ダグラス・ハーディングが開発した自己探求の方法

ダグラス・ハーディングの長年の『見る」友人たちへのインタヴュー(日本語字幕つき)


「問題解決――選択しないというテクニック」(Douglas Harding)

「対立――自殺的ウソ」(Douglas Harding)

「自分とは本当に何かを見る結果」(Douglas Harding)

「他人によい印象を与えることについて」(Douglas Harding)

「ダグラスの詩」
(Douglas Harding)

「爆弾――世界と一つであるということ」(Alain Bayod)

「役に立つ道具であり、それ以上のことがある」(Nick Smith)

「天と地の階層」
(Richard Lang)

「個人的体験」(Richard Lang)


「盤珪の考え方」
(Colin Oliver)

「懐かしいIAMに捧げる」(David Lang)

「ダグラスの死」(David Lang)

「あがり症(舞台上であがること)を頭がない方法によって抜け出す」(Sam Blight)

「私にとっての『私とは何かを見る』とは」(大野武士)

「ハーディングの実験について」(赤嶺華奈)

「ハーディングの実験を続けてよかったこと」(赤嶺華奈)

「マイナス感情とハーディングの実験について」(赤嶺華奈)


「宗教と科学の融合」
(木悠鼓)

「ハーディング流成功哲学」
(木悠鼓)

「考えない練習」(木悠鼓)

*「ダグラスさんの本との出会い」 (大澤富士夫)

*「正直さを呼び戻す」 

(竹澤さちへ)


はい、これで、OKです!」 
(渡邉 直子)

頭はあるけど、頭はない、それが答えだ!」(匿名)

*「もし誰かが木さんの頭にピストルを突きつけたら……」(木悠鼓)





個人的体験 (Richard Lang)

[プロフィール]

リチャード・ラングは、1970年にハーディングに出会い、以後、ハーディングといっしょに、「頭がない方法」を研究し、それを多くの人たちと分かち合う活動に人生を捧げている。現在、ロンドンにあるShollond Trust(「頭がない方法」のワークの普及、および、ハーディングの本等の出版活動を行っている団体)のコーディネータをつとめる。著書にSeeing Who You Really Are自分が本当に何かを見る」Open to the Source源泉に心を開く)。

下記サイトで、彼のインタヴューを見ることができます。

http://www.headless.org/videopage.htm


1970年にハーディングのワークショップで、初めて、頭がないことを経験したとき、私はすぐにそれに深い影響を受けた。そしてそれ以来、それは私にずっと留まっている。私の兄も同じワークショップに出席し、同様に影響を受けた。最初にこれを見たあと長年、私は経験と考えを兄と分かち合い、そのことは、私が「頭がないこと」を自分の人生に統合することに役立ったと思っている。

同時に私はハーディングとも連絡を取り合っていた。何度も私は彼の家で開かれたワークショップに参加し、「見る」ことが、自分に与える影響について議論することができた。また私はハーディングを通じて、「見る」ことに関心をもつ多くの人たちと出会い、「見る友人」たちの広範なネットワークをしだいに築くことができた。私はこれに関するあらゆるものを読み、また最初に彼に出会ってから一年くらいたった頃から、ハーディングのワークショップの手伝いをするようになった。

こうやって私は、自分の人生に「見る」ことが留まり、それを深めてくれるサポートを見出したのである。自分の中で進行中の経験を、友人たちと分かち合うことができることは、私に非常に役立った。サポートがないと、この真実に目覚めたままでいることは、困難にちがいないと、私は思うことがある。

最初の頃、私は、自分に頭がないことを発見して、ショックだった。それは、あまりに根源的な意味合いがあり、それを取り込むことは不可能だと、私は思ったのだ。事実、20年以上たった今でも、私はそれをまだ消化している最中である!

