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◆◆◆◆ 蕃所山古墳 ◆◆◆◆ |
《 ばんしょやまこふん 》 別名:もっこ塚 大阪府藤井寺市藤ヶ丘2丁目地内 国史跡〔 2001(平成13)年1月29日指定 〕 |
近畿日本鉄道南大阪線・藤井寺駅より南東へ約 1.6km 徒歩約24分 〃 ・古市駅より南東へ約 1.7km 徒歩約26分 国道170号(大阪外環状線)・西古室交差点から西へ約800mの四つ辻を南へ約100m 府道186号大阪羽曳野線・可児医院北側交差点から北東へ約170mの四つ辻を南東へ約50m→東へ約50m 古墳周辺には駐車場所は無し 古墳周囲での一時停車は可能 |
推定築造時期 | 5世紀後半 | 出土品 | 円筒埴輪(部分) 副葬品等は不明 | |
古 墳 形 | 円 墳 | |||
墳丘 規模 (m) |
墳丘の一辺 | 22 | その他 | 円形の墳丘が現存するが、未調査のため本来の墳形や大きさは不明。 周濠の有無や埋葬施設なども不明。 |
高さ | 3 |
住宅街の中にラウンドアバウト? 藤井寺市藤ヶ丘2丁目の住宅街の中です。この交差点に初めて入った 人は、一瞬とまどってしまいます。交差点内は小さなラウンドアバウト (環状交差点)になっていて、「どっちへ行こう?」と迷ってしまいます。 環状道路の中央には雑然と樹木の並ぶ植え込みがあります。 ここは第1種住居専用地域に指定されている住宅街の中です。通行す る車もたまにしか見かけません。こんな場所で、なぜラウンドアバウト 式の交差点なんか造られたのでしょうか。常識的な眼で見れば、どう考 えても疑問に思えてきます。 実は、このラウンドアバウトの中心となっている植え込みこそが、「蕃 所山古墳」そのものなのです。知らずにこの交差点を通過する人は、目 |
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① 蕃所山古墳(西より) 2013(平成25)年7月 古墳の周囲は環状道路で、小規模なラウンドアバウトになっている。 |
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の前の植え込みが古墳であるなどとは思わずにスッと通過してしまうことでしょう。目立たぬ小さな古墳です。![]() ![]() 古墳をまもった街づくり 写真①は蕃所山古墳を西側から見た様子です。数年毎に樹木や植栽の手入れが行われるので、見た目の光景は変化しています。計画的に 植えられた木ではなく、昔から自然に繁ってきた樹木なので、ラウンドアバウトのセンターを形づくる場所としては一見変な感じもします が、この植え込みはデザインされたものではなく、あくまで「古墳」なのです。古墳を保存し、なおかつ植栽として利用しているのです。 そもそも、どうしてこの交差点がミニラウンドアバウトの構造で造られることになったのでしょうか。お気づきでしょうが、古墳の存在 を生かして、つまり保存を前提として道路設計や街づくりが計画されたということです。住宅街になる前は、この周辺一帯は水田地帯で、 田んぼが広がる中に、島がポツンとあるように古墳が見えていたのです。昭和30年代前半(1955~1960年頃)、この地域で電鉄会社による大 規模な住宅地開発が行われましたが、その時に蕃所山古墳周辺の区域では、古墳の保存を前提に町割りの構図が考えられています。つまり、 古墳の位置を交差点に決めた上で、周囲の道路や住宅地の配置を設計しています。これは、かなり珍しい例と言えるでしょう(写真②)。 |
住宅地開発における古墳保存の形はいくつかあると考えられますが、よくあるのは、 古墳を含む一定範囲を小公園や花壇などにした緑地化です。一方では、特に手は加えず に住宅街の中に雑然とした草地状態で存在している例もあります。保存と言うよりは、 ただ残っているだけ、と言う方が合っています。 公園などの緑地化では、古墳周辺の土地の一定面積を住宅地以外に振り分けることに なります。また、草地状態で存在させるのは、住宅街の景観を損ないます。戸建ての住 宅が整然と並ぶ住宅街には合いません。それらの問題を解決するように編み出されたの が、古墳位置を環状交差点にするというアイデアだったと思われます。 環状交差点なら、古墳以外に使う土地は古墳の周囲の環状道路だけです。これは有効 な利用価値のある用途です。古墳もたまたま円形で墳丘が残っており、ラウンドアバウ トのセンター緑地帯にはもってこいです。かくして、通行量がそんなにあるわけでもな い住宅地の中に、小さなラウンドアバウトが誕生することになったわけです。 |
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② 真上から見た蕃所山古墳周辺の様子 〔2023(令和5)年5月 GoogleEarth 3D画〕より |
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この小さなラウンドアバウトを見て、私たちが少しばかり違和感を覚えるのは、本来はラウンドアバウトは通行量の多い幹線道路の交差 点で車の通行をスムーズにするために設置されるものだからです。「こんな所でラウンドアバウトなんか必要ある?」という疑問が湧いて くるほど、車の通行が少ない静かな住宅街にある“蕃所山交差点”です。ラウンドアバウトを回っている車にはめったに出会いません。 |
