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◆ 道明寺盾塚古墳公園
  (どうみょうじたてづかこふんこうえん)    藤井寺市道明寺 6-6
  所管:藤井寺市都市整備部道路公園課   TEL:072-939-1272(公園維持管理担当)   FAX:072-952-9504
  近畿日本鉄道南大阪線・土師ノ里駅より南西へ約
800m徒歩約12(公園北入口まで)
       〃    ・道明寺駅より西へ約1km徒歩約15(公園北入口まで)
  国道旧170号・道明寺5丁目北交差点を西に約140m進みそこから北・北西へ約150m進む(公園北入口まで)
  駐車場 公園北入口の向かいに団地内コインP有り(5台)
  公園面積  5,399㎡
     開設:2002(平成14)年     ※ 府営住宅地内なので土地は府有地
① 道明寺盾塚古墳公園(南東より)   ② 道明寺盾塚古墳公園(北入口より)
① 道明寺盾塚古墳公園(南東より)
  2012(平成24)年11月  右後方の山は仲津山古墳、
 左後方の山は古室山古墳。
  ② 道明寺盾塚古墳公園(北入口より)   2009(平成21)年7月  合成パノラマ
    盾塚古墳があった位置に原寸大で帆立貝形前方後円墳の形が再現されている。
    後円部の円形部分は中央が少し盛り上がった芝生広場になつている。
 
公営住宅地と古墳
 「道明寺盾塚古墳公園」を性格づける大きな特徴としては、府営住宅地の中に開設された都市公園であること、かつてこの場所にあった
古墳を再現した形になっていること、この二つを挙げることができるでしょう。府営住宅とは「大阪府営藤井寺道明寺住宅」で、古墳とは
かつて存在した「盾塚古墳」です。公園と共に、この二つについても取り上げてみたいと思います。
 まずは、名称についてです。「道明寺盾塚古墳公園」の「道明寺」は寺の名称です
が、この公園名の場合は「寺」を表すのではなく、地区名の「道明寺」が使われてい
るのです。藤井寺市の都市公園の名称は、昭和
60年頃から「地区名+旧小字(こあざ)
を原則的な形として制定されてきました。「大井垣添児童公園」などがそうですが、
公園の土地が複数の旧小字にまたがっている場合など、小字が付かない形式もありま
す。「道明寺盾塚古墳公園」は、「道明寺」地区にある「盾塚古墳のあった場所」の
公園、ということを表しています。この場合、「盾塚古墳」の名は旧小字名の代わり
として使われています。公園になった場所の旧小字は隣接する別の旧小字に微妙にま
たがっており、代わりの名称が「盾塚古墳」でした。
 地区名にもなっている「道明寺」は、菅原道真に濃い縁
(ゆかり)があり、この地域を代
表する古刹の尼寺です。有力公家や有力寺社の子女が尼僧として寺に入っていたこと
もあり
信長・秀吉・家康など時の権力者から所領を安堵(あんど 所有を保障)された有
力寺院でした。寺領として一村まるごとを支配しており、その村を「道明寺村」と称
していました。明治時代の中頃以降に周辺の村々と合併して大きな「道明寺村」、さ
らには「道明寺町」になりますが、旧道明寺村の区域は
大字(おおあざ)としての地区名
「道明寺」となって現在に続いています。この「道明寺地区」にできた「盾塚古墳公
園」というのが、この公園名の由来です。       アイコン・指さしマーク「蓮土山 道明寺」
 
