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筑紫倭国伝

つくし伝説



神代紀


 『古事記』712年、『日本書紀』720年にそれぞれ完成するが、この2つの歴史書こそが、現在まで続く、その後の日本の統治体制をつくり、大和の天皇の権威を築き上げた、と言っても過言ではないだろう。そうした意味では、「記紀」の編纂目的は十分に達成されたのだと思う。


 その「記紀」の編纂にあたっては、日本列島各地に伝わる伝承・風土紀・系図などを集約、結合し、中国・朝鮮の文献も参考にして、それぞれの整合性を出来るだけ保とうとしながら、万世一系の大和王朝神話として創り上げられた。したがって全くのでっちあげでは当然ない。その多くは何らかの歴史的事実を多分に含んでいると考える。


神代紀伝承地


 その「記紀」によれば、日本の始まりは筑紫にあった。初代神武天皇は「筑紫の日向の高千穂の宮」から、東征の旅に発している。天皇家の本貫が筑紫であるから、筑紫以外の日本創造神話は存在しなかった。


 縄文時代一万年を通じて、日本列島の人口は東日本に偏在していたとするのが一般的な見方らしいが、そうするなら、日本創造神話は東日本にあっても不思議ではないのだが、そうはなっていない。


 大陸から朝鮮半島を経て北部九州に稲作生産が始まると、人々は定住し、集落ができ、そこを支配する者が現れると、その支配の正当性を示すためにも神話が必要であった。


 北部九州に始まる稲作生産は、爆発的な人口増加を生み出し、新たな耕作地を必要とするようになると、人々は稲作技術を携えて、列島を東へと移動する。こうした時、危険の少ない瀬戸内の海がバイパスとなって、近畿地方に多くの筑紫の民を送り続けた。人の移動はその文化と神話の移動でもある。近畿地方の地名や山名に北部九州と同じものが多く見られるのもこのためである。


 おそらく大和地方にも幾つかの天地創造神話は存在したはずであるが、北部九州の稲作による人口増加、そして大和地方への大量移住が、これらの神話を駆逐し、「記紀」編纂当時の大和には筑紫神話が確実に定着していた。


 尚、日本建国の地として南九州説がある。「天孫降臨」の地として宮崎県の高千穂や鹿児島県の霧島を比定するものであるが、これは「記紀」編纂当時の、熊襲懐柔策のために用意された「記紀」解釈もあったと思うが、それ以上に、明治政府の意向によると考える方が、多分に的を獲ている。


 このような、本来の伝承の捻じ曲げは、当然といえば当然であるが、「記紀」の中にも随所に出てくる。たとえば「天孫降臨」であるが、なぜ「天子降臨」ではないのか。これはおそらく、「記紀」編纂時の天皇家の事情を織り込んだものであろうことは、容易に想像できる。


 「記紀」に描かれた神代紀の大部分は筑紫神話である。現在も北部九州に残る、日本誕生神話「つくし伝説」をここに収集してみる。