私はワークショップのあとで、心配を感じたことを思い出す。私は奇妙な経験をしたのだ。自分のまわりのあらゆる人が、突然、ボール紙に描かれた絵、ないしはマネキンのように見えたのだ。彼らは、内部に誰も人がいない、ただ色のついた動く形であった。私が本当に確信できる唯一の意識は、私自身のものだけだった。

この瞬間まで、私はあらゆる人は意識していて、目が見ているという一般的考えを受け入れてきた。しかし、今では、私は他人の内部に、意識の直接的証拠を発見できないことを理解したのである。私自身の直接的経験のかぎりでいえば、意識は、ここ、私の中にだけ――人々の顔のこちら側にだけ――私がいるところ、あるいは、私がいないところ!――にあるのだった。それは頭の内部にある「何か」ではなく、頭がその中にあるのだった。

このことは孤独に感じられた。私はまったく一人のように見えた――人々はただ私の意識の中の「対象物」である。私が人々を「物体」のように取り扱うことを防ぐためには、どうしたらいいだろうか? しかしながら、私はこのことを考えぬき、ハーディングと話し合い、この新しい見方を実験するにつれて、私は人々に対して、もっとリラックスするようになった。私はもはや、自分が同じように調査されているとは感じなくなった。他人に見られている、見えているという感覚、自分の中のかなりの自意識の不安の元が、今では、ここには、誰も見る人も見られる人もいないという認識によって、置き換わるようになった! 

ここに新しい自由があった。私は以前よりも怖れなく、人々を見ることができるようになった。そしてそれは、「対象物」としての人々と関わる代わりに、もっと主体として、つまり、私自身としての彼らと関わるという問題だった。私は、自分の「一人であること」には、他者を含むこと、そして、唯一の意識のように見える私の意識は、またあらゆる人に所属していることに気づいたのである。それは、名前をもっていなかった。だから、この新しい見方は、私と人々を分離しなかった。むしろ実際は、それは、より親密さが減るというよりも、より多くの親密さへと私を導いていった。

一部の人たちにとっては、「頭がないこと」は単なる一時的な経験であり、彼らは多かれ少なかれ、それをすぐに忘れてしまう。もしその意味の一部でも理解されたなら、「見る」ことが何の影響も与えないと想像することは、私には困難ではあるが、しかしながら、「頭がないこと」が、何の重要性もない人々もいるようである。またある人たちにとっては、人生の危機や、「頭がないこと」に関する何かを読んだり、聞いたりするとき、あるいはまったく何の理由もなく、それが気づきの全面に出てくるとき以外は、それは時々気づく何かであり、それは主に彼らの生活の背景に留まっている。

最初に、自分の頭のなさを示されると、人々はすぐに自分が何を見ているのかを認めることができる。ある友人が私に語ってくれたことによれば、彼女の最初のワークショップの経験は、彼女に別段新しいことを示さなかったという――それは、まったく彼女にはお馴染みのものだった。しかし、それはある種の物事を明確にし、そのおかげで、彼女は自分の中心のこの気づきに、ますます近寄ることができた。人々はしばしば、子供の頃は、これを知っていたが、でも忘れてしまい、どうやったらこの原初の完全さに再び触れられるのか、わからなかったと感じている。

最近、ワークショップで、ある男性が私に、頭がないことが明白で即時であることに、自分がどれほど驚いたかを私に語ってくれた。彼は長年この経験を探し求め、このワークショップで、それがすぐに手に入ることに気づいたのである。また別の男性は、今まで自分に頭がないことに自分が気づかなかったことが、非常にショックだと語った――「どうして私は、今まで、これを見逃すことができたのだろうか!」

また別の女性は、自分は瞑想しているとき、この「空間」に親しんでいるが、でも目を閉じて、他の人々から離れているときだけ、これに触れることができたと言っている。でも今では、彼女は自分のまわりに人々がいるときでも、目を開けているときでも、この気づきを維持できることが見えるのである。ある友人は、「見る」ことは、彼の瞑想体験を完全に変えてしまったという。彼は、自分の瞑想から底が抜け落ちたと言い、その意味は、瞑想している「誰か」という感覚が消えてしまったということである。これは彼にとっては、奥深く、素晴らしい成長だった。