③ 府営藤井寺道明寺住宅と道明寺盾塚古墳公園
③ 府営藤井寺道明寺住宅と道明寺盾塚古墳公園
     〔GoogleEarth 2025(令和7)年4月9日〕より
  盾塚古墳があった場所に原寸大で形が再現された。
  元の府営住宅の一部は高速道路建設によって無く
 なっていた。
        文字入れ等一部加工
府営住宅建て替え事業と公園
 次は府営住宅についてです。現在の正式名称は「大阪府営藤井寺道明寺住宅」ですが、開設当初は「大阪府営道明寺南住宅」でした。昭
30年代初めの頃(1950年代後半)です。この場合の「道明寺」は地区名ではなく、所在した自治体名としての「道明寺町」を表していまし
す。当時、道明寺町内には先に「府営道明寺住宅
(現「府営藤井寺川北住宅」)」ができておりそれに対して道明寺町の南端にできた新し
い住宅地には「道明寺南」の名が付けられました。現在の「藤井寺道明寺住宅」という、寺の名が二つも付いた名称も珍しいですが、これ
は大阪府営住宅の名称制定の原則に従った結果
このような名称になったものと思われます。現在の府営住宅の多くには、「自治体名+住宅
所在地区名」の形が採用されています。「藤井寺
(市)+道明寺(地区)」として現在の住宅名ができているわけです。
 藤井寺市内には道明寺住宅を含め5ヵ所の府営住宅がありますが、いずれも平成時代になって建て替え高層化事業が行われました。その
結果、いずれの住宅地でも余剰地が生まれ、住宅地内の公園はそれまでよりも大きなものに変わりました。余剰地の一部が一般住宅用地と
して売却された所もありました。また、市に移管されて緑地となった所もあります。        アイコン・指さしマーク「藤井寺市の公園・緑地」
 5ヵ所の府営住宅は、いずれも新しい命名方式に従って名称が変更されています。参考までに紹介しておきます。
   「 道明寺住宅 → 藤井寺川北住宅 」 「 美陵住宅 → 藤井寺大井住宅 」  「 道明寺南住宅 → 藤井寺道明寺住宅 」
   「 岡住宅 → 藤井寺小山西住宅 」  「 小山住宅 → 藤井寺小山藤美住宅 」
 藤井寺道明寺住宅の建て替え工事は平成1~8年度に行われ、平屋の戸建てが並んでいた住宅地は8棟の中・高層棟が並ぶ団地に姿を変
えました。下の写真⑤は入居開始から数年後の道明寺南住宅の様子です。それが上の写真③の現在の姿に変わっています。
 新しくなった藤井寺道明寺住宅は敷地面積
2.66haで、建て替えられた5ヵ所の中では最大となりました。新戸数は240戸で、これも5
ヵ所の府営住宅の中では最多の戸数です。2番目の藤井寺大井住宅が
152戸なので、道明寺住宅の戸数規模は建て替え前よりもかなり多く
なっていることがわかります。
 高層化によって広い余剰地ができましたが、写真③でわかるように、その多くが「道明寺盾塚古墳公園
」の用地として転用されています。
その結果
、5,399㎡という藤井寺市の都市公園では群を抜く広い面積を持つ公園となりました。2番目の野中宮山児童公園の倍近い面積
です。そんなに広い公園となったのは、住宅地の真ん中辺りに古墳の形を再現するという構想を実現させたからです。
よい立地ながら古墳が…
 府営道明寺南住宅が造られたのは昭和30年代の初め頃ですが、この場所が選ばれたはっきりした理由はわかりませんでした。当時の藤
井寺市域は、まだまだ多くの農地が広がる農村風景を見せていました。住宅地の候補地はあちこちにあったと思われますが、何らかの理由
で選ばれたのでしょう。地形や土地の状況、周辺の交通事情、入居者の生活上の利便性、まとまった面積の用地買収の可能性などが考えら
れますが、いくつかの条件がクリアされてこの場所に決まったのだと思います。
 周辺との位置関係から見ると、大きな要因となったのは交通の便だったと思われます。近鉄南大阪線の土師ノ里駅と道明寺駅が最寄り駅
となりますが、どちらも徒歩
10分余りで行き来できます。 住宅地から200mほど東には府道枚方富田林泉佐野線(当時 現国道旧170号)
南北に通っています。当時はこの府道に八尾-富田林間の近鉄路線バスも通っていました。これらの条件は、市内の他の府営住宅と比較し
てみると、かなり好条件の立地だとみることができます。位置の選択としてはよかったのではないでしょうか。
 新たに住宅地を開発する土地と
しては好条件の場所だったのです
が、問題もありました。道明寺南
住宅が建設される場所は、南の誉
田御廟山
(こんだごびょうやま)古墳(応神天
皇陵)
と北の仲津山古墳(仲津姫命
陵)
に挟まれる位置にあり、いくつ
もの小古墳があった場所です。建
設予定地の区域にも3基の古墳が
現存していました。
 当時事前調査された古墳は、出
土物の特徴
から「盾塚(たてづか)古墳
「鞍塚(くらづか)古墳」「珠金塚(しゅきん
づか)
古墳」と命名されました。残念
ながらこれらの古墳は府営住宅建
設のためにすべて破壊され、調査
④ 府営住宅が建設される前の3古墳 ⑤ 完成から数年後の大阪府営道明寺南住宅
  府営住宅が建設される前の3古墳
       〔米軍撮影 1946(昭和21)年6月6日  国土地理院〕より

