門で、上の絵図でも見られます。この南大門は現代まで残存していて重要文化財に指定されていました
が、門の中を通過しようとしたトラックが引っ掛けてしまい、修復不能なほどに損壊してしまいました。狭い
門ながらも大型車でなければ何とか通過可能で、一般市道として利用される道路でした。私も何度か乗用車で
通り抜けましたが、積み荷の高いトラックなどが通ったら危ないという感じはしていました。近年の自動車社
会の実情を考えると、門の保存保護のためにはもっと交通規制が必要だったのかも知れません。しかながら、
迂回路となる道路はかなり離れた位置にあり、生活道路であることを考慮すると規制は難しかったと思われま
す。残念なことだったとしか言いようがありません。
 写真 26)は、その旧道明寺南大門が建っていた位置を道路上に表示してある場所です。この旧南大門は「四
脚門
(よつあしもん・しきゃくもん)」という形式の門でした。
 旧道明寺南大門については、『藤井寺市文化財 第6号 近世の建築』(1985年 藤井寺市教育委員会)にある
説明を紹介しておきます。
 『
旧道明寺大門は建立年代が明らかでないが、 寛文12(1672)年の絵図では仁王門(二重門か)とあり、享保
20(1735)年絵図では大門とあって四脚門が描かれていて、この間に建て替ったことになる。 虹梁(こうりょう)の絵
25) 旧道明寺南大門
 25) 旧道明寺南大門
 『藤井寺市文化財 第6号
  近世の建築』より
(えよう)や木鼻(きばな)、柱上の絵様肘木は享保頃の様式的特色を示す。しかし、冠木(かぶき 扉口上の横木)上の梁や女梁(めばり)の絵様、
線形は江戸初期の様式を持ち、一部に古材の再用が見られる。もとは扉を吊り、門の両脇には築地塀が取り付いていた。

 写真 27)は、古代寺院・道明寺の頃の五重の塔の礎石です。『藤井寺市史第五巻史料編三』には、江戸時代に描かれた旧道明寺伽藍の絵
図が載っていますが、これには五重の塔が南大門と金堂の間に描かれています。この塔の西側には、 19)図や 24)絵図にもある「伊勢・八
幡・春日三社神」の西宮も描かれています。写真27)の礎石群は、かつて古代道明寺の塔があった場所のすぐ近くであると思われ
ます。上の
24)絵図でも「五重の塔礎」と書かれているので、江戸時代からこれらの礎石の場所は変わっていないことがわかります。
26) 道明寺南大門の跡(南より) 27) 古代道明寺の「五重の塔礎石」
          26) 道明寺南大門の跡(南より)   2014(平成26)年2月
            オレンジ色の中の白いタイル位置が南大門の柱跡。
           正面は道明寺天満宮表門。右手は地区施設の道明寺会館。
27) 古代道明寺の「五重の塔礎石」
  南より見た様子。右手に旧境内参道が通る。
 写真左手奧方向に西宮(三社神祠)がある。
             2015(平成27)年3月
神仏分離と道明寺-明治からの時代
 慶応3(1867)年12月に王政復古の大号令を発して「
諸事神武創業ノ始ニ原キ(もとづき)と宣言した明治新政府は、天皇を中心とした祭
政一致の政体の実現を目指しました
。そのために、古代律令時代にならって政府官制の中に神祇官(じんぎかん)を置き、神祇官事務局の下に神
社・神職を支配することにしたのです。翌明治元年3月には神仏号区別に関する「神祇官事務局達
が出され、諸国の大小神社に対して、
別当・社僧などの神勤している僧職身分の者の復飾
(還俗(げんぞく))が命じられました。これと前後して様々な布告や達が出されていますが、
それらは総称として「神仏判然令」と呼ばれています。
 復飾命令に次いで、太政官はさらに神社からの仏教色の排除を命じます。内容は、
権現・牛頭(ごず)天王などの仏語で神号(神社名)を唱
えることの廃止。
仏像を神体としている神社はこれをやめること。本地などといって仏像を社前に掛けたり、鰐口・梵鐘・仏具等を設
