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長野神社
  長野神社(ながのじんじゃ) 《 延喜式内社 》 〈 元村社(旧藤井寺村) 1908(明治41)年2月辛國神社に合祀されて廃社 〉
  《祭神》 ・素盞鳴命(すさのおのみこと)  ( 江戸時代は午頭天王(ごずてんのう)が祀られていた)
  紫雲山・葛井寺(大阪府藤井寺市藤井寺1-16-21)境内の南西隅部分に存在していた
神社合祀で消えていった「長野神社」
 明治時代末期に辛國
(からくに)神社に合祀されて廃社となり、現在は存在しない神社です。しかしながら、平安時代制定の延喜式内社に列せ
られていた由緒ある古社でした。『延喜式神名帳』では「河内国志紀郡」に分類されていますが、長野神社が在った藤井寺村は丹南郡で、
延喜式制定のころは丹南郡の地域は「丹比
(たじひ)郡」でした。明治15(1882)年作成の河内国丹南郡藤井寺村誌』(『藤井寺市史 第9巻 史料
編七
)に『河内国丹南郡藤井寺村 本村昔志紀郡ニ属ス 後本郡ニ属ス 年暦不詳‥‥』という記述が見られます。このことから、長野神
社が延喜式神名帳に記載された時には、藤井寺村は志紀郡に属していたのだとわかりました。

 長野神社は廃社になるまでは旧丹南郡藤井寺村の村社(明治初期制定の社格)でした。江戸時代には牛頭天王が祀られていましたが、明治
の神仏分離によって祭神が素盞鳴命に変えられました。牛頭天王を祀る牛頭天王社は江戸時代に全国でたくさん創建されたそうです。
 牛頭天王は神仏習合の神で、江戸時代には全国で多くの祇園社や天王社で祀られました。明治初期の神仏分離令
(神仏判然令)によって全
国の神社から仏教色が排除されましたが、その時に、神仏習合の祭神は本来の日本の神とされる祭神に変えられました。中には神社名も変
えさせられた例があります。京都の「感神院祇園社」が「八坂神社」に変わったのはその代表的な例でしょう。
 神仏習合を理論化した本地垂迹説では「牛頭天王」は「素盞鳴命」の本地とされていたことから、牛頭天王に代わる祭神は素盞鳴命であ
るとされたのです。同様に祭神が素盞鳴命に変わった神社は全国にたくさんあり、祭神を素盞鳴命とする神社が全国で一気に増えました。
 祭神を素盞鳴命として再スタートした長野神社でしたが、それから30年足らずで姿を消すことになってしまいました。 1906(明治39)年
から発せられた神社合祀に関する一連の法令(神社合祀令)をもとに、政府は全国で神社の合祀統合・廃社を政策として進めていきました。
通達では「特殊な事情があるもの、および特別の由緒書があるもので維持確実なものは合祀に及ばない。」としたのですが、その「特別の
由緒」として例示した5項目の中に、「『延喜式』および『六国史』所載の社」がありました。長野神社はこの「特別の由緒」を持つ延喜
式内社なので合祀の除外対象となったはずですが、最終的には明治41年2月、辛國神社に合祀されて廃社となりました。もう一つの「維持
確実なもの」という部分が障壁となったのではないかと思われます。
 藤井寺市域では長野神社のほかにも、同じ時期に他の神社に合祀されて廃社となった神社が5社ありましたが、長野神社以外は戦後にな
ってから元の場所で復社されています。長野神社が復社されなかった理由はよくわかりません。
長野神社を伝えるもの
 写真①~④は、長野神社が合祀された辛國神社の境内で現在も見ることができる石鳥居と石灯籠です。写真①は辛國神社参道の中ほどに
ある二の鳥居です。写真②はその石鳥居の両柱に彫られている文字です。長野神社明治廿七年九月再建」と刻まれています。長野神社
の廃社後に辛國神社に移設されたものですが、再建からわずか
13年半ほどで長野神社鳥居の役目を終えたわけです。
 写真③は一の鳥居と二の鳥居の間で参道の両側に建てられた一対の石燈籠(常夜燈)です。2基の燈籠の表側には「
(献)」の文字があ
るので、氏子や崇敬者から寄進されたものなのでしょう。火袋
(灯りを入れる部分)の台部分の裏側では、2基とも「長野神社」の文字がは
っきりと読み取れます
(写真④)。この燈籠も長野神社廃社の時に辛國神社に移設されたものと思われます。
 ただ、「長野神社」の文字については疑問もあります。寄進者名や建立年月日などはよく彫られますが、このような燈籠にわざわざ寺社
名を入れることは普通はしません。また、台の大きさに対して文字が大きすぎ、つり合いが取れていません。おそらくは、長野神社が廃社
になって鳥居や燈籠の辛國神社への移設が決まった時に、長野神社の燈籠であった証を刻字によって残そうとしたものと推察されます。鳥
居の「長野神社」も同様に考えられます。この石灯籠の柱には建立時期を示す文字も彫られていますが、「
明治十
‥‥」とだけ読み取れま
した。少なくとも、石鳥居よりはかなり以前に建立されていたことがわかります。
 『藤井寺市の神社
(藤井寺市文化財11号 1990年)記載「辛國神社」の項には、境内には「牛頭天王」とある元禄17(1704)年の燈籠がある
との説明が見られます。これも長野神社から移設されたものですが、どの燈籠かよくわかりませんでした。いずれにしても、今日私たちが
目にすることのできる長野神社の遺物は、他所に移されて残るこれらの石造物のみです。         「辛國(からくに)神社」
① 辛國神社の二ノ鳥居(東より)   ② 旧長野神社の鳥居に刻まれた文字    
① 辛國神社の二ノ鳥居(東より)
          2018(平成30)年2月
  ② 旧長野神社の鳥居に刻まれた文字
  (西より)
     2013(平成25)年9月 
  ③ 旧長野神社から
  移設された燈籠
 
  ④ 燈籠に彫られた「長野神社」の
  文字   2022(令和4)年4月③も
 
江戸時代の長野神社-『河内名所圖會』に見る
 ⑤図は、享和元(1801)年に出版された『河内名所圖會(か
わちめいしょずえ)
』の「葛井寺(ふじいでら)の絵図を切り出したもので
す。イメージしやすいように私の個人的想像で彩色を施し
てみました。