               文字入れ等一部加工
完成から数年後の大阪府営道明寺南住宅
    〔1961(昭和36)年5月30日 国土地理院〕より

               文字入れ等一部加工
記録と出土遺物だけが残されました。調査報告内容は立派な書物として出版されています。
 同じようにして、藤井寺市内では住宅建設や道路建設のために小古墳が消滅するということがいくつもありました。当時は小古墳の多く
は民有地で、国史跡の指定や陵墓の陪冢
(ばいちょう)治定などがなければ、一般の農地と同じように土地取引の対象にもなりました。そうして、
現代社会で新たに消滅古墳が増えていきました。市内では最近の発掘調査で農地や住宅地の地下から小古墳の遺構がいくつも確認されてい
ます。ずっと昔に墳丘が削平されて、長らく農地や宅地として利用されてきた場所です
。これらの消滅古墳は埋没古墳とも呼ばれています。
同じようなことが、府営住宅の建設予定地で新たに起きたことになります。アイコン・指さしマーク 藤井寺市サイト「土師の里をめぐって-埋没古墳の発掘」
消滅した3基の古墳
 1955(昭和30)年
府営住宅建設に先立って3基の古墳の発掘調査が行われました。同年6月から11月にかけて関西大学考古学研究室が
末永雅雄教授
(当時 後に橿原考古学研究所長)の指導のもと現地調査を行いました写真④は敗戦後1年足らずの時期に駐留米軍が撮影した
ものですが、この中に消滅以前の3古墳を見ることができます。この写真では3古墳とも円墳のように見える姿です。農地が広がる中で、
小さな雑木山のように見えていたようです。地域の人たちには何らかの「塚」であることは認識されていたでしょうが、これといった古墳
名は無かったようです。この写真から9年後に初めての発掘調査が行われ、これらの古墳に名前が付くことになります。
 多くの古墳の名称は、地元での伝承名や所在地の地名・小字名などを基に命名されていますが、この3古墳の場合はそれらとは異なる命
名の仕方でした。出土遺物にちなむ命名については、後に末永氏が「調査した三基の古墳にはそれぞれ注目すべき遺物がありそれを古墳名
とした」と述べられたそうです。注目すべき遺物である「盾」
鞍」金製空玉(うつろだま)・金箔ガラス玉(珠金)」によってそれぞれの古墳が命
名されました。発掘調査の成果である貴重な遺物を大切にした、ということでしょう。消えゆく古墳への贈り名だったのかも知れません。
 1955年に発掘調査された3古墳ですが、府営道明寺南住宅の建て替え事業のために、昭和の終わり頃から盾塚古墳と鞍塚古墳の墳丘痕跡
調査が行われました。1987(昭和62)年~1995(平成7)年に大阪府教育委員会が行った調査
では、1955年調査では明らかになっていなかったこ
とが確認されています。珠金塚のあった場所は、この建て替え事業よりもずっと以前に高速道路の用地として転用されており、再調査ので
きる場所ではなくなっていました。今までの調査でわかった古墳の形状・規模を紹介しておきます。
   
盾塚古墳〔 帆立貝形前方後円墳  墳丘長73m,前方部幅25m,後円部の径49m,高さ6.5m 〕
   
鞍塚古墳〔 帆立貝形前方後円墳  墳丘長51m,前方部幅21m,後円部の径40m,高さ5m 〕
   
珠金塚古墳〔 方墳  一辺25~27m,高さ4m 〕 (※ 各古墳の高さと珠金塚の一辺長は1955年調査の記録)
 1955年調査では盾塚古墳の墳丘長は64mと記録されたのですが、大阪府教委の第2次調査では一回り大きかったことが確認されました
鞍塚古墳も直径39mの円墳とされていたのが
実は全長51mの帆立貝形前方後円墳であったことが確認されました。1955年調査の場合は
埋葬施設や副葬品の調査に重きが置かれており、墳丘の詳細や周濠を含めた全容については明らかになってはいなかったようです。