置したりしている神社では、早々に撤去すること、というものでした。
 さらに4月24日には「八幡大菩薩」の号を「八幡大神」に改称させ、翌閏4月4日には社僧の還俗を重ねて命じました。これらの政策は
新政府に登用された国学者や神道家たちの唱える復古神道論を軸として進められていきました。その先には神道国教化というねらいがあっ
たのですが、神仏判然令が意図したのは、神社における神道を復古神道に基づいて純粋化することであって、必ずしも仏教寺院の廃滅や弾
圧を目指したものではありませんでした。これに反して実際には、地方政府によって多くの寺院が廃寺に追い込まれるという現実が展開し
ました。
 道明寺に対して明治元年3月の神仏判然令が達せられたのは、同年
4月17日でした。『藤井寺市史第二巻通史編三・近現代』には、その
後の経過が詳しく述べられています。一之室・二之室・三之室から大坂や京都の政府重職に使いを派遣した
り、東京の中山忠能(明治天皇の
外祖父)
や坊城家(中山家・坊城家出身の院主がいた)などの公家と書状をやり取りしたり、この間における尼僧たちの驚きや苦悩の様子が想
像されます。何とか道明寺を存続させたいという願いで必死の思いだったことでしょう。『大阪府の地名
』(平凡社「日本歴史地名大系」 1986
年)
の「道明寺」の項に、これらの経過を簡潔にまとめた文があったので引用します。
〔近現代〕明治維新後の神仏分離により、道明寺と同天満宮は分離させられた。その過程で維新政府は、僧坊住尼に公家出身者がいるこ
となどからその実施に一時躊躇したようである。明治4年(1871)2月に堺県が政府に宛てた文書によると、政府は道明寺については「従前
ノ通可差置」との方針を一度出したが、道明寺のみを例外扱いすることにより他の社寺へ差障りが出ること、神仏混淆を認めないという神
仏分離の主意が損なわれることなどの理由で、結局、「天穂日命社及天神社卜仏堂伽藍卜境界ヲ相立、尼僧ノ中ニテ復飾神勤致様、県庁ヨ
リ篤卜説諭可致事」という決定が下され、同5年4月、一之室・二之室は神職家となり天満宮を継ぎ、松寿院と三之室は旧境内西方の東高
野街道を隔てた所に堂宇を移転させて道明寺を継いだ。
』というのが経過の概要です。
 神仏判然令
(神仏分離令)のねらいは「神社からの仏教色の排除」にあったのですが、神仏習合形態の寺社の中でも、道明寺のように寺院
が先に存在していて後に神社が統合されたケースでは、神仏分離による影響や負担は寺院側により大きなものとなりました。天神信仰の神
とされた菅原道真公と直接にゆかりを持つ道明寺にあっては、神仏習合はより深く自然なものだったのですが、その状態から仏教色を排除
するということは、事実上道明寺を排除するに等しい厳しい宣告だったのです。神社内に後から創建した寺
(神宮寺)の場合は、簡単に廃寺
とされて跡形無く消えてしまったものも少なくありません。また、境内を二分してまったく別個の神社と寺に仕切られた例も多くありまし
た。現在でも、寺と神社が隣り合って存在している例は全国に数多くありますが、元々神仏習合で一体だったものも多いのです。
 神祇官の道明寺の神仏分離を命じた達書を、堺県役人が道明寺村役人に読み聞かせたのは明治5(1872)年
3月20日のことでした。4月9
日には、仏勤を続ける三之室・松寿院と村役人に対し、堺県から本堂取り払いと退出が命じられました。願いによって本堂取り払いは猶予
されますが、両院の尼僧たちはひとまず客殿に移ります。本堂の諸仏は一之室の客殿を借りてそこに移し、本堂引き移しを県庁に願い出ま
した。そして、従来の境内地の西方に位置する西の畑
(旧乾堂跡)を新境内地に定め、新寺建立が始められました。ところが、本堂の引き移
しは費用が莫大なものであったため、本堂を売って得宝院を移して新本堂とすることになりました。
 こうして神仏分離が行われた道明寺は、道明寺本寺と松寿院・三之室の二つの寺坊の存続が認められ、明治6(1873)年9月に新境内地に