 長野神社が在ったと考えられる葛井寺の南西隅には、四
角い池とその中の小さな祠が見えます。しかし、これは長
野神社とは考えにくい様相です。その北側に、樹木に囲ま
れて小さな二つの建物が見えています。これが牛頭天王社
なのではないかと思われます。東に向いて拝殿のような建
物があり、その奧に本殿と思われる社が見えています。
 『河内名所圖會』の「紫雲山葛井寺三宝院」の説明記述
の中に、『
鎮守 牛頭天王、荒神祠、弁財天を祭る。』と
あります。「牛頭天王」が長野神社の祭神であることはす
ぐわかります。「弁財天」が四角い池の中の社の祭神だと
思われます。川や湖、池の中に祀られるというのは、弁財
③ 江戸時代の絵図に見られる辛國神社と葛井寺の南西部(南西より)
 ⑤ 江戸時代の絵図に見られる辛國神社と葛井寺の南西部(南西より)
       『河内名所圖會』(1801年)の絵図「葛井寺」左ページより切り出し
    辛國神社には「三社」の名が添えられている。東隣には古刹・葛井寺がある。
    牛頭天王社と弁財天の名称は筆者の推測による。  彩色・文字入れ等一部加工
天の場合には多く見られる形です。            「葛井寺」
 『河内名所圖會』の「長野神社」の記述では、「(くわ)。延喜式出。葛井寺の側(かたはら)
にあり。此所の本居
(うぶすな)神とす。」とあります。「鍬」の記載は、その神社の祈年祭
に朝廷から鍬の奉献が加えられたことを意味します。延喜式神名帳に記載
があるのです。
江戸時代から藤井寺村の本居神
(氏神)として大切な存在であったことがわかります。
 『河内名所圖會』出版より少し前の宝暦8(1758)年に作成された『河内丹南郡藤井寺
村明細帳
』(『藤井寺市史 第7巻 史料編五』)には、『一 氏神牛頭天王 一社 境内 拾五
(約27m) 弐拾六間(約47m) 除地  外ニ 畑三畝斗(約300㎡)  御供田地ニ而 ‥‥
(以下略)
と記されています。藤井寺村の一社が長野神社だと思われます。記載のデー
タで計算すると、境内地の面積は約
385(約1,270㎡)となります。神仏分離以前の江
④ 葛井寺境内の南西隅部分(北東より)
⑥ 葛井寺境内の南西隅部分(北東より)
  以前は児童遊園があった   2015(平成27)年10月
戸時代なので、祭神は「牛頭天王」とはっきり書かれています。
 宝暦8年
藤井寺村明細帳』より70年ほど後の1829(文政12)年に紫雲山剛琳寺(葛井寺)の名で提出された『起立書(『藤井寺市史 第7巻
史料編五
)では、境内社について次
のように記載されています。『一 鎮守牛頭天王 梁行四尺五寸(約1.36m) 桁行七尺四寸(約2.24m) 拝殿
梁行一間半
(約2.73m) 桁行三間(約5.45m) 建坪数四坪半(約15㎡) 宮地 南北五間(約9.1m) 東西八間(約14.5m) 坪数 四十ニ坪二歩五厘(約
140㎡)
宝暦8年藤井寺村明細帳』記載のデータに比べると、宮地の面積がずいぶんと少なくなっています。『藤井寺村明細帳』の境内
地は葛井寺境内地とは別の場所だった可能性もあります。
『起立書』ではさらに『一 同(鎮守)弁財天宮 桁行三尺壱寸(約0.94m) 梁行 二尺
三寸
(約0.7m) 四方池也』とあります。「四方池也」と書かれているので、上の『河内名所圖會』にある池の中の社はやはり弁財天だとわ
かります。『起立書』には他にも「
鎮守荒神宮九頭龍・金毘羅・稲荷 三社合殿」という境内社が載っていますが、いずれも書かれてい
る寸法が小さいので長野神社の比定の対象にはならないと思います。
 『藤井寺市史 第2巻 通史編三』の「明治維新と葛井寺
(P.107)には次のような記述も見られます。『ところで、長野神社は宝暦八年の
「河州丹南郡葛井寺村絵図」によれば、葛井寺の境内西南隅に「氏神」と記載されている。そして時代が下って文化・文政年間に寺の塀が
つくられた際にその内に囲われた。
』。
近代の史料から
 明治3年に剛琳寺が堺県に提出した『明治三年三月差出 寺中諸建物間数書(『藤井寺市史 第7巻 史料編五)では、『一 鎮守牛頭天王
 桧皮ぶき 四尺
(約1.2m)四方  一 拝殿 瓦屋根 梁行弐間(約3.6m) 桁行四間半(約8.2m)とあります。文政12年の時よりも本殿は小さく
なっており、逆に拝殿は一回り大きくなっています
。40年ほど経っているので建て替えられたものと思われます。本殿は「桧皮(ひわだ)ぶき
で拝殿は「
瓦屋根」という形状は、『河内名所圖會』の様子と一致しています。明治3年作成の書類ですが、まだ「牛頭天王」と書かれて
います。神仏分離が実行される前に、寺院の建物の種類・形状・大きさなどの報告を求めたものと思われます。
 前掲の明治15年『河内国丹南郡藤井寺村誌』には藤井寺村の神社として次のように記されています
社 長野神社 式内社格村社 社
地東西拾弐間
(約22m) 南北六間(約11m) 本村ノ西ノ方ニアリ 素戔嗚尊ヲ祭ル 祭日七月二十日十月九日 社地中樟(くすのき)松楊(やなぎ)梅等
ノ老樹アリ
』。宝暦8年明細帳の記述に比べると、面積が約1/5になっていることがわかります。明治初期の神仏分離の時期に葛井寺の境
内地と物理的に区切る措置が取られたものと思われます。祭神も「
素戔鳴尊(素盞鳴命)」に変わっています。神社の境内地にクス・マツ
ヤナギ・ウメなどの老樹があると書いています。老木なので松やクスはかなりの大木だったのではないでし
ょうか。この村誌の作成から26
年後に、長野神社は姿を消してしまいました。
 もう一点の史料、明治
10(1877)年作成の『二 河内第一大区二小区神社書上』(『藤井寺市史 第9巻』「十 宗教〔神社・祭事〕」)という史
料には、地域内の各神社の社格や氏子の戸数、所属村が列記されています。長野神社は『
村社 長野神社 氏子七十九戸 藤井寺村と書
かれています。今日の人口から見ると
79戸の氏子数は少ないように思えますが、藤井寺市域内の15社の中では9番目の氏子数です。最多
は黒田神社
(北条村)360戸で、100戸を超える神社は他に6社あります。当時の村は合併前で、江戸時代と同じ14ヵ村でした。
 現在の葛井寺境内で長野神社が在ったと思われる南西部分には、クスの大木がそびえています。おそらくは、このクスが上記のクスなの
でしょう。このクスの傍らに長野神社があったものと思われます。クスの古木は御神木として各地の神社に見られますが、寺院の境内地そ
のものには普通はほとんど見られません。このクスの大木が神社の存在していたことをはっきりと伝えているように思えます。
 境内のこの部分はずっと以前には児童遊園となっていましたが、現在は大きな施設は何もなく、「西国三十三所お砂踏み」の石標や藤棚
が並ぶ空間となっています。かつてここに神社が在ったことを知る人も、ずいぶんと少なくなっていることでしよう。
 