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よくわかっていない古墳 保存のために街づくりまで考えられた蕃所山古墳ですが、古墳そのもののことは、実 はよくわかっていません。墳丘自体も墳丘周辺も発掘調査されたことがなく、墳丘の本 来の形も不明です。現存している墳丘部分が円形なので、現在は一応円墳として扱われ ていますが、暫定的なものです。大きさについても、現存部分の大きさで直径22m、高 さ3mとされています。墳丘裾部の確認がされていないので、本来の形や大きさはわか っていません。周濠の有無や墳丘内の埋葬施設、副葬品についても不明です。墳丘上で わずかに発見された円筒埴輪片から5世紀後半の築造が推定されていますが、築造時か らこの古墳にあった埴輪かどうかははっきりしません。以前には、そもそも古墳ではな いかも知れないという見方もあったくらいです。 |
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③ 昔の蕃所山古墳 昭和50(1975)年頃 『カメラ風土記ふじいでら』(藤井寺ライオンズクラブ)より |
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そんな背景のあった蕃所山古墳ですが、2001(平成13)年1月29日に他のいくつかの古墳と共に国史跡に指定されました。樹木や植栽の手入 れ、案内看板の設置など、市による整備も進められています。いつの日か発掘調査が行われ、新しい情報の得られることが期待されます。 別名「もっこ塚」の疑問 蕃所山古墳には地元で伝承されてきた別名があります。古くから「もっこ塚」と呼ばれてきたそうです。伝承では、「応神天皇陵(誉田御 廟山古墳)の築造工事に使用したモッコなどの道具を埋めて造った塚なのでこの名が付いた」とされています。伝承は伝承として面白いので すが、私はこの伝承には大きな疑問を感じています。天皇陵の築造は何年にも渡って行われており、その間に使い終わった道具を順次埋め ていったとは考えにくいのです。墓の規模を考えると、使用した道具の量は相当なものだったはずで、集めて一度に埋めたとすると、蕃所 山古墳の大きさでは納まらないと思われます。何よりも疑問だったのは、使い終わった道具を埋める必要があったのか、ということです。 当時のモッコは、稲ワラやつる植物の樹皮繊維などで作った縄を編んで組まれたと想像されます。不要になったものは乾燥させれば燃料 として利用出来ます。わざわざ手間を掛け場所を取って埋めるということが必要だったとは考えにくいのです。モッコを作ること自体にも けっこうな手間が掛かったはずで、それを埋めてしまうという行為とは私の中では結びつきません。 まったく別の見方として、儀礼や祭祀的な意味で埋めたということも考えられなくもありません。お墓を造るために使用した道具、それ も大王のお墓なので、埋めるという行為に祭祀的な意味があったのかも知れません。しかしながら、応神天皇陵に前後して築造された他の 天皇陵では、モッコを埋めた塚の伝承など聞きません。祭祀的な行為だとすれば、他の天皇陵の場合にもあったはずだと思うのです。やは り、伝承は伝承として言い伝えるだけにするのが無難なようです。 開発と古墳の保存 蕃所山古墳は小古墳であり目立った特徴もないことから、地元市民の間でもそんなに知られている古墳ではありませんでした。古市古墳 群が世界文化遺産に登録されたこともあってか、最近は以前よりは関心を持たれるようになっているようです。古墳そのものへの関心が高 まったというよりは、この古墳の保存のあり方に関心が持たれたようです。街づくりの設計が保存する古墳を中心として考えられたことに 多くの人が驚きを感じたようです。それも70年ほども前に行われたことを知ると、さらに驚かれます。 蕃所山古墳を含む藤ヶ丘地区の住宅地開発が進められたのは、奈良県明日香村の高松塚古墳で壁画が発見されて、明日香ブームや古代史 ブームが起きる10数年も前のことです。誰が葬られているかもわからず、形も変化している小さな古墳を、どうしてこのような形で守り残 そうとしたのでしょうか。文化財の保護・保存の観点を第一に考えたとすれば、たいした先見の明だと思われます。古墳という文化財に対 する当時の世間一般の見方・考え方が、必ずしも今ほど保護・保存に重きを置くものではなかった時代のことなのです。当時は蕃所山古墳 はまだ国史跡には指定されておらず、古墳自体のこともよくわかっていない中で、文化財保護行政の側からどのような働きかけがあったの かはわかりませんが、よくぞこのような街づくりを実行してくれた、と感心するばかりです。 一方では、被葬者に対する恐れや、安らかに眠っていてほしいという気持ちなど、地元の人々の思いも大きな背景ではなかったかと考え ることもできます。古墳とは墓であり、死者が葬られている場所です。墓を壊してしまうことは、いつの時代でも人々に大きな抵抗を感じ させるものです。住宅地開発という営利事業のために古墳を消滅させるということは、なおのこと大きな抵抗があったことでしょう。 市内には、長い歴史の中で私有地化したり、町が都市化していったりする中で消滅していった小型古墳がいくつもあります。今は写真や 調査資料でしか知ることができません。それだけに、この蕃所山古墳が開発事業の過程をくぐりながらも現存していることは、貴重な例 として評価されてよいでしょう。残ってさえいれば、いつか調査をすることが可能です。消滅してしまえば、それで終わりなのです。 同じように、道路建設という開発事業の中で特殊形態で保存された「赤面山(せきめんやま)古墳」も、最近はけっこう広く関心を持たれている ようです。どちらも半世紀以上も前に実行された保存策であったことは、大いに評価されてよいことだと思います。 ![]() |