移転しました。また、一旦は寺院名の廃止を言い渡された道明寺でしたが、本山・仁和寺の尽力で「道明寺」の寺号が認められることにな
り、この時点で仁和寺直末の寺となりました。
 なお、住僧の復飾
(還俗)を受け入れて神勤に転換した一之室・二之室と梅香院は、天穂日命(あめのほひのみこと)社と天神社(天満宮)を引き継い
で「土師神社」と改称し、旧道明寺境内地をその境内として引き継ぎました。そして、二室と梅香院は廃絶となりました。
分離・移転してから後
 道明寺が神仏分離を迫られていた最中の明治4(1866)年1月、政府は「社寺領上知」の太政官布告を出しました。これは、社寺領につい
て、幕府・諸藩領と同様に知行権
(所領支配権)を政府に返上させ、国有化するものでした。この上知令の柱は、「社寺領の内、境内の他は
すべて上知させる」ことでしたが、一部例外規定もあり、従来通り社寺の所有が認められる土地もありました。
 道明寺もこの上知処分を受けることになりましたが、一部の寺領は例外規定によって従来通りの所有が認められました。その上知免除の
規定は、「上知田畑の内、社寺が直作するか、もしくは小作に預けてあるもので年貢・諸役を当該小作人が上納しているものについては、
従来通り社寺所有を認める。」というものでした。これによって道明寺は、従来の寺領である朱印地
21町4反2畝27歩3厘の内、境内地
4町
1畝10歩7厘と二番新田2町8反、得宝院地1町8反1畝余が残されました。しかし、残された境内地のほとんどは翌明治5年の神仏
分離によって土師神社の境内地となり、分離によって移転した道明寺にとっては大きな経済的打撃となりました。
 新境内地への移転についても、移転費が不足していたために明治6年の境内移転までに移すことのできなかった建物もありました。旧道
明寺境内にあった鐘楼堂がそれです。明治
25(1892)年に、やっとこの鐘楼堂が移されて鐘楼兼表門の鐘楼門に改造され、現在まで続く道明
寺山門となりました。
 境内・堂宇の移転や普請に当たっては、三之室も松寿院もその経費に随分苦労した様子が、『藤井寺市史第二巻通史編三』の記述からよ
くわかります。住職が自己所有物を売って返済金を工面した例なども書かれています。明治
20年頃に道明寺は大阪府知事に保存金の下賜
を願い出ています。神仏分離後、道明寺は名前を残すのみで、寺領はほんのわずかとなり、寺は廃亡の淵に立たされている、などの理由が
添えられています。鐘楼堂移転の前、明治
19年に本堂が大破しいているので、このことが財政的窮乏をより深めたと思われます。
 本堂大破後の修復事業は、三井家関係の寄付をもって大正8(1919)年に境内拡張が行われ、藤澤氏建立の多宝塔も加えて完工しました。
明治新政府と結んで政商となり巨大財閥を築いた三井家が、その新政府の政策によって存亡の危機に立たされた道明寺を厚く支援するとい
う、何とも言いがたい歴史の巡り合わせを感じずにはいられません。明治
44(1911)年4月、道明寺六条照伝住職の名前で本堂改築に向け
ての寄付を三井家に請願する書状が出されています。それに添えられた「由緒書」が『藤井寺市史第五巻史料編三』に載っています。そこ
には、過去に三井家によって厚い支援を受けてきた経過が、金額等も含めて克明に書かれています。一部を引用紹介します。
一 道明寺の儀は 往古より三井御家御代々の御帰依深く 中にも三井八郎右衛円高方君は 当山一﨟超運和上の代に至り 当山に奥の
院得宝院御建立 普請係りとして大阪両替店の内秋田清兵衛殿外一名出張元文二年落成 四月廿四日入仏供養 御先代御霊牌安置 常念仏
勤行仕侯 其後御代々御位牌も同様安置任候 依て衣料として半年毎に金百七十五匁宛 其后半年毎に金六百三十目宛 明治元年より同金
五円と改正 年々六月十二月の両度に 大阪三井両替店より御寄贈被下候 
(中略)』『一 当山の儀は 往古より大阪三井両替店は当山の
銀主と御成被下 臨時金員入用の節は 御振出に相成り尚亦当山の儀に付 万事御世話被下 御願向等には大阪本両御店御支配人御出張御
