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◆  落 堀 川  ◆
  (おちぼりがわ)    一級河川    《 一級水系・大和川 》   《 大阪府 》
 近畿日本鉄道・南大阪線藤井寺駅より北へ約
1.8km 徒歩約26(大正橋南詰まで)
         〃    土師ノ里駅より北西へ約
1.9km  徒歩約27(新大井橋南詰まで) ※以上は藤井寺市域近辺のみ
 流域面積 10.3ku  指定延長 3.7km
(大阪府が受託している管理区間のみ)   管理:大阪府富田林土木事務所
川に寄り添う川
 下の写真@Aを見ると、大和川の左岸堤防に寄り添うように並行して小さな川の流れていることがわかります。川の横に川?。少し変
な感じがしますが、お
よそ300年前から続いている光景です。この小さな川が「落堀川」です。自然にできた川がこんなにきれいに並行し
て流れているのは少し変ですね。実は、大和川も落堀川も人工の川です
。約300年ほど前の江戸時代に、約8ヵ月間という超スピード工事
で造られました。なぜ人工の川を造ることになったのか、その理由や経過については、別ページ「大和川の付け替え」で紹介しています。
そちらをご覧いただきたいと思います。                  アイコン・指さしマーク「大和川−大和川の付け替え−藤井寺市の川と池」

 上の主要項目で紹介した「指定延長3.7km」というのは、都道府県知事が一級河川として管理を国土交通省から法定受託された指定区間
を示しています。大阪府の
Webサイトにある都市整備部河川室のページによると、始点は「藤井寺市大井2丁目247番の2地先の市道橋」、
点は
東除川への合流点」となっています。また、正確な長さとして「管理延長 3,697m」と表記されています。実際の延長はもう少し長
く、市の管理する部分もあります
(最下段のK図を参照)。                      アイコン・指さしマーク「藤井寺市の川と池」
 始点となっている市道橋は、西方に通る国道
170(大阪外環状線)から約190m東の地点にあります。終点の東除川への合流点は松原
ジャンクションの西側で、落堀川が東除川
(ひがしよけがわ)と合流して大和川に流入する放水路の入口の地点です。指定延長区間3.7kmの内、
藤井寺市域の部分は約
1.9kmです。始点の市道橋からさらに東側に約1.4kmほど続く上流部分がありますが、市の管理区間となります。
その内上流側の約
470mは暗渠化されていて、上は道路に利用されています。この部分は最上流部なので、もともと細い水路でした。私は
50年近く前に、この落堀川の最上流地点、つまり起点部分を見た記憶がありますが、浅くて幅も狭い水路でした。川と言うよりも、ほとん
ど側溝に近い様子でした。1.4kmの半分強に当たる東側最上流部分は、現在は公的には「船橋水路」の名称で扱われています。
@ 落堀川と大和川(北西を見る 小山6丁目) A 大和川に沿う落堀川(南東より)
 @ 落堀川と大和川(北西を見る 小山6丁目) 2016(平成28)年3月
        府道186号は大和川堤防の法面中段に通っている。
A 大和川に沿う落堀川(南東より)   1999(平成11)年
   大和川の堤防に沿っている落堀川の流路がよくわかる。
 落堀川が大和川に沿っている様子は、写真Aのような空中写真でしか見られません。近くに行って見ても、堤防の下に流れている様子が
見えるだけで、大和川の流れは堤防に隠れて見えません。写真@は、かろうじて大和川の水面も一緒に見えている位置から撮
ったものです。
この辺りでは落堀川の普段の水量は少なく、写真のような状態が普通です。
 その他の藤井寺市内の場所として、下の3つの場所を紹介しておきます。写真Bは国道170号の西側300mほどの場所です。大和川堤防
と大井水みらいセンター
(下水処理場)の間に挟まれるように落堀川が流れています。桜並木が大きく育ってきて、市内有数の桜名所となっ
ている場所でもあります。写真Cは、写真Bの右側
(西側)に続く位置で、右側の護岸の切れ目から流入して来るのは大水川(おおずいがわ)
す。大水川は、市域の中央部を南側から北へ流れる小河川です。下水処理場建設に合わせて新たなバイパス流路が処理場横に造られ、雨水
幹線として重要な役割を担っています。大水川には処理場から放流される処理水も流れており、流入した落堀川の水も普段は写真のように
透き通っています。写真Dは、藤井寺市の北西の端に位置する部分です。写真Bや写真Cの位置よりも川幅が広くなっています。付近は工