ここを指し示すことは、ワークショップの中の基本的な実験の一つであり、私はたびたび、人々がこの実験に魅了されることに気づいた。突然彼らは、自分が明晰さ、純粋な気づきの中を指差していることに気づくのだ! 最近のワークショップで、ある女性は私に、この実験が彼女にとってどんなものかを私に語ってくれた。

最初彼女は、自分の指を眺めていて、この練習が何についてなのか理解できなかった。「自分の指を眺めていることの何がそんなに特別なのか?」と。しかしそれから、彼女の注意が移り、彼女は自分の指が指し示している空間に気づいた。一瞬で、彼女は指と空間の両方を同時に見ていた。今やそれは、意味をなした。ワークショップの残りの間、彼女の注意は、行ったり来たりし続け、あるときは空間を含み、あるときはそれを見過ごした。これは私自身の経験――私が自分に頭がないことを最初に見たとき――でもあった。

そして長年見たあとでも、いまだそれは同じである。それは逆説である。自分とは何かを見ることは、私がある瞬間と別の瞬間の間にやる何かではない――それは時間の外にある。それにもかかわらず、この時間のない場所の気づきが、来たり去ったりするように見えるとも言えるのである。ある友人は、頭がないことに気づくことに特別な努力はいらない――それは何度も何度も、ただ彼のところに来て、自らしだいに身につくようになる――と私に語った。私自身も含めて他の人は、特別な注意が必要なときもあると思っている。この明晰さを見過ごすことは、あまりに簡単だからだ。

ときに、見ることがあまりにシンプルで明白なため、それが理由の一つとなって、このことに重要性を与えない人たちもいる。ワークショップに参加したある男性は、このワークショップで自分たちが何をやっているのか、自分は本当には理解していないと私に言った。そのワークショップの最中、彼は頭がないことに十分に気づいているという印象を私はもっていたので、当惑した。私は彼に、彼が経験したことを尋ねた。少し間をおいて、彼は微笑んで、これは自分にはあまりにシンプルすぎると言ったのだ。彼はもっと「複雑なもの」、もっと精神的カタルシス(浄化作用)のある何かが必要だと感じていたのである。私の考えでは、シンプルなものと複雑なものはお互いを排除しない。

ときには、私も複雑な感情を探求して解放し、自分が一体化して無意識になっている心理的パターンを理解することが必要なときもある。しかし、私はこのワーク、個人的気づきの成長は、シンプルに「見る」こと――それは、ある種の「退化」である――といっしょにやっていくことができることを発見した。私はこれを、「二方向セラピー」と呼ぶこともある。一方向セラピーとは、問題を解決する必要のある誰かが中心にいるという印象のもとに進んでいく。すべての問題は、この中心的「者―物」にくっついているのだ。それに対して、二方向セラピーは、中心には何も、誰も存在しないゆえに、そこには問題を解決する必要のあるある人は誰もいないのだ! しかし同時に、自分を取り巻く人間領域では、注意を払うべきこと、解決と治癒を必要とする多くのことがある。それゆえ二方向セラピーは、一方向セラピーとは非常に違う立場からやって来る。根本的自由、全体性、根本的正気さの認識があるのだ。私はそういった認識は、人々に深く有益な心理的影響を与えることを発見したのである。

また中には、自分に頭がないことを見るとき、怖れる人たちもいる。これは、本当は驚くべきことではない。彼らはこの時点まで、自分は中心にいる何か――固型で、一体化でき、現実の人間――であるという仮定の元で自分の人生を生きてきた。それがそのとき、中心には何もないことを見るのだ。しかし、この何もなさは、普通の何もないではない。なぜなら、それは気づいていて、世界で満ちてもいるからだ。それにもかかわらず、自分が消えてしまったと人々が思うことはよくあることで、このことはきわめて奇妙に感じられる場合もある。部屋に人々がいて、顔があるのに、ここには、何の顔もない、誰もいない。ただ空っぽの空間だけ。彼らの声はどこでもない場所からやってきた! 