相談の上 取定居り侯事
』『一 道明寺の鐘は 太閤秀吉公の御寄附の処 鐘楼堂破壊に相成り 安政年中 大阪両替店の内吹田四郎兵衛
殿尽力を以て 一建立にて建築成被下候 明治二十五年元境内より引移し 有志の帰依を得て 鐘楼兼大門に改造 今の大門是れなり
(以
下略
 カタカナを平仮名に変えています) 』  この一部だけでも、道明寺にとって三井家が如何に存在の大きな支援者であったかがわかります。
 道明寺を引き継いできた二つの塔頭、松寿院と三之室は、大正4(1915)年6月に道明寺に統合されて今日に至っています。
 
昭和の道明寺-戦前の様子
 写真28)29)は、戦前の絵葉書写真です。28) にある寺号標は、上で既述の通り藤澤氏が昭和4年に建立寄進したものなので、この写真は
昭和4(1929)年以降に撮られたものということになります。道明寺がこの場所に移ってから
60年ほどが経った頃と思われます。写真 1)と
比べるとわかりますが、寺号標などの石柱が東を向いて建てられています。初めはこの位置に在ったことがわかります。ただし、左右の配
置が現在とは逆になっています。参道の東
(右)側には東高野街道の上り道が見えますが、当然ながら、当時は土のままの道でした。
 29)の本堂は、建て直されてからまだ
10年余りしか経っていない時期と思われます。本堂前の様子は今とは異なります。樹木は変わって
いて、石灯籠は現在はもっと本堂から離れた位置にあり、石畳の形状も変わっています。そして、現在の本堂前には富岡鉄斎の書蹟ででき
た寺号標が立っていて、正面には常香炉が設置されています。写真の着物姿の参拝が時代を感じさせてくれます。
28) 戦前の道明寺山門前の様子(南より) 29) 戦前の道明寺本堂の様子(東より)
28) 戦前の道明寺山門前の様子(南より)(戦前の絵葉書写真)
    藤澤氏寄贈の寺号標があり、昭和4年以降の写真と思われる。
29) 戦前の道明寺本堂の様子(東より)(戦前の絵葉書写真)
     本堂前の様子は現在と少し違う。寺号標はまだ建っていない。
道明寺名物-道明寺糒(ほしいい)
 写真 30)は、藤井寺市の『広報ふじいでら』2016年11月号に掲載された記事にあったものです。道明寺が古くか
ら製造していて
寺の名物として売られていた「道明寺糒」の看板です。看板の右下には河内国志紀郡道明寺村
とあり、左下には「
製造所 道明寺」とあります。道明寺糒の右側には「大日本元祖、左側には「河内名産」と
あります。この写真と道明寺糒についての記事の一部を紹介します。
嘉永4年(1851年)にロンドンで開催された万国博覧会以降、多くの万国博覧会が世界各地で開催されていますが、
慶応
3年(1867年)にパリで開催された万国博覧会は、日本が初めて出展した博覧会で、そこに道明寺の糒が出品され
たことをご存知でしょうか。
 慶応
3年と言えば、日本では徳川幕府から朝廷に大政奉還され、坂本龍馬が京都の近江屋で暗殺された年です。
そんな社会情勢が混沌とした幕末の日本で
したが、遠く離れたフランスのパリでは華やかな万国博覧会が開催され、
しかも道明寺の糒が出品されていたことに驚きませんか。そして、道明寺の糒が出品されていたことを示す看板が
今でも道明寺で大切に保管されています。
 看板は、縦
105㎝、横45㎝ の大きな木製の一枚板で、今は屋内に保管されていますが、元々は門の柱に掲げら
れていました。そこには「大日本元祖河内名産道明寺糒」の墨書きの文字とともに、パリ万国博覧会や明治28年
(1895年)に開催された京都の内国勧業博覧会で受賞したことが書かれています。注目していただきたいのは、受賞
30) 道明寺糒の看板
30) 道明寺糒の看板
の文字の左右にそれぞれのメダルが貼られていたことです。今では、メダルは看板から外して保管されてい
ますが、パリ万国博覧会のものが直径8㎝、内国勧業博覧会のものは少し小さく直径6㎝ほどです。
