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むかしむかし、奈良に都が造られる、およそ240年ほど前に筑紫(つくし)に都が造られた。これを倭国筑紫王朝の太宰都督府という。その王を中国では「倭の武王」と言った。
『宋書』倭国伝によれば、「倭の武王」は、478年に中国宋朝皇帝に「王道融泰(ゆうたい)にして、土を廓(ひら)き畿を遐(はるか)にす。竊(ひそか)に自ら開府儀同三司を仮し」とする上表文を送っている。「三司」とは中国古代の官名で「三公」のことであり、太宰(だざい)・太傅(だいぶ)・太保(だいほ)をいう。倭王「武」は、中国宋朝皇帝に、「都を定めて開き、三公も設置した」と述べている。
『宋書』倭国伝には、この武王の他に「讃・珍・済・興」と称する王が登場し、これを「倭の五王」と言うが、近畿大和(ヤマト)王権の王ではない。倭の五王は、日本列島と朝鮮半島の支配権を、中国宋朝皇帝に認めさせようとした「倭国筑紫王朝」歴代の王のことである。
中国の正史『旧唐書』によれば、7世紀の日本列島には、九州に「倭国」、近畿に「日本国」、そして中部以北に「毛人の国」があったと記している。
『旧唐書』は、唐の成立(618年)から滅亡(907年)までについて書かれていて945年に成立しているが、日本列島については、倭国条と日本国条に分け記載している。その倭国条では、「倭国は古の倭奴国(わのなこく)なり」と記し、日本国条では「日本国は倭国の別種なり」で始まり、「日本は旧(もと)小国、倭国の地を併せたり」と書いている。
『旧唐書』にいう「日本国」とは、7世紀後半以降に日本列島を代表した大和(ヤマト)王権のことであり、「倭国」とは、7世紀後半まで日本列島を代表した筑紫王朝のことである。
この倭国筑紫王朝は、「武王」の頃に絶頂期を向かえているが、その前身は、『魏志倭人伝』に描かれた女王「卑弥呼(ひみこ)」の率いる「邪馬台国」である。
日本の正史『日本書紀』は、その編纂にあたって、中国や朝鮮半島諸国の文献を参考にしたが、そのときに「邪馬壹国」を「ヤマトコク」と誤読した。本来「邪馬台国」は、「邪馬壹国」と書かれていて「壹」は「壱」であり「台」ではない。したがって「ヤマイチコク」か「ヤマイコク」あるいは「ヤマイルコク」等と読むべきだった。
『日本書紀』は、この誤読を押し通すために、「倭」を「ヤマト」と読ませ、「大倭」から「大和」へと変化させた。本来、「倭」は「筑紫」であり、筑紫(つくし)が「国のまほろば」である。
『日本書紀』によれば、邪馬台国の女王「卑弥呼」は、第十四代仲哀(ちゅうあい)天皇の后(きさき)「神功(じんぐう)皇后」のこととしているが、これは北部九州の各地に残る「卑弥呼伝説」と、万世一系であるべき大和(ヤマト)王朝神話との整合性をとるために創作されたものである。
弥生時代末期に近畿で大和(ヤマト)王朝が成立した頃、日本列島には各地に王権が成立した。山陰に出雲王朝、瀬戸内の吉備王朝などである。そして筑紫王朝は、それらの宗主国として、歴代の中国皇帝に対し列島を代表してきた。
7世紀後半、大和(ヤマト)王朝の舎人(とねり)であった万葉の歌人柿本人麻呂は、大和から九州北端の遠賀川(おんががわ)河口に着いて、「大王(おおきみ)の 遠の朝廷(みかど)と ありがよふ 嶋門(しまど)をみれば 神代しおもほゆ」と詠んでいる。「嶋門」は遠賀川河口の地名で、「大和朝廷の祖先の地である嶋門に来ると、神代の時代が偲ばれる」と言っている。
