
ダグラス・ハーディングが開発した自己探求の方法
ハーディングの実験について (赤嶺華奈)
ダグラス・ハーディングの実験との出会いは、今から5年ほど前だろうか。ハーディングの本を出版している木さんが主催の、ハーディングの実験の会に参加したことがきっかけだった。
そのとき私は、とりたててハーディングの著作に関心を持っていたわけでなく、精神的に悩みの多い時期だったので、何か少しでも人生やこの世界の真実についてのヒントが得られないかと、ハーディングの本もろくに読まないまま参加した。初めて実験をやったときは、実験があまりにもシンプルだったので、「たったこれだけ?こんなのが真実?!」と、とてもがっかりした。そして、ハーディングの実験のことは、いつの間にか忘れてしまった。
それから4、5年たって、気まぐれな思いつきで、また実験の会に出てみたくなり、再び参加した。今度は、何が前と違ったのかよくわからないが、前回より少し実験の言わんとするところがわかったような気がした。それからは、折に触れて実験を一人でやっている。
ハーディングの実験をやってよかったと思うのは、自分の通奏低音というか、ベースというか、そういうものに気づくことができたということだ。思考や感情を含め、〈小さい自分〉の側の世界で起きていることを、起こるがままに受け入れている〈大きな自分〉がいるということ。〈小さい自分〉が生きている世界の出来事を、ただ眺めている〈大きな自分〉の存在があるということ。その限りなく広大で、どこまでも透明な自分が、本当の自分の姿であると見ることができた。
そこを見ていると、たとえ人間としての〈小さな自分〉が何か問題に出くわしたときでも、それはそれとして、人間やってる自分にまかせておき、「さ〜て、私は本当の自分でも見て、くつろいでいようかなぁ」と思える。そして、そのくつろげる〈大きな自分〉の世界を見続けていると、「ああ、これが本当の自分の存在のリズムなんだな」と感じられてくるものがある。
これを私は自分の通奏低音と思っている。〈小さな自分〉を受け入れている背景の"地"の自分、とでもいえばいいだろうか。それを見つけてからは、現実の生活で起こるあれこれの問題に惑わされることが減った。惑わされて、思考や感情などがぐるぐるしていても、本当の自分はそれではないとわかっているので、自分がとても楽になった。肩の力が抜けて、重心が下に落ちたような感じだ。
余談だが、木さんと以前カフェでお茶をしたときに、「あ、木さんは(本当の自分の姿を)見ている」と感じた瞬間がある。そのときの木さんは、木さんと普段呼ばれる身体の中にはおらず、カフェの空間全体にまで広がっているのを、私は感じることができた。そのことは、はたから見ても明らかにわかった。"見ることは伝染する"とどこかに書いてあったが、本当にその通りだ。その日から私は、少し真剣にハーディングの実験のことを考えるようになったから。
そうはいっても、やりたいときだけで、しかも指さし実験のみで、それにしたって、指さえささないときもあるので、私は、まったくもって熱心なハーディングの教えの生徒ではない。しかしそれでも、私とは本当に何かの真実を見ることができるのだから、楽ちん楽ちんで、本当に有難いことだ。