長野」という名前
 長野神社という名称の「長野」とは何でしょう。辛國神社の御由緒に出てくる日本
書紀の「餌香長野邑
(えがながののむら)という地名に由来すると見る説が有力です。この地
名と神社の創建について
『藤井寺市の神社』(藤井寺市文化財11号)では次のような見解
が示されています。
 『
しかし社名は古代の当地域名と一致しており、また社名からすると、古代では「新
撰姓氏録
(河内国諸蕃)の魏司空王昶(ぎのしくうおうえい)を始祖とする長野連(ながののむらじ)の祖神
を祀った可能性が強い。
』。「新撰姓氏録(河内国諸蕃)」というのは、河内国を本
拠とする渡来系氏族の名簿みたいなものです。つまり、渡来系氏族を先祖とする長野
連が祀った氏神、というのが有力な創建の歴史です。「長野」は地名でもあり氏族名
でもあったわけです。
 では、「餌香長野邑」とはどの場所だったのでしょうか。ずばり「この場所」と示
すような史料は見当たりません
。「長野邑」とよく似た古代の地域名表記に「長野郷」
があります。これについて、
藤井寺市史第1巻 通史編一』の「第3章第三節 河内
国と郡郷制と人々 一河内国と郡郷制」で次のような記述があります。『
藤井寺市は
古代の行政区域でいうと志紀郡の南半分と丹比郡の一部に該当する。『和名類聚抄
(わ
みょうるいじゅうしょう)
』の郷名では志紀郡のうち、長野・拝志(はやし)・志紀・(井於(いのえ))・土
(はにし)の五郷、そして丹比郡十一郷のうち野中(のなか)郷・丹下(たんげ)郷の全体或いは一
部が市域に含まれよう。
‥‥』。そして、「長野郷」に対比される現在の地名として、
藤井寺市内の「古室
(こむろ)
・沢田・岡・藤井寺」の各地区が挙げられています。いずれも旧
村であった大字
(おおあざ)名ですが、現在の藤井寺市域のほぼ中央部に当たる範囲です。
⑤ 葛井寺周辺の昔の小字区分
 ⑦ 葛井寺周辺の昔の小字区分   明治前半期
   『藤井寺市史第10巻 史料編八上』掲載「大字
・小字図」
  を基に作図。は現在の社寺境内の範囲。
 藤井寺市史第10巻 史料編八上』に掲載の「大字(おおあざ)・小字図」を見ると、旧藤井寺村の北部に「長野」の小字名があります(⑦図)
この小字の場所は、現在の葛井寺境内地の南寄り約7割ぐらいを占める範囲です。藤井寺村の中心的存在である古刹
葛井寺の在る場所が
「長野」であったことから、やはり藤井寺村は「長野邑・長野郷」の中心もしくは中心付近であったと考えたくなります。この「藤井寺村
字長野」の南西隅に在った神社が「長野神社」です。“長野にある長野神社”、当然とも言える名前だと、素朴に思います。
 ⑦図の「春日山」という小字はその多くが式内社「辛國神社」の社領地だったと思われます。辛國神社は江戸時代には「春日社・春日大
明神」と呼ばれていました。「春日」の名は現在の地区名である「春日丘」に引き継がれています。由緒ある「長野」の名が地名として残
っていないのは、少しばかり寂しく感じられます。
 なお、⑦図で「○○池」となっている小字は実際に池だった場所です。現在も池として存在するのは「新池」だけです。また、「川田池」
は全体が池なのではなく、
鉢塚古墳」の東側に「苅田池」がくっついている形状です。現在、苅田池は埋め立てられ、鉢塚古墳はユネス
コ世界文化遺産『百舌鳥・古市古墳群』の「構成資産No.24」に登録されています。
長野村」の時代-消えた村の名称
 長野神社が村社であった旧藤井寺村は、1889(明治22)年4月1日、市制・町村制施行に伴って旧岡村・旧野中村と合併して「長野村」を称
しました。上記の「長野郷」に対比される地区の内、「長野村」になったのは岡村・藤井寺村の2村だけです。この2村は当時は志紀郡で
はなくて、丹南郡
(丹比郡が分割された郡)に属していました。丹南郡に属する岡村・藤井寺村・野中村の3村が合併したわけです。
 「長野村」の名称は1896(明治29)年5月4日に「藤井寺村
」に改称されるまでの約7年間だけ存在しました。日本書紀餌香長野邑」や和名
類聚抄「長野郷」をルーツとする由緒ある村名でしたが、「藤井寺」や「葛井寺」の知名度にはかなわなかったということでしょうか。
 「長野村」が消えることになった決定的な要因としては、同じ旧河内国の中に古くから長野村
(現河内長野市の中心となった村)が存在し
ていたことが考えられます。1896(明治29)年4月1日、旧河内国地域の郡が統合・再編されて「北河内郡」「中河内郡」「南河内郡」が発足
しました。それまで「丹南郡長野村」と「錦部
(にしごり)郡長野村で区別できていた二つの長野村が、同じ「南河内郡」の中に存在することに
なったのです。混乱や不便さを解消するためには、どちらかの名称を変えるしかありません。新参者の丹南郡長野村が譲るほかはなかった
のでしよう。かくして、この現藤井寺市域から「長野」の行政区名は消えてしまいました。     「藤井寺市ができるまで」
今でも存在する「長野」
 行政区名としての「長野」は消えてしまいましたが、現在でも地名として「長野」が生きている名称があります。藤井寺市にある二つの
天皇陵です
。「仲哀天皇恵我長野西陵(ちゅうあいてんのうえがのながののにしのみささぎ)(岡ミサンザイ古墳)」と「允恭天皇恵我長野北陵(いんぎょうてんのうえがのながののき
たのみささぎ)
(市野山古墳)」です。どちらにも「恵我長野」という地名が入っています。「恵我」は「餌香・恵賀・会賀」とも書かれますが、
「長野」を含むもっと広い範囲と考えられています。現在の藤井寺市域のほかに松原市・羽曳野市の一定範囲に広がる地域だったと推測さ
れますが、はっきりとはわかっていません。「恵我」の付く天皇陵はもう一つあり、藤井寺市の南に隣接する羽曳野市内の「応神天皇恵我
藻伏崗陵
(おうじんてんのうえがのもふしのおかのみささぎ)(誉田御廟山古墳)」がそうです。上の二つと合わせて「恵我三陵」とも呼ばれたりします。この3陵が
分布する「恵我」地域の中に「長野」が存在していたわけです。 「岡ミサンザイ古墳」 「市野山古墳」 「誉田御廟山古墳」
 全国の陵墓の現在の名称は、明治初期から中期に宮内省が確定したとされますが、その主たる参考対象が古事記・日本書紀・延喜式でし
た。各史料で示された3天皇陵の陵名や所在地名は次の通りです。
仲哀天皇陵〔河内恵賀之長江(古)長野(日)・恵我長野西陵(延)〕、
応神天皇陵〔川内恵賀之裳伏岡(古)・蓬蔂丘誉田陵(日)・恵賀藻伏崗陵(延)〕、允恭天皇陵〔河内之恵賀長枝(古)・河内長野原(日)・恵
長野北陵(延)〕。これらの中に「長野」や「恵我・恵賀」がたくさん出てきます。古代からの由緒ある地名だとわかります
古事記に出てくる「恵賀之長江」「恵賀長枝」にある「長江(枝)」は、「長野」のことだとする説もあります。
 「長野」の地名が在ったことを強く印象付ける天皇陵の名称ですが、各天皇陵の実際の配置を見ると、上記の「長野郷」の
範囲に該当するのは仲哀天皇陵
(恵我長野西陵)だけです。しかし、允恭天皇陵も「長野郷」に隣接する位置なので、概ね「恵
我長野」の範囲に相当するということでしょうか。もっとも、これらの陵墓の天皇名の比定がそもそも誤っているとする学説
も多く見られます。
 もう一つ「長野」の付く名称を紹介しておきます。小字「長野」に葛井寺がありますが、この小字「長野」の少し南東側に
「南渓寺」という小さなお寺があります(⑦図)。浄土真宗大谷派の寺ですが、山号を「長野山」と称します。直接寺にお聞き
してはいませんが、小字名「長野」や「長野邑
長野郷」につながる名称だと思います。『藤井寺市史 第10巻 史料編八下』
掲載の「社寺建築 二寺院建築-南渓寺」の記事では、
由緒書によると、宝永7年(1710)に現在地へ移転したとあるが、旧所
在地については不明である。
とあります。藤井寺村にあって「長野を称するとき、由来となるのは「長野連・長野邑・長野
郷」のほかにはなかったのではないかと思われます。
  ⑥南渓寺の寺号札