ワークショップのある参加者の一人は、自分がこのことに非常に警戒感を感じ、自分の中味が他人からのフィードバック(反響)にあまりに依存しているという見た目の事実が心配だと言った。彼女は、他人の目の中にしか存在していないようだった。彼らがいなければ、彼女とは何なのか? 別のワークショップのある参加者は、圧倒されるように感じた――顔がないと、彼女は誰も外に出すことができないと感じていた。「彼女の空間」が侵入されたのだ。それはまるで、彼女が自分の境界を失って、あらゆる人が自分の内部にいるように見えたのだ。この無境界の場所――そこでは事実、あらゆる人は本当に「あなたの中」にいる――を眺めることは、個人的境界の必要性、重要性、現実を否定することではない。両方の視点とも真実である。しかし、このパラドックスと折り合いをつけることは、時間がしばらくかかる場合もある。「私はあなたである。それにもかかわらず、私はあなたではない」という事実と折り合いをつけることは、私が今でも個人的に解決しようとしていることであると思っている。しかし、たぶん、これは解くべきパラドクスではなく、むしろ生きるべき神秘であろう。

私は長期のワークショップでは参加者に、世界を長い間回転させる実験をやってもらう。ある男性は、これは自分が今まで経験した最も奥深い静寂さの経験だと言った。1年にわたって、薬物中毒者を代替医療――針灸、指圧、カウンセリングなどなどで治療するセンターで、私は「見るワークショップ」をやった。ある機会に、私はそこの二人の人に20分以上回転してもらった。これをやる前、彼らは数分で目がくらむだろうと確信していたが、彼らはめまいをまったく感じなかった。私たちはそのあと瞑想し、静寂さに対する彼らの気づきは、瞑想中もずっと続いた。

この同じセンターで、ある男性が街で道路わきに立つ喜びを描写した。彼は車が、彼の虚空から現れて消えてゆくのを眺めていた。この男性が仕事の面接に行った。以前なら、そんな状況では、彼は不安になり、自意識でいっぱいになり、今回も最初は同じ感情を感じた。しかし、彼は思い出して、見たのだ――彼は面接官のための空間であることを。このおかげで、状況は本当に変わった。彼はリラックスし、状況に対して注意深くなった。

この代替薬物治療センターの人々は、彼らが自分の人生の中心で感じた空っぽさこそ、彼らがドラッグを使うことによって埋めようとしたり、無視しようとしたりした何かだったと言った。それは恐るべき無、底なしの穴だった。しかし、頭のなさがこの深淵にまったく別の視点を提供した。彼らの本性の空っぽさは、単なる無ではなかった。それは存在であり、それは世界に満ちていた。このことは、ドラッグを使うことで、自分が怖れる空っぽさを避けようとする代わりに、それを積極的に抱きしめることができるという希望を彼らに与えた。

見ることを実践している人々は、それが自分の人生のあらゆる領域に浸透することを発見する。これは、どんな種類のテクニックを応用することをも超えるものだ。それは実に、目覚めることについてであり、どんな特定の思想や集団との一体化を身につけることについてではない。私は、見ることを実践している人たちは、便宜上必要なとき以外は、自分たちを「見者」とは呼ばないだろうと思う。彼らは、自分とは本当に何かに目覚めてはいるが、自分自身を中心で定義することはできない。誰かそれができる人がいるだろうか? 中心は、それを定義しようとするあらゆる私たちの試みを、超えたままである。
「今ここに、死と不死を見る」

ダグラス・ハーディング著

マホロバアート発行


「顔があるもの顔がないもの」


ダグラス・ハーディング著

マホロバアート発行



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