 多くの方が道明寺の糒をご存知だと思いますが、少しだけ簡単に説明すると、糯米
(もちごめ)を原料とするこ
とが特徴で、それを寒気で2日間水に漬けた後に蒸して乾燥させ、さ
らに20日間ほど天日に干して、石臼で
粗びきして製造されました。言わば、インスタント食品の元祖で、今は、道明寺などで販売され、海外旅行
に携帯して空腹を満たす方もいるようです。
 看板は、骨董的な雰囲気で経年変化し、長い歴史を感じさせます。そして、道明寺の糒が日本のみならず
海外でも高い評価を受けたことを今に伝えています。
 ちなみに、冬場の御開帳日だけ、糒入りのチョコレートが道明寺で販売されています。

 「道明寺糒」の文字の上にある小さな文字列が、受賞のことを書いた部分です。円の形はメダルをはめて
あった跡です。随分古くに国際デビューを果たしていたことには驚かされます。もともとの製造所が道明寺
村にありそこから広まったので、道明寺糒は現在では「道明寺粉」として広く知られており、おもに和菓子
の材料としてよく利用されています。なお、道明寺糒にはもち米が使用されています。
31) 道明寺糒(道明寺販売)
31) 道明寺糒(道明寺販売)
 「蓮土山道明寺」サイトより
朝廷・将軍にも献上された道明寺糒-「似せ糒」も登場
 『 藤井寺市史 第2巻・通史編二 近世 』によれば、道明寺糒は豊臣秀吉に毎年献上されており、江戸時代にも、朝廷や将軍家、堂上公
家、諸大名家などに献上する産物として道明寺で精製され、その残余のものが頒布されていたそうです。江戸時代前期の諸国の名産を記し
た『毛吹草』には、河内国の名産品として天野酒と共に記録されています。明治
35年当時の生産量は20余石
(約4立方m)でした。
 江戸時代には「似せ糒」が売られるという事件もありました。享保年間(1716-1736)には、大坂商人の中で勝手に生産をして
「道明寺糒」
の名を冠して販売する者が現れました。道明寺では、これを類似商品として取り締まって欲しいと大坂町奉行所に訴えています。また、宝
暦4(1754)年閏2月には、大坂の町家で「道明寺糒」の看板を勝手に出して商売しているものがあると、大坂町奉行所に訴え出ました。
 その内容は
、『道明寺糒は権現様
(徳川家康)に献上して以来、毎年献上し御奉書を頂戴し、大名方よりもお召しがあれば差し上げている。
また、その外にも道明寺まで来て要望するものがあれば、残っている糒を頒布しているが、商売として売り出したことはない。ところが、
近年大坂の町で道明寺に断りもなく「道明寺糒」の看板を出して商売しているものがあって困る。
』というものでした。町奉行所からの指
示で同年9月に道明寺が提出した報告文書には、「似せ糒売店」として5名の氏名と所在地が記されています。これらの業者が大坂町奉行
所から生産・販売の取り締まりを受けたかどうかは不明です。明治時代になると、門前町である道明寺村での糒生産や販売を道明寺が認可
しています。かつて寺領であった村の人々への特別サービスのようなものだったのでしょうか。
近代以降の道明寺糒
 「糒」の語源は「干し飯
(ほしいい)」「乾飯(ほしいい)からとされますが、文字通り「
飯」つまり炊き上げた米を乾燥させてものが「ほしいい」です。昔から旅や戦の
時の携行糧食などに利用されてきました。つまり、保存食・非常食として重宝さ
れてきたものです。
 現代に至って、太平洋戦争末期に軍の要請を受けた食品会社によって現代の干
し飯とも言える「アルファ化米」が開発され、約3億食に相当する約
27,000ト
ンが提供されたと伝わります。加水・加熱処理によってアルファー化デンプンと
なった米を乾燥させるという原理は糒と同じですが、糒が天日乾燥でゆっくり乾
燥させるのに対し、アルファ化米は工場で大量を急速に人工乾燥させて製造され
ます。戦後は民生用に用途が変わり、登山・キャンプの携行食や学校給食用など
に利用されてきました。現在ではレトルトご飯の消費も増えていますが、アルフ
ァ化米は長期保存がきくため災害時の非常食としても貴重な存在です。
