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筑紫倭国伝

邪馬台国を行く



邪馬壹国


 「倭国筑紫王朝」の前身は、「魏志倭人伝」に描かれた古代国家「邪馬台国」である。その女王卑弥呼は「日の巫女」であり、古事記・日本書紀に登場する「天照大神(あまてらすおおみかみ)」や「神功皇后(じんぐうこうごう)」のモデルとなった。


 「魏志倭人伝」は「ヤマタイコク」を「邪馬台(臺)国」とは記していない。「邪馬壱(壹)国」と書き、「ヤマイルコク」と読むのではないかと思うが、『後漢書』などの他の中国史料は「邪馬台(臺)国」と記述している。どちらが誤記なのかは決しがたいが、いずれにしても漢字の発音から在所地を、近畿の「大和」や九州筑後の「山門」とするのは無理がある。


 「邪馬」は「山」のことで、女王卑弥呼は「日の巫女」として、太陽に近い山岳を在地とした。『記紀』はここを「高天原」として描いた。明治時代末 、東京大学の白鳥庫吉は『倭女王卑弥呼考』を発表し、高天原は「魏志倭人伝」に記される邪馬台国のことだとしている。


邪馬台国の主な国々


縄文時代


 約20万年前にアフリカ大陸で生まれた現生人類(ホモ・サピエンス)が、各地に旅立って行ったのが約6万年前と云われ、今の日本の地に辿り着いたのが約3万5千年前頃だろうと考えられている。


 その頃の日本はまだ大陸と地続きであった。人々はマンモスやナウマンゾウなどの大型動物も狩猟対象にして、各地を移動しながら生活した。


 最終氷河期の最寒冷期の後、約1万9千年前から始まった海面上昇によって、およそ1万5千年前頃には日本列島は、大陸から切り離されて今に近い形ができあがった。気候は温暖化して、大型動物も少なくなり、人々の定住化が始まる。縄文時代の始まりである。


 その後も温暖化は進み約6千年前頃に縄文海進はピークを向かえ、気温は現在より数度高く、海水面も5メートル程高かったと云われている。


 海は内陸奥地まで入り込み沖積平野は未発達で平地は少なく、海と山の世界であった。縄文人の多くは海岸に近い山岳に住んで、海に出て魚介類を獲り、山に入って狩猟採集を生活基盤とした。


 高い山はその形成過程から奇形をなす事が多く、その地形的要因が作り出す色々な光の模様は神秘的な風景を描いて見せた。そして毎年おびただしい数のサケ・マスが、山を目指して遡上して行く様などを、縄文人は神の仕業として眺めてきた。そうした山のいくつかは、縄文時代一万数千年という膨大な時間の中で、「神々が住む山」として人々に崇められるようになった。縄文人の山岳信仰は太陽信仰と結びつき自然崇拝のアニミズム的信仰として発展していく。


鮭神社 鮭神社

 祭神は日子穂穂出見尊・豊玉姫尊・鵜葺草葺不合尊の三神。
 遠賀川上流域にあって、海神の使いが鮭に姿を変えて来ると伝わり、神武天皇が東征の途中この地に祭ったとする伝承の地である。
 福岡県嘉麻市大隈


 約6千年前頃に縄文海進はピークを向かえ、その後は緩やかに海退が始まる。沖積平野が発達し山麓に平地が広がると、縄文人達は堅果類樹木の植栽や食用一年草の栽培もする様になり、定住化は促進され集落も形成される様になっていった。


弥生時代


 約3千年前頃に稲は大陸から持ち込まれ、栽培穀物として畑作(陸稲)されたようであるが、本格的に稲作(水稲)が行われるようになったのは、今からおよそ2600年程前(唐津市、菜畑遺跡)と云われている。


 紀元前221年(2240年程前)、中国大陸は秦の始皇帝によって統一されるが、その頃にはすでに、日本列島への集団渡海を可能するほど造船技術は進歩していた。


 司馬遷(しばせん)の『史記』によると、徐福(じょふく)は始皇帝に、「東方の三神山に不老不死の霊薬がある」と具申し、始皇帝の命を受け、3千人の童男童女と百工を従え、五穀の種を持って、東方に船出し、「平原広沢」を得て、王となり戻らなかったとの記述がある。


金立山 金立山

 徐福伝説の山。紀元前210年、秦の始皇帝の命を受けた徐福は、東海の三神山にあるという不老不死の薬を求め、三千人を引き連れ船出した。その後、この山に入ったとする伝承があり、徐福を祭る金立神社がある。
 佐賀県佐賀市金立町金立


 徐福が得たという「平原広沢」がどこなのかは分からないが、日本の各地に「徐福伝説」が残されている。大陸からの移住民の多くが、この「道教思想」を抱いて、朝鮮半島から対馬・壱岐を経て北部九州に入った。彼らは「三神山」を探して山に入り、不老不死の霊薬を求めた。やがて現地の縄文人との混血、同化が進むなかで、平地での稲作中心の弥生時代になっても、山岳信仰は人々に受け継がれていった。


霊峰 英彦山


 北部九州の最高峰は「英彦山」である。「ひこさん」と読み、古くは「日子山」と書いた。玄海灘洋上からも見える怪奇な姿のこの山は、別天地をめざし船出した渡来人の眼には「東海の三神山」に写ったに違いない。


 「邪馬台国」の「邪馬」は「山」のことであり、女王「卑弥呼」は、玄界灘から見える北部九州で最も高いこの山にあって、鬼道(きどう)を使い「日の巫女」として人々の信仰を集めた。魏志倭人伝に云う「女王之所都」である。


英彦山


 当然の事であるが、日本の正史『日本書紀』にもこの山は、天孫降臨の地として登場し、「筑紫の日向の高千穂のクジフル峯」や「日向の襲の高千穂の添山峯」と書かれている。この事は別に詳しく触れることになるが、まずは、魏志倭人伝の邪馬台国への道程を現地に追ってみる。