場や大規模流通倉庫などが建ち並び、一般市民が普段この辺りを訪れることはあまりない場所と言ってよいでしょう。ここから西へ進むと
隣接する松原市域に入って行きます。                          アイコン・指さしマーク「大水川−藤井寺市の川と池」
B 落堀川と桜並木(北西より 西大井2丁目) C 落堀川(西より 小山7丁目) D 落堀川(北西より 津堂2丁目)
B 落堀川と桜並木(北西より 西大井2丁目)
   右手の桜の後方は大井水みらいセンター。
  左は大和川堤防。   2013(平成25)年3月
C 落堀川(西より 小山7丁目)
   Bの西側部分である。右手護岸の切れ目は
  大水川の流入口。   2019(令和元)年5月
D 落堀川(北西より 津堂2丁目)
  ここから手前側は松原市域に入って行く。
             2019(令和元)年5月
つくられた大和川
 現在藤井寺市を流れている大和川は
、300年ほど前の江戸時代に
人の手によって造られた川です。後の世で「大和川の付け替え」と
呼ばれる一大公共事業として実施されました。
 それまで、大和川は大阪平野に入ると、何本かの川に分かれて北
へ向かって流れて行っていました。それは、この辺りの土地は南が
高く、北が低くなっていたからです。ところが、何本にも分流した
ことで流れが遅くなり、川底に砂がたまっていくことをくり返しま
した。その結果、これらの川は、川底が周りの土地よりも高くなる
天井川となっていったのです。この天井川が流れていた地域では、
昔から度重なる洪水の被害に苦しんできました。
 洪水を無くしたいという人々の願いは、江戸時代の中頃近くにな
って、約
50年にも及ぶ請願運動となり、やがて、大和川の流れその
ものを変えてしまうという、大事業計画となって実現することにな
ったのです。幕府と幕府の命を受けた大名によって工事が行われま
した。わずか8ヵ月の超スピード工事で完成しています。
付け加えられた工事
 工事を進めていく中で、ある大切な工事が付け加えられました。
それは新しくできる大和川に並行して水路を造るというものです。
それが「落堀川」なのです。いったい、何のためなのでしょうか。
 新大和川は、南から北へ傾斜している土地に、東から西へ横向き
に流すというものでした。横川といわれるものです。本来なら北へ
流れていくのが自然の流れの向きとなる地形で、いわば無理に横向
きに流そうとしたため、大きな問題がありました。
 もともとこの辺りには、地形に合わせて南から北へ向かって流れ
る小さな川や水路がたくさんありました。それらの流れが、新大和
川の堤防で遮られてしまうことになるのです。新大和川は、土地を
  E    旧大和川の川筋と新大和川・落堀川
E 旧大和川の川筋と新大和川・落堀川
   付け替えが行われる前の旧大和川の様子に、現在の海岸線や新大和川を重ねたもの。
      神崎川(かんざきがわ)   猫間川(ねこまがわ)   菱江川(ひしえがわ)
      玉櫛川
(たまぐしがわ)    楠根川(くすねがわ)    久宝寺川(きゅうほうじがわ)
      恩智川
(おんちがわ)     大乗川(だいじょうがわ)
掘って造るのではなく、平地に土を積み上げて堤防を築き、その間に水を流すというものでした。そこへもとからあった北行きの流れを流
し込もうとしても、水位が合わず、大雨の時には大和川の水が大量に逆流してくることになります。そのため、南から来る流れは、新大和
川に流入しにくくなります。かといって、このままでは堤防で流れが止められ、堤防の下に水が溜まってしまいます。この問題を解決する
ものとして、堤防沿いに排水路として「落堀川」が造られることになったのです。
 堤防の下に並行して排水路を造り、南から流れて来る水を集めて、大和川と平行に流します。西の方へ流して行って、高低差を合わせや
すい所で大和川に流し込む、というものです
(G図)。「落堀川」という名前の由来も、これでわかりますね。
 落堀川の最も上流、つまり出発点は藤井寺市船橋町で、近鉄道明寺線の鉄橋付近ですが、既述の通り、ここから
500mほど下流の北條町
内までは、現在は暗渠化されて道路に利用されています。川の姿で見えるのはそこから下流の部分です。下流へ行くほど流れ込む水量は増
えるので西隣りの松原市辺りでは落堀川の川幅も広くなっています。
 落堀川に集まった水を大和川へ流し込む場所は、新大和川ができた時には堺の浅香山付近の大きな曲がりの南側
(左岸)に造られました。
西除川
(現堺市)と合流させてから大和川へ流し込むようにしたのです。東除川(現松原市)の所では、落堀川が東除川の下をくぐるようにし