 
 かつて「長野山」の山号を持つお寺がもう一つありました。ということは現在はもう存在しないのですが、ついでに紹介しておきます。
藤井寺市域ではなく、南に隣接する羽曳野市域にかつてあったお寺です。応神天皇陵(誉田御廟山古墳)の南に接して誉田(こんだ)八幡宮があり
ますが、ここは明治の初めまでは社寺一体の神仏習合形態でした。ここに在った宮寺が「長野山・護国寺」です。この場所が長野郷の一部
かどうかはわかりませんが、何らかの関連があったであろうことは推測できます。この護国寺は明治初期の神仏分離政策・廃仏毀釈運動の
中で廃寺にされ、「長野山」の山号も消えました。寺院としての堂宇もほとんどが廃棄され、現存しているのは南大門だけです。現在は誉
田八幡宮の南門となっていますが、一見して寺の山門であったことがわかる造りです。           「誉田八幡宮」
 

明治の神社合祀
 藤井寺市の長野神社は、明治政府の進めた神社合祀政策に従って辛國神社に合祀され、廃社となりました。この明治時代末期に進
められた神社合祀政策とはどんなものだったのでしょうか。神社合祀については、多くの研究者が研究成果を専門書として著してお
られます。詳しくはそれらの著書にお任せするとして、ここでは簡単に「明治の神社合祀」について紹介しておきます。
神社を減らす政策
 日露戦争後の国内では地方財政の悪化が続きその立て直しが強く求められました。また、明治20年代に町村制が施行されると、合
併によって新しい町村が多数誕生しましたが、その新しい町村内の住民の統合を進めることも為政者の側から求められました。そこ
で行われたのが、内務省が音頭を取って始められた「地方改良運動
(自力更生運動)というものでした。その中にあった一つが「氏
神の統一
(合祀)」だったのです。「町村民の精神的融和と統一をはかるため」として進められました。
 「神社合祀政策」とは、ひと言で言えば、「複数の神社を一つに統合させることで神社の数を減らす」というものです。ゆえに、
「神社整理」とも呼ばれたりします。もう少し詳しく言うと
、「複数の神社の祭神をその地域の中核となる一つの神社に合祀させる。
または一つの中核神社の摂社・末社にまとめて遷座させ、その他の神社を廃止する。」ことでした。
 明治政府が神社を統合・整理して数を減らそうとしたのには、大きく三つの理由が挙げられます。地方統治政策としての「神社中
心自治」、「財政負担の軽減」、「敬神強化」です。端的に言えば、「自治
(統治)と信仰とお金」の問題ということです。
「神社中心自治」は神社中心説と言われますが、町や村の中心となる神社を定め、この神社を住民たちの活動の中心とすることを
目指したものです。明治政府の「地方の自治は神社を中心に行なわれるべき」という考えに基づいていますが、背景に江戸時代の寺
(てらうけ)制度を否定し仏教色を排除しようという思惑も感じ取れます。根底には、事実上の神道国教化を目指した明治初期の神仏分
離政策が横たわっており、合祀政策も神社を国家の管理下に置いたことの延長線上にあると言えるでしょう。
 合祀政策により原則として一町村一神社にする基準が設けられました。神社の氏子区域と町村の行政区画を一致させることで、町
村で唯一の神社を地域活動の中心にさせようとするものでした。神社中心説では、同一氏子の地域が広がるため広範囲の住民が融和
して団結が強くなると考え、神社合祀により強い住民自治が確立できるいうと主張がなされました。
「財政負担の軽減」は「経済論」と言われるものですが、要するに神社の維持・運営の経費を抑えようということです。神社を廃
止して一つの神社に集めることで神社の維持・運営経費が削減でき、住民の負担も軽くすることができるという主張が住民に向けら
れました。政府としては、経費を集中させることで一定水準以上の設備・財産を備えさせ、神社の威厳を保持しながら継続的経営を
確立させるというねらいもありました。やがて神社が住民の心の拠り所から心の支配の手段に変わっていくきざしでもありました。
 一方、明治政府は神社神道は宗教ではなく
国家の宗祀」であるという国家原則を示しており、官社には経費として官費(保存金
供進金)
が支給されていました。府県社以下の社格の神社には地方公共団体から公費の供進を実現させるため、財政負担ができる程度
まで神社の数を減らすことが必要とされたのです。合祀の対象となった神社の多くは村社や無格社など、全国の村々に無数に分布し
ていた身近な“鎮守様”や“お宮さん”でした。これらの神社に対する地方の公費負担の軽減、それこそが神社合祀の最大のねらい
であったと一般的には捉えられています。住民の負担が軽減できるとする主張は、住民の気持ちを神社合祀の方へ誘導する方便の一
つでもあったと言えるかも知れません。
「敬神強化」は「敬神論」と言われるものです。神社を廃止して一つの神社に集めることで、神社の設備が充実し崇敬者の神社に
対する畏敬の念も増すのではないかと考えるものです。これは、氏子の中でも神社運営の中核となっている人や、日頃から神まつり
に崇敬の念が強い人々の心を揺さぶる主張でもありました。
の神社中心説を補強する関係でもあったと言えるでしょう。
合祀された神社とは-基準となった「神社神饌幣帛料供進制度」
 神社合祀政策については、一般に「神社合祀令」という用語が使用されますが、実際にはそういう一つの法令が公布されたわけで
はありません
。「神仏分離令」と同様で、関連する一連の勅令などの法令の総称として「神社合祀令」が便宜的に使用されています。
 
