懐かしいIAMに捧げる (David Lang)
二年前のある日、私は、「頭がない方法」を実践している人たちと会いたいという、一人の女性から電話をもらった。彼女は、数年間、瞑想していて、彼女自身は気づきの経験に親しんでいたが、彼女が言うには、いっしょに瞑想している人たちは、そういった気づきを自分たちは経験していないと考えていた。そのため彼女は、孤立を感じるようになったという。それから彼女は、ダグラスの本に出会い、気づきが簡単に分かち合うことができるものだと理解し、ダグラスに連絡してきた。ダグラスは私の名前と電話番号を彼女に教えた。
私はその朝、レベッカと電話で話して、強力なIAM(私は存在する)という感覚を感じたが、それはめったにあることではなかった。明らかに彼女は気づきについて話したがっていた。しかし、素晴らしかったことは、会話の焦点が、存在について言葉を交換することから、これらの言葉が存在の虚空から現れて、またその中へと消えていくのを共同で観察することへと、すぐに移ったことだった。
二つの声、見かけはまったくお互いに見知らぬ者同士が、本当の自己の中で、自分たちの融合を直接分かち合い、驚きと安堵をもって、分離の底を流れる共通性を認識しているのだ。ソーダ水の泡のように、それらの声はどこからともなく来て、また消えていき、それは自分が自分自身に次に何を言うか、まったく知らない、ただ一人の話し手・聞き手の表現だった。こういった経験を、電話で、青天の霹靂のごとく、レベッカと分かち合うとは、なんとワクワクすることだっただろうか。
この会話の最中に私がレベッカについて知ったことの一つは、彼女が卵巣ガンを患っていることだった。彼女は化学療法を受けていて、彼女のエネルギーは、ガンと治療の両方から非常に大きな影響を受けていた。時々、彼女は疲れはて、また時々は、この日のように、元気だった。私に印象深かったことは、自分が直面していることを彼女が分かち合うその自然さであり、生命を脅かすこの病気をもっていることに伴う怖れを否定するのでもなく、しかしまた、怖れの中に引き込まれるのでもなく、ただ自分自身をごく普通に、「永遠の気づき」として触れていたことだった。
存在の不死の海の中の波のように、私たちの声が来ては消えてゆくとき、私たちの本当の姿である源泉が、必要なときに、可能なかぎりそこにあることに、私は感謝した。
その後2年間の間、サンフランシスコ・ベイエリアの毎月の会合に彼女は、しばしばやって来て、他の人たちと、直接的な気づきを分かち合うことと、出席者一人一人が完全に自分とは何か見ているという、言葉による、また言葉によらない認識を楽しんだ。実験をやるという提案に対して、彼女はいつも、飛び上がって、「私、やります」と言ったものだった。彼女は、私たちの議論に、気楽な雰囲気の成熟さと集中をもたらしたが、彼女が会に来なくなったので、私は今ではそれを懐かしく思っている。
しだいにレベッカはだんだん会には来なくなった。それは、彼女の関心がなくなったからではなく、ガンと化学療法が彼女のエネルギーを奪っていったからだ。私は彼女によく電話し、私たちは自分たちの本性について話し合い、私は電話を切ったあと、いつも霊感を与えられるようだった。しかし、ある日、数ヶ月間、連絡しなかった後で、彼女に電話すると、見知らぬ声のメッセージがあり、それは南カリフォルニアのある電話番号を告げていた。そして、私は、その番号の友人から、レベッカが数週間前に自宅で、愛する友人たちに囲まれて、平和に亡くなったことを知った。
友人が死んだとき、人は何をするだろうか? 人は、彼、または彼女の不在からどんな意味を見出すだろうか? 私は、誰かの死に対応する方法は、それに影響される人の数だけあることを確信している。しかし、次の会で、私が彼女の死の状況を分かち合ったあと、私たちは楽しいことをやった。私たちは集まり、腕をお互いにまわし、円の中心を見下ろし、レベッカに敬意を表して、「頭のない円の実験」をやった。一つの声が空間から現れ、そして落ちていった:その声はこう始まった。
「カーペットの下で、私たちは足の円、今日ここに集まるためにやって来た友人たちの足、あとでそれぞれの方向に去っていく、友人たちの足の円を見ます。下は、足の土地、分離した者たちが、『こんにちは』『さよなら』と言いながら、来ては去っていく土地、誕生と死の土地です。この土地へ、レベッカは二度と来ません。レベッカ、私たちは最後のお別れの言葉をあなたに言い、あなたが旅のなかで次の一歩を歩むときに、私たちの愛を贈ります。ここでのあなたの存在、あなたのエネルギーと知恵に感謝します。お元気で、レベッカ、さようなら」
「でもここ、体の円の頂上のここでは、見ても、足もなければ、頭もなければ、分離した『頭のないやつ』もいなければ、行き来のある、誕生と死の土地もなければ、『こんにちわ』に続く『さよなら」もありません。ここでは、この底なしの存在の中に、いっしょに集まったいくつかの体の真ん中に、IAM(私は存在する)があります。それは、私たちが見たいと思うとき、私たちの本当の姿からの、時間のない永遠の『こんにちわ』を静かに言っています。またここに、人と人とを分離させる特徴から自由であるこの真ん中に、レベッカがいます――本当のレベッカ、自分の本当の姿から確固と生きた本当のレベッカがいます――本当のレベッカ、本当のあなた、本当の私、レベッカ、こんにちは」
そして、ちょうど、この気づきの空を横切って鳥たちが飛んでいくように、他の声も現れては消え、この部屋で最後に見たレベッカの思い出とイメージを呼び起こした。今、彼女は私たちの間で、なんと存在しているように感じられ、なんとリアルであることか。こうして彼女を思い出しながら、彼女の元気を祈りながら、いっしょに時間をすごすことは、何と素晴らしいことだろうか。
声がやんだ。私たちは、底なしの不死の気づきの中に吸収されていく。それからゆっくりと、私たちは顔を上げて、今いる友人たちの顔の円を取り込んだ。一つの顔が欠けている。 誰の顔? それは、死んでは永遠の生に生まれ変わる、一なるものの顔である。あるレベルでは、誰かの死は自分自身の死ではないかと、私は思っている。私たちは他人の死を悼み、自分自身の死を期待する。レベッカの生と死、そして生の中で、私は自分自身のものを発見する。
(原文In Memoriamは、http://www.headless.org/articles.htmのarticleに掲載されています。)
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