 最近読んだ本で興味深いことを目にしました。日清戦争論』(原田敬一 本の泉
社 2020年)で、日清戦争に動員された陸軍第2師団
(仙台市)の兵士に給与された
「武器及び被服雑具」の一覧が紹介されています。武器や被服類、生活用品など
 32) 明治時代中頃の糒製造所の様子
     
「大日本 元祖 河内名産 道明寺糒
       志紀郡道明寺村 製造所 道明寺」
     『河内国商工便覧』(上田利平著・出版 明22年)より
と共に『道明寺糒 六合』という一項目があります。明治新政府が誕生してから、我が国が最初に経験する対外近代戦争でしたが、兵士の携
行食糧として昔の戦と同じように「道明寺糒」が利用されていたことは意外でした。しかし、米食を主食とする我が国では、アルファ化米
が登場するまでは「糒」が貴重な携行保存食であったこともうなずけます。欧米のように小麦粉で作る乾パンがまだない時代には、自然な
ことだったのかも知れません。おそらくは、最後の内戦であった西南戦争の時にも、初めて実戦に臨む徴兵制軍隊に「道明寺糒」が給与さ
れたのではないでしょうか。
 戦後にアルファ化米の用途が広がり、さらに真空凍結乾燥技術などの新技術の開発により、保存・携行食品は大きく進歩しました。災害
時の非常食も様々なものが開発されています。そのような技術的・社会的変化の中で、道明寺糒の存在位置も変わってきました。その用途
のほとんどは、料理材料、特に製菓材料として用いられるようになりました。軍用に使用される場面も必要もなくなり、極めて平和的なお
菓子作りの世界で道明寺糒が活躍している様子に、何かホッとしたものが感じられます。
 「道明寺糒」については、道明寺公式サイトでも説明されています。そちらもご覧ください。     アイコン・指さしマーク 公式サイト「道明寺」
桜 餅(もち) の こ と
 余談ですが、道明寺粉を用いた和菓子の代表として「道明寺桜餅」が挙げられます。大阪・京都を中心とする関西や全国の多くの
地域では、桜餅と言えばこれが普通なので「桜餅」としか言いませんが、関東地方などでは江戸風の桜餅と区別して「道明寺餅」や
「道明寺」と呼ばれるようです。「道明寺」という固有名称を桜餅から知った人も多いと思われます。
 「道明寺」という固有名称を少女漫画の登場人物で知ったのは比較的若い世代の人たちで、本来の寺の名称や地名・駅名として知
っているのは、藤井寺市近辺や近鉄南大阪線・長野線沿線に住む人、或いは南河内地域に通学する大学・高校生、通勤する人々など
でしよう。古くには謡曲や歌舞伎に登場する名称として知られていました。
 現在の全国的な分布では、関西風の道明寺桜餅を「桜餅」として販売している地域の方が圧倒的に多いそうです。東京を中心とす
る関東地方で「桜餅」と呼ばれるのは、小麦粉の焼き皮で餡をはさんだ関東風の桜餅で、関東地域以外では「長命寺餅」とか「長命
寺」などとも呼ばれるようです。どちらの桜餅にもお寺の名前の付くところがおもしろいと思います。
 長命寺桜餅は材料でも形状でも、一般に言う「餅」のイメージか
らはやや離れる感じがします。この餅は
江戸長命寺(現墨田区向
島)
の門番であった山本新六が門前で山本屋を創業して売り出したの
が始まり
と伝わります。江戸時代中頃近くの1700年代前期のことです
が、桜の葉ではさんだこの餅は、やがて江戸で人気の菓子となって
いきました。
 この江戸の桜餅の人気を知って、大坂北堀江の土佐屋が天保年間
(1830~1844年)に売り出したと伝わるのが、「道明寺桜餅」です。
32) 関東風の長命寺桜餅(左)と関西風の道明寺桜餅(右)
 33) 関東風の長命寺桜餅(左)と関西風の道明寺桜餅(右)
 道明寺粉というもち米を用いて作るこの桜餅は、昔からの和菓子の製法にも合うことから各地に広がっていきました。もともと、
それ以前から道明寺粉で作った餅を椿の葉ではさむ「椿餅」があり、それが下地となっていたとも言われます。江戸の桜餅に遅れる
