ダグラス・ハーディングが開発した自己探求の方法

ダグラス・ハーディングの長年の『見る」友人たちへのインタヴュー(日本語字幕つき)


「問題解決――選択しないというテクニック」(Douglas Harding)

「対立――自殺的ウソ」(Douglas Harding)

「自分とは本当に何かを見る結果」(Douglas Harding)

「他人によい印象を与えることについて」(Douglas Harding)

「ダグラスの詩」
(Douglas Harding)

「爆弾――世界と一つであるということ」(Alain Bayod)

「役に立つ道具であり、それ以上のことがある」(Nick Smith)

「天と地の階層」
(Richard Lang)

「個人的体験」(Richard Lang)


「盤珪の考え方」
(Colin Oliver)

「懐かしいIAMに捧げる」(David Lang)

「ダグラスの死」(David Lang)

「あがり症(舞台上であがること)を頭がない方法によって抜け出す」(Sam Blight)

「私にとっての『私とは何かを見る』とは」(大野武士)

「ハーディングの実験について」(赤嶺華奈)

「ハーディングの実験を続けてよかったこと」(赤嶺華奈)

「マイナス感情とハーディングの実験について」(赤嶺華奈)


「宗教と科学の融合」
(木悠鼓)

「ハーディング流成功哲学」
(木悠鼓)

「考えない練習」(木悠鼓)

*「ダグラスさんの本との出会い」 (大澤富士夫)

*「正直さを呼び戻す」 

(竹澤さちへ)


はい、これで、OKです!」 
(渡邉 直子)

頭はあるけど、頭はない、それが答えだ!」(匿名)

*「もし誰かが木さんの頭にピストルを突きつけたら……」(木悠鼓)





「頭はあるけど、頭はない、それが答えだ!」(匿名)


そこに見えたものは、人差し指と手首、腕と他の参加者や部屋の壁や窓だが、人差し指が指し示す「ここ」、顔があると思い込んでいた場所には何もなかった…

すぐに私は、私とは本当に何かを見たことに気づいたのです。これは知的理解ではなく直感的体験でした。

通常、私達が見るという時は、見えるもの(形、色)対象物を前提として見ています。見えないものは見ていないわけです。

しかし、純粋な見るという行為の中では、見えるものと見えないものの両方を見ていると、言えるのではないでしょうか。

実験会で、見る=分かる=体験の三点セットが起こったのです。

私達の関心や注意の先はほとんどが、五感で捉えられるものや思考という対象物に関わり、そうやって私たちは日々を過ごしています。

ダグラス氏の実験の主旨は、その対象物を捉えている主体は何ですかと問いただしているのです。「私とは何か」の答えが、「ここ」に在るのです。

特に頭、顔を強調しているのは、ほとんどの人が他者とは違う(思考上の)頭、顔に自己認識の大部分を置いて、これこそが私だと思い込んでいることへの警鐘だと思います。実験場面に戻ります。

指が差す「ここ」には頭は見えない?

言いかえると見えないものを見ているのかもしれません。

さらに言葉を換えれば、主体が主体を見ている。または、見るものが見られるものになった。見えないものが見えないものを見ている…

「ここ」の深みでは、主体客体の二元性は消えるのではないのでしょうか。

古の禅者は「無を観じる。これが真の見かた、永遠の見かた」と言っています。


ここでよく、見えないからといって、ないとは言えない、触れば頭があるという質問があります。

確かに、「ここ」を触ると何かあります。記憶や想像を使わないで触っても、向かいに座っている人の肩から上に乗っているものを彷彿とさせる何かがここにあります。

でも頭も顔も(心の中の想像上の顔も)触感で捉えられている以上、対象物であり主体(本当の私)ではありえないと言えます。

ダグラス氏は、「ここ」には、見えないもの(真我)しかないのに、見えるもの(自我)が重なっているという偽りの想像を危惧して、私達の身体が先天的にこう創られている事実に照らして、「ここ」には頭がないと言っているのではないでしょうか。