神社合祀令」の中心となったのは、1906(明治39)年に出された勅令第96号神社ノ神饌幣帛料供進ニ関スル件』と勅令第220
神社寺院仏堂合併跡地ノ譲与ニ関スル件』でした。に基づく規定により、合祀対象の神社と対象外の神社の事実上の基準が示
されました。では、神社や寺院の合併(合祀)で廃寺・廃社となった跡地を合併先の寺社に譲渡できるようになりました。ただし、
法令の中に「神社を合祀しなさい」という内容の条項や文言は一つもありません。つまり、神社合祀を直接的に定める法令が制定さ
れたわけではなく、政府によって政策として奨励されていた、ということなのです。
 勅令第96号神社ノ神饌幣帛(へいはく)料供進ニ関スル件』では、第一条 府
県は府県社、郡又は市は郷社、市又は町村は村社の神饌幣帛料を供進すること
を得 前項に依り神饌幣帛料を供進することを得へき神社は地方長官之を指定
(常用漢字平仮名を使用)』とあります。神饌は神前に供える飲食物、 幣帛
はその他の捧げ物のことです
(広義には幣帛は神饌を含む)。要するに、「府県
や郡、市町村は、一定の資格を持つ神社に対して神饌幣帛料として公費を提供
することができる。」という定めで、「神社神饌幣帛料供進制度」と呼ばれる
制度でした。1945(昭和20)年の敗戦の年まで続けられていきます。
 この勅令は官幣社・国幣社より下の社格であった府県社・郷社・村社を対象
としていますが、条文にあるように、供進を受けられる神社には一定の要件が
求められました。対象となる神社は次の通りです。
  1.延喜式内社、六国史所載及創立年代之準ずべき神社。
  2.勅祭社、準勅祭社皇室の御崇敬ありし神社。
  3.武門、武将、国造、国司、藩主、領主の崇敬ありし神社。
  ⑦ 勅令96号(左)と220号(右)・原本写真の一部
⑨ 勅令96号(左)と220号(右)・原本写真の一部
          1906(明治39)年に公布された
国立公文書館デジタルアーカイブ・御署名原本(明治39年)より
  4.祭神当該地方に功績または縁故ありし神社
  5.境内地150坪、本殿、拝殿、鳥居等完備し、50戸以上の氏子もしくは崇敬社を有する神社。
(地域によっては100坪とされた)
  6.前期各号のほか特別由緒ある神社
 供進を受けられる神社を残し、対象外の小規模神社は整理していった方がよいとする社会の風潮が生まれ、神社合祀の動きが進ん
でいきました。全国には上の6項の神社のどれにも当てはまらない神社がたくさん存在しており、特に「無格社」と呼ばれ村社にも
含まれない小規模神社が無数にありました。全国にあった約
20万社の神社の内、約95%に当たる18万9千社が無格社だったと言わ
れます。この膨大な数の無格社を合祀・統合によって大幅に減らそうというのが政府の神社合祀政策のねらいでした。政府の示す原
則通りに「一町村一神社」に合祀・統合すれば、全国から大変な数の神社が消えていくことになります。

 ②勅令第220号神社寺院仏堂合併跡地ノ譲与ニ関スル件』では、神社寺院仏堂の合併に因り不用に帰したる境内官有地は官有財
産管理上必要のものを除くの外内務大臣に於て之を其の合併したる神社寺院仏堂に譲与することを得
』とあります。神社神道は宗教
ではなく「国家の宗祀」であるとした明治政府は、全国の神社を国家管理のもとに置きました。それによって「境内官有地」となっ
のですが、この勅令によって、内務大臣の権限で廃社となった神社の境内地を合祀先の神社に譲与できる、と定めたのです。
 勅令第96号・勅令第220号の二つの勅令が公布されたことで、各地で神社合祀の動きが始まることになりますが、 勅令には「神社
を合祀しなさい」という内容の条項や文言は一つもありません。つまり、神社合祀を直接的に定める法が制定されたわけではなく、
政府によって政策として奨励されていった、ということなのです。
 この官僚的合理主義に基づいた神社合祀政策は、必ずしも氏子崇敬者の意に沿ったものとはなっていませんでした。当然のことな
がら、生活集落と行政区画は一致するとは限らず、所によっては合祀によって氏神が住民居住地から離れた遠い場所に移され、氏子
が氏神参拝に行くことができなくなった地域もありました。合祀に抵抗して拒んだ神社もありましたたが、所によっては半ば強制的
に合祀が行なわれました。
神社合祀の実際
 神社合祀政策は、1906(明治39)年に原敬内務大臣のもとで始められ、明治41年~42年の頃がピークとなりました。神社合祀の手続
きは、まず合祀する神社の氏子代表が役所に合併の申請をし、役所が許可を与えた後に御神体を合祀先の神社に奉安して、最後に合
祀が完了したことを役所に報告して終わる、という手順を取っていました。
 氏子が合併の申請をすると聞くと、神社合祀は氏子たちの自由意思によって決められ実行されたように思えますが、実際はそうで
はなく、地方行政官たちは自らの手柄の実績を高めるために政府の政策に貢献しようと、半ば強制的に合祀を進めていくことも多か
ったのです。つまり、神社合祀そのものを法令で決めて実行させたのではなく、「‥‥‥することができる」と定めた勅令の意図を
先取りするように、地方役人たちが次々と“神社減らし”を実現させようと、強引に住民に合祀の実行を迫ったというのが実態だっ
たのです。
 明治39年の第1次西園寺内閣の時に出された勅令によって動き出したた神社合祀ですが、当初は地域の実情に合わせてかなりの幅
を持たせたものでした。ところが、第2次桂内閣の内務大臣・平田東助が神社合祀の実行を強行に推し進めたため、神社合祀の動き
が加速されることとなりました。全国に約
20万社あったとされる神社の内、約8万社が1920(大正9)年までに廃社となり取り壊され
たと言われます。
 神社合祀が実行された結果を見ると、政策の実行が知事の裁量に任されたため実際に廃社になった度合いには、神仏分離の時と同
様にかなり地域差がありました。当時の府県知事は中央政府が任命して派遣した官僚で、政府の政策を府県民に示して実行するとい
う、統治機構の中間機関でした。選挙で選出された現在の知事のように有権者の意向
(民意)を汲み取ることは必ずしも求められませ
んでした。政策実行の実績を上げたいという知事たちの競争心が働いたことは想像に難くありません。
 合祀政策の実行が特に甚だしかったのは三重県で、県下にある神社の約9割、約
5,550社が廃社となりました。和歌山県や愛媛県
なども三重県に次ぐ実情でした。一方、京都府では1割程度の廃社で済んでいます。また、もともと神社自体が少なかった北海道や
沖縄県では、合祀しなければならないほどの神社は分布しておらず、ほとんど政策の影響を受けることはありませんでした。
 2番目に廃社の多
かった和歌山県では、特に強制威圧的に合祀が推進され、約3,700社もの神社が廃社になっていますが、この地
から猛然と神社合祀反対の声を上げ、強く合祀反対の運動を進めていった人がいます。和歌山県在住の博物学者・生物学者・民俗学
者の南方熊楠
(みなかた くまぐす)、その人です。
神社合祀反対の運動
 南方熊楠は粘菌の研究者としても知られていますが、今日で言う自然保護運動の先駆けとなった人物の
一人としてもその名が知られています。俗に言う“変わった人”でもあったと言われますが、神社合祀反
対運動に注いだエネルギーにも相当のものがありました。
 熊楠は「
古来老樹大木ありて社殿なき古社多かりし。これ上古の正式なり。」と述べて、社殿のない神
社に無理やり社殿をつくることにより鎮守の森が破壊されていることを嘆いていたと伝わります。もとも
と古代神道の神祭りには常設の祭壇はなく、祭りごとの度に仮設の祭壇を設けて神事を行った
とされます。
その後、仏教が導入されて各地に仏教建築が広まると、神道の神祭りにも常設の祀り施設が造られるよう
になっていきました。今日知られる神社の形です。つまり、熊楠の主張は、先に古来の森があった所に後
から人の手で神聖な古木を切って社殿を造るなどけしからん、ということです。とは言え、仏教への対抗
⑧ 南方熊楠
 ⑩ 南方熊楠
の意味からも、神社建築は時代とともに、拡大・発展していきました。近代以前にすっかり全国各地に定着していました。それが今
度は、明治政府によって神社そのものを鎮守の森ごと大規模になくそうと言うのですから、熊楠にしてみれば“怒り心頭”の境地だ
ったことでしょう。
 熊楠は『神社合祀反対意見
』『神社合祀に関する意見』の中で、神社合祀が「敬神思想を高めるとは欺瞞であり、むしろ下がる。
と批判し、その具体的な悪影響について、
 『
1.民の和融を妨げる   2.地方を衰微させる   3.国民の慰安を奪い、人情を薄くし、風俗を妨害する
  4.愛郷心と愛郷心を損ずる   5.土地の治安と民利に大害あり   6.史蹟と古伝を滅却する
  7.天然風景と天然記念物を亡滅する
』などを主張しました。
神社合祀反対運動経過の概要
 公益財団法人
南方熊楠記念館(和歌山県西牟婁郡白浜町)のサイトに掲載された『神社合祀反対運動』からその一部を紹介します。
(前略) (熊楠は)町村の集落ごとに祀(まつ)られている神社は、住民の融和、慰安や信仰の拠(よ)りどころであり、史跡と古伝の滅
亡させるもので、また、そこにはほとんど例外なく、うっそうとした森林があった。神社合祀が行われると併合された後の神社林
が伐採
(ばっさい)されることで自然風景と貴重な解明されていない生物が絶滅するのなどを心配したのである。
 (熊楠は)各地で住民が身近な神社の無くなるのを嘆くのを見て、当時、さきがけて合祀反対の立場をとっていた『牟婁
(むろ)新報』
の社主、毛利清雅の新聞に反対意見を発表し、合祀を推進する県や郡の役人を攻撃した。
 『牟婁新報』には毎号、反対意見を投稿し、掲載され賑わしたが、さらに『大阪毎日新聞』、
大阪朝日新聞』、『東京朝日新聞』
などにも反対意見の原稿を送り、また中央の学者に応援を求める働きかけをした。
 なかでも、東京大学教授で植物の権威、松村任三
(じんぞう)に、国・県の神社合祀のやり方をきびしく批判した長文の手紙を寄せた。
これを、民俗学者で当時内閣法制局参事官であった柳田國男が
、『南方二書』として印刷し、関係者に配布して熊楠の運動を助けた。
 (中略)
 熊楠のひたむきな情熱が次第に世論を動かし、1912年(明治45年)3月、県選出の衆議院議員中村啓次郎が本会議で合祀に関する反
対質問を一時間余りもしたり、貴族院議員の徳川頼倫
(よりみち)が努力したりして、大正に入ってからは、次第に不合理な神社合祀がさ
れることはなくなり、約10年後の1920年(大正9年)、貴族院で「神社合祀無益」と決議され終息した。
 しかしこの間、熊楠の運動の成果として伐採を免れた神社林は何ヵ所かあるが、かなりの社殿や
、森、社叢、原生林が姿を消した。
このため、熊楠はとくに田辺湾の神島をはじめ、貴重な天然自然を保護するため、様々な反対運動や天然記念物の指定に働きかけを
した。この戦いは晩年まで続き、熊楠が今日、エコロジ-の先駆者といわれる所以である。
 (以下略)
 引用が少々長くなりましたが、「神社合祀反対運動」の概要がわかりやすいと思って挙げさせていただきました。さらに詳しい経
過や熊楠の活動・研究については南方熊楠記念館のサイトをご覧ください。     「公益財団法人 南方熊楠記念館」
神社合祀による変化
 神社合祀政策が進められていった結果、神社そのものだけではなく、地域社会のあり方や住民の神まつりへの関わり方など、様々
な面で大きな影響を残すことになりました。明治初期の「神仏分離」も民衆の宗教への関わり方に多大な影響を与えましたが、今ま
た各地で神社合祀が実行されたことによって、さらなる変化が現れてきました。代表的な問題を挙げてみます。
 
