ダグラス・ハーディングが開発した自己探求の方法

ダグラス・ハーディングの長年の『見る」友人たちへのインタヴュー(日本語字幕つき)


「問題解決――選択しないというテクニック」(Douglas Harding)

「対立――自殺的ウソ」(Douglas Harding)

「自分とは本当に何かを見る結果」(Douglas Harding)

「他人によい印象を与えることについて」(Douglas Harding)

「ダグラスの詩」
(Douglas Harding)

「爆弾――世界と一つであるということ」(Alain Bayod)

「役に立つ道具であり、それ以上のことがある」(Nick Smith)

「天と地の階層」
(Richard Lang)

「個人的体験」(Richard Lang)


「盤珪の考え方」
(Colin Oliver)

「懐かしいIAMに捧げる」(David Lang)

「ダグラスの死」(David Lang)

「あがり症(舞台上であがること)を頭がない方法によって抜け出す」(Sam Blight)

「私にとっての『私とは何かを見る』とは」(大野武士)

「ハーディングの実験について」(赤嶺華奈)

「ハーディングの実験を続けてよかったこと」(赤嶺華奈)

「マイナス感情とハーディングの実験について」(赤嶺華奈)


「宗教と科学の融合」
(木悠鼓)

「ハーディング流成功哲学」
(木悠鼓)

「考えない練習」(木悠鼓)

*「ダグラスさんの本との出会い」 (大澤富士夫)

*「正直さを呼び戻す」 

(竹澤さちへ)


はい、これで、OKです!」 
(渡邉 直子)

頭はあるけど、頭はない、それが答えだ!」(匿名)

*「もし誰かが木さんの頭にピストルを突きつけたら……」(木悠鼓)











「もし誰かが木さんの頭にピストルを突きつけたら……」(木悠鼓)


この間の実験の会で、誰かがこう質問された。

「もし誰かが木さんの頭にピストルを突きつけたら、どうなりますか?」

人生でこういう場面を映画やテレビドラマの中で見る以外に、自分が経験することも見ることも想定したことがなかったので、そのとき私のマインドが驚いて、この質問の真意を理解しそこね、正しくお答えできなかったようだと自宅へ戻ってから気がついた。

このご質問者はたぶん、次のように本当は言いたかったにちがいない。

「ダグラス・ハーディングのワークでは、『頭がない』と言いますが、でも誰かがもし高木さんの頭にピストルを突きつけたら、高木さんはピストルを自分の『頭』に感じるのではないですか?さらにその人が高木さんの『頭』を撃ったとしたら、高木さんの『頭』は壊れ、それも高木さんには『頭がある』という証拠になりませんか?」

このご質問者の言わんとしたことは何一つ間違っていない。「さんは頭をもっている」――それは自明のことだ。

ではどこに誤解があるかと言えば、ダグラス・ハーディングが「頭がない」と言うとき、それは他人から見られた第三人称の人間のことではなく、自分から見た第一人称の「私」、主体のことだ。

「主体である『私』は人間の頭をもっていないが、さんは人間の頭をもっている」

なにやら禅問答のようであるが、その二つの観点を正しく認識し、理解しないかぎり、ダグラス・ハーディングの言っていることはすべてナンセンスに聞こえるはずである。

物騒なことだが、興味深い話なので、「もし誰かが高木さんの頭にピストルを突きつけて、撃ったら、どうなるか」、二つの観点から、その風景を想像してみよう。

という人間物体の頭を撃つ人の観点から見れば、プロセスはだいたい次のとおりであろう。

1木の頭にピストルを突き付ける。

2ピストルを撃つ。

3ズドンという衝撃音。

4木の頭から血が流れ、高木は床に倒れこみ、床とぶつかる音。

5そして木は悲劇的なご臨終を迎える。


では、と呼ばれている物体の主体である「私」の観点から、この出来事がどう経験されるか想像すると…

1金属的で冷たい感触が突然わき起こる。

2記憶が作動し、それは「ピストルだ」という解釈が起こる。

3マインドが状況を判断し、「撃たれて死ぬだろう」という思考が起こる。

4一瞬の恐怖心。

5それからズドンという衝撃音とひどい苦痛。

6無意識になる一瞬前に、ものすごい至福(のはず)(笑)

7ブラックアウト。

8ブラックアウトのあとは、Who knows!(そんなこと誰が知るもんか!

不動の主体「私」というスクリーンに、冷たい感触⇒「ピストルだ」、「撃たれて死ぬだろう」という思考⇒一瞬の恐怖心⇒衝撃音と苦痛⇒至福感  ⇒ブラックアウトが、次から次へとただ起こるだけであろう。主体の観点には、「人間の頭」は登場しないのだ。

それから、先ほどの質問者の方は最後にこうも付け加えた。「私には、『頭がない』という言い方はただの方便にすぎないと思います」

もちろん、ここでもこの方の言っていることは、ある意味では間違ってはいない。

私たちが「頭がない」ワークをやる究極的な目的は、実験そのものをやることでも、「頭がないことを見る」ことでもなく、「私とは本当に何かを見て、それに目覚め、そしてそれを生きる」ことなのだ。

しかし、私の印象では、もし「本当に私とは何か」を見たなら、「これは方便である」と、言うことはできないだろうと思う。

なぜなら、主体的には「私はここの中心には頭をもってない」  は真実であるからだ。

それから先日の会で、別の方からこういう質問も出た。


「なぜこのワークは、『体がない』ではなく、『頭がない』なのですか?」

それは、「頭がない」は常にそうであるのに対して、体(の一部)はあったり、なかったりするからだ。ちなみに、「頭がない方法」という名前は、ダグラス・ハーディングが30代前半にインド滞在していた頃、19世紀のドイツの物理学者、エルンスト・マッハの自画像を見たときに由来する(先日発売されたダグラス・ハーディングのグラフィック伝記「頭がない男―ダグラス・ハーディングの人生と哲学」にそのときの様子が詳しく描かれている)。

さて、昨日、たまたま子ども向け海外アニメを見ていた。主人公の少年(4歳くらい)  が、「僕は手品師だ。僕は何でも消すことができる」と言って、今ここにあるものを別の場所へ移したり、バナナを食べたりしながら、おばあちゃんに「ほら、僕は全部消してしまった!すごいだろう」と、大喜びする場面がある。

子供は驚きでいっぱいの天国に住んでいる。


「幼い子のようにならなければ、天国にはいることはできないだろう」  (新約聖書マタイ伝18章4)
「今ここに、死と不死を見る」

ダグラス・ハーディング著

マホロバアート発行


「顔があるもの顔がないもの」


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