こと約
100年ですが、道明寺桜餅は現代に至っては桜餅の主流となっています。ちなみに、現在両方の桜餅に使用されている桜の葉
の多くは、静岡県の伊豆半島で生産されるオオシマザクラ
(大島桜)の葉で、他の桜の品種よりも葉がやわらかくて毛が少ないのが特
徴だそうです。塩漬けにすることで、生の葉にはない独特の香りが出るそうです。
 私ごとですが、藤井寺に住んで働くようになるまで、私は道明寺桜餅を知りませんでした。お店で初めて見た時、「えっ!これが
桜餅?」と少々驚きました。西日本にある私の郷里と周辺地域は、飛び地のようにその一帯だけ関東風の焼き皮ではさむ桜餅が普及
していました。何でも、江戸時代、郷里の隣国の大名家の何代目かの殿様が茶の湯に熱心な方で、参勤交代で江戸詰の時に親しんだ
桜餅を国元の城下にも持ち込んだ、と伝わります。茶の湯が盛んになったことで、この地域では和菓子作りが発達していたのです。
また、私の両親は敗戦後に父の郷里に移るまで東京近郊に住んでいたので、関東風の食べ物に馴染んでいました。そんな訳で、私が
幼少期から見慣れていた桜餅は、遠い東京の「長命寺餅」の姿だったのです。
 自家用に小麦を栽培していたので小麦粉が豊富にあり、母が太鼓まんじゅうや桜餅をおやつによく作ってくれました。パンも日常
的に作っていました。中に入れる餡も、これまた自家製の豆で作ったこし餡でした。私としては駄菓子屋で買うお菓子の方がずっと
楽しみだったのですが、生活スタイルの変わった現在の眼で見ると、贅沢なおやつだったのかなとも思います。家計の助けに作って
いる作物を利用し、現金支出を少しでも抑えようとする母親の努力だったと思います。いろいろあった手作りおやつの中では、桜餅
が私は一番好きでした。もっとも、桜の葉だけは手に入らないので葉無しの桜餅でした。それでも食紅で色付けされた焼き皮はきれ
いな桜色をしていました。この焼き皮の桜餅は少数派で、関西では見かけないものだと知るのはずっと後のことでした。
 幼心に焼き付いた印象というのは強いもので、今でも私は焼き皮の桜餅を見るとつい買ってしまいます。私にとっては、「関東風
桜餅」や「長命寺餅」ではなく、「母の桜餅」なのです。たまに東京方面に出かけると必ず買い求めます。おみやげではなく、自分
用にです。最近帰省した時に郷里のスーパーで餅菓子売り場を見ると、昔ながらの焼き皮桜餅と道明寺餅の両方が売
られていました。
「道明寺餅はついに我が故郷にまで入り込んでいたか!」と、少々複雑な気持ちになりました。聞くところによれば、関西を拠点と
する製パン会社が桜餅販売にも進出し、これが道明寺餅を全国により広めることに影響したと言われているそうです。
 現在も私は日常的に桜餅をよく買います。桜の季節に関係なく年中売られているのが有り難いと、つい手を出してしまいます。も
ちろんこの地域で手に入るのは道明寺餅だけです。普段買う和菓子と言えばほとんどが桜餅ですが、もうひとつだけ買うものがあり
ます。「かしわ餅」です。毎年端午の節句が近づくと、これも母が作ってくれました。私には、これも「母の餅」なのです。

【 参 考 図 書 】 『 藤井寺市史 第2巻・通史編二 近世 』     『 藤井寺市史 第2巻・通史編三 近現代 』
『 藤井寺市史 第5巻・史料編三 』       『 藤井寺市史 第10巻・史料編八中 』
『 藤井寺市史 補遺編 』  (市史各巻・編 藤井寺市発行)
『 藤井寺市文化財 第6号 近世の建築 』(藤井寺市教育委員会発行 1985年)
『 河内名所圖會 』(柳原書店〈現柳原出版〉 1975年)
『 日本歴史地名大系・大阪府の地名〈藤井寺市-道明寺 』(平凡社  1986年)
『 神々の明治維新 』(安丸良夫著 岩波書店  1979年)
『 河内国商工便覧 』(上田利平著・出版 明22年)              〈 その他 〉

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