土着の民間神道や民俗行事が失われることになった
    いわゆる「神道」は、各地の村々に存在した民俗信仰や祖神崇拝などのが集成されたものと言え、全国各地にはそれぞれの
   神、それぞれの祭祀がありました。明治政府は民俗信仰的なものは迷信であるとして排除する方針を取ったため、それらの多
   くが消失していくことになったと言えます。民俗信仰の“迷信排除”は神仏分離の時にも行われています。
 
祭神が別の神に転化した(させられた)
    神社にはその土地ごとに縁故のある神を祀ることが多くありましたが、それらの土着の神は由来がはっきりしないなどの理
   由で別の祭神にされました。皇祖神や古事記・日本書紀に登場する神を祭神として祀るように変わりました。それまでにも、
   神仏分離の時に、神仏習合神の牛頭天王が素盞鳴命に変えられた、などの祭神転化が各地でたくさん見られました。

  住民と神社のつながり方が変化した
    一町村一社とすることで住民掌握・統治の単位を明確にすることを目的としていた神社合祀でしたが、合祀によって自分た
   ちの旧来の村とはまったく別の地域の神社に先祖から祀り続けてきた土着神が移ってしまったことで、住民の精神的な支柱が
   失われていくことになってしまいました。何百年前から、或いは千年以上前から、脈々と村人によって祀り続けられて来た守
   り神だったのです。合祀された上に、
にあるように土着神とは全く別の神に変えられてしまった例が少なくありません。
    一方、合祀されることになった合併先の神社の地域では、本来は土地と関係のない神が祀られることになってしまい、こち
   らはこちらで、住民の神まつりの心に微妙な変化をもたらすことにもなりました。一町村を一社の神社を中心にしてまとめよ
   うという政府のねらいは、そうたやすく実現できることではなかったのです。
 神社合祀によって自分たちの神社を失った住民たちはどう対応したのでしょうか。ある日を境に「自分たちの神社はなくなっちゃ
った」と簡単に割り切れるはずもありません。地域により村により、様々な対応の仕方があったと思われます。よく見られた例とし
て、村の中に何らかの代替施設を創設する、ということがありました。やは
り、祀りや祈りの対象が求められたのでしょう。しかし、
これは政府の意向に反し、行政側からは認められないものでした。こっそり行う、黙認してもらう、などだったのでしょうか。
 もう一つよく見られたのが、神社そのものは無くなっても伝統的な祭礼行事は自分たちの村で続けていく、というものでした。住
民たちが共同で取り組むことにも意義があったと思われます。村の行事として行う形なら行政もどうこう言えなかったでしよう。
戦後の体制変化の中で
 1945(昭和20)年の敗戦を境として、神社をめぐる状況は一変することになりました。1945年12月15日、GHQ(連合国軍最高司令官
総司令部)
が日本政府に発した覚書『国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件』、いわ
ゆる「神道指令」が神社のあり方を激変させました。GHQが目指したのは
、「信教の自由の確立と軍国主義の排除のため、国家神道
を廃止し、神祇院を解体して政教分離を果たす。」ということでした。この方針の背景として、
神道から国家神道を切り離して廃
止した上で、国家から独立した宗教・信仰としての神道への信教の自由を否定しない。」とする考えがありました。言い換えれば、
「政教分離」と「信教の自由」という2本柱です。これは、後に制定・公布される「日本国憲法」にも明示された理念でした。
 
