
ダグラス・ハーディングが開発した自己探求の方法
ダグラスの死 (David Lang)
クリスマスの日、ダグラスが死にかけているというボイスメールをビルが残してくれたとき、私はキャサリンに電話して、それから彼女とダグラスと1週間過ごすために、カリフォルニアから飛行機で飛んでいった。ダグラスはベッドにいて、ほとんどの時間を眠っているように見えたが、時々目を覚まして、短い会話に参加した。
一度彼は目を開けて、静かな声で言った。「死ぬことは、とても面白いことだ」と。彼の言葉は、彼が眠っているように見える時間の少なくともあるときには、彼は眠っている代わりに、存在の中で休んでいて、自分に起こっていることに注意を払っていることを示していた。
ある日の午後、私が彼といっしょにすわっているとき、私は見ることは伝染しやすいことを思い出した。それでただ私が私の本質を見ているだけでも、彼に役に立つことができるだろうと考えた。おそらく私がそうするで、彼が存在に気づいたままでいることに役立つだろうと、私は考えたのだ。それで、私はただ自分とは何かを見ながら、そこにすわった。それは非常に簡単にできた。
しかし、まもなく私は、見ることの伝染性は、両方に働くことを思い出し、おそらくそれが私にとって簡単なのは、私がそれをダグラスから伝染しているからだということを思い起こした。そのときから、実際は、私はまったく何もしないのに、存在の強い風がしだいにハリケーンのようになって、ダグラスから吹いてくるように感じられたのである。とはいえその間、ずっとダグラスは目を閉じて静かに平和にベッドで眠っているように見えた。
私が他の訪問客からうつされた風邪をひいてしまったため、隣室のベッドに横たわっているときも、壁をじかに通じて強風が吹いているように感じられた。それはまるで、私の髪の毛が私の後ろへ引かれていき、私は持ち上げられないようにするために、ベッドにしがみついていなければならないような感じだった。ダグラスからやってくる存在の感覚は、あまりに強烈だった。
過去数年間、私は死について多く考えていた。というのは、私は中年になり、病気と死をともなう老年期が現実的に見えてきたからである。私は、死とは何か、なぜ私が死という観念が好きでないか、私がいかにそれを否定する方法として、人生を調整しているのかを理解しようとしてきた。
キャサリンとダグラスと会うために、家を出たとき、私は特にこういったことを考えていたわけではなく、ただ私は死の重さを感じ、ダグラスが死ぬ前に、彼にもう一度感謝し、最後のお別れの言葉を言いたかったのだ。
しかし私が彼といっしょにいるとき、死ぬという彼の経験は、非存在というよりも、存在に関することであることが非常に明白であり、彼はそれを非常に明確に強力に分かち合ってくれたので、私は喪失感ではなく、生の感覚をもって、去ることができた――ダグラスからのもう一つの贈りもの、大きな贈りものである。そして私は、自分もいつか、願わくば、死ぬことがどれほど面白いことなのかを発見する日まで、その贈りものを大切にするだろう。