変わっていった府営道明寺南住宅
 3古墳の発掘調査が終わり、それぞれの古墳の墳丘は宅地造成によって削平され姿を消しました。その跡には東西南北に道路が造られ、
戸建ての平屋住宅が整然と並ぶ住宅地が誕生しました。写真⑤が入居開始から数年後の府営道明寺南住宅の姿です。3古墳とも、その場所
は完全に住宅地の下になってしまったことがわかります。農地と古墳だけだった土地に一気に誕生した住宅街でした。
 写真の左下、南西側にも住宅地の一角らしい場所が写っています。写真③では高速道路の南側に見える住宅地です。ここは府営住宅とは
別に、ほぼ同時期に近畿日本鉄道が開発した分譲住宅地でした。便宜的に「近鉄住宅」と呼ばれていた時期があったようです。
 昭和
40年代(1965年~)に入って大阪-名古屋間を有料道路で結ぶ計画が具体化します。大阪側からと名古屋からは高速道路として建設
その間の区間は国道24号のバイパス(名阪国道)となる高規格道路として計画されました。松原市(大阪府)-天理市(奈良県)間に建設さ
れる高速道路が「西名阪道路
(現西名阪自動車道)」で、通過地の藤井寺市では市の真ん中を斜めに貫く高架高速道路が誕生することになり
ました。計画された高速道路のコースは道明寺南住宅敷地の一部を通り抜けるものだったのです。写真⑤でその様子がわかりますが、ざっ
と見ても
20戸ぐらいの住宅の敷地がその用地範囲に掛かっています。この土地が大阪府から日本道路公団(当時)へ売却されれば、当然なが
ら居住者は転居することになります。              アイコン・指さしマーク「西名阪自動車道」   アイコン・指さしマーク「藤井寺インターチェンジ」
 西名阪道路のコース選定については様々な条件が検討されたと思いますが、大きかったのは古墳と集落ではなかったかと私は思います。
古墳でも特に問題となるのは、天皇陵など陵墓に治定されているもので、これを避けることは必須条件です。藤井寺市域にあってはこれは
大きな制約となりました。昔からある集落もできるだけ避けたい場所です。土地の買収交渉、移転補償、家屋解体・整地など、大変手間と
費用と時間の掛かることが予想されます。1970(昭和45)年の日本万国博覧会
(EXPO'70)の開催までに開通させることを目指した西名阪道路
の建設は、時間との勝負でもあったのです。府営住宅の土地は公有地であり、用地取得に要する手間と時間は最少で済む場所です。コース
選定に当たっては、これらの条件も少なからず影響していたのではないかと思います。
 西名阪道路開通後の空中写真を見ると、陵墓古墳や集落を避けて実にうまくコース取りをしていると感じられます。住宅地で立ち退きの
対象となった場所は、主に道明寺南住宅と道明寺地区の一部ぐらいで、とりわけ道明寺南住宅の戸数の多さが目立ちます。
 高速道路が府営住宅地を通り抜けることになりましたが、その結果、府営住宅地の一部が高速道路の反対側
(南西側)に分断されてしまい
ました。写真⑤でその部分がわかりますが、この部分は写真③で「道明寺西畑山公園」となっている場所です。「西畑山」はこの場所の旧
小字名です。建て替え高層化事業によってこの場所も余剰地となり、市の都市公園に提供されています。土地は現在も大阪府の所有です。
新しい都市公園-消えた古墳の再現
 昭和30年代から30数年間、我が国の高度経済成長期と共に歩んできた道明寺南住宅でしたが、建て替え高層化事業によって大きく姿を
変えることになりました。その昔、私が初めて赴任した小学校では、当時はこの府営道明寺南住宅が校区の最南部でした。平屋の住宅が並
ぶ通りを家庭訪問で通ったことを思い出します。当時の校区の最北部は府営美陵住宅
(現府営藤井寺大井住宅)で、南北両端が府営住宅とい
う南北に長い校区が展開していました。どちらの府営住宅の姿も、今は記憶の中に思い出としてしか存在しません。
 消えていくものがある一方、よみがえるものもありました。それが「道明寺盾塚古墳公園」です。ずばり「盾塚古墳公園」と命名されて
おり、初めてこの名を見た人の多くは、「盾塚古墳という古墳があってそこが公園になっている場所」と受けとめることでしょう。しかし
ながら、「盾塚古墳」は現存しません。正確に言えば、「盾塚古墳跡地公園」でしょう。敢えて「盾塚古墳公園」と命名したことからは、
まるで、「かつて府営住宅建設の犠牲のように盾塚古墳が失われてしまいました。せめてもの償いとして、できるだけ盾塚古墳の再現に近
い公園を造って、ここに『盾塚古墳』という立派な古墳のあったことの証とします。」とでも言っているような想いを私は感じています。
 藤井寺市内には、行政的には都市公園に区分されていないもの
の、津堂城山古墳や古室山(こむろやま)古墳など、実質的には古墳公園として親
しまれている所があります。墳丘に自由に上ることができ、周濠跡地も広々としています。何よりも、れっきとした現存古墳であり、大き
な前方後円墳です。それに対して、盾塚古墳公園は消滅古墳を再現したもので、古墳名の中にだけ「盾塚古墳」が生きている小古墳です。
盾塚古墳公園は、市内各地にあった消滅古墳の姿を一ヵ所に集めた象徴なのかも知れません。 アイコン・指さしマーク「津堂城山古墳」 アイコン・指さしマーク「古室山古墳」
 写真①②が、再現するかたちで造られた盾塚古墳公園の様子です。その公園名を知らずに初めてここを見た人は「何で公園の広場に円形
があるの? しかも真ん中が盛り上がっている!」と、違和感を覚えることでしょう。中央広場がこのような形状になっていること自体が
珍しいのですが、その上にわざわざ土を盛り上げて芝生広場が造られています。名前や由来を聞けば、「なるほど。」とうなずけるはずで
す。子どもたちが走り回っても危なくないように、絶妙な勾配で円形広場は盛り土されています。ゆっくり上がれるように階段も設けられ
ています。ここで遊んで育った子どもたちが、成長して文化財としての古墳に興味を持ってくれれば、消えていった3古墳には何よりの供
養になるのではないか、そんなことを私に思わせたりする「盾塚古墳公園」です。

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