GHQの指令を受けて、日本政府は翌1946(昭和21)年2月の「勅令第71号」で、国庫から神社への資金提供を廃止するなど、それ
までの神社の国家管理に関わる法令を廃止・改正しました。これにより、神社の国家管理体制は解体されました。
 国庫からの資金提供や幣帛料の供進を受けられなくなった神社は、宗教法人として再出発するこになりました。財政的には大変苦
しい立場に立たされることとなりましが、国家管理のしばりが無くなったことで得られることもありました。村々の神社のあり方を
氏子たち住民の意思で決められるようにもなったことです。そうなると、明治の神社合祀によって自分たちの村から無くなった神社
をどうにかしたい、そういう思いを元氏子や住民が抱くようになるのは自然なことです。
 各地で次々と神社の「復社」が実行されていきました。合祀先の神社から分祀して改めて神社を創設する、というものです。復社
されないままの神社もありましが、全国で相当数の神社が復社されてきました。名目上は合祀した後でも社殿などの設備を残した所
もあり、そういう所では復社が行なわれやすいという実態もありました。
藤井寺市域の場合は
 全国各地で神社合祀が盛んに進められていた同じ時期に、現在
の藤井寺市域にあった村々でも長野神社を含めて6社が合祀され
て廃社となりました。その様子を見てみましょう。
 現在の藤井寺市域は
明治の初めには14の旧村(大字)がありま
したが、明治22(1889)・23年の合併によって、神社合祀が行われ
る頃までに三つの村に統合・再編されていました。小山村・藤井
寺村・道明寺村の3村です。旧村にはそれぞれに村の氏神とする
神社がありました。中には村社が2社存在する村もありました。
 道明寺村では明治40年に、小山村と藤井寺村では明治41年に神
社合祀が行われています。その様子を地図化したのが図⑪の地図
で、『藤井寺市史 第2巻 通史編三』
藤井寺市の神社 』に掲載
の記述をもとに作成したものです。小山村では産土
(うぶすな)神社、
藤井寺村では辛國神社、道明寺村では黒田神社が合祀先の神社に
なっていることがわかります。
 この時の神社合祀によって神社が無くなった旧村
(大字)は、津
堂・藤井寺・野中・大井・船橋の5地区です。この結果、小山村
・藤井寺村の2村では、小山村=産土神社、藤井寺村=辛國神社
という「一村一社」が実現しています。ところが、道明寺村を見
ると
、10社もあった神社のうち、合祀で無くなったのは3社だけ
で、合祀実行後もなお7社が存在し続けており、一村一社にはほ
ど遠い数です。小山
藤井寺の2村との違いは歴然としています。
⑨ 藤井寺市域の村で行われた神社合祀
 ⑪ 藤井寺市域の村で行われた神社合祀  (明治40~41年)
      『藤井寺市史第2巻・通史編三』『藤井寺市文化財・藤井寺市の神社』の
     記述をもとに作図。長野神社以外は戦後に元の場所で復社された。
      「土師神社」は現在の「道明寺天満宮」。
3村で異なる合祀の実態
 政府が進めた神社合祀政策に沿う結果となったのが小山村・藤井寺村ですが、逆に道明寺村は政策にまったく沿っていないという
ことになります。いったいどういうことなのか、と疑問に思いますか、『藤井寺市史』等にはこれに関する記述がありません。
 道明寺村にはもともと神社が多く
、10社もありました。これは、道明寺村が8ヵ村の旧村の合併で成立したことによります。当時
の村としては人口も多い村で、明治38(1905)年調査の南河内郡内町村別人口(
大阪府統計書(明治38年)』)を見ると、道明寺村の人口
は南河内郡内の町村で最多の
4,214人でした。このような村において、10社の神社を1社に合祀するというのは、さすがに無理が
あったということだったのかも知れません。                    「村だった頃の藤井寺市域」
 また、道明寺村の地域には少々特別な事情もありました。大字道明寺
(旧道明寺村)には近代社格で志紀郡で唯一の「郷社」とされ
た「土師神社
(後に道明寺天満宮)」があり、ほかにも4社の「式内社」が存在していたのです。これだけ近くに4社もの式内社が在
るのも珍しいことです。しかも、その内の1社である「志貴縣主
(しきあがたぬし)神社、「縣主」という豪族身分の氏神とされ、さらに、
この地にあった河内国の「惣社
(総社)であったと考えられています。言ってみれば、道明寺村は由緒ある神社だらけだったのです。
これらの神社を1社に合祀・統合することは、大変困難なことだったのでしょう。
 しかしながら、それでもなお疑問が残ります。道明寺村に4社在った八幡神社の内、国府八幡神社だけが合祀されて、他の3社は
存続しています。社格は4社とも「村社」でした。氏子数では国府八幡神社よりも少ない神社もあります。式内社・式外社の違いで
考えても、“合祀された式内社”と“合祀されない式外社”とがあり、基準にはなっていません。神社の資産規模や財政事情など、
他の要因も関係してくることでしょうが、史料が乏しく詳しいことはわかりませんでした。
 図⑪の合祀の内容を合祀年月日とともに表にまとめてみました。図⑪と参照しながら見てください。
藤井寺市域の村で行われた神社合祀
合祀された神社 大 字 合 祀 年 月 日 合祀先神社
 道明寺村 大 山 咋 神 社
おおやまぐいじんじゃ
船 橋 明治40(1907)年 9月19日 黒 田 神 社
志 疑 神 社
しぎじんじゃ
大 井 明治40(1907)年10月24日
国 府 八 幡 神 社
こうはちまんじんじゃ
国 府 明治40(1907)年12月23日
 小 山 村 津 堂 八 幡 神 社 津 堂 明治40(1907)年11月 6日 産 土 神 社
うぶすなじんじゃ
 藤井寺村 長 野 神 社  藤井寺 明治41(1908)年 2月10日 辛 國 神 社
からくにじんじゃ
野 中 神 社
のなかじんじゃ
野 中 明治41(1908)年 2月10日
『藤井寺市史 第2巻 通史編三 近現代』「第四章 日清・日露戦争と民衆」「第四節 神社合祀」に基づく 
合祀の実例-野中神社合祀の様子
 『 藤井寺市史 第2巻 通史編三 』には野中神社の合祀についての記述があ
り、当時の合祀の様子の一端を見ることができます。
野中神社は明治41年2月10日に辛國神社に合祀されましたが、そこに至るまでには大字野中
(旧野中村)の中や大字藤井寺・大字岡、村
当局などでいくつかの経緯があったようです。合祀の儀式である「遷座式」の実行前後の様子について、記述の一部を紹介します。
 『
五月十三日には、大字野中の浄宗寺で一般戸主の集会を開き、遷座式について協議し、十五日午後十二時に各戸こぞって弓張・
高張提灯で御神体を辛國神社に送ることにした。
』『五月十五日に、野中神社の御神体が辛國神社に遷座した。大字岡からは氏子総
代と一般氏子は高張提灯
をもって迎えに来た。神官一名、村長、古市分署長代理等も同道し野中は神官(古市神社社掌)、氏子総代
一般氏子(町什物・箱提灯所持)が高張の代わりに弓張提灯で送った。そして夜十一時過ぎ辛國神社へ合祀された。なお、大字藤井寺
の氏神
(長野神社)も同様に野中につづいて遷座式を行った。大字野中、岡、藤井寺はともどもに遷座式を祝って五月十五日午後から
十六日にかけて休業とし、各大字の一般の各戸に神酒約一合、昆布、ウルメ、饌米等の供物が分与された。