て、東除川の水は直接大和川へ流し込むようにしました
(後述)。もともとこの部分は台地なので、東除川が高い位置を流れていたのです。
F 新大和川と落堀川の流路 G      落堀川の模式図G 落堀川の模式図
 F 新大和川と落堀川の流路   落堀川は初め1本の川として造られた。交叉する
   東除川はそのまま大和川に流入させ、落堀川は東除川の下をくぐらせた。西除川は
   西へ切り替えて落堀川と合流させてから浅香のカーブで流入させた。後に落堀川は
   大堀の所で東除川と合流させて大和川に流入させた。ここで落堀川は一旦切れた。
交叉する二つの水路−「伏越樋(ふせこしひ)」の工夫
 F図が、落堀川の全体と大和川
・東除川・西除川との関係を示した流路図です。
落堀川は、新大和川の切り替え起点となる船橋村から浅香
(現堺市)の曲がりの合
流点まで、1本の排水路として造られました。この流路を現在の地図上で計測し
てみると、約
12kmの長さであったことがわかります。途中で東除川・西除川と
交叉しますが、西除川は西向きに切り替えて落堀川に合流させ、東除川はそのま
ま直接大和川に流入させる構造にしました。東除川が新大和川に交叉する大堀付
H       伏越樋の概念図
H 伏越樋の概念図
近は、南から張り出している台地部分で、少し高い土地でした。東除川も落堀川よりは高い位置に流れて来ることになるので、大和川へは
落とし込むような合流となり、逆流は起きにくいと考えられたようです。では、落堀川との交叉はどうするのでしょうか。
 東除川と落堀川を合流させようとすると、東除川をかなり掘り下げなければなりません。もし、そうやって大和川に流入させると、大和
川の大増水時に逆流が起きることになります。それを防ぐためには、東除川と落堀川を合流させることはできません。そこで考えられたの
が、東除川と落堀川を立体交差にして流す、という方法でした。つまり、もともと高い位置の東除川を上に通し、その下に落堀川をくぐら
せる、という構造です。そこには、「伏越樋
(ふせこしひ)」という昔から各地で用いられてきた技術が投入されています。狭い国土に山地の多
い我が国では、土地に起伏のある地形が多く、新たに水路を造る時には様々な工夫が必要とされました。伏越樋は物理学的原理に基づく技
術ですが、昔の人々は経験的にその原理を見つけて治水技術に応用してきたものと思われます。
 H図が「伏越樋」の概念図です。「伏越石樋(ふせこしせきひ)」と呼ばれた落堀川伏越樋の詳しい図面
面は残されていないので、他所の伏越樋を参考に作図してみました。伏越樋とは、道路に例える
なら「水路のアンダーパス」とでも言えるでしょうか。ただし、川の形態のままでは水は自動的
に下をくぐってはくれません。水は「高きより低きへ流れる」ものだからです。下をくぐらせる
ためには、水の通り道は管でなければなりません。
 伏越樋は管の中に水を通して他の水路などの下をくぐらせる仕組みです。物理の学習などで出
てくる「連通管」の原理を応用した構造です。伏越樋の部分は管渠
(かんきょ)になっていて、地下に
設置されます。落堀川の場合は
「伏越石樋」の呼称なので、石組みで造られていたと思われます。
 このような伏越樋の技術を用いてまでも、落堀川を大和川堤防沿いに造ろうとしたのは、それ
だけこの排水路の重要性が高かったことを示しています。
14kmにも及ぶ大和川本流をわずか8
ヵ月で完成させたこともさることながら、落堀川開削などの付帯工事に見られる技術的工夫の中
に、当時の人々の持つ見識と技術の高いレベルを見ることができます。
I 交叉する落堀川と東除川の絵図
 I 交叉する落堀川と東除川の絵図
 Web『中九兵衛のブログ 大和川流域歳時記』
 「6月20日 東除川と落堀川の立体交差
」より
    周囲カット、文字入れ等一部加工。
絵図に残る「伏越石樋」
 I図は
Webサイトで紹介されている絵図の写真です。大和川の付け替えに功績のあった中甚兵衛の子孫である中九兵衛
(好幸)氏が運営さ
れているサイトです。中家に保存されている絵図の一部ですが、この中で、東除川と落堀川の交叉する部分がはっきりと描かれています。
東除川が直接大和川に合流している様子は、はっきりとした実線で描かれています。その下を落堀川がくぐっている様子も
よくわかります。
落堀川を曲がった形で描いているのが「伏越石樋」の部分を表していると思われます。
 工夫を凝らして造られた落堀川でしたが、新大和川完成
12年後の1716(正徳6)年6月20日、河内一帯が豪雨に見舞われて石川大和川でも