そして、ダグラス氏の実験は、聖者達が言う「自我は存在しない、個人は存在しない」ということや、お釈迦様のアナッタ(無我)の説法の直接体験版だと、私は思ってます。

また、サンサーラとニルヴァーナはコインの裏表みたいな比喩が使われるのも、「ここ」に重ねている想像上の顔から生きる時に、対立、限定、分離の二元性のサンサーラを生きることになり、この想像上の顔が、常に在る基盤、見えないもの(真我)に帰る時、「ここ」がニルヴァーナだと知るのです。

ダグラス氏の実験は実にシンプルですが、深遠な真理を垣間見せる実験の前で、頭は見えないけど触ればあるというような話に「誰がかまうもんか」と、心の中で独り言ちますが、触ればある頭のようなものも、常に向こう側にいる馴染み深い顔も大事なのは言うまでもありません。

「ここ」こそが、神秘家がいう古い人が死に新しい人になる(死ぬ前に死ぬ)、自分自身の内にある再誕生の場であり、「ここ」こそが、禅者の云う本来の面目だと私は確信しています。

今一度、「ここ」を掘り下げてみましょう。私達は生まれてこのかた「ここ」から離れたことがあるのでしょうか?神は常に戸口を叩いているが、私達はそれに気がつかない。または、新約聖書のルカ伝の放蕩息子の比喩はまさにこのことを語っているのではないでしょうか。

「ここ」がゾクチェン、大いなる完成、完全な調和であり、磐桂禅師が言う「一切事が調っている不生の仏心」であり、「ここ」は初めから完成されていて、常に今に在るのです。

この完全さは色も形も無く、微かな音もなく、どんな特徴もなく、何ものにも依存していません。完全なるものは決して何かではあり得ないのです。

ダグラス氏の実験で、「ここ」を垣間見て以来、意識的に「ここ」との接触を第一にして生活しています。

見かけは何も変わらない平凡な毎日ですが、質的な変化は計り知れず「日々是好日」と淡々と過ごしています。

最後に、ダグラス氏の実験は言葉の意味を一つひとつ追いかけて理解するものではなく、見るという行為の中での体験だと思います。例え瞬間でも、「ここ」を見た人は決して「ここ」を忘れることができず、自身の存在の根底で響きわたる「お帰りなさい」という母親の声に似た沈黙の声に常に励まされるのです。

でも、言葉も大事です!

私が「ここ」を忘れることがないように、護符のように持ち歩いたダグラス氏の言葉を載せておきます。

ダグラス・ハーディング氏の言葉


常にここに在るものを無視しないことです。「ここには、居なくなった私が居ます」という感覚です。

これは、奇妙な言い方です。

ここには不在の私がいると云うことです。つまり、私は何の特徴もなく、世界の為の受容能力としての気づきとして、存在しているのです。その練習は、その見る者、聞く者、ここにいる一なる者を見過ごすことをやめることです。

あなたが、その人と面と向き合っているのではなく、その人のために自分は消滅し、広く開かれているという真実を自分に言うことです。

自分のありのままの姿を今ここで眺める時、あなたは今までに、わずか一秒の間でも、決して誰とも、何とも、自分の最悪の敵さえ、あるいは親友とも、犬とも猫とも他のどんな生き物とも決して対立したことがなかった。いや、対立することができなかったことが分かる。人間それ自体では、どれほど愛情深く、どれほど親切であっても、誰のためにも消えることができないのに対して、人間の本質である一なるものは消えることしかできない。あなたの心には自ら与える愛があり、それはあなたが世界の為に死ぬということである。

見者は第一人称としての自分の現実と一体化する。

「今ここに、死と不死を見る」

ダグラス・ハーディング著

マホロバアート発行


「顔があるもの顔がないもの」


ダグラス・ハーディング著

マホロバアート発行



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