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筑紫倭国伝

つくし伝説



神武東征伝説


 「古事記」によれば、初代「神武天皇」は高千穂の宮で東征について協議を行い、筑紫に行き、宇佐にも行き、岡田宮に一年滞在したのち、九州を離れ、安芸から吉備を経て大和入りを果たす。


 東征の旅は瀬戸内海を船で進んだことは、前後の文脈からみても、地理状況や情勢判断からしても、疑う必要はないだろうと思う。そうするとひとつの疑問に行き当たる。なぜ宇佐から遠賀川河口に近い岡田宮に逆戻りする必要があったのか、宇佐から船を漕ぎ出し、まっすぐ東へ進めば、そこはすでに瀬戸内の海であるはずだ。神武天皇が、南九州を出発地とし、宇佐に立ち寄ったとすれば、わざわざ危険な関門海峡を往復する理由が見つからない。


神武東征伝承地


 神武天皇は「筑紫の日向の高千穂の宮」すなわち邪馬壹国の女王国であった英彦山の宮で、東征の協議や祈祷をし、出発にさいし祖先(卑弥呼)の墓所である宇佐に参じた後に、東征団の結集地に決めた岡田宮に、陸路で行ったのではないかと想像する。


 岡田宮の地は、天然の良港である洞海湾に面し、内陸(女王国)からの物資輸送には遠賀川が搬入路となり、東征団員の多くは伊都国(福岡平野)から宗像を経る、海岸沿いの平坦ルートを通って集まってきた。こうして東征準備に岡田宮で一年を過ごした神武天皇は、大和を目指して旅だった。西暦270年頃のことだと考える