 このほかにも、一連の遷座式・祭典の費用の分担の仕方などが記述されています。村の氏神様を遷座して合祀するということは、
神社を失う住民にとっても迎える側にとっても、大変大きな出来事だったことがわかります。
怪我の功名?-神社合祀がきっかけで大発見!
 神社合祀がきっかけで後に予期せぬ事態を迎えることとなった例を紹介しておきます。場所は小山村大字津堂(旧津堂村)で、舞台
となったのは「津堂城山古墳」です。津堂城山古墳はユネスコ世界文化遺産に登録された「百舌鳥・古市古墳群
の構成資産No.22の
大型前方後円墳です。巨大と言ってもよい大きさで、仁徳天皇陵、応神天皇陵に次ぐクラスの規模を持っています。
 ところが
この巨大古墳は明治末になるまで「古墳であること自体が地元の人達にも認識されていなかったようです。伝承名
山」で、文字通り中世に城が築かれていました。見晴らしの効く小高い墳丘、堀となる周濠、いずれも城とするにはもってこいの場
所だったのです。城を築くために墳丘は大きく開削されてしまい、城がな無くなった頃には、元が古墳であったことすらわかりにく
いほど変形していました。
 巨大であるがために、上から見なければ前方後円墳であることは認識できなかったと思われます。近くに高い山があるわけでもな
く、横から見た小高い山は「むかし城があった山」として
200年、300年と伝承されていったものでしょう。古墳内には城であった
ことを示す
「本丸・二ノ丸・三ノ丸・四ノ丸」という小字
(こあざ)名が分布しています。墳丘や周濠跡は畑や水田に利用されていきまし
た。そして、かつて村の西端にあり戦火で焼失していた氏神が、江戸時代中頃に墳丘の一角に村の鎮守として再建されました。「津
堂八幡神社」です。明治の世になって村社の社格を与えられましたが、今また神社合祀によって消えていくことになったのです。
 津堂八幡神社は明治40年11月に隣接する旧小山村の産土神社に合祀されました。津堂地区では、村社であった八幡神社が存在して
いたことの記念として石碑を建てることが決まり、その石材を城山の山頂部から掘り出すことになりました。明治45(1912)年です。
 
 以前から村の人たちにはこの城山の頂上部
(後円部頂)の土中に大きな石のあることが知
られていたらしく、それを神社の記念碑に利
用しようというので掘り出したところ、その
下から巨大で立派な石棺が現れ人々を驚かせ
ました。掘り出された石材は、古墳の後円部
頂にある竪穴
(たてあな)式石槨(せっかく)(古墳の埋葬
施設)
の天井石だったのです。
 石棺の発見は、大きなニュースとして新聞
でも報道され、多くの考古学者が駆け付けま
した。東京帝国大学・坪井正五郎博士や京都
帝国大学・梅原末治博士などによる調査で、
竪穴式石槨内からは長持形石棺や勾玉・鏡・
刀剣など多くの副葬品が出土しました。この
長持形石棺は、それまで知られていた石棺の
中でも最大で、しかも非常に精巧な造りのも
のでした
(写真⑬)
⑪ 発掘された石棺と坪井正五郎博士 ⑫ 明治45年(大正元年)
⑬ 発掘された石棺と坪井正五郎博士  1912(明治45)年
       博士と比較すると、石棺の巨大さがわかる。

  『津堂城山古墳』(藤井寺市教育委員会)掲載・
   「國學院大學学術資料館所蔵 大場磐雄写真資料1
」より
⑭ 明治45年(大正元年)
  建立の記念碑
   現在は新しい社号標に
  替わっている。
 精巧な造りの大型石棺が出土した津堂城山古墳ですが、それまで全く陵墓調査の対象外として扱っていた宮内省(当時)は、この発
掘調査結果に対して急きょ対応策を迫られ、津堂城山古墳の後円部頂だけを「藤井寺陵墓参考地」に追加治定します。全体を指定す
るには、余りにも陵墓からほど遠い姿だったからでしょう。実は、明治初期~中頃に宮内省は全国の陵墓の被葬者を特定し、陵墓の
名称を確定させてきました。その時に、津堂城山古墳は巨大前方後円墳であるにも拘わらず、何らの対象にもされなかったのです。
そもそも古墳としての認識が宮内省にもなかったのでしよう。幕末に陵墓の考証を行った学者たちも取り上げてはいませんでした。
石棺は埋め戻すこととし、出土した副葬品は全て国が買い上げることになりました。         「津堂城山古墳」
 調査記録で7枚在ったとされる天井石の内、6枚が掘り出されて各所で利用されました。その1枚が津堂八幡神社跡の記念碑とな
ったのです(写真⑭)。記念碑の文字は八幡神社舊(旧)です。かつてここに八幡神社が在ったことの記念碑なので、「舊址(旧址)
となっています。2011(平成23)年には、この場所には新しい『津堂八幡神社』の社号標が建てられています。津堂八幡神社は戦後の
1948(昭和23)年にこの場所で復社していたので、「舊址」の記念碑では合わなかったわけです。
 合祀で神社が無く
なっ 神社が在った記念を残したい 城山の大きな石を使おう 石を掘り出したら下には立派な石棺
という流れで、考古学上の大発見が起きました。村の人々の氏神信仰にとっては何の役にも立たなかった神社合祀でしたが、合祀が
実行されたことで「石棺の発見」につながったことも事実でした。“怪我の功名”と言えなくもないか、と思います。
 余談ですが、もし津堂八幡神社の合祀がなかったら、津堂城山古墳の石棺はずっと発見されないままだったのか、と想像してみる
ことがあります。答はおそらく“
No”です。戦後、考古学研究が大きく進展してきました。また、航空機の利用も増え、古墳の調査
・研究にも航空写真が大いに利用されるようになりました。遅かれ早かれ、津堂城山古墳の場所が前方後円墳であることは認識され
ることになったでしょう。この古墳は村の共有地や民有地であり陵墓治定もされていないので、いずれ発掘調査の対象となったと思
われます。言うなれば、“時間の問題”でもあったと思います。「神社合祀」は思わぬ副産物をもたらしてくれました。

【 参 考 図 書 】 『 藤井寺市史 第1巻 通史編一 』(藤井寺市 1997年)
  『 藤井寺市史 第2巻 通史編三 』(藤井寺市 1998年) 
『 藤井寺市史 第7巻 史料編五 』(藤井寺市 1984年)
  『 藤井寺市史 第9巻 史料編七 』(藤井寺市 1987年) 
  『 藤井寺市史 第10巻 史料編八上 』(藤井寺市 1991年) 
  『 藤井寺市史 第10巻 史料編八下 』(藤井寺市 1993年)
  『 藤井寺市文化財 第11号 藤井寺市の神社 』(藤井寺市教育委員会 1990年)
『 河内名所圖會 』(柳原書店〈現柳原出版〉1975年復刻版)
  『 歴史のなかの天皇陵 』(高木博志・山田邦和 思文閣出版 2010年)  〈その他〉 

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