この「遠賀(おんが)川」の名は「大神(おおがみ)川」が転訛したものである。英彦山(ひこさん)を源流に、九州北端で響灘にそそぎ、この河が創る沖積平野が、『日本書紀』にいう「豊(とよ)葦原(あしはら)の中(なかつ)国」である。
そして『古事記』にいう、天孫降臨の地「筑紫の日向(ひむか)の高千穂の霊(く)じふる峰」とは、遠賀川(大神川)源流の英彦山のことである。
『古事記』は「此地(ここ)は韓国(からくに)に向ひ、笠紗の御前(かささのみさき)にま来通りて、朝日の直刺(たださ)す国、夕日の日照(ひで)る国なり」と書いている。韓国に向い、佐田岬(愛媛県伊方町)に通じて、朝日が射し、夕日もあたる高所は英彦山以外にはない。そしてここは、『魏志』倭人伝にいう女王の所都「邪馬台国」である。
「邪馬台国」は女王「卑弥呼」の没後、狗奴国(肥国)を併合し、九州北部を中心に、四国と中国地方の西部および朝鮮半島南部を勢力範囲にした「倭国筑紫王朝」を形成する。以後、およそ350年ほどは、名実ともに列島を代表し、中国冊封(さくほう)体制に組み込まれていた。
527年、倭国筑紫王朝に王位継承争いの内乱(磐井の乱)が起こる。これが朝鮮半島諸国の情勢に大きく影響を与え、それまで倭国筑紫王朝の勢力下にあった加羅諸国(任那)を新羅が併合し、その権益を失うことになって、倭国筑紫王朝は衰退していく。
代わって大和(ヤマト)王朝の蘇我氏は、新羅と通じて、その交易が生みだす莫大な利益で権勢を築き、大和(ヤマト)物部政権を打倒する(丁未(ていび)の乱)と、筑紫に派兵して倭王「阿毎(あめの)多利思比孤(たりしひこ)」を屈服させ、倭王権の禅譲を通告させた。だが、中国(隋・唐)王朝がこれを承認することはなかった。
筑紫の内乱(磐井の乱)に端を発した朝鮮三国(新羅・百済・高句麗)の勢力争いは、やがて中国王朝を巻き込んだ東アジア動乱の始まりとなった。
そうして663年、筑紫倭国は、新羅に滅ぼされた百済の復興支援に出兵して、「白村江の戦い」で中国唐帝国と戦い壊滅する。筑紫倭王「薩夜麻(大海人)」は捕えられ、長安に送られた。
白村江の敗戦から五年後、中国唐帝国から戦争責任の追及を回避することに成功した中大兄皇子(なかのおおえのみこ)は、大和(ヤマト)王朝の「天命開別(あめみことひらかすわけ)天皇(天智天皇)」として即位した。その翌年、筑紫倭王「薩夜麻(大海人)」が帰国する。
薩夜麻(大海人)は、鸕野讃良皇女(うののさららのみこ・持統天皇(高天原広野姫天皇))を連れて吉野山に入り、「壬申の乱」を戦い勝利すると、皇后の生誕地である飛鳥(あすか)に「浄御原宮(きよみはらのみや)」を造営して都とした。「壬申の年の乱の平定せしのちの歌『大君は神にしませば赤馬の腹這う田井を都となしつ』」(『万葉集』巻19-4260)
倭国筑紫王朝は、天武天皇(大海人)によって飛鳥の地に復権して、大和(ヤマト)王朝を併合した。朝鮮半島は新羅によって統一され、東アジアの古代動乱史の終焉するところとなった。
それから四十数年後、倭国筑紫王朝の王都である太宰都督府を模して、奈良に都(平城京)が完成した。
倭国筑紫王朝の三王宮、太宰府・太傅府・太保府と、外国使節の迎賓館である鴻臚館(こうろかん)は、この筑紫の地に今もその痕跡を留め、女王卑弥呼伝説は神功皇后伝説として、北部九州の各所に残されている。
筑紫を舞台にして、『記紀』に書かれた日本誕生神話が何を意味しているのか、いろいろな過去の呪縛から逃れて、真の日本の原点を探してみたいと考える次第である。