大きな被害が出ました。この時、落堀川の伏越石樋が損壊してしまうということが起こりました。伏越樋は管渠でできているので、もとも
と単位時間当たりに流すことのできる水量には限りがありました。その限界を超える大増水が起こり、水勢によって石組みが破壊されたも
のと考えられます。その後、東除川は落堀川と合流させてから大和川に流し込むように改修されました。そのため、落堀川はこの地点でい
ったん切れることになりました。これより下流
(西側)に集まった水を浅香山の所で流し込むようにしたのです。上のE図に見える落堀川が
その様子を表しています。東除川より西の落堀川は水量が減ったため、川幅を狭めて「萬屋
(よろずや)新田」などが開発されました。
今も役目を果たす落堀川−新しい対策
 落堀川を造るという解決策は、技術的にも大変よく考えられたものでした。落堀川は今でもその役目を果たしています。ところが、時代
が変わり、現代になるほど新たな問題が起こってきました。戦後の大阪府内の人口急増の中で、新大和川の南の地域でも急速に都市化が進
みました。たくさんあった水田や畑が次々と住宅地などに変わって行き、必要度の減ったため池が次々と姿を消していきました。その結果
豪雨が続いた時に、一時的に水を貯えてくれる池や水田が不足していったのです。おまけに、都市化で住宅や舗装された道路が増え、雨水
のしみ込む土地はどんどん減って行きました。地上に降った雨水は、一気にに側溝や下水路に流れ込み、昔からあった小さな川は一気に増
水するようになりました。そして、それらの水は、たいへんな勢いで落堀川へと流れ込んで来るのです。
 もともと落堀川は横川なので、流れの勾配は小さく、ゆっくりとしか流れな
い川です。そこへ一気に大量の雨水が集まるので、しばしば落堀川や落堀川に
注ぎ込む水路で氾濫が起きる
ようになりました。内水氾濫と言われる水害です。
江戸時代よりも何かと進歩してきたはずの現代社会になるほど水害が増えると
いう、皮肉なことになりました。
 この新たな問題を解決するために、藤井寺市内に2カ所、堺市と松原市に各
1カ所の雨水排水ポンプ場が造られました。落堀川に集まった水を、大型排水
ポンプで強制的に直接大和川へ流すという役目です。また下流の松原市や堺市
では、落堀川の水が大和川に流入しやすいように改修が行われ、新しい放水路
も造られています。現在の西除川は、東除川と同様に、直接大和川へ流し込む
放水路が造られています。
 このように各所で治水対策の整備が進められて来ました。これらが完成して
からは少々の大雨で落堀川が氾濫して水害が起きるということは大きく減少し
ました。        アイコン・指さしマーク「小山雨水ポンプ場・北條雨水ポンプ場」
J 小山雨水ポンプ場(北西より)
 J 小山雨水ポンプ場(北西より)  2011(平成23)年12月
   ポンプの入っている建屋はかなり大きい。建屋の後方に取水
    施設がある。手前の鉄柵の下が落堀川。落堀川と堤防の下を4
    本の排水管が通っており、大和川へ放流される。
 なお、松原市の天美ポンプ場北部の位置から西の落堀川下流は、現在は「今井戸川」の名称になっています。南から流れ来る今井戸川と
合流していて、流れる水の多くが今井戸川からのものであることに由来するものと思われます。
 付け加えとして、藤井寺市内の水路網地図を紹介しておきます。おもな水路網だけが表示されていますが、これだけでも落堀川に流入す
る水路の多さをわかっていただけると思います。さまざまな治水対策事業が取り組まれてきましたが、昨今話題となる気候変動などを考え
ると、今なお、ゲリラ豪雨などという状態下では、内水氾濫の危険性は消え去ってはいません。なおいっそうの警戒と対策が望まれます。
                                           アイコン・指さしマーク「藤井寺市の防災−想定地図」
         K            藤井寺市内のおもな水路網
K 藤井寺市内のおもな水路網
          ※ 水路の名称は、『藤井寺市地域防災計画2015』に掲載の「河川、水路図」に準拠。
                   ※ 市内の水路については、流路がわかりやすいように道路部分や暗渠
(あんきょ)部分も水面色で表示。
          ※ 市域外に続く水路については、一部のおもなものだけを表示。
          ※ 羽曳野市域の古墳については、流路に関わる誉田御廟山古墳
(応神天皇陵)と隣接する二ツ塚古墳のみを表示。

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