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筑紫倭国伝

つくし伝説



神功皇后伝説


 日本の正史『日本書紀』は720年に完成する。そのおよそ500年前に、邪馬台国の女王「卑弥呼(ひみこ)」が、中国皇帝(魏の明帝)によって倭王に認定されたことを魏志倭人伝が書き記していた。『日本書紀』は、この女王「卑弥呼」を第十四代仲哀(ちゅうあい)天皇の后(きさき)神功皇后(じんぐうこうごう)のことだと書いている。


神功皇后伝承地


 神功(じんぐう)皇后は、戦前は教科書にも登場する古代の英雄であり、知らない人などいないと言っても過言ではなかった。しかし最近は語られることもほとんどなく、知らない人も多いようなので、まず簡単に説明しておきたい。


 神功皇后伝説は、『古事記』・『日本書紀』によって創作された物語である。それによると、熊襲征伐のため筑紫に来た仲哀(ちゅうあい)天皇が、香椎宮で急死すると、皇后は妊娠中でありながら、武内宿称(たけうちのすくね)とともに朝鮮半島に出陣し、新羅を討ち、また百済・高句麗をも帰服させ、帰国後に宇美で応神天皇を産んだ。その後、大和に帰り、応神天皇が即位する西暦270年まで摂政を行い、百歳で死亡する。これが「記紀」の記す神功皇后のあらましである。


 「記紀」が神功皇后物語を創作しなければならなかった最大の理由は、邪馬台国の女王「卑弥呼」が、中国皇帝によって倭王に認定されたことを魏志倭人伝が書き記すために、大和王朝の列島支配の正統性を書き綴らなければならない「記紀」の編纂意図からして、卑弥呼は大和の女王だとする必要があった。


 そして北部九州の各地には、八世紀になっても尚、数多くの女王「卑弥呼」伝説が語り継がれており、これを糊塗す手段としても、是が非でも神功皇后物語を創作しなければならなかった。しかし「記紀」が民衆に読まれることなどありえない当時にあって、見事に神功皇后伝説としての塗り変えに成功する背景には、宇佐八幡宮の720年以降の動向を見落とす訳にはいかない。


宇佐八幡宮 宇佐八幡宮

祭神 応神天皇、比売大神、神功皇后。全国の神社約11万社のうち4万6百余社が八幡宮で、その総本宮である。神宮創建年は小山田社から現在地の亀山に遷座した725年、大和朝廷の寄進により社殿が造営された。
 大分県宇佐市南宇佐亀山


 宇佐八幡宮は女王「卑弥呼」の墓所である。卑弥呼が神功皇后でないことを最もよく知る宇佐八幡宮が、卑弥呼を神功皇后に置き換える「記紀」を肯定する。このことによって、大和から遠く離れた宇佐八幡宮が、一時は伊勢神宮をもしのぐ勢いで全国四万社以上といわれる八幡宮を従え、まさに国家宗教の様相を帯びることになった。


 ここに北部九州の各地に伝わる神功皇后伝説を集めてみた。神功皇后伝説地を追うことで邪馬台国の姿と、女王国への